石田光成って、結局正しかったじゃん [無断転載禁止]©2ch.net
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石田光成の予見してたこと、結局少しも間違っていなかったじゃん。
実際に徳川家康は豊臣家を滅ぼしたし、天下を乗っ取る腹積もりだったし、
豊臣に仕えるような気なんざ更々無かったし、自分の幕府開いたじゃん。
何一つ間違ってない。全く以って正当な警戒感だったじゃん。
加藤清正(笑)福島正則(笑)口だけ忠義心かよwwww
その場のノリで口だけで忠義示すなら、バカでも出来るわ脳筋wwwww
セリフと行動を違えるなやカス >>42
全然ダメでしょ。
福島以下、岐阜中納言様を容赦なく攻めてる。 戦国サバイバー
滝川雄利の進言通りに東軍につくべきだった岐阜中納言。
なぜか北陸で西軍についた前内大臣信雄。
秀吉に領土削られながらも領土削られながらも、
豊臣秀頼の側衆でいた織田信包。
方向音痴すぎたか?
織田一族で最もプロサバイバーは本能寺から関ヶ原も大坂の陣でも間違わない織田有楽だったというオチ。
真田より凄い。 なぜかというより西軍っておおかた付和雷同的に成り行きで参加したのが多いけどな 東軍豊臣譜代は家康を江戸から引っ張り出すために必死で戦果を挙げるしかないし
家康も江戸から出るには戦況の打開が必要だし秀忠の遅参って全体的にはそれほど誤算とは思わないな
家康もストレスMaxの戦争当時はおかんむりだったけどその後に秀忠にその件で当たった様子はない >>84
後世から見ると石田vs徳川なんだけど、
当時の豊臣系東軍諸将は自分等が主役で
徳川を後詰めで利用してるくらいに考えてたのかもな。
徳川の為にだったら働きすぎでしょ、彼らw >当時の豊臣系東軍諸将は自分等が主役で
それはないだろ。加藤も福島も秀吉に取り立てられた成り上がりだから、
よほどの偉業を成し遂げなければカリスマ性は生じない。秀吉が戦国大名
じゃないのに天下人になれたのは誰もが驚くほどの速さで光秀を討ったから。
これで「この男、タダものじゃない」というカリスマ性が生まれた。結局
秀吉の部下にはカリスマ性を持つ者はいなかった。だからこそ三成も自分は
大老にはなれず、その下の奉行として秀頼を立てつつ大老・家康に対抗する
しかなかった。本来は信長の死で他の戦国大名に大きなチャンスが生まれた
はずだが、秀吉がスゴ過ぎたので次の天下人候補は豊臣政権での大老の中から
選ばれることになったわけ。その中で結局他を大きくリードしたのが家康だった
わけで、奉行にすらなれなかった加藤や福島が天下人の座を狙うのは到底無理 w 大老ってのは秀吉から見てもともと自分の部下でも何でもない同格の戦国大名だぞ。
子飼いの三成が大老になるはずないだろ。
奉行は行政の能力を必要とされる部門であって加藤や福島の出る幕はない。
お前さんいろいろと勘違いしているようだな。 >>86
天下人は加藤、福島にとっては秀頼だろw
そういう話じゃなくて、「石田を排除するのに徳川を味方にできてラッキー」という感覚だった、ということ。
藤堂あたりは頭いいから家康に天下を取らせるつもりだろうが。 >>87
こうも言える。
徳川は独立大名だから豊臣家の内紛は放っておいて、
江戸に引きこもっても倫理的に問題なかった。
実際にしばらく引きこもったし。
福島あたりの感覚では、それを自分等が無理に担ぎ出してやった、
というところかと。 >>82
秀忠軍の力で勝てば、
家康が王になる可能性もあるだろ
豊臣氏は完全に超えるわけだし誰も妨害できなくなる ありえないけど、
毛利が関ヶ原で大活躍して将軍になったら
結局は豊臣家を滅ぼしてたんだろうな 石田敗北後
何か理由を付け福島正則が毛利輝元を担いで徳川軍と再戦したら面白かったな
黒田・福島・徳川・伊達でベスト4決勝戦
(上杉・島津は腰重いので様子見) 前田ってシズガ岳でも日和見していたんだよな。関ヶ原の時はもう死ぬ間際だったけど。
どっちにしろ天下人の器じゃない。 賤ヶ岳
関ヶ原
大坂の陣
戊辰戦争
巨大な領土を持ちながらも
上手に気配を消して生き残る術 >>90
関ヶ原なんてのは最初は三成のクーデター。 >>95
前田利家のことなら関ヶ原の前に死んでる。死ぬ間際ではない。
そして賤ヶ岳の時は日和見じゃなくて勝手に撤退して裏切り行為と言ってよい。
>>94
利家が死んだ後の前田は徳川に人質を取られて忠犬として尻尾を振ることしかできない状態。 >>97
は?
家康が上杉討伐に動いた後に三成が挙兵したんだけど。
西軍の決起を内紛とするなら、内紛以前から動いている家康は「我関せず」ではいられないんだが。 >>99
当時の人間の目からどう見えてたか、という話をしてるのだと思うぞ。
見てると君のレスは的が外れてる。 >>97=>>100だろw
その三成のクーデターより先に家康が動いているんだし、
三成の矛先が家康である以上「豊臣家の内紛は放っておいて」なんて無理。 豊臣秀次がクーデターの話は面白いね。
豊臣家が滅亡したのはこれに限る。
でも秀次隊ってそんなに強かったけ?!
小牧長久手の戦いでは、家康軍に敗走を余儀なくされてた秀次隊だったと思うが。 関ヶ原まで蒲生氏郷と堀秀政が生きてれば、
かなり情勢変わったかもな。 輝元の空気よめなさは本当に笑えるね。
でも、実際本気で戦って負けたら、即斬首は確実だろうけど。
吉川にしてもそう。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 関ケ原周辺だけで戦闘が発生したわけではない全国規模だからね
西国の毛利氏も畿内でも西軍による圧力や軍事侵攻が進んでいたから
東軍豊臣大名としては主力軍相手に勝利を収めないと西国の自領が危険に晒される >>102
小牧・長久手の段階で、池田恒興とか森長可とかがいた。
秀次事件の段階でも、池田輝政(秀次の義兄、減俸、秀次の正室の妹は死刑)、
浅野幸長(廃嫡、能登に遠流)、木村重茲(死刑、改易、族滅)、前野長康(死刑、改易、族滅)、
田中吉政(蟄居、謹慎、減俸はなし)、中村一氏(蟄居、謹慎、減俸はなし)、
山内一豊(蟄居、謹慎、減俸はなし)、堀尾吉晴(蟄居、謹慎、減俸はなし)、と
それほど弱くはない。 >>108を見ると、池田輝政への対応を誤ったとしか言いようがない。
木村重茲、前野長康と同様、死刑、改易、族滅が妥当だった。
家康の娘(=輝政の正室)の存在と、父の功績がネックとなった。
田中への処分も軽過ぎたね。 ちなみに、石田三成が狙った秀次家臣への処分。
池田輝政(秀次の義兄、死刑、改易、族滅、家康の娘(督姫)も死刑、秀次の正室の妹は死刑)、
浅野幸長(廃嫡、妻子ごと死刑)、木村重茲(死刑、改易、族滅)、前野長康(死刑、改易、族滅)、
田中吉政(死刑、族滅)、中村一氏(改易)、山内一豊(改易)、堀尾吉晴(改易)、
徳川家康(蟄居、謹慎、減俸)だけどね。 >>110
本当にこれをやったら豊臣政権は崩壊必至だな 余談だが、木村重成は篠原長房の孫で、族滅した木村重茲の名跡のみ継いだ。 >>110-111
まじかよ、三成ってほんとは頭悪そうだな >>113
そうか?池田輝政を除くのは、定石中の定石だぞ。
何で秀次の右腕なんて生き残さねばならんわけ?
最も、池田輝政が残ったのは、督姫のおかげらしいけどね。
あと、田中吉政の族滅も当然。これも秀次の重臣だからな。
実際に、田中吉政は近江の地理に明るく、三成の逃亡路を抑えとらえ、
ボコボコに殴り半殺しにしているからね。 岐阜城の地形に詳しい池田輝政がいなかった場合、
織田秀信が天下人 カリスマ性のない人間が自惚れても人がついてこない。信長や秀吉にはカリスマ性を
生むだけの実績があったが、武将ではなかった三成は所詮は官僚で、自分がナンバーワン
になるのは無理。今の北朝鮮がジョンウンのやりたい放題でもクーデターが
なかなか起こらないのは何の戦功もない軍人にはカリスマ性が生じないからで、
ジョンウンを倒しても軍人同士の足の引っ張り合いで権力が持続できないから。
三成は忠義一途で秀頼を守ろうとしたのかもしれないが、普通に考えれば自分から
動くのではなく、五大老同士の争いを見守りながら生き残りを図るのが賢明だった
と思う。 東軍にわざと大坂攻めさせたほうが、
籠城側の毛利や増田が退くに引けず戦ったかもしれないな。
大老と奉行が評定繰り返す中、
なぜか淀殿は、北陸にいた織田信雄に大坂入場を要請しそうだがw 大阪城籠城は、西軍総大将の輝元が拒否って本領に帰ったからどうしようもない
淀もねねも中立というか、どっちにもついてないのが本当のところでは?
