倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) >>270
俺様曰:「此太無義理。」とても道理ではない。九州王朝国なぞ存在しない。 ヤマトとタニワが合体したのが「アマタリシヒコ」(天足彦国押人命) >>271
おまいはきもちわるい
>>272
意味不明! >>273 > おまいはきもちわるい//
オメには思考力がなさそうだな。まぁ、莫迦ってのはオメの個性なの鴨試練が、身の程は弁えな。 >>275 > 開皇20年てことは580年が0年だな//
元号に0年ってないんだが敢えて云えば、580年は大定 (北周)0年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9A_(%E5%8C%97%E5%91%A8)
このケース(同じ年に元年が2回)、日本では以下の2例だけみたいだね。
朱鳥: 天武天皇15年7月20日(686年8月14日)〜朱鳥元年9月9日(686年10月1日):前後の元号なし
天平感宝: 天平21年4月14日(749年5月4日)〜天平感宝元年7月2日(749年8月19日):天平勝宝元年
なお2年まである暦仁は、嘉禎4年11月23日(1238年12月30日)〜暦仁2年2月7日(1239年3月13日)なので、期間としては天平感宝より短い。
最短元号年は宝亀12年1月1日の一日だけ(狙ったっぽい)。他にもひと月もたなかった元号年はいくつかあるが、各々いわく付きみたいだね。
関連:日本の元号一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 確かに、天と日の兄弟の例えって意味深だよな
実際に記紀による兄弟争いのあらましばっかでさ
ほんとは兄弟ではなく古代の兄弟部族争いだったんじゃないかなぁ 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る。まあ、文字を読まない国民教育
を兼ねているんだろう。ところが日本ではそうはいかない。ある程度信憑性が無いとドラマ化すら出来ない。
これが日本の良いところではあるが、景気浮揚効果を狙って少々の架空はアリにしてこの時代をドラマ化
したらどうだろうか。他にも架空アリならいろいろドラマ化出来ると思う。これが良いことかどうかは確かに
疑問はあるが視聴したいコンテンツが増えれば確かに景気は良くなる 視聴したいコンテンツが増えるぐらいで景気が良くなるんなら苦労はしねえよ ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな
まじで意味わからん
もう消滅して欲しい >>278
戦国武将よろしく九州の倭王と血で血を洗う合戦を繰り広げる大和の大王の姿を見てみたくもある 大国主あたりで山陰とは戦争を繰り広げていたようだが、
九州は筑前での戦がすっぽりと抜けている。
筑後、肥前、豊前、日向、大隅は戦の話があるな。
肥後は軍勢連れて巡幸した話があるが、
戦争は回避された模様。 漢字の音韻が参考になるんだよ、倭の五王にしても、邪馬台国にしても。
中国人は、倭人の発音を聞いて、適当な音を当てているから。 >>278 > 韓国では捏造としか思えない時代考証限りなくゼロでもドラマを作る//
>>280 > ヒッグス粒子の名付け親は韓国人とか言い出したしな//
神武の即位がBC660 ってのがまさにそれなんだよ、実はね。あと、明日香って命名もそれっぽい。 倭の5王なんてそもそも推定する動作そのものがおかしい。宮内庁を説得して天皇陵を発掘すれば
終りだろ。なのにああでもないこうでもない。これが科学的態度と言えるのか。天皇家の遠い先祖の
墓には違いないが国民的な合意を経て例えば500年以内の先祖の墓発掘はダメとか制限を設ける
べきだろう。発掘すれば解ることを推定などと、歴史学者の怠慢には呆れるばかりだ。 > 発掘してもわからないことはわからない
そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。 >発掘すれば解ることを推定などと、
>そういうことは発掘してから言うべきだな。物理的に出来ることもせずに言うべきことではない。
言ってることが変わってるよw
遺跡保護の現状について勉強してね まあ現実的にはすぐに発掘は難しい。しかし歴史学者の努力の何百分の一かはこういう政治的なこと
にも向けられるべきだと思う。歴史探究に命を賭けている学徒もいるんだろ。遺跡保護はすべきだが
学究とは分けられるべき。そうでないと本当の学究の徒が可哀想ではないか。 本当の学究の徒ならば発掘調査が遺跡の破壊行為であることは重々承知している
よって自らのエゴで未来に伝えるべき遺産を破壊しようとは考えない 歴史学者が政治的な動きに首を突っ込んだ結果が、1960年代の真っ赤っ赤な業績の山だな。 どちらにせよ朝鮮人が偉かったのではない
九州の倭王が朝鮮半島の王たちの上に立ってすべてを支配するために戦ったのだ
韓人は7000年前に九州から渡ってきた縄文人の子孫であり韓国は本来、日本の分国とでもいうべき存在だった
そもそも「日本」とは、ヤマトタケルを日本武と書くように、元来は大和のこと
任那日本府とはそれまで九州の倭人が支配していた半島南部を大和から支配しようという魂胆で置かれた軍営だと考えると全て辻褄が合う
大和と新羅にとって百済と筑紫は統一を阻む邪魔モノであり、対馬海峡での政治的分断は双方にとってメリットがあった
加えて唐朝にとっても北東辺で覇を唱える高句麗は目の上のタンコブであり、半島の蛮族どもを帰順させてしまいたい
列島と大陸とを行き来した海人たちは東亜三国各々の統一の思惑のために犠牲となったのだ しかも当時の朝鮮半島に住んでた民族と
いまの半島人とは民族的にもつながりはない
だから在日パヨクがホルホルする根拠がまったくない 朝鮮人の本当の先祖は日本人だからな
なんか朝鮮半島から日本人が来たとかあたりまえの様に吹聴されてるけど
12000年前から7000年前くらいまであそこは人間の住むところでなかったらしい
最初に半島で見つかった土器も縄文に類似したものだし、朝鮮語は普通に日本列島の縄文文化起源よ 無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持た
ない様式であることから命名された。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島
では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300
年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の
遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを
示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/img/img11.jpg >>297
韓国における諸説
2005年に韓国のイ・ホンギュソウル大医大教授は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」で「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」との説を唱えた[3]。
[3] ^ “バイカル少数民族 「アリラン」「スリラン」の単語を使用” (韓国語版). 聯合ニュース (2005年8月14日). 2015年9月22日閲覧。
2chソース(核爆) 「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
今回、研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型を示す100万塩基サイトを
一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を
含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html 珍=額田大中彦皇子
済=住吉仲皇子
史学界でこの西條勉氏の説を支持している人いるの?
字訓による比定だとしても、名前に冠せられた地名部分
からの比定になると意味を成さないと思うのだが。 日本書紀がなんで120年ズラしたのかと疑問だった。
神功皇后(没年269年)を卑弥呼(没年247年)にするなら、
もっと没年を近い年代に出来ただろう。
120年を140年にすりゃ良いんだから。
(実在しなかったろうけど、仮にいたとしても、
神功皇后の時代に干支なんてまだ無かったろうし。
ありもしなかった干支に固執する理由がわからない)
日本書紀の編集者は、雄略から神功皇后までの
他の天皇の在位年は平気で動かしてるわけだ?
ましてや、そこら個々の天皇の事跡や在位なんてのも
はなから怪しい訳だ。
そこらの時代付近で、いじれそうな候補は他にいっぱいあったはず。
卑弥呼の没年のがよっぽど信ぴょう性高い以上、
むしろ卑弥呼の没年と神功皇后の没年をきっちり合わせて
その他付近の天皇の年代を調整しそうなもの……
なぜ、一番肝心そうな所が中途半端な120年の歩み寄りなのか?
逆になぜ、その間の天皇の在位をいじれちゃうのか?
と、つらつら考えてたんだけど。ようは、もっと単純な話だった。
考えるに、編集の第一段階で干支を決めていって。
(細かく時代設定を決めていくのが日本書紀の課題でもある)
いったん最後までやった後、また見直し再考していったんだろう。
ただ、どっかで数字を手直ししたいと思っても
全部、書き直すとしたら大変な労力になる。 だから、変えるとしたら60年ごとに書き換えていく。
干支は60年一周し、元に戻るから。その60の法則さえ守っておけば、
他の場所は書き換えなくて済む。
(それで、全体が1200年だったのが2400年になろうと、どうでも言い話。
少なくとも、最低限のつじつまは合う)
再編集段階で140年繰り上げたいと思ったからこそ、
労力的に妥協して120年にしといた訳だ。
逆に言えば、日本書紀の時代考証なんて
その程度の信ぴょう性なんだろうね。
正確さより、労力的な妥協がある。
(もちろん、古事記だって似たようなもんだろう)
「なんらかの方法で正確な数値を記録してたはずだ」
なんて期待はしちゃいけない。
おそらく干支が入って来たのも
雄略時代の西暦450年ぐらいあたりだろう。
(当時からして、逆算して推定できる過去年数も、
そっから大して離れてなかったろう。おそらくは
応神の王がいたとかまでしか、わかってなかったんじゃないかな)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.B9.B2.E6.94.AF.E7.B4.80.E5.B9.B4.E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC ある記念に、その事がらみの日記をつけてみようと決めた。
関連のある過去に向かって何があったかを順々に思い出していき、
記録していったら、ちょうど1年分になった。
ところが、ふと先週の水曜日にあった事を書き忘れていた事に気付いた。
個々のイベントは時系列に順序があるので、
その日の事を書き忘れていたと言う事はすべて一日分ずれるはず。
まあ仕方ないと思って全部、日付けを書き直していった。
手書きだったので、一年分の日付けを書き直すのは本当に骨が折れた。
ところが、どうやら先月の月末にあった事も書き忘れてた事に気付いた。
やっと11か月分の日付けを書き直した所で、また先々月に抜けた日を見つけた。
10か月分の書き直しを……。 数年後、また「記念の順々思い出し日記」をつける事にした。
けど、今度はもっと手抜きをしようと思う。
今度は「曜日日記」にし、正確な日付けを書き込まない事にした。
あくまで「あのイベントは何曜日だった」とだけ書き込んでいくんだ。
(「月曜だったイベントAの三日前のイベントBは
金曜だったな。その六日前のイベントCは〜」って感じでね)
イベントはほとんど穴があく日がないので、
(一週間、まるごとなにも無かったって週は無い)
後ろから何週目にあたる何曜日かさえわかれば、後から逆算で日にちもわかる。
こうしてつけて行ったら、また一年分になった。
案のごとく、抜けてる日があった。でも今回は1日抜けてたら、
それを1週間抜けてたと取らえて、該当箇所に当てはめていこうと思うんだ。
例えば先月の月末の1日の木曜日が抜けてたら、
その木曜日を含む1週間をまるごと挿入しちゃう。
月火水〜(月火水)〜木〜(金土日)〜金土日
そうすると、どっか抜けた日があっても、
その前後の曜日を書き直す必要は無くなる。
たとえば、日記の一番過去になる日が金曜日だったなら、
途中でどれほど抜け日(一週間ごと)を挿入しても金曜日のままだ。
もちろん、抜けてる日が何個もあれば、
その抜け日の数ごとに、日記の長さが一週間ずつ増えてく。
記録としちゃ、ぜんぜん正確じゃない。
でも良いじゃないか、いちいち手直しするのはもうコリゴリさ。
日記を書き上げたって気持ちさえあれば十分なんだよ。
…干支を60年ごと加えるってのは、ちょうどこういう感じ。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 しかし雄略のポジションがどうもよくわからない。
史実まであんな、いかにも悪人とは思いにくいし。
よしんば、本当に悪人だったとしても
相応の権力持ってれば
当時的な人気は自然と生まれてるだろうし。
悪い事跡なんてのはカットされるもの。
熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳に
ワカタケルのある銘文が見つかってるんで
相当な範囲の知名度と権力があったはず。
(武についての記述をみても)
本当に都合の悪い人間なら名前ごとカットされそうだし。
カットされない程度の知名度ではあったんだろうな。
にもかかわらず、なぜそこまで悪人に描かれてるのか?
ましてや、記紀が書かれたのは200年もたった後なんだし。
今更、あんな扱いされる理由はなんなのか? 継体から新王朝だからじゃないの?
旧王朝の事は悪く描くのが普通でしょう 仮に継体が本当に応神の血を引いていたとしても
武烈とは血筋がかなり遠いわけだし当時の感覚では王朝交代だったのかもな
出自詐称であればなおさら 継体から新王朝だったとしたら
雄略は倒すべきだと思うんだよね。
(それが武烈の場合でも)
悪しき帝王なら、倒して新王朝たてる大義名分になる。
(真偽はどうあれ継体も応神の子孫って設定なんだし)
それを隠す理由もない。
どっちみち雄略も武烈も直系の子孫は絶えるんだし。
>雄略・武烈(悪人で男系の子孫絶える)
>継体(応神の子孫)
と、簒奪のシナリオ的おぜん立ては整ってるのに
肝心の簒奪が出てこないんだよねぇ。
で、雄略(23年)と武烈(8年)の間に
白髪の天皇(5年)と隠れてた兄弟(3年と11年)の天皇と言う
いかにも創作っぽい三代が続くのも不可解。
やはり、雄略と武烈が同一人物なんだろうか?
(そうすると実際は50年くらいの在位だったのか) 記紀がごまかしてるだけで武烈から簒奪したんだと思うよ
それに納得がいかなかったのが磐井って事じゃあないのか? BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 ずーっと時代が下がって
中華の史書では九州の最大勢力南朝方懐良親王が日本国王と認定されてるくらいだから
案外単なる一勢力でも冊封されてしまえばそう記述されるんちゃうか 継体は簒奪したというよりは、共立された感じだね。
先帝との関係は記紀が嘘を書いていなくても10親等くらいあるんだよね。
もはや、天皇は機関であり、中身は誰でも良かったんだよ。
当時の朝廷は傀儡政権だったということ。 焦らしに焦らして、もう一度推戴した豪族に頭を下げさせる どこの馬の骨とも知れないのを連れて来たから、反対論も多かったんじゃない?
もしかすると磐井らの方がまだ血縁が、近かったのかもしれない。 磐井の墓とされる岩戸山古墳と継体の墓とされる今城塚古墳は相似形だから両者は元来仲間。
どこの馬の骨とも知れぬ奴が当時埴輪技術の革新と拡散を見せていた尾張氏の娘を娶れるわけがない。 尾張氏との婚姻関係は「天下取る前」と考えられます。 継体は当時、ぜんぜん人気なかったんじゃないかなぁって思う
>男大迹王
>迹
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/123356/meaning/m0u/
>〈セキ〉足あと。あと。「行迹・事迹」
>[補説]「跡」と通用。
大いなる跡継ぎとか、ふざけた名前つけてる時点で
(たぶん即位後に名乗ったんだろうけど)
雄略の人気にあやかろうとしてたんじゃないかと思う。
古事記とかみるに雄略はゼウスばりに女好きの逸話がある。
実際、本人が女好きだった可能性もあるけど。
こういうのはむしろ他の理由からじゃないかと思う。
ようは地方豪族が「実はうちの王子は雄略の落とし種」とか、
「実は三代前の先祖が雄略だった」とか言ったのが発生源じゃないかと。
(こういうのは言ったもん勝ち。特に当人が亡くなった後は)
人気がある人物だったからこそ、そういう女好きの逸話が作られてしまい。
そういう噂が多いと「あいつなら、どれほど落とし種がいっぱい
いても不思議ない」と、さらなる信憑性をうむ。
で、そういう自称・雄略の子孫たちが反旗を翻してくると
厄介だったんで、いっそ記紀じゃ悪人にしてしまったのかも。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 さして根拠があるわけではないが、継体が完全な簒奪者なら正統性がないから、継体系統が権威化するまでに数世代は必要と思う。
それなら蘇我氏が簒奪してもおかしくない。特に馬子が殺した崇峻は継体の孫に過ぎず、母は蘇我氏だから前王朝の血は祖母からしか引いていない。
逆に言うと、すでに皇統は蘇我氏の力を以ってしても簒奪できないほど権威化し、継体も多少は簒奪的なことをしたかもしれないが
皇統の血は引いていたと考えた方が、流れとしてはスムーズと思う。 雄略後の大和は後漢末の漢室状態で、継体は劉姓の王の一人の立ち位置じゃないか 雄略は本人はけっこうやり手で権力握って独裁体制築いたが
直系がすぐ滅んだあたり秦の政と似てるんだよなあ >>333
330だけど、そんなイメージ。劉邦から後漢末まで四百年経ってるから、継体はかなりましだと思うけど。 >>326
継体という諡号と奇しくも同じ意味になるね 継体の擁立はむしろ傀儡というか、卑弥呼の共立を思い浮かべるね。
簒奪とは程遠いな。
彼は声がかからなければ、一生を越の王様で過ごしたはず。 馬韓しか無かった朝鮮半島へ移民が流れて来たんだから馬韓以外に辰韓だけでよかったはずなのに
朝鮮半島南部は古くから九州倭国の豪族が進出してたから統一国家としては百済と新羅しか出来ずに
朝鮮半島南部は九州と同様に小国に分かれてて当然だったと思う
倭の五王は伽耶の五王を指して元々九州にいた豪族が朝鮮南部に勢力を伸ばした豪族のことじゃないかと
韓国の歴史では伽耶の王が日本の歴史だと九州出身の豪族となって人物像がリンクしてると思う BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 実態としてはその通りなのだろうが、その九州の豪族とやらが実は天孫族であり、三種の神器を受け継いでいるので、豪族という呼び名は相応しくないかもね。 おそらく
讃→仁徳天皇
珍→反正天皇
済→允恭天皇
興→安康天皇
武→雄略天皇
だろう。
履中天皇は即位後の元嘉7年に朝貢したが
このときは宋の記録漏れか逸失で王名が残らず
その後の「弟珍立」は「前王(履中天皇)の弟」
の紹介の記録であって「讃(仁徳天皇)の弟」
の意味ではなかったんだろうよ。 誉田別/品陀真若王(応神天皇)
大雀命(仁徳天皇)
----皇后・磐之媛(葛城)の子----
去釆穂別(履中天皇)
住吉仲皇子
瑞歯別(反正天皇)
雄朝津間椎子宿禰(允恭天皇)
----忍坂大中姫の子----
木梨軽皇子
穴穂皇子(安康天皇)
大長谷若建命(雄略天皇) >>344
そんな辻褄合わせがありなら何でもありになるな。 まあでもどっちかor両方の記述に誤認がある可能性は高いし現状は何でもアリなんだよな
・河内に古墳があるからこの葛城系王統に海洋進出傾向を感じる
・讃と誉は意味が似てるから誉田っぽい
・(若)タケルだから武っぽい
今んとここのくらいのものすごい脆弱な同定方法しか 今ある通説はどれも辻褄合わせなんやで
じゃあ何が出れば決定的な確証とできるんだろうか
纏向遺跡がでても邪馬台国九州説を喧伝する人がいる現状では
征東将軍印でも出ない限り無理かも 検証するには材料が足りなさすぎんよ
考古学的論証をするには馬韓、辰韓、弁韓、慕韓、秦韓の発掘と連動しないといけなくなりそうだからなかなか至難 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>1
根本的な問題として、日本書紀が何で万世一系を演出する必要があるん?
隣の中国では王朝なんてコロコロ変わってるんだし、本当に万世一系じゃないなら
その通りに書けばいいだけじゃん。 隣の中国の、易姓革命で王朝がコロコロ変わる様子を見て、「これじゃいかん。うちの王朝が永遠に続くようにしよう」と企んだ、とするのが説得力のある見解。
「天孫」「万世一系」「天皇家からの姓の排除」がワンセットで記紀に組み込んであるのがその仕掛けと考えられる。 日本書紀が万世一系を主張するものだという価値観そのものが昭和の遺物だ。
記紀をよめば、筑紫倭国の王統を継ぐことが正統性の証だった。
畿内大和が正式に倭国の筑紫倭国の権威を継承するためには、史書で筑紫倭国との関係を示す必要があった。 >>354
その通り書いてもいいけど(≒改ざんしないという書の信憑性を重んじる思想)
血統が続いてることに尊厳を感じる社会があって
神話から続いてるをテーマにしようと考えた人がいたんちゃう? >>350
みつるとかすくうとか和音に当てるのはちょっと理がないと思った
あと宿禰はのちに姓ともなる一種の称号的なものでそこも苦しいかなと竹内宿禰とかもいるし
ところでそれを読んでて通説に対して疑問に思ったのは
ワケ、ミコト、ミコ、スクネ、ミコトと称号的な物が遷移するのはなんなんだろうと
その違いに対しての論考がなされてないんじゃないかと思った 日本書紀や古事記で雄略天皇だけ五胡十六国のキチガイ君主みたいな扱いになってるのが不穏 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 詳しくは知らないけど和風諡号そのものをもっと丁寧に分析した方がいいんじゃないかなあ
和風諡号は本名っぽいの、地名、称号っぽいの、修飾っぽいの、あたりの組み合わせでできている
雄略なら大は修飾、初瀬は地名、幼武が本名といった具合。安康、継体は本名っぽいのだけ
(ただし皇族の本名は乳母氏族の名字をつけることが多いので区別しにくい)
ワケ、スクネは本名の一部で末尾につける称号っぽいのと考えたらいいのかな
スクネは>>359も言ってるけど、稲荷山鉄剣に出てくるぐらいだし個人特定の力は弱い
允恭の場合は本名にあたる部分がわかりにくいが、対中用の名をつくる時にスクネを基にはしないと思う
定説は済=允恭だが名前の説明はうまくできてないみたいだな。確かに難しい 称号的な物の統一感のなさは並列の別伝(本なのか口伝なのか歌なのか)を組み合わせなんだろなと思うわ
A伝にはワケの歴史
B伝はミコトの歴史
C伝はスクネの歴史
D伝はヒコ/ヒノミコの歴史
E伝はイラツコ/イラツメの歴史
F伝は皇子という比較的新しく成立した歴史みたいな感じで
日本書記の書き癖の研究みたいな感じでそのへんを解明できたらもう少し前進するんかな そういや、記紀の「高等批評」って聞いたことないな。 >>365
う〜ん、まあ、同意できないなら
それはそれでいいんじゃないかと。
こういうのはひとそれぞれだし。
自分的には自説で問題ないと思ってるんで。 倭王讃は応神天皇じゃないか?
自分はヤマト絶対でも九州王朝でもなく、中間に真実があると考える。
つまりヤマト側ではナントカ将軍とか倭国王はどうでも良くて、外国から珍しい宝が入ってくればそれでよく、そのための手段は九州に任せていたのではないか。
讃、済、武などはおそらく九州側でヤマトの大王を漢訳してつけた名前で、日本書紀に記録が無いのは当然である。
ただ430年の使者は例外的にヤマトが直接派遣したもので、そのため応神紀(310年)と仁徳紀(370年)に記録が残ったのだろう。宋書でも倭国王の名前は書いていない。
安康・雄略の時代も直接派遣と間接派遣が混じっていると思われる。 「讃」は「ホム(誉める)」の漢訳ではないかと古くから言われているが、「珍」は大阪の「珍県(チヌノアガタ)」「チヌの海=大阪湾」から来ているのではないか。難波に都した仁徳天皇にふさわしい。
「済」は「スクネ」(スク=助ける、救う)の漢訳と思われる。「興」は調査中。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています