邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
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大いに語らおう。是々非々でよろしくお願いします
初心者でわからない方も歓迎します。
わからない方もいますので「貼り付け」度を越さない限り歓迎します。
畿内説のへ、・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
九州説の方へ、・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう!
他説の方へ・・・・・・根拠のない他説へ誹謗中傷はやめましょう! 日本では、確実な殉葬が確認できた墳墓は一つもない
ちゃんとした学会で検討された内容ではないけれど、
吉武高木遺跡や吉野ヶ里遺跡で見られる庶民の集団墓である甕棺墓列を見て
殉葬墓とかんちがいした可能性がある
あるいは、弥生時代のある時期までは、方形周溝墓にしても特定家族墓にしても、
一つの墓域、墳丘に、順次追葬しているので、それを殉葬とみなした可能性もある
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓には、14の埋葬主体がある
そういう記録が光武帝への朝貢や、帥升等の朝貢の時の記録として残っていて、
倭王の墓なら当然殉葬者があるはず、と考えられたんじゃないか、
くらいまでしかいえない
考古学的状況としては、確実な大規模殉葬例は、日本にはない
それが現実 魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?
3倍違うものが、一つの単位だというのは通らない
誤差とは認められないだろ 話を作ったり(ねつ造。偽造。)するなという意味、
日本起源のモノなんて何も無いんだよ >>408
「大作冢」
大きな冢じゃないよ、誤訳です 『ねつ造』
日本のマスメディアなどの話をすると、
ほとんど犯罪者、犯罪関係者
よく恥ずかしくもなく、
テレビ(メディア)などに出られるな 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。
11から136mとか、-73〜306mとか、「意味のある数値」だと思いますか?
これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。 まず、第一に、漢魏尺の度量衡に「咫」は入っていない
周代には「咫」は、女性の手を広げた大きさ(おそらく親指から人差し指まで)という
身体尺があった
しかし、周朝の権威が衰え、各地の諸侯が自立した春秋・戦国時代に、各国が
勝手に分国法を使うようになり、度量衡もばらばらになって長さの定義もごちゃごちゃになった
それを、秦の始皇帝が改めて、度量衡を統一した
その時点で計量単位としての「咫」は使われなくなっているし、度量衡に組み込まれていない
前漢の紀元前91年成立の史記の時点で伝承の中で「尺有咫」と
使われているのを除くと、「咫」は「咫尺」という熟語以外では
使われなくなっている
そして、円周を測ることに「咫」が使われている例は、一例もない
円周を計るのに便利な単位だから「咫」が使われたというのは、まったく根拠がない 三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など
八咫鏡という名称は、皇統のレガリア以外の大鏡にも普通名詞として使われている
事実 雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
おまけ 皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀にある
垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」
本物の「八咫鏡」である伊勢の御神鏡は、面径が漢尺の二尺ではない
これは推測
八咫鏡を入れる入れ物の実見記録として口径九寸の黄金鑵が記載されている
その外側の御樋代は内径が一尺六寸三分で、49センチで
面径46.5センチの鏡を入れるにはぎりぎりすぎるのも状況証拠といえる
つまり、面径二尺と主張することは、皇統のレガリアとのつながりにおいて意味がないし
三種の神器の組合せも「倭王の墓」を意味しない
そして、「八咫鏡」という名称も、皇統の皇位の証をそのままで意味するものではない
その上で、円形の鏡の周囲を「計ったら」というのが、
可能性すらほぼない恣意的すぎる「仮定」だし、
漢尺の体系にない「咫」を、「漢尺の八寸」として計算するのもご都合主義
結局は「だったらいいな」の結論ありきの数合わせなんだよ 周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね
都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ 何度も何度も書くけれど、半径が一尺、あるいは二尺ちょうどじゃないと
使い道がない単位が、単位として成立する余地はないっての
それに、円周長が最初の定義だったら、何をさておき
「円周長を咫で示した例」が多数あるはずだが、
「一例たりともない」
この、不整合を説明できない限り、
「咫の最初の定義は円周長」という主張の「説得力はゼロ」だよ 例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/27/1222c2c16dd1ab975c162c72c821f1b4.pdf
四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ? 同じ言語を使うとか、同じものを食べるとか、そういったことが民族・倭人としてのまとまり
国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
交易・交流も否定しないと通用しない
3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
より強い王(地域首長)が存在している
その状態で、各地からの交易で各地の人が北部九州にも来ていたら、北部九州の首長が
倭国王と認められるのは無理だよ >東の海の先にも倭人がいると書いてあり
九州説はいつもこうやってごまかすよな?
原文は「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」
渡海「千余里」だよ
どんなにがんばっても、これを本州に当てるのは無理な話
漢書地理志に見える魏略逸文では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」と冒頭の文に続けて
「度海千里復有国」とあり、千里渡ったところにも倭種に国がある、というだけの文になっている
千里渡って倭人の国がある、というのは、
半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの
漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義
さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない 後漢書の「自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒
東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣」の「極」は
淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民; 記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀) 端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル
>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?
畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある
これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな 吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これ全部、弥生時代だよな?
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? 九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ 魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね 魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない <萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない 黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな 地の果てまでが萬二千里というのは、>>436で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている 弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ
大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この「古墳を作る範囲」が、そのまま「倭国の範囲」
九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ 三角縁神獣鏡の全量を下賜鏡だと主張している人は一人もいない
逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない
大陸からは三角縁神獣鏡は1枚も出ていないと言う人も多いが、
「三角縁」の「神獣画像」鏡は複数出ている
魏からの下賜鏡そのものは、発掘できない天皇陵治定の大王墓クラスの
副葬品だろう 500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう
そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ
これが一番シンプルで分かりやすい 実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど 三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない
正史と認定されたのは、唐代になってから
というか、王朝としての編纂事業として、正史を作るようになったのが
唐朝以降なんだけれど >>431
>これらが、伊都國王家筋の墳墓
伊都国王家なんてものを捏造するなよ。
伊都にいたのは倭国王家だよ。
平原遺跡の後で伊都が寂れるのは、倭国の王宮が筑紫の中で移動するからだろ。 >>427
>千里渡って倭人の国がある、というのは、
>半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない
千里渡って倭人の国がある、というのは、
倭国(阿波)から紀伊水道を千里渡ったところの倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない @阿波 >>390
>唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?
福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。 >>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。
倭国(阿波)の遺跡は量では負けるが、質では福岡をはるかに凌駕しているよ。 @阿波 >>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。
それを言うときの典拠としてたのは
「奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数」だろ?
それの数は、自治体の件数の登録の仕方だからあてにならないって話 >>446
>陳寿の死後に晋朝に公認されてるよ
それが正史を意味しないんだよ
そして、実際ほぼ散逸状態で、まともな写本、伝本がほとんどない状態だった
まあ、魏略よりは残ってた、という言い方もできるけどね >>450
どうでもよい遺跡の数を比べても意味ないでしょ。 @阿波 >>451
正史とは言ってない
でも私文書でもなくなったのよ
晋朝が公的に写本を作らせてるからね >>453
>晋朝が公的に写本を作らせてるからね
つまり、晋朝の祖である司馬懿の功績を誇っているから誉められたと
そのための誇張が萬二千余里だよね
誇張であって、短里とか東夷伝里ではない
そして、正史ではないから、晋朝がつぶれると省みられなくなり、ほとんど写本も
伝えられなかった、と 三角縁がすべて下賜鏡だと主張してる研究者はいるぞ
最近はかつての舶載鏡とボウ製鏡の区分は成り立ち難いとする論調が強まってる
つまり全三角縁中国鏡説 >>457
中国鏡と同じ成分銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか? >>457
中国鏡と同じ成分の銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか? 魏の領域に銅山がない。
特に呉にその銅山が奪われてからは魏の鏡は鉄鏡なのだ。 wiki
229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから
同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後
のその支配区分として、徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、?州は蜀漢が支配するものとし、司隸は函谷関を境
界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。 後漢時、徐州の治所は?(今の山東省?城)にあり、曹魏時は彭城(今の江蘇小徐州)に移った。
しかし、今の徐州一帯は、古より銅を産しない。
http://blog.livedoor.jp/shimajyo2/archives/2545234.html >>455
>晋代写本は出土してるよ
出土ってことは、正しく伝世しなかったってことじゃないの?
存在していたことと、それを伝える意思があったというのは別 その写本が、数少なくて、いろいろと怪しい
邪馬「壹」國とか
晋代写本は、晋代で写本(維持・保存)が止まってるから晋代写本なんだろ? さん‐し【三史】
中国古代の三つの史書。史記・漢書(かんじょ)・後漢書をいう。
後漢書の代わりに東観漢記を当てることもある。
三国志は、後漢書よりも成立が早いのに、三史には入れてもらえない
三国志(魏志倭人伝を含む)は、そこまで出来のいい史書という訳ではないことを
念頭において読まないとってこと 中国に「三史」という定義はない。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、
未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、
列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』
『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例にすぎない。 >>474
>中国に「三史」という定義はない。
定義とか、そういう話じゃないんだよw 2016/10/17
【歴史】「巨大な墳墓、年号が入った中国鏡は畿内でしか見つかっていない」 ネット介し「邪馬台国」論争、吉野ケ里と奈良つなぎ★2©2ch.net
https://da●ily.2ch.net/test/read.cgi/newsp●lus/1476694009/
2018/05/14
【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1526302961/49
邪馬台国畿内説 Part362
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531681507/ 2011/07/26
【滋賀】「邪馬台国は守山にあった!」とする近江説を盛り上げる動き…銅鐸出土で
http://ra●icho.2ch.net/test/read.cgi/newsp●lus/1311670443/
2016/10/17
【歴史】国内最大級の大型建物跡と鍛冶工房を発見 滋賀県彦根市の稲部遺跡 [無断転載禁止]©2ch.net
https://da●ily.5ch.net/test/read.cgi/newsp●lus/1476695491/
【考古学】大型建物や鍜冶工房群発見=邪馬台国時代、国内有数規模−滋賀 [無断転載禁止]©2ch.net
https://potato.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1476706449/6-9,14,15,19,20
http://log●soku.com/r/scienceplus/1476706449/6-9,14,15,19,20
【歴史バトル】大型建物や鍜冶工房群発見=邪馬台国時代、国内有数規模―滋賀 [無断転載禁止]©2ch.net
https://da●ily.5ch.net/test/read.cgi/newsp●lus/1476700742/171,322,324,346,373,374,677-679,790,815
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2016/10/21
【歴史】鉄工房、権力の象徴? 滋賀・稲部遺跡、邪馬台国時代に光…交通の要所、発展か©2ch.net
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邪馬台国近江説◇論争に終止符!
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【歴史】在野精神が大胆な考察生む「邪馬台国は熊本にあった!“魏志倭人伝”後世改ざん説で見える邪馬台国」
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邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止](c)2ch.net
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もうあきらめろよ邪馬台国は西都原 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1331559630/540-545 吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
北部九州でも、
須玖岡本遺跡D地点王墓や三雲南小路遺跡王墓は、30メートル四方程度の墳丘があるし
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 ~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 かなりの長命スレになってるけど、要するに人がいないし議論もないってことだよな 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁 ・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」 ・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 ・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
>>>「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。 土器は、p199
私も当初は「三・四世紀の土器と鏡」という論文で、
周溝から古式土師器と共存する土器(西新式土器)が出土していることから
古墳前期としたことがある。
ところが出土品や図面が整理されていくなかで、
この土器は周溝が埋没した後に掘り込まれた土壙墓に伴なうことが判明してからは、
「平原墳墓の意味」や「平原王墓の性格」などの論考で、鏡を初めとした副葬品の比較検討から
導いた弥生時代終末説を貫いている。 p208
今回の出土銅鏡の研究から、平原王墓の年代が後漢末に対応する紀元二〇〇年頃であること
が認められるとすれば、卑弥呼の墓である根拠は当然のことながら否定される ・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? そもそも九州説のいう項目は、邪馬台国と関係ない倭人一般、
倭国一般の風習風土であって、ある意味どうでもいい
そして邪馬台国固有の記述は、都合が悪いから無視する
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 ベイズ統計を分かってないだろ
トルーポジティブとフォールスポジティブの確率が
「信用できるとき」にしか意味がないんだぞ
もう少し具体的に書くと
「鉄がある所が邪馬台国である確率」と
「鉄がない所が邪馬台国である確率」が、
データからの統計計算に入る前に、
「あらかじめ分かっていてしかも正しい」ときじゃないと意味がない
松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は、
東大退官後に聖学院大学に移られた先生で、バカなことを訊きに来た素人に
計算上はこうなるねっていう「意味のない机上の計算」を、リップサービス的に
示しただけだよ
「鉄がある所が邪馬台国である確率」
これがそもそも定義されてないし、
この数値をいじればどんな結果でも作れるんだよ
統計を知らない人間は簡単に騙されるww >又渡一海千余里、至末盧国。。。
>東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東京の東大レベルの高等数学なぞ持ち出す前に、
伊都国はどこかを、色眼鏡外して読み取るべし。 ↑ これ、唐津の小学生が読んでも、行く先は佐賀平野だろ。 九州北部ばかり注目されて中南部はガン無視かよ?
と最近思う。 投馬国は半島南部って言う人がいるけどさ、
魏志倭人伝の冒頭で、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。」って書いてあるのを
無視してるだろ?
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸が、それぞれ半島と日本列島の女王国の範囲とか言ってるけれど
総数12万戸のうち、5万戸が帯方郡と地続きの半島上にあったら「帯方東南『大海』之中」にもならないし
「山島に依りて」という表現にも合わない
投馬国を半島上に持ってくるのは、九州説の中でも批判されている無理読みだよ >>506
>統計をわかってないバカがまた意味のないことを。
オウム返しってことは、ザラコク並みのバカだな?wwwwww
統計を分かっているなら、具体的にどこがおかしいがあげてみな
バカに限って虚勢を張るんだよなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています