邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
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今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 @阿波は留守がちなのか
タヌキとカワウソの墳だらけというのに、、、 >>897
カワ「ウソ」だけにw
むかしむかしなら、徳島にもたくさんいたと思うよ
カワウソが高知だっていうのは、最後の目撃場所だからだし 徳島には、婦人物の高級下着メーカーかなんかあったと聞いたが、
あれもウソだったのか @阿波は「雄叫びをあげながら九州で一日中祈祷してる」www 纏向遺跡から約500粒の大量の麻種子が発掘されたってホント?
麻といえば阿波やん 小松島市に阿波赤石駅があるけど
赤石が海を渡って明石になったの? >>907
>纏向遺跡から約500粒の大量の麻種子が発掘されたってホント?
知らんけど、とうぜん有り得る話だよ。 @阿波 古代以来、阿波は何回か南海地震と大津波に襲われたんでないの
平地の目ぼしい遺跡は、壊れて流されたんだろ 特に、県南沿岸部の貴重な遺跡は、相当数流失しただろうね。 @阿波 阿波さんがよそを荒らして回らず、ここで四国説を説明してくれるのが本当に嬉しいです。 >>914
荒らしと取るか、新事実と取るか、そこが分かれ目。 まぁ、耳が痛くなるとは思うけれどw 阿波 西暦元年頃に、超巨大津波があって、30mくらいだったそうじゃないか。
その津波の先端は、阿波市と美馬市の境くらいまで来たことになる。
その後、弥生人が復帰したとして、ま、大変だっただろう。
さらにその後も20mラインまでの津波が、2回か、3回来てるから、
残った遺跡は、北の山麓の県道と高速道路のあいだ辺りかな。。。 徳島は秦の名字が多い
天皇=渡来系を隠す為に阿波は消されたんじゃないのか 大雑把にいって、県道12号線は標高30mラインよりちょっと上を通っている。
この高さなら、大津波からセーフだったのだろう。
つまり古代人が選んだ安全陸行路を基礎に、後世の県道12号線ができたように見える。
吉野川の南は標高が低いので、あらかた全滅。
古代遺跡や古い神社の調査研究は、現代・将来の安全にも、大いに役に立つのだ。 秦氏は4世紀以降にやってきたから、大津波の伝承も恐怖感もなかったとおもう。
だから、遠慮なく平地に進出したのではないか。
山寄りに縄文顔、川筋に秦氏顔? 『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 @阿波 県道12号線は、坂東駅付近で北に迂回している。このあたりの12号線は標高20mライン。
しかし坂東駅一帯は標高10〜15m。
帰化人たちは津波の恐ろしさを知らなかったので、
いい土地がなんぼでも空いてるじゃん・・・、といって喜んで低地に進出したのではないかな。、、 @阿波は、
正月用のアワモチ搗きと、徳島ラーメンの麺こねくりまわしと、鳴門金時を蒸かすのに忙しいのか、、、 話は全然変わるが
俺徳島県人ね
徳島ラーメンなるものが発生してびっくりした
そんなもんあるかいと思ったが帰省して食ってみた
うん
不味くはないという程度だな
てかトンコツじゃん
中華そばの美味しいのが食べたい ◇徳島・美馬で洋ランの逸品展(読売新聞・徳島版)
>全国の栽培家が手がけたシンビジウムの逸品展が、美馬市脇町の洋ラン展示・販売施設「あんみつ館」で開かれている。
>20回目となる今年は約200鉢を展示。同館によると品種、色合いとも変化に富み、
>葉と花のバランスがとれた作品が多いという。
>大賞に選ばれた西川園芸場(香川県)の「ウインターワルツ」は、花の形が均等に丸みを帯び、
>淡いピンクに縁取られた花びらで、愛らしい姿が際立つ。
ふーん、徳島は、ガラッパチばかりじゃないんだ、驚き・・・。 >>926
>ふーん、徳島は、ガラッパチばかりじゃないんだ、驚き・・・。
君の遠いご先祖様のふるさとだよ。 敬意を払いなさい。 不届き者。 @阿波 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」 @阿波
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 不届き者で〜す。
今年はもう残り少ないので、
新年からは、神道の祖アワヒトには、特に敬意を表することといたしましょうぞ。 剣山を発掘した方が早いだろう
ユダヤ人の観光客いっぱい来るよ
テレ東あたりソロモン発掘番組やらないかな〜 阿波さん、こんなとこで宣伝するよりwikiでも書きなはれ 国府の道の駅は作らないんだ
あそこ矢野遺跡だよね?残念 NHK紅白歌合戦、ラスト3に登場した米津玄師は徳島出身だってな
徳島にナウい有名人いるじゃないか
その中継は、あの大塚製薬の大塚国際美術館から。美術館としては、なんと日本一高い入場料だとさ。
世界の名画を写真に撮って陶板に焼き付けた、陶板複製展示館として有名らしい。
なんせ、陶板の色合いは2000年間持つという触れ込みで、
卑弥呼の柔肌の色合いも、現代に残る勘定だ。
アワヒト侮れぬと知ったこの年末。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>937
>あそこ矢野遺跡だよね?残念
そうだね。 あの辺り一帯、目が眩む遺跡が確実に、そして無数に眠っているのにね。 残念。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 大塚国際美術館は、標高40m余の高さにある。
巨大津波で前後の高速道路が流されても、此処だけは2000年間大丈夫だろう。
さすが超一流企業だけあって、考えるところは考え、見るところは見てるな、感心した!。 事のついでに、
宮崎市の生目古墳群は標高30〜40m、西都市の西都原古墳群は50〜60mあたりだ。
南海トラフに面する大古墳群は、古代の津波伝承の上に築かれたように思える。
その割には、近辺の市街地は低地にあるな。
次の大津波で滅びる町・村邑も、少なからずあることだろう。 >>705
垂仁天皇はイクメイリヒコ
クメということは石井の天皇かい? 矢野や石井は卑弥呼時代前後の王都だから。 @阿波
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 石井には天孫降臨で登場する天津久米命を先祖とする久米族と、曽我氏の流れである
久米族が同居しているね。聖徳太子の弟君である久米王の領地伝承がやはり石井に
残っています。太子と曽我氏の関係を考慮すると曽我氏の流れである久米族の存在も
理解できます。両久米族の人たちは三好氏が阿波を支配する迄は地域の豪族でしたが、
三好氏との戦いに敗れた後、江戸時代には没落しましたが、家長的な人たちには
苗字帯刀を許された特別な人たちでした。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >石井には天孫降臨で登場する天津久米命を先祖とする久米族と、
、、
球磨地方がルーツといわれる「久米族」とは、この天津久米命だったのではないか。
地元の人たちは、球磨地方こそ久米族の狗奴国と考えているようだが、
卑弥呼の鬼道支配に対し、卑弥弓呼は弓を匠にする種族だったと理解すれば、よく符合する。、 >>940
立石が市長になったら変わるかな?
今の市長は歴史に興味あるように見えない >>951
今、阿南市や海部などの県南が力を入れてるね。 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 徳島の長寿大クスノキ
>徳島県三好郡東みよし町には、1956年7月19日、文化財保護法により特別天然記念物に指定された大クスがある。
>これは樹齢数千余年と推定され、根回り19メートル、目通りの周囲約13メートル、枝張りは東西経45メートル、
>南北経40メートル、高さ約25メートルである。
樹齢数千年は驚きだなあ。阿波国より古い。 >樹齢数千年は驚きだなあ。阿波国より古い。
「阿波で千年、京で千年」 @阿波 >>954
徳島県三好郡東みよし町は「阿遲鉏高日子根神(別雷神)」の郷。
「阿遲鉏高日子根神」は「大国主神」と「多紀理比賣(須佐之男命の子)」の間に生まれた神で、「加茂の大御神」とも呼ばれている。 @阿波 三好郡東みよし町であれば、太古の昔から津波は来たことがなかったであろうな。
格式高き古宮が、多々あって当然のこと。
阿波で千年、京で千年もうなづける。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 矢野遺跡を吉野ケ里遺跡みたいに整備すれば
観光スポットになるんじゃないの? 他にもいっぱいあるよ。 例えば古事記巡りツアーとか。 実際、某古代研究会ではバス研修している。
若杉山遺跡観光もいいね。 @阿波 矢野遺跡の弥生層の上下には、
大津波に洗われた痕跡があったのではないかな。
そういうのを、展示・説明すれば、怖いもの見たさに、わんさと人は集まるぞ、ゾ、ゾ、ゾー 矢野遺跡なんて誰も知らないって
徳島は観光弱いのになんでプッシュしないの >>962
徳島県人自体が無知だからw まさか徳島にそんな大それたものが在る訳が無い、とね。 @阿波 大それたヒトが居て、大活躍してるのは確かだが・・、 佐賀だって同じような民度だろう
なぜ吉野ケ里遺跡と差がついたのか 吉野ヶ里は、戦闘用のむらであった。
しかし、やがて多くの人々は去り、打ち捨てられたが、平和がやってきたのだろう。
つまり、歴史の表の華やかなりし時代と、その裏側の両方をかいま見せた。
踊るあほうのにぎやかしばかりでは、人々は評価してくれない。 吉野ヶ里が一過性のブームに終わらず観光地として生き残れたのは
福岡と長崎の中間で、観光バスが立ち寄りやすかったから
という指摘を見たことがある 魏志倭人伝に記録された倭の地名のうち、
邪馬台国をはじめ、北部九州の國々などは全て倭の現地地名からの表音文字。
表意文字の地名はわずかに、朱儒國、黒歯國、裸國、のみ。
「朱」儒國の候補地って、考古学問的に、阿波一択じゃないのか?
当確おめでとう!阿波!
阿波踊りの起源が裸踊りじゃなくて本当によかったな! >>969
南環状線が完成すれば矢野遺跡までのアクセスが良くなるけど
グズグズしている
知事変えないとな なんでもかんでも阿波説があるが大丈夫なのか
キリストとかアークとか わかってるのは飛鳥時代は丸ごと四国阿波ってことぐらい
邪馬台国(以前)の世界は想像に過ぎない >>974
>アスカ時代の証拠は?え
状況証拠のひとつ
徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418 胡散臭い邪馬台国より確実な阿波飛鳥時代をプッシュして行った
方がいいと思うけどね
歴史の教科書はいまだに奈良
これだけは絶対変えないと ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 泡も金印か銀印ぐらいないのかな
福岡の金印の博物館は、金印だけでお客いっぱいだぞ
何年間も経済効果半端ないよ
親魏倭王の印鑑でも探しますか >>980
>親魏倭王の印鑑でも探しますか
たぶん、ご神体気延山の円墳に奉納されてるよ。 だから、探しても無駄。 @阿波 金印が田圃から出てきたという話に如何ほどの価値があるのかね
価値ある金印が田圃の中で発見されたなどの戯言を信じるなど理解できないよ
裏があると推測するのが普通の人々だよ
徳島国府の大御和神社には「保管していた国璽を朝廷に返却した」との記録がありますね
この返却年次後、諸国に各々の国印を作るよう指令がでています
この大御和神社には奈良の大神神社の宮司さんが挨拶に来られるようです >さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
>10センチ低いとかではないんだよ
>魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
>もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm
・侏儒國は表意文字。(北部九州の説明は倭語に対応した表音文字)
・朱が其の山に有る、ではなく、侏儒國では朱を産出していた
・考古学的に朱を産出していたのは阿波のみ
侏儒國に阿波が含まれているのは考古学的に確定。
若杉山遺跡で見つかった朱を採取した坑道跡の大きさは、
奥行き約14メートル、高さは約70〜90センチ。
『高さは約70〜90センチ』 最古の論語木簡が阿波
儒教は最初、阿波に入ってきた
朱の取れる儒教の国=侏儒國 皇統の源聖地ともいうべき、高天原ってのは四国だと思う。
そこから天子の多くは中国地方に天下ったり、国譲りがあり、
特に天「子」か「孫」かわからんがニギハヤヒ系は畿内に定着し、天「孫」であるニニギ系は九州に天下って定着した。
その後の神武東征っていうのはお家騒動の話。
以降、ニニギ神武系は正統権を得て畿内の各地に勢力を広げた。
(この時点ではまだ大王レベルとはいえず将軍ランクだった) 前方後円墳を一番に卒業するのは阿波
オリジナルは終わりも早い 卑弥呼の時代は記紀的には崇神天皇御代前後あたりになる。
「旦那がおらず、男弟がいる」…らしい卑弥呼。
皇統系の姫なのか、豪族系の姫なのか、よくわからん。
皇統でも皇后の娘・内親王は嫁にいかず、
妃の娘・女王は嫁にいくみたいなので、前者とみるべきかもしれん。
崇神天皇の御代に天照大御神を外宮で祀るようになったのは何かを暗喩してるのかもしれん。 大物主神と倭大国魂神もそうだが、崇神天皇の御代に祀るようになったらしいが、
倭国大乱の原因は遠因として出雲の国譲りがあって、代を重ねるうちにまた
四国派(天津神派)と中国派(国津神派)の内乱(各々のお家騒動も含む)になったのではないかと思う。 >倭国大乱の原因は遠因として出雲の国譲りがあって、代を重ねるうちにまた
出雲の国譲りは狗奴国(長国)の征服譚なんだよ。
>四国派(天津神派)と中国派(国津神派)の内乱(各々のお家騒動も含む)になったのではないかと思う。
申し訳ないけど、倭国乱も倭国(阿波)国内でのお話なんだよ。 @阿波 >死去したのは畿内
さすがに卑弥呼女王は畿内には行っていない。 神山で隠棲していた。 @阿波 卑弥呼のことは謎も多いから
わからないけど
神夏磯姫や田油津姫から解明しようよ 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波 二重カギ括弧使うのやめないか?
松傾老婆対策で『をNG指定してる人多いはず レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。