摂津チョンコ?畿内盲信者?は志賀海神社の創建を5世紀くらいにしときたいようやが、志賀海神社の分社「風浪宮」は192年創建と社伝に残されとる。
本社・志賀海神社が分社・風浪宮より古いのは当然やわな。

あと、志賀海神社には元宮があり、志賀島最北部の勝馬に現在も表津宮跡、中津宮、沖津宮が残っとる。
社伝では2世紀に現在地に遷座したとあるんやで。

この元三宮には面白い点があり、2005年の福岡県西方沖地震に際して社団法人土木学会が地質・地盤条件を調査しとる。
https://www.jsce.or.jp/report/34/
この時に表津宮跡、中津宮、沖津島は志賀島花崗閃緑岩に乗っとり、現在の海岸線は3000年前頃に形成された事が判明したんや。

つまり、元三宮は紀元前10世紀頃には浅瀬に浮かぶ沖津島と仲津島、志賀島上の表津宮であり、その当時から原始的信仰の対象となっとった可能性が極めて高いっちゅう事や。
1947年に表津宮の東南300mにある前田富蔵邸裏庭から出土した細形銅剣鎔笵残欠(弥生初期)を皮切りに、1973年、1974年に九大考古学研究室によって実施された「金印遺跡調査団」では縄文後期から晩期の土器、黒曜石製石鏃、磨製石斧が出土しとる。

なお、全国の阿曇氏の祖神で綿津見神(少童命)と同一神と目される阿曇磯良は八幡愚童訓において、「安曇磯良ト申ス志賀海大明神」と記され、
阿曇氏の祖とされる大浜宿禰は新撰姓氏録の右京神別下で「安曇宿禰"海神綿積豊玉彦神"子穂高見命之後也」とあり、
同録の摂津国神別にも「安曇宿禰同祖"綿積命"六世孫小栲梨命之後也」と記されとる。

また、実在が確かと思われる阿曇連[闕名](日本書紀 巻二十二)や阿曇連比羅夫(日本書紀 巻二十四)も
河内国神別において「安曇連"綿積神命"児穂高見命之後也」と記されとる。

さらに「『日本書紀」の原典である「帝紀」、「上古諸事」、「墓記」に阿曇連稲敷は関わっており、自身のルーツが綿津見神にあると認識していた傍証と言えるんや。

そもそも阿曇の本拠が志賀島ではないと言い出したんは文学修士でしかない京都の故・楢崎干城と岐阜の松原弘宣 文学教授、大阪で高校教師やった上遠野浩一くらいなもんやで。
ワイは文学者の裏読みより、社伝に基づく民俗学的考察、地質学、発掘に基づく考古学、資料に基づく歴史学に高い信憑性を得られるわ。