倭の五王の正体についてじっくり検証するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分の考えとしては倭の五王のうち讃=『褒』田別と武=大泊瀬幼『武』以外は当てはまる天皇はいないと思う
この説を説明するために前提として
天皇の在位年は古事記における干支が正しいのだとしておく
問題の時代における天皇(大王)は恒久的なものではなく、複数並立したり空位時代があるものであるとする
万世一系の演出のため、空位時代を埋める目的で追尊されたり、
はたまた大王としての実力があるにも関わらず認定されない権力者が多くあったことだろう
そのため即位年数を厳密に記述して空位時代がないようにしてある日本書紀の紀年は後の創作だと断定できる
三国史記との一致から推定した応神天皇ことホムダワケの没年は394年。だが倭王讃の記述は413年〜425年
これは矛盾している様だが、実はカラクリがある
(続く) >>89
>そもそも応神が九州を根拠にしながら大和に出て行った理由が
>よくわからない。
むしろ逆に軍事力で敵わないからこそ、交易ルートを押さえていてもご機嫌取りが必要だったんじゃないかね
だから港湾や治水の公共事業を大々的に行って収入を民へ還元した(巨大な陵墓は掘削された土を盛って作られた)
もし関門海峡を封鎖できるのをいいことに好き勝手やれば瀬戸内の大和・吉備・日向が連合して筑紫は討伐されてしまう
それに朝鮮半島での戦いのためには列島の人的資源が不可欠だ
両端の目的地と途中の経由地とが同一の政権の傘下となれば、
治安も維持され、ヒト・カネ・モノも円滑に行き来する
応神朝の成立にはどうも海人の宗像氏が深く関わっているみたいに見える
大陸と大和とを結ぶ航路の守護者として祀り上げられたのだろう
そもそも九州王朝説などというバカ話をでっち上げなくても父親の仲哀天皇の宮殿は福岡と下関にあったと伝えられている
朝鮮半島で民間軍事会社も営んでいた関門地方の凄腕ビジネスマンが海運業者にヘッドハンティングされて大和でゼネコンをやり始めた
今風に言えばこんな感じ ヒト・カネ・モノって言葉おじさんはほんと好きやな
第一次産業主体の地産地消社会で人や物の交流はほとんどないし当時の日本に貨幣経済はそんざいしないだろ ヒト(兵士と労働者)
カネ(金属)
モノ(食料)
地産地消社会から初めて盛んな人や物の交流に脱皮させたからこそ
あのでっかい陵ができたんだぜ
ああそうそう、治水工事の労働者は新羅からも来てたそうだよ
堀江と茨田堤を築造する件で「是歲、新羅人朝貢、則勞於是役」だとさ
朝鮮人強制徴用の一番最初の例だから韓国は仁徳天皇に謝罪と賠償を請求しなきゃ モノ(食料)って当時の日本は村落間で食料を輸出や輸入してたりしてたのか?
鉄製農具も普及するのは平安時代になってからで金属の需要はほとんどない
大王ですら目と鼻の先に精々デカい土盛りやちっさい堤防を作る程度で街道や水運が整備されたり形跡もない
だから戸籍も必要なかったわけだ つまり大王すらローカル権威にすぎず大和朝廷は首長の寄り合いにしか過ぎない
だから文字も戸籍も官僚制度も普及しなかった
大体その例えっておかしくないか?
オッサンの大好きな経営学のヒト・モノ・カネとは大きくニュアンスがずれてるんじゃないの >>93
古事記に「大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白したまへ」とある
食国とは朝廷に食料を提供する各地方のこと
運送手段は海運があればそれで充分
この頃は陸上交通の不便な場所は支配下に入っていない >>94
外交文書は大和で独自に書かれずに九州で全てを監督する倭王讃が作った
と言ったら?
(オッサンってなんやねん(´・ω・`)ショボーン) 結局は実在天皇を崇人天皇からにするか応神天皇からにするかで全てが変わる >>99
記紀の作られた目的の一つとして、朝廷の傘下の各氏族の出自について天皇家と関わりを示し、朝廷の支配の正当性をアピールすることがある
仲哀天皇までの天皇も氏族の伝承として伝えてきた祖先の名前としては実在したとみていい
ただもちろん名前だけ合ってる天皇の事績は必ずしも事実だったり時系列が合っていたりする訳ではない
けれどもある程度の史実の反映もあったりもする
例えば四道将軍のうち、北陸へ遣わされた大彦命は日本書紀では引き返していて、
丹波道主命は山陰道がその先の出雲まであるにもかかわらず丹波止まり
この征服されなかった領域は丁度四隅突出型墳丘墓の分布域と重なる(いわゆる出雲王権説な) まあ実際問題、古墳時代に実際性が確認されてるのは獲加多支鹵大王(雄略天皇)だけなんだよね
稲荷山鉄剣古墳、関連するのは熊本阿蘇とさきたま古墳
伝わる伝承は妊婦の腹を斬り裂きました|( ̄3 ̄)| 出雲だの何だのって話は一切でてこねっす!
広島だの畿内だのってのも出てこないしそのあと飛んで
持統天皇の時代までのそれまでの天皇らの消息も実際不明 比定されるのが宋書に出てくる倭王武なんだろ
宋書、梁書に書かれてるが上奏文として周辺諸国を制圧し
広げました〜ってやつやな|( ̄3 ̄)| >>101
福岡や山口の遺跡を掘ったらもしかしたら応神天皇の実在の証拠が出てくるかもしれんで?
あの当時日本で文字(漢語)を書く必要があるのは国内の中心地である畿内ではなく、海外交易をする九州でなのだからねえ 半島に近く、呉が目とh名の先まで来寇していた九州ならともかく、
畿内が三国情勢に関係があるとは到底思えないよね。地理的に。
いくらなんでも、魏や呉が水軍を組織して瀬戸内の最奥部、浪速大和
まで侵攻するとは思えない。
それまでも長く親交のあった九州だからどちらからも引っ張られた
わけで。なんで奈良が半島情勢にコミットせねばならないのか、白村
江の頃まで不明だよね。 そそっ♪
全ては海人との腐れ縁、いわば海運業者の利権から始まってる訳よ 海女=海士・海人=天 なのかな、やっぱり。
韓国の済州島にいる海女さんは、今じゃ減少した日本各地の海女さんを
補って出稼ぎしてきているそうな。
済州島は歴史的に、時の半島国家と関係なく自由に日本各地と交流して
きたってんで、李氏朝鮮からは差別され慰安婦扱いだったそうだ。
半島南部=任那一帯が天族の領地だったんだよ。
そして、大和=奈良はその出土品に海の民だった証拠は皆無。
やっぱどう考えても九州だわ。巻向馬鹿、何とか言って見ろよな。 「倭の五王」の記述のあった「宋書」によると、百済は遼西にあったらしい。
そして倭人は百済の構成民であった。
そうすると倭王がいた場所は朝鮮半島で対馬海峡を超える事はないね。
だいたい、記紀に高句麗との戦争の話なんてどこにも書いてないじゃないか。 >>108
奈良県に海なんざねえだろバカ
大和湖で海賊やれてたまるかwwwwwww
宗像氏だか津守氏だかがなんか強い人を担ぎ上げて「筑紫で戦死した王の息子さんなんやで〜」ってことにして大和を乗っ取った!
これでいいのだ
>>109
あのウリナラマンセーファンタジートンデモマップは元ネタがあったのか
でも残念
南朝に入貢した倭王は百済の軍事権を求めてがそれは認めてもらえていない
アホくさい三段論法はやめよう!
高句麗との戦争に関しては
「於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。」
という神功皇后の三韓征伐の記事で敵は素直に降参したことになってる
なんという大本営発表!
実際の戦闘行為は事実上独立した筑紫の勢力が勝手にドンパチやっているから当然大和へは伝わらないんだけども、
応神天皇28年に「高麗王、教日本國也。」という挑発の手紙がよこされてぶち切れぷんぷん丸になったことからそれとなく察してほしい 昔は今にも増して文字文化を独占的に有する国家が史実を"作って"いただろうから宋書は丸々鵜呑みにはできないな
ただそれよりももっと信用ならないのは倭人の記紀
口承と大陸の歴史書を組み合わせてるから間違いの数は歴史書を上回る 倭人伝の通り顔に朱を塗った遺骨は、南九州からバンバン出てる。
畿内ではどうですか?
南九州の風土と歴史、伝承を中心に書きつづっていこうと思います。 季節ごとの風景や
祭りを画像でお届けしますのでどうぞお楽しみに。
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-557a.html
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/05/31/cimg8916.jpg
人骨の主は「男性・40歳代・身長155センチ」とのこと。頭蓋骨だけ真っ赤だが、
これは皮膚に塗っていた朱が白骨化したあと、顔だけは皮膚が薄いため骨に付着した
のであろうとのことである。 隋書倭国伝読むとこの時代になってもまだ鯨面文身してるよな
推古天皇も厩戸王も全身入れ墨だらけだったと思うと感慨深い 大和朝廷の時代、イレズミして負のは罪人や蝦夷だより。
唯一の例外が、大来目。大人になってからいれてるけど、倭人だったのかもな。
天孫族にはイレズミの習慣はなかったからな。 唐会要の蝦夷伝にそんな記述ないが
入れ墨してたのは倭人だけだろ あと魏志倭人伝には身分の上下を問わず入れ墨をするという記述があるから
一部の層だけしなかったとは考えられない 宋書には男も女も入墨をしてたとあるね。
九州の倭人は、女より男の方が入墨をするけど、女がしていなかったわけではなさそうだ。 >>119
捏造乙
宋書倭国伝にはそんなこと書かれてない 記紀に何も書いてないから天皇家とは何の関係も無い人達だったんだろうよ。 倭人、倭国は、別民族だよ。
大和民族が、刺青して顔に朱の化粧してるわけないだろ。 奈良桜井市の茅原大墓古墳からも顔面にベンガラの模様がある埴輪が出土してるぞ 関東の八幡塚古墳で見つかった人型埴輪もすべて顔に朱色が塗られてる 蝦夷が塗ってからな。
塗られた埴輪は、大和朝廷では下級の人たち。 いずれにしても天皇家とは関係ないな。
九州の酋長か、そうでなきゃ朝鮮半島の王だろう。 血統論なのよw
羊血統に倭呼称は使わんし民俗描写も在り得んのよ 評から郡に変わって大和朝廷が日本の政権を握ったんだな。 >>112
畿内は人がいっぱい住んでるから掘れないよ
九州みたいにどこでも掘れるド田舎じゃないからな >>128
古事記に大久米命の入れ墨を見て伊須気余理比売が驚いた記述があるが
大久米命は下級役人か
>>129
後漢書によると弁辰は倭と近いため文身をしたものが頗る多いとある
つまり半島でも入れ墨をしているのは倭人系だけだったわけだ >>133
大来目は倭人なんだろ。
渡来人に習って、入墨をしていなかったが、そこで先祖の習慣を出した。 >>133
弁辰は狗邪韓国だからね。そこに、北方民族がはいり倭人を支配した。
そこは、秦の強制労働から逃げ出した北方民族も集まった。
狗邪韓国の流れをくむ倭人に倭国のことを聞いていたので、新羅に押されると孫を倭国に逃した。
これが天孫降臨だ。 新羅が洛東江まで進出してくるのは法興王の治世にはいってから
狗邪韓国の後進国である金官国が滅んだのは562年なので天孫降臨とは時代が合わない >>136
滅びたら孫を送り込めないだろ。
滅びる前だよ。 新羅が伽耶まで進出してきたのって欽明天皇の頃だぞ
その頃に半島から亡命があったらもっと明確な記録が残ってるわ 日本という国名は任那日本府から受け継いだものなんだよね? なぜ、滅びた朝鮮半島の小さな国である日本を国名にしたのかだよな。
大和朝廷、天皇の出自が日本だったからとしか考えられない。 目支国の場所は馬韓の中で南で、三韓全体で見ても西側になるんだが? 任那日本府の当時の名称は任那倭宰
日本府の名称は書紀編纂者の潤色表現 >>144
それは違うわ。
>現在最古の『日本書紀』の注釈書である『釈日本記』は、任那日本府を任那之倭宰と注釈している。
>つまり、日本府とは、倭宰(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だった
>のである。
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1415463884
任那日本県、任那日本府は、当時の名前。
「任那之倭宰」は、後世に、それは倭国の治めるところだったのだろうという解釈が生まれただけ。
なぜ、任那の地名を日本が国名に使ったのかが想像つかなかったからだよ。
任那の日本の勢力が、徐々に本拠地を移し、この日本列島を征服したと考えれば、何も不思議はない。
旧唐書に書いてある。
日本は倭国の別種。小さい日本が大きな倭国を併せた。
この日本が、任那。 日本って倭の別種だよな。
倭は朝鮮半島で、日本は日本列島って事だよな。 日本が狗邪韓国で、そこが任那日本府だったら、狗邪韓国に滅ぼされたってことかも。 ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 任那が「倭」の残党で、日本列島はその「倭」の別種だと言う事なのかも。
古代史の謎が解けてきたぞ。
即ち、倭の五王は朝鮮半島の王という事だ。
そうすれば、倭が高句麗と戦争していた事も、記紀に記述がない事も、全ての文献資料や考古学資料と調和する。 >>145
釈日本記自体は鎌倉期の編纂だが歴代の日本紀講筵の史料を基にしていることから信憑性は高い
>旧唐書に書いてある。
>日本は倭国の別種。小さい日本が大きな倭国を併せた。
なぜ都合の悪い部分を省いている。
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。
日本国は倭国の別種であるという。国が日の出のあたりにあるので日本と名乗っている。或る説によると倭国が自らの名を雅でないと憎み日本と改めたと。
また或る説によるとかつての小国であるが倭国の地と併合したという。
ちなみに狗邪韓国を滅ぼした新羅側の史料には日本府は全く出てこず新羅本紀の670年の条に倭国が国号を日本と自称するようになったとあるだけ >>151
>そうすれば、倭が高句麗と戦争していた事も、記紀に記述がない事も、全ての文献資料や考古学資料と調和する。
雄略二十三年(479)に高句麗を討ったという記述がある
筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。
この年は倭王武が宋に高句麗出兵を願い出た翌年にあたり日中の史料は著しく一致している >>145
それは違うわw 騎馬民族征服説のこじつけ、学界では誰も相手にしてない 骨相学とかいつの時代の人間なんだだか
アイヌに遺伝的に一番近いのはアンダマン人だが容姿だけでは近縁とは全く思えんだろ >>141 >>145 >>147
もし当時任那日本府という名称があったのだとしても、そもそも三韓・任那に日本国という国ががあった記録は無いし、記録に残らなかった日本国があったとして自らの首都を日本府とは呼ばない。
任那の一国が自らの首都を日本府と雅称することも、まぁ可能性は薄い。
候補としては
1.中原から見て東にあたる任那にある城邑の雅称。
の他に
2.任那のある国の領土のうち東部にある役所。
3.任那の西にある国が自国から見て日本=東である任那に設置した役所。
4.任那の東にある国が設置した役所に対する任那側の呼称。
狭い任那で2は無さそうだ。文字だけ追えば3が第一候補、4よりは1が有力。
けどやはりなにより有力なのは、そんな名前は後付けで当時はなかった説になってしまう。 任那あたりを日本と呼ぶのは中国から見て。
日本を日本と呼ぶのは朝鮮半島から見て。 >>158-159
日本にしろ天皇にしろ、天武以降だからそれ以前には後付けだよな 日本が日本と名乗るより早く、朝鮮半島に日本という地名があり、新羅に滅ぼされたこと。
日本は、それを知りながら、日本と名乗ることにしたこと。
日本の成り立ちに関係するこの事実は見逃せないな。 「日本」は、もともと、百済地方の呼び名だった。
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。
今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。
7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。
墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。
文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。
墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。
「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html >>132 都会のほうがバンバン土をほじくり返すから遺跡はたくさん出てくるんだけどな。
地方ではほじくり返す意味も無いしむやみやたらやる予算すら無い。 東北はあると見越して予算かけて大成功した好例だね
建造物の基礎工事では発見できるけどアスファルト流し込んで道路整備を完了してる都市は厳しいかな >>164
強制的に民家どかせてほじくり返す気かよ
おまけに>>165だからほとんど掘り返せてないんだよ >>163
「自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使った」
と明記してあるのだから、ここでいう「日本」はあくまでも隠喩的名称
百済の地名ではない これ「本」の字だけあとから下半分(十)を付け足したの?ってくらいおかしいんだけど
そこはツッコミ禁止? 三国史記の地誌にのってる百済時代の旧地名に日本なんて出てこんがな わかってないやつがいるなぁ
禰軍墓誌の段階では日本ってのはどこでもないよ、
東の方を漠然とさしてた名詞がいくつもあってその一つにすぎない
墓誌では倭国や百済という現実の国名を避けて
架空の国々の名、日本とか扶桑とかを使ったにすぎない
山海経的な伝説の世界では
日本は太陽が昇るその場じゃなくてあくまでその近く
扶桑はまさしく太陽が昇るそのところ
だから扶桑の方がより東のはてで、日本はそれよりちょい手前になる
禰軍墓誌が東のはてにあたる倭国を「扶桑」と書いて
その手前(ちょい西寄り)の百済を「日本」と書いてるのは
伝説上の地名に乗っ取った当てはめなんだよ
従ってこの時点ではまだ倭国は日本に改名していないのが逆にわかる
倭国が日本に改名していたら日本って言葉を百済をさす意味には使わなかったろう あちらは起源説が大好きだからなぁ
そもそも朝鮮の三国時代人だとか所謂弥生系だとかの民族って現代朝鮮民族と一切関係ないからな
あれもこれも何でも自分たちの民族が起こしたことだとして大量にドラマを作り世界中にタダ同然で配ってるからたちが悪い
500年の年月をかけて900万人が4500万人になった日本、それに比べ500年かけても600万人が1200万人にしかならなかった李氏朝鮮
明らかに李氏朝鮮では半島内の漢民族と北方民族のみでの同族化が進んだ
よって民族に多様性があった三国時代とその後の李氏朝鮮以降の現代韓国人は全くの別物 邪馬台国時代からヤマトを名乗ってきた倭が日出ずる国として日の本の大和と自称したのが日本の始まり 困ったら巨大コピペ貼るのはパヨチントンスリアンの性癖やね 朝鮮には歴史がある、朝鮮人が日本を支配していた、とか暗に言いたいんだろうが弥生人と朝鮮人って全く関係ないだろ
弥生人が朝鮮起源ならアジア圏は広範囲にわたり朝鮮起源になってしまうし古代の遺骨はサンプル少な過ぎて論外だろう
李氏朝鮮以前の雑多な民族が李氏後に特定の種族繁殖のみでじっくり均一化したのでいわゆる現代の朝鮮人は日本に対して功績ゼロです そもそも古代朝鮮族と現代朝鮮族に民族的繋がりはなくて
北方アジアのエベンキ族が移住してきたものだしな
文化的にも中国の影響は大きかったが国風文化育ってきた後は
ほぼ独自文化であって朝鮮半島経由の文化伝播なんかない 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg もし遺伝子的に同じなら
なんであんなにみすぼらしい国のままなのかっていう疑問が湧いてくるな
水車は作れるようになったのか? お前バカだね
技術力が遺伝子で決まるなら四大文明の子孫以外は今でも原始人だろうよ たった一冊の原理しか書いてない書籍から反射炉を築いた日本人
実物を見ても水車が数百年間作れなかったトンスリア 日本人はみんな顔に多様性があるが韓国人はみんな同じ
そこから見てもまぁ全然違う遺伝だわな わかったぞ
允恭天皇が新羅と親しかった理由
やっぱりあの時代筑紫と大和は別々の政権だったんだ
筑紫が親しいのは百済
なぜなら中国大陸へ行くための寄港地だから
筑紫と大和はお互いに攻め取りあう関係で
一方が強大になるともう一方を併呑する
その統一は恒久的に続くものではなく、1代で終わりがちなものだ
なんといっても当時は街道が整備されていなくて遠隔地の支配が難しいし、
筑紫には任那と百済という後背地があるのに対し、大和の後背地である東国は未開拓
大和朝廷は西にばかり兵を置くこともできなかっただろう
応神朝の崩壊後のgdgdから小康状態で近畿地方の支配を取り戻した允恭期の大和朝廷と筑紫の倭王の政権とは敵国同士
百済と新羅も敵国同士なので敵の敵は味方
よって允恭期の大和は新羅の味方
倭王珍に関しては本当に反正天皇かもしれないが、崩御年であるはずの437年の翌年に朝貢しているので
死んだのではなく大和を追い出されて筑紫に移ったとみれば納得できる
というか「反正」という諡が既にもうヘイト丸出し!
明らかに大和人から嫌われてるって分かる 朝鮮人を叩く正義の味方のふりをして日本のルーツを中国に改竄する
情報操作手法のサギサギ湾豚サギ湾豚が湧いているみたいだな。 愚か者め
日本のルーツは日本列島内で独自にある
世界中のどこの民族よりも
日本人は文化的に豊かだ
朝鮮などという不毛の地から教わることなど
「朝鮮人とかかわるとろくなことがない」という教訓くらいだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています