【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ 阿曇氏
海人族の最大勢力。
豊玉媛、玉依姫が天皇家と通婚。
博多の志賀島に綿津見三神を祀る。
志賀島と言えば漢倭奴国王の金印が出土した所。
そのため奴国王の子孫という説もある。 宗像氏
素戔嗚の娘の宗像三女神を祀る。
大和朝廷の九州進出後は、三輪氏同族の宗像氏が統率者となる。
三輪氏は大物主(=大国主とされる)の子孫なので系図上は素戔嗚の子孫。 大和氏(倭直)
神武東征で道案内をした。
東征に参加した地は豊予海峡説(日本書紀)と明石海峡説(古事記)がある。 尾張氏
天皇家同族だが海人族的色彩が強い。
同族の津守氏は住吉大社で住吉三神を祀る。 渡会氏(伊勢国造)
伊勢国の支配者だが磯部の統括者として海人族としての性格も持つ。
神武東征で伊勢を平定し国造に任じられた。 また私の説にヒントをえた説が膨れ上がってるな。
よい事だ。 朝鮮人が日本に教えてあげたなどという傲慢な史観は撲滅しましょう
大和に様々な文明を持ち込んだのは古代九州に住んでいた海人(あま)です
和邇と阿直岐は百済に頭を下げて授かった学者ではありません
もっとも偉大な海人である応神天皇が息子の家庭教師として属国の百済に調達させた人材です
倭の五王は九州に本拠地を置いて朝鮮半島を支配した海人の王です
彼らは朝鮮半島で「集団的自衛権」を行使し、時に大和にまで勢力を伸ばし、大和と筑紫の両王権を統合しました
大和政権は自分だけの力で大陸の優れた文物を獲得した訳ではありません
もちろん、優れた朝鮮人が遅れた日本に教えてやったなんて訳がありません
大和に文明を持ち込んだのは筑紫に活動の拠点を置く海人です
海人(アマ)は天(アマ)と同じ
海上交通を制する者が古代日本を制したのです! 東アジアの古代の列強は
中国と北朝鮮高句麗と博多湾沿岸にいにしえより都を置いた倭国だけです。
倭国は戦いを得意とする東アジアを代表する強国でした。
南朝鮮韓国は中国、北朝鮮、倭国に挟まれ時代時代により主君を変えた弱小国であり、
元々は博多湾沿岸の倭国の領地です。
南朝鮮から文化が入ったのではありません。
大陸からの文化が倭国に入っただけ。
そして時には本国倭国から朝鮮へ流れたのです。
博多湾沿岸の海洋国家倭国は大和の生みの親であり、南朝鮮、南九州、大和と支配したのです。
後に大和のクーデターで歴史が失われただけであり、
大和の歴史を崇拝する事が必然的に朝鮮から日本へとの間違った流れを生んでしまっているのです。
ですから畿内説は日本の歴史、もしくは東アジアの歴史力関係を間違った方向へ向けてしまった
売国説だという認識を持ち反省すべきなのです。
これからは正しい歴史認識になるようにしていきましょう。
その為に私の説を大いに活用していただき真の歴史を広げましょう。 ちくわがデムパを飛ばすと全うな九州の歴史も風評被害を受ける!
筑紫君(ちくしのきみ)は大和朝廷から事実上独立した九州の倭王
王と呼びたくないから君と書かれた
これは真実!
だが邪馬台国は九州のどこにもない
福岡にあったのは奴国で、それ以上の大きさの国は九州の他のどこへも物理的につくれない
ありのままの九州の歴史を愛さない嘘つきマルポマンちくわ! 高階氏って宗像氏の母を持った高市皇子長屋王の系統なんだな。 古代史版反日自虐史観は粉砕されるべきだが、
その裏返しの奇怪な史観も困りものだよね。
天皇家は阿曇氏と通婚してるから最初から海人族を取り込んでた。
九州の支配が順調に進んだのはこの縁を利用したからだろう。
筑紫君は大和朝廷の支配下の単なる地方領主に過ぎない。
ただ本拠地が博多ではなく筑後なのは重要な意味がある。
邪馬台国本国の故地を領有させたからだ。
古くからある説だが、筑後山門は邪馬台国のなれの果て。
門の発音が甲類という問題はあるが、多少早く乙類から変わったと考えておく。
天皇家の日本統一の最後の戦いは筑後山門郡の田油津媛が相手。
天皇家の当主は気長足姫皇后(諡神功)。
最後は女と女の闘い。邪馬台(大和)と邪馬台(山門)の戦い。
どちらが卑弥呼の正統な後継者かを決める戦いだった。
きっと田油津媛は南朝や淀殿の如き人で、
最後まで分家に屈するのを拒否したのだろう。
そして天皇家は邪馬台国本国の最後の末裔を滅ぼして筑紫国造を置いた。
これは若井敏明説が元なんだが、
若井は天皇家が邪馬台国の分家という重大な事に気が付いてないから、
筑紫国造が邪馬台国本国の後継勢力になった事もわからなかった。
筑紫国造が男大迹天皇(諡継体)の時に反乱を起こしたのは、
滅ぼされた邪馬台国本国の代わりに決起したと言ってもいい。
天皇家の日本統一の戦後処理は少し甘かった気がする。 >>13
卑弥呼を土蜘蛛の女酋長と一緒にすんなやwwww
仮にも倭国を代表した女だぞwwwwwwwwwww
祖先の地だったら記紀がこんな粗末に扱う訳なかろう!
日向のウガヤフキアエズや出雲の大国主の様に丁重にご先祖を設定するわ
まったくもって不敬罪不敬罪!
大和に充てられた万葉仮名「山常」の「常(ト)」は山の手の「手(テ)」と同じ形態素です
例の剣に刻まれた弖已加利獲居(テヨカリワケ)の「弖(テ)」や「豊(トヨ)」の「ト」と一緒
そして「台与」「豊」は「常世」と同じ音
常世の都、それは日本のビザンティウムこと関門海峡の好古都国に決まっておる
そしてローマは大和こと邪馬台国、瀬戸内海は地中海、そして倭国を構成する各国は古代ギリシャのポリスの様な海上交易都市だ
大陸の西、ローマ帝国がテオドシウス1世の治下、統一時代最後の輝きを放っていたそのころ
東の島国ではどこか似たような帝国がまさに日の出の勢いで隆盛しはじめた
そんな3世紀後半を想像するだけで文字通りロマンチックな気分に浸れるねえ(絶賛ホルホルモード中) 進んだギリシャが最終的に遅れたローマに支配される
進んだ筑紫倭国が最終的に遅れた大和日本に支配される
古代オリエント世界をも彷彿とさせる記紀の記さざる古の日本の真実
大和がローマ、豊国がビザンチウムときたら
筑紫はバビロンさながらだ
戦いに明け暮れて領土拡大の末滅び去り、以後は征服されるだけの存在と化した
日本がローマ帝国と異なるところ
それは幾度か分裂状態を経験したものの、決定的な崩壊はついに引き起こされなかったということ
東国はローマでいうところのゲルマニアだが、同じ日本語族の土地であったことが幸いし、完全に同化ができた
さらに筑紫側では百済を失い、支配圏の中心は東にズレ込んだ
人口重心のバランスをとるため首都は東へ持っていかれる
大宝律令で中央集権体制が整い、この時に九州の独立性は死んだ
それから千年ほどして和人が北に入植し始めたので、いよいよ江戸がばりばり最強ナンバーワンと化し、畿内もオワタ
諸行無常! 私の説がなければ何も知らなかった輩が後出しジャンケンでうるさくなったものよ。
立場をわきまえよ。後出しジャンケン達よ。 東アジアの古代の列強は
中国と北朝鮮高句麗と博多湾沿岸にいにしえより都を置いた倭国だけです。
倭国は戦いを得意とする東アジアを代表する強国でした。
南朝鮮韓国は中国、北朝鮮、倭国に挟まれ時代時代により主君を変えた弱小国であり、
元々は博多湾沿岸の倭国の領地です。
南朝鮮から文化が入ったのではありません。
大陸からの文化が倭国に入っただけ。
そして時には本国倭国から朝鮮へ流れたのです。
博多湾沿岸の海洋国家倭国は大和の生みの親であり、南朝鮮、南九州、大和と支配したのです。
後に大和のクーデターで歴史が失われただけであり、
大和の歴史を崇拝する事が必然的に朝鮮から日本へとの間違った流れを生んでしまっているのです。
ですから畿内説は日本の歴史、もしくは東アジアの歴史力関係を間違った方向へ向けてしまった
売国説だという認識を持ち反省すべきなのです。
これからは正しい歴史認識になるようにしていきましょう。
その為に私の説を大いに活用していただき真の歴史を広げましょう。 >>16
まあ私は九州スレでも異端児で最初は誰も私の説を信じなかったからな。
しかし、私がいろいろな根拠を述べていくうちに今では最有力説にまでのし上がった。
そうなったとたんどうだ?
後出しジャンケンの野郎のオンパレード。
必死にデマを流し筑紫倭皇帝だけじゃないとか言い出す始末。
私の説が最有力になってから後から名乗る基地外バカが増えたものよ。
もう一度言うが、
私は九州説でも異端児で最初は誰も私の説に同意してなかった。
ところがどうだ。
私が一つずつ根拠を述べ今じゃ最有力候補までになった。
その途端私の説に影響を受けたものが後出しジャンケンで名乗り出る名乗り出る。
ほんと醜いやつらだよ。 >>19は>>18の私に影響を受けた後出し君へのレスだよ。 前スレで
>阿曇族は、長江文明の末裔で、今の中国南部から中華民族に追われた海人の一族で、
>奴国・筑紫国を築くも、ヤマトに滅ぼされて、全国各地に散らばったって感じなんですか?
阿曇氏は初期の天皇家の重臣だよ。天皇家の勢力拡大に乗って日本各地に領地をもらった。
あちこちにある阿曇関連地名はその名残。更に三韓征伐でも大活躍。
明らかに侵略のお先棒を担いだ人たちですねえ。私は朝鮮侵略は大絶賛しますが。
ただ奴国は、邪馬台国(や宗像国)の前に倭国(北九州周辺)の覇権を握ってた国だから、
邪馬台国覇権についての感情が本心でどうだったかは実はわからない。
歴史では天皇家に弓を引くような事はなかったし、まあ忠臣の部類だけどね。
だから思うのだが、もしかしたら卑弥呼(天照大神)と同時代の奴国王は、
卑弥呼の狂信的な信者で、邪馬台国の覇権確立に狂奔してたのかもしれない。
長江流域の文化がどうのという話は弥生人全体の起源の話になっちゃうんで、
特に阿曇氏に限られるものではないだろう。海人族云々というのは、
弥生人の中で漁労民や農耕民や山岳民が分かれてからの話ですね。 >>25
阿曇連氏が、初期の天皇家の重臣?何朝で重臣だったの?
日本各地にもらった領地というのは、何処何処を言っているの? >>26
阿曇連氏が古代天皇家の重臣というのは、不適切だな。
重臣というと飛鳥時代に大臣・大連に任じられた蘇我氏・物部氏級。
阿曇連氏は、内膳司(天皇の食事の調理を司る)職担当だったから、
天皇家近臣だったろうが、重臣ではなかった。 いろいろな時代の話が錯綜しているんじゃないかな。
もともとは天皇家も海人の一族で、安曇らと近親関係にありそれほど上下の違いではなかったろう。
倭国の中心地である博多湾周辺に広大な領地を持っていたわけだから、有力な王家の一つ。
最終的に某系の氏族になってしまっただけ。 30年前から瞬殺されていた江南詐欺w
【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。
https://www.yumpu.com/xx/document/view/40642374/page-1-page-2-482-
. .
長江江南からの渡来を証明する証拠遺跡もその証拠文物も一切ありません。
長江江南から渡来したと言っている考古学者も一人もおりません。
ただのフィクションです。
. >>32
あなたプノンペン。
あなた広鼻ブラック。
あなた東南アジア。
あなた遺伝子まっ赤っか。
あなたブタ広鼻。
あなた巨大タラコ唇。
あなた突顎。
あなたクッサイ汚らしい江南原人が祖先の台湾ブタピーノ。 >>34
あなたルソン。
あなたボルネオ。
あなたミンダナオ。
あなたウンコ色。
あなた赤の遺伝子afb1b3の塊。
あなたブタ便所みたいな顔面。
あなた肥溜めみたいな顔面。
あなた江南ブタ広鼻ハノイロピテクスが祖先の台湾ブタ汚物。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>28
>天皇家も海人の一族で、安曇らと近親関係に・・・・・・・・・・・
天皇家も海人族即ち海洋民?奇矯な発言だが、何が根拠なのかね?
天皇家の出自を物語る天孫降臨神話における始祖ニニギや山幸彦には、
海洋民の行状が何もないんだがね。
海洋民を代表する海幸彦から借りた釣り針を上手に使えない山幸彦は、
どうみても陸上民だ。
>博多湾周辺に広大な領地を持っていたわけだから・・・・・・・・・
何氏のことかね?海洋民は、海上が生活域で農耕民ではないから、
農地?や領地など必要ないのだが。 >>40
ハタ、ワタ/ワダ=海(これ重要)
神武天皇(祖サノの尊(ソサノオ)。また、ホホデミの尊(天火明尊)。、、、素尊)は海部(海部族)を使役し支配する立場に有ったような内容 >>41
宗像(胸形)氏は出雲帝王家(神(カモ)族)の分家、アタカタスを祖とする豪族
アタカタス家の兄媛(えひめ)、多岐津媛命は出雲帝国最後の大国主命(帝王)、ヤチホコの尊に嫁ぎ、
その女の高光媛命(下照媛)は渡来した彦火明尊と結婚なさり天香語山尊を産む。
彦火明尊(ホホデミ)はまた、アタカタス家の末娘(弟媛)、市杵島媛命とも結婚なさって押媛命を産む(押、忍。共に照り輝く(天照)の意味)
天香語山尊(天火明香語山尊)と異母妹の押媛命が結婚なさって
天村雲尊(出雲帝王家の血を色濃く受け継ぐ)を産む。
、、、 あの古代日本史やらに出てくる話マジか?
天智天皇やら半島あたりとの戦争の話だの? >>45
「広開土王碑」
*367年・・・百済が倭国に使者を送る。たぶん泣きついてきて助けを請う。
*369年・・・高句麗が百済を進撃。高句麗大敗。援軍として倭国が参加しているかも。
*369年・・・その勢いで倭国は新羅を攻撃。大勝して朝鮮半島南半分を支配下に置く。 朝鮮半島はすぐ隣だから、古代も戦国時代も近代も繰り返し戦争している。
驚くには値しない。
天皇家が海人というのは、姓の天のナントカが海人から来ているという説だね。
天孫降臨も船で渡来してくるし。
初期の倭国の領域は朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡付近。 >>12
出雲帝国分家のアタカタス家、、、後に胸形/宗像? ハタ、ワタ(ワダ)=海。
八幡様はヤ・ハタの神、、、大海神
ワタナベは海(ワタ)国(な)の民 宗像氏はそんなに古くない気がする。天武天皇からでしょ。古いのは筑紫三家連と多氏のように思う。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 舞子島古墳群 全国的に特異 阿南沖の群集墳 /徳島
http://mainichi.jp/articles/20160724/ddl/k36/070/308000c
舞子島は阿南市椿泊町燧岬(ひうちみさき)の東方800メートルにある無人島である。東西1・5キロ、南北0・2キロの狭い島だ。
舞子島古墳群(阿南市指定文化財)は、島嶼(とうしょ)部に位置する群集墳として全国的に特異な存在である。
1922(大正11)年5月7日、地元の稲垣武夫氏らによって5基の円墳が発見され、広く知られるようになった。
同年8月には、鳥居龍蔵博士も調査に訪れている。現在、10基の円墳が確認されている。
いずれも島の南西部の海岸線に位置し、高さ25メートルの断崖に開口している古墳もあり、すでに断崖の崩壊によって海没したものもある。
この写真は今年4月9日に撮影したものである。
10基の円墳は、いずれも10メートル内外の円墳と考えられる。
1号墳は22年の調査では長さ2メートル、幅1・2メートルの羨道(せんどう)部が確認されている。
私は58(昭和33)年、阿南市文化財保護委員会調査団員として初めて上陸、いくつかの円墳を確認した。
2回目は約30年後、テレビの取材で上陸しようとしたが、密生する低木に阻まれて失敗した。
橘湾から椿泊湾にかけて弥生時代から有力な海人集団が生活しており、椿町曲(まが)りから銅鐸が出土している。
銅鐸を保有できるほどの財力を持った集団が、6世紀から7世紀にかけて築造したものである。
参考「阿南市史」第1巻。(徳島民俗学会会長・エッセイスト、湯浅良幸) 弥生時代の遺跡から中国鏡破片 淡路島で初確認
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/0009323737.shtml
兵庫県淡路市舟木(ふなき)の弥生時代後期の山間地集落遺跡「舟木遺跡」で25年前に出土した青銅器が、
中国で製作された中国鏡の破片であることが明らかになった。同市教育委員会が26日発表した。
同時期の遺跡から出土した中国鏡としては兵庫県内4例目で、淡路島内では初。
島内では近年、南あわじ市の「松帆銅鐸(まつほどうたく)」(弥生時代前期末−中期前半)や、
淡路市の鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(弥生時代後期)などの発見が相次ぐ。
研究者は「(中国鏡も)弥生時代における淡路島の重要性を見直す契機の一つとなる」と評価している。
市教委によると1991年の発掘調査の際に、竪穴住居跡から青銅器4点が出土。
改めて科学分析したところ、4点が接合できることが確認され、中国南部産の材料で製作した「後漢鏡」の一部と判明した。
鏡の中央に位置するひもを通す突起「鈕(ちゅう)」で、穴が開いている。
破片は長辺2・4センチ、短辺1・7センチ、高さ0・9センチ。本体は直径10〜15センチの小型と推測されるという。
淡路市北淡歴史民俗資料館で開催中の「海人(あま)の島 淡路の歴史」展(9月25日まで)で展示している。(切貫滋巨)
■奈良県立橿原考古学研究所・森岡秀人共同研究員の話
2世紀前半に製作された中国鏡と想定されるが、一緒に出土した土器の年代をみると、
生産されてから短い期間で淡路島に入ってきたと考えられる。
中国文物が九州以東に流入した時期や広がっていく過程を知る上でも貴重な発見だ。
中国鏡の破片と判明した舟木遺跡出土の青銅器(淡路市教育委員会提供)
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/img/b_09323738.jpg
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/img/b_09323739.jpg >>49
和田で調べると、苗字が集中している集落は古代の港っぽいのが多いな。
あと、川の畔の集落とか。
渡辺は東日本が多いからいまいりわかりにくい。
でも、岐阜県の美濃加茂市って、かなり古いみたいだな。
かも(加茂)って付いてる地名のところは古代から栄えていたんだろうか。 >>54
渡辺は大阪の渡辺が発祥ではなかったか?
今の天神橋がある辺り >>50
宗像は新しいよね。
津守ってもっと多いのかと思ってた。
大学の同級生にいたからな。希少苗字だったんだな。 >>50
宗像の名の由来が刺青なのなら相当古い一族になるんじゃないか? 日本遺産認定記念展:古代「海人」の暮らし紹介 江戸〜昭和期の「どんざ」も 淡路 /兵庫
http://mainichi.jp/articles/20160730/ddl/k28/040/479000c
島内3市が申請した「『古事記』の冒頭を飾る『国生みの島・淡路』〜古代国家を支えた
海人(あま)の営み〜」をテーマにしたストーリーが日本遺産に認定されたのを受け、
淡路市北淡歴史民俗資料館(同市浅野南)で海の民「海人」の営みが育んだ島の歴史を紹介する
記念展示「海人の島 淡路の歴史〜日本遺産とどんざの魅力」が開かれている。【登口修】
ストーリーでは、天地創造の神話で最初に誕生する淡路島では金属文化をもたらし、
後に塩作りや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた海人と呼ばれた海の民の存在があり、
淡路島は古代国家形成期の中枢を支えた海人の歴史を今に伝える島−−としている。
展示では、先端文化を伝えた弥生時代の海の民▽山間地集落と鉄器文化▽
王権を支えた淡路島の海人▽海人の塩づくり▽海人の暮らし▽律令期の海人の活躍−−などをパネルで紹介。
北淡路の海岸近くの遺跡から出土した製塩土器やイイダコ漁に使われた壺(つぼ)、棒状土錘(どすい)などの漁具、
貴船神社遺跡(同市野島平林)の石敷き製塩炉のレプリカ、五斗長垣内遺跡(同市黒谷)出土の鉄鏃(てつぞく)や
板状鉄斧(てっぷ)、鉄製工具など考古資料約120点を展示。
「どんざ」は江戸時代〜昭和初期にかけ北淡路地域などの漁師が着用していた衣服で「刺し子のどんざ」と呼ばれる。
防寒や防潮の役目を果たし、漁をする時の仕事着から発展し、やがて寄り合いや町行きのよそいきとして着られるようなった。
よそいきのどんざや何度も継ぎ当てて仕事着として使われたどんざ、綿布を織るのに使われた糸繰機(糸車)などが紹介されている。
会期は9月25日まで。午前9時〜午後5時、入場料は中学生以上300円、小学生150円。月曜日が休館。
「刺し子のどんざ」を興味深そうに見る女性=兵庫県淡路市浅野南で、登口修撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/07/30/20160730oog00m010034000p/9.jpg 伽耶・倭国・ヤマトで大和朝廷
高句麗の南下で伽耶の難民が日本へ移住
「伽耶のある部族の王が水鳥の紋章」これが応神天皇?
水鳥の土偶が日本海側で出土
日本海・瀬戸内海の水軍の紋章が水鳥 >>55
それは秀吉に捕まった奴らだろ
秀吉の海賊狩りの時にほとんどの渡辺は東日本に逃げたからな >>60
たしか、嵯峨源氏の源融の子孫、源綱が大阪の渡辺に住んで、渡辺綱を名乗ったのが渡辺氏のおこりだろ?
それ以外の渡辺氏もいるだろうから、綱の系統がすべてとは思わんけどな
渡辺なんてどう考えてもいろんなとこにありそうな地名だもんな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>63,>>51,>>38
この1ヶ月に同一記事を3度も反復表明する貴殿は、認知症患者だね? 海神を祭る民はいくつかの系統があったのではないか?
時代、地域、民族、その他いろいろ。
海神族が時代とともに合従連衡して敵になったり味方になったり。 >>65
日本中の渡辺さんが天皇の血筋だと思ってるの? >>66
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。 そんなことより女性専用車両は男性差別なんですよね。 宗像大社や住吉大社などの海神族は、
航海の目印となる三連星のオリオン座を祭神としている。 海神族は日本までたどり着いたら、船でどこにでも行ける。
瀬戸内も四国も美濃もあちこちに海神族の足跡がある。
長野県の安曇野も、海神族が船の材木を求めて糸魚川・千曲川を
遡ったのかもしれない。 海神族って宗像から日本海じゃないのか?
古代の関門海峡は通過できなかったらしい。
仲哀のときに掘削したとか。
元の宇佐が内陸の迂回路だったらしいよ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ウガヤフキアエズ命は海神族奴国の綿津見神の娘の豊玉姫を嫁にもらっている。
天皇家と海神族は古代から親戚ではないか? 綿津見の神もイザナギの子供だったとかどこかで読んだ気がします。
まあ、こじつけかもしれませんが、姻戚関係にある豪族であったことは間違いないでしょう。 >>77
親戚どころか、神武の母親も婆さんもワニだからなw 天皇家も古くは天という姓があり天神と呼ばれたが、天(あま)は海人(あま)に由来するという。
海神とは古い親戚。 海と空は、水平線で一体となるから天なのか?
それで、海人族の我らは天から降りてきた天孫降臨なるぞという
神話になったのだろう。
たぶん中国という天から、帆船でわたってきたのだろう。 都から離れることを下ると表現する。
鉄道や道路の上り下りと同じ。 高天原と筑紫や出雲はそこそこ早く行き来できたようなので、対馬とか、朝鮮半島とか。 朝鮮や対馬に、天というような文化があるはずがない。 天とはたぶん南京あたりだろう。春秋時代の呉ではないの? 祖母の田舎の淡路島の離れ島の沼島は先祖が海人族だって言ってるんだけど、誰か詳しい人いないですか。
沼島は国産みで最初に出来たオノコロ島の比定地の有力候補で、天御柱のモデルとされる奇石もあります。地元の人は立神さんと呼んでいます。 >>92
海人族で正しい。
何故なら、耕地もなく狩りをするにも狭すぎて海人でないと生きていけない土地だから。 >>51
コピペするだけで読んでないと思うけどw
江南から伝わったのでないと言い切るなら、どこから伝わったのか?
日本に伝えたというその場所には、どこかから伝わってから日本に伝えるまでの
土器や道具の代々の変遷が明らかな遺跡が存在するのか? >>94
日本の日本史の教科書に書いてあるだろ。
ブタみたいな顔をしたafb1b3たっぷりの遺伝子が真っ赤っかな
クッサイ汚らしい南方蒙古人種の華南ブタが祖先の台湾ブタ。 ↑自分の書き込みにフォローする変態台湾ブタ顔原人
afb1b3たっぷりたっぷりの、遺伝子真っ赤っかなクッサイ汚らしい
南方モンゴロイド華南ブタが祖先の台湾ブタ顔汚物生命体 おのころ島は博多湾の能古島。
イザナギが最初に征服して奴国を築く基礎となった倭国発祥の地。 呉の姫氏、越王勾践氏、斉の姜氏、箕氏準王の子孫も日本に来ていただろう。
当時は戦乱のシナから、道教の蓬莱山を目指して多くのシナ人が日本に来ていた。 >>99
で、それを証明する証拠遺跡とその証拠土器・石器と、
そんな狂った事を言っている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
台湾ウンコ色ブタ広鼻巨大タラコ唇ブタ顔原人。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています