【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ 渡来系弥生人は圧倒的少数
そもそもNHKが流布した骨格敵特徴の標準モデルがウソだったとNHKも認めてるし
今のDNA研究では生活形態の変化による骨格変形が大半で、一部に縄文系弥生人型、混血系弥生人型、渡来系弥生人型と「思われる」人骨があるってだけ >>180
一重まぶたはX染色体からの優性遺伝
そもそも骨格からまぶたの特徴を割り出すことは不可能で、縄文人=二重、弥生人=一重は完全なデマ 一重まぶたって地域差大きくない?
15年ほど転勤族やってたが、大阪と福岡は妙に単が多かった印象
そして不思議と大阪も福岡も北東部に多かった >>182
逆だよw
母系からの劣性遺伝
大阪や福岡の北部は戦後引揚者に紛れた密入国者や在留朝鮮人が多いと言われてるからだろう そもそも現在の朝鮮・韓国人と縄文晩期に朝鮮半島に住んでた人種は違うだろ
バイカル湖以西が起源とされる現在の朝鮮・韓国人を基準に想像するから渡来系弥生人が一重にされてるだけで
バイカル湖以東が起源とされるアイヌや黄河系、揚子江系はゴリッゴリの二重 >>185
前々から疑問でしょうがないんだけど
現生日本人に70%近く継承されてる"縄文人"の遺伝的形質はインド西部からチベットまでに多く残ってて、シベリア東部にはわずかしか残ってない。
なのに縄文人は北方由来って説ばかりが取り上げられる。
そして現生日本人に30%以上継承されてる"弥生人"の遺伝的形質は主に湖南省や江蘇省に残ってるのに、これらの形質を持った種が何故か朝鮮半島経由で渡ったことになってる。
ちなみに"弥生人"の形質は現生韓国人には引き継がれていない。
何が何でもモンゴル由来や朝鮮由来にしたいバイアスが掛かってるとしか思えない。
海人族は普通に考えて航海技術を持ち、かつ縄文人形質を多く引き継いでるインド・ポリネシア系が起源だと思うわ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>187
縄文人の祖先たる旧石器人がもたらした石器はどこが起源の石器であったか?
なぜ弥生時代は朝鮮土器で幕開けせず、沿海州南部と文様の特徴が一致する土器で幕開けするのか?
中国なんて何も関係ない。
もっと勉強しろよ小学生レヴェルのおまえ。 >>190
お前はレスのマナーを学ばないとな
大人なら >>191
おまえはサギデマをやめないとな。
華南系中国人の小学生のチミw 樺太ルートと朝鮮ルートと沖縄ルートがあるのに縄文人を一種類だと思い込むのはよくないなあ 3ルート共に海人族って事はあり得ないし
3ルート共にバイカル湖由来って事もあり得ない >>192
思い込みが激しすぎると前が見えなくなるぞ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>190
一致はしてないかな
類似性があるってだけ >>156
鬼頭推計では、山陰は一貫して人口過疎だがな。 >>188
海人族は、縄文人と混合した南方O1a系種族。
この海人族は縄文草創期に南九州へやってきて、縄文早期までに西日本に広がった。
西日本は、在来縄文人とこの南方系O1a系種族との混合文化。
博多の安曇族のベースは、そのO1a系の可能性が大きい。 >>199
馬鹿げている。
大陸半島との海運による交易が盛んだった時代、山陰は有利だろ。 >>200
安曇族はもっと新しいだろ。
彼らは弥生系だと思うよ。 縄文晩期 弥生時代(西暦200年)
山陰 1千人 1.8万人
山陽 1千人 4.9万人
北九州 3千人 4.1万人 >>202
1万年前には、済州島へ縄文人が渡っていた。
また7600年前からは、蔚山や金海で縄文人の遺跡がみられる。
この縄文人たちは、南九州から北上した者たちで、博多あたりはこの縄文人の拠点だったとみられる。
彼らは、さらに北上して出雲や丹後などへも進出した。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 天津神が海人の神のことなら、海人族は天皇家の祖を含む倭王家そのもの。
もちろん正当な金印の所有者でもある。
その頭領の一人がアマテラス(海を照らす=支配する)。 >>210
残念ながら古代の海はアマではなくワタなんだよなぁ
海や海人をアマと呼称するのは七世紀になってから なんでも7世紀にするなよ。
それ以前の文献がないだけだろ。
では天津神と国津神の対比は何を意味するんだ? >>212
天津神=農耕縄文人
国津神=狩猟縄文人 国津神の大国主は秋に収穫の祭りをするから、明らかに農耕民。
スサノオは新羅から種や苗木を持ち込んで農業を広めた神として知られる。 >>214
スサノヲは天津神
オオクニヌシはその六代孫
整合性は取れてるじゃないか 大国主 wikiより引用
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。
国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。 >>218
スサノオは天津神でオオクニヌシはその六代孫とも書いてあるだろ 高天原を追放されたから、国津神の扱いになったんだろうね。
大事なのはそこではなく、国津神が農業の神で、その豊葦原中国(稲穂が生い茂る豊かな国)を海人アマテラスが狙ったということ。 天津神=対馬海峡の海洋氏族
国津神=九州、本州の縄文系および弥生系の全て >>226
邇邇藝が妻の浮気を疑った時のセリフを読むに、天孫族以外のほとんどを国津神と総称しているように読める。 >>227
全部ではなく、九州から本州はのよくある播種の一部でしょ。 天孫族だって残らずに大和に引っ越しているから、同じことかと。
九州から本州への何波にもわたる植民があったんだよ。
だから博多湾沿岸の稲作が全国に広まった。 疑問として残るのは本流である安曇が一人残らず移民したとするならば傍流である住吉はなぜ残ったのか
ワタツミ信仰自体も安曇から奪ったように見える
また安曇が長野に閉じ篭もったのに対して住吉は全国に分散している 日本書紀では安曇の始祖である大浜宿禰が全海人族の統率者となったと記されてるのに、その後の没落っぷり・・・ もともと分家がたくさんあり、住吉はその中でも宗家として君臨し続けたのだろう。
没落した分家は無数にあるはず。 安曇を乗っ取った住吉は元々河漁や河川水運の元締め
住吉神社の原社は那珂川中流域に残る現人神社なんだよな
上の方で海に該当する古倭語はワタだって説を挙げた人がいたが、当時のアマは水辺ってニュアンスだったのだと思われ >>234
膳氏(高橋氏)との闘争に負けたからなあ。 >>234
ところで、その大浜宿祢は博多安曇氏とどんな関係なん。 アマとワタの違いがよくわからないな。
アマテラスと大国主
天津神と国津神
ワダツミと大山祇
海幸と山幸
だいたい陸海がセットだから、言い換えに過ぎないと思うけどね。 >>237
当時のアマは水辺ってニュアンスだったのだと思われ
じゃなくて
当時のワタは水辺ってニュアンスだったのだと思われ
じゃない?
ワタがどういう経緯でアマと変化したのかも興味深い 高天原が海の向こうの都なら、ワタが博多湾の水辺のイメージだな。 >>244
高天原が海の向こうの都とかありえんだろ >>244
キムチ臭い話しようとしてるならどっか行って
ここは日本史板だからさ 海の向こうといっても、せいぜい沖ノ島か対馬だと思うけどね。
神代の地理的スケールはその程度。 >>247
沖ノ島は100%違う
あそこは人が住んだ痕跡は一切ない 王族だけいたのかも。
数棟だけ宮があったとしても、痕跡なんて残らなかったろう。
沖ノ島がなぜ長期にわたり大規模な祭祀の場となったのか。
宗像三女神を敬うように神勅を下したのは誰だったかな? >>249
アホかよwww
住居の痕跡や生活の痕跡は見つかってないんだって(笑)
沖ノ島は祭祀の対象である聖域 沖ノ島は海路の目印にされなかったくらい秘匿された島
宗像の氏族以外には知られたくなかったんだろうな 海人族といっても複数の氏族があっただろうに、その中でも実は海人族とは書かれない天津神こそ、海人の頂点に君臨した王家なんだろうと。
海路を照らす(支配する)王がアマテラス。
ちなみに猿田彦は海と陸を照らす神として登場するが、宗像三女神に守護された天孫に道を譲り、筑紫までの道案内をしたとある。
猿田彦は博多湾沿岸の実力者と考えられる。
では天孫はどこからどこへ移動したのか。
沖ノ島から福岡へではないのか。 >>250
だからさ、なぜ沖ノ島を祭ったのかという問題だよ。 >>252
天のアマと海のアマは同音じゃないって知らないのかな? 天孫系がこぞって海人系と婚姻するのは同族ではない傍証 >>252
だから住居跡も生活痕もない島なんだから妄想はそのへんにしときなよ。
そもそも真水が出ない島なんだから高天原である可能性はゼロ
まだ対馬のほうが住める島って点でワンチャンあるレベル ここで淤能碁呂島伝説の残る博多湾内の有人島 能古島を高天原の候補地としてぶっ込んでみる >>257
対馬説もあるけどさ、魏志倭人伝での扱いが低すぎるのが違和感がある。 >>259
高天原からやってきて能古島を作った(国土とした=征服した)から、ニアミスかと。 高=高貴な
天=海の
原=集落(バル)
海上の島ですね。 >>264
高天原が実在した場所だと考えてるのって学会でも市井でもごく僅かだと思うんだが >>265
半島まで行ったら行き過ぎ。
後漢書において、倭は半島南岸から九州北岸まで。
魏志倭人伝では、半島南岸の狗邪韓国は寒村あつかい。 >>266
現代カタカナで天も海もアマと表記されるだけで、全くの別物
君の思考はチョンコが現代朝鮮語で万葉集が読めるとか言い出すのと同じ
学術的ではない感情(願望)論 よくわからないものはなんでも非実在で済ませるのは、悪いくせだ。
記紀はかなり具体的に高天原との往来を描いている。
ただ単にその場所がわからなくなったか、隠したかったか。 >>269
日本人は掛詞とか好きだからね。
その程度の音韻の差は意味があるとは思えない。
まして、もともとは漢字がなかった時代の伝承だしね。 天はアマとも読めるがアメとも読めるがワタとは読まない
海はワタないしアマであり、アメとは読まない
これが現代考古学上で天と海が別音であるという傍証になっている
詳しくは上代日本語を調べてみると良い 天津神と国津神は、海幸と山幸のように、海と陸を意味しているのだろう。
アマに天という字を後世になり当てただけと考えられる。
そう考えると、天津神、天照、高天原のアマはすべて海人または海のことだとして一貫して説明がつく。 >>272
それは後世の訛りに過ぎない。
上古よりさらに前の音韻を反映しているという根拠にならない。 天から降りてくる神と海を渡ってくる来訪神は別物
これは世界中の神話に共通すること ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています