【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ >>377
歴史にニヒリズムを持ち込まないでくれ。 >>377
>安曇氏に姓を与えたのは、大和朝廷だろ。
はあ? 摂津チョンコ?畿内盲信者?は志賀海神社の創建を5世紀くらいにしときたいようやが、志賀海神社の分社「風浪宮」は192年創建と社伝に残されとる。
本社・志賀海神社が分社・風浪宮より古いのは当然やわな。
あと、志賀海神社には元宮があり、志賀島最北部の勝馬に現在も表津宮跡、中津宮、沖津宮が残っとる。
社伝では2世紀に現在地に遷座したとあるんやで。
この元三宮には面白い点があり、2005年の福岡県西方沖地震に際して社団法人土木学会が地質・地盤条件を調査しとる。
https://www.jsce.or.jp/report/34/
この時に表津宮跡、中津宮、沖津島は志賀島花崗閃緑岩に乗っとり、現在の海岸線は3000年前頃に形成された事が判明したんや。
つまり、元三宮は紀元前10世紀頃には浅瀬に浮かぶ沖津島と仲津島、志賀島上の表津宮であり、その当時から原始的信仰の対象となっとった可能性が極めて高いっちゅう事や。
1947年に表津宮の東南300mにある前田富蔵邸裏庭から出土した細形銅剣鎔笵残欠(弥生初期)を皮切りに、1973年、1974年に九大考古学研究室によって実施された「金印遺跡調査団」では縄文後期から晩期の土器、黒曜石製石鏃、磨製石斧が出土しとる。
なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。
また、実在が確かと思われる阿曇連[闕名](日本書紀 巻二十二)や阿曇連比羅夫(日本書紀 巻二十四)も
河内国神別において「安曇連"綿積神命"児穂高見命之後也」と記されとる。
さらに「『日本書紀」の原典である「帝紀」、「上古諸事」、「墓記」に阿曇連稲敷は関わっており、自身のルーツが綿津見神にあると認識していた傍証と言えるんや。
そもそも阿曇の本拠が志賀島ではないと言い出したんは文学修士でしかない京都の故・楢崎干城と岐阜の松原弘宣 文学教授、大阪で高校教師やった上遠野浩一くらいなもんやで。
ワイは文学者の裏読みより、社伝に基づく民俗学的考察、地質学、発掘に基づく考古学、資料に基づく歴史学に高い信憑性を得られるわ。 >>373
お前は人の書いたものを見ていろいろ言っているようだが、自分の知識としてはゼロであるはことを示している。
つまり、その書き込みが正しいかどうか、判断できんということや。
筑前国風土記なんぞ、存在せんことに気がつかん無知ということになる。
まあ、出直して勉強してこいよな。 >>381
負け犬の遠吠えw
無能の負け惜しみwww >>381
お前さんは無知無能だから金龍寺行って土下座して来なさい。 >>376
冗談よし子さん。
志珂が安曇氏の発祥の地だというとるのは、お前。
お前がその根拠を示さんでどうするのよ。
はよ、文献挙げんか。 >>383
まず、人が書いたもので勝負せんように。
自分の知識で勝負せい。
筑前国風土記が、どこに存在するねん。
はよ、調べてこい。 >>380
風浪宮て、筑後大川市やないか。
糟屋の志珂とどんな関係あるんよ。
話は、それからや。
安曇が志珂発祥やという根拠になんぞならんやろ。 >>386
駄々こねるヒマあったら少しは調べろ厚顔無恥の朝鮮人 >>384
まだ馬鹿なこと言ってんのかよ・・・
お前は議論できる頭がないんだからもう消えろよ >>380で確定じゃん
なんで摂津チョンコは諦めがつかないの?何一つ根拠を示す知能もないのに?バカの中のバカなの? >>382
根拠示せ。
根拠挙げてから、吠えよ。
吠えるのは、それからでええ。 >>390
お前が否定する根拠を出せよマヌケチョンwww >>390
負け犬の遠吠えw
無能の負け惜しみwww >>385
金龍寺行って貝原益軒の墓前で土下座しろよ
話はそれからだ >>389
どこが確定よ。
志賀島の地盤が海の上に出たのが3000年前というのが地盤調査の結果や。お宮さんがいつそこに置かれたのかを示すもんやない。
2世紀頃にお宮さんができたというてるらしいが、そのお宮さんと安曇とどうつながるのやということが問題になっとるのやないか。
はよ、風浪宮と志珂がどう安曇につながるというのか説明せんかよ。 >>393
やっと調べたか。
で、江戸時代にできた風土記がなんやて? イヤイヤ言ってんの摂津のチョンコロだけじゃん
無視無視 >>397
金龍寺行って貝原益軒の墓前で土下座しろよ
話はそれからだ >>400
チョンコの分際で人間並みの口を聞こうとするからイジメられるんだぞマヌケ(笑) >>399
土下座してくるのは、お前やろ。
筑前国続風土記を筑前国風土記やて。
江戸時代やないか。
先生に恥かかせておいて、なにをおっしゃる無知蒙昧。 >>394
文盲
口答えするならせめて書かれてることを調べてからにしたら? >>402
まずちゃんと調べて、金龍寺行って、貝原益軒の墓前で土下座して、反省して、謝罪しろ
話はそれからだ >>401
病棟へ帰れ。
お前が邪魔して荒らすから、ほかの人が書き込めんやろが。
もう、ええかげんに消えよ。 >>405
お前が消えれば良いだけのこと
現実を直視できないチョンコロは祖国に帰ってニダニダしとけ >>405
親の前で10回音読してから出直して来い
チョンコの考える「正義」の概念は非常に独特であり、まず根拠を必要としないという特徴があります。
なぜ根拠を必要としないかと言うと「この世に正義は一つしか存在しない」と考え、特に根拠はないのですがチョンコだけがその「正義」の側だと信じ込んでいるからに他なりません。
通常、それぞれが正義と信じる者同士が争った場合、ホモ・サピエンスは「相手の正義」の存在を認識しながらも「自分の正義」のために戦います。
「相手の正義」を認識しているからこそ、勝ったときには相手を称え、負けたとしても自分が「悪」だとは考えません。
一方、チョンコはとにかく「相手の正義」の存在をいっさい認知できず、相手の劣等性を指摘(曲解でも、捏造でも、その件と全く関係なくても、何でも良い)する事で
「自分だけの正義」の担保とします。
ですから勝った時には殊更に負けた相手を「悪」と罵り、負けた時には難癖をつけて負けを認めないことで「自分だけの正義」を守ろうとするのです。
つまり負けは「悪」なので「感情的に受け入れられない」と逃げ回るのです。
また、自分自身に向けられた問題提議や指摘を模倣し、オウム返しのように相手にぶつけます。
こういったチョンコ独特の「正義観」は独特と言えるもので、予備知識を持たずに対峙すると「錯乱している」「気が狂っている」としか映らず対話を諦めてしまう結果となってしまいます。
しかし、チョンコ独自の正義「観」を知っておくことで対話は可能となるのです。
では、この特殊な「正義観」にはどう対処すべきなのでしょうか?
その手法は非常に簡単です。
論点をすり替えさせる隙を与えないこと。
多くの問題をいっぺんに片付けようとせず、一つずつ解決していくことです。
チョンコにとって負けは「悪」ですから受け入れることは出来ません。
ですから負けを予感した瞬間に別の戦いを仕掛けて負けかけたことをなかった事にしようとします。
チョンコ以外の人が見れば「逃げた」「論点をすり替えた」「卑怯」と映るでしょうが、そうではありません。
チョンコ独自の「正義観」では負けなければ「正義」であり、ウソでも何でも「じぶんだけの正義を貫くこと」が何よりも優先されているだけなのです。 >>409
このスレで邪魔なのはチョンコのお前だけ >>380
由緒書きで192年は神功皇后の新羅遠征の帰途、となってるわけで
これと安曇族が係わる実際年代ってのは、300年以降であってないか?
卑弥呼で大乱が収まった時に何で神功皇后の新羅遠征だ?
楽浪帯方の239年までの公孫氏や246年まであった韓王朝なんて
青銅器交易で友好国じゃないのか?
三韓征伐ってのも現実的には九州同様に
調略とか、領地安堵の冊封型支配みたいだけどね。
中国との冊封関係に有った高句麗は313年に韓四郡を侵略したけど
350年代に350年代に楽浪候、幽州刺史に封じられている。
神功皇后の三韓征伐って、
卑弥呼が親魏倭王印綬の魏と戦争したことになっちゃわないか?
神功皇后がこの313年以降でないと記紀がデタラメだろ。 安曇氏族はチョンと無関係なのに何故に固執してるのだ?
百済王族と仲良しだったからか? >>413
それこそお前の妄想と願望だろーが無能チョン >>394
全然ちゃうで、志賀島の花崗閃緑岩は沖積層より古いんや。
約2万年前から海上に突出しとって、3000年前に中津宮がつながったちゅうことや。
ワイが書いたんは
> その当時から原始的信仰の対象となっとった可能性が極めて高いっちゅう事や。
> 1947年に表津宮の東南300mにある前田富蔵邸裏庭から出土した細形銅剣鎔笵残欠(弥生初期)を皮切りに、1973年、1974年に九大考古学研究室によって実施された「金印遺跡調査団」では縄文後期から晩期の土器、黒曜石製石鏃、磨製石斧が出土しとる。
という、信仰の古さの傍証やで。
2005年の地質・地盤条件の調査まで誰も島とは知らんかった場所に中津宮が存在しとるんは原始信仰の対象があった上に建立されたのだろうと考察するのは世界史でも考古学でも何ら不自然なことではないんやからな。
記紀を始めとした史料に残る安曇氏族はほぼ例外なく綿津見神を祖神としとるわけやが、君は綿津見信仰の発祥が志賀島にないと思っとるんか?
せやったらそれを反証して見せてくれや。 >>411
志賀と安曇をつなぐ根拠を出してくれたら、すぐにでも帰る。
はよ出してくれ。 >>418
は?このスレ読み返せば何度も書かれてるだろ無能
お前には無関係なんだから日本史いたからさっさと消えろチョン >>417
その原始信仰の上にお宮さんが建てられているのは事実やろ。
しかしやな、そのお宮さんを建てたのが誰かという話になるんやな。
安曇族ではなしに、別の海人族かもしれん。
摂津の安曇氏がその志賀の海人族の末裔やと証明できるのならええ。
だが、それを証明するものがないやないか、というとるの。
乱暴な話をすれば、摂津安曇氏が、志賀海人族の信仰を乗っ取ったという話もできる。
話だけはや。
これと同じに、志賀の海人族は安曇族やというのも、根拠を示せん以上、話にすぎんとみなすことも可能やということになる。
そこのところの根拠が問題になってるわけよ。 >>421
人の受け売りしかできん者は、このスレには必要ない。
帰れ。 >>424
チョンの妄想箱のスレに不要
はよ消えろ。 だーかーらーw
まず、摂津チョンコも全国に広がった安曇属がワダツミを始祖としてるのには同意してるんだよな?
とすれば、ワダツミの本拠地がどこかって問題だよな?
摂津チョンコは摂津にワダツミの本拠地を比定できてんの?
神話の話には史実が隠れてるという民俗学の視点で見ると、ワダツミ三神はイザナギの禊でスミヨシ三神と共に生まれ出たことになってるよな?
アマに住むアズミとエに住むスミヨシ(スミエ)は一緒に生まれた三つ子の多胎児ってことだ
多胎児の片割れであるスミヨシ三神は800年前までは那の津(博多湾)の河口だった現人神社に祀られ、のちに現在の住吉神社の地に遷宮され、全国にある住吉神社の総本社となった
摂津の住吉大社もこれは認めてる
同時に生まれたはずのワダツミ三神が那の津の湾内以外に祀られるのは極めて不自然だろw
実は摂津チョンコと似た文調の>>380が書いた中津宮付近にはイザナギの禊地であるという伝承があり、御身洗という地名を残してる
伝承ではワダツミがその場に留まり、スミヨシは那珂川河口に降りたとしてるんだ
なによりも安曇族の始祖がワダツミであるならば全国の綿津見神社、海神社の総本社である志賀海神社こそが安曇族の本拠に他ならないって結論しか導き出せないだろ? >>422
そんな「もしも話」し出したらキリがねぇだろバ〜カ >>426
お前のtallinn頭じや、そうしか理解できわな。 >>427
なんか思い込みというか、基本的なことを理解してないというか。
そもそもワダツミは、南九州のアハギハラというところの河口の海で生まれたと書紀に書いてあるわな。
まず、そこから論を始めんで、いきなり那の津を持ち出してくるのは、乱暴な論やと思わんか。 筑紫の日向の橘の小戸のアワキハラなら、福岡市西区小戸だな。 >>431
日本書紀のアワギハラが福岡市の小戸だとの説だが、一足飛びに断定するだけじゃなく、論証が必要だね。
普通は、日向は南九州を指すとされているからね。
どういうわけで、日向が福岡市になるのかな。 記紀海神族の可能性というのは、
縄文以来、倭人伝によって金印57年以降の九州北岸の諸国であって
倭国大乱後190年付近で卑弥呼擁立の筑紫21国の北部博多湾岸国だよ。
或いは、
BC200年辺りから本州への青銅搬入を背負った
これは、邪馬台国勢力が及ばなかった
遠賀川地域〜隠岐出雲〜丹後〜糸魚川〜男鹿の日本海縄文海神。
瀬戸内海海神、吉備と繋がる行橋中津地域の、海賊w氏族もあるかと思う。
本願的には銅鐸文化の非統一によって
壱岐と沖ノ島、対馬の東岸と西岸で別れる
本州寄りと九州系の2系統が有るべきかと思う。
宗像より古そうな、安曇族が卑弥呼擁立の海神族、まあ 奴国が妥当で、
卑弥呼没年247年以降、『因齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩』
による、東夷侵略加担要請の魏との交流を嫌った、
大和朝廷の前身に下った、当時の邪馬台国の一国、奴国や所属国が
半島や糸魚川方面の開拓に配流されたというのは当然有り得る。
これは三国志中国統一半島進出の魏に、屁垂れた卑弥呼の危機を察知できた、
朝廷が有ったからこそ、富国強兵で半島進出や牛馬の移入に成功したのであって
大和朝廷成立への古代日本史史上でも 決定的な好采配だろ?
こんなもん、戦国の歴史の可能性として、全然、謎じゃないだろ? 北方馬賊侵入説だっけ? って有っただろ?
馬と鉄器が敵だと、縄文の関東方面は当然敗北する。
ところが、歴史はそうならない。
300年当時の富国強兵で関東に馬が導入されるのは
朝廷の御牧や、貨幣価値のある税としての稲を栽培させたからである。
おまえら、米が喰えるのは誰のおかげだよw
なんで、弥生人は米の為に郡国領主の奴隷になるかねwww
治安を提供されない土地所有は無い。
戦国領主は、朝廷から領地安堵を認められた。
これが、日本史の基本だろ?
水戸学の基準で、現代では記紀は、デタラメなんだがw
それによって、歴史上の固有の領土というものが確定している
日本の天皇制は永遠でなければならない。
歴史の話で、中韓が歴史上固有とか、ないからwww
チベットウイグル満州がなんで中共だよ?
世界征服が解放軍だろ?
竹島の韓国人に至っては、盗っ人猛々しい。 >>432
どこの世界の「普通」だよ。
そもそも、弥生時代を遡れば遡るほど、南九州など何もなくなる。 銀座といえば、普通は東京都中央区銀座を指すのだろうが、どこかの田舎が「うちにも銀座があるから、どちらかわからない」と嘯くようなもの。
筑紫の日向は弥生銀座の一角を占める福岡市西部だよ。
それ以外の場所だというのなら、その根拠を示せ。 >>430
もうね、お前の姿勢は郷土愛か何か分からないけど頑なに阿曇の本貫を志賀島にしたくないという感情論が最優先されてて話にならない。
阿曇に呼応する住吉の存在からも意図的に目をそらしてるし、摂津安曇が志賀海人族の信仰を乗っ取ったなどという暴論を持ち出してまで煙にまこうと必死になる理由が不明。
住吉の本社が博多湾の南岸にある住吉神社で、海神の本社が博多湾の北の沖にある志賀海神社なのだから、素直に史料と現存する神社から読み解きなさいよと言いたい。
摂津には海神の本社もなければ伝説もないのだから。 奴国研究者の受け売りだと、黄泉の国から「帰って来て」から檍原に「行って」禊をしたのだから
帰ってきた場所は淤能碁呂島=博多湾に浮かぶ能古島で檍原は志賀島って説を見たことがある 黄泉の国って、日本列島以外の
当然の隣接半島の事? だよね? クワバラクワバラw。 今でも筑紫日向(竺紫日向)は宮崎だなって言ってるやつが入るんだな >>438
タチバナというのは岬のことであり、小戸すなわち九州半島側であることは確実。 >>441
温泉といえば九州であることが確実。
また、黄泉比良坂の、ヒラは上り坂、サカは下り坂なので、黄泉の国は奴国から峠を一つ越えただけのところにある。
少なくとも福岡県内であり、本州でも半島でもない。 >>443
九州半島側ではなく九州本島側な。
誤変換容赦。 >>437
なんか、スゲーふぁんたじーワールドだな。
日向は普通、南九州のことだが、その日向が福岡市あたりだというその理由については、爪のあかほども説明ないな。 >>438
能古島は、残(のこ)の字が使われることがあるので、(残った嶋)が能古島の意味だろうよ。
つまり、志賀島が陸繋島となって本土につながったので、能古島が最後まで海中に残った島という意味だろうな。 >>438
黄泉の国で伊邪那岐は伊邪那美に、「伊邪那岐命語詔之、愛我那邇妹命、吾與汝所作之國、未作竟、故可還」と言ってるから、還ったのは淤能碁呂島で間違いないと思われ
淡路の比定地で人気があるのは自凝(島)神社のある沼島か淡路島だけど、禊をした伝承のある地は付近にないんだよな >>447
お前のトンスルファンタジーほど臭くないからOK! >>448
陸繋島になったのは昭和だぞ無能チョンw >>437
尋ねているのは、安曇氏が糟屋の志賀から移住したという史料だよ。
それしか聞いてないよ。
たったそれだけの史料が出せんのに、摂津安曇氏が志賀から移住したのは歴史事実だとのたまわっても、はいそうですかとはならんだろうが。 史料研究の最前線で日向を日向国に比定してたのは昭和中期くらいまでだろう。
日向の説明として「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」とあるのだから、カラクニと対峙せず、西側に1,500m級の連山がそびえる日向地方は夕日の日照る地にはなりえないというのが現在の通説。 >>452
海神の本社は志賀海神社で信州安曇郷もその通説を継承してるのに、その中継地点である摂津安曇だけが志賀島以外から発生した安曇と考えるほうがどうかしてる >>451
志賀島はずっと陸繋島だった。
ただ、満潮時にはその砂洲は水没していた。
昭和に橋を架けてから橋脚部分に砂がたまって水没しなくなっただけやな。
陸繋島であったのは変わらん。 >>453
ってことはツクシの日向は朝日が遮られず、夕日も遮られない土地
つまり高山か島ってことになるな >>380
>なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
>阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
>同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。
これで十分に思えるね。 >>456
志賀島がに砂州が溜まったのは福岡(黒田)藩が冷泉の津を埋め立ててからと記録があるぞ >>459
摂津チョンコはそれでもガンとして減らず口を叩いてるがな >>380
>あと、志賀海神社には元宮があり、志賀島最北部の勝馬に現在も表津宮跡、中津宮、沖津宮が残っとる。
>>427
>実は摂津チョンコと似た文調の>>380が書いた中津宮付近にはイザナギの禊地であるという伝承があり、御身洗という地名を残してる
これだと、イザナギの禊は九州ではなく志賀島になってしまうなあ。
それとも、橘(岬の意)そのものが志賀島のことなのか?
そうすると博多湾全体が筑紫の日向? 摂津チョンコって呼び名やめへん?
絶対に志賀島は嫌マンとかでええやんけ >>462
伊都国・奴国メインで研究してる人たちはそう考えてるよね >>462
もしくは小戸
伊都クズさんのスレに詳しい >>456
少なくとも香椎宮の記録では離島となっている >>453
完全否定されてるトンデモ説を、いまだに信じてるとはな。
しかも、「日向」の字が見当たらんじゃないか。
韓国については、書紀で「空国」(むなくに、からくに)と書かれているそれを、古事記が勘違いで韓国(からくに)と表記をしたのだろうな。
いずれにしても、イザナギが禊したアワギハラがある日向が福岡市あたりだという説の説明にはなってないぞ。
日向=福岡市あたり説は、勝手解釈の結果やとや言われてもしようがないなあ。 wiki 志賀島から引用
1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。
博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。
これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。
この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。 >>467
引用された文章全体が、筑紫の日向についての説明だ。
勉強して出直せ。 >>467
>韓国については、書紀で「空国」(むなくに、からくに)と書かれているそれを、古事記が勘違いで韓国(からくに)と表記をしたのだろうな。
文字は後から当てただけだよ。
「からくに」と言えば、朝鮮半島に他ならない。
「空国」では具体的にどこも指していないことになるからナンセンス。 >>467
>いずれにしても、イザナギが禊したアワギハラがある日向が福岡市あたりだという説の説明にはなってないぞ。
それ以外のどこだというのだ。
証拠をつけて言ってみろ。 筑紫や筑紫島を九州島と見る研究者もいるけど、筑紫は北部九州を指す以外に使われた史料はないいだよね
筑紫島も"筑紫のある島"と捉えるのが妥当だと思う
天照や天孫が穀霊神に繋がる稲作農耕の神様だって考えれば、最古の稲作遺構が古墳時代の日向の国より縄文晩期から稲作やってる福岡市のほうが自然だしね 安曇の本貫地はどこだ?という題から目をそらさせようと必死な摂津チョンコの策に九州勢がハマってて草 >>460
その記録の部分を挙げてみてくれ。
冷泉の津が埋め立てられたのは事実やが、冷泉の津の海にいくつもあった島が陸につながったとされている。
志賀島は北に遠く離れているので、冷泉の津の埋め立てで志賀島がつながったとは信じがたい。
その記録の部分を挙げてくれ。
話は、それからや。 >>471
なに言うとるの。
通説は、日向は南九州や。
それを日向は福岡市あたりやと異常な論を出してるのやから、そちらが証明せなあかん問題やないか。
へんなこと言うな。 >>474
アホかよ
南側の埋め立ての影響で北側に砂洲が溜まったってことやろ
出典に関しては調べられる自信がないから>460に譲る(笑) >>475
ジジイかよ>>453が現在の通説だマヌケチョン ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています