何故、古代は女帝が多数存在していたのか [無断転載禁止]©2ch.net
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当時の政治情勢を踏まえて80文字以内で説明せよ
って問題が法政大学の入試で出たのですが、これって明確な理由が有るのでしょうか?
僕は「男女の身分差が少なかった」「まだ男しか皇位に就けないと言う決まりが無かった」この二点を纏めたのですが、調べてみたところしっかりとした理由は見つけられませんでした
もし宜しければ皆さんの意見と回答の要点を教えてもらえませんか? 法政とか底辺かよ、マーチはカス、頭悪そうな文
などの煽りはしないで下さい 日本書紀の登場人物で、もっとも卑弥呼に近い人物は、土蜘蛛。
大和朝廷に滅ぼされた側の人物。
土蜘蛛紀行 筑後編
其之壱、山門─イ、蜘蛛塚 八束脛門へ戻る
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0101.html
大山田女:日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ばれた
この地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのことです。また、その兄
である夏羽(ナツハ)が軍勢を従えてやって来たのですが、妹が討たれたと知り、
逃げ去りました。こちらに詳しく書いてあります。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_ancient_01.html#7 >>1
マジレスすると、古代の大和朝廷は騎馬民族王朝の風習が色濃く残っていたのと、血族間の争いが
あったからなんだよ。
騎馬民族王朝は、中国や倭国(卑弥呼やその後継者たちの間に血縁関係はない)と違って、
血統が重視される。しかも、男系だ。
ただ、長男とは限らない。←ここは大事なところだから、よく覚えておいてくれ。
えっ男系?女帝の話なのに男系?
と思うかもしれないが、その疑問に答える前に、なぜ男系かを簡単に説明しておこう。
それは、騎馬民族では何よりも戦闘が重視されたから。
戦闘で活躍するのは、やはり男。
王は戦略上の能力が優れていなければならなかったし、その男系の子孫はそれを受け継ぐ
可能性が高いと考えられた。
ここからが、女帝の話。
騎馬民族では、戦時に王が亡くなることも少なくなかった。
その場合、後継者を決定するまでの間(長男とは限らないからね)、誰かをリーダーにして
まとまらなければならない。
そう、ここで女帝だ。
後継者が決まるまでの間、王の妻、多くの場合正妻が、一時的に王の代理となる。
これが、騎馬民族の女帝。
そして、日本の女帝も全てこのケースだ。
初期の大和朝廷には、騎馬民族の風習が残っていたわけ。 >>5
ありがとう。
つまり、代打とか中継ぎとかってのを簡単に纏めるのか。
だけど大学側は生徒にその回答を求めてたのかな
そしたらレベルが高すぎですわ >>7
でも、戦争に明け暮れていた邪馬台国の倭国は、大和朝廷とは全然違う王位継承だったんだぜ。 >>9
推古天皇は典型的な騎馬民族型の女帝だよ。
少し特別なのは、次の皇子が死んだことで、在位期間が延びてしまったこと。 >>8
は? 何を根拠にそんなこといってるんだ?
>>9
リリーフっていうか皇位争いを回避するためだよ
次の天皇を決るとなると争いになりそうな時に先延ばしするための存在が女帝
推古は聖徳太子と押坂彦人皇子の争いの
正面衝突を回避して情況を先延ばしするための即位
天皇崩御から新帝即位までの間は朝儀を主宰する天皇がいないから
朝儀は停止状態になる
この時に動いてるのは後宮だけ、そこで後宮の主宰者である皇后(未亡人)が
服喪の期間は事実上の権力者になる
(新帝を指名する実権をもつ場合も多い)
普通はこの期間は1年に満たないのだが、皇后が生きてる限り延長したのが女帝 >>13
それならそう書かれるわ。
魏志倭人伝は卑弥呼の死亡後に書かれてるんだから、ある時点での夫無しではないのよ。 倭国の男王と卑弥呼、その次の男王、台与、どこにどう血縁関係があったと?
どこかにそんなこと書かれてるか? >>18
説明されないとわからないって、かなり疎いみたいだね
台与は卑弥呼の「宗女」つまり一族の娘。血縁ないのに宗女とはいわないでしょ。
倭王讃から武までの5人もすべて男系の一族。 宗女は、一族の娘ではないよ。そういう例はない。
同じ宗教の女だ。 >>19
昔の倭国と日本国になった国は別民族だよ。 >>20-22
おまえの珍説などどうでもいいんだが。議論の邪魔だから消えててくれる? 俺も宗女は一族という意味だと思ってたけど、
それだと、台与の前の男王は血縁関係なかった
ことになるんだよね。
倭国では、あまり血縁は重視されていなかった
のかな。 >>24,>>26
自演乙
男王と卑弥呼の続柄については書かれてないから不明ってのが正解 >>1
騎馬民族征服王朝説で有名な江上波夫氏は、
「 日本古代の女帝については、折口信夫氏の、女帝すなわち宮廷~と天子との中間に立つ、
中天皇(なかつすめらみこと)という巫女説などもあるが、現在では井上光貞氏や直木孝次郎氏らの考説が
一般の承認を得ているようにみられる。それは推古以下、元明にいたる五人―じっさいは四人であるが、
皇極(斉明)を二人とかぞえて―の女帝が、皇后またはそれに準ずる皇太子妃であったことに着目して、
彼女らが女帝になったのは、いろいろな問題があって、皇位継承者をすぐには決定しがたいばあい、
とくに有力な候補者が対立していたり、直系の皇子または皇孫が皇位継承の候補者の一人でありながら、
幼少その他の理由ですぐには即位できないばあいなどに、男子の天皇と天皇との中間をつなぐものとして、
そういう意味の中天皇(なかつすめらみこと)として現れたという解釈である。
そのことは、宣化天皇が亡くなったとき、欽明天皇がすぐに即位することを躊躇して、群臣に
「自分は年少で見識が浅く、政事に習わない。山田皇后(安閑天皇皇后)はあきらかに百揆(もものまつりごと)に
通じておられるので、頼むから皇后のところに行って、天皇になっていただけ」といわれたが、
山田皇后は固辞して受けられなかったという所伝に照しても、その正当なことがうなづけよう。
ただここに一つの疑問が残るのは、皇位継承問題が主要な理由ならば、推古天皇皇女あるいは山田皇后以前にも、
そのことがあってもよいと思われるのに、この特定の時期にのみ女帝が輩出したのはなぜだろうか、
ということである。 続き。
それについて、岸俊男氏や直木孝次郎氏は、そのころ皇后が「おおきさき」として、
他の妃たる「きさき」から区別されるようになり、その地位が向上しており、また私部などがおかれて、
経済面からも皇后の勢力が安定した結果、皇后はかなりの権勢をもつようになって、
そのような裏づけができたことが、皇后をして天皇の地位におしあげた一つの理由ではないか、
と考えておられる。
たしかにこれも理由の一つではあろうが、私は、同じ時期に、皇女を后妃にするふうがさかんになったこと、
皇太子による摂政など、いわゆる皇親政治が行われたことにも留意し、女帝の即位も、
豪族をなるべく政権の座から遠ざけて、皇室による中央集権を指向した、一連の政策に出たのでは
あるまいかと憶測するものである。
それはとにかく、応神から雄略までの諸天皇の皇后は、多くは天皇に立ちえなかったであろう。
というのは、出自がほとんど葛城などの臣姓の、国神系の豪族で、天皇氏ではなく、血統の原則から
天皇になる資格がなかったからである。光明皇后が聖武天皇のあと、天皇に立つべき諸種の条件をそなえながら、
それにならなかったのも、彼女も天皇氏出身ではなく、血統の原則にはずれていたからであろう。」
と推測されているけど、こんな難問を大学の入試問題に出すとか、法政鬼だな。 あの、予備校の出してる模範解答を載せても宜しいでしょうか 古代ではシャーマンとして政治を主宰する必要から女帝を立てた。 >>1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%89
当時は男性の識字率が低く、先進的な家族構造である
共同体家族も少なく、絶対核家族や直系家族が多かったから女性の権利も高かった
と、書けば、ちょっと知ってる人なら
トッドかと思うだろうが、古代が本当にそうであったか検証してないから分からん
それに、当時の政治情勢を踏まえて、と書いてあるので間違いとされる可能性が高い
採点する人が開明的な人物なら分からんけど 嫡系への皇位継承を重視した天皇家と、嫡系に娘を嫁がせて天皇の外祖父となることを目指した藤原氏の意向が合致し、後継が成長するまでの中継ぎとして女性が皇位に就いた。
らしい え〜なんか微妙だなぁと思うわ
なんだかな〜
ほんとにそうなのかー?と アホの法政が史実を踏まえた解答を期待してるわけないだろ。
「定説はないが、私は〜と考える。すなわち〜。例えば〜。これに対して近代においては〜。以上の通り、古代においては〜。」
適当に書けば満点だよ。アホの法政なんだから。 >>36
お前がバカなのは良く分かった
高卒かな?受験してないでしょ? 法政は受けてないけどな。早稲田と慶応しか受けなかったから。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 卑弥呼やトヨ、神功皇后の例からしても、女性の地位が高かったんだろうな。
母が誰であるかも重要だったように見えるし。
まあ、求める答えは分からんが、たったひとつの答えだけが正解というんじゃなくて、
論じ方の問題って気はするが。あ、法政か、ならわからんな。 女系と女権を意図的にごっちゃにした議論をしたがる馬鹿が定期的に湧く 邪馬台国の倭国は、血統じゃなかったんだよな。
卑弥呼は突然出てきたキチガイババアだし。 外国人が書いた魏志倭人伝と
後世に書かれた日本書紀
これくらいしか史料が無い時代のことで
論を立てろって無茶苦茶過ぎないか? 邪馬台国について、日本書紀は何の参考にもならないよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています