【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>28
>天皇家も海人の一族で、安曇らと近親関係に・・・・・・・・・・・
天皇家も海人族即ち海洋民?奇矯な発言だが、何が根拠なのかね?
天皇家の出自を物語る天孫降臨神話における始祖ニニギや山幸彦には、
海洋民の行状が何もないんだがね。
海洋民を代表する海幸彦から借りた釣り針を上手に使えない山幸彦は、
どうみても陸上民だ。
>博多湾周辺に広大な領地を持っていたわけだから・・・・・・・・・
何氏のことかね?海洋民は、海上が生活域で農耕民ではないから、
農地?や領地など必要ないのだが。 >>40
ハタ、ワタ/ワダ=海(これ重要)
神武天皇(祖サノの尊(ソサノオ)。また、ホホデミの尊(天火明尊)。、、、素尊)は海部(海部族)を使役し支配する立場に有ったような内容 >>41
宗像(胸形)氏は出雲帝王家(神(カモ)族)の分家、アタカタスを祖とする豪族
アタカタス家の兄媛(えひめ)、多岐津媛命は出雲帝国最後の大国主命(帝王)、ヤチホコの尊に嫁ぎ、
その女の高光媛命(下照媛)は渡来した彦火明尊と結婚なさり天香語山尊を産む。
彦火明尊(ホホデミ)はまた、アタカタス家の末娘(弟媛)、市杵島媛命とも結婚なさって押媛命を産む(押、忍。共に照り輝く(天照)の意味)
天香語山尊(天火明香語山尊)と異母妹の押媛命が結婚なさって
天村雲尊(出雲帝王家の血を色濃く受け継ぐ)を産む。
、、、 あの古代日本史やらに出てくる話マジか?
天智天皇やら半島あたりとの戦争の話だの? >>45
「広開土王碑」
*367年・・・百済が倭国に使者を送る。たぶん泣きついてきて助けを請う。
*369年・・・高句麗が百済を進撃。高句麗大敗。援軍として倭国が参加しているかも。
*369年・・・その勢いで倭国は新羅を攻撃。大勝して朝鮮半島南半分を支配下に置く。 朝鮮半島はすぐ隣だから、古代も戦国時代も近代も繰り返し戦争している。
驚くには値しない。
天皇家が海人というのは、姓の天のナントカが海人から来ているという説だね。
天孫降臨も船で渡来してくるし。
初期の倭国の領域は朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡付近。 >>12
出雲帝国分家のアタカタス家、、、後に胸形/宗像? ハタ、ワタ(ワダ)=海。
八幡様はヤ・ハタの神、、、大海神
ワタナベは海(ワタ)国(な)の民 宗像氏はそんなに古くない気がする。天武天皇からでしょ。古いのは筑紫三家連と多氏のように思う。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 舞子島古墳群 全国的に特異 阿南沖の群集墳 /徳島
http://mainichi.jp/articles/20160724/ddl/k36/070/308000c
舞子島は阿南市椿泊町燧岬(ひうちみさき)の東方800メートルにある無人島である。東西1・5キロ、南北0・2キロの狭い島だ。
舞子島古墳群(阿南市指定文化財)は、島嶼(とうしょ)部に位置する群集墳として全国的に特異な存在である。
1922(大正11)年5月7日、地元の稲垣武夫氏らによって5基の円墳が発見され、広く知られるようになった。
同年8月には、鳥居龍蔵博士も調査に訪れている。現在、10基の円墳が確認されている。
いずれも島の南西部の海岸線に位置し、高さ25メートルの断崖に開口している古墳もあり、すでに断崖の崩壊によって海没したものもある。
この写真は今年4月9日に撮影したものである。
10基の円墳は、いずれも10メートル内外の円墳と考えられる。
1号墳は22年の調査では長さ2メートル、幅1・2メートルの羨道(せんどう)部が確認されている。
私は58(昭和33)年、阿南市文化財保護委員会調査団員として初めて上陸、いくつかの円墳を確認した。
2回目は約30年後、テレビの取材で上陸しようとしたが、密生する低木に阻まれて失敗した。
橘湾から椿泊湾にかけて弥生時代から有力な海人集団が生活しており、椿町曲(まが)りから銅鐸が出土している。
銅鐸を保有できるほどの財力を持った集団が、6世紀から7世紀にかけて築造したものである。
参考「阿南市史」第1巻。(徳島民俗学会会長・エッセイスト、湯浅良幸) 弥生時代の遺跡から中国鏡破片 淡路島で初確認
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/0009323737.shtml
兵庫県淡路市舟木(ふなき)の弥生時代後期の山間地集落遺跡「舟木遺跡」で25年前に出土した青銅器が、
中国で製作された中国鏡の破片であることが明らかになった。同市教育委員会が26日発表した。
同時期の遺跡から出土した中国鏡としては兵庫県内4例目で、淡路島内では初。
島内では近年、南あわじ市の「松帆銅鐸(まつほどうたく)」(弥生時代前期末−中期前半)や、
淡路市の鉄器生産遺跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(弥生時代後期)などの発見が相次ぐ。
研究者は「(中国鏡も)弥生時代における淡路島の重要性を見直す契機の一つとなる」と評価している。
市教委によると1991年の発掘調査の際に、竪穴住居跡から青銅器4点が出土。
改めて科学分析したところ、4点が接合できることが確認され、中国南部産の材料で製作した「後漢鏡」の一部と判明した。
鏡の中央に位置するひもを通す突起「鈕(ちゅう)」で、穴が開いている。
破片は長辺2・4センチ、短辺1・7センチ、高さ0・9センチ。本体は直径10〜15センチの小型と推測されるという。
淡路市北淡歴史民俗資料館で開催中の「海人(あま)の島 淡路の歴史」展(9月25日まで)で展示している。(切貫滋巨)
■奈良県立橿原考古学研究所・森岡秀人共同研究員の話
2世紀前半に製作された中国鏡と想定されるが、一緒に出土した土器の年代をみると、
生産されてから短い期間で淡路島に入ってきたと考えられる。
中国文物が九州以東に流入した時期や広がっていく過程を知る上でも貴重な発見だ。
中国鏡の破片と判明した舟木遺跡出土の青銅器(淡路市教育委員会提供)
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/img/b_09323738.jpg
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201607/img/b_09323739.jpg >>49
和田で調べると、苗字が集中している集落は古代の港っぽいのが多いな。
あと、川の畔の集落とか。
渡辺は東日本が多いからいまいりわかりにくい。
でも、岐阜県の美濃加茂市って、かなり古いみたいだな。
かも(加茂)って付いてる地名のところは古代から栄えていたんだろうか。 >>54
渡辺は大阪の渡辺が発祥ではなかったか?
今の天神橋がある辺り >>50
宗像は新しいよね。
津守ってもっと多いのかと思ってた。
大学の同級生にいたからな。希少苗字だったんだな。 >>50
宗像の名の由来が刺青なのなら相当古い一族になるんじゃないか? 日本遺産認定記念展:古代「海人」の暮らし紹介 江戸〜昭和期の「どんざ」も 淡路 /兵庫
http://mainichi.jp/articles/20160730/ddl/k28/040/479000c
島内3市が申請した「『古事記』の冒頭を飾る『国生みの島・淡路』〜古代国家を支えた
海人(あま)の営み〜」をテーマにしたストーリーが日本遺産に認定されたのを受け、
淡路市北淡歴史民俗資料館(同市浅野南)で海の民「海人」の営みが育んだ島の歴史を紹介する
記念展示「海人の島 淡路の歴史〜日本遺産とどんざの魅力」が開かれている。【登口修】
ストーリーでは、天地創造の神話で最初に誕生する淡路島では金属文化をもたらし、
後に塩作りや巧みな航海術で畿内の王権や都の暮らしを支えた海人と呼ばれた海の民の存在があり、
淡路島は古代国家形成期の中枢を支えた海人の歴史を今に伝える島−−としている。
展示では、先端文化を伝えた弥生時代の海の民▽山間地集落と鉄器文化▽
王権を支えた淡路島の海人▽海人の塩づくり▽海人の暮らし▽律令期の海人の活躍−−などをパネルで紹介。
北淡路の海岸近くの遺跡から出土した製塩土器やイイダコ漁に使われた壺(つぼ)、棒状土錘(どすい)などの漁具、
貴船神社遺跡(同市野島平林)の石敷き製塩炉のレプリカ、五斗長垣内遺跡(同市黒谷)出土の鉄鏃(てつぞく)や
板状鉄斧(てっぷ)、鉄製工具など考古資料約120点を展示。
「どんざ」は江戸時代〜昭和初期にかけ北淡路地域などの漁師が着用していた衣服で「刺し子のどんざ」と呼ばれる。
防寒や防潮の役目を果たし、漁をする時の仕事着から発展し、やがて寄り合いや町行きのよそいきとして着られるようなった。
よそいきのどんざや何度も継ぎ当てて仕事着として使われたどんざ、綿布を織るのに使われた糸繰機(糸車)などが紹介されている。
会期は9月25日まで。午前9時〜午後5時、入場料は中学生以上300円、小学生150円。月曜日が休館。
「刺し子のどんざ」を興味深そうに見る女性=兵庫県淡路市浅野南で、登口修撮影
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/07/30/20160730oog00m010034000p/9.jpg 伽耶・倭国・ヤマトで大和朝廷
高句麗の南下で伽耶の難民が日本へ移住
「伽耶のある部族の王が水鳥の紋章」これが応神天皇?
水鳥の土偶が日本海側で出土
日本海・瀬戸内海の水軍の紋章が水鳥 >>55
それは秀吉に捕まった奴らだろ
秀吉の海賊狩りの時にほとんどの渡辺は東日本に逃げたからな >>60
たしか、嵯峨源氏の源融の子孫、源綱が大阪の渡辺に住んで、渡辺綱を名乗ったのが渡辺氏のおこりだろ?
それ以外の渡辺氏もいるだろうから、綱の系統がすべてとは思わんけどな
渡辺なんてどう考えてもいろんなとこにありそうな地名だもんな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>63,>>51,>>38
この1ヶ月に同一記事を3度も反復表明する貴殿は、認知症患者だね? 海神を祭る民はいくつかの系統があったのではないか?
時代、地域、民族、その他いろいろ。
海神族が時代とともに合従連衡して敵になったり味方になったり。 >>65
日本中の渡辺さんが天皇の血筋だと思ってるの? >>66
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。 そんなことより女性専用車両は男性差別なんですよね。 宗像大社や住吉大社などの海神族は、
航海の目印となる三連星のオリオン座を祭神としている。 海神族は日本までたどり着いたら、船でどこにでも行ける。
瀬戸内も四国も美濃もあちこちに海神族の足跡がある。
長野県の安曇野も、海神族が船の材木を求めて糸魚川・千曲川を
遡ったのかもしれない。 海神族って宗像から日本海じゃないのか?
古代の関門海峡は通過できなかったらしい。
仲哀のときに掘削したとか。
元の宇佐が内陸の迂回路だったらしいよ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ウガヤフキアエズ命は海神族奴国の綿津見神の娘の豊玉姫を嫁にもらっている。
天皇家と海神族は古代から親戚ではないか? 綿津見の神もイザナギの子供だったとかどこかで読んだ気がします。
まあ、こじつけかもしれませんが、姻戚関係にある豪族であったことは間違いないでしょう。 >>77
親戚どころか、神武の母親も婆さんもワニだからなw 天皇家も古くは天という姓があり天神と呼ばれたが、天(あま)は海人(あま)に由来するという。
海神とは古い親戚。 海と空は、水平線で一体となるから天なのか?
それで、海人族の我らは天から降りてきた天孫降臨なるぞという
神話になったのだろう。
たぶん中国という天から、帆船でわたってきたのだろう。 都から離れることを下ると表現する。
鉄道や道路の上り下りと同じ。 高天原と筑紫や出雲はそこそこ早く行き来できたようなので、対馬とか、朝鮮半島とか。 朝鮮や対馬に、天というような文化があるはずがない。 天とはたぶん南京あたりだろう。春秋時代の呉ではないの? 祖母の田舎の淡路島の離れ島の沼島は先祖が海人族だって言ってるんだけど、誰か詳しい人いないですか。
沼島は国産みで最初に出来たオノコロ島の比定地の有力候補で、天御柱のモデルとされる奇石もあります。地元の人は立神さんと呼んでいます。 >>92
海人族で正しい。
何故なら、耕地もなく狩りをするにも狭すぎて海人でないと生きていけない土地だから。 >>51
コピペするだけで読んでないと思うけどw
江南から伝わったのでないと言い切るなら、どこから伝わったのか?
日本に伝えたというその場所には、どこかから伝わってから日本に伝えるまでの
土器や道具の代々の変遷が明らかな遺跡が存在するのか? >>94
日本の日本史の教科書に書いてあるだろ。
ブタみたいな顔をしたafb1b3たっぷりの遺伝子が真っ赤っかな
クッサイ汚らしい南方蒙古人種の華南ブタが祖先の台湾ブタ。 ↑自分の書き込みにフォローする変態台湾ブタ顔原人
afb1b3たっぷりたっぷりの、遺伝子真っ赤っかなクッサイ汚らしい
南方モンゴロイド華南ブタが祖先の台湾ブタ顔汚物生命体 おのころ島は博多湾の能古島。
イザナギが最初に征服して奴国を築く基礎となった倭国発祥の地。 呉の姫氏、越王勾践氏、斉の姜氏、箕氏準王の子孫も日本に来ていただろう。
当時は戦乱のシナから、道教の蓬莱山を目指して多くのシナ人が日本に来ていた。 >>99
で、それを証明する証拠遺跡とその証拠土器・石器と、
そんな狂った事を言っている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
台湾ウンコ色ブタ広鼻巨大タラコ唇ブタ顔原人。 >>1
完新世の最温暖期(紀元前4000年頃)、東アジアは対馬海流の恩恵でアムール川流域の高緯度地帯まで
温暖多雨な気候であった
日本列島の縄文人と中国東北部の遼河文明人は日本海を超えてヒスイ、黒曜石などの交易が推定される
しかし、紀元前1100年頃の地球規模の気候変動(寒冷化)に伴って沿海州南岸からの渡来者が山陰地方に集団を形成した
彼らが弥生式土器をもたらした弥生人であり海人族となった
北部九州に進出した海人族は朝鮮半島南部にまで勢力を扶植して稲作技術を獲得した倭人となったのである 朝鮮半島は南北での気候区分よりも東西での気候区分の顕在化は意外と知られていない
黄海側は鴨緑江河口部まで豊かな稲作穀倉地帯である
日本の稲作の原郷は江南でも山東半島でもなく朝鮮半島西部 日本のイネは元来北方品種なので短期間のうちに津軽平野まで伝播しても何ら不思議ではない
これが江南産品種ではない証明 日本に伝わっている農具、特にクワ、エブリといった農具は中国には無いからね。
しかも中国の農具は石刃。
朝鮮南部から伝わったものとしか考えられんの。
ところがこの朝鮮南部から稲作を伝えた連中が朝鮮土器をサッパリ作らない。
この人たちは半島から稲作だけ持ってきただけで半島人じゃない事が分かる訳だ。
じゃあ彼らは何者なのかと考えたとき、彼らが作っていた土器を深く調べてみると
島根あたりが日本最古らしい事が分かってくる。
もっとよく調べてみると、沿海州南部の青銅器時代あたりの土器文化と土器の
文様が一致している事が分かる訳だ。 >>103
東北で米の大量生産が出来るようになるのは
寒さに強い品種が出来た江戸時代から 東北は弥生時代に稲作にも手をつけたが、上手くいかなくてやめたんだよな。
大正昭和においてさえ、食べられない年があったくらい。
稲の北方と言っても、東南アジアに比べてという程度の話。 言っておくが
水稲と陸稲の違いは種の問題ではない
栽培方法の連続性による変異でしかない
水田での稲作は収穫率の増大と連作障害を避けるための知恵
さらに日本のイネの品種の遺伝子の多様性の乏しさはボトルネック効果により
中国人が渡来する以前に朝鮮半島から持ち込まれた短粒種ジャポニカが基層になっているから 朝鮮半島よりも日本の方が遺伝子の多様性が高いんじゃなかったっけ?
だから日本から朝鮮半島に稲作が伝わったと聞いたが? 中国人が渡来定着した事を証明する証拠遺跡もその証拠文物も一切ないし、
そんな狂った事を言っている頭のおかしな考古学者もおりません。
悪しからず。
>>110
だったら朝鮮のイネにもb遺伝子があるはずじゃないのw
それに朝鮮のイネにあって日本のイネにないd、e、f、g、hの5つの遺伝子は
どう説明するの? 単に朝鮮にa〜h全ての遺伝子のイネがあった時代に日本にa、b、cの
3種類のイネが伝わり、その後、朝鮮のイネからb遺伝子が淘汰消滅したという
簡単なトリック。 風媒花の遺伝的多様性がそう簡単に失われるとは考えにくいけどなあ。 とにかく日本の稲作は最古水田に伝わっている農具が中国に無い農具だから
半島なんだよ。
問題なのはその半島から稲作を持ち込んだ連中が朝鮮土器をさっぱり
作らず、半島人ではなかったという事。 朝鮮半島は文化の通り道
いろんな外部の渡来人が文化を運ぶ 沿海州から粟作が伝わった時に同時に伝わった農具を使い続けたんだろ
稲作が初めての穀物作ではないんだから
農具では稲作のルーツは決まらない 最古水田の登場ともに最古農具が登場するんだぜ。
つまり稲作と農具はセットで導入されているとしか考えられないね。 日本における貯蔵米の害虫として最も知られているのがコクゾウムシである
考古学上、コクゾウムシの痕跡が確認される最初の例は縄文晩期のダイズ痕を持つ土器を伴っている
縄文晩期に沿海州南岸から渡来して来た弥生人の当初の栽培穀物は中国東北部からシベリアが原産地である
ダイズ、ソバなどだと考えられる
コクゾウムシはこれらの作物と登場時期が一致するのである
それはダイズ、ソバを栽培穀物としていた早期弥生人が稲作を外部から導入した証明になる
翻せば稲作民が弥生人となったのではなく弥生人が稲作を導入したということだ 水稲の栽培には、暦や灌漑などの技術も必要である。
これらは初期の王統と同時に成立した、いや輸入された。
暦を司り、土木治水に腐心するのは王またはそれに並ぶ指導者の役割である。 弥生人は半島に頻繁に行ってたみたいだから、行くたびに稲作のみならず、
あらゆる先進技術が蓄積していった思われ。
ただ半島の先進文化や先進技術を取り入れた人たちはいつも朝鮮土器は
さっぱり作ってくれないが。 日本神道は弥生人が沿海州から持ち込んだ信仰だろうか? 糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww
劣等人種ジャップについて語りたい場合は
↓
http://hanabi.2ch.net/ogame/ >>1
沖縄県には、21世紀現在でも海人が棲息?
【社会】この海に基地いらぬ…悩む海人、オスプレイ事故が変えた [無断転載禁止]©2ch.net
daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1482877526/ >>114
半島南部は倭人の国という古代中国の史記の記述から見れば、半島で稲作を
していたのは倭人であり、道具は沿海州や東北部(旧満州)からの影響を受けている。
水稲稲作が満州から伝わったとは考えにくいことから、半島南部と九州北部にいた
倭人が取りに行ったとしか考えられんね。
朝鮮の墓制も伝わっているけど、埋葬されているのは縄文人だ。
朝鮮は古い人骨はあまり出ていない。
それ以前に、縄文中期にあたる時期までは遺跡がほとんどない。
白頭山の噴火で絶滅したという説もあるが、はっきりは不明だがとにかく遺跡がない。
九州は喜界カルデラで絶滅という説もあるが、その後も遺跡があることから
無人だったわけではない。
人間がほとんどいない朝鮮半島から「大量の移民」がやってこれるはずもない。
縄文中期に日本列島ではすでに初期農耕が行われている。各地の遺跡から
栽培植物が出て来る。ゴマにひょうたんにその他遠来のものばかりだ。
遺伝子調査で、縄文人と弥生人は大きく違うという結果が報告されることがあるが、
調査の対象は、東日本の縄文人ばかりだ。
おそらくは、縄文中期には西日本には東とは違う遺伝子を持った縄文人がおり、
マダガスカルへ行った人々の先祖とそう違わない時代に日本へやって来たのだろう。
彼らが元の縄文人に溶け込み、初期の農耕と漁労・狩猟採集をしながら海を行き来
していたのだろう。広域の石器やアクセサリーの交流からうかがえる。 >>127
おまえ詐欺はやめろよ。
朝鮮半島に人が居ないのに何で朝鮮半島から朝鮮土器が出土するんだよ?
しかも時代毎にその土器もしっかり変遷していってるんだぜ。
政治思想からおかしな狂言を働かないでもらいたい。
新町遺跡は北方モンゴロイド形質を帯びた人骨が出土してるし、朝鮮の墓なんだが、
縄文人骨の人たちも北方モンゴロイド形質の人骨の人たちも朝鮮土器を
さっぱり作らないという点から縄文人骨の人たちはもちろん、北方モンゴロイド形質の
人骨の人たちも半島人ではないと考えられるんだよ。
で、農具が沿海州や満州の影響を受けたというソースは?
人が居ないのに >>118
>縄文晩期に沿海州南岸から渡来して来た弥生人・・・・・・・・
弥生人には、沿海州南岸出身と中国江南地方原住民と朝鮮半島南岸出身の
3系統いたという説なの?
沿海州南岸というのは、現在地名でどの辺りのことなの? >>129
ウラジオストクあたりだよ。
実際にウラジオストクから出土した黒曜石のほとんどが男鹿産か隠岐産だったことが確定してる
縄文晩期に裏日本と沿海州南岸で交流があった事は事実だよ DNAの観点からでも東日本と沿海州はほぼ同じだから
少なくとも東日本の弥生人のほとんどは沿海州出身で間違いない 宗像王家は出雲帝国の第6代オオナムチ(主王)八束水臣命(北陸から九州まで飛躍的に出雲帝国の領有地を拡げた英雄)の御子のカタアタス命が分家して建てたらしい。
因みに、神話の大国主命は概ね第8代オオナムチ(主王)の八千矛命。(荒び祟り為す大国主神。にはちゃんと理由(無念な非業の死にざ)が有りました) 黒曜石が隠岐産だけなら朝鮮東岸経由で入ったものと考えるけど、
男鹿産があるという事は日本海を縦断して直接行き来してるよね。
やっぱり日本海縦断交易はあったんだろう。 ていうか、弥生時代は対馬海峡から続く日本海航路が列島の最大の交易路だったんだよ。
倭国を構成するのは、西から筑紫、出雲、丹波、近江、越など。
後に瀬戸内海航路も開発された。 要するに、弥生時代までは裏日本が表日本で、表日本が裏日本だったって事だね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています