>>568
そもそもや、3世紀末頃には博多地域には大きな地元勢力はおらんようになっていたとする説がある。
つまり、那珂八幡古墳の被葬者が地元の勢力なのか、外部から来た者なのか、それがはっきりせんとされとるくらいなんや。
また、この時期から5世紀初頭まで、ここには古墳群がない。
仲哀の出迎えに博多から行った者がおらん。
神功に遠見に出される志鹿の草は小者のような扱いやし。
安曇というような大族がおったようには見えんのよ。
応神になってから、博多に前方後円墳が再び作られる。
老司古墳がそれや。
那珂八幡から老司までな〜んもない。
安曇がもとから博多にいたというのは、単なる思い込みやないか。