邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
日本国籍を持たない「市民」の方たちが、半島に近いところに
日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって言いたいから
らしいよ 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
日本史板のスレ一覧に、畿内説への批判の文言を並べたいというそれだけで
立てられたスレ
らしいよ 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
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日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって言いたいから
らしいよ 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
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らしいよ 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
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日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって言いたいから
らしいよ 税金を使って荒しまわる。
まあ、奈良県民の税金だから知ったことではないが。 「邪馬台国畿内説」という文字列で始まるスレを乱立させる、荒らし目的スレの一つ
日本国籍を持たない「市民」の方たちが、半島に近いところに
日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって言いたいから
らしいよ >>1
>わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。
だそうだから、貼っていこうか ◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。 ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、
一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。 乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の
個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の
被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を
行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように
新規創作することが難しいであろう、ということである また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと
考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと
思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など
先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など
本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、
敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかった
という推測すら成り立つ余地があろう。 こっちのスレまで妄想を垂れ流すな。
これだから畿内説の妄信者は手に負えない。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。 この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。 テンプレを自スレだけでなく他にも貼って回るとは、ひどい荒らし方だな。 おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 吉スレ主、ってのは縁起がいいのかい?
大吉スレ主とかもいるの? >>145
>吉スレ主が出張中
キウス
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。 >>136
今どきどんな風に「共立」を理解してる学者はいないねw
>>144
無益だよw
魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白 >>149
>魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白
「国内」はそうだが、倭種の領域全体ではそうでもない。 ちゃんと統治されている畿内のようなところもあれば、それぞれの首長が好き勝手にやっているところもある >>151
畿内が誰に統治されていた?
その根拠は? あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w >>152
>畿内が誰に統治されていた?
>その根拠は?
畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する
これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
統一と同じ事象だと考えられる
一つの国としてまとまることを、統治の存在の根拠としている
誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
統一形式の土器製作地の首長を、統治者とみなすことになる >>154
>畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する
その理由:倭国(阿波)からの東阿波型土器(畿内第V様式土器)工法の畿内拡散の為。 @阿波 >>154
>これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
その経済流通圏の中心が倭国(阿波)ということ。 @阿波 >>153
>あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
>…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w
「♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net」は、
4月7日に倉庫送りになってるね
今、お鏡さんが伊都国東遷スレとか立ててるから、遊んでやったら?w ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の
機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を
支配する首長たちの利益共同体であろう。 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。
その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
寒冷化が進んだ時期であることが知られている。 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を
決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、
世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった。
倭国乱もこの時期である。 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。 >>154
>これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
>統一と同じ事象だと考えられる
なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
>誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない? >>160
貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、どこだって都にできてしまう。
こんなものは根拠にならない。
これが伊勢でも近江でも出雲でも諏訪でも成り立ってしまうからだ。 >>163
> 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
>寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
奈良は寒いぞー。 >>166
>なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
畿内第V様式は、邪馬台国より前だ >>166
>史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
>自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない?
史書にも絶対年代は付いていないから、結局、十分な信頼性を担保して
考古学的な事象との対応付けを行うことはできない
それだけのこと
大国主の宗像三神との妻問い記事をもって、出雲と北部九州の交流の反映と
見ることは可能ではあるが、大国主と宗像三女神を実在の同時代人と見るのは
意味がない >>167
>貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、
例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
どこだかで、ワシントンDCとニューヨークの関係がどうたらと言ってる人がいたが、
纏向遺跡がワシントンDCで、唐子・鍵遺跡がニューヨークみたいなものだ >>171
>例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
はあ?
あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
それがどうやったら邪馬台国になるんだ? >>172
>あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
個人の感想ですね!
例えば吉野ヶ里よりも、集落遺跡部分は唐子・鍵の方が広いんですよ
吉野ヶ里を大集落というなら、唐子・鍵はそれ以上に充実した大集落
>しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
>>166 で
「なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?」って書いてたのは>>172じゃないの?
古墳時代のことは、後世の話なんじゃないですかね?
>そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
そんなことはない
北部九州には、畿内第V用式土器の時代から、ずっと継続して畿内様式甕が流入し続けている
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
九州北部のみの倭国は、通用しない >>172
>銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
銅鐸の廃絶時期は難しいが、標準的な多数説では、畿内第V様式に変わる時期に画期があり、
その画期に銅鐸祭祀が終了したと考えられている
卑弥呼の時代は、その後、余裕を持って迎えられるよ
>それがどうやったら邪馬台国になるんだ?
纏向遺跡の前身と言ったらおかしいが、近江の野洲川下流域の伊勢遺跡の廃絶と
纏向遺跡の建設開始がほぼ時を同じくして起こる
ここに、畿内第V様式の国の始まりという画期に続く、一つの画期があるのは確実で
これが卑弥呼の共立を契機とする新しい秩序の始まりと考えるのが畿内説の考え方だ >>173
>九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
>九州北部のみの倭国は、通用しない
畿内といっても、纒向を除く、だろ。
しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています