奴族の末裔の志賀の草が細々と綿津見を祀っていたところ、応神政権が瀬戸内海と玄界灘の制海権を確保するために、
住之江では筒男神を津守氏に祀らせ、摂津安曇氏には博多で綿津見神を草から乗っ取って祀るようにさせたのだろう。
このときに、博多の現地へ赴いた安曇氏の分家は氏神の磯良を分祀してもらい、志賀で祀るようになったということなのだろう。
513さんとは逆になるが、これが歴史の真実だろうな。