安曇が登場するのは応神天皇の三年からだが、この安曇はすでに摂津あたりに住んでいたし、それ以降の安曇氏も山城だったりして、おおむね畿内在住。
一方、一世代の前の仲哀天皇のときには、宗像や伊都の勢力は仲哀天皇を出迎えているのに儺県からの出迎えはない。儺県にはどのような勢力がいたのかはっきりしない。
そして、仲哀天皇崩御のあと、神功皇后が西征のために朝鮮半島を望見させるときになって初めて、磯鹿の海人の草という人物を物見に行かせることが書かれている。
どうも、変ではないか。
儺の津には、宗像や伊都のような地方豪族の姿がみえない。
「磯鹿の海人・草」という程度の扱いとなっている。
仲哀天皇を出迎えた宗像の豪族の場合は岡県主の祖熊鰐と書き、伊都の豪族の場合は伊都県主の祖五十迹手と書いているのとは大変な差だ。
この「磯鹿の海人・草」が綿津見を祀る安曇だとは、どこにも書いてない。
仲哀天皇があたかも当然のように橿日宮に入っていることなども考えると、まるで大和の朝廷の直轄地となっていて、在地の豪族がいないような雰囲気だ。
これは、実に奇妙な書きっぷりだと言うほかない。
では、一世代後の応神天皇のときになって突然現れ海人の宰となる摂津の安曇連と、この朝廷直轄地のようなの儺の津の隣の磯鹿の海人・草との関係はどうなるのか。
志賀島で綿津見を祀る安曇氏は、いったいどこにいるのかということになってくる。
そもそも、応神天皇以前の志賀に、安曇族はいたのだろうか。