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九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】 [転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2015/09/18(金) 21:00:14.38
古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。
0087日本@名無史さん
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2016/09/27(火) 00:40:21.57
紀元前500年頃、越に滅ぼされた呉が稲作を持って博多に来て、
その後稲作が九州全域に広がったと考えるのも有りではないだろうか?
上海から潮流に乗れば放っておいても九州に着く。
0088日本@名無史さん
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2016/09/27(火) 04:13:03.34
呉の移民説は少し古い編年なら通用したけど、今はな

水田稲作の黎明期たる草創期弥生時代って紀元前千年ぐらいまでさかのぼるから、
呉の滅亡より古いんだよな
0089日本@名無史さん
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2016/09/28(水) 02:10:08.97
>>88
ということは殷王朝が滅亡したころかなぁ?
0090日本@名無史さん
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2016/09/28(水) 02:23:22.95
時代的には周初だろうけど、殷も周も稲作民の国じゃなかったしなあ

周が初期の勢力拡大時に近隣の稲作民の国を滅ぼしてたとかなら、
話はわからんではない
その辺は記録も曖昧だし、わからんよなあ
0091日本@名無史さん
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2016/09/28(水) 03:27:23.02
山東から江南まで連なる九夷のうち周に従った国と逆らった国がある
九夷は稲作海洋民で長弓を使うから
周に逆らって滅ぼされた九夷のどれかと考えるのが自然だと思う
0092日本@名無史さん
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2016/09/28(水) 09:35:14.67
九州の稲作開始時の道具が
縄文期のものを使ってるところと
新しい形式のものを使ってるものがあって面白い
0093日本@名無史さん
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2017/03/30(木) 19:48:16.34
「小学生より学力が足りないで賞」受賞

「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓              
「まだわからないで賞」受賞

俺は悔しくて泣いた。

だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。

「無教養露見で賞」受賞

❓❓❓
.      /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
     /        \   単なるタッチミスもある
.   /      (゚) (゚)  \   ❓❓❓
   |        )●(    | キウスが笑い者なだけ❓
.   \       廿   / 誤字って何❓
.   ノ            \    ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」
0094日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 10:43:56.80
瀬戸内海が大河とかアホすぎ
水舐めればわかるわw
海洋民族の倭人が間違えるかよ馬鹿
これだから畿内説は
0095日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 12:13:45.85
九州島の古代史、邪馬台国の怪、
天照大神の高天原と卑弥呼の所都は、歴史の表裏一体だった!!

先代・岩戸隠れ天照大神、阿蘇・高千穂神社本殿裏手の「冢」に葬るも、後に隠蔽さる (魏志曰・卑弥呼) 

↓→ 月読命 (魏志曰・男弟)

↓← 思金神 (魏志曰・張 政) ← 高御産巣日神 (魏誌曰・帯方太守王頎)

↓→ 天児屋根命 (魏誌曰・難升米、神功紀曰・難斗米、ナートメイ) →中臣の祖 →藤原氏 →現代まで続く

後代・岩戸開け天照大神、阿蘇・天岩戸神社東本宮の山稜に葬る(魏誌曰・卑弥呼宗女の台与) 
(別名)=思金神の子、萬幡豊秋津師比命大神、伊勢神宮の内宮相殿に祀る (魏誌曰・卑弥呼宗女の台与) 
(其婿)=天照大神の養子、天之忍穂耳命 (魏誌曰・日向投馬国の官・彌彌) 

(其子一男) 天火明命(別名饒速日尊)、天孫邇邇芸命に先立って天降る →物部らの祖
(其子二男) 天孫邇邇芸命(日向・西都原に祀る)
0096日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 14:03:07.20
>>92
以前から粟作などをやってた集団なら農具を変える必要はないからな
農業やってなかった集団なら一から農具をそろえる必要がある
0097日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 15:18:32.39
>>94
川ではない琵琶湖・浜名湖などを「江」(もとは長江という川の名前から来た名詞)と呼んだ実例ならある
0098日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 15:26:33.87
で、アマテラスは九州のどこにいたん?
さっぱりわからん。
この時点で九州説自体が意味をなさない。
0100日本@名無史さん
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2017/04/02(日) 17:04:11.06
倭人伝によれば倭国に馬はいなかった。
でも高天原に馬はいた。
つまりそういうことだ。
0101日本@名無史さん
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2017/04/03(月) 06:30:25.98
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。

邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
0102日本@名無史さん
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2017/04/03(月) 18:42:52.26
魏志倭人伝では、卑弥呼の朝貢使は「難升米(ナーショウメイ)」となっている。
これは「一升の米」を連想させる。
おそらく著者の陳寿は、倭国貴族の日常をいかにも貧しげに描写するため、面白半分におちょくったのではないか?

そこでチキショーメイと思ったのか、
日本書紀・神功紀39年の魏志引用では、ここは「難斗米」に書き換えられている。
本来の倭的発音では「難斗米」(ナートメイ、ナートミイ)が相応しかったからであろう。
従前のレスで、この難斗米は高天原神話の天児屋根命とカキコしたわけだが、
彼こそ「ナートミイ」、すなわち中臣(ナーカトミイ)の祖と睨んだからである。

8世紀の記紀の編者・著者たちも、魏誌に登場する国々や人物の正体を、しかと読みこなしていたに違いない。
0103日本@名無史さん
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2017/04/03(月) 20:05:49.64
魏志倭人「伝」と東方見聞「録」、この「伝」と「録」の違いが妙に引っかかる。
0104日本@名無史さん
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2017/04/03(月) 20:18:46.03
東方見聞録の原題は「La Description du Monde」
直訳すると「世界の記述」
0106日本@名無史さん
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2017/04/04(火) 06:38:49.28
マルコポーロは、自ら見聞きしたものの記録
陳寿は、記録等からの伝聞
0107日本@名無史さん
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2017/04/07(金) 01:23:47.62
>>101
崇神はその前とつながっていないから無駄な考察だよ。
天皇の諡号は、各王朝の始祖に神の文字が含まれている。
神武、崇神、応神は、新たな王統の始祖なんだよ。
だから、崇神から前に数えても無駄。
0108日本@名無史さん
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2017/04/08(土) 08:55:42.71
継体は?
記紀編集当時最も近い始祖なのに、酷い名前w
実際には優秀な軍事力で長門までを領地にしたのにね。
墓も北摂だし、なんでこんなに冷遇されるのか。

もしかして、その後も始祖がいたのか?天武とか。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 12:38:37.46
継体という名前がつけられたのが記紀編纂よりあとのことだろ
当初はともかく奈良時代になると評価が下がってたのかもね
0110日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 13:56:34.80
>>108
天武が作った八色の姓の最高位の真人の多くが継体系だから
天武が継体を敬ったのは確実だよ

冷遇されたのは天武の血筋が絶えてからじゃない?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 15:03:00.59
改喪もできたのにね、奈良に。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 09:35:41.72
死ぬまで奈良入りしなかった説まであるし、完全に別王朝

跡継ぎがいないから依頼がきたと言っても、それも記紀の捏造かもしれない

記紀は信用しないと考古学者は言うが、ならばここまで疑うべきであろう
所詮は都合の良いところだけは常識に乗っかるいい加減な学問だわ
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 13:54:39.56
記紀の編纂も天皇の諡号も、天武天皇の時代からだよ。
天武は天智とおそらく血縁がないのだが、そもそも天武の時代の資料で天武が始祖と書かれることはない。
継体は、先帝と10親等以上離れているが、一応血縁はあることになっている。
あと、継体は周りから担ぎ上げられて天皇になった点で、神と名付けるほどの威厳がなかった。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 19:28:28.92
政略結婚として地方の豪族に婿入りとかは、別におかしくはないんだよな
かなりの有力豪族だったと考えれば、大王血縁者の嫁入り婿入りは想定内

しかしそれは、血縁はあっても他家。大王家とは言えないよな。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 19:34:12.23
頭の良い人は気づいているよ

大王というのは大袈裟なんだよ、
大王と言うほどでもない
0117日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 19:37:12.48
神武というのが大王家なのか、
それとも嫁の家ほうが大王家なのか

嫁の家だと思う
0118日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 22:39:43.04
神武なんて余所から来ていきがってる町のヤンキーレベル
0119日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/09(日) 23:10:10.12
>>114
知らないの?(藁

6代の後裔ってのは、中国では大昔から「限りなく嘘に近い系図」なんだよ。
劉備が子だくさんの景帝も玄孫と自称したのもそう。
記紀はやたら中国をお手本にしてるからこんなバレバレな事も一杯あるわけW
おほどの御子は長きにわたって摂津河内などを転戦したが、一貫してよく
わからないのが敵の実像。一体誰と戦っていたのか?隠蔽されているが、
それが故にかえってすけてしまっている。つまりは畿内大王勢力。
武烈天皇だって記紀以外ではどんな人物か知りようがない。勝てば官軍。
一族や主要豪族は存続したが、一つの王朝としては終焉したと俺あ思うね。
実は大王勢力は弱っていて、地方支配もままならなかった。筑紫の君が皇帝
かどうかなんて知らないけど、戦って長門までを手に入れたっていうのは、
畿内大王家の版図は縮小していた証拠。
古墳馬鹿には悪いが、無駄な古墳作りで住民の消耗や反乱を招いたんじゃ
ないか?継体以後墓も縮小していった。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/16(日) 10:23:47.87
というか神武が本当に大王ならば、天皇という称号を創る必要もなかった。
大王ではなかったから天皇という称号を7世紀に創り、遡って神武を組み入れた。
だからハツクニシラスが2人いるわけだ。

なぜか分かるか?

記紀編纂者は卑弥呼が誰か分かってたから。
そしてこの時代を無理やりにでも男王にしないといけなかった。

卑弥呼がヒメタタラだと分かると遡って帥升がスサノオだと分ってしまう。
日本の歴史を後漢・安帝への土下座朝貢から始めるわけにはいかない。
だから卑弥呼の時代を男王にして、そして時代を思いっきり古くした。
その結果100歳を超える天皇がでてもかまわない、あくまでプライドを優先した。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/16(日) 18:25:10.96
>日本の歴史を後漢・安帝への土下座朝貢から始めるわけにはいかない。

残念だな。この部分で台無し。
しかもアホ確定w
0122日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/24(月) 12:53:25.34
乱立晒しあげ
0123日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/25(火) 20:33:24.24
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?

95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です



この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/27(木) 10:10:48.46
1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い??
0125日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/09(火) 04:12:59.86
国際博物館の日

ICOM(国際博物館会議)では、5月18日を「国際博物館の日」とし、博物館が社会に果たす役割について
広く市民にアピールしています。当協会では、賛助会員の方々から寄付を募り、より多くの皆さまに
博物館に親しんでもらうための活動に取り組んでいます。

なぜ5月18日なのか?

1977年にモスクワで開催されたICOMの第11回大会で、「国際博物館の日」を設ける決議が採択されました。
第11回大会は5月18日から29日まで開催されたことから、5月18日を「国際博物館の日」としたようです。


2017年の「国際博物館の日」について

ICOM(国際博物館会議)による2017年のテーマは
“Museums and Contested Histories : Saying the Unspeakable in Museums"
 「 歴史と向き合う博物館 ―博物館が語るものは 」です。

https://www.j-muse.or.jp/02program/projects.php?cat=8

★記念事業一覧★
https://www.j-muse.or.jp/02program/pdf/IMD2017list.4.27
0126日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/09(火) 13:05:39.62
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。

つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。

それがいるのだ。

@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。

これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
0127日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/15(月) 13:47:37.25
畿内説というワードをスレッドタイトルNGにしてほしい。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/15(月) 19:11:35.27
当時の韓人と今の韓国人が別だという事がわかっていないんだよ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/28(日) 16:16:02.03
近畿地方の集団は日本人としては非常に変わっており、
日本人全体の平均からは外れている
(埴原和郎=福岡県出身)
0132日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 19:38:50.83
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。 
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 20:25:46.16
マルチするな。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/23(土) 12:17:39.04
邪馬台国はヤマトですね
ご先祖様が土蜘蛛や蝦夷のひとはヤマトが嫌いなので反発しているのですよ

九州説の聖人である古田氏は親鸞聖人の研究者でもある
反権力的思考と九州説の相性が良いのでしょう

九州説は反権力ですから民進党支持者も多そうですね
代々木系もいらっしゃるでしょう
どちらにしても日本の主流派から外れた人達です
0135日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/23(土) 17:04:14.80
皇国史観全盛時代だった戦前には、皇国史観の総本山たる東大の肝いりで邪馬台国九州説の推進をしてたんだけどな

当時は邪馬台国畿内説は権力との戦いの日々だったらしい
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 16:03:49.86
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

2J8VS
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 22:47:32.60
邪馬台国
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 22:06:05.36
>>65でぐだぐだ言ってる人がいるけど、大陸に史書で「水行」という言葉が
川の移動に「水行」が使われているのはガンジス川とソンホン川の、今も河川交通に
使われている国際河川の大河二つだけだよ

あとはすべて海

川を移動するときには通常は「泝流」または「順流」の語を使う
九州島内のしょぼい小さな川を水行することはない
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 22:38:42.01
>>139
新唐書のこんなのでいいかな?

又「泝流」五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北「泝流」二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味

旅程記事の「水行」は「陸行」とセットの概念で、ほぼ海に使われる
ガンジス川とソンホン川では例外的に川にも使われている
「陸行」とセットの川の移動は「泝流」

大陸史書の地理・旅程記事で「陸行」の語を使うことを「発案」したのは実は三國志が最初

「水行」の解釈は「陸行」とセットで考えると理解しやすい
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 22:54:09.93
>>139
ついでにガンジス川の水行は梁書で
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,「逆水行」七千里乃至焉
天竺江がガンジス川

ソンホン川は新唐書
安南經交趾太平,百餘里至峯州。又經南田,百三十里至恩樓縣,乃「水行」四十里至忠城州
安南   ハノイ       Hà Nội
交趾太平 ハノイの北西部   Giao Chỉ Sơn Tây
峯州   越池        Việt Trì
南田   越池の西面
恩樓縣  富壽        Phú Thọ
忠城州  錦溪        Cẩm Khê
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 01:42:19.66
>>142
以前よそで川の水行の有無で戦ったことがあって、史記から新唐書までの範囲の正史(二十四史)には川で「水行」とされているのはガンジス川とソンホン川しかないのは確認済みだよ

川の水が行く、という意味のものはあるけれど、正史の地理、旅程記事で、「川の水行」はガンジス川とソンホン川のみだよ

あと多分「罔水行舟」がたくさんヒットすると思うけれど
「如罔水行舟」は、「水なき(罔)を舟で行くが如し」で、「水」は「ない(罔)」の目的語、
舟で行くの「行」とは直接繋がってなくて、水行で検索かければ引っかかるけど、
水を行くって意味じゃない
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 08:23:48.86
漢書地理志/金城郡
「河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里」
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 23:02:01.77
それ、「水行」じゃなくて「河水」が行くって書いてるんじゃ……

あ、「河水」ってのは黄河のことな、今で言う○○川の意味で○○水って呼んでた時代の記述だから。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 01:39:37.71
>>116
>大王と言うほどでもない

臣の偉いのが大臣
連の偉いのが大連
そして
王の偉いのが大王

これだけのこと
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 01:50:33.40
河關,積石山在西南羌中。河水行塞外,東北入塞内,至章武入海,過郡十六,行九千四百里

河關(黄河の始まり)は,積石山で(積石山は)羌中の西南に在り。河水(黄河)は塞外を行き(流れ),東北(に流れて)塞内に入り,章武に至り海に入る,郡を過ぎること十六,九千四百里を行く(の長さだ)

塞外は万里の長城の外、塞内は万里の長城の内側
0150日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 07:15:37.32
金城郡河關県の話だよね
黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい
0151日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 12:17:47.62
>>150
>金城郡河關県の話だよね
>黄河の始まりはもっと奥地じゃないかい

事実としてはそうなんだけれど、当時の大陸の人の認識は、
伏流水が積石山のところで地上に流れ出して黄河が始まると思っていたという話だそうだ
積石山のところで黄河の源流がぐるりと向きを変えるので、その辺から
そういう認識(積石山が黄河の源流)になったともされる
河關県の河關も河(黄河)の始まりにちなんで付けられた地名
0152日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 12:27:55.04
そこにいくらツッコミ入れても、この文が「水行」の用例になることは無いんじゃ無いの?
0153日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 16:55:14.79
史記から新唐書までの「水行」を全検索して全例検討したけれど、
地理・旅程記事で「水行」が、ガンジス川とソンホン川以外に使われている例はないよ

物資の輸送=漕運記事では、水上交通の意味で水行が使われているが、
黄河やその支流の渭水のことで、これも九州全土よりも長い大河

いずれにしても、九州説のうち筑紫平野説の「川の水行」で
主張する長さ20キロの御笠川のような小河川で「水行」が使われている例はないよ
0154日本@名無史さん
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2018/03/11(日) 01:55:06.41
>>153がちょっと分かりにくいので修正

史記から新唐書までの「水行」を全検索して全例検討したけれど、
地理・旅程記事での「水行」は基本的にはすべて海で、川の例は
ガンジス川とソンホン川だけで、それ以外に使われている「川の水行」の例はないよ

物資の輸送=漕運記事では、水上交通の意味で水行が使われているが、
黄河やその支流の渭水のことで、これも九州全土よりも長い大河

いずれにしても、九州説のうち筑紫平野説の「川の水行」で
主張する長さ20キロの御笠川のような小河川で「水行」が使われている例はない
0155kimiaki harada
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2018/03/11(日) 12:14:52.79
著作権は原田 君明にあります。

韓国対馬仏像盗難事件  これが日本に渡来したは、800年〜700年以前の時
鎌倉時代
韓国盗賊は、秀吉朝鮮出兵時に盗まれたと韓国捏造教育に基づいて犯行自供
安土桃山時代 豊臣秀吉 関白太政大臣になったのは400年から450年前である。
時代が300年程前で大きくズレている。
韓国朝鮮において、儒教台頭し仏教が迫害を受けていたらしいですが、
壊される位ならと日本近所に売りに来たと考える方が自然である。
対馬に対し仏像被害返還と賠償支払うべきである。韓国仏像帰国させたいのなら
800年分保管料を支払い謝罪すべきである。収監も要求する。

時にNHK 沖の鳥島 特集などで
韓国 アホ学者気取りが未だに朝鮮先進国気取りを2000年前にしてた虚像を暴く
韓国 前方後円古墳の実態は、任那日本府 後であり
鉄は当時 日本岡山県 備前長船 鉄生産地 からもたらされている可能性にやの
行き着くと思われる。
皇紀は2670年 韓国 前方後円古墳は1世紀  神后皇后時代に近い朝鮮討伐
日本武尊命は関東に鉄を求めて伊勢大名時代に関東・小笠原勢力と同盟に至っている
つまり、3000年から3500年前には、鉄は日本で現地生産されていた。
須佐の男時代に朝鮮討伐あり 森も木もありません不毛大地では、農作物も育たず
戦費を回収出来ませんで面白くありませんと帰国したみたいです。
貨幣経済は平安になってからであり、物々交換主流時代である。 
不毛大地の朝鮮と日本では国力に差があり過ぎて、中国は高い値で売れる方に先に
売りに来る。唐辛子が良い例である。高句麗も中国属国であった太古昔より後進国韓国と
思う。ハングルは15世紀 世宗王を待っても貴族両班弾圧し、農業潅漑設備水路も
日本が併合後に持ち出しで作った位 農業3千年以上遅れていた。
物々交換の時代 金延べ棒 銀延べ棒 鉄延べ棒は貴重であり高価であった
出土品は日本からで任那持って来た鉄延べ棒 =当時お金で差し支えないと思われる。
唐辛子同様に鉄は日本からで朝鮮にもたらされたと考える方が、日本鉄生産と時期
年代はの符号して行くと考えられる。 古代朝鮮優位説等在日コリアンと韓国学者
願望論に過ぎない。
0156日本@名無史さん
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2018/03/12(月) 12:01:24.71
2013年、畿内説は破綻しました。。。。
0157日本@名無史さん
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2018/03/13(火) 00:48:10.16
破綻してるのは>>156の理性だろ?
0158日本@名無史さん
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2018/03/13(火) 18:28:39.90
そもそも水行って、水を使って行う修行のことじゃないの?
神聖な邪馬台国に行くためには、そういう修行が必要だってだけの話
0159日本@名無史さん
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2018/03/13(火) 18:29:30.50
みずぎょうと読むわけだな
0160日本@名無史さん
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2018/03/14(水) 21:11:32.28
で、「水行」に小さな川の水行はないことを確認すると、奴国が福岡平野である時点で、
北側にしか海がないので、南への水行はできないことが確定する
0161日本@名無史さん
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2018/03/19(月) 08:59:40.19
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
0163日本@名無史さん
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2018/03/19(月) 12:18:34.41
>>157
理性は元から乏しいが知性も破綻したんじゃね?
0165日本@名無史さん
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2018/03/19(月) 13:33:08.21
畿内説なんてそんなもんだ。
0166日本@名無史さん
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2018/03/19(月) 13:50:46.14
そいつ、畿内説じゃ無いぜ、どう見ても
畿内説は破綻したって連呼してるじゃないか
0167日本@名無史さん
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2018/03/19(月) 16:54:33.23
>>1
優れた考古学者達によって、スレッドタイトルの前提が論破され尽くしたねw
0169日本@名無史さん
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2018/03/20(火) 12:05:51.07
方角なんて間違えるはずがない、という前提が間違ってるもんな
0170日本@名無史さん
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2018/03/20(火) 13:28:13.55
陸行1月で全ての説が破綻してるからなあ
0171日本@名無史さん
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2018/03/20(火) 23:23:23.61
>>170
俺は畿内説を採るが、日本海経路で投馬国を出雲、上陸地点を丹波として
そこから巻向まで行けば陸行1月も相場だと思う
0172日本@名無史さん
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2018/03/20(火) 23:29:04.26
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補

そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう

水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい

水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな

遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う
0173日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 00:11:28.05
道中に野宿はない。かならず人里で宿泊してると思うよ


なぜなら、人の手が入っていない土地はほとんど森の中で道すらないから通行不可能だ
0174日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 00:37:38.25
>>173
>森の中で道すらないから通行不可能だ

出雲と大和の往還路とかは、道すらないってことはないと思う
縄文時代の広域流通は船(沿岸航路)だと思うけれど、
内陸国が孤立していたとも思わないし、主要勢力を結ぶ動線は道があったと思う
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/21(水) 01:16:22.49
道があるところなら集落も散在してるだろ

一日で行き来できないほど離れてるとこなら道なんてつながってないだろうから、往来できるとこなら野宿はないはずだよ
0176日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 01:24:33.86
有間皇子ですら、家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉 に盛る と
歌っているんだから、弥生時代も草枕で旅をしていて何の不思議もないと思うけどな
0177日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 09:34:39.98
縄文弥生時代の交通の主力は海運。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/21(水) 09:48:05.95
>>177
それは>>174にも書いてあるだろ
「主力が海運である」ことが、「陸路の存在を否定」するものではないってこと

有間皇子の例でも、飛鳥時代でも野宿している様子が示されているんだから、
なぜ、そんなに躍起になって否定しようとするんだい?
「自分の言葉を修正したら負け」教の人なの?
0179日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 09:58:45.24
陸行一月はあり得ないと言うこと。
魏志倭人伝で唯一の写本間違い。
0180日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 10:24:24.69
いや、オレだって陸路の存在自体を否定してるつもりはないよ

日本の自然環境的にいって陸上道路を維持するにはかなり労力がいるんだから、恒常的に往来が活発な場所じゃないとすぐ森に飲まれて道路なんて消えちゃうから、
一日で往復できる範囲より離れた村のない区間はなかったと言ってるだけ。

海路でも同様で、船を着けやすい場所には元々村が作られてたはずで、船を着けられないような地形環境の区間以外では上陸して村で宿営するのが普通だったと思うんだよ
野宿は例外の特殊状況だったとね
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/21(水) 10:30:58.38
弥生時代に大和なんて交通手段が乏しくて発展しようがないし、出雲と大和の間の交通とか言われても、現代なら新宿駅とどこかローカル線の駅の乗り換え案内みたいなもので、意味のある交通路ではない。
0182日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 10:32:44.42
>>170
>陸行1月で全ての説が破綻してるからなあ

本当にこれ。
だから、魏志倭人伝でここだけは1日と考えるしかない。
九州説だろうが、畿内説だろうが、同じこと。

纒向に行くのに日本海側に上陸するバカはいない。
0183日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 12:14:18.91
弥生時代後期には若狭からヤマトに抜ける方向の移動ルートがすでに発達してたようだから、>>182の発言は考古遺物の知見に反する妄想だね
0184日本@名無史さん
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2018/03/21(水) 13:07:47.84
>>182
>纒向に行くのに日本海側に上陸するバカはいない。

出雲も丹波も弥生末期の王墓級墳丘墓の時代に巨大墳墓を作っていた強国なんだよ

倭国の様子を報告する役目を持つ魏使としては、この二つの地域を経由するのは
当然の経路と言える
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/21(水) 13:14:31.49
>>180
>船を着けられないような地形環境の区間以外では上陸して村で宿営

「船を着けられる地形環境」は「点=港」であって、区間じゃないと思う
「船を着けられないような地形環境」で、どうやって上陸するのか、てのも疑問

野宿、野営は陸行部分のこととして話しているつもりだった

九州説の人は、陸行一月を認められないようだけれど
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/21(水) 13:50:36.10
>>185
180は下がわ2行以外は陸路の話だぞ
道路が森に飲まれてすぐに消えてしまうと書いてあるだろ、海路が森に飲み込まれて消えたら驚くよ

オレは「陸上交通で往来があったと思われる区間(山陰-山陽間、要するに出雲-吉備間やら若狭-畿内間など)では道路近くの村の間隔が一日行程より短かったはずなので野宿不要」のほうな
村の間隔が短くなかったら陸上交通なんて成立しないよ、でも実際に道路があったらしい場所があるんだから村は散在と言うより密にあったに違いないよ、って考えてるんだ
野宿なしでの陸行1月は可能ってね

まあ、舟行よりか高コストだけど。
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