【阿曇氏】海人族 part2【宗像氏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレが落ちてしまったので再び立てます。
謎多き海人族について語るスレ
海人族とは何者だったのか?
天孫族との関係は如何なるものだったのか?
前スレ
【阿曇氏】海人族【宗像氏】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1317289551/ やっぱ、知識のある人は違う。
現人神社一つで、おめらの妄説が一気に吹き飛んでしもうた。
おめらの説は確かな根拠に立ってないから、ちゃんとした根拠が出てくるともう腰砕けてへなへな説になってしまう。
やはり、ちゃんとした根拠に立って、分からんことは分からんとせんとな。 >>846
>ワタツミもスミヨシも生まれた場所は筑紫なんだよ
筑紫も、だれも祀らない問題外の地。 @阿波 >>848
そろそろ幻の世界から帰っておいでよ
明日朝一番に住吉大社に電話しような
そうしたら全てが分かるから
分かったらちゃんとここに反省文上げろよ >>846
わはははは。
現人神社をぐぐってみたのか。
現人神社を知らなんだ証拠やな。
筑前国続風土記の時とおんなじや。
あはははは。 >>852
そういう気の触れた演技は文字にしないでくれよ。
とりあえず明朝、住吉大社に電話しろ。
住吉大社 06-6672-0753
電話で聞く内容はちゃんと覚えてるか? 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョンコ
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル >>846
わけわからんこと言うとるな。
豊玉彦は津守の氏神。摂津に元々いたかどうか分からん。
豊玉彦を氏神とするタモミ族がどこかから移動してきて住之江に土着し、そこで豊玉彦を祀ったのかも知れんじゃないか。
そういう可能性も頭に入れておかんとな。 >>854
それに>846の>見たくないものは見えなくなり、見たいものは幻を作ってでも見る習性 も加筆しといてくれ >>854
志賀安曇本家説の方々にとっちゃ、おめは邪魔なんだよ。
本家説の方々に墓穴ほらせるようなことばかり吠えておる。
本家説の方々がみんな黙ってしもうたやないか。
おめは、美容院へ帰れ。 >>855
住之江は、神武天皇の祖母 豊玉比賣を祀らない問題外の地。 @阿波 >>855
わけのわからんこと言ってんのはお前だよマヌケ
安価先のどこに豊玉姫の記述があるんだマヌケ
さっきから興奮しすぎてキャラ変にも失敗してるマヌケっぷりだし・・・
とりあえず水風呂にでも浸かって湧いたアタマを冷やしてから出直して来いマヌケ >>857
>>804と>>813を書いた俺はここにいるぞ。 横からだが、綿積を合祀または境内摂社に祭る住吉系神社は多いが、住吉を祭る海神系神社を知らない。
誰か住吉を祭る海神社を知らないか? 綿津見は住吉の兄、宗像の叔父
住吉は綿津見の弟、宗像の叔父
宗像は綿津見と住吉の甥っ子 >>863
ここだよ。
「住吉大明神こと住吉神社」
板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。
祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。
鎮座地は神功皇后ゆかりの地で当社は全国住吉神社の元社にあたる。
神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。
大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。
百済征伐の帰りに当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。
そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。
また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。
審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。
ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。 神功皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。
そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。 @阿波 阿波ごめんな安価ミス
>>866
月刊ムーに触るなキチガイ! >>866
>電波ビンビン過ぎて草www
倭国(阿波)では、たいがいの記紀神話の神々をお祀りしている。 @阿波 >>865
住吉を祭る(主祭神が綿津見の)海神系神社を知らないかと聞いてるんだが・・・ 聞いてもないことを一所懸命にベラベラと喋る
図鑑読みたてのガキにそっくり >>860
湧くのは蛆な。
頭は沸く。
勉強しろよ。 >>869
四国八十八か所主義〜。
外へ行かなくてもいいように、全部集めてくる〜。
神社も全部集める主義〜。 >>870
大海神社。
津守の氏神。
住吉大社の境内にある。 >>874
>神社も全部集める主義〜。
集めるんじゃなくて、倭国(阿波)に集まってたの。 ごめんね。
君の所には無いでしょ。 @阿波 >>870
住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。 @阿波
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦) >>879
>全部、分霊じゃないの。
いくらなんでもそんなに集中的に勧請する訳ないでしょ。
集めるんじゃなくて、倭国(阿波)に集まってたの。 ごめんね。
君の所には無いでしょ。 @阿波 >>879
君の所には、住吉三神もお祀りしてないでしょ。 @阿波 >>881
私の上に住吉大社があって、そこに筒男が祀られている。
本家本元じゃ。 >>882
筒男ってどの筒男? それ、胡散臭いね。 @阿波 >>883
そらまあ、海の神さんだから、潮くさいやろがな。
筒男は、底、中、表をひとくくりにした神名。
世間は、筒男三神と呼んでおる。 >>884
筒男三神? 住吉三神じゃないの? それ、胡散臭いね。 @阿波 >>885
住吉というのは、住之江から転化した地名とされておる。
その地名を採った住吉大社の神さんなので、住吉三神じゃ。
元々は筒男神ということだ。
潮くさいがな。 >>886
>住吉というのは、住之江から転化した地名とされておる。
3文字から転化した? それも、胡散臭いね。 @阿波 福岡も大阪も、住之江の表記が今でも使われているね。
住居表示は住吉になっているけど。 大阪の住之江の住は、墨が書かれていたりする。
澄もあり得る。
隅も考えられる。
だから、住は当て字の可能性がある。
ということは、住吉は当て字の当て字ということにもなるな。 >>887
スミノエ=4音。
スミヨシ=4音。
おんなじ。
潮くさいのは、海の神さんだから。 筑前阿曇氏の拠点は"阿"曇郷、信濃阿曇氏の拠点は"安"曇郡、摂津阿曇氏の拠点は"安"曇江であり、阿曇氏、阿曇連の本貫地は同名の阿曇郷である(全国邪馬台国連絡協議会九州支部)
また、713年の好字令によって筑前本家と区別するために信濃阿曇と摂津阿曇は拠点を安曇とした(神歴研)
新撰姓氏録右京神別下、地祇
「安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」 阿曇は綿積の子である穂高見の子孫であり、同様の記述は古事記上巻ニにもある
なお穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社のニ社のみ
新撰姓氏録摂津国神別
「安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也」 摂津阿曇は綿積の6世孫、小栲梨の子孫であり、小栲梨を祀る神社は皆無
先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀
「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」 綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事である
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社は存在しない
綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社(摂津で唯一の海神由来の神社)が摂津にあるが、平安時代に天照御魂神社が招聘した(摂津名所図解と当社神職による)もので阿曇族とは無関係
摂津の阿曇連百足は安曇磯良(綿津見の娘の子)の九世孫を自称していることから筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)と言える
また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮でき、海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロする
兄弟神である綿津見と住吉の本社はそれぞれ志賀海神社と筑前住吉神社である
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めている
筑前本家説にこれだけの根拠がある一方で、摂津説に根拠は皆無である点を勘案すれば、自ずと阿曇の本貫地は筑前以外に有り得ないという結論に至るのが真摯な歴史学研究の姿勢である 阿曇磯良(磯武良[いそたけら]、阿度部[あとべ]−、安曇−とも)
阿曇族の氏神
祖父 綿津見(母方)と瓊々杵(父方)
父 彦火火出見(山幸彦)
母 豊玉姫(綿津見の娘、鰐鮫の化身)
叔父 穂高見(阿曇氏の祖)と振魂(尾張氏の祖)
叔母 玉依姫(神武の母)
『古事記』あまつひここ”ナギサタケ”うがやふきあえず、『日本書紀』ひこ”ナギサタケ”うがやふきあえず、書紀、五十猛(いそたける)と同一視する研究もある。
『太平記』『志賀海大明神御縁起』『風浪宮縁起略』『宗像大菩薩御縁起』『津島(対馬)紀事』では三韓征伐の準備中に舞によって招聘され、その舵取を務める。
太平記では住吉神、志賀海大明神・宗像大菩薩の御縁起では武内宿禰、津島紀事では小島の女が舞を奉じたとある。
この出現場所については春日大社の春日若宮おん祭で奉納される猿楽「細男の舞」において”筑紫の浜”と詠われている。
『八幡愚童訓』には安曇磯良は志賀海大明神で、常陸国に於いては鹿島大明神、大和の国に於いては春日大明神であるとされる。
同様の記述は『琉球神道記・鹿嶋明神事』にも見られる。
阿曇磯良を奉祀する主な神社
志賀海神社(海神信仰の本社)
風浪宮(おふろうさん)
和布刈神社(隼人明神または早鞆[はやとも]様とも)
多久頭魂神社(対馬下県厳原町大字豆酘)
闇無浜神社(大分県中津市大字角木)
止上神社(鹿児島県国分市重久)
疣水磯良神社(大阪府茨城市三島丘)※元新屋坐天照御魂神社境内
磯良のその後については、志賀海神社に祀られて宮司家となったとされるが、三韓征伐の功で48隻の船を賜わり難波に移住、九世孫が阿曇百足(宗像大菩薩御縁起)、風浪宮の斎主として大川榎津に留まり、宮司家となった(風浪宮社伝)、筑紫の浜から海底に還ったなどがある。
また、ウガヤフキアエズを和魂、磯良を荒魂と捉える研究もある。 >>892
阿曇磯良(磯武良[いそたけら]、阿度部[あとべ]−、安曇−とも)
阿曇族の氏神
祖父 綿津見(母方)と瓊々杵(父方)
父 彦火火出見(山幸彦)
母 豊玉姫(綿津見の娘、鰐鮫の化身)
叔父 穂高見(阿曇氏の祖)と振魂(尾張氏の祖)
叔母 玉依姫(神武の母)
↑
これ全部「忌部はん(海人族)」。 狗奴国(長国)出身。 @阿波 >>892
この安曇東遷説も、邪馬台国東遷説と同じ思考パターンだよな。
なんで、北部九州は東遷したがるのかね。
根拠がまったくないのに。 >>894
そりゃ、大宰府症候群のなせるわざだよ。
大和に占拠されて大宰府を置かれた精神的後遺症がひどく、どうにも大逆転しないと病状が回復しないの。
そこで、九州王朝を捏造して大宰府は九州王朝の都だった説、また邪馬台国は東遷させてその本国は奴国だった説、そして安曇は元々志賀発祥説を唱えている。
いかに、大宰府症候群の病状がひどいか分かるだろう。
安曇東遷説は、そうした精神的後遺症を鎮める一つのお薬なわけ。 >>894
東遷というか、東征はあったのだろう。
しかし、本貫地があくまでも博多湾沿岸であることを忘れてはいけない。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 北部九州の甕棺墓制は3世紀以前にど没落した
全羅南道では存続する >>894
文盲なんか?メクラなん?むしろ根拠しかないやん
気温が上がってアタマにウジ虫湧いたんか?
で、摂津に何か根拠あんのけ?皆無やんな(笑) 王統が何度も入れ替わっているのだ。
伊都国の王統は甕棺ではなく、三雲南小路遺跡に代表される方形周溝墓だ。
甕棺を貶めても何にもならないよ。 王統が替わっているなら一連の王権じゃないな
三雲南小路遺跡は甕棺墓 >>902
甕棺を持つ方形周溝墓。
つまり、三雲南小路遺跡の一族と、平原遺跡の一族は違う。
つまり、伊都国の中で、倭国大乱の年代を挟んで政権交代があったんだよ。
平原遺跡は倭国大乱の後の女王墓であることは、概ねほとんどの人が認めているわけだし。 >>901-903
ここは海人族のスレ。
九州スレと同じコピペをすることに何の意味があるのだ?
主張したい事は適した場所でだけやってくれ。 まあしかし、摂津安曇氏と住吉大社の津守氏が同族である可能性は高い。
住吉大社神代記では、豊玉彦の名を津守安必登神(つもりのあらひとかみ?)と書いている。
また、これを延喜式神名帳では、津守安人神(つもりのあらひとかみ?)と明確に書いている。
この安必登神、安人神は、現人神(あらひとかみ)の意味だとされている。
那珂川の現人神社の社名の由来も、ここにあるのかも知れない。
この安人神を単純に発音すれば(あと)であり、安曇氏の読みを(あどん)とするのと発音がよく似ているのだ。
安曇の漢字の由来は、この(あと)(あどん)にある可能性があるのである。
志賀の阿曇氏は、安ではなく阿としているが、しょせん発音自体は(あ)であることに変わりはない。
であれば、安曇氏は津守氏と同族であり、津守氏から分かれたのが摂津の安曇氏だと解釈されることになる。
アズミの発音については、(あと=安人=豊玉彦)と綿津見(わたつみ)の二神の(あと)の(あ)と(わたつみ)の(つみ)を掛け合わせたものであることが容易に推測できる。
この(安+津見)に安曇の漢字を当てたのが、安曇(あずみ)ということであろう。曇(どん)の字が当てられたのは、豊玉彦を安人(あどん)と発音することがあったからだろう。
このようにみると、すべては住吉大社神代記に記す(安人=あと・あどん)から発していることになる。
やはり、安曇の発祥は摂津と考えるのがいいようだ。
このように考えると、綿津見を豊玉彦と同神とみなすようになるのは、安曇氏が志賀に進出して奴国系海人が祀っていた綿津見を自らが祀るようになってからと考えるのが自然である。 >>906
摂津は傍流の末裔だと何度教えられればw >>908
邪馬台国ネタは邪馬台国スレでやれってこと >>899
甕棺墓は、3世紀中頃まで筑後の山門あたりで通用しているがなあ。 >>906
感心して読んでいたのに、最後がダメダメ
要するに安曇氏は津守氏と同根であり、住吉の神、綿津見なんだよ。
豊玉彦と同じということは、筑紫の日向三代王家と姻戚を結んだ豊国王家であり、まさに古の奴国の王家に他ならない(記紀では綿津見の方が天孫よりイザナギに世代が近い=古い)。
イザナギの筑紫の日向の小戸における禊で生まれた氏族なのだから、当然土着の氏族の代表だよ(そもそも祖先崇拝だし)。 >>910
>>891は全国邪馬台国連絡協議会九州支部を引用している >>909
いちおう分家だが、本家は福岡の綿津見神社や住吉神社なのだろう。 博多湾に新しい氏族が発生すると、古い氏族は周辺に追いやられる。
豊国王家だって、元々は住吉でわかるように博多にいたのに、遠賀川流域に追いやられている(たぶん、筑紫岡田宮、崗県主というのがそれ)。
最後には豊国は豊前豊後など、大分まで追いやられる。
その前の世代の勢力は、もっと東の出雲だし、それより古くて記録も定かではないのが、出雲よりもっと東に追いやられた越だろう。
しかし越も、香椎の語源が越だと言われるくらいなので、古くは西日本の日本海沿岸全てが越だったのかもしれない。 >>914
摂津阿曇の最も古い実在人物が百足
その百足が磯良の9世孫を自称してるんだから傍流
本流は阿曇氏の祖 穂高見
摂津阿曇の祖 磯良は本流たる穂高見の甥 つまり博多湾における天孫族に圧迫されて摂津まで落ち延びた氏族が摂津安曇氏か? >>920
別物と考えたほうが良い
志賀阿曇は万葉集にスメラミコトと詠まれているから天孫系 >>923
イザナギの末裔なら、王族であることは間違いない。
魏志倭人伝の卑弥呼の前の男王が日向三代なら、綿津見はその初期の時代になるから、郡使が訪問した時には奴国で埋没していたかもしれない。 その志賀阿曇がスメラミコトと詠まれている万葉歌引用して >>927
魏志倭人伝において、倭国大乱の前の男王の初期が帥升と年代が被るけど、これが天孫ニニギなら、イザナギの三世孫。
綿津見はイザナギの子だから、金印をもらった頃か、紀元前後かな。
まさに倭奴国王。 後漢に金印貰った本家は倭人伝の倭王とは関係なく志賀島の寒村で暮らし
分家が連、宿禰になったってことかな ニューヨークの玄関口であるエリス島みたいなところを押さえておいて、寒村とは言わないよ。 >>929
会話に参加したいなら、そのくらい自分で調べられる知能を身に着けてからにしろよ無能
もしくは謙譲語で教えを乞うたら即教えてやるぞ 千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾者不忘 壮鹿之須賣神
反日ソント集団はこれのこと言ってるのかな >>912
感心して読んでいたのに最後まで感心しつづけることができなかったのは、きみらのファンタジー説刷り込み洗脳がいかにひどいものであるか示しているよ。
安曇氏の系図ではなぜ綿津見と豊玉彦がひとつにくっついているのかその理由を説明したら、自分の障害に気付いて安曇氏志賀発祥説の刷り込みを捨て去るかと思いきや、真理に背を向けてファンタジーに沈潜していく体たらく。
安曇氏の系図がいくつもの神を加上していく形式を取っていて、それが物部氏の旧事本紀の系図のパターンとおんなじであるのは明らか。
物部氏の系図が海部氏や尾張氏、その他の氏族の神名を取り込んで自らの出自を造作しているように、安曇氏の系図もそうした造作の産物だということだな。
そして、日向=南九州定説にもかかわらず、日向=福岡異説に固執して、夢に浸り続けてしまう。
まあ、長年の固定観念がすぐに溶けるということはないだろうから、そのまま安曇氏志賀発祥を信じていたまえ。
ある日突然、「あっ、そうだつたのか」と膝をたたくことになるから、まあみていたまえ。 >>915
あのあたりが、卑弥呼の祭祀所のあったところなんだけど。 阿曇百足(ももたり、−むかでとも)
詳細不明
阿曇磯良の九世孫※磯良は阿曇族の女系であり、磯良の子孫を自称する摂津阿曇は傍流である。
本拠が摂津であるとされる最初の阿曇氏
磯良同様、『記紀』には登場しない
『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷条では「百足は景行天皇の西国を鎮撫巡行に陪従し、志式島で偵察。 小近島の大耳と大近島の垂耳という土蜘蛛を拿捕して献上するも、景行天皇は貢物の約束で恩赦した。」
『筑前国風土記逸文』に見える大濱宿禰(阿曇宿禰・阿曇大濱)が"陪臣(又家来)"であったのに対し、百足は"陪従(お付き人)"となっている。
すなわち、百足の代にはすでに朝廷に従属していたことが分かる。
『播磨国風土記』の揖保郡・石海里条では「百足が石海の里の百枝ノ稲を孝徳天皇に献上し、その里を開梱せよとの勅を受け、石見の人夫を召して開墾したので、この土地の名が百便(ももたり)、村の名が石海(いわみ)となった。」
『播磨国風土記』の揖保郡・浦上里条では「この土地を浦上と呼ぶのは、移住してきた百足らが、先に住んでいたのが難波の浦上だからであり、産土に依ってこの地も浦上とした。」
そして本拠地を摂津から播磨に移したことが伺える。
ただし、播磨国風土記は年代的に阿曇頬垂(つらたり)との混同と考えられる。
阿曇頬垂(つらたり)
詳細不明
本拠地は播磨
日本書紀に見える最初の人間阿曇氏
『日本書紀』巻第二十六・斉明紀三年是歳条では
小花下(律令制下の従五位に相当)の頬垂が西海使の務めを終え、百済からラクダ一頭とロバ二頭を斉明天皇に献上した。
※642年に百済は再び倭国の附庸国となっていたため、西海に含まれていたのが興味深い
翌年の『日本書紀』巻第二十六・斉明紀四年是歳条では
再び西海使として百済が新羅を討ったとの報告を行っている。
『日本書紀』巻第二十七・ 天智紀九年九月朔条では
頬垂を新羅に遣わし(西海使ではない)、この年より水車を作って製鉄を始める。
東アジアにおける海洋帆船は宋代の発明とされているため、この時代は手漕ぎの準構造船と考えられる。
続く稲敷も含め、阿曇は遠洋海運に非常に長けていたことが分かる。 >>916
きみらは、弥生時代になり何もかもが大陸からやってきて東へ通り過ぎて行ったそのトラウマに、いまだに悩まされているようだ。
邪馬台国東遷説も、天智東遷説も、この安曇東遷説もみなそのトラウマのなせるわざだよ。
しかし、日本の実歴史では、すべて西遷なのよ。
東から西へ移動している。
安曇も、大宰府もみな東から西へ移動しているの。
はやく、歴史の真実にたどりつきたまえ。 >>941
頬垂、あるいは百足か、いずれにても今の大阪府下か兵庫県。
北部九州の阿曇氏は公式記録に出てこないね。 >>944
何を持って公式とするかにもよるが、>892の阿曇磯良を読めば本流(本家)は筑紫で確定だろうな。
畿内に住んでいることが確定している安曇が陪従(従属)してるにもかかわらず、後年長崎に現れる阿曇は陪臣(間接的な臣下)であることもそれを裏付けている。 >>938
>物部氏の系図が海部氏や尾張氏、その他の氏族の神名を取り込んで自らの出自を造作しているように、安曇氏の系図もそうした造作の産物だということだな。
妄想だろ。
>>938
>そして、日向=南九州定説にもかかわらず、日向=福岡異説に固執して、夢に浸り続けてしまう。
こういうのを固定概念というのだよ。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。