邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 どこそこ、誰々は、偽の〜〜〜〜を祀っている
と
有名な話みたいだし テレビとか観ているの?
なぜ人(他人)の家の話を、自分の家の事かのように語っているんだ?とか
そういう話 >>797
>日本全国にこのご祭神を祀る神社は数多ありますが、
「八鉾神社」は大国主神を祀る、全国唯一の延喜式内社ですよ。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR まず、お前たちの言う天皇というのは何なんだ?
説明してみて
テレビに出てくる人? >>803
>まず、お前たちの言う天皇というのは何なんだ?
「忌部はん」 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 三木家の存在が証左だろうな
天皇は四国の山脈から降りてきた部族
かっこ悪いから天孫降臨と呼んだ 山の民と海の民との交流―水運
三木 信夫
道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。
阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。
辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。
弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。
この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,河川や海を通じて運び込まれています。
すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。
阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,
奈良時代初期の養老2年(718)設置され,平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。
「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。 平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,
古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 美馬は美しい馬
邪馬台国はよこしまな馬
に、匂うぞ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 銅鐸の使用方法と銅鐸衰退の理由を述べよ
周や三国時代に海外と直接交流したと言える物証は? 中国と直接交渉したのは帥升が初だろうな。
中国皇帝は謁見してくれなかったけど。
次が卑弥呼やろね。 おはようございます
四国って
伊都国か耶(韓国カヤ)の末裔じゃないかな
まえに韓国カヤ時代の城壁みて
どこかで見たなあと思ってたら
四国の古墳の石の積みかたと似ていた
韓国カヤ→伊都カヤ→四国かも
韓国と似た地名もある
ただし、私の妄想ですけど。 >>818
>韓国カヤ→伊都カヤ→四国かも
朝鮮半島まで鉄鍛冶素材を取りに行ってるから、運搬ルートはそうだろうね。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 忌部はいつ中臣に負けたの?
んで四国で立場を失って、黒潮に乗って関東を開拓したんだ? >>821
>忌部はいつ中臣に負けたの?
中臣氏も蘇我氏も元はすべて「忌部はん」 。 「忌部はん」 の内、忌部氏が中臣氏に負けたのは中臣鎌足の頃だろう。
>んで四国で立場を失って、黒潮に乗って関東を開拓したんだ?
関東や日本海を開拓したのは、古墳時代のお話。 @阿波 倭人伝にも「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」とある。
縄文時代晩期末より、主に倭国(阿波)の海人族の大人らが東は関東、西は九州、北は北陸まで全国を移動し、
子孫や一族らによる新地開拓や移住・婚姻によって、列島全域に勢力を伸ばした。
また同時に、石器、青銅器、鉄器、朱、農耕技術や軽量薄型土器、墳墓築造などの先進文化・技術を全国に広めていったのである。 まあ、いろいろあちこち読んでみると
「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国」は
やっぱ九州だったんだろうな。
でも当時出雲から近畿
四国にもなんらかの勢力はあった。
それを全部
「ウチが邪馬台国じゃあ」って言ってるのが
邪馬台国論争。
ど素人の俺の見解w。 >>824
>まあ、いろいろあちこち読んでみると
>「魏志倭人伝に書かれた邪馬台国」は
>やっぱ九州だったんだろうな。
「やっぱり九州」と思う理由、聞かせてPlease。 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. いやそれが正論だと思う
真実はどこなのか考えるのが楽しいな >>830
今でも十分だよ。 少し分けようか? @阿波 「徳島県阿南市水井町若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
(徳島県立博物館1997・岡山1998) 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 俺は徳島阿波の人間なんだけど
昔から居たよ邪馬台国阿波説のオッサン
小中学生の俺は何をトンデモ説を言ってんだこのオッサンと思ってたが
知識を蓄えた上でこのスレの阿波さんの話聞いたら
教団に入会したくなった >>835
>阿波は状況証拠ばかりで決め手が無い
もしかして、その「決めて」って、みなさん得意の「トンデモ妄想」のこと?
それにはとても太刀打ちできません。 @阿波 「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>843
>阿波が脚光浴びないのはやっぱり宮内庁のせい?
いや、それよりも徳島県歴史教育関係機関のせい。 @阿波 明治天皇が眉山に神武天皇像を作らせたってマジ?
なぜ? 「私は眉山(以の山)が古代天皇、古代皇族所縁の聖なる山であるからと考えています。」
天皇家はその真実を知っているから・・・
因みに宮崎は個人建立の営業用だとかw @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 阿波は存在ごと隠さないと皇族とユダヤの関係がバレてしまう 大嘗祭の三種の御前のソースって道は阿波より始まる だけ? 林 博章(はやし ひろあき)
平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,
地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。
その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。
船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。 新天皇の即位後、最初に行う皇室の重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。
阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。
大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。
どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。
「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。
信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。
「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. せっかく遊びに来てやったのに、三年経って1スレ消化してないって舐めてんのかよw
マイナーっていうかトンデモだろw
畿内説カルト以下w 阿波には真っ黒い顔した汚い坑夫の
寂れた集落があっただけ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 徳島は78万人の割に頑張ってるよ
畿内、九州の何分の1の人口って話 これだけ状況証拠が揃ってるのにスルーされてる四国は闇深い 徳島は朝廷との繋がりが強いので
京都人が忘れた京都弁が多いよ
お前がつこてんの実は京都弁やで >>859
>これだけ状況証拠が揃ってるのにスルーされてる四国は闇深い
発掘数が少ないにも関わらずにね。
いつまでスルーし続けるのか、ある意味たのしみ。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭では伊都國に王がいるんだから他の地に王はいない
伊都國の王以外で王を自称しているのは狗奴国の王だけ
伊都國の王が女王卑弥呼である。 >>863
>倭では伊都國に王がいるんだから
伊都国では代々王(筑紫忌部)がいる。 @阿波 >>863
伊都国の王は女王国に統属していると書かれている。
伊都国王が女王卑弥呼だったら、どういう意味だ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>852
わざわざ阿波から海産物を運んでこなくても
伊勢や若狭湾の方が近くて新鮮なのに
阿波に拘る理由って >>867
それは誤読です
「皆統屬女王國」この皆は倭の国々のことで
倭の国々は皆、女王国に統属していると書かれているんです。
同じところが魏略では「其国王皆属女王也」
その(倭)国の王は皆、女王に属するなり。
皆は倭の国々又は倭国の王達です
魏志倭人伝では女王国だから倭の国々
魏略では女王だから倭の王達。 >>870
それは「恣意的」誤読です
「皆統屬女王國」この皆は伊都国のことで
伊都国の代々の王は、女王国に統属していると書かれているんです。 @阿波 >>871
三国志の魏書で世有は魏の世を指します
従って魏の世に伊都国に王が居たが本来の意味です
代々と訳しても魏の世限定です
ここで代々と訳す必要は無いんだけど
皆を伊都国の代々の王としたい人が無理に訳したのです。 >>872
>従って魏の世に伊都国に王が居たが本来の意味です
それでも別にいいんだけれど、伊都国には王がいて、邪馬台国には「女王」が居たということ。 @阿波 >>874
その伊都国の王は、筑紫の「忌部はん」 なんだけどね。 @阿波 >>876
>卑弥呼も神武も忌部なのか?
もちろん、「忌部はん」 だよ。 @阿波 >>878
>阿波には王の存在を示す威信財がない
で、どこにあるんだい? @阿波 忌部はユダヤの血が入ってたから賢く文明的で
パイオニア精神旺盛だった
ユダヤの血を恐れてヤマト朝廷から封印され
現代まで続く ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>881
>阿波に何かある?
なにが欲しい?
で、「阿波には王の存在を示す威信財がない」と言うが、
「王の存在を示す威信財」があるのはどこなんだい? @阿波 >>884
>侯王墓に副葬されるセット品のこともしらんのか
ハハハ、なんだいそれ? @阿波 徳島の米津玄師はいいけどなあ
うどん屋と他は?
四万十川で泳いでみたい
いつか >>886
>四万十川で泳いでみたい
穴吹川もお勧め。 @阿波 徳島の、穴あきレンコンと金時イモは知ってる。
あとはカワウソ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 そうか、むかしむかし徳島にもカワウソいたと聞いたが、
あれはウソだったのか
んじゃ、近年はコウノトリかな。大群で5ちゃんとレンコン畑を荒らしとるらしいが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています