240年には倭人伝で、漢文で邪馬台国と仮称された
筑紫は、239年公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡を経て、
247年までに、本州の後の大和朝廷となる勢力と併合している。

外交を一大卒に一本化したのである、これが247年で魏と邪馬台国の外交が終わった理由。
これは、245年に難升米が三国志の檄に応えなかったこと
九州は日本であり、中華に迎合しないという事の意思表示である。
247年に238年の卑弥呼の朝貢を皇帝に取り持った、帯方郡の張政は
この不参戦の言い訳に来た、遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 の船に便乗で査察に訪れ、

使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
を 報告している。

魏は280年呉を制し三国志の覇者となるが、
313年には高句麗百済新羅に押され東夷を放棄した。
この事実が、三国志に書かれているが、表現が中華のメンツで奥歯にものが挟まっている。
この陳寿の手法の一つが、卑弥呼の女王宮まで、帯方郡から満二千里、の嘘である。
定義となる、韓方可4千里、対馬海峡3千里
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
で、九州なのは明確だが・・・

東夷伝序文の
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
で、言うように、倭国も中華に従った、という皇帝のメンツを忖度したのである。

邪馬台国=安曇族は、実在しない神功皇后の説話によると
朝廷貴族となり三韓征伐の功を立て摂津に招請され、朝廷貴族となっている。
卑弥呼は、畿内説ではアマテラス、九州説ではワダツミ、難升米が磯良とか
現代の、小中高生には、間抜けの歴史であり、記紀は唯のファンタジーなのである。