淀の乳母子である大野治長は東軍だし、ねねの親族も東軍西軍別れてるし(若干西軍に多めだが)
なんつーか、上杉討伐のタイミングじゃないと挙兵できなかったとはいえ
豊臣正規軍として出立した家康側の方が正当性あるのがな…
西軍諸将も、上杉討伐のため集まってきたのを関を封鎖して無理やり西軍にしたから
関が原でもほとんど動かないし。内通してて裏切るし。 三成は、頼朝における梶原景時で
上にとっては嘘偽りなく情報をくれる忠実な部下なんだが
下にとってはネチネチ細かく上司に報告(チクる)する嫌な奴だからな
積年の恨みで上司がいなくなったら真っ先に狙われて潰されるポジションなんだよ カリスマ以前に高々二十万石の三成に味方したって勝てるはずないだろって思えば誰だって家康につくわ。 小早川が松尾山から東軍目掛けて突撃を開始したら、前進してた家康本陣が危機に陥る。
そこで初めて南宮山の毛利・吉川や長宗我部が行動を起こすから
東軍は壊滅していただろうな。 上杉が大坂攻めしたのは義が通ってるな
上杉追討を承認したのは淀だものなw
因果応報 >>120
>三成に味方したって勝てるはずないだろって思えば
>誰だって家康につくわ。
関ヶ原直前の家康ってそんなに突出した存在だったのかな。五大老の
中で消去法で家康が選ばれたっていう感じじゃないのか。最大のライバルは
毛利輝元だったんだろうが、毛利一族すらまとめ切れなかったのが敗因だろ。 五大老とは言うけど、序列的には家康と利家、次に実は秀忠と利長の順だから。
輝元と景勝は外部の顧問っていう程度で権力はないし秀家は若年だから見習い程度。 >>125
二百五十万石の徳川と百二十万石の毛利では違うだろ 織田信包を尾張伊勢80万石で官位を内大臣で
東海地方に丹羽長重を120万石で
北陸は前田のままで
豊臣も織田にこのぐらい義理立てしとけば
たぶん関東の徳川も西上しづらい 前田がお松を人質に差し出して忠犬に成り下がってるんだから家康なら丹羽だって忠犬にできるだろ。
>>125
家康は勝手に諸大名と婚姻して誼を通じ、利家亡き後の前田に因縁をつけて人質を取って忠犬にしてしまった。
残る五大老は討伐対象の景勝を別にすれば輝元と秀家しかいない。これでも家康が突出していないと? 徳川は明入りしてないから兵も無傷で温存してたからね
毛利は明入りで消耗してた
実戦積んでやる気満々だったようだけど(輝元吉家以外は)
当時の5大老は、外戚&秀頼元服までの政治を任された家康と
大阪城に入り秀頼の後見を任された利家の2強かな。若干家康が有利。
だから家康はまず前田に因縁つけて討伐しようとしたが
松が人質に行き戦は回避、前田を屈服させたので
次は徳川領に近い上杉を狙った、そこで三成が挙兵
宇喜多も毛利も、ここで家康叩いとかないと次は自分だからな
でも毛利はへたれてしまった…。元就の遺言(中央の争いに関わらず本領を守れ)とはいえ 家康に1度は逆らったとはいえ幕末まで30万石で生き残れた
上杉毛利は恵まれてるよ 上杉は無嗣断絶になりかけて、改易は免れたけど半分の15万石に減らされた。 生き残れただけで恩の字よ
宇喜多なんて改易の上に流刑だよ
上杉当主さんが「秀吉には越後から国替えさせられて遺恨があるが
徳川にはない」みたいなこと言ってたなぁ
秀吉と組んで所領安堵されたのに、酷いと思っちゃったw 島津(沖縄付き)
安東(北海道付き)
やけくそでこのあたりを大老にしておけば
遠すぎて徳川さんも時間切れw >>129
勝手に婚姻とはいうが、「婚姻は秀吉の許可を得ること」しか決まりがない当時の豊臣政権で
秀頼代理の家康が婚姻を取り仕切るのはそんなに不自然か?利家と奉行衆の難癖にしか見えんぞあれは 家康が前田に因縁をつけたというが、
利長は大坂城から無断で国元に退転するとかいう疑うなと言われても無理な行動を取った可能性があるのだけれども 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>135
後ろめたくなかったら公明正大に五大老五奉行に俺が取り仕切る宣言をしてからすればいいこと。
>>136
閏3月3日、利家死去(享年63)。同日、豊臣家五大老に列する。大坂城に留まり秀頼を補佐。
8月、徳川家康の勧めにより、利家の遺命(「3年間は金沢へ帰るな」)に背き金沢へ帰国。
9月、増田長盛らが家康に利長による家康暗殺計画を密告し、加賀征伐の噂が流れる。
このように利家の遺言で三年は大坂に留まるはずのところを家康の勧めで国許に帰った。
そしておそらく家康の差し金で増田が家康暗殺計画の風聞ありとご注進に至った。
と考えられています。家康の陰謀でないなら人質の芳春院を江戸ではなく大坂に預かるはずです。 >>139
>後ろめたくなかったら公明正大に五大老五奉行に俺が取り仕切る宣言をしてからすればいいこと。
してるよ?秀吉の遺言で。それをひっくり返そうとしたのが奉行衆なわけなんですが
あと「家康の勧めで帰国した」ってそれ前田家しか主張してないんですよ >>137 >>138
お前のコピペはこのスレとは全然関係ないんだけど。そんなに広めたいんなら
ニュース速報版にでも貼れよ。こんなスレじゃ見る人も少ないからな w >>141
ここ(日本史)の俘囚関係のスレにベタベタ貼り付けてある。
コピペしかできな異常な奴が張り付いてる。 家康が包括的に政務を委託されてたと考えると利家のほうがいちゃもんになるのだよ
いちゃもんで済めばいいけど結構野心家の毛利家、あと宿敵の上杉家がいるんだから家康も大変だ
実際そうなったように包囲網を作られてしまう
上杉家や毛利家も合戦で奥羽、西国に積極的に出兵してるし宇喜多家も毛利家の動向気にしてるし
豊臣家にとって家康執政で安定するほうがマシだったとも言える 豊臣秀長の娘を正室にしてた毛利秀元を
小早川秀秋の代わりに独立大名で親藩扱いで
豊臣秀元として大老にしてたら結果違ったかもな
怪力で福島正則などの腕ひねった逸話もあるようだし
徳川と最上は当主挿げ替えで
松平秀康を会津10万石に、最上義康を庄内5万石でお情けとして残し
明治維新前に毛利大公爵政権が実現するも
300年後に会庄同盟にやられてそうだが 秀次を後継に決めていらない子になった秀秋を毛利の跡目に押し込もうとしたら
跡目はすでに秀元に決まってますと断られたのに、秀元を毛利から切り離して
独立できるわけないだろう。毛利の跡目に秀秋を押し込むための陰謀ととられるわ。 秀秋を毛利の養子にという話は黒田家譜にしかでてこない
信憑性の低い話というのはおさえておこう 何だって!それじゃ小早川隆景が秀秋は俺の養子にくださいと言って毛利本家を守ったというのも嘘なの?
そんな嘘を黒田が残す意味がわからん。初めから小早川が狙いなら隆景とは仲が良かったんだし
隆景に勧めたら受けてくれたと書けばいいことだろう。 豊臣政権の両極は西の毛利に東の蒲生という時代もあったので
前田家と良好な蒲生氏郷が長寿で総大将なら徳川と良い勝負だったかもしれないな
逆に毛利家は輝元が短命で秀元が早期に家督継いでれば結果違ったか 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>148
>豊臣政権の両極は西の毛利に東の蒲生という時代もあったので
そんな時代はないよ。豊臣政権から家康排除なんてあり得ない
もう1個が小早川になったり利家になったり
だけど公儀の安定を考えたら家康にあえて喧嘩売る意味あるのと言う話 徳川を巨大にしてしまった秀吉のミスが致命的ということか。 豊臣政権自体が完成したものでなく最初から家康という爆弾を抱えてたからな でも家康がいなきゃ豊臣政権が安定しなかったのも事実でな それにしても日本史で一度成立した武家政権があんな短期間で滅亡するって異例だよな
鎌倉幕府は頼朝直系が断絶してすら続いたし室町幕府はあんなに弱体なのに一応250年も続いたのに 平氏政権は貴族の摂関政治と同じ域を出てないでしょ
武士階級出身の清盛がそれをやったのが凄いってだけで
少なくとも武力で全国を統一した豊臣政権とは比較にならん だから石田三成はハタ迷惑な忠臣なのだよ
家康との対立を生み出すだけでも豊臣家にとってはデメリットが大きい
もっとも石田だけでなく輝元や利家も責任あるけどな
いくら石田が家康を目の敵にしても彼らが積極的でなければ内乱起きないのだから >>155
家康を取り込まなかったら豊臣政権は東国鎮定だけで物凄い時間浪費することになるよ
小田原北条氏の旧領だって家康以外には統治できる大名なかったんだしむしろ大功労者 >>156
普通に織田豊臣徳川の価値観が三世紀ほど続いただけの話。
源家が途絶えても、どこの馬の骨かもわからん北条が幕府を支えた。
それ以上の話だ。
だから、浅井の三姉妹娶って跡継ぎつくらにゃ大コケとして必死だったわけだ。 >>77
話の流れ的に問題にしてるのは戦後処理だということは明白だろうが。 >>159
家康が上杉討伐に動いたのが石田三成のせいだと思ってるのか
三成があそこで景勝を見殺しにしたら次は宇喜多秀家が餌食になるだろうね
それを黙って見過ごすのが豊臣にとって忠臣とは思えんが ぶっちゃけ家康も三成も自分の利益のために動いただけだで
どっちに義があるとか別に無いと思う
当時の武士ってそういうもんだし 家康が吾妻鏡などで人生戦略の参考にしたのは
頼朝よりも北条の気がする 清正が長生きできたら淀を抑えて秀頼に家康に臣従させることで豊臣の家名は存続させたんじゃないのか? んー、正則が秀頼諌めても駄目だったから清正でも駄目じゃないかな 清正にそんな知恵はないだろうし
どのみち家康が秀頼を生かしておくはずもない まったくのイメージだけど、想像するに三成は
今で言う社長秘書的な嫌われ方だったんじゃないかと思う。
社長の考えをうまいこと翻訳して、役員との間を取り持ってくれる「気遣い型」じゃなくて
社長と全く同じ考え方、もしくはさらに自分の考えを交えて膨らませて役員に話すタイプから
「あいつが間に入ることでより悪くなってるじゃん」という状況が生まれる。
○「社長はこう言ってますが、最低限これをしておけという意味だと思いますよ」
×「社長がこう言ってるんだから、死ぬ気でやってください!」
一大で成り上がったワンマン社長のベンチャーなんかでたまに見られる傾向。 >>168
秀忠はともかく家康はギリギリまで秀頼を生かす方針が透けてたけど 土建の現場で親方(秀吉)自ら作業員(清正、正則など)と一緒になって働き、
仕事の後は居酒屋でワイワイ。給与はどんぶり勘定で「オラ持ってけ〜」これが長浜までの時代。
会社が大きくなって必要になったのが経理担当者(三成)。
自分は現場で重労働をせず事務所でパソコンに向かって資材の発注や売り上げの見積もりを出し、
給与も売り上げから計算して出されるようになって会社の空気も変わっていった。
そんなところだろう。 プロレス団体でも必ず現場とフロントが対立するし、肉体系が作った組織が大きくなると付き物の構造なんだろうな。 営業と十作業する部隊も対立あるし
組織なんてそんなもんだろう 会社が大きくなれば経理がいないと回らないんだけどな。
でも現場しか知らないドカタはそっち方面の大切さを理解できないんだよ。
んで三成を悪く言う人間が多い不思議。
戦闘しか興味ない戦国ヲタには政治の大切さが理解できない。
猪突猛進型の信長が人気あるのも偶然ではない。 三成の能力は政治より経理だからな。
で、お前は経理が不要だと思っている脳筋ドカタか? 天下統一が成し遂げられると武将は天下人にとっては邪魔ものになるんだよ。
中国の漢では韓信という優れた武将が皇帝となった高祖によって処刑されたが、
それは韓信が自分の子孫の地位を脅かす危険があったから。信長の光秀に対する
仕打ちも同じ。秀吉が加藤や福島のような武将でなく三成という官僚を側近に
登用したのも、三成には秀頼の地位を脅かす危険がなかったから。天下太平が
訪れると武将は無用の長物となり、側近が政治を仕切るようになる。徳川幕府でも
譜代大名はおろか御三家も遠ざけられ、松平伊豆守、柳沢吉保、田沼意次のような
側近が実権を握った。豊臣政権が続いても武将上がりは実権を握れなかったと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています