【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ >>214
スサノヲは天津神
オオクニヌシはその六代孫
整合性は取れてるじゃないか 大国主 wikiより引用
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。
国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神。 >>218
スサノオは天津神でオオクニヌシはその六代孫とも書いてあるだろ 高天原を追放されたから、国津神の扱いになったんだろうね。
大事なのはそこではなく、国津神が農業の神で、その豊葦原中国(稲穂が生い茂る豊かな国)を海人アマテラスが狙ったということ。 天津神=対馬海峡の海洋氏族
国津神=九州、本州の縄文系および弥生系の全て >>226
邇邇藝が妻の浮気を疑った時のセリフを読むに、天孫族以外のほとんどを国津神と総称しているように読める。 >>227
全部ではなく、九州から本州はのよくある播種の一部でしょ。 天孫族だって残らずに大和に引っ越しているから、同じことかと。
九州から本州への何波にもわたる植民があったんだよ。
だから博多湾沿岸の稲作が全国に広まった。 疑問として残るのは本流である安曇が一人残らず移民したとするならば傍流である住吉はなぜ残ったのか
ワタツミ信仰自体も安曇から奪ったように見える
また安曇が長野に閉じ篭もったのに対して住吉は全国に分散している 日本書紀では安曇の始祖である大浜宿禰が全海人族の統率者となったと記されてるのに、その後の没落っぷり・・・ もともと分家がたくさんあり、住吉はその中でも宗家として君臨し続けたのだろう。
没落した分家は無数にあるはず。 安曇を乗っ取った住吉は元々河漁や河川水運の元締め
住吉神社の原社は那珂川中流域に残る現人神社なんだよな
上の方で海に該当する古倭語はワタだって説を挙げた人がいたが、当時のアマは水辺ってニュアンスだったのだと思われ >>234
膳氏(高橋氏)との闘争に負けたからなあ。 >>234
ところで、その大浜宿祢は博多安曇氏とどんな関係なん。 アマとワタの違いがよくわからないな。
アマテラスと大国主
天津神と国津神
ワダツミと大山祇
海幸と山幸
だいたい陸海がセットだから、言い換えに過ぎないと思うけどね。 >>237
当時のアマは水辺ってニュアンスだったのだと思われ
じゃなくて
当時のワタは水辺ってニュアンスだったのだと思われ
じゃない?
ワタがどういう経緯でアマと変化したのかも興味深い 高天原が海の向こうの都なら、ワタが博多湾の水辺のイメージだな。 >>244
高天原が海の向こうの都とかありえんだろ >>244
キムチ臭い話しようとしてるならどっか行って
ここは日本史板だからさ 海の向こうといっても、せいぜい沖ノ島か対馬だと思うけどね。
神代の地理的スケールはその程度。 >>247
沖ノ島は100%違う
あそこは人が住んだ痕跡は一切ない 王族だけいたのかも。
数棟だけ宮があったとしても、痕跡なんて残らなかったろう。
沖ノ島がなぜ長期にわたり大規模な祭祀の場となったのか。
宗像三女神を敬うように神勅を下したのは誰だったかな? >>249
アホかよwww
住居の痕跡や生活の痕跡は見つかってないんだって(笑)
沖ノ島は祭祀の対象である聖域 沖ノ島は海路の目印にされなかったくらい秘匿された島
宗像の氏族以外には知られたくなかったんだろうな 海人族といっても複数の氏族があっただろうに、その中でも実は海人族とは書かれない天津神こそ、海人の頂点に君臨した王家なんだろうと。
海路を照らす(支配する)王がアマテラス。
ちなみに猿田彦は海と陸を照らす神として登場するが、宗像三女神に守護された天孫に道を譲り、筑紫までの道案内をしたとある。
猿田彦は博多湾沿岸の実力者と考えられる。
では天孫はどこからどこへ移動したのか。
沖ノ島から福岡へではないのか。 >>250
だからさ、なぜ沖ノ島を祭ったのかという問題だよ。 >>252
天のアマと海のアマは同音じゃないって知らないのかな? 天孫系がこぞって海人系と婚姻するのは同族ではない傍証 >>252
だから住居跡も生活痕もない島なんだから妄想はそのへんにしときなよ。
そもそも真水が出ない島なんだから高天原である可能性はゼロ
まだ対馬のほうが住める島って点でワンチャンあるレベル ここで淤能碁呂島伝説の残る博多湾内の有人島 能古島を高天原の候補地としてぶっ込んでみる >>257
対馬説もあるけどさ、魏志倭人伝での扱いが低すぎるのが違和感がある。 >>259
高天原からやってきて能古島を作った(国土とした=征服した)から、ニアミスかと。 高=高貴な
天=海の
原=集落(バル)
海上の島ですね。 >>264
高天原が実在した場所だと考えてるのって学会でも市井でもごく僅かだと思うんだが >>265
半島まで行ったら行き過ぎ。
後漢書において、倭は半島南岸から九州北岸まで。
魏志倭人伝では、半島南岸の狗邪韓国は寒村あつかい。 >>266
現代カタカナで天も海もアマと表記されるだけで、全くの別物
君の思考はチョンコが現代朝鮮語で万葉集が読めるとか言い出すのと同じ
学術的ではない感情(願望)論 よくわからないものはなんでも非実在で済ませるのは、悪いくせだ。
記紀はかなり具体的に高天原との往来を描いている。
ただ単にその場所がわからなくなったか、隠したかったか。 >>269
日本人は掛詞とか好きだからね。
その程度の音韻の差は意味があるとは思えない。
まして、もともとは漢字がなかった時代の伝承だしね。 天はアマとも読めるがアメとも読めるがワタとは読まない
海はワタないしアマであり、アメとは読まない
これが現代考古学上で天と海が別音であるという傍証になっている
詳しくは上代日本語を調べてみると良い 天津神と国津神は、海幸と山幸のように、海と陸を意味しているのだろう。
アマに天という字を後世になり当てただけと考えられる。
そう考えると、天津神、天照、高天原のアマはすべて海人または海のことだとして一貫して説明がつく。 >>272
それは後世の訛りに過ぎない。
上古よりさらに前の音韻を反映しているという根拠にならない。 天から降りてくる神と海を渡ってくる来訪神は別物
これは世界中の神話に共通すること もともとアマとワタという二つの語があった。
(使い分けは不詳)
そのうちアマにだけ天の意味が付加されてアメという音の変化があり、同時に天の文字が当てられた。
これで説明できる。 >>278
文盲なの?
> 天はアマとも読めるがアメとも読めるがワタとは読まない
> 海はワタないしアマであり、アメとは読まない
> これが現代考古学上で天と海が別音であるという傍証 >>284
せっかく久々に楽しめると思ったのに文盲か・・・ 漢字の方が後から使われるようになったよね。
また、アメという音も後から使われるようになったのだろう。 というか、話を元に戻さんか?
海の安曇が取り込んだ河の住吉やったのに、安曇は摂津に移動し住吉が残ったのは何でなんやろなって話やったろ? >>287
それこそ根拠がないお前一人の妄想だろマヌケwww 横からだが、日本史板の特に古代スレで「〜たのだろう。」って言うやつは例外なくチキガイ。
思い込みが強く、他説を聞き入れる耳もなければ、聞き止める度量もない。
そしてどんどん追い詰められるスタイルが共通点。 >>240
大浜は淡路の野島海人の親玉だと思うが、大浜は淡路に住んでいただろう。
それが博多安曇とどうつながっとんのよ。
系図出しなよ、みてやるさかい。 >>241
磯良を氏神にしとる一族やと聞いとるがな。 >>292
アホは日本書紀の巻十読み直してから出直して来なね >>296
ワイの写し間違えや
>>227は長野と書いとったな
堪忍やで 海人族はマリネッラってことだろ
海と川に隔たりはないんじゃないか? wiki 阿曇磯良より引用
阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)は、神道の神である。
海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。
阿度部磯良(あとべのいそら)とも[1]。
神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという中世の伝説で知られる[2]。
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。
民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。
また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』
(愚童訓より) 棲み分けはあったんじゃないか?
大浜宿禰が海人宰となって当初は住吉もその配下に入ってたわけだし >>300
嫌味が通じないとか笑えないよー(二度目) 安曇は関東関西九州の各地で祀られていることになるなあ。 マリネッラって何?
ネクタイのブランドかパタリロの国か? >>305
がんばってwikiで調べた感丸出しで笑う >>304
博多って地名は安曇氏が移住した後に出来たものだから博多安曇氏なんて実在しないってことだろ
言わせんなよ >>292
安曇の百足は、景行天皇の北部九州の御幸の際に、お付き人として名がみえるな。
肥前風土記や。
また別に、「大和政権に帰属した段階で摂津国に拠点を移した」とする説もみられる。
このことからすると、大浜は摂津に住んでいたと考えられるが、肥前風土記に出てくる安曇百足は摂津から景行天皇にお付きで付いていったと考えられるな。
そうすると、摂津へ移住したというのは、どの文献にあるんか。
百足が博多の安曇の子孫やと確認できる文献が必要や。
どこにあるんか。 >>308
すまんな。
安曇は糟屋の志珂郷あたりの一族やな。
ウィキのでは、百足の一党は志珂から摂津へ移住した者らや、と書いてあるが。
その「移った」というのは、どこに出てるんか。
見当たらんぞ。
百足はほんまに志珂から摂津へ移った一党か。
はっきりせんぞ。 安曇は海住みで住吉は住み江
つまり海に住む支族がアヅミと名乗り、川に住む支族がスミエないしスミヨシを名乗っただけで氏としては同族という推察もある 九州から畿内に何波も植民があり、その中の一つだろうね。 博多あたりは海人の根拠地だったようだから、安曇族がそのあたりにいたのは確かだろうけど、その志珂の安曇族が摂津へ移住したという確かな証拠はないな。
推測としては、あり得るとは思うがね。 それどころか常陸国の鹿島神宮まで志賀島の末裔なわけだから、摂津くらいはたやすいものだろう。
とすれば、この氏族は瀬戸内海と太平洋に進出した氏族ということになる。 >>310
それって九州の研究者の中では確定事項とされてるちゃんとした学説だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています