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邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2016/03/23(水) 18:08:04.22
大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。

わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。



畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!


九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!

他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
0315日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:01:50.99
>>313
>畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな?

隋書と日本書紀の記述の対応が取れるのに、
それを認めない、大和朝廷の遣使ではないと言っている=記紀も隋書も信じない、と
言っているのは九州説の方だろう?

何を言ってるんだ?
0316日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:02:59.49
>>314
>ないという根拠は?

いや、あるならどこにあるのか示してくれればそれで済むだろ?
ないのか?
ないんだな?

ならいいじゃないかww
0317日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:05:00.25
日本国ではなく、倭国についての記録がたくさんあるから、それが証拠だよね。
0318日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 12:14:16.32
雄略天皇の頃も、推古天皇の頃も、畿内の大和朝廷が倭国朝廷を名乗ってるんだが?
0320日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 16:06:46.01
九州の大王が遠く離れた畿内に
四天王寺や法隆寺を建てたという珍説
0323日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 17:57:50.79
>>320
九州から移築したらしいよ。
0324日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 18:00:44.95
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0325日本@名無史さん
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2018/05/24(木) 18:25:25.93
>>319
>証拠は?

「証拠は?」って聞くのはこちら側なんだが?
「倭の五王」、特に最後の倭王武が雄略天皇というのは、教科書レベルの定説
それに異を唱えるなら、それなりの根拠と論証をしてもらわないと

年代論で言えば、継体17年が武寧王の没年に当たるというのが、記紀と
武寧王の墓誌で確認できるので、そこを基準年として遡っていけば、
倭の五王の年代と、雄略天皇の在位年が重なることからも確認できる

あと、雄略天皇の宮が稲荷山鉄剣に斯鬼宮、記紀に泊瀬朝倉宮とあるが、
畿内だと磯城に初瀬、朝倉の地名があり整合性がある

九州にも、初瀬、朝倉の地名は単独ではあるが、離れた場所にあり、
泊瀬朝倉宮にはならない
0327日本@名無史さん
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2018/05/25(金) 11:40:20.93
>>326
ただ、マスゴミらしくお困りの国のゴリ押しを絡めてるが。
半島で出たのが真実()としても其れは倭人の兵士と思われる。
0328日本@名無史さん
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2018/05/26(土) 16:46:44.02
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている

漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ

この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ
0329日本@名無史さん
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2018/05/27(日) 10:24:45.09
>>328
>この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが

都合が悪いのでそう思いたいんだね。
かわいそうに。
0330日本@名無史さん
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2018/05/27(日) 10:35:12.99
>>328
九州説には、王都と見られる集落遺跡もないし、
径百歩級の大墳丘墓=卑弥呼の墓の候補もない

結局、魏志倭人伝は「こう読むのが正しい」という、文献史学頼りでがんばるしかない

そして、その根幹が、「短里で読めば萬二千里は九州」って1点にかかってるんだよなww

3世紀の遺物・遺跡に見るべきものががない九州説を信じ続けるのは大変だw
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 20:42:43.64
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/29(火) 20:43:15.61
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
0333日本@名無史さん
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2018/05/29(火) 20:51:54.75
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0334日本@名無史さん
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2018/05/29(火) 20:52:17.54
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
0335日本@名無史さん
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2018/05/29(火) 20:58:51.09
>>334
>福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

国産の水銀朱は、一箇所も使われておらず、弥生時代には九州には辰砂の
鉱脈、鉱山は知られていなかった

九州だけの倭国を主張する限り、其山有丹で即死
0337日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:45:44.17
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
0338日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:46:25.39
 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
0339日本@名無史さん
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2018/06/04(月) 06:47:08.44
 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 06:47:27.92
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 07:20:40.27
纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 09:40:50.75
>>341
>纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
>纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。

必ずこれが湧いて出るけど、瀬戸内と河内は交流が分厚いだろ?
大和+河内〜環大阪湾の地域は、畿内第V様式土器の時代から、一つの地域だよ
そして、乏しいというが、吉備の特殊器台をそのまま受け継いでいるし、
その前から弧文円板など、吉備系の祭祀具が出ている
乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 15:29:25.15
河内は瀬戸内だが、大和は違うだろ。

>>342
>乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない

それは畿内説が伊都とか平原に対してよく使うレトリックだろ。
一緒にするな。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 17:51:07.61
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 17:52:31.34
隣接地に絞ると纏向遺跡の出土土器は
河内10%
近江5%
紀伊1%
山城0%
摂津0%

河内と大和は大和川一本でつながっているし、畿内第V様式土器以降、
庄内式土器、布留式土器への変遷も歩調を揃えて、進んでいる

どう考えたら、別勢力になるのかが不思議

奈良と大阪の土器はちょっと違う ←せやな
つまり奈良は名古屋で、大阪は九州だ ←は?
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 18:00:12.47
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者もいる。
しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある[2]。

wikiより
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 18:02:59.07
纒向の搬入土器の出身地割合

伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 19:12:14.25
ここで言う、どこどこ系土器、というのが、基本的に飯炊き甕で
あることには注意が必要

途中で煮炊きしなければならない距離の移動なら、飯炊き甕を持参する
必要があるが、すぐに行ける距離や、行った先で飯が出るなら甕を持って
出かけなくてもいいだろう

それと庄内式の頃から土器製作地の集約が進み、ある範囲には特定の製作工房から
土器が配布(事実上の販売かも)されていたこと
河内南西部と奈良盆地西部にそれぞれ土器の製作中心があったから、わざわざ持って
行く必要がなかっただけだと思うな

まあ、証明はできないけど、河内の土器が奈良盆地での出土が少ないから交流が
なかったはずだと短絡的に考えるより筋が通ってると思うがね
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 19:30:06.37
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ畿内説!
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 19:57:15.00
>>348
>纒向の搬入土器の出身地割合

それ、各地の忌部一族が持ち寄った「東阿波型土器」だから。  @阿波
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:08:18.81
目と鼻の先の河内と大和の交流が少なかったのは、何が理由なんだろうね。
大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、政治的に別のグループでもあったのだろう。
弥生末期の西日本がいくつもの集団に分かれていたことがうかがえる。
そんな状況の中で、地理的に圧倒的に有利で、富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:16:01.07
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ●●説!
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:16:19.35
>>352
>富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?

なんと、それがあり得たんですよ。  @阿波
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:38:10.26
>>352
>大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、

??
寺澤先生の論文「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」から引用

「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、(中略)
 突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に集中する様子が
わかる。とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を
除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限られており、おそらくは朝鮮半島−玄界灘
沿岸地域ルートで伝来し、北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして初期の
不完全な農耕文化の揺籃を開始した突帯文系様式は、瀬戸内海ルートで河内潟に入り
河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことがわかる。」

そもそもからして、奈良盆地の集落は、河内平野への入植〜大和川を遡上〜初瀬川へ、と
河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる
最初から本質的に同根・同祖だね

なぜ別集団だと考えるのか?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:38:58.51
>>352
>富を集積していた筑紫を差し置いて

集積してないよ? 3世紀には既に田舎
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/04(月) 20:45:02.68
>>356
>集積してないよ? 3世紀には既に田舎

まぁ、そうなんだけどw  @阿波
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/05(火) 06:51:42.25
>>357
いつも言ってるんだが、逆質問で「ごまかす」な!

まずは、富の蓄積を根拠・論拠を示してきちんと論証しなさい
話はそれからだ

>>358で阿波が無条件で同意するくらいの常識だぞ
3世紀の北部九州はただの田舎
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/06/10(日) 10:47:36.19
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 15:00:05.75
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

HGK
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/17(火) 09:59:24.23
このスレ、2016年に立てられてるんだな

存続理由もないし、適当に使いつぶしてもいいかな?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 14:58:43.02
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓だね
これで、古墳時代の間中ずっと存続していたという九州王朝を
どうやったら想定できるのか
0364日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:01:03.52
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
  咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
  咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
  日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想

咫を円周を測るのに使っている例はない
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:01:21.95
漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
  尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
  咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
  咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である

咫を円周を測るのに使っている例はない
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:01:39.64
三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0367日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:01:55.31
後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
  咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:02:16.81
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件

「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている

「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる

「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ

要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」

咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない
0369日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:02:45.29
平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない

平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない

したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない

しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない

つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である
0370日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:04:46.32
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる

その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:05:06.11
大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ

そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある

八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる

しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな

本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない
0372日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:06:15.36
>八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。

それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない

この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話

平原出土鏡は入らないでしょ?

『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない

原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html

御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分 
      径2尺   内一尺六寸三分

『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html

樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。
0373日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:07:01.65
そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだからな

咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)

「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる

このウィキペディアの記載は、既に修正されているけれど
0374日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:17:07.76
本物の威信財、伊勢神宮の八咫鏡とは大きさが合わないってのも
既に論証済み

伊勢神宮の八咫鏡を入れるオケの大きさに一致するとか言ってたやつがいるけれど
神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
0375日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:19:30.15
説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり

周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
0376日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:37:12.91
周尺也。  
周尺である

通典引白虎通曰。
「通典」の引用する「白虎通」に曰く

夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした

殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした

周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると八寸になるので、八寸を尺とした

 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
0377日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 15:44:02.03
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、尺は十寸である 
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ

別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった
王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である

鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある)

 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
 あるいは周尺は八寸と言う
 歩を以ってさらに八をなす(歩はさらに八尺である)
 ハッパ六十四である(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:50:47.08
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている

分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
(周朝が衰え、天下が)分かれて(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする
農作物の植え方、農地の区画の仕方が、国ごとに異なる様子をいう
車の涂(みち)は軌を異にす
涂は、途(みち)の意味 軌は車輪の幅 交通手段、車の規格が国ごとに異なる様子をいう
律令は法を異にす
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた
律令の法が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:53:14.20
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)

左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書

咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない

この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:58:36.49
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや

「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ「尺有咫」という使い方をしている

『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献

国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある

(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない
「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、
咫と尺を並べて使っていても、二尺とはしていない

こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう

咫と尺はあくまで区別されている
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 15:59:34.71
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。

禮制,漢語詞彙,漢語拼音為lǐ zhì,
是コ治夢想的具體化,指的是通過禮儀定式與禮制規範塑造人們的行為與思想;
通過法律的懲罰維護禮法的絕對權威。

據史實而論,西周王朝的禮制和官制顯然受先周禮制文明的影響,尤其.
對夏、商二代之禮制及官制有其沿襲的軌跡。
究其遠源,姬周王朝官制與禮制之形. 成,實際上應追溯到堯舜時代。

鄭注
後漢の鄭玄(じょうげん)による経書の注釈
0382日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 16:00:03.20
纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している

北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している
この部分については、ソースをつけておくから確認してくれ
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:21:01.23
>>382
>纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
>吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している

それは当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。


>北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
>畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している

それも当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。
佐々木憲一氏も考古学者なら知ってる筈。 @阿波  
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:46:01.37
地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7240.html  
地域別人口規模の順位の変遷
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7242.html  
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて
 畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、
 そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、
 やはり揃って地位を低下させている。
 ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
 養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:46:19.89
奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:46:54.37
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない

0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない

また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵

それに対して、糸島の三雲遺跡群は5件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2

結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ

これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:47:56.56
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる

一つの遺跡の中の、遺構・遺物を一つ一つ登録してるんだから
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:48:30.04
ごめん、三雲遺跡群、もっとたくさんあった
三雲・井原遺跡で地区登録が15件 その他個別登録で9件
合わせて24件だった

341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
0389日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:48:48.26
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:49:54.57
唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?
0391日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:50:35.63
例えば、桃の種2000個が見つかったのは、祭祀土坑のあとで、供献土器も同時に出ている
3世紀当時の直接的な祭祀・宗教行事の直接的な考古学的遺構としては、ほぼ唯一の発掘成果だ

纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある

箸中山古墳に先行する纒向型前方後円墳時代の纒向古墳群の時点で当時の列島最大の墳丘墓であり、
埋葬部分、墳墓そのものが最重要の遺跡なんだよ
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 17:51:01.77
魏志倭人伝には
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれている
つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ

大きな墓を作らない地域は倭王の所在地としては除外してよい

そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで累代的に築造されたと考えられている纒向古墳群の
5つの墳墓はいずれも列島最大であり、編年によってそのうちのどれに当たるかは前後しても
纒向古墳群のいずれかが卑弥呼の墓の第1候補となることには変わりがない

編年が今後より古い方にスライドすれば、箸中山古墳が卑弥呼の墓の確率が高くなる
0393日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 17:56:21.43
>>391
>纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある

人が暮らした痕跡がない以上、とても「都市」とは言えない。  
古墳造成前線基地だろうね。  @阿波
0394日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 18:03:30.64
>つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ

誤訳です
0395日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:08.16
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね

畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ
0396日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:29.95
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ

そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない

本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然
0397日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:21:56.16
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩

https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497

説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
0398日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:22:12.91
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ

長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺

周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
0399日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:22:48.52
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm

さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png
0402日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:31:34.90
篆書の頃の漢字がどんなものかまったく考えていない
歩という字が、その成り立ちからずっと一貫して複歩なのに、
それを認めると自説が最初から嘘だったとバレるから必死でごまかし続けているww

象形文字の歩
http://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
篆書の頃の歩
http://pic.zdic.net/xz/swpic/6B65_3107.png
异体字の歩
http://pic.zdic.net/kai/jt/20/92/23957.gif
旧字
「步」
今の楷書体
「歩」

今の楷書体でいきなり漢字ができるはずがないし、
楷書体になったときに初めて漢字の意味が作られるはずもない
0403日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:33:29.12
日本書紀には、皇統と無縁の八咫鏡の例が挙げてある

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
0404日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:33:46.07
また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる

日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。

もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる
0405日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:34:16.35
日本書紀の雄略紀には、
「遣身狹村主・檜隈民使博コ、使於吳國。」と、遣呉使の記録はある
遣宋使の記録はないけれどね

宋は南北朝時代の南朝の王朝なので、大雑把には呉の地域だ

雄略天皇の前代あたりで、日本書紀の暦が元嘉暦から儀鳳暦に変わるため、
允恭天皇以前の儀鳳暦部分は書紀編纂時に計算されたものと考えられ、
その部分のもとの記録が春秋年(二倍年暦)だったのでは、と想定する人も多い

そのため、雄略天皇以前の対応は見出しにくくなるが、大陸との往来が仁徳〜安康紀にも
記されており、倭の五王が大和朝廷の大王であることは、定説となっている
0406日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:34:52.24
和歌山の日前神宮・國懸神宮のご神体は、日像鏡と日矛鏡で、
八咫鏡の前に作った試作品の鏡とされている
こういう八咫鏡に連なる鏡が、近畿にある
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/4/8/48c9c1d9-s.jpg

そして、>>881
>伊勢の八咫の鏡の箱を入れるオケの大きさが平原の鏡と一致するんだよね。

などと書いているが、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
0407日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:35:39.56
>時代とかが違う遺跡が含まれているから、たまたま三雲地区にあるというだけで、別々に数えることは不適切ではない。

>>525
「また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵 」
って書いてあるだろ?
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、

奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍の件数の差で登録されている

データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?
0408日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:36:55.36
>>394
「魏志倭人伝には
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
 と書かれている
 つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ 」

これが、後の古墳時代につながる様相をそのまま記したものなのは、異論ないだろ?
大きな古墳を作れないところは、無視してOKだよ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:37:17.51
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:37:39.93
耳璫・耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf

これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
 その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
 金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
 その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」

これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
 これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
 しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる

古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている

現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる
0411日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:37:54.97
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない

耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない

平原一号墓はもう少し、検討が必要だと思う
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/18(水) 19:39:07.57
歩は、本来身体の大きさで決まる身体尺だから、大きく変わることはできない

そして、径百歩を報告したと思われる張政は塞曹掾史=掌辺塞之職
国境の要塞の職を司る政治職員。掾史=副官
ということで、軍政、補給や兵站に関わる魏の役人

そういう立場の人が、魏の度量衡の体系から離れた『歩』で記録したと考えるのは、
ある意味常軌を逸している

そもそも東夷伝里などというものは、一部の九州説の人の心の中にしかない
それに合わせた「東夷歩」を想定しても、無意味

そして、27メートルでも、平原1号墓はその半分以下
どうやっても、平原1号墓は卑弥呼の墓にはならないし、
平原1号墓を除けば、北部九州に3世紀の王墓候補すらない状況になる
0413日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:40:06.72
もともと、日本の皇室、大王、天皇は、日本の豪族の総本家という位置づけで、
三種の神器の組合せは、広く豪族の古墳の副葬品として共有されているし、
日本書紀にも皇統とは無関係な「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」の記事がある
>>404>>405を参照

平原1号墓の内向花文鏡を皇室の神鏡の起源だという方が、よほど貶める意図を感じる
皇室の神鏡は破壊されて埋められたものの同類と言っていることになるからな
0414日本@名無史さん
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2018/07/18(水) 19:42:45.29
日本の神話というのも朝鮮人(日本という国は無かった頃の話?)の話でしょ、
どういうことだと思う
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