倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) ニューギニアとかアボリジニの鼻が高いと思ったことなんか全然ないが。 馬鹿が多いので、もう一遍言っておこう。
縄文人骨の鼻は西洋人並みの高さとの事。
縄文人骨の鼻は西洋人並みの高さとの事。 >>206
ニューギニア人やアボリジニは西洋人とも縄文人とも関係が無いぞ 沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔
立ちの復元図=写真上、科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=
から大きく変わり、オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。
港川人は1967〜76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5〜9体分の人骨と考えられ、出
土地層は約2万年前と推定されている。全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではそ
の後も発見はない。
顔の彫りが深く、手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、縄文人の祖先
は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合
して日本人が形成されたと考えられてきた。科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、そ
の一環として港川人を再調査してきた。
CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとし
ており、そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。現在の人類ならば、オ
ーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。
縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考え
られてきた。だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団な
ど多様なルーツのあることが見えてきた。
新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文
人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布して
いた集団から由来した可能性が高い」と語った。そ
の後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限
定されたと考えることができそうだ。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006280113.html 港川人が縄文人のメイン集団とは別なのは昔から言われてたからな >>197
おえい、ホラッチョ台湾褐色ブタ広鼻 4cm超級巨大タラコクチビリーデ。
で、揚子江文明の末裔や呉越が渡来したという狂言を証明する証拠遺跡とその証拠文物は?
で、揚子江文明の末裔や呉越が稲作を直接運んだのが日本の稲作の起源だという狂言を
働いているキチガイ学者の氏名とその所属団体は?
. >>219
おえい、ホラッチョ台湾褐色ブタ広鼻 4cm超級巨大タラコクチビリーデ。
で、揚子江文明の末裔や呉越が渡来したという狂言を証明する証拠遺跡とその証拠文物は?
で、揚子江文明の末裔や呉越が稲作を直接運んだのが日本の稲作の起源だという狂言を
働いているキチガイ学者の氏名とその所属団体は?
. >>222
おえい、ホラッチョ台湾褐色ブタ広鼻 4cm超級巨大タラコクチビリーデ。
で、揚子江文明の末裔や呉越が渡来したという狂言を証明する証拠遺跡とその証拠文物は?
で、揚子江文明の末裔や呉越が稲作を直接運んだのが日本の稲作の起源だという狂言を
働いているキチガイ学者の氏名とその所属団体は?
. 下トンスリアはとっとと上トンスルに支配されちゃってください!
というかなんであんな隣接地に首都作ってんの?バカなの? >>225
南の方は倭人系が多いので南に首都は作れない
韓国はいまだに両班が支配する国だよ そのおかげで、弥生人が日本列島に逃げ込んだんだけどな。 未だに弥生系っぽい済州島は迫害されたり差別されてるけどな。一段劣った
人たちとして。あそこ住民投票で併合しようか。 倭の5王の名は中国人が聞いた倭人の言葉の音を中国語の漢字音に当てはめたんだろ?
音数が全く違うのは有り得ないだろ? 讃→多田野数人
珍→TNOK
済→野獣先輩
興→ブッチッパ
武→大坊恥
これが定説である。異論は許さない。 >>229
自称でそ
手紙よこす位には漢語達者なんだし 北九州掘ったら五王が使ってた文字の痕跡出てくるんと違うんか? どこかに五王がいたとしても日本には中国地方以東にももっと人はいたから結局どこの勢力がケンカ最強だったのかという話 >>229
「ヒミココ」とか変な名前もそのまま残してるから、自称しかあり得ない。
中国でも二字姓はあるし、字名は二字が普通。
日本の王の方が中国風にしたんだろう。そして、そんな文化は記紀ではでて
こない。 >>199
なんかスルーされてるけど、そもそも高句麗の自称っつーか正式名称は高麗だぞ >>236
当初高句麗で後から高麗に変えたってきいたぞ カン丘倹碑文では単に句麗
高麗と自称するようになったのは長寿王の頃 天皇家って姓が無いっていうのが定説だけど
倭五王って外交用に倭を姓として使ってる
倭隋っていうのも使者で出てくるし多分一族なんだろうな
やっぱ天皇家とは別の系統の王朝なのかな 倭の五王と天皇家が別物なんじゃね?
それか天皇家権力が確立した時点で姓がなくなった >>240
九州王朝だろうね。
落ちぶれた分家が畿内に流れ着いて大化けした。 継体天皇の家系が「落ちぶれた」「流れ着いて」だと?
どんだけアグレッシブな落ちぶれた分家の流れ着き方やねんwww >>242 > 姓はアメ 名はタリシヒコ//
隋書「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」
新唐書は弁慶薙刀読みになってるね。
中国では一字姓が一般的なので、姓が阿なら、名前は目多利思比孤だな藁、といった処だ。
毎が目で置き換わってるのも態となのであり、チャンと理由もある。
孝安が天安、敏達が海達、推古が雄古、てのも態とであり、やはり理由がある。 >>240
> 天皇家って姓が無いっていうのが定説だけど 倭五王って外交用に倭を姓として使ってる//
倭王武または倭国王武なのだから、倭は姓ではないね。「倭讚」の時点では王に叙任されていないので、倭王讃ではない。
倭隋って、珍に従ってきた連中、くらいの意味じゃないかな。宋書の時点では随という国号も爵位も存在しないんだから、随は普通名詞に思える。
なお、讃珍済興武は、履中反正允恭安康雄略にあたり、祖禰は仲哀にあたる。 とある説によると、出雲の系統だよ
スサノオの家の一族
日本海側〜東北
あの平安時代の話
「何々だと、ここに書かれている」というか
「スサノオが言った」という書き込みがあったでしょ 阿部
こういう名字は何なんだろう
凄く古い家なのでは? >>247 > とある説によると、出雲の系統だよ//
倭の五王が? 出雲って中国の史書には、投馬国としてしか登場してないよ。
張政が偶々立ち寄ったので記録が残ることになった。何故か?
行ってみたら肝心の邪馬台国が「更相誅殺、當時殺千餘人」といった状況だったからだ。
> スサノオの家の一族//
スサノオって出雲の大国主の下にに流竄されたのであって、出雲とは関係のない神様だよ。
> あの平安時代の話 「何々だと、ここに書かれている」というか 「スサノオが言った」という書き込みがあったでしょ//
そんな茫漠としたハナシにでしょなんて同意を求められても知らんがな。 違う違う
畿内の邪馬台国では戦争はしていない
倭国大乱の痕跡は九州でしか見つかっていないだろ
邪馬台国と女王国が別物、すなわち不弥国こそが卑弥呼の女王国であった証だ 「物部」が何やらと書いてあるでしょ、
その後、乗っ取られたという伝承があったり
『広瀬座』 伊達郡 川俣町 小手子の話 あの民家園だよな〜
「馬宿が」という謎の解説
・馬場
・小野
・鈴木 『福島県民家園』
『広瀬座』に『市川』という名も見えるはず 『先代旧事本紀』偽書扱い
「俺よりも凄い家(歴史)があるのが嫌だ」という単純な理由だと思う >>252
> 違う違う 畿内の邪馬台国では戦争はしていない 倭国大乱の痕跡は九州でしか見つかっていないだろ//
はァ? そりゃ私の>>251 に対してかね。
倭国大乱って「桓、靈閨C倭國大亂,更相攻伐,歴年無主」だろ。2世紀末の話だ。
「更相誅殺、當時殺千餘人」は女王卑弥呼から男王、そしてトヨちゃんに至る3世紀半ばの話だよ。
オメは全然ダメダメだね。
なお、魏志倭人伝では時間軸の特定できない倭国大乱を、范曄は後漢書にて「桓、靈閨vと特定して呉れている。
その前のクダリである「安帝永初元年,倭國王帥升等」も、極めて重要な補足だね。
> 邪馬台国と女王国が別物、すなわち不弥国こそが卑弥呼の女王国であった証だ//
九州王朝国なぞ存在しない。 >>257
それで反論のつもりか?
邪馬台国はそれが台与のときかその次かは知らないが
「女王」の居場所が移ったのだよ
それは3世紀後半のいずれかの時期だ
ただしこの「女王」とは中華王朝側から認定される女王のことで
おそらく卑弥呼が九州で生きていた時代以前から畿内の邪馬台国には延々と女系継承の女王(とその配偶者がなる男王)がいた筈だ おそらく弥生時代のクニにおいて、男王と女王の役割は異なっていた筈だ
すなわち
男王は国内の治安を守り、軍勢を率いて外征を行う
女王は生産物の徴収と再分配を司る
男系継承と女系継承の権力がかつては日本列島中にあった筈だろう
それらは空白の4世紀の間、政略結婚による統合が繰り返された
だからこそ、各地に言い伝えられる妻争いの伝説は熾烈を極めたのだ
その最たるものが畿内の邪馬台国の女王権と日向の不呼国の男王権の合体だ
http://yamado.up.n.seesaa.net/yamado/image/kuni.jpg?d=a1
不呼国はヒコ(彦)国=神武天皇ら天孫族の国、不弥国はヒメ(姫)国=神功皇后こと卑弥呼の国
この比定は偶然の一致ではないぞ >>258 > それで反論のつもりか?//
はァ? 小莫迦にしただけですが。
> おそらく卑弥呼が九州で生きていた時代//
九州王朝国なぞ存在しない。
>>259 > おそらく弥生時代のクニにおいて、男王と女王の役割は異なっていた筈だ//
全て卑弥呼に委譲されたのが邪馬台国なんだよ。まぁ、実務は重臣達の参画もあったとしてもね。 >>260
>九州王朝国なぞ存在しない。
ソースなき反論は反論に値せず
女王国の卑弥呼が天皇家や邪馬台国と血のつながりがあるとは一言も言ってはいないぞ
万世一系を下敷きとして東遷などとうつつを抜かす九州王朝説なる妄言とは異なるものだ むかーしから万世一系なんて言ってる人はいないよ
言っている人がいるなら
「頭が、おかしいんじゃないのか?」としか言えない 王権のある土地は代ごとに移り変わる
2世紀前半の倭奴国、これを仮に、
今でいう福岡市を中心とする奴国が九州北部と山口に至る広い範囲を納めていた
「大奴国時代」だとしておこうか
それが崩壊して「倭国大乱」が勃発
2世紀後半に倭奴国は統一を失い、いくつもの国に分裂
やがて宗像〜筑豊地方にあった小国の女王・卑弥呼が倭国代表に選ばれる
これが250年頃まで続く「女王国時代」
卑弥呼の死後、再び内乱を経て台与が立つ
おそらくは関門海峡の好古都国がその都
3世紀後半の「好古都国時代」
それと並行して瀬戸内の西端の「不呼国」
すなわち天孫族のウガヤフキアエズ朝から一人の王子が
瀬戸内の東端の卑弥呼とは無関係な女王が治める大国「邪馬台国」へと
(おそらくは投馬国=出雲の彌彌那利(ミミナリ)=耳成(ミミナシ))激しい妻争いの末、婿入りする
陳寿の没年である297年までのいずれかの時期に帯方郡からの使者(その記録はない)がやってきて
邪馬台国の女王を倭王認定し、ついでに女王国以南=博多湾周辺以外の各国を回って名前と順番を記録した
これが「邪馬台国時代」、すなわち大和王権の成立期
台与はおそらくこの時期に大和王権の王へ嫁に行ったのだろう
もしくはウガヤフキアエズ朝の王かも知れないし
両方をとって日向から大和へ東遷した王なのかもしれない
そのことを反映するのが第四代・懿徳天皇の后である天豊津媛命の名だ >>180
いろんなスレで何度も貼るからもうNGですわ。 1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この
個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治
療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ
マチなど、さまざま疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする
塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国はかりか世界規模で展開されています。
わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約 30 万人の日
本人の DNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。
この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用し
て、大部分の日本人が2 つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で
きることを明らかにしました。この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の
「二重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスターの間の SNP の頻度の違い
は小さいのですが、耳垢のタイプを決める SNP や髪の毛の太さに関わる SNP の頻度
には明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが
明確になりました。
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf >>267 > 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明//
個体の情報から集団への帰属を推し量るのは無理だね。 >病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この
個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治
療を行うオーダーメイド医療か?スタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ
マチなど、さまざま疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする塩基多型(SNP)を使った関連解析が
染色体上の有意な遺伝子と連鎖しまくってるというか有意な遺伝子そのものだなぁ すごく意味深な記述を隋書で発見
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
> 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
>上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
> 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
>使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
「天」は九州の倭王、「日」は大和の天皇
「天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟」とはかつて九州に中央政権があったのを後発の畿内が奪取したという意味だろう
五王は大和が独立していたときも筑紫に拠って使者を送ったことだろう >>270
俺様曰:「此太無義理。」とても道理ではない。九州王朝国なぞ存在しない。 ヤマトとタニワが合体したのが「アマタリシヒコ」(天足彦国押人命) >>271
おまいはきもちわるい
>>272
意味不明! >>273 > おまいはきもちわるい//
オメには思考力がなさそうだな。まぁ、莫迦ってのはオメの個性なの鴨試練が、身の程は弁えな。 >>275 > 開皇20年てことは580年が0年だな//
元号に0年ってないんだが敢えて云えば、580年は大定 (北周)0年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9A_(%E5%8C%97%E5%91%A8)
このケース(同じ年に元年が2回)、日本では以下の2例だけみたいだね。
朱鳥: 天武天皇15年7月20日(686年8月14日)〜朱鳥元年9月9日(686年10月1日):前後の元号なし
天平感宝: 天平21年4月14日(749年5月4日)〜天平感宝元年7月2日(749年8月19日):天平勝宝元年
なお2年まである暦仁は、嘉禎4年11月23日(1238年12月30日)〜暦仁2年2月7日(1239年3月13日)なので、期間としては天平感宝より短い。
最短元号年は宝亀12年1月1日の一日だけ(狙ったっぽい)。他にもひと月もたなかった元号年はいくつかあるが、各々いわく付きみたいだね。
関連:日本の元号一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 確かに、天と日の兄弟の例えって意味深だよな
実際に記紀による兄弟争いのあらましばっかでさ
ほんとは兄弟ではなく古代の兄弟部族争いだったんじゃないかなぁ 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る。まあ、文字を読まない国民教育
を兼ねているんだろう。ところが日本ではそうはいかない。ある程度信憑性が無いとドラマ化すら出来ない。
これが日本の良いところではあるが、景気浮揚効果を狙って少々の架空はアリにしてこの時代をドラマ化
したらどうだろうか。他にも架空アリならいろいろドラマ化出来ると思う。これが良いことかどうかは確かに
疑問はあるが視聴したいコンテンツが増えれば確かに景気は良くなる 視聴したいコンテンツが増えるぐらいで景気が良くなるんなら苦労はしねえよ ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな
まじで意味わからん
もう消滅して欲しい >>278
戦国武将よろしく九州の倭王と血で血を洗う合戦を繰り広げる大和の大王の姿を見てみたくもある 大国主あたりで山陰とは戦争を繰り広げていたようだが、
九州は筑前での戦がすっぽりと抜けている。
筑後、肥前、豊前、日向、大隅は戦の話があるな。
肥後は軍勢連れて巡幸した話があるが、
戦争は回避された模様。 漢字の音韻が参考になるんだよ、倭の五王にしても、邪馬台国にしても。
中国人は、倭人の発音を聞いて、適当な音を当てているから。 >>278 > 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る//
>>280 > ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな//
神武の即位がBC660 ってのがまさにそれなんだよ、実はね。あと、明日香って命名もそれっぽい。 倭の5王なんてそもそも推定する動作そのものがおかしい。宮内庁を説得して天皇陵を発掘すれば
終りだろ。なのにああでもないこうでもない。これが科学的態度と言えるのか。天皇家の遠い先祖の
墓には違いないが国民的な合意を経て例えば500年以内の先祖の墓発掘はダメとか制限を設ける
べきだろう。発掘すれば解ることを推定などと、歴史学者の怠慢には呆れるばかりだ。 > 発掘してもわからないことはわからない
そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。 >発掘すれば解ることを推定などと、
>そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。
言ってることが変わってるよw
遺跡保護の現状について勉強してね まあ現実的にはすぐに発掘は難しい。しかし歴史学者の努力の何百分の一かはこういう政治的なこと
にも向けられるべきだと思う。歴史探究に命を賭けている学徒もいるんだろ。遺跡保護はすべきだが
学究とは分けられるべき。そうでないと本当の学究の徒が可哀想ではないか。 本当の学究の徒ならば発掘調査が遺跡の破壊行為であることは重々承知している
よって自らのエゴで未来に伝えるべき遺産を破壊しようとは考えない 歴史学者が政治的な動きに首を突っ込んだ結果が、1960年代の真っ赤っ赤な業績の山だな。 どちらにせよ朝鮮人が偉かったのではない
九州の倭王が朝鮮半島の王たちの上に立ってすべてを支配するために戦ったのだ
韓人は7000年前に九州から渡ってきた縄文人の子孫であり韓国は本来、日本の分国とでもいうべき存在だった
そもそも「日本」とは、ヤマトタケルを日本武と書くように、元来は大和のこと
任那日本府とはそれまで九州の倭人が支配していた半島南部を大和から支配しようという魂胆で置かれた軍営だと考えると全て辻褄が合う
大和と新羅にとって百済と筑紫は統一を阻む邪魔モノであり、対馬海峡での政治的分断は双方にとってメリットがあった
加えて唐朝にとっても北東辺で覇を唱える高句麗は目の上のタンコブであり、半島の蛮族どもを帰順させてしまいたい
列島と大陸とを行き来した海人たちは東亜三国各々の統一の思惑のために犠牲となったのだ しかも当時の朝鮮半島に住んでた民族と
いまの半島人とは民族的にもつながりはない
だから在日パヨクがホルホルする根拠がまったくない 朝鮮人の本当の先祖は日本人だからな
なんか朝鮮半島から日本人が来たとかあたりまえの様に吹聴されてるけど
12000年前から7000年前くらいまであそこは人間の住むところでなかったらしい
最初に半島で見つかった土器も縄文に類似したものだし、朝鮮語は普通に日本列島の縄文文化起源よ 無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持た
ない様式であることから命名された。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島
では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300
年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の
遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを
示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/img/img11.jpg >>297
韓国における諸説
2005年に韓国のイ・ホンギュソウル大医大教授は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」で「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」との説を唱えた[3]。
[3] ^ “バイカル少数民族 「アリラン」「スリラン」の単語を使用” (韓国語版). 聯合ニュース (2005年8月14日). 2015年9月22日閲覧。
2chソース(核爆) 「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
今回、研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型を示す100万塩基サイトを
一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を
含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html 珍=額田大中彦皇子
済=住吉仲皇子
史学界でこの西條勉氏の説を支持している人いるの?
字訓による比定だとしても、名前に冠せられた地名部分
からの比定になると意味を成さないと思うのだが。 日本書紀がなんで120年ズラしたのかと疑問だった。
神功皇后(没年269年)を卑弥呼(没年247年)にするなら、
もっと没年を近い年代に出来ただろう。
120年を140年にすりゃ良いんだから。
(実在しなかったろうけど、仮にいたとしても、
神功皇后の時代に干支なんてまだ無かったろうし。
ありもしなかった干支に固執する理由がわからない)
日本書紀の編集者は、雄略から神功皇后までの
他の天皇の在位年は平気で動かしてるわけだ?
ましてや、そこら個々の天皇の事跡や在位なんてのも
はなから怪しい訳だ。
そこらの時代付近で、いじれそうな候補は他にいっぱいあったはず。
卑弥呼の没年のがよっぽど信ぴょう性高い以上、
むしろ卑弥呼の没年と神功皇后の没年をきっちり合わせて
その他付近の天皇の年代を調整しそうなもの……
なぜ、一番肝心そうな所が中途半端な120年の歩み寄りなのか?
逆になぜ、その間の天皇の在位をいじれちゃうのか?
と、つらつら考えてたんだけど。ようは、もっと単純な話だった。
考えるに、編集の第一段階で干支を決めていって。
(細かく時代設定を決めていくのが日本書紀の課題でもある)
いったん最後までやった後、また見直し再考していったんだろう。
ただ、どっかで数字を手直ししたいと思っても
全部、書き直すとしたら大変な労力になる。 だから、変えるとしたら60年ごとに書き換えていく。
干支は60年一周し、元に戻るから。その60の法則さえ守っておけば、
他の場所は書き換えなくて済む。
(それで、全体が1200年だったのが2400年になろうと、どうでも言い話。
少なくとも、最低限のつじつまは合う)
再編集段階で140年繰り上げたいと思ったからこそ、
労力的に妥協して120年にしといた訳だ。
逆に言えば、日本書紀の時代考証なんて
その程度の信ぴょう性なんだろうね。
正確さより、労力的な妥協がある。
(もちろん、古事記だって似たようなもんだろう)
「なんらかの方法で正確な数値を記録してたはずだ」
なんて期待はしちゃいけない。
おそらく干支が入って来たのも
雄略時代の西暦450年ぐらいあたりだろう。
(当時からして、逆算して推定できる過去年数も、
そっから大して離れてなかったろう。おそらくは
応神の王がいたとかまでしか、わかってなかったんじゃないかな)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.B9.B2.E6.94.AF.E7.B4.80.E5.B9.B4.E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC ある記念に、その事がらみの日記をつけてみようと決めた。
関連のある過去に向かって何があったかを順々に思い出していき、
記録していったら、ちょうど1年分になった。
ところが、ふと先週の水曜日にあった事を書き忘れていた事に気付いた。
個々のイベントは時系列に順序があるので、
その日の事を書き忘れていたと言う事はすべて一日分ずれるはず。
まあ仕方ないと思って全部、日付けを書き直していった。
手書きだったので、一年分の日付けを書き直すのは本当に骨が折れた。
ところが、どうやら先月の月末にあった事も書き忘れてた事に気付いた。
やっと11か月分の日付けを書き直した所で、また先々月に抜けた日を見つけた。
10か月分の書き直しを……。 数年後、また「記念の順々思い出し日記」をつける事にした。
けど、今度はもっと手抜きをしようと思う。
今度は「曜日日記」にし、正確な日付けを書き込まない事にした。
あくまで「あのイベントは何曜日だった」とだけ書き込んでいくんだ。
(「月曜だったイベントAの三日前のイベントBは
金曜だったな。その六日前のイベントCは〜」って感じでね)
イベントはほとんど穴があく日がないので、
(一週間、まるごとなにも無かったって週は無い)
後ろから何週目にあたる何曜日かさえわかれば、後から逆算で日にちもわかる。
こうしてつけて行ったら、また一年分になった。
案のごとく、抜けてる日があった。でも今回は1日抜けてたら、
それを1週間抜けてたと取らえて、該当箇所に当てはめていこうと思うんだ。
例えば先月の月末の1日の木曜日が抜けてたら、
その木曜日を含む1週間をまるごと挿入しちゃう。
月火水〜(月火水)〜木〜(金土日)〜金土日
そうすると、どっか抜けた日があっても、
その前後の曜日を書き直す必要は無くなる。
たとえば、日記の一番過去になる日が金曜日だったなら、
途中でどれほど抜け日(一週間ごと)を挿入しても金曜日のままだ。
もちろん、抜けてる日が何個もあれば、
その抜け日の数ごとに、日記の長さが一週間ずつ増えてく。
記録としちゃ、ぜんぜん正確じゃない。
でも良いじゃないか、いちいち手直しするのはもうコリゴリさ。
日記を書き上げたって気持ちさえあれば十分なんだよ。
…干支を60年ごと加えるってのは、ちょうどこういう感じ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています