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邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/23(水) 18:08:04.22
大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。

わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。



畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!


九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!

他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
0177日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 07:46:22.35
>>176
>畿内といっても、纒向を除く、だろ。

「畿内」の本来の範囲は何度も何度も書いているが、
「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式の段階で共通の土器を
使うようになった共同体の領域のことだ

纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市
建設前は何もなかったというのがどうして批判になると思えるのかが不思議

>しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。

港町だからね
成田空港は通過人口は大きいし、空港の売店には各地から持って来た土産物を
売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
もちろん首都でも何でもない

北部九州は、倭国外との出入り口として重要だけれど、それがその土地の実力を
示す訳ではない
0178日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 10:02:12.14
>>177
>纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市

王都であったという根拠は?
邪馬台国と関係あるという根拠は?
0179日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 10:05:36.90
>>177
>売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
>もちろん首都でも何でもない

成田は空港の外が未だに田舎だが、博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。
纒向が各地と交流して物資をやり取りしていたから王都だという主張は引っ込めたのかい?
関西の中でも周囲との交流がむしろ乏しい奈良盆地が王都なわけないだろ。
0180日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 10:07:05.04
摂津や河内ならまだ瀬戸内海をまとめる要所だったが、纒向では擁護のしようがない。
そんなところを持ち上げるのは町おこしの役人だけ。
0181日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 12:41:18.85
>>179
>博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。

都が置かれた邪馬台国は7万戸で、奴国の3.5倍の大都市
奴国が女王の都、邪馬台国じゃないのははっきりしてるじゃないか

それを、各地の土器が集まるから都って言ってるから間違いだって
書かれているんだよ

成田は都じゃなくても、玄関口の港町なら文物が集まるという例であって
街の大きさが本論じゃないだろ

反論のポイントが、ずれてる
見当違い
0182日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 12:51:39.75
>>178
>王都であったという根拠は?

弥生終末期の最大規模の遺跡で、かつ新しく作られた都であること
多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること
纏向大溝から建設が始まるなど、自生的な都市ではなく計画都市であること

以上を整合的に説明するには、「広範囲に影響を与える存在」の号令によって建設が
始まったとするのが最も合理的

「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
ことになるのが当然

以上より、纏向遺跡は王都であると考えるのが普通

>邪馬台国と関係あるという根拠は?

弥生終末期に、倭国において王とされているのが卑弥呼である以上、
上記の王が卑弥呼であると考えるのが最も蓋然性が高い

また、纏向遺跡では東西に軸線を合わせて作られた大規模建物が検出されており
さらにそれを囲む柵列がある
この居館域の広さは最低でも東西150m、南北100m前後の規模
大型祭祀土壙SK-3001がこの建物群に付随して発掘されており
宗教的行事が行われた痕跡として確認できる

宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある

根拠としては、十分だろ
0183日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 12:55:36.71
>>180
>摂津や河内ならまだ瀬戸内海をまとめる要所だったが、纒向では擁護のしようがない。
>そんなところを持ち上げるのは町おこしの役人だけ。

九州のような、地域王権の発達の遅れる地域ばかり見ていると理解できないんだろうな
大和+河内〜環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
作っている

摂津や河内と大和を分けて考えるのは、ためにするごまかしだよ
その畿内第V様式の国の首都として作られたのが、纏向遺跡だ
そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる
0184日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 18:07:07.29
>>182
>多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること

でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?
魏と交流がなかった田舎ですね。

>「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
>宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
>祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある

根拠なし。
期待?妄想?
0185日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 18:08:00.24
>>183
>大和+河内〜環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
>作っている

纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 18:08:25.22
>>183
>そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる

循環論法?
0187日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 18:53:33.04
>>184
>でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?

でも、大陸王朝の出先の楽浪郡と確実につながりがあった出雲の土器は出てるよ
筑紫の土器を大和に運ぶ理由がなかったんだよ

筑紫の人間が、大和に来るときは吉備か出雲を経由するし、筑紫の土器に
特段の価値がなければ、大和までわざわざ運ぶ理由がない

逆に、同じ距離で吉備や出雲を経由するのに、畿内様式の土器が九州で
出土するのは、畿内様式土器がスタンダードだからだよ

>魏と交流がなかった田舎ですね。

魏と交流がなかったら、魏の年代を入れた鏡は作りません
0188日本@名無史さん
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2018/05/11(金) 18:57:07.86
>>185
>纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。

新しい都を作るために、空いてる土地に作ったんだから、纏向で都市建設が
始まる前は空白地域だよ
何を当たり前のことを言ってるんだ?

そして、邪馬台国7万戸の範囲は、「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式の国

それだけ面積の範囲なら、山のてっぺんとか、扇状地で水が得にくいところとかに
人のいないところも当然にある

その中で、三輪山信仰に都合のいい扇状地の空白地帯を選んで、纏向の
建設を始めているんだよ

なんだか、反論というかケチの付け方が的外れなんだよな
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 18:59:05.42
>>184
>根拠なし。

北部九州で、確実な祭祀遺構があったら教えてね

祭祀跡として確実な遺跡ってのは珍しいんだよ
十分な根拠だ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 19:57:02.87
>>184
3世紀に関西地方と魏との交流の形跡は全く無いですからね。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 20:03:49.56
>>187
三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 21:05:35.73
祭祀跡の遺跡が出たらなんで邪馬台国になるのん?
キナイコシの世界はわからんわあ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 23:29:37.09
>>192
>三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。

そんなこと言うヤツは、九州説の嘘つきしかいないよ?
書けばいいってもんじゃない
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/11(金) 23:33:02.94
>>193
つまり鬼道をよくした(事鬼道能惑衆)とされる
卑弥呼の祭祀を思わせる遺跡は「九州にはない」んだね
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 07:52:07.58
平原遺跡に古代神道の祭祀の跡があるよ。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 07:53:24.17
>>194
後世の記念品。
キナイコシは卑弥呼より後のことばかり根拠にしようとする。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 07:55:21.24
卑弥呼の墓なんだからそりゃそうだ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 07:56:54.11
>>198
江戸を持ち出して16世紀以前から首都だったと主張しているようなもんだよな。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 08:13:06.63
>>157
お鏡さん? 
お鏡、句読点連続男、岡上、伊都屑ってぜんぶ同一人物であってる?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 08:59:13.14
ぜんぶ別人
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 09:12:12.64
そいつら同士でちょくちょく言い争ってるだろがw
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 14:16:06.05
あげ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 16:35:41.62
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/12(土) 23:48:50.08
>>197
>平原遺跡に古代神道の祭祀の跡があるよ。

その柱跡が、きちんと長方形になっていないんだよ
歪んで、平行四辺形になってる
建て方がかなりいい加減

いろんなところに発掘記録の平面図があるから自分でも確かめてごらん

金印をもらった女王の墳墓祭祀がそんないい加減っていうのは「ない」よな
この辺も平原1号墓が卑弥呼の墓ってのはないという理由だ

そして、神道には鏡を割る儀式はないよ
天照大神を祀る神明社のご神体が鏡なんだから
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/14(月) 07:55:08.30
最近はまた地震が頻繁に起こっているが、吾等が倭国は先史より大きな天変地異の被害を被って来た。
前期旧石器時代、倭国には人類が居なかった…と推察されているらしいが果たして其うなのか。

其れは喜界カルデラ等の巨大噴火に依って列島全域が酸性土に覆われ痕跡が残らなかっただけでは無いのか。

縄文時代の人口分布は見つかった人骨だけのものなのか(其れからまた推察されたモノなのか)、今の関東から東北地方が其の密度は高いとされているが…。

南西諸島のカルデラからの噴煙が多くの西日本の人類の痕跡をも消してしまったのであろう。

在家の草考古、古代史ファンは学者の「推察」や他国の古文書にあきめくらにされているのだと思う。

http://1st.geocities.jp/huhito80/Fanta-nennpyou-yonago.html
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 05:46:43.63
>>209
邪馬台国も噴火で埋まってしまったんだなw
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 11:05:22.94
東遷説じゃなくて逆に「西遷説」は無いのかよ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 19:19:37.63
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 19:24:40.97
>>213
>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

こういうのを妄想と言う。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 19:26:10.41
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 20:47:08.28
邪馬台国ヤマタイコク、狗奴国クナコク、一体、誰が其う読んだのか。
臺タイか壹イチかは取り敢えず置いといたとして邪馬はジャマじゃ無いのか。
狗奴、クドゥ…国栖、葛のクズだろう。

ちなみにジャ、ジャパン、ジャマイカ、ジャワ、ジャカルタ…共通するのは何処も海に面している、ヤマなどでは無かったと思われる。

時代区分の縄文〜弥生…此の定義も原日本人を分断されたが、考古の資料では何ら実証されたモノじゃ無い。
寧ろ、縄文遺跡からは既にかなり進んだ文化を持っていた事は証明されている。
先ず先に言って置くと「ググれ!誇り高い日本国民よ」他国の古文書や事なかれ主義の学者の推察がどれくらい信用に足るモノか感じよう。

 「取り敢えずみんなググろう」
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 20:50:16.56
>>215
河内庄内式は博多湾へ流入 → 筑紫倭国王へ(鉄器)
大和庄内式は大和へ流入 → 大和大物主へ(無鉄器)

【問題】
大物主の倉庫が邪馬台国時代と決まったら、神武東征はいつ?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/15(火) 23:57:29.27
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
   
 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。
   
 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 01:29:49.37
喜界カルデラ、南海トラフの影響を一切考慮せずに簡単にまとめられた「縄文時代の人口」とか…。
学者さんたちは邪馬台国論争など火付けして嘲笑ってると思う。

縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。 1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。
人口から読む日本の歴史 - Biglobe
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縄文時代(便宜上そう言っておく)の人口の減少を気温だけか、、、。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 07:59:26.63
3世紀半ばがやたらと登場するが、これは卑弥呼の死後に急に発展した、つまりは大和は卑弥呼に搾取されていた土地ということだ。
卑弥呼は2世紀末には即位していたと考えられるから、卑弥呼とともに発展したなら、2世紀末から発展していなくてはいけない。
大和は卑弥呼の死後にしか発展していない。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 08:07:42.74
ちょっと前「ゴミの分別を!」と喧しく言われていた。
各家庭では、真面目に?いくつか指定されるままゴミを分別し出し…。
あろう事かその後ゴミ回収業者が一括りに処理していた事が判明。

此れは、邪馬台国論争等と言うデマカセを信じた(信じさせられた?)草古代史ファンと少し似たニュアンスを感じる。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 09:48:36.61
「字を持た無かった倭人」其れは本当なのか「神代文字はトンデモ」確かにトンデモないモノまで混ぜられては居るやも知れんが。

人類の痕跡が認められている(誰に…)だけでさえ三万年程もつづく先史の世に果たして本当に文字は無かったと言い切る学者たちを信じられるのか、、、。

阿比留草、神社のお札等に遺されているのだが、、、。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 09:59:59.95
>>221
>卑弥呼は2世紀末には即位していたと考えられるから、

これが、根拠がまったくないとは言わないが、相当に希薄

(ほぼ)同時代資料の魏志倭人伝には、倭国乱の時期も、
その後の卑弥呼の共立の時期も「一切書いてない」

2世紀末だという言辞の根拠は、『後漢書』「桓霊間(一四六〜一八九)」、
『梁書』「漢霊帝光和中(一七八〜一八四)」だが、後漢書の成立は432年、
梁書の成立は636年とかなり後代になる。後漢書、梁書の倭国記事の多くは
魏志倭人伝を下敷きにしているのが明らかであり、魏志倭人伝にいれられ
なかった事実が、100年200年後まで別に伝わっていたとするのも不合理

漢末の中原の動乱が、夷狄の領域にも乱を齎したという中華思想から挿入されたと
考えた方が妥当だろう
二世紀末に共立だと、3世紀半ばに死ぬ卑弥呼の没年齢が70以上になってちょっと
弥生時代の寿命としては不自然
不可能ではないけれど
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 10:02:56.82
縄文、弥生…なんの意図もなく便宜上で区分されていたとしても、結局は原日本人を分断してしまったんだろう。
弥生人とは渡来人…嘘なんだろうと思う。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 10:04:25.72
実際あったという>>222の実例

・ほとんどの人がマトモに分別しないため分別まで回収業者が請負っていた
・自治体が分別しなくても燃やせるガス化溶融炉を持っているが
 隣の市町村との関係で分別基準を合わせていた
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 10:20:00.16
古代中国江南から朝鮮半島済州島、更に北米、南米、太平洋のバヌアツ辺りまで縄文人らしき人類が遺したかも知れん痕跡は指摘されている。
そして、、、。
佛教経典の薬王菩薩品事品の中に「遥か昔(少なくとも薬王事品が成立する)遥か東(ヒマラヤ辺りから)に『佛國土あり』また『佛國土に十六人の王子あり』其々が十六方面に飛んで行った」と言う一節がある。
確か、其の一人が「此方へ飛んで来た」と言う。

縄文時代(あくまで便宜上)の倭国と倭人の人の流れの事じゃ無いのか。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 12:35:47.08
>>224
あれもこれも信用できないと言い張るしかない畿内説は哀れだな。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 19:28:57.27
「稲作はじめ文化は弥生人(渡来人?)大陸由来半島経由」、、、大嘘でした。
(前略)
今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。
いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、
また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。

此等を踏まえて信じ込まされた古代論を一旦リセットせねば。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 19:34:57.52
史料批判という文献史学の基本のキを理解していないため恥を晒し続ける九州説
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 19:51:38.56
全否定しないと成り立たないラノベ説がなんか言うとる
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 20:00:28.91
鉄器が溶けるドジョウとか?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/16(水) 23:27:03.51
実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/17(木) 07:03:50.44
稲作伝播、、、。此れを検証するのはプラントオパール。
そしてプラントオパールを考察し其処から弾き出される米の流れ。
文献史学の手に負える物では無い。考古学、農学、気象学らの成果が証明している。

米は、稲作は列島から半島、大陸へ。逆説を強弁する文献の信憑性など…以下略。
0237日本@名無史さん
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2018/05/17(木) 07:12:31.26
>>234
>実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。

都合の悪い文献を全て焚書したいのが畿内説の本音でしょう
0238日本@名無史さん
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2018/05/17(木) 07:30:42.91
ちなみに自分は邪馬台国論争自体に興味が無い。魏志倭人伝に記載された其の時に列島の中心が何処であったかよりも、人の流れと其の理由と目的が知りたい。
其れから導かれる、大陸由来半島経由、と言う嘘…と言うか古代列島の真実を知りたい。
0239日本@名無史さん
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2018/05/17(木) 07:55:22.67
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0240日本@名無史さん
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2018/05/17(木) 09:43:46.58
稲作伝播は列島から大陸へ。
https://ameblo.jp/ici05876/entry-12148719713.html

太平洋ルートは無かった…え?

小笠原諸島で行なわれた先史時代の遺跡調査 編集
東京都教育委員会では、1972年(昭和47年)に東京都遺跡地図を作成する中で小笠原諸島の遺跡についても調査を行った。
この中で父島の大根山遺跡から打製石斧などの石器類、そして母島からも骨角器と貝製品を採取し、有史以前、小笠原諸島に人が居住していたことが明らかとなった。
その後1984年、1985年(昭和59、60年)と、国際基督教大学考古学研究室の手によって父島、母島の調査が行われ、母島から中世の頃の可能性がある素焼きの土器が発掘された[11]。

文献史学の及べない権威主義の崩壊。
0241日本@名無史さん
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2018/05/17(木) 10:48:34.58
>>227
あの釈迦は其の「佛國土から王子のひとりが飛来した」とされる古代北インドに在って小国を為したシャカ族の王子だが、其の父親の名前はまさに「浄米王」とか本当に意味深ではある。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/18(金) 09:43:26.74
古代人に思いをやる時に気付かされる事のひとつに衣食住がある。
食は採ったり獲ったりした糧を生で或いは焼いて…そう思わされて来たが、ふと、縄文クッキーを考えると、、、。
拾って来たドングリをクッキーに焼く日常とは、皮、薄皮までも剥いて粉にして水分で溶かしつなぎとする其の工程は技術の結晶なんだろう。
中には大葉など香草を練り込んでいたと言う。

古代人は現代人の想定など遠く及ばない知恵を持っていた事を念頭に置かないと真の古代史など見えるものでは無い。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/18(金) 13:11:01.79
倭国には製鉄技術があり、養蚕技術と紡績技術、水田稲作もあった。
倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。
奈良盆地を除いて。
0244日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 10:39:35.78
>>243
>倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。

これは同意
弥生時代はおろか、縄文時代から文明社会だよ

>奈良盆地を除いて。

そして、縄文時代から広域流通が日常的に行われており、
奈良盆地だけ「取り残しておく」方が難しいww
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:11:37.35
伝説の神、実在しなかった!とアカデミズムに貶められてる神武天皇がやけに気になって来た。ちょっと詳しく調べてみたいと思った。

あと皇紀がさもトンデモみたいなのも。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:16:18.97
>>244
広域流通の手段は船なんだよ。
当然、発展するのは海沿いの地域になる。
内陸の奈良盆地は取り残される。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:22:59.59
https://jp.stanby.com/media/old-shop/

二千六百年がトンデモだとか…。一千年越えの歴史を持つ会社が九つもある事実。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:27:22.53
盆地は取り残さる…。

古代の大阪湾は生駒の麓ちかくまで湾岸線の筈。更に大地震による巨大津波が…。震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:30:22.18
>>246
基本的に内陸部は「山の幸」だけ。 塩も採れない。
一方、海沿いの地域は「海の幸」は勿論、「山の幸」にも恵まれる。
人が生きていくには、まずは「海沿い」だろう。  @阿波
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:32:25.33
>>248
津波の影響は一過性で、復興する。
奈良盆地まで引きこもることはない。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:43:34.30
>>250
だかしかし、古代列島には航路に繋がる川がある。
これで見れば判るが琵琶湖から河内湾へと注ぎ込み複数の支流を持つ大和川は古代の物流に此れ以上ない要衝。しかも巨大津波の被害も及ばない。
https://jumgon.exblog.jp/14981226/
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:50:57.72
と言うか瀬戸内から更に東、東海関東の東日本に行くなら
大和川を遡上するのが近道

紀伊半島南端まで迂回するのか?

東西の接合点として奈良は外せない
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:56:29.63
>>252
土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない。
瀬戸内海と東海の交流が少ないのは、紀伊半島を回るのは難所だったからかもしれないね。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:59:12.37
あと、関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。
関東を最初に開拓したのも出雲だったから、古代の倭国では日本海勢力が優勢だったことがわかる。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:00:14.74
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:00:59.99
>>249
平城京跡から出土した木簡だが。件の川で阿波、淡國から調として納められていた模様。九州も機内も四国も古代倭国にとって重要な土地だったのは間違いない。邪馬台国等のまぼろし?を追うよりもな。
魏志倭人伝(他国の古文書)に惑わされず古代の史実を知りたい。

路国三原郡阿麻郷戸主海部□麻呂戸口同姓嶋万呂調塩三斗・○□○平寶字
五年十月四日
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:02:33.57
>>253
いいや。
0259日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:04:40.17
>>254
>土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない

でもよく知られるように大和には東海系の土器が流れ込んでる
0260日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:07:50.78
しかし瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
大和川は流通に用いられた形跡がない。
0261日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 13:08:41.69
ちなみに弥生時代の人口の推定とか見れば東山道とか結構人が多いんだよな

交易港を擁した海岸沿いが発展し内陸は置き去りにされる

・・・なんてのは現代のイメージをそのまま古代に持っていってるだけ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:12:52.64
>>261
やたらと広範囲な東山道を持ち出されてもコメントしにくいけど、甲信越地方は出雲の勢力が上越あたりから侵入していたらしいと、以前のレスに書き込みがあった。
関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
諏訪経由でこの地方は発展していたが、奈良盆地はそのような条件には恵まれていない。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:15:03.25
今のと古代の大和川は、、、まあいいや…()
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 13:26:03.56
>>248
>震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。

一つの高地性集落が数世紀に渡って営まれてたりする
一時的な避難場所でもない

高地性集落=一時的な避難場所

というイメージなら大昔の異物
0268日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:13:37.60
>>253
>大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか?

直接はつながっていないね
それは、少し筆が滑ったんだろう

大和川を遡って、奈良盆地に入り佐保川を遡っていった地域が、
垂仁天皇のときの狭穂彦の乱の本拠地の「狭穂」

そこからそれほど高くない平城山を越えた背後が、「山背」で
山背側の祝園も、崇神天皇のときの武埴安彦命の乱に地名説話が
出てくるヤマトの直接の勢力範囲

山背の木津川は、そのまま琵琶湖に行けるから、物流経路としては妥当だろ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 18:15:28.79
>>255
>関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
>筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。

だったら、>>246
「当然、発展するのは海沿いの地域になる。
 内陸の奈良盆地は取り残される。」
は、否定されるね!
内陸も交通路になるんだろ?
0270日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 18:18:11.78
>>260
>瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
>大和川は流通に用いられた形跡がない。

九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
そして、河内と大和は大和川で直結されていて、文物の交流も顕著
というよりも、一体として動いている
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 18:21:42.19
「大和+河内〜環大阪湾」の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う範囲
この範囲が、邪馬台国七萬餘戸の範囲として妥当
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 19:13:44.39
>>268
かつて豊臣秀吉が干拓するまで京都に存在した巨椋池(おぐらいけ/巨大な池で、池と言うより湖)琵琶湖から木津川で巨椋池へそして河内湾へ。

それは伊賀とも川で繋っていたと言う。

http://best-times.jp/articles/-/5468
0273日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:17:57.20
>>272
スマン
木津川☓
宇治川○
0274日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 19:37:38.50
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。

倭国(阿波)を発った忌部一族を祀る神社ですね。  @阿波
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 19:39:41.76
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。

その「出雲」も 倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地ですね。  @阿波
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