邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 >>472
北部九州に邪馬台国無いんだから問題無し >>473
もはや議論する内容すら持ち合わせない辺境の国が
精一杯の一言 丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。
だから阿波は真っ先に脱落。 >>479
採掘してないところを外国が有とか記すはずないだろw
いつまでこんなことに拘ってるんだよw
さっさと九州の採掘跡探して来いよwwwww 『出真珠青玉 其山有丹』
真珠青玉は出る
丹は山に有るだけ
考古学的に北部九州では中国朱が使われているのだから
その辺境でいくら採掘していようが
ド田舎の辺境である証明にしかならない >>481
ど田舎で結構だけど
徳島の古墳も中国朱使われてるぞ
問題は国産の辰砂は徳島以外その時代の遺跡が無いのよ >>481
九州が今の天皇制ではど田舎だと早く気付け
薩摩の呪縛からは逃れられないかw 「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 徳島にはユダヤ伝説もあるらしいし、
三好長慶などという基地外のような馬鹿もいる。
特殊な日本だったのかもしれない。 三好か・・・幼稚園(同じクラス)にいたよ、川崎区の話だけど、
あと島津もいたw かなり多いのかな?少ないのかな
人口的な話ね
ちなみに神奈川県の川崎だよ 『サイバーパンクspecial』
伝説のロトの勇者?
川崎区に住んでいるような話。
ドラクエのロトの事だと思う。 県西部の急傾斜地農法 「世界農業遺産」に認定 徳島新聞朝刊 平成30年 3月10日
傾斜地農耕システムは、斜度40度にも及ぶ急斜面の畑で作物を栽培する独自の農法で、美馬・三好・つるぎ・東みよしの各市町で雑穀や野菜を生産している。
日照量に応じて作物を選び、カヤを土壌流失の防止に役立ててきた。カヤ場と呼ばれる採草地を確保し、秋にはカヤ刈り、「コエグロ」を作る。
先人たちの知恵と技術、工夫が今の剣山系の傾斜地に詰まっている。
阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。
まさにそこは、古代高天原「空・ソラ」の地なのである。 @阿波 >>484
>この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波
最後の一行抜きの、事例報告(新聞発表?)だけなら面白かったのに、最後の一行の妄想で台無しww
ヤマトタケルの墓は、津堂城山古墳が一番妥当だと思うよ
まあ、景行天皇から応神天皇に繋ぐまでは、記紀の系譜もぐちゃぐちゃだから
なんとも言えないけど
景行天皇の三太子について、阿波の立場から何か言うことはあるかい? >>491
>ヤマトタケルの墓は、津堂城山古墳が一番妥当だと思うよ
理由は? @阿波 天武系は磐余系神武系だろうが、最終的に自滅したからね。
天武と天智天皇は全く別の血筋だろうし。
大津皇子が天武の子かどうかも怪しい。
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 江戸時代、盆踊りって各藩でやってたが
治安上の理由から徳川幕府が禁止したんだってね、阿波を除いて
で阿波踊り400年の歴史に繋がる
阿波だけを特別扱いした理由って何? 徳川家康が関ヶ原の戦いにて天下に名を上げるや
我が名を松平元康から徳川に改名し
阿波藩も急遽、徳島藩とするよう命じた。(「道は阿波より始まる」岩利大閑)
この「徳川」や「徳島」という名称由来は、
仏教史書である「佛祖統紀」の彦子神武が、竺紫(とくし)城にて即位という部分や
竺紫(とくし)の日向(徳島県) の橘(阿南市)の小門の阿波岐原を由来とする可能性が高い。 @阿波 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 畿内説を論破されてしまった既知害キナイコシが、必死に荒らしているね。。。 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 邪馬台国全解決を読んだ。でも徳島説優位の丹、青石、カササギ・牛馬なしなど
への言及が一切なく里程で解決しているのみ。魏の使いは10年で四回来たらしい。
これからは推測だが正使は伊都国までしか来ていないのではないか。阿波を守る
ためには中国の使いを本地までは連れてこないだろう。阿波王国は伊都国に一大率
を置き、使者には阿波の風俗を説明しただけじゃないだろうか。ただし壬申の乱迄
阿波が舞台というのはどうしても受け入れられない。天智天皇はやはり京都山科で
沓を残して死んでしまったのがぴったり来る。阿波→河内進出はもっと早く、奈良
で蘇我専制が始まったと考えたい。 >>504
>ただし壬申の乱迄 阿波が舞台というのはどうしても受け入れられない。
それを観音寺木簡や飛鳥寺院跡や蘇我氏神社古墳群が証明している。 @阿波 >>504
白鳳地震684年で阿波壊滅し
津波のこない畿内へ遷都した >>506
白鳳地震684年より、白村江の敗戦だろうね。 遷都を決断した切っ掛けは。
何故か、白村江の戦前後から、奈良方面への行幸が活発になっている。 @阿波 温暖で住みやすかったんだろうとは思うけど、今日の四国の姿が証明しているようにわざわざそこに住む人は少ないんじゃないかな?
現代ならまだしも、橋も大型の高速船もない時代に、覇権国家の拠点があったとは考えにくい >>510
当時は川の大きさ=都市の規模
インダスにしろエジプト文明にしろ河とセットで生まれた
理由は簡単
飲み水にしろ、農作物を育てるにしろ、近辺に川がないと話にならない
古代人が豊饒な吉野川をスルーするわけがない
ここが国家の拠点だと一発で悟ったはず >>510
>現代ならまだしも、橋も大型の高速船もない時代に、覇権国家の拠点があったとは考えにくい
古代史を探求するセンスに欠けるのかな?
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。 @阿波 徳島は明治初期は日本10大都市だった
江戸時代までは交通のメインは船だったので川の多い徳島は有利だった
(船だと重い物資を大量に一気に輸送できる)
明治時代になり船から車へモーダルシフトが起こり
平野の広い場所の方が有利になり、川だらけ徳島は衰退していった
徳島の歴史は川に振り回された歴史である 平成になってからは逆に川を活かした街づくり、
水都徳島で観光客を呼び込もうと努力してるがまだまだ道半ば 近代化で川が国土交通省管轄になったからね、
治水に重きを置きすぎて通商としての河川利用ができなくなったから 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>518
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
L5M まだまだ書きこみたいからゆっとくよ
ぼく思い込み激しいバカなのよ これからも注目してね @阿波 邪馬台国かどうかわからないけど、徳島は後のヤマト王権の礎を築き
大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。 老婆が言うには菅原?
そういう話もしていたんだけど、
老婆の実家の裏のほうに、そういう神社があって・・・とか お前の家の〜〜みたいな事を言っていたりw
家は『松傾』?のような名前の家なんだけど、読み方が何やらとか 発電、電気の話をしていたり、
実際に電気(普通の電気)を起こしていて、何やら様とか言われていたとか >>525
>大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。
だから、後にも先にも「忌部一族」以外の部族なんてどこにも存在しないでしょ。 @阿波 老婆の旧姓:渡辺
ほとんど合致している?日本昔話みたいな話 >>525
>大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。
北の「邪馬台国」「粟国」 も 南の「狗奴国」「長国」もみんな「忌部一族」だよ。 @阿波
本当に謎の川俣町という掲示板
奈良とか平安の頃の〜話をしている人がいたり 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>537
>阿波文字は忌部が作ったの?
それ以外はない。
ただし、 ここでいう忌部とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 「大宮八幡神社」は、徳島県佐那河内村に鎮座する神社である。
「大宮八幡神社」には神代文字である阿波文字が伝えられている。
この「大宮八幡神社」もいいが、もっと面白いのが徳島県佐那河内村「天岩戸別神社」。 こんなのばっかり。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/23490705/ 邪馬台国畿内教の教条
邪馬台国が畿内に確定すれば
天皇の大陸への臣従史観が証明され
日本が天皇を御旗にあげて再び大日本帝国になり
中国・韓国に侵略戦争を仕掛けるための士気を損なえる
ゆえに邪馬台国を畿内とさせなくてはならない
パヨクは頭おかしいでほんま ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 邪馬台国は徳島だっただの、神武天皇は徳島出身だっただの、徳島県民ってどうして歴史を捏造をするの?恥ずかしくないの?
徳島なんて江戸時代以前の史料がほぼ無いに等しい県なのに。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波
「阿波国風土記」
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?
役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」では済まされる話ではない。 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 そもそも「松浦ー唐津ー糸島ー福岡ー門司など北部九州沿岸」は「其山有丹」で即、アウト!
よって、最初から邪馬台国論争に参加する資格無し。 @阿波 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。 @阿波 >>543
なんの長所もない県なんだからファンタジーや妄想に頼らないと何もないんだよ。許してくれよ。 その大和には、長国(狗奴国)のような権力の元となる鉱物資源・海洋資源がないんだよ。
そんなところに有力勢力など勃興するわけないでしょ。 何を考えているんだかwww @阿波 魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。 @阿波
・帯方郡の東南の大海の中に在る
・男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。
・倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
・稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
・倭の土地は温暖である。
・中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
・その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
・真珠、青玉を産出する。
・山には「丹」を産出する。
・生姜、橘、山椒、茗荷が採れる
・東に海が在る
・その海を渡り、1000里行くと倭国(阿波)とは別の国が在る
・倭の地は周囲5000里
・銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えられた
・倭王は丹を献上した
・卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った 長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。
その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。 @阿波 全国、広しと言えども 「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけ。
当然、倭国ではない九州にも畿内にも有りません。 @阿波 魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の「画文帯神獣鏡」
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」
この「画文帯神獣鏡」か「斜縁二神二獣鏡」 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 纏向遺跡「朱塗りの盾」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
箸墓古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな? @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 「一貴山銚子塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。 @阿波
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 「倭人伝に基づく物証」は九州にも出雲にもない。
有るのは、唯一倭国(阿波)だけ。 @阿波 古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した倭国(阿波)の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した倭国(阿波)の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)
面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。
「奥津三神」 なぜ、阿波のみで祀る必要があろうか? 推して知るべし @阿波 「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
ホケノ山古墳の取り扱い、どうするの? @阿波 魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の「画文帯神獣鏡」
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」
この「画文帯神獣鏡」か「斜縁二神二獣鏡」 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>543
史料が無いから怪しいんだよ
歴史は勝者のもの
都合の悪い歴史はデリートされる >>567
>史料が無いから怪しいんだよ
本当に「阿波国」は怪しい所ですね。
各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。
「阿波国風土記」 @阿波
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?
役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>567
いくら怪しくても史料がなけりゃ妄想定期
当時の四国はただの流刑地だよ
それだけはちゃんと史料が残ってるよ
よかったな。四国の歴史が知れて。 興味で立ち寄った素人の徳島人だけど
邪馬台国徳島説は昔聞いた事ある
そんときは
なにいってんだおっさん( ´_ゝ`) プッ
と思ってたけど色々知ってきたらそれもありえるかなぁと思うようになった
安徳天皇徳島(うちの近く)逃亡説とか前科があったから信じてなかったけど
興味が湧いた
関係ないけど県外に出たら色んな古墳があるよね
古墳王国の奈良や大阪、以外と九州にも多い
徳島には巨大墳墓は少ないけど銅鐸とかある
小学校で習うほど常識だが県外人はほぼ知らん
調べてみたら島根兵庫滋賀徳島和歌山で多く出土してんだって
なんで大和国を避けるように回りで発達したんだろうなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています