何故、古代は女帝が多数存在していたのか [無断転載禁止]©2ch.net
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当時の政治情勢を踏まえて80文字以内で説明せよ
って問題が法政大学の入試で出たのですが、これって明確な理由が有るのでしょうか?
僕は「男女の身分差が少なかった」「まだ男しか皇位に就けないと言う決まりが無かった」この二点を纏めたのですが、調べてみたところしっかりとした理由は見つけられませんでした
もし宜しければ皆さんの意見と回答の要点を教えてもらえませんか? >>49
48はそういう主旨ではない。
別々の女帝について書かれた2文献を別個に
示したに過ぎない >>34
それだと、古代は、という設問なのに
飛鳥奈良時代の女帝についての
理由付けにしかならない。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>34
え、なんか卑怯な答えだな
なんでいきなり藤原が出てくるんだよ
時代限定じゃん 存在はしていたが
それが多数なのか少数かのかは比較の対象によって何とでも言えるだろ @推古、皇極(斉明)→後継者問題の引き延ばし
A持統、元明、元正→嫡系相続のための中継
B称徳(孝謙)→皇太子になったのち即位しており特殊事情ありか 推古朝の時の朝貢した『倭国の王は男子』って蘇我馬子を指してたって説も有るしな 隋書にでてくる「倭国の王」は舒明天皇だろう
日本書紀は推古朝を60年引き下げている >>59
推古以降の日本のすべて女帝の中でシャーマンはいないけど? >>65
推古以前にはあり得るならO点ではないのでは? >>68
そんならまず推古以前に女帝が存在したことを
おまえが証明してから言えよw
後出しジャンケンで「もうこうだったら」みたいな話はやめてくんないかね 倭国の卑弥呼や台与が、何らかの女性ならではの宗教的な権威を持っていたことは十分あり得る。
なにしろ、鬼道だからね。
でも、推古天皇もそうだけど、日本国の女帝にそんな力があったという話はない。
倭国の女帝と日本国の女帝は、次元が異なる。 >>71
自分が理解できない事を後出しじゃんけんと言うタイプか まだ天皇として幼過ぎる男子が成長するまでの繋ぎとして、
その母親(つまり亡き天皇の皇后、ただし皇族に限る)や
その姉が即位したと何かの本で読んだわ。
持統天皇や称徳天皇辺りがそうじゃなかったかな 書いとくか。
「 大陸の騎馬民族国家において、皇妃が政治や軍事に関与し、また君主の後継問題に活躍したことについては、
匈奴・突厥・拓跋魏について概説したときに、ところどころで言及した。
すなわち匈奴の冒頓単于の閼氏の軍事への容喙、セン渠閼氏の単于後継問題における暗躍、
呼韓邪単于二人の姉妹の閼氏による単于後嗣の順位の決定、突厥の大義公主の軍事・外交への干渉、
拓跋魏の文明皇后の執政などである。このほか、遼(契丹)の建国者(遼太祖)耶律阿保機の皇后述律氏、
明大の蒙古の英傑順義王俺答汗の妃三娘子など、夫の死後に国政を執った皇妃は、
騎馬民族国家においてはすこぶる多い。
遼の述律皇后については、太祖の死後、彼女が夫の功臣を、あの世で太祖が待っているであろうと、
つぎつぎに殉死せしめたので、ある者があの世で太祖がいちばん待ちうけておられるのは
皇后自身だろうというのを聞いて、自分は国事に責任があるから死ぬわけにはゆかないが、
身がわりにといって、その一腕を断ち切って、太祖の陵に納めたという伝説が残っている。
これはもちろんたんなる伝説にすぎないが、そこに、騎馬民族国家の后妃にいかにもありそうな、
策略にとみ、豪放果敢な、男まさりの一女性が描きだされていてなかなかおもしろい。
しかし史実としては、述律皇后が摂政したのは、太祖の第一子の東丹国王倍にではなく、
彼女の寵愛した第二子の大元帥尭骨に遼の帝位を継がせる工作をするためであったに相違ない。
そうしてじっさい、尭骨は摂政太后や群臣の支持をうけて即位することができた。
すなわち遼の太祖である。そうしてこのように次の君主(ハーン)が決定・即位するまで
皇太后が国政をみるという、騎馬民族国家に一般的な現象が制度化されたものが、
チンギス・ハーン蒙古の監国皇后にほかならないと思われる。
このチンギス・ハーン蒙古の監国とは、大ハーンの死後、次の大ハーンの選出されるまで、
蒙古帝国の内治・外交・軍事の一切の権能を委ねられて、統治に当たるもので、
第一代チンギス・ハーン死後は、その末子のツルイが最初の監国になったが、
第二代のオゴタイ・ハーンの死後は、その皇后のトラキナが、第三代のグユク・ハーン死後は、
その皇后のオグール・ガイミシが監国になった。 続き。
監国のもっとも主要な任務は、クリルタイ(大集会)を招集して、次期の大ハーンを選定・推戴することにあったが、
監国は原則的に大ハーンと同等の権力をもって、みずからのイニシアティブで蒙古帝国の統治を行うことができた。
それで監国皇后トラキナは、チンギス・ハーン以来の功臣で、夫オゴタイ・ハーンの時代に右丞相であった鎮海を免職し、
その他前代からの多数の要人をしりぞけ、一方、回教徒のアブドル・ラーマンを財政長官に登用したりした。
また大ハーン後継者選定のためのクリルタイも、トラキナによって招集されたが、第一回、第二回とも流会となったのは、
オゴタイ党とツルイ党との党派争いで、直接には、ツルイ党を支持する長老のバツーと、
オゴタイの長子グユクを第三代のハーンにすえようとする監国トラキナとの対立であった。
それでグユクが選定されることが予測されたクリルタイに、バツーが口実をもうけて参会しなかったのである。
しかしついに、第三回のクリルタイは、バツー不参加のまま開かれ、トラキナの希望どおり、
グユクのハーン位相続が決定した。彼の即位は儀式が終わって、七日間宴会がつづき、
グユクは父オゴタイ・ハーンの宝庫に蔵められた金銀・布帛・宝玉を参会者一同に賜わることになったが、
そのときその配分を委ねられたのはツルイの寡婦シュールククテニ(スルカタイ)皇妃であった。
当時彼女は、トラキナ、バツーをのぞく、蒙古皇族最高の地位にあったのである。
このように蒙古帝国でも、皇妃の地位・権威は、次の世代の王公のそれよりも上にあった。
ただ彼女ら大ハーンの皇后が、監国にとどまって、大ハーンそのものになることがなかったのは、
彼女らがみな、外婚制によって、蒙古王室の氏族「黄金氏族(アルタン・オボク)」以外の氏族の出身者であったからで、
血統の原理によって、彼女らは大ハーンになることは不可能であった。 続き。
次に、グユク・ハーン死後、監国になったオグール・ガイミシ皇后の時代には、ハーン位をめぐって、
オゴタイ党とツルイ党との争いはますます激しくなり、こんどはツルイの長氏メンゲを推すバツーを中心としたツルイ党と、
オゴタイ・ハーンの孫シラムンを推すオゴタイ党との対立抗争となった。この抗争は数年間続き、
その間クリルタイは前後三回開かれ、二回は流会になったが、第三回目に実力者バツーと
ツルイの寡婦シュールククテニ皇妃の力によって、ツルイの長氏メンゲが代四代の大ハーンに決定した。
これに対してオゴタイ党は、メンゲ・ハーン暗殺の陰謀を企画したが失敗し、その党に属した多くの王公は追放され、
さきの監国オグール・ガイミシもその陰謀に加担したものとして残酷な処刑にあった。
蒙古の監国皇后は、これをもって最後としたが、それは、代四代のメンゲ・ハーンの死後は蒙古帝国は事実上分裂して、
もはや全国的なクリルタイも開けず、大ハーンを選定・推戴しうる可能性もなくなったからである。
かくてクビライはみずからクリルタイを開いて、大ハーンの位についたが、それはもはや蒙古帝国のそれではなく、
いわゆる元帝国のそれであった。」
江上波夫著「騎馬民族国家」p238-242. 初期の大和朝廷は騎馬民族の風習を引きずっていたものと思われる。
だんだん中華文化になっちゃったけど。 騎馬民族って言ってもモンゴル系やトルコ系はあり得ない
扶余などのツングース系か鮮卑などのシナチベット系の遊牧民しかあり得ないわけだから
本国が中華にそまれば当然そうなるよな だから言ってるじゃん
モンゴル高原は騎馬民族らの東端だとな
本場っつ〜なら中央アジアから西ヨーロッパあたりなんだよ インドから東側、東南アジアにかけては騎象隊の方が多い 中国あたりに多いのはブタの多頭飼いから農村地帯なら牛飼い
チベット方面に多いのは山羊なんかを飼う人ら >>86
その理屈なら元正天皇から孝謙天皇までは女系の天皇だな 文武元明元正聖武の流れは持統天皇が
天智の血を繋げていった結果だと思う >>87
定義の仕方で違ってくるかもしれないが、
普通女系の天皇といえば、母方が「天皇家」であり、
そちらのルートから皇位を継承した人物のことを言う。
であるなら、@元明→元正は女系。これは明確に母→娘への継承だから。
男系ルートなら、元正は「父のいとこ」から皇位を継承したことになる。
A元正→聖武は男系。元正は聖武の「父方のおば」だから。
聖武が女系天皇という場合は、母方の藤原宮子娘からのルートになる。
B聖武→孝謙も男系。孝謙がいわゆる「男系女子」にあたることは説明するまでもない。 皇統における男系・女系の定義は下記のとおりであり、
無意味な議論は不要!
◇男系
初代天皇の血統が男系で繋がっている系統
◇女系
初代天皇の血統が女系でしか繋がっていない系統 初代天皇の定義がいまいち不明確だが
実在したと言い切れない気がする「神武天皇」のことだとしたら
多分、すでに今の天皇家は繋がってないんじゃないかな
繋がるとしても女系に女系でかろうじてなんじゃねーかって気がする 100人以上いる天皇の一人か二人は浮気の子だろ
繋がってるわけないよ 女帝どころか熊襲の酋長も女がかなりいた様なので、これは大和朝廷に限った問題ではない 一部に提唱されている説で、古代には即位するには三十歳以上
って年齢制限があったんじゃないかというのがある
兄弟継承が多くなったのもそのせいではないか
女帝が多数輩出されたのもこれに関係があるのでは? 確かに、若くして即位しても安定が保たれる為には王家の血筋に神聖なイメージがつかないと難しい
王朝の初期にそれは無理だよなあ 法政の合格水準がどれくらいか受けた事無いので知らんが
はしか一吹きでガキが粗方死んじまう御時世だったから跡目争いで揉めた場合に死んだ帝の妃が即位して取り敢えず勢力争いがペンディングされるケースが多かった
くらいがベストじゃね? >>97おまけ 昔を知る者には実に信じ難いが法政の教授会は今や極左韓流命になってるからねぇ…>1は出題意図解ったかな? >>92〜94
それをいっちゃおしまいよ
正史では男系続いているんだからヽ(^o^)丿 アンカーの付け方も知らないやつに「おしまいよ」とか言われてモナ 律令が定着するまでは統治者の実力がモノを言うので継承者が幼少だった場合妻や母が中継ぎするしかなかった
この制度では後継者争いで何度も血を見る結果になるので天武天皇くらいから律令を大胆に取り入れて仕組みで統治するようにした
元明天皇あたりは仕組み作りの最後の時代 >>102
元明以降も血は流れてるが…
仕組みじゃなくて行き当たりばったりに他の系統を排除して
天武持統の血を繋げていった結果にしか見えんが >>77
匈奴や突厥、遼の皇后は自ら兵馬を率いて戦場に赴くのもザラだったから
日本の女帝や皇后とは比較にならない 事情がどうであれ、女帝が誕生する余地があるということは
外戚の力が天皇家を超えてないということでもあるな。
外戚の藤原氏が摂政なんて位に付けるようになってしまったら、
帝は幼くても問題ないことになってしまった…むしろ幼い方がいい。
母や姉が替わりを務める必要がなくなってしまい、女帝を立てる必要もなくなる。
古代のこの時期…持統〜称徳あたりってのは、
天皇家と豪族達との権力をめぐる綱引きが激しかった時期でもあるでしょう。
それも三世一身の法?とか墾田永年私財の法だっけ
これで藤原氏をはじめとした豪族が力を付けちゃって一気に天皇家の力が弱まった。
おそらく>>1の解答としては、そういうことをまとめてやればいいのでは 天武朝は傍系を排除してだから
直系の血を守るため女帝が多く出た
天武朝自体が逆賊というのもあるだろうけど
直系の血が絶えるとあっさりと
永手良継百川らと組んだ天智系に持っていかれた 中臣氏は祭祀氏族なので天皇家の外戚になれないと言うのを聞いたことがあるな。藤原なら問題ないらしい。藤原の姓を頂き鎌足は大喜びだったろうな。その後の繁栄は言うに及ばず。 実際に藤原姓をもらったのは不比等だと思うぞ
鎌足がもらったことになってるのは後付けじゃないかな
不比等の兄弟筋は藤原を名乗ってないし 確かにそうかも。藤原姓をもらった次の日に死ぬはないわな。次の不比等がもらったんだろう。 古代では直系が絶えて傍流から後継者を出さねばならないとき、
先代の妃を娶って正当性を高めた例が結構ある。
皇后が残ってれば後継はなんとかできるみたいな意識が根底にあって、
その流れで女帝にも抵抗がなかったとかもあるんじゃないか
あと、持統朝以降の女帝乱立は、
中継ぎでもあるだろうけど、むしろ守りたかったのは持統の持ってた血統の方なんじゃ?ってくらいの執念を感じる… 『王子とコジキ』
ググってみたほうが良い、実際に入れ替わっているから、
本物のほうがコジキ?のような扱いだと思う 王子ではなくても王女、
その女帝でも良い
なぜコジキの家が、
王子や女帝になるんだ? 島の誕生〜神代から続いているという話があるでしょ、
悪く言うとコジキ
当時の中華や半島などから
渡って来た人ではないんでしょ 『中華』で、ググるだけでもわかるはず
『関帝』廟というのものが出てきたり
帝、女なので女帝なんでしょ 詳しいことは、わからないけど
「そうことなんだっつーの!」
「生きてたのか!」と言っている人がいたり
『聖化 日神 日霊 津』
『伊達の桃太郎』など、この家の話でしょ
『天帝』という文字が見えない? 「本系」
天帝より授かり、渡って来た家の本系?
何やらを祀ったりしていたんだと思う
蚕を飼っていたり、機織りをしていたり 確かに『本系』と書いてある
その道のプロ、本家という話だろう ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CWQMW >>1みたいなことを言う人って、恐らく(推測だが)
日本史上に女帝が何人いたか知らないで、
「昔は沢山いたはず」って思いこみだけで言ってるんじゃないかって気がするんだが。
実際に、女帝が希少な例外でなかったのは、奈良時代頃のごく短い一時期のみだし、
その時期だって、女帝はあくまでも中継ぎで、
男子と同様の権利で女子が帝位を次いでいたわけでは全然ないんだが。 >>124
明治以降は男子しか天皇になれないと皇室典範で決められたため
女帝は存在しない日本において古代は違っていたという話だろ >>125
いやそれはわかるんだけど、江戸時代以前で少なく見ても100人以上いる天皇のうち
女帝はわずかに10人未満でしょ。
「複数存在していた」なら正しいし、わかるんだけど、>>1は「古代は女帝が多数存在していた」って言ってるから、
たぶん何か勘違いしてるんじゃないかなって気がする、ってこと。
ちなみに、日本では古代から近代まで、原則帝位は男性が継ぐもので、
例外的に何かの事情があるときに、女帝も認められていた(ただし「女系」は全く論外で、当然認められてなかった)。
っていう歴史的な経緯があって、その「原則男性」ルールを「法的拘束力」にしたのが明治政府だったわけだから、
江戸以前の方が「男女の身分差が少なかった」という事実は特にない。
そのあたりも、>>1さんは根本的に勘違いしてるんじゃないかって気がする。 「原則的に男性(ただし天皇が決めれば何でもできる)ルール」を「明文化ルール」に改めたのは、
単純に、
「政治を天皇が好き勝手にできないように、法律を整備する」ってことの一環だよね。
明治政府は立憲君主制を目指していたので、その当然の流れに従っていたってだけの話。
別に、明治政府になって男性の力が強くなったとか、そういうわけでは全然ないんだが、
特に日本のフェミニストさんとかって、意図的なのか無知なのか、その辺を必ずごっちゃにして
全て自分の都合のよいように主張してくるから、正直始末に負えない。 >>109
恐らく女帝が立てられなくなったのは、その通りだと思うわ。
この時期に女帝が続いたのも、天武持統の血筋で皇位を継承していこうっていう意図が見えるし。
それに加えて女帝が避けられた理由として、称徳女帝のトラウマがあったかも。
彼女は未婚のまま皇位についたため生涯独身で過ごさなければならなかった。
和気清麿呂は日本は古来より君臣の別がはっきりしていると言ったが、
これは道鏡への禅譲を否定するのと同時に、
女帝の夫ー男尊女卑の時代においては女帝の主人ーの存在を否定している。
称徳が女帝となった時点で、天武持統朝の断絶は確定してた。
こういう事例があったことも、一因としてあると思う。 訂正
弟が跡継ぎを残さないまま死んだ時点だな。
断絶が確定したのは。 >>127
大日本帝国憲法では天皇は統帥権を持つ軍人だった
当時は軍人になれるのは男性のみであったために天皇も男性に限られた
イギリス王室も国王は軍人だが女王もいる
エリザベス女王は第二次世界大戦中に物資支援隊に参加した
日本も自衛隊に女性の入隊が認められているから今なら問題ないかもね
そもそも日本国憲法下では天皇は軍人ではないんだが
皇室典範だけは明治時代からずっと改定されてないんだよね 後に中華(大陸など)から渡来してきた人々がいるでしょ、
そういう人々のほうが凄いと思うんだけど、どう思う?
それでは、キリがないという事で独立した? あと当時、女帝という呼称などなかったんじゃないの?
本当にあったの? 平安時代にはすでにあったらしいよ
例としては「大鏡」で孝謙天皇のことを
「女御子を、聖武天皇、女帝にすゑ奉り給ひてけり。
この女帝をば、高野の女帝と申しけり。」といってる 聖武皇帝は天女と交わり拓跋魏の始祖を産んだ伝説の聖帝様だ。真似してんじゃねー >>130
古代なんてまさに、天皇は軍人のトップでしょ?
聖徳太子の時代まで、天皇は皇族は軍事力持って自らいつも戦争してたし、
天武帝も軍勢率いて戦ってたでしょ?斉明女帝だって戦争の統帥のために筑紫に本営作って移ってたでしょ?
「天皇は統帥権を持つ軍人だった 」というのは別に明治憲法に始まったことではなく、
そもそも軍事政権だった大和朝廷の起源以来、ずっと暗黙の了解だったはずだよ。
で、それが基本的に「軍人である以上、基本的に男子」というのも、別に明治憲法に始まったことではない。
なので繰り返すが、明治政府はそれまで、非成文的なルールだったものを明文化しただけのことであって、
明治時代に何か男性の地位が向上した(それまでは女性の地位がもっと高かった)っていう事実はない。 まあ律令制では「天皇は軍人」とは規定されてないけどね。
軍人でもなく、非軍人でもなく、それらを超越した存在。
しかしこういう話になると、何が何でも
「皇位の男子継承は明治に始まったものであり、それより古い伝統はない」ってことにしたがるやつが、わらわれと出てはくるわな。
案外歴史に無知でないはずの人々の間でもそうだから、正直驚く。 >>136
>軍人でもなく、非軍人でもなく、それらを超越した存在。
なんだそりゃ
軍に対しては統帥だろ
>「皇位の男子継承は明治に始まったものであり、それより古い伝統はない」ってことにしたがるやつが、わらわれと出てはくるわな。
「皇室の伝統の多くは明治に始まったものであり」と間違えてないか? これは他のスレの話
創価の話ばかりじゃねえか!
と言ってる人がいたんだけど、なぜだと思う?
倭人関係の話? 『女帝 呼称』
ほとんど同じ話ばかり。
少し調べて読んでみた?
倭〜半島〜中国、詳しいことは、わからないんだけど・・・武田氏(不明)という名前が出て来たり。 武田氏〜新羅、倭人と後付けのような感じでやっているんだと思う 本当に、この辺りの話になるんだけど
『武田氏 新羅』
創価か、何かが関係しているんじゃないの、宗派? 「男子継承は皇室の昔からの伝統ではない!」って言っている人が、
男子に〇仁って名を付けるのは皇室の伝統だと思ってたりするよな
結局何も知らないんだな、っていう っていうか、なんで>>125さんや>>130さんは
スレと全く関係のない皇室典範の話なんかしてるんだろう?
飛鳥〜奈良時代の女帝が多い時代と、その他の時代は何が違うのか?ってスレでしょ?ここは 男子継承=明治時代に確立したもの=長い伝統があるわけじゃない→女性天皇を認めろ!
っていうアホな主張をしたがるやつが多いからだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています