【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ >>278
文盲なの?
> 天はアマとも読めるがアメとも読めるがワタとは読まない
> 海はワタないしアマであり、アメとは読まない
> これが現代考古学上で天と海が別音であるという傍証 >>284
せっかく久々に楽しめると思ったのに文盲か・・・ 漢字の方が後から使われるようになったよね。
また、アメという音も後から使われるようになったのだろう。 というか、話を元に戻さんか?
海の安曇が取り込んだ河の住吉やったのに、安曇は摂津に移動し住吉が残ったのは何でなんやろなって話やったろ? >>287
それこそ根拠がないお前一人の妄想だろマヌケwww 横からだが、日本史板の特に古代スレで「〜たのだろう。」って言うやつは例外なくチキガイ。
思い込みが強く、他説を聞き入れる耳もなければ、聞き止める度量もない。
そしてどんどん追い詰められるスタイルが共通点。 >>240
大浜は淡路の野島海人の親玉だと思うが、大浜は淡路に住んでいただろう。
それが博多安曇とどうつながっとんのよ。
系図出しなよ、みてやるさかい。 >>241
磯良を氏神にしとる一族やと聞いとるがな。 >>292
アホは日本書紀の巻十読み直してから出直して来なね >>296
ワイの写し間違えや
>>227は長野と書いとったな
堪忍やで 海人族はマリネッラってことだろ
海と川に隔たりはないんじゃないか? wiki 阿曇磯良より引用
阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)は、神道の神である。
海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。
阿度部磯良(あとべのいそら)とも[1]。
神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという中世の伝説で知られる[2]。
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。
民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。
また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』
(愚童訓より) 棲み分けはあったんじゃないか?
大浜宿禰が海人宰となって当初は住吉もその配下に入ってたわけだし >>300
嫌味が通じないとか笑えないよー(二度目) 安曇は関東関西九州の各地で祀られていることになるなあ。 マリネッラって何?
ネクタイのブランドかパタリロの国か? >>305
がんばってwikiで調べた感丸出しで笑う >>304
博多って地名は安曇氏が移住した後に出来たものだから博多安曇氏なんて実在しないってことだろ
言わせんなよ >>292
安曇の百足は、景行天皇の北部九州の御幸の際に、お付き人として名がみえるな。
肥前風土記や。
また別に、「大和政権に帰属した段階で摂津国に拠点を移した」とする説もみられる。
このことからすると、大浜は摂津に住んでいたと考えられるが、肥前風土記に出てくる安曇百足は摂津から景行天皇にお付きで付いていったと考えられるな。
そうすると、摂津へ移住したというのは、どの文献にあるんか。
百足が博多の安曇の子孫やと確認できる文献が必要や。
どこにあるんか。 >>308
すまんな。
安曇は糟屋の志珂郷あたりの一族やな。
ウィキのでは、百足の一党は志珂から摂津へ移住した者らや、と書いてあるが。
その「移った」というのは、どこに出てるんか。
見当たらんぞ。
百足はほんまに志珂から摂津へ移った一党か。
はっきりせんぞ。 安曇は海住みで住吉は住み江
つまり海に住む支族がアヅミと名乗り、川に住む支族がスミエないしスミヨシを名乗っただけで氏としては同族という推察もある 九州から畿内に何波も植民があり、その中の一つだろうね。 博多あたりは海人の根拠地だったようだから、安曇族がそのあたりにいたのは確かだろうけど、その志珂の安曇族が摂津へ移住したという確かな証拠はないな。
推測としては、あり得るとは思うがね。 それどころか常陸国の鹿島神宮まで志賀島の末裔なわけだから、摂津くらいはたやすいものだろう。
とすれば、この氏族は瀬戸内海と太平洋に進出した氏族ということになる。 >>310
それって九州の研究者の中では確定事項とされてるちゃんとした学説だよ 日本書紀の神代紀にも住吉三神の底津少童 命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所 祭る神なりと書かれてるから住吉は阿曇連 安曇が登場するのは応神天皇の三年からだが、この安曇はすでに摂津あたりに住んでいたし、それ以降の安曇氏も山城だったりして、おおむね畿内在住。
一方、一世代の前の仲哀天皇のときには、宗像や伊都の勢力は仲哀天皇を出迎えているのに儺県からの出迎えはない。儺県にはどのような勢力がいたのかはっきりしない。
そして、仲哀天皇崩御のあと、神功皇后が西征のために朝鮮半島を望見させるときになって初めて、磯鹿の海人の草という人物を物見に行かせることが書かれている。
どうも、変ではないか。
儺の津には、宗像や伊都のような地方豪族の姿がみえない。
「磯鹿の海人・草」という程度の扱いとなっている。
仲哀天皇を出迎えた宗像の豪族の場合は岡県主の祖熊鰐と書き、伊都の豪族の場合は伊都県主の祖五十迹手と書いているのとは大変な差だ。
この「磯鹿の海人・草」が綿津見を祀る安曇だとは、どこにも書いてない。
仲哀天皇があたかも当然のように橿日宮に入っていることなども考えると、まるで大和の朝廷の直轄地となっていて、在地の豪族がいないような雰囲気だ。
これは、実に奇妙な書きっぷりだと言うほかない。
では、一世代後の応神天皇のときになって突然現れ海人の宰となる摂津の安曇連と、この朝廷直轄地のようなの儺の津の隣の磯鹿の海人・草との関係はどうなるのか。
志賀島で綿津見を祀る安曇氏は、いったいどこにいるのかということになってくる。
そもそも、応神天皇以前の志賀に、安曇族はいたのだろうか。 >>316
何をどう勘違いしてるのか理解不能だが、
海人宰は志賀島の大浜宿禰(阿曇大浜)と和名類聚抄にあり、
志賀島から古賀の手前までを統治していたのが分かる。
黒田家が入ってくるまで現在の中央区や博多区の大半は海の底であり、
現在は那珂川中域に位置する現人神社(元住吉)も当時は那の津(志賀島から内陸側の湾・現在の博多湾)河口だったので、
川住みの住江(後の住吉)と海住みの阿曇(共に阿曇連)が那の懸の監督であったことに疑念の余地はない。
筑前国風土記では志賀島に関する逸話として、
神功皇后に添った陪臣(又家来)として大浜の名が確認できる。
定説では阿曇比羅夫の戦死後に信州への大移動を経てから摂津入りしたとされる。 博多区には4世紀初頭前後の那珂八幡古墳と5世紀初頭前後の老司古墳の前方後円墳があるものの、このおよそ100年間に次々と造られる前方後円墳がなく、博多には豪族の墓らしい前方後円墳群がみられない。
このことは、博多には那珂の八幡古墳を造った勢力以来100年間にわたって豪族の姿がみられないことになる。
ようやく、5世紀頃になって豪族の勢力が現れて老司古墳を造るということになる。
このような状況をみると、仲哀天皇を出迎える儺の津からの舟はなく、また吾瓮海人烏摩呂や磯鹿の海人・草という人物が物見に使わされる程度のありさまであることは納得できそうなことになる。
やはり、この時期には、儺の津あたりは大和政権の直轄地のような扱いとなっていたのではないか。
だとすると、強引に解釈すれば、安曇氏が志賀島で綿津見神を祀るようになるのは、5世紀以降からということになるのではないか。
この構図が確かならば、安曇氏は糟屋郡から各地に分散したのではなく、畿内から各地へと分散したということも可能だ。
実際に、筒男神を祀る津守氏は住之江の豪族で、安曇氏とは同族だとするのであるから、安曇氏が摂津発祥だとしてもおかしくない。
つまり、博多あたりにあった倭奴国は、安曇族とは直接関係のない海人族の国だったということになってくる。
それでいいのでしょうか。 >>318
違うよ
ワタツミを祀った阿曇は仲哀らによって大和政権に取り込まれ信州に飛ばされた
残ったワタツミ信仰は同族の住吉に継承された 摂津の阿曇野村じ百足については和名類聚抄に綿津見を始祖とし、筑前から渡ったと明記されている 魏志倭人伝の時点で、すでに奴国は權力が不在だよ。
小さな伊都に大きな權力が集中していたのとは対照的だ。
別に大和云々は関係ない。
そもそも仲哀は穴門に宮を構え、ほぼ九州人であり、大和の人間ではない。
祖父の景行天皇の頃から九州にいたのだろう(景行天皇は子女が多い)。 肥前国風土記によれば景行天皇が巡幸で平戸の志式島行宮を訪れた時に「陪臣」の阿曇百足に西側の島々を偵察させたと書かれている。
陪臣は又家来つまり家来の家来で、筑前国風土記では阿曇大浜が神功皇后の陪臣と書かれている。
景行天皇から神宮皇后の代まで約2世紀もの開きがあるにもかかわらず、阿曇は陪従せず陪臣のままである点が興味深い。 >>322
は??馬觚と卑奴母離が二万余戸の人口を擁してるやんけ >>323
では阿曇連の上で天皇の下なのは誰なのか >>320
和名抄では郷名の記載がなされていたが、氏族の出自については書かれてなかったように思うけどね。
その記事は、和名抄のどの部分に出ているのか教えてほしい。 >>319
そもそも、摂津の安曇氏が糟屋郡の志賀から移ってきたと、どの文献に載っているのかまったくわかりません。 新撰姓氏録では安曇氏の祖神が書かれているがそれだけであり、安曇氏がどこから来たかについては何も書いてない。 >>249
宗像の話を書くとすぐわかる嘘書いて否定するやつが相変わらず日本史板に常駐してますな。
現在の船着場付近には弥生縄文の出土物があり人が住んでいた痕跡はある。また、真水も確保できる。
ただ、水が確保できるとは言え大人数が定住するほどの量の確保は無理と思うので現在のように一人とか数人常駐で、祭祀の時だけある程度の人数が数日留まるといった形だったのではないかと思います。
なんで真水が出ないと決めつけたのかがわからん。あの大きさでそれなりの高さの山があるんだから水が出ないと考える方が無理があると思うがな。
無能君にとって知らないとか自分に不利益な話=嘘って脊髄反射みたいだからしかたないんだろうけどね。 宗像に限らず、嘘をついてなんでも否定する輩が日本史板に住み着いているんだよね。
彼らに任せると日本史は闇に包まれている。 ヤバさで言ったらチョンの日本史捏造や朝鮮起源説が群を抜いてるけどな 沖ノ島を秘匿ってのも遠賀川〜志賀島辺りまでの範囲だと見えるところ結構あるし無理があると思う。
好意的にとれば神秘性を高めたいってことかもしれんけど、実際見えるんだから航海の目標物や道標的な存在になるわな。 通説では安曇氏の出自は糟屋郡志賀とされるが、学者によっては志賀ではないと説を立てる人もおるようだ。
ということは、安曇氏糟屋郡志賀出自の確定資料はないということだな。
もしかすれば、みな騙されているのかも知れんということになる。
そうなれば、倭奴国は安曇族の国ではなかった説もあり得るわけだ。
また、神功皇后紀に出てくる(志鹿の草)という人物も、安曇氏かどうか分からん…と。 筒男の神だって、橿日宮に現れる前には、博多には住吉社があったかどうか分からん。
とすれば、神功皇后以前に志賀で綿津見の神が祀られていたかどうかも分からん。
この2神は一挙に博多付近に現れたということも、考えようによっては考えられることだよな。
確かなのは、博多には那珂八幡古墳を造った勢力がいて、それ以前にもずっと海人系の集団が住んでおり、彼らは朝鮮半島と交易して豊だったようだ、たということだけだな。 >>336
そう熱くならんでもよろしい。
安曇氏が志賀発祥だと信じるに足る資料がない、というだけのことに過ぎん。 西日本一帯や北陸方面に鉄を販売していた海人族が博多あたりに住んでいたのは、異論の出ない通説となっているな。
要は、この博多の海人族が摂津安曇氏の先祖だと確定できれば、それでいいのよ。
問題はどこにもなくなって、高速走るみたいに快適になる。
それを望んでいるけど、急に渋滞の国道に降りたみたいなのが現状。
先が見通せない…。 え?
現存する史料で綿津見に繋がらない安曇なんて存在するの?
綿津見は志賀島発祥でしょ?
なら安曇=綿津見=志賀島発祥で答え出てるやん そこで、博多海人と安曇氏を結ぶ資料になるかも知れないのが、実は面土国なんだな。
中国の各種史書に出てくる面土国の読みは、(わたつち)の可能性がある。
帥升の面土国の読みが(わたつち)ならば、ワタ=海、ツ=津、チ=道と解釈でき、すなわち対馬海峡の交易航路のことだとみなすことができる。
対馬海峡の通行を支配していた国が帥升の国ということになるから、玄界灘沿岸の国と推定することができる。
一方、神話の綿津見神は、ワタ=海、ツ=津、ミ=神なので、帥升の国と何らかの関係を考えることができる。
そうなれば、この帥升の2世紀のころに、綿津見を祀る部族が玄界灘沿岸にいた可能性が出てくる。
そして、5世紀頃に綿津見を祀る氏族は摂津の安曇氏だけだったと考えられるので、玄界灘沿岸の綿津見部族と摂津安曇氏は関係があるかもなあ、ということになる。
で、面土国の面をワタと読むのが正しいのかどうかという検証が必要になってくるのだね。
実際に、この面をワタと読んでいる研究者がいるのは、確かなことだよ。 >>340
その綿津見が5世紀以前に志賀で祀られていた、と書いてある資料はないと思う。 何がなんでも阿曇族を九州発祥にしたくない謎の勢力に笑う
全国すべての阿曇の始祖はワダツミなんだから九州発祥なのは確定だろ >>343
確定にしようと思うなら、面土国の面をワタとよむのかどうか研究するのが先。 >>344
だーかーらー
安曇の始祖が綿津見なのは確定だろ?
綿津見信仰の発祥が志賀島界隈なのも確定だろ?
だったら安曇の出自はオートマティックに志賀島界隈だろw
面土國を訓読みでワタツチとするほうが非合理的だろ しかし、摂津安曇氏が糟屋の志賀から移住した者やというのは、学者らの推測を鵜呑みにした主張であって、文献などで確定しているものではないな。
そう思い込んでいるだけという話やな。
弥生時代から博多で鉄などの貴重材を輸入していた海人族が、安曇(あずみ)という族名だったかどうか、まったく分からんのよ。 あずみちゃんの祖先はワダツミです!
YES!YES!YES!
ワダツミ信仰の発祥は志賀島です!
YES!YES!YES!
あずみちゃんのご先祖様は志賀島出身です!
No!No!No!
なぜなのかwww >>346
摂津阿曇の始祖が綿津見なんだから出自が志賀島だ当然だろ
お前は今朝から何と戦ってんだよ >>340
>なら安曇=綿津見=志賀島発祥で答え出てるやん
賛成! 安曇を九州民にしたくない謎の勢力=畿内説チョンだろ >>345
綿津見信仰の発祥が志賀島あたりだったというその資料がないのよ。
帥升が楽浪郡で玄関払いされたように書かれているのも、変な国名で請願書を出したからやろな。
そんな国知らんわ、帰ってんか、というのが楽浪郡の役人の返事だったのやろ。
まあ、日本最初のナショナリストが帥升だったということになってくるな。 摂津の安曇大浜が海人の宰になったときに、糟屋の志賀まで綿津見の神さん担いで行って、だれか一人そこに残ってその神さん祀ったのとちがうか? >>352
なにゆーとんねん
綿津見は志賀海神社やがな
アホなこと言うたらあかんで >>354
志賀海神社できたのいつか分からん。
5世紀かもしれんし。 まあきみら、摂津安曇をホルホルしてるが、5世紀以前の安曇がどこにいたかまったく資料がないしな。 >>356
神功皇后の水先案内人やから2世紀には存在しとったやろ >>360
水先案内の安曇は、日本書紀には出てこんな。 >>362
安曇が志賀に元々いたというその根拠はなんなん? >>363
何度くり返すねんなw
阿曇の始祖は綿津見、綿津見は志賀海
よって阿曇の発祥地は志賀島
何の疑念もないやんけ >>366
>>355には悪いが>>350が正解だったんだろ
摂津阿曇は九州じゃないニダニダ!!→アホかw阿曇の始祖はワダツミやんけ
摂津阿曇がワダツミ担いで行ったニダ!→アホかwワダツミ=志賀島やんけ
志賀海神社は5世紀創建ニダ!→アホかw2世紀に神功皇后の水先案内しとるやんけ
日本書紀には記述がないニダ→アホかwすでに筑前風土記やって説明しとるやんけ
安曇が志賀島にいたソース出せニダ!→アホかw何度も説明しとるやんけ >>367
何も知らんのに、人の書き込んだものを齧って継ぎはぎしとるなあ。
どこに筑前風土記なんぞあるのや。
肥前風土記やろ、安曇が出てくるのは。
しょうもないお花畑やな。
この掲示板に書き込んおられる知識人のみなさんに迷惑やから、はよ病院へ帰り。 >>368-369
まぁそんなにムキになるなよ。
頭に血が登りすぎて過去レスも読み返せてなくなってるじゃないか。
みっともない。 >>370
あんたには、この板は無理や。
みなさんの書き込みをじっくり勉強してから、そろそろと書くようにし。 >>371
どっちかっつったら現実見れないチョンコのお前が邪魔だから >>317と>>323も読み返せない文盲は黙っときなって
恥の上塗りしてることにも自覚できないようだし 百済スレからの転載だけど、まさに摂津チョンコの所業そのもの
チョンコの考える「正義」の概念は非常に独特であり、まず根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠はないのですがチョンコだけがその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、チョンコはとにかく「相手の正義」の存在をいっさい認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解でも、捏造でも、その件と全く関係なくても、何でも良い)する事で
「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういったチョンコ独特の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となってしまいます。
しかし、チョンコ独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
では、この特殊な「正義観」にはどう対処すべきなのでしょうか?
その手法は非常に簡単です。
論点をすり替えさせる隙を与えないこと。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
チョンコにとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に別の戦いを仕掛けて負けかけたことをなかった事にしようとします。
チョンコ以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、そうではありません。
チョンコ独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「じぶんだけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 >>368
悔しがりすぎ
なんで安曇野の祖先が綿津見神で綿津見神が志賀海神社までは受け入れられてるのに、安曇野発祥地は志珂郷(志賀海神社一帯)だけ認めたがらないのか理解不能。
だったら感情論抜きに安曇野発祥地が志珂郷ではない根拠を示すべき。 記紀厨の歴史談義はまあ、かまわんが、
安曇氏に姓を与えたのは、大和朝廷だろ。
ワダツミを始祖とするなら、そのワダツミ概念の衆知はいつからだ?
志賀島に神社を置いたのが、安曇族なのでであって
安曇族の朝廷系豪族化以前から、記紀神に比定出来る始祖神なんてもんは無い。
氏族神みたいなこういう神社信仰は、朝廷権力確定が認知可能な
最古で倭の五王400年〜神道の必然が出来たと推測できる
仏教公伝500年辺りと同時期に普及した信仰だろ。
記紀の普及に便乗しない古神道奈良だがw
氏族、豪族の発生だって、倭人伝で九州の非統一が判る、247年以降で
半島進出、富国強兵が総力化する313年付近と見るのが妥当だろ。
当時の日本の富国強兵政策で
漢四郡の遺民の軍師化は案外有力だったんじゃないのかな? >>377
歴史にニヒリズムを持ち込まないでくれ。 >>377
>安曇氏に姓を与えたのは、大和朝廷だろ。
はあ? 摂津チョンコ?畿内盲信者?は志賀海神社の創建を5世紀くらいにしときたいようやが、志賀海神社の分社「風浪宮」は192年創建と社伝に残されとる。
本社・志賀海神社が分社・風浪宮より古いのは当然やわな。
あと、志賀海神社には元宮があり、志賀島最北部の勝馬に現在も表津宮跡、中津宮、沖津宮が残っとる。
社伝では2世紀に現在地に遷座したとあるんやで。
この元三宮には面白い点があり、2005年の福岡県西方沖地震に際して社団法人土木学会が地質・地盤条件を調査しとる。
https://www.jsce.or.jp/report/34/
この時に表津宮跡、中津宮、沖津島は志賀島花崗閃緑岩に乗っとり、現在の海岸線は3000年前頃に形成された事が判明したんや。
つまり、元三宮は紀元前10世紀頃には浅瀬に浮かぶ沖津島と仲津島、志賀島上の表津宮であり、その当時から原始的信仰の対象となっとった可能性が極めて高いっちゅう事や。
1947年に表津宮の東南300mにある前田富蔵邸裏庭から出土した細形銅剣鎔笵残欠(弥生初期)を皮切りに、1973年、1974年に九大考古学研究室によって実施された「金印遺跡調査団」では縄文後期から晩期の土器、黒曜石製石鏃、磨製石斧が出土しとる。
なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。
また、実在が確かと思われる阿曇連[闕名](日本書紀 巻二十二)や阿曇連比羅夫(日本書紀 巻二十四)も
河内国神別において「安曇連"綿積神命"児穂高見命之後也」と記されとる。
さらに「『日本書紀」の原典である「帝紀」、「上古諸事」、「墓記」に阿曇連稲敷は関わっており、自身のルーツが綿津見神にあると認識していた傍証と言えるんや。
そもそも阿曇の本拠が志賀島ではないと言い出したんは文学修士でしかない京都の故・楢崎干城と岐阜の松原弘宣 文学教授、大阪で高校教師やった上遠野浩一くらいなもんやで。
ワイは文学者の裏読みより、社伝に基づく民俗学的考察、地質学、発掘に基づく考古学、資料に基づく歴史学に高い信憑性を得られるわ。 >>373
お前は人の書いたものを見ていろいろ言っているようだが、自分の知識としてはゼロであるはことを示している。
つまり、その書き込みが正しいかどうか、判断できんということや。
筑前国風土記なんぞ、存在せんことに気がつかん無知ということになる。
まあ、出直して勉強してこいよな。 >>381
負け犬の遠吠えw
無能の負け惜しみwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています