先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 21 [無断転載禁止]©2ch.net
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先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか? テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 家の格式を必要以上に誇ったり、蔑んだりしない事 武士だから素晴らしい農民だから駄目ということはありません、今の自分があるのは先祖という感謝の念で!!
5 あくまでも、先祖調査の経験やノウハウの語るスレです
6 荒らしは無視でスルーしましょう。
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
CURL貼り付けたかったら貼る
○自分の先祖を語るスレ○
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1172634664/
【源平】お前らのご先祖様を語れ!【藤橘】
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1232458748/
戦国大名の家柄や先祖について
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190452733/
みんなの家紋ってどんなの?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/live/1390913655/
家柄ってなんだろう?
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1402948559/
前スレ
先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 20
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1411232212/ ┬1 父──┬3 祖父─┬7 曾祖父┬15高祖父
│ │ │ └16高祖母
│ │ └8 曾祖母┬17高祖父
│ │ └18高祖母
│ └4 祖母─┬9 曾祖父┬19高祖父
│ │ └20高祖母
│ └10曾祖母┬21高祖父
│ └22高祖母
└2 母──┬5 祖父─┬11曾祖父┬23高祖父
│ │ └24高祖母
│ └12曾祖母┬25高祖父
│ └26高祖母
└6 祖母─┬13曾祖父┬27高祖父
│ └28高祖母
└14曾祖母┬29高祖父
└30高祖母 このスレは、戸籍謄本、過去帳、墓碑銘、人別帳、系図などから先祖を探すスレです。
しかし、最近遺伝子のハプロタイプを趣味で調べる人も増えています
希望すれば、誰でもDNA検査が受けられる現在、生物学的先祖は、安い物で5世代、やや値の
張るもので、15世代くらいは明確に遡れます。
Y染色体ハプロタイプは、
古いテンプレの 1高祖父→ 17曽祖父→25祖父→ 29父→ 31貴男
新しいテンプレの 15高祖父→7曾祖父→3祖父→1父→0貴男
mtDNAは、
古いテンプレの 16高祖母→ 24曾祖母→ 28祖母→30母→31貴男女
新しいテンプレの 30高祖母→ 14曾祖母→6 祖母→2 母→ 0貴男女
と継承されています。
↑の話題は↓のスレでどうぞ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/ 結局血筋が一番安定していて確証高いのは上層農家だよな よばいとか、養子とかもらってたりしたら、わからなくなるんじゃあ? 養子ってたいていは親戚から入るから。
嫁に行った姉か妹の子を養子にもらうとか、婿入りした・養子入りした弟なり従兄弟なりの子をもらうとかが主流で、
血縁関係もない人間が養子に入るのは少数派。
それに、主君のことかが養子に入る血縁関係の無い養子って、たいていは婿養子だよ。 そうそう、「養子」としか書いてないんだけど、調べてみると婿養子の場合が多い。 かと言って100%血縁関係と言えるのかと言えばそうでもない。 たしか、とある調査の結果では相続事例の3割強が養子、その養子の9割が婿養子だったっけ? >>13
「○○の場合が多い」というのは「100%○○である」という意味ではないからな。 どうだろうな
上級農家は養子を迎えてでも家を存続させる例が多い一方で、一般農家は標準的自作農レベル(およびそれ以下)だと、
跡継ぎが居ないとそのまま断絶って家が多かったらしいから、血筋以前に家ごと安定してなかった。
それと比べたら上級農家の方が安定度が高かったとは言えるだろうが……
ぶっちゃけ武士と大差ない程度の安定性だろ 武士ってどのレベルよ
武士も大名から非差別レベルまでいんだけど。 >>11そりゃそうだけど昔の血縁関係は今と違って濃いからね。
庄屋とかで同郡から養子に来たって何代か前は血は繋がってるわけだし。
まあ、そんなこと言い出したら中規模の藩なんかほとんど親戚だらけだろうし
(同じぐらいの格式の家ならば) 仮冒すりゃ過去のどんな偉人の子孫になれるから気にする必要ない >>19
婚姻関係を結ぶ相手が少ないから、候補になるような相手はたいてい血縁関係って事になる。
それを逆に言うから、血縁関係のある人を養子にするという表現になる。
親戚の人数は、それほどすごく多いわけではないと思う。
大名だと側室も居るから子どもが多い分だけ親戚も多いけど、
大名以外は側室とかも少ない(側室じゃなく妾だが、何人も抱えるような財力のある人は滅多にいないし)から、
養子を迎える候補になるような近縁の親戚は数家ぐらいしかないのが普通じゃないのかな。 先祖の没年が万延二年四月になってたんだが、
この元号は二月に改元されていたのにこういうことはありえるんだろうか? >>22
中央の情報が地方に波及するまで相当な時間がかかったらしい。
そういうこともあったんじゃないだろうか。 >>23
田舎とはいえ東海道沿いなんだけどなー。まあ二ヶ月ぐらいならありえるのかな うちの近所は、明治〜昭和前半でも従兄弟婚が多いわ。
先祖はここでいう上級農家だが、わりと遠方からも嫁取りしてるけどな。
村の普通の家ー村内か隣村。
うちの先祖ー郡内
近隣の村の庄屋同士が嫁取りしてる感じ。
そのうちいとこになるけどな。
爺さんの妹が嫁に行ったのは、爺さんの叔母の嫁ぎ先とか。
婿もいるな。養子は、まずは甥姪から。 >>25
庄屋とかは、普通そんな感じだろ
庄屋どうしの婚姻が基本で同村ではなく近隣村の人が多い、ときに離れた村の庄屋の時もある、っての 調べたらアシュケナージじゃなく
本物のユダヤ人の直系だったわ
困ったな 10年くらい前に現在の戸籍と除籍の戸籍もらってきて
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/8/88/%E6%88%B8%E7%B1%8D%E8%AC%84%E6%9C%AC.PNG/1280px-%E6%88%B8%E7%B1%8D%E8%AC%84%E6%9C%AC.PNG
(画像はwikipediaから戸籍謄本)
上の様な一般的な戸籍がでてきたんですけど
現在の戸籍はすべてワープロ打ちされてるんですが
除籍の方は一部(一文)だけが雑な手書きになっています
草書とかではなく雑で読みづらい
昭和30年代後半作成の除籍の戸籍
その一文は昭和40年代前半の書き込み
直接役所に行ったので
「やべっ「注文」来たけどまだワープロ打ちしてないぞ!
「客」待たしちゃいけない手書きで書いとけ!」
見たいなのってあるでしょうか
そこだけ手書きの理由わかりますでしょうか >>30
自治体によるのかもしれませんが、戸籍はマイクロフィルムに撮影して保管しており、
あとからワープロで打ち直す事はないです。
当時から、そこだけ手書きにしたのでしょうね。
その理由は当時の戸籍係にしかわかりませんが、おそらく、些細な事だと思います。
昭和40年代前半ならタイプライターかなと思いますが、それが故障していたとかですね。
マイクロフィルムの場合、手書きの部分が読みづらいというのは、よくある話です。
それは、縮小印刷されてるからです。
A3用紙に書かれていた紙戸籍を撮影してフィルムで保管しておき、
それをA4サイズの紙に印刷してあなたに渡したと推察します。 もっと古い戸籍だと毛筆書きだよな、達筆で読めないのもある気がする 近々他県の役所にさらに古い時代の除籍の戸籍を取りにいこうと思ってたんで
いきなり行くと向こうに時間がないため手書きのパターンがあるかと思い
だったら郵便で請求の方が向こうに時間の余裕があるため良いかと思い聞いてみました
そこに関しては実際に行っても郵便でも変わらなそうですね
ありがとうございました
逆に雑な手書きをワープロ等で打ち直してくれたらとも思いますがw 時間がないとかじゃなくて単に原本コピーだから
明治とかのだと草書か行書か分からんけど崩し字のことも多くて読めないよ
崩し字の勉強が不可欠。
打ち直してくれたりはしないから。というか、役所の人も読めないことさえあるレベル マイクロフィルム系はゴミなんかがまざったりしてて解読困難になるんだよな
「亡父」と書いてあると解読するのに割と時間かかったことがある >>29
アシュケナジーも8割は本物
2割がハザール国教化からのユダヤ教徒
この辺は既に遺伝学で証明されてる デーブ・スペクター
ヒトラーの名前が出ると表情をピリピリさせてた ファミリーヒストリーを愉しもう!意外とカンタンに分かる自分のルーツ
http://mainichi.jp/sunday/articles/20160427/org/00m/040/005000d
http://cdn.mainichi.jp/vol1/2016/05/09/20160509org00m040073000p/9.jpg
家系図を作成したり、先祖の墓を訪ね歩く人が増えている。相続対策といった実務的な用途でなく、先祖をたどるのが目的だ。
聞き取りを代行をしたり、家族史作成の手助けをする会社も出てきた。人はなぜ、「ルーツ探し」にひきつけられるのだろうか。
NHKのテレビ番組「ファミリーヒストリー」が人気だ。有名人の家族の歴史を本人に代わって徹底取材し、映像で再現するドキュメンタリー。
驚きあり、感動ありの秘話にゲストは号泣し、視聴者も思わずもらい泣きしてしまう。ハマる人が続出しているのだ。
「家族史を書きたいという人が増えているのも、ファミリーヒストリーの影響でしょう」
そう話すのは「自分史活用推進協議会」の前田義寛代表理事だ。
「市井の人にもドラマチックなストーリーがあることに感動し、自分もルーツをたどってみたい気持ちに駆られるのでしょう。
家族史を書かれた方の中には、がんで余命宣告を受けてから先祖の足跡をたどったり、遺産相続でもめたことをきっかけに家族に目を向けるようになった人もいました」
海軍航空隊を描き、2013年に映画化された百田(ひやくた)尚樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』の影響もあってか、戦争体験のある祖父らの軍歴照会をする人も増えている。
日本海軍の軍人・軍属の人事記録を管理する厚生労働省によると、13年度の638件が14年度は1656件、15年度は1869件と急増している。
「理由は明確には分かりませんが、請求が増え始めた時期を考えると、小説や戦後70年の影響があるのではないか」と担当者は話す。
家系調査や家系図作りを手伝う専門会社「ファミリーヒストリー記録社」(東京都足立区)にも、依頼が年々増えているという。代表の吉田富美子さんはこう話す。
「定年になって時間に余裕ができた団塊世代が半生を振り返ったり、女性だけの姉妹で家系が途絶えてしまうため、
一族の記録を残しておきたい、といった相談もあります。高齢の親に家系図をプレゼントしたい、という依頼も多いですね」 ルーツをたどると元気になる
吉田さんがファミリーヒストリー記録社を立ち上げたきっかけは家族の病だった。
40代後半にさしかかった頃、北海道根室市に住む父(当時82歳)が病に倒れた。
「今のうちに話を聞いておかなければ、父の人生も先祖のことも、永遠に分からなくなってしまう、という切羽詰まった気持ちになったのです」(吉田さん)
東京―根室間の長電話で、父芳郎さんから昔話を聞き出した。
芳郎さんは水産物の仲買いをしながら男手一つで4人の子どもを育て上げた。
「父が北方領土の歯舞群島(はぼまいぐんとう)出身であることは知っていましたが、その後のことはほとんど知りませんでした。
『この頃はどうしていたの?』『その次はどうしたの?』と根掘り葉掘り聞いていくうちに、これまで聞いたこともなかった話が次々出てきたのです」(同)
空襲で焼け野原になった根室で、芳郎さんは小学校の用務員や船大工などさまざまな仕事に就いた末に、昆布売りの商売にたどり着く。
その結果、昆布の行商に出た東北地方で母と出会い、結婚したことも初めて知った。
「父自身も、話しているうちに自分でも忘れていた記憶がよみがえってきたのでしょうね。
『そういえば言い忘れていたんだが……』と自分から電話をかけてくることもありました」(同)
聞き取った話を2年かけて1冊の冊子にまとめ、親戚たちに配ると「宝物だ」と喜ばれた。
ホームヘルパーの資格を取り、高齢者施設を訪ねてお年寄りに話を聞くと、関東大震災や東京大空襲の話を一生懸命に話してくれた。
家族史の需要があることを確信し、13年、吉田さんは30年近く勤務してきた食品開発研究会社の研究課長を辞めて「ファミリーヒストリー記録社」を起業する。 同社はルーツ調査から家族史の聞き書き、書籍出版まで手掛けるが、最も多い依頼はルーツ調査と家系図作成だという。
具体的にどのように家系図を作るかは後述するとして、吉田さんの印象に残る二つの事例を紹介しよう。
札幌市在住の60代男性は、山形県の大きな造り酒屋だった先祖のことを調べたい、と連絡してきた。
親戚の間では「先祖が身上をつぶしたために山形から北海道に渡った」と言い伝えられているが、その話が真実なのかどうかを確かめたい、という依頼だった。
吉田さんが山形県のある町に問い合わせたところ、江戸末期の絵地図が見つかった。そこには依頼者の先祖の名字が書かれていた。
絵地図の原本が保存されている大阪の国立民族学博物館に尋ねると、町の歴史記録があるという。
その記録には、明治17(1884)年、町が大火に見舞われ、酒蔵の大半が焼失したことが記されていた。
「依頼者の先祖は火事の翌年に北海道に渡っていました。つまり、放蕩(ほうとう)などで身上をつぶしたわけではなく、火事で焼け出され、新天地で出直すためだった可能性があるのです。その調査結果をお伝えしました」(吉田さん)
先祖が苦難を懸命に生き抜いた足跡を知ることができたと依頼者は感激し、生き残っている山形の親族を近々訪ねてみる予定だという。
「平凡だと思っていた親や祖父母が波瀾(はらん)万丈の人生を送っていたり、
戦争や災害に翻弄(ほんろう)されながら生き抜いた先祖がいてくれたから自分が存在する、ということを実感するのでしょう。
家系図を作り終えると『すっきりした』とおっしゃる人が少なくありません。ルーツを調べ始めてから元気になる人も多いですね」(同) 福岡市在住の50代の依頼者は、珍しい自分の名字の由来を調べたいと依頼してきた。
「先祖の中には南米ペルーに移住した人がいる」という情報を頼りに、吉田さんは横浜にある海外移住資料館で移住者名簿を調べた。
1000ページほどある黄ばんでボロボロの名簿を何時間も繰り、「もうないだろう」と諦めかけた時、最後の方のページに依頼者と同じ名字を発見したという。
名簿にはペルーでの居住地や職業も記されていた。
さらに「旧土地台帳」や最も古い本籍地の歴史を調べていくと、字(あざ)名が名字の由来と推定され、加藤清正の統治時代の新田開発の際に農家を始めたのではないか、と推測できたという。
ルーツ探しはミステリー小説を読むような「謎解き」の面白さがあり、ロマンや感動にあふれている。
しかし、常に芋づる式にスルスル歴史が明らかになっていくわけではない。
「自治体によっては戸籍謄本が廃棄されていたり焼失していたり、壁にブチ当たることも少なくありません。
諦めずに本籍に近いお墓を訪ねてみたり、現地の郷土史を調べるなど“足で稼ぐ”と何かがつかめます」(吉田さん) 吉原を一晩貸しきった!?ご先祖様
「先祖探し」という珍しい肩書を持つ行政書士の丸山学さんは、依頼人のために全国を飛び回っている。丸山さんは自身の家系を調査したこともある。
「今から30年ほど前に、私の親族が独自に家系調査をして詳細な記録を冊子に残してくれていました。
かなりの正確性をもって江戸時代の始まりの頃までたどることができていました。
それをもとに、自分自身でもさかのぼれるだけ戸籍・除籍簿謄本を取得したり、本籍地を歩いて調査しました」
冊子によると、先祖は江戸時代に某村の名主(なぬし)であったことが分かった。
かなり裕福な名主で、藩に財政面で頼られることも多々あったようだが、ときどき放蕩する当主もいたことが読みとれた。
「中には江戸の吉原の大門を閉めさせた人もいた、といったことが書かれていました。『大門を閉めさせる』というのは吉原を一晩貸しきることを意味します」 丸山さんは続ける。
「私自身、『仕事を頑張ったから皆で高級レストランにでも行って飲み食いしよう』と太っ腹に仕事仲間を誘うことがあり、
『吉原を貸し切ってうんぬん』という話を読むと、その血が流れているのかな、と苦笑してしまいました」
先祖たどりはいい情報ばかりが得られるわけではない。
たとえば一揆を扇動した罪で処罰されている、などショッキングな事実に出合うかもしれない。丸山さんはこう話す。
「多くの先祖探しに関わっている私は、だれにも連綿と続く先祖の存在があり、その末に今ここにその人が生きているのだ、と実感します。
良いことも悪いことも含めて受け止め、慈しむ度量が求められます」
最近は、「終活」の一環で家系図作成を行うセミナーも増えている。講師の依頼を受ける先の吉田さんはこう話す。
「家系図を作る過程で、両親、祖父母、曽祖父母がつなげてきてくれた命の重みを感じることができます。
自分も歴史の1ページになっていくのだ、と自覚でき、死が怖くなくなったという方もいらっしゃるようです」
閉塞(へいそく)感あふれ、不安だらけの現代だからこそ、ルーツ探しで家族や親族、先祖との絆を再確認し、
自分が存在する意味を確認する人が増えているのかもしれない。
(本誌・藤後野里子) ◆「先祖探し」のプロに聞く 家系図を作るツボ
本文に登場した行政書士の丸山さんに、素人でもできる家系図作りのツボを聞いた。
先祖調べの第一歩は「戸籍謄本」集め
戸籍は最も信頼できる公文書で、だれでもほぼ確実にルーツをたどることができる。
「現在取得できる最も古い戸籍は1886年改正の『明治19年式』と呼ばれる戸籍で、その時に生きていた人と、
その父親名まで記載されているのが原則です。これを取得すれば幕末を生きた先祖の名前までは判明します。
代にして4代〜5代前の先祖まで、200年ぐらい簡単にさかのぼれることに皆さん、驚かれますね」
戸籍は本籍のある市区町村の役所で入手する。
「戸籍証明書等請求書」に必要事項を記入して、本人確認ができる書類(運転免許証など)を添えて提出する。
請求書には「個人事項証明書」(抄本)と「全部事項証明書」(謄本)の欄があるが、先祖をたどるのが目的のため、「全部事項」にチェックを入れる。
全国どこの役所でも郵送で取得できる。
市区町村のホームページにある「戸籍証明書等請求書」をダウンロードし、
必要事項を記入して定額小為替(郵便局で購入できる)や申請書、本人確認書類のコピーなどを同封して取得する。
「戸籍は除籍(戸籍内の全員が死亡・婚姻等で抜けていなくなった状態)から150年経過すると廃棄してもよい決まりがあり(以前は80年で廃棄)、
取れるうちに取れるものは入手しておいた方がいいでしょう」
集めた謄本の親子、婚姻関係を見ながら家系図を組んでいく。
「最近は家族や親族の氏名や生年月日などを打ち込めば簡単に出来上がる家系図作成ソフトも出ています」 地名辞典や郷土史で先祖の「匂い」をかぐ
古い戸籍を取得したら本籍地を地名辞典で調べてみよう。
角川書店の『角川日本地名大辞典』や平凡社の『日本歴史地名大系』が有名で、ある程度大きな図書館には所蔵されている。
「国会図書館や都道府県の図書館には郷土史があります。郷土史からは先祖の暮らしぶりを肌で感じることができます」
先祖が暮らした土地や時代の雰囲気を感じ取るには、やはり現場に足を運ぶことだ。丸山さんはこうアドバイスする。
「現地に行く前に、本籍地周辺に自分と同姓の人がいないかを電話帳などで調べて手紙を出してみるといいでしょう。
自家の菩提(ぼ だい)寺や墓のある場所が意外に簡単に判明するかもしれませんし、手紙を出した人の協力が得られれば調査が一気に進む可能性があります」
墓は情報の宝庫
現地調査の基本は墓だ。
墓石の年号をみれば、明治維新や関東大震災、第二次世界大戦など歴史と先祖の歩んだ人生を重ね合わせることができる。
「飢饉(ききん)や戦禍に翻弄されながらも歯を食いしばってたくましく生き、子孫をのこしてくれたことに特別な感慨がこみ上げてきます」
行政機関や旧家には、先祖が暮らした村の江戸期の古文書(宗門人別帳や検地帳など)が存在している可能性がある。
武士の家であれば「分限帳」という記録が残っている可能性もある。
「分限帳には全藩士の名前や年収(知行高、扶持)まで記されています。現在でいう給与明細のようなもので、暮らしぶりが読み取れます」
軍隊経験の調べ方
先祖の戦争体験を調べるには「兵籍簿」の写しや情報を取得する。
陸軍は都道府県、海軍は厚生労働省が保管していて、直系の子孫であれば閲覧、取得することができる。
(サンデー毎日2016年5月8・15日号から) 出版社含め、現在のメディア=ストーカーだと言っている人がいたよ
犯罪のような事をしていると
地皇帝も言っていたでしょ こーゆーことを言っている
何も知らなかった者たちに
知恵を与えてしまった
言葉や文字の読み書き、〇に△□、
そして現在のような状況になった 鳥越俊太郎の家系図はデタラメだった NHK「ファミリーヒストリー」で紹介
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/05181700/?all=1
家系図は怪しいにしても、同族だと思うけどね
明確な繋がりがわからないってよくあることだし 系図を整え始めたのが江戸初期ぐらいだから戦国期は良く分からん家が多い。
徳川だって良く分からんのを無理やり繋げた
ただ、片方が嫌がってるのがね。大体は家の方が直系ですって揉めるもんだけどねww 家系図なんてもんは基本的に中国や朝鮮の文化だからなあ。
どこも適当よ。
日本最初の家系図の尊卑分脈は室町時代だし、それですら間違いもある。
大体、近所の年寄りらに聞けば、あそこが本家、大元だろうってくらいは分かる。
裏を返せばそのくらいの口伝しか信頼性がないし、どんな立派な家系図よりそちらが優先する。 本家も実際は分かりづらいけどね。大体は隠居分家が原因だけど
位牌等がたくさんあっても分家ってことはあるんだよ >>53
本家で墓石を新調したからと古い墓石を有力分家がもらい受けたりとか、
わりと譲渡例もあるんだよな 長男がさっさと独立して、次男が親戚に養子に行って
三男が跡を継いでたりすることもあるしね
まあ 関係がはっきり分かってるうちはいいんだけど
後世になると曖昧になるから、うちが本家だ、いやうちが的ないざこざがあったりするんだよねw >>55
真田幸村みたいな例も複雑だよな
先代昌幸と一緒に大坂方についた信繁と徳川についた家督の信之
もし万が一、信繁が大坂方勝利で大名になってたら、兄信之と弟信繁とどちらが本家と言えてたのやら 江戸時代に分家の過程で、姓が少し変わることってある?
例えば桑山が糸山とか。 家系図なんか、簡単に捏造できるんじゃけぇ意味無ぁが、
わしは博物館に記録が残っとるけぇのう。 苗字を使わない期間が何世代も続いたとかで、元の苗字を忘れちゃったんならば桑から糸みたいな誤読っぽい変換は起きそうな気がする >>56
真田家は豊臣政権下で昌幸の後継は信繁で信之は沼田で別家のような形になったが
結局は上田も信之のものになって目出度し目出度し。
武家は知行の相続があるから判りやすいけども農家はバンバン分家出していくから
江戸初期に200石持ち高でも幕末には20〜40石程度まで持ち高を下げてても
悠々自適に生活出来たらしい
そんで分家が相当数と・・・そんで隠居分家やらなんやらで訳ワカメ。
新田開発で本家が新田の方に引っ越してしまうこともあるし。そうすると
元家に住む弟は一応は宗家と名乗るけど・・・と色んなパターンがある。 >>56
うん、史実としてはそんな感じなんだが、もし大坂の冬&夏の陣の結果が異なってて信繁がどこかに領地を得てお家再興ができてたとしたら、
信之の子孫と信繁の子孫の間で本家争いが起きててもおかしくないよなってこと そりゃあ張り合いくらいは起きただろうな。
越前家がそうだし。 宇和島伊達家って長子(側室腹)だけどどっちが本家筋になるのだろうか? 長幼の序が最重要視されるようになった時期よりも伊達秀宗が生まれた時期の方が早いんだから、
秀宗の頃には長幼の序よりも生母の家格の方が重視されていたと考えるべきだろ
母方の格式の差ってのは後ろ盾の強さの差って意味でもあるんだから、長幼の序が最優先されるより以前なら後ろ盾の弱い庶子は後継の資格が無いも同然
長子であっても庶子では跡継ぎにはなれないのが当然で、もちろん宇和島伊達家が分家ということになる 大河ドラマ見たら分かるやん
宇和島って超僻地だな四国の裏裏側じゃん家康性格悪すぎ 豊臣政権が続いてたら 秀宗が継いでたんじゃない
宇和島伊達家は一応 別家って形になってるけど
まあ 明治維新の功労で 爵位は仙台伊達家より上なんだよねw >>65
大河ドラマはフィクションだぞ
大筋だけは史実に沿ってるけど、価値観とか論理とかは現代風 >>2
番号の付け方だけど、2進数知ってたら
便宜上本人を1にするほうがいいんだけどな
1当人┬2父┬4祖父┬8曾祖父┬16高祖父
___│__│___│____└17高祖母
___│__│___└9曾祖母┬18高祖父
___│__│________└19高祖母
___│__└5祖母┬10曾祖父┬20高祖父
___│______│____└21高祖母
___│______└11曾祖母┬22高祖父
___│___________└23高祖母
___└3母┬6祖父┬12曾祖父┬24高祖父
______│___│____└25高祖母
______│___└13曾祖母┬26高祖父
______│________└27高祖母
______└7祖母┬14曾祖父┬28高祖父
__________│____└29高祖母
__________└15曾祖母┬30高祖父
_______________└31高祖母
父親を辿る場合は数を2倍すればいい
母親を辿る場合は数を2倍して1足せばいい
2進数で表すと
1 自分
10 父親
11 母親
100 父方祖父
101 父方祖母
110 母方祖父
111 母方祖母
・・・ 来週の「アウトデラックス」に尊氏の子孫だとかいう女の子が出演するって予告で見たんだけど、
平島公方系なのか喜連川系(途中で他家の養子が入るから厳密には子孫じゃないけど)なのか、はたまた仮冒なのか気になる・・・。 先祖を辿る場合って、誰を軸に辿ればいいのかアドバイスください
祖母(旧姓鈴木)が田中氏と結婚。男児誕生
田中氏と男児、戦争で死亡。
〜
祖母(田中)、祖父(旧姓小林)と再婚、苗字は田中になる。
男児Aと女児Bが誕生。
Bが俺の父親なんだけれど、
この場合の先祖って田中家を調べるもの?
祖母の旧姓鈴木を辿るのか、祖父小林を辿るのか、先夫の田中家を辿るのか…
みんなは血筋を辿っているの?苗字(家)を辿っているの?
でも家制度って数十年しかない制度だったし、
家単位の戸籍っ短い期間だよね。
血も繋がっていない田中家を辿るものなのか、好みかも知れないけれど
普通はどうなんだろう
母方の祖父母なら普通に辿れるから、そちらを調べればいいのかな >>73
> 普通はどうなんだろう
普通は家と血が一緒で父系をたどる人の方が多いんじゃないだろうか。
法律でルールが決められてるわけじゃなし、全てたどれる所までたどればいい。 頻繁に血の繋がりがない養子を入れてる旧家の家系図を見ると江戸時代から戦前までなら家重視かな。
どこどこから入れたって記述はあるけど、元の家の記述はそのくらいで、そっちの家系の詳細は不明なのが普通。
何が何でも血縁に重きを置く現代人からすれば血縁を辿るのが違和感ないかもね。 ちょっと興味が出て本家のお墓見たら天正ってあったけど何年前でどんな時代? >>76
興味持ったのならまず自分で調べてみようね
本当に天正なら戦国時代だけど、その頃のお墓はすごく少ないんだ
お墓の形はどんな形?大正との見間違いじゃない?
っていうかまずお爺さん達に聞いてみるのが早いと思うよ^^ >>76
天正は信長の晩年から秀吉の初期(天下統一より前)ぐらい
本当にその頃の墓石なら、文字を読むのは容易ではない
大正を誤読したんじゃないかとは思う >>79
ほぇー。信長秀吉と同じ時代を生きたご先祖様かー。何か色々調べたくなったけどありきたりな名前だから途中で挫折しそうだ。
いや、その後に大正があったし間違いなく天正だったんだ。
ボロボロだったけど無知故に聞いた事かったから何度も読み返した >>77
形まで覚えて無いんだけど最初見たときにお墓って分からなかったぐらい、何だこれ?って感じだったかな?本家の人に聞いてお墓って知った。
もっかい本家に見聞きしてみる。 江戸時代とか戦国時代とかの古い墓だといまの墓石とは形が違うし、分からなくてもおかしくはないな
石の表面に刻んだ文字って、ほんの半世紀前頃の石碑でも雨風で削れたりコケが生えたりで文字を読めなくなる
聞かないと文面は絶対に分からないよな。 砂岩の墓碑でさえ100年は持つというのに、いったいどんな石を使ったら
半世紀で風化するんだ。 花崗岩は火にあぶられると表面がボロボロになるけど、風雪程度ならそうそう劣化しないよ これは墓石なのでしょうか
戒名も無く日付のみ彫られています
日付が2つ彫られている物もあり夫婦墓だと思うのですが
あと右側は墓の飾りですかね?
http://i.imgur.com/7ted0YX.jpg 胸元に玉を抱えているのは薬師如来みたいな出家乞食か。
両手を合わせているのは阿弥陀如来をイメージした信者か。
体にはすにかけるように棒が入っていたら地蔵菩薩かもね。
夫婦仲をそのように表現したものか。
城和あたりだと、阿弥陀如来と地蔵菩薩を並べたこの種の石像が多いよ。 士族の身分が買えるほどの身分特権を持った『よつ』の家系なんだが このスレというか、2ちゃん自体が飽きられてるわな。 天正頃だと戒名刻む習慣も無いだろうな。恐らく年号も無いと思う。
なので後の時代に作ったものだろうけど、それを作る財力がある家と
なるとやはりそれなりの家だろう。 地域とか家によっては書くとこもある
書かないトコの方が多い ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 うちの地方武田の家臣が帰農した家が多いんで母系の方が価値があるんだよな。 >>93
地方やその家によるかと。
うちの地方だと、年長者が重要視されていたようで、長女の夫(養子)が
後を継いで、下に男子が生まれても、分家や養子に出されている。
だから、逆にその男系がどうなったのかが、分からない。 >>81
天正が読める状態であるってすごいな。
うちはたくさん墓石が並んでいるけど、読めるのは享和あたりまでかな。
並んでる順番からするともっと古いのもあるけど、読めないわ。
さらに古いやつは、端っこのほうに固めてある。 >>99
長いこと横倒しになってたり土に埋まってたりしたのを近年立て直したらならありうるな。 庄屋とかでも、江戸時代によそから移ってきて庄屋を務めてる家も結構多いんだよね
どういった経緯があるんだろう、まあ、個々に違うにしても 大名の国替えに同行して引っ越す庄屋も多かったらしいからなあ >>81>>99を見て思ったこと。
単純に刻字が古いからといって建立年代も古いと即断しない方がいい。
江戸中期以降、先祖の顕彰のため、追善で古い先祖の墓石を建てたという例がある。
私の母方の村では、多くの旧家に、戦国末期に土着帰農した家祖の墓石があるけど、
石質も刻字の書風も同じで、化政期以降の建立と分かっている。 >>103
それはありそう。>>22なんかもそれを疑ってみるべきかも。
でもそうなるともう史料批判の領域で、素人では判断できなくなっちゃうな。 江戸時代後期に何十両も寺に寄付して院号許可をもらった家が先祖にも院号呉と
いって貰った。当然墓も作り直し >>105
うちの場合は過去帳にだけ院号があって墓にはついてない。後付けなのがバレバレ。 >>101当時は階級社会だから小作人が庄屋になるなんて稀でしょ
必要な土地に庄屋がいなければ庄屋の次男や武家の次男辺りを連れてくるんだろうな 故地を追われた武士が移住して村のリーダーになるってパターンじゃねーの。
たとえば播磨三日月宿の本陣は織田信包の子孫で、関ヶ原の際に帰農してる。
領主が三日月藩主の森氏だったから、主従逆転は外聞が悪いと言って織田から宇多に苗字を変えてる。 うちの場合、先祖は東日本出身の浪人で、大坂の陣で雇われた十万人のうちの一人らしい。
城には豊臣の領地だった摂河泉の土豪の類も入城してたから、どうもその一人と仲良くなったらしい。
落城後は落ち武者狩りが始まったけど、土豪は故郷の家臣がのぼりを立てて救援に来て難を逃れた。
うちの先祖はその時に一緒に村に連れて行ってもらったんだろう。
その土地は平安時代に開かれた荘園の一部で、開拓したのは土豪やうちの苗字の家を含めた数家。
どうもうちの先祖は絶えていた名家の名跡を継ぐという形で落ち武者狩りを逃れたらしい。あるいは、
元々の苗字から変わってないかもしれないけど。苗字が土豪と仲良くなるきっかけだった可能性も
あるかも。全て推測だけど。
江戸時代には土豪は大庄屋となり、うちの家は一度は落ちぶれたっぽいけど持ち直してる。寺の位牌群や
墓所は土豪の家と並んで一番格上のポジションだ。 戦国期の武士は故地を追われることを想定してせっせと蓄財し、故地から離れた土地に
信頼できる家臣を住まわせて財産を守らせていたからね。
豪商鴻池の祖が山中鹿之助の息子だって話は事実かどうか知らんが、鴻池はそう
自称して鹿之助ゆかりの地の神社に石灯籠を寄進したりしてる。 >>68
なるほど。良い考えだと思います。ただそのテンプレは
このスレの初期からあったテンプレの改変版なのです。もっと初期のスレから
あったんだけど今検索してでるのは2007年のやつ。
これで、「何番の先祖の相談なんだけど」とかやってた名残なんで
番号付けを逆にするだけで、当時はやっとだったんです。by テンプレ制作者
先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレG 3 名前:先祖マニア mailto:sage [2007/02/26(月) 20:10:22 ]
1高祖父
17曽祖父
2高祖母 25祖父
3高祖父
18曾祖母
4高祖母 父
5高祖父
19曽祖父
6高祖母 26祖母
7高祖父
20曾祖母
8高祖母
9高祖父 あなた
21曽祖父
10高祖母 27祖父
11高祖父
22曾祖母
12高祖母 母
13高祖父
23曽祖父
14高祖母 28祖母
15高祖父
24曾祖母
16高祖母 新井白石の「折りたく柴の記」にでてくる白石の父の若い頃の回想で、播磨にいた頃、高滝某という
武士が殺人沙汰をおこして逐電したのだが、その半世紀後に上総の高滝という地に公務で赴いた
時に偶然この高滝某と再会したとか。高滝某によると「事件で播磨を逐電して鎌倉時代いらい
先祖が領していたこの地に逃れてきたところ、土地のものたちが旧主を哀れんで、住む家も
喰うものも与えてくれたので、今までこうして生きてきた」と語ったという。
戦国時代の下克上、その後の国替えによる鉢植化を経た江戸時代でも、こういう地縁がまだ
生きてたんだなあ、とこの話を読んで思った。 マイト レーヤが出てくる!
バカにはわからない!
株式市場が大暴落したらテレビに張り付いてろ!
日本語を話す長身の物静かな外人男性を探せ!
空にも気を配れ!
UFOが姿を現すぞ!!
安倍と親米ポチのせいで日本から世界経済が崩壊する!
株式市場と原発は閉鎖される!
フクシマ安全論者も、株トレーダーも、安保タダ乗り論者もオシマイだ!
このホラ吹き、守銭奴、売国奴!
危険なのはオマエラだカス!
山本太郎にひれ伏せゲスども!
マイト レーヤのテレパシー世界演説のあとは生き地獄を覚悟しろこの人でなし!
自民信者は最高に見苦しい土下座を見せてくれよ(笑) >>113
川路聖謨は火事の後の御殿再建で木曽の杉を見てを回った時、川路家のルーツである
信州伊那郡川路村に立ち寄った際に「お殿様が返ってきた」と大歓迎を受けて感激したそうだ。
その一方で、維新によって落ちぶれた旗本家当主が旧知行地に入って食っていこうとしても
上手くいかなかったという話も多い。
近江に知行地があった武田遺臣の名族三枝家は、村が鎮守社を祀りたいから江戸の屋敷の
稲荷を遷座するという話になって、そこの神主に収まろうとしたけど、うまくいかずにその後
行方不明。
大和に知行地があった高家の畠山家は、食い詰めた末に、香華所で高家だったころに様々な
物を寄進してきた当麻寺奥の院で切腹。
同じく大和の5000石の水野家は、村に定住できずに村人たちから金を借りて失踪してしまった。
大身旗本でも、こんな話は盛んに出てくる。 >>116
素直に解釈すると、江戸初期なら一生不自由はさせないくらいの縁が感じられてたのが、末期から
明治になると「お客さん」としてなら大歓迎、というところまで縁が薄れてたのか。 >>116
或いは、知行地と名字の地では縁の深浅に違いがある、ということなのか。 旗本の知行地の古来の領主だった領地とは 農民からしても感じ方が違うでしょう
あと 単に利害関係があるかどうかも大きいのかもしれない
川路家ってあの辺りの発祥なんだ、武田旧臣か
まあ 小笠原とか村上の家臣が逃げて、家康に士官したのかもしれないが ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>112
スレッドを立てた時におそらくこの先祖マニアという方は高祖父母の16名を全て調べることを主眼に置いて
いたのだと思います。
なので高祖父母を1から番号をふっていったのではないでしょうか? >>118
そりゃ、大名の知行地ならともかく旗本領はねえ。
年初挨拶を含めて年に何回か姿を見る機会がある程度で、基本的に姿を見かける機会なんかないし、
領地を実際に統治する(政治を行う)のは幕府代官とかだから。
関係性が非常に希薄で、名義貸しと大差がないほどだろ 6世の祖全員と7世の祖半分くらいまでは戸籍で調べたがごくごく平凡な人達ばかりだった。 古来の領主なら遠縁といっても差し支えないもんだろうから愛着があるだろう >>119
川路村のすぐ隣の伊豆木村に交代寄合の小笠原氏の陣屋が置かれていたような土地だから、
小笠原氏関係だったと思う。
聖謨自身は豊後日田の西国郡代役所の地役人の息子が御家人の川路家に養子に入った形だから、
血統は別だけどね。 >>123
別に有名人が出る必要もないでしょ
家が続くってのが大事なんであって >>125
一般論として言えば、武田旧臣の身の振り方として最多なのが徳川への任官だったってぐらいで、
徳川幕府に仕えた人の中での武田旧臣の比率は高いとは言える ご存知御畳奉行の朝日文左衛門氏も武田旧臣だったっけ 武田北条の旧臣が多いと云われ確かに多いんだが
それ以上に帰農した家も多そうだけどね 千葉麗子 「科学的根拠も示さず福島には住めないなどと風評被害をまき散らしている」
奥田知志 「薄い放射能〜大丈夫だっぺ〜食べて応援」SEALDs奥田愛基氏の父親
青山繁晴 「放射線障害で、亡くなった方はもちろんゼロで、1人もいないんですよ。ね。」
副島隆彦 「「ホテル 放射能」を建設しよう。また、「放射能コワイ」派が、騒ぐでしょう。」 [1792]
R輿水 「なぜ、福島が安全なのか、RK佐久講演を聞けば、わかるよ。」
B古歩道 「フクシマが大変だって、あれはプロパガンダ、嘘八百。」26分40秒〜
https://www.youtube.com/watch?v=KRd6O5bwN9M
名無し 「食べて応援で何人死んだみたいな、福島県の人に対してよく言えるな…。見苦しい。」
https://twitter.com/tok aiama/status/720726309240836097
週間AR 「自分を『負け組』と考え、反原発を主張する・・・山本太郎の事かと思った。 」
https://twitter.com/aka shicr/status/592255976788504577
開沼博 「良識派ヅラした偽善者の室井佑月が正義であるかのように語り続けていました。」
https://cakes.mu/posts/7862
室井佑月 「自分らに逆らう人は、悪だってか」
https://twitter.com/tok aiama/status/760223879444824064
東 海アマ
芸能人が原発をPR! 500万円の高額ギャラも 勝間和代 三橋貴明 佐藤優
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。
原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦
向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。
書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272 1800年よりも遡れる家ってそんなにいるのでしょうか?
私の先祖は1800年代のはじめが限界でした。 うちは平凡な農家だと思うけど1670年代の証文が残ってる
ただし幕末までずっと同じ名前を襲名してるから家系図は作れない 庄屋とか、村の中で特殊な地位の家じゃないと江戸中期より前に遡るのは無理じゃないか?
132の家はおそらく元庄屋で、明治維新かそれ以後の恐慌・大不況期あたり、もしくは飢饉の影響で破産・没落したんじゃないかな 別に庄屋じゃなくてもそこそこの自作農なら江戸初期ぐらいまでは辿れるでしょ うちは庄屋じゃないよ
その証文には庄屋の名前が書かれてるしその家も現在まで存続している
田舎の農家は大体がこんな感じじゃないの? 近世史やってる人の本の中に、大阪の庄屋のことが出ていた。
家祖は、関ヶ原の敗軍の武将で、大阪で土地を買って帰農したらしい。
その後、経営が上手だったのか土地を広げ庄屋も務めたそうだ。
戦国時代は、大将がいつ何時敗軍になるかわからんから、下のものもそれなりに
備えていたのだろうな。黒田官兵衛がここぞという戦に備えて蓄財し、戦の時に
高い給金で部下を雇ったってあるじゃん。
もしも負けてたら、その貰った給金を持って帰農したのかも知れん。 >>107
東日本は知らんけど、西日本は下克上というか、栄枯盛衰が激しかったらしい。
庄屋の文書が残っているのは関東含む東日本なのさ。
江戸時代を通じて同じ一族が庄屋をしてるから、蔵に古い文書が残ってるらしい。
西日本は、商品経済が進んでいるから栄枯盛衰が激しくて、一軒の家がずっと
庄屋ってことが少なくて、そういうのがあまりないのだそうだ。
没落した家ってのが結構ある。
昔はどこそこまで他人の土地を踏まずに行けた、って家が何軒もw >>101
我が家は他の土地に移り住んで庄屋になった。
それ以前は大名に仕える武士だったが、大名が改易され先祖も職を失った。 >>138
>以前は大名に仕える武士だったが
そういうタイプの武士の多くは、庄屋の原型的なタイプの領主を兼ねてるものだから。
庄屋が移転して別の村で庄屋をやった、程度の出来事。成り上がってないよ 東日本は長子相続の傾向が強いってのもあるんじゃない 東日本は領域的にまとまった範囲の村を作ってまとまった範囲を庄屋が統括するから競争が少なくて安定する
西日本はモザイク状に入り乱れて庄屋が統治する形からスタートしてて村境と統治範囲が不一致の上、
村の面積が狭く人口も少ないことが多かったので安定度が低い 単に商品経済の農村への浸透が上方で進んだ結果だっての。
上方は先進地帯で関東はクッソ田舎だった。それだけの話だ。 >>139
何を勘違いしてるんだか知らないが、成り上がった話なんてしてないぞ?
どういった経緯でよその地から移ってきて庄屋になったかという話だ。 浅田家文書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8
淺田家系図によると、「本国」は摂州浅田(大阪府豊中市蛍池、江戸期は麻田村)で、
板倉周防守家中の浅田孫助の弟・小三郎(上狛村庄屋・九郎右衛門?)が天正年間に山城国上狛に来たという。
天正10年(1582年)に豊臣秀吉による指出徴収がはじまる。
この年の九月に興福寺が秀吉に差し出した二冊の年貢帳があるが、それは当地である「狛野荘」の差配人二人が提出したものである。
上狛村の「検地」は関白秀吉の時代、長束正家によって天正17年(1589年)に 本格的に施行されるが、
これにより「荘園制」が解体され、上狛村という村域が確定されることになる。
そしてこの検地により新参者の淺田家は上狛村の庄屋に任命されるのである。
当地は「山城国一揆」が発生した地域であり、その主謀者であった「狛氏」一族の本拠であったから、
そこに楔を打ち込もうという秀吉方の思惑の使命を受けたものと推察されている。 のち徳川家康の天下となり、当地は藤堂高虎の津藩の支配下となる。
この辺り一帯の大庄屋として君臨するようになるまでには、さまざまのことが生起するが、それらを乗り越えて淺田一門が伸びてゆくことになる。
16世紀末から17世紀にかけての当地における浅田家の位置づけは、天正年間に上狛村に来住した淺田九郎右衛門は豊臣政権の後ろ盾もあって、
新参者ながら御牧勘兵衛代官所時代に庄屋となったが、持ち高も名寄帳の第五位である。
当地は狛氏支配の頃から在所を囲む「環濠」のある集落であった。この囲いの中を「垣内」と称する。
この垣内を単位とする地域的な結合として、年貢・算用は1,300石の「惣」が組織され四人の庄屋が選ばれたが、
淺田家は親(二代目道善?)が慶長10年代に40歳代で若死したためその子はまだその中には入れなかったが、
元和9年(1623年)から庄屋に就任して「惣」に取り込まれた。
しかも浅田家は17世紀半ばまでは経済的に他の百姓から突出した存在ではなかった。
むしろ、同じ株内では「狛」旧臣の松井家と同規模であり、上狛村としてみるならば他の庄屋と同等の経済力であったと推定される。
ところが、17世紀後半に浅田家は持ち高を急速に伸ばし、他の百姓から突出してゆく。
そのような経済的な発展をもたらしたのは、浅田家の江戸進出による富の蓄積と、それを元にした土地の取得にあった。
この経済的発展により、旧来の在地の年寄衆である松井家を追い落とし、外の庄屋の追随を許さない大庄屋として、更に地位を向上させていくことになる。 自分の戸籍は結婚と同時に移したが、元の本籍地に祖先を遡って戸籍をとれるかどうかメールで尋ねてみたら、5つの謄本があると返事がきた。
さっそく現在の謄本をとって明日送るつもり。
費用は、5 x 750 = 3750円
もっと面倒かと思ってたが意外と簡単。 >>147 自分の家系は、自分の家系だけの珍しい苗字で自分の元の本籍も本家が存在する土地のものだから、本家の家系図は残ってる。
しかし自分の直接の家系が本家からいつ頃どこから枝分かれしたのか知りたいと思い調べ始めたが多分わからないだろう。
本家の家系図で辿れるのは、1135年生まれの家祖と称んでる人とその父の名前まで。
それ以前は抜けてるが、飛び飛びで古事記まで遡る。
本家は代々神社の神主をしているので間違いない。
今本家の家系図の最初の方を読んでるところだが結構面白い。
昔の家系図は、主な人の功績も丁寧に描かれていて物語として面白い。
勿論漢文だが丁寧な草書体だから比較的わかりやすい。
ちなみにこれは某文化財となっている。 そういうのって姓をもらっただけで血はつながってないパターンもあるから難しいよね。 >>149
そもそも、天皇家以外に血が繋がって連綿と繋がっている家自体がないもんね。
血統で遡れば名字が違うし、名字で遡れば血が繋がっていない。
悩みます・・・・ 貴種へのあこがれってのはどの階層にも存在するんだろうね。
家は庄屋の家系だが幕末郷士から養子養女だわ・・・血の繋がりって
そんなに重要じゃなかったのかもね? その辺の時代で養子養女って、たいてい親戚筋からだろ
格式としては庄屋は下級武士より高い、旗本御家人クラスに準じた格式だ
元々親戚でも不思議じゃない 明治以降は戸籍で養子がどうかが判明しますが、
江戸時代以前は続柄記載されていてもそれが、養子か実子か不明なことが多い。
家系図があり「実●●三男」とかの記載が無い限りは言い切れない。
出来ない 出来ない ではやる意味ないので推測家系図で妄想します。 養子(婿)なら出身村(藩)と苗字+親の名前は書いてあることが多いけどな
奥さん系は書いてないことも多いらしいけど 俺の戸籍を調べてみると今の姓に明治2年に近所から婿養子に入ってきてる。
養父は、文政8年生まれ。
この入り婿の苗字も珍しくまた調査してみたくなった。 戒名だけしか分からない先祖が本家の初代と二代なんだが、家系図にはどう書いたらいい?
普通、家系図には戒名なんて書かないよね。武家の家系図閲覧しまくったけど、戒名は書いてなかった。
(本家の先祖)
私の7世前の祖先:楓葉道教清居士
私の6世前の祖先:實巖善照法譽居士 もう、名前つけちゃおうかな
代々「政」が通字だから
7世の人は「政教」、6世の人は「政照」なんてどうかな? 「某」から始まる家系図なんてある?
例えばこんな感じ
橘姓 楠氏
従一位大臣橘諸兄公後胤楠河内判官正成類葉
∴某──┐
┌───┘
└某──┐
┌───┘
└正富─┐
┌───┘
└正友─┐
┌───┘
└敏──┐
┌───┘
└清──┐
┌───┘
└浩──┐
┌───┘
└自分 やっぱ名前作っちゃおうか?
橘姓 楠氏
従一位大臣橘諸兄公後胤楠河内判官正成類葉
∴正教─┐
┌───┘
└正照─┐
┌───┘
└正富─┐
┌───┘
└正友─┐
┌───┘
└敏──┐
┌───┘
└清──┐
┌───┘
└浩──┐
┌───┘
└自分 うちの母方の爺ちゃんの代より上はみーんな名前が孫兵衛が何人も続くんだが。当主を継いだらこの孫ネームになったみたいな?
あとこれと別地域に在った先祖の名前で孫右衛門が2人。江戸時代て名前に孫付けるのブームだったの? 俺も代々横山庄兵衛ってなってる。
横山庄兵衛種重からはじまって、俺の高祖父の横山與七の父おやまで庄兵衛だったらしい。
何代、庄兵衛名乗ってるのか不明だから、家系図には「庄兵衛─(略)─庄兵衛」って書こうと思う。
もうこのすれに10年以上いるけど、そろそろ家系図の総仕上げになってきてる。
年末年始までに書き上げるつもり。 >>156当時居士号なら中々の家柄だね。寺に行って調べるとよいよ >>162
返事ありがとうございます。
寺に聞いて俗名まで分かるものなのかな?
本家の墓石の雰囲気がもう調べ上げて戒名だけしか分かりませんでしたみたいな感じなんだよね。
4世孫(5代目)記すみたいに書いてあるし。 横からすまないけど寺には過去帳というものがあって
そこには全てじゃないこともままあるけど寺の開山以降現代までの
戒名、俗名と死亡年月日、享年などが記されているから寺が火事や
空襲、廃寺合祀などで当時まで遡れないみたいな事情がない限り
わかると思うよ
逆に上記の理由で絶えてる場合はかなり難しいけど
寺への調査は先祖調べる基本中の基本 >>156
系図ではしらんけど、信長公記の祖先説明では、曽祖父も祖父も戒名(の末尾?)しか載ってないな 明治19年式戸籍取ってみたんですが、
○
○
番
地
戸
主
酒
類
商
佐
藤
五
郎
左
衛
門
と、職業が書いてあったのですが、
酒類商とは酒屋みたいなものですか?
また、職業が書いてあった人他にもいますか? お寺に戒名の俗名を教えてもらいたいのですが
「●●●●居士と●●●●居士の俗名をお教えください」と
お手紙にして、お寺にお送りすればよろしいのでしょうか?
没年月日は、墓石の劣化で読み取れないため、知りません。
戒名だけの情報で、お寺の方は苦なく教えてくれますでしょうか? すいません、
江戸時代の墓石なんですが、
江戸初期からの墓石は院号居士ですが、何代かまとめて一つの墓石に書いてあるものはなんなんでしょうか? 私も4代まとめて書いてある墓石ありました。
8名分書いてありまして、右から初代夫婦、二代夫婦、三代夫婦、四代夫婦でしたよ! >>170
江戸時代のお墓はどういった所にありましたか?
やはり、山の中などですか? >>170
どういうことなんでしょうか?
>>171
私の一族だけではなく、同じ苗字の他家の墓石が沢山あり、一門?がまとまって自宅近くの場所にあります 最近は寺も個人情報保護法を理由に答えてくれないこともあると聞くが、厳密に言うなら死者の情報はこの法律の対象とはならない。 >>166
その頃だと平民とか士族ってのが書かれてたりしてるんじゃない
職業はなかったような気が >>168
手紙で送って、できれば直にお寺に行って聞いた方がいいような
手紙だけで教えてくれるかな、仮に過去帳等が残ってたとしても
近年、うるさいから、こういうの 酒類の販売ってのが、今と違って社会的地位の高さを反映してたからじゃないか?
平民と士族の間ぐらいだっけ?
それか、士族と同等の格式(俸禄とかはないが)だっけ? それほどではなかった気はするが 皆、系図ってどこまで書いてる?
くっそ多過ぎなんだが
神経使いまくるわ
尊卑分脈では藤原氏の先祖は國常立尊まで辿れるし
大織冠鎌足からさらに30人程書かなくちゃいけない 誰を祖にするか決めれば早いんだけど
本家の本家の祖にするか
本家の祖にするか
自分の家の祖にするか
自分の家の祖だと、祖父までで終わっちゃうんだよね >>177取り合えず最初の祖である天皇・・・として別れたところ(今の苗字になった)
から自分まで。
・・・の部分は省略。 戸籍は全て取りました。
戸籍から知り得たことは、墓石に書かれているご先祖さままででした。
変化はありませんでした。
菩提寺に聞けば、墓石に書かれているご先祖さまより前のご先祖さまの俗名などが分かるのでしょうか?
例えば初代のご先祖さまの父親の名前が、菩提寺の過去帳の続柄の欄に書かれていたりするのでしょうか? 180です。
菩提寺の過去帳に、初代のご先祖の続柄の欄に、初代のご先祖さまの父親の俗名が書かれているのでしょうか?
書かれてなさそうですよね? 皇別氏族でも、今の苗字にかわるのは随分と後、1/3か1/4ぐらい経過してからじゃないか? >>179 過去帳とかきっちり管理できてないお寺も多いんだよね、火事や浸水、無住の期間があったりする場合もあるから
ただ、可能性としては、墓石にある以前のが記載されてる場合はあるとは思う、戒名だけの記載だろうけど
あと、分家なら本家の系図をたどるとか、よそから移ってきたならその形跡を調べてみるとか
ある程度まで調べると、そこから先って難しいんだよね >>180
そのあたりは寺によるとしかいいようがないよ
俗名まで書いてあるケースもあるしそうじゃないケースもある
俗名ではなく通称で書いてあるケースもある
いちいち聞く前にまずは寺に電話一本入れて先祖について調べているから
みたいに事情を話してみればいいだけじゃん
普段からそれなりに付き合っているなら別になんともないことだし寺だって
別に怪しむこともないだろ
もし付き合いないならお詫びがてら直に行って訊いてくればいいじゃん 寺によるんだろうが、過去帳は難しいね。
いつ死んだ、戒名はこれこれってのはわかるけど。
誰と誰が親子なのかがわかりにくい。
おちのおじさんはそれで諦めて、当家の初代からしか書かなかった。
一族がもっと古いのは、墓からはわかっているんだけどな。
宗門人別改帳とかが出てきたら完璧だろうなあ。 >>160
当主になるとその名前を名乗るとか多かったらしいな。
あるいは、隔代で名乗るとか。
うちの神社の戦国時代の終わり頃の新築の際の文書には、
○○文左衛門、○○五郎右衛門、○○新左衛門○○とかが出て来る。
江戸時代というよりも、戦国からだね。
そういう名前は地域の有力者だったんだと思う。 >>57
うちの一族の中には、明治に名字を届ける時に一軒だけ違うのにしてるわ。
7軒のうち6軒が先祖のを使い、一軒が違うのにした。
墓やその他から、一族ってのはわかっているがな。 >>176
酒屋って、江戸末期に庄屋クラスの地主だろ。
俸禄50石の武士よりは豊かだと思うわ。 明治時代に名字を変えた…てケースについて教えて欲しい。
400年前は某県にあって、200年ほど前に銀山の役人するために移ってきた家なんだけど、
そんな長年やってきた総本家だけが明治時代に名字を変えてるの。なんかあったのか?
因みにいくつもの分家(うち含む)はそのままの名字で、屋号で区別してたみたい。 なんらかの理由で変えた名字を 本姓に戻したとか。
名字を変えたい動機が何かあったとか。
例えば、鉱山役人の武士の中での地位が実際どんなもんだったか分からないけど
仮に鉱山役人の地位が低いなら、それを払拭するためとか。
まあ あとは明治になったから新しく名字を付けたかったとか。
で、そのレスの内容からすると、本姓に戻したんじゃないの、本家だけ。
例えば、板垣退助とかも乾姓から本姓といわれる板垣に戻したし、
長宗我部の子孫は島姓だったのを明治になって長宗我部に戻してる。
あと、三岡八郎とかは明治になったから変えた口なんじゃないだろか、由利公正に。
木戸孝允とかは藩主から木戸姓を賜ってる。 幕末頃に何か大きな功績を立てて褒賞に新しい苗字をもらったという可能性もある
もらったのが本家だけだったから本家だけ苗字を変えた、と。 >>191>>192
レスありがとうございます。
もうその総本家自体絶えてるんですけどね。うちもとっくにその土地を離れてて。
親戚筋の同じ名字分家がそれぞれ屋号で区別されてたとか、もう十年はやく調査してたら、訪ねていけたのにと残念です。
たぶんうちの屋号の子孫…と思わしき家もなくなってました。まだ新しめの石碑に○○代目にて子孫なくここに絶えるとかあって泣けました。 >>160
孫がおたくの通字ということだろう。
俺が知ってる限りでは、通字は諱に使うはず。 >>160,194
庄屋とかの地域有力者だと仮名を世襲したりもするからなあ 高祖父について知りたいのですが、曾祖父母のそれぞれの父親です。
申請者確認資料は 私の戸籍謄本、免許証のコピー
私の父親と高祖父二人の名前が載っている曾祖父の除籍謄本
必要な理由を記入する欄には 先祖の供養、出生から死亡までわかるのも
これで大丈夫でしょうか?
除籍謄本と、改製原戸籍のどちらがいいのかわかりません。。。 >>190 多分本姓の方を使ったんだろうな。 本姓を名字として届け出たケースは稀らしいが。 >>196 俺は、親父と爺さんの名前を出してその上の先祖をたどりたいから辿れるだけ辿ってくださいと役場にメールを出したら、何通関連戸籍があると教えてくれたからそのぶんの費用を入れて申請した。
江戸の終わりまでは遡れた。戸籍登録は明治以降だけどね。
申請理由は単に先祖を調査してると書いただけ。 >>197 そんなのあるの? 昔の家系図に書かれてる文字で解りにくいのがある。 今は適当に想像して読んでるけど。
検索したら、奈良文化研究所の解析システムがあった。
http://r-jiten.nabunken.go.jp 役所窓口で戸籍取得理由を先祖調査の為と書くとダメな場合(出してもらえない)があるらしい。
そういう場合は、墓を新しくするので先祖の正確名前が知りたいとか、自分の場合は「先祖供養」の為と書いて出した。 >>201
直系尊属の戸籍なら理由は不要のはずだけど
少なくとも自分は聞かれたことがない ウチの先祖、家督がどう相続されたのかよくわからなくなってる。誰か解読キボンヌ
静岡県の戸籍では父親Aが子供C(名前は○三)とともに明治44年に長男B(名前は○次郎)の戸籍から分家したと戸主になりたる原因および年月日の欄に記載されているが、
神奈川県の長男Bの戸籍では、明治43年に父親Aの戸籍から分家したことになってる。(前戸主の欄が空白)
なお、静岡の本籍地は大正2年に火災で戸籍が焼失の後再製されていて、神奈川の本籍地は関東大震災で戸籍が焼失の後再製されているので、再製された時に情報が錯綜した可能性は無きにしもあらず。 ちな、子供C(名前は○三)の続柄も長男と書いてある・・・ >>204-205
常識的に考えて、単にBが分家しただけだと思う。 旧土地台帳の地番の付け方についてですが、何か規則性はありますか?
同じ苗字の家で数字の小さい地番と大きい地番の違いは何ですか?事務的に割り振られただけでしょうか >>207
一般論で言うと、ない
あとは地番振った人のセンス >>206
Bが分家なのは仰る通りと思います。ただAの戸籍が奇怪過ぎて・・・
前戸主の記載がなかったり、60過ぎて子供生んでたり、
挙げ句の果ては、その後しばらくして子供を同居人の養子にして廃家に・・・
再製のクオリティにも、色々あるのかな、と思った次第です。 >>208
現在の番地との対比とかどこ行ったら調べられるのだろう >>208
地番変更が少ない地域だと、ブルーマップの地番=昔の地番だったりすることも。
でも原則は土地宝典とか古地図と現在の地図を交互に見て確認かな。
ちなみに、いつ頃の地番を知りたいのですか?
明治19年式戸籍とかだと、地番じゃなくて屋敷番が書いてあったりするので
考古学の世界に突入してしまうことも。
自分は現在の地図と昔の地図のスクショ(orスキャン)をとってExcelで
半透明にして重ねて確認したよ。(東京だったらgoo地図が便利) 東京大空襲で焼失して再製された本郷区の戸籍に転籍した旨の記載がないのだが、
(少なくとも家督相続してからは)転籍していない or 転籍の記録が再製できなかった
どっちなんだろう??? 土地台帳
100番地 吉右衛門 ←先祖の名前
101番地 梅右衛門 ←住所A村とあり
家の記録にも先祖は明治5年以前にA村から移住とあるので梅右衛門とは何か関係ありそうだけどここで手詰まり
ただA村で調べた何軒かの同姓はうちと家紋が違うようでした
移住の際に家紋変えたのかなあ
梅右衛門の子孫が分かるといいのだけど番地が分からない >>213
一番違いぐらいなら、隣接している可能性は少なくないですね。
100番地の現在の住所が分かればよいのですが・・・
都市部だと昔の1/5000ぐらいの地図で地番まで書いてあるものを探せば
大体の位置は分かる筈ですが、田舎だと縮尺の関係で
番地がおおざっぱになってることもありそうです。
まずは国会図書館とか県の図書館で古地図を閲覧するところから
始めてはいかがでしょう?
昔の宿場町とかだと、たまに調査資料が充実してたりする
ところもあります。その場合は地元の図書館でも用が足りるかも。 >>213
土地を相続しただけじゃないの
吉と梅が兄弟か従弟ぐらいの関係で
で、吉はA村から移り住んできて
家紋は分家したりしても替えたりするから
A村に行って、同姓で古そうな家に聞けばわかるかも
墓地はどうなってるの? >>214 >>215
ありがとうございます
>>214
この地番の場所は台帳付属地図で特定できました
両方とも本籍近くの田畑で隣接しています
>>215
墓地はよく分からないのですが…
菩提寺だと聞いたお寺に以前一度訪れて見渡した限りでは墓石が見つからなかったので今度お寺の人に確認してみます
家紋はやはり替えたのかもしれないですね
まとめ
吉は天保14年太郎丸村(仮名)生まれ長男で明治5年以前に家督相続していて前戸主の名前は松右衛門(仮名)
家の言い伝えではこの松以前はA村に居住していたらしいけど詳細は不明
天保初年の太郎丸村106人の姓名が記載されている史料に同姓は1人だけだった ←竹右衛門(仮名)
土地台帳に記載されてる同姓は主に吉、梅、忠右衛門(仮名)
特に知りたいのは吉と梅の関係、吉と忠の関係、松と竹の関係、梅のA村の居住地番、かな
後は直接聞くしかないですよねハードル高いなあ 高祖父の除籍謄本を郵送してもらいました。
わかったのは息子二人の名前と高祖父(弘化3年生まれ)の父親の名前。
高祖父に兄弟が何人いたかというのは高祖父の親の
除籍謄本を見ないとわからないですよね?高祖父の親の
除籍謄本があるのか役所に電話で問い合わせても大丈夫でしょうか。 高祖父が弘化生まれなら明治の戸籍編成時点で30代、その父親が家長の戸籍が作られてる可能性は高いと思います
戸籍が残っているかどうか、確認してみる価値はあると思いますよ >>217
最近の傾向では、地方だと事前に電話する効果はあることもあり、
また郵送で依頼後に電話がかかってくる場合が多い。
都会だと「まずは送ってみて」みたいになることが多い。 思いきって本籍地に行ってきました
吉の家を継いでいた子孫の最後の当主の方が数年前に亡くなられたようで、うちの家系を除く同姓親族は既に全て絶えており、村に何軒かある同姓は全て忠の子孫とのこと ←家紋は同じだった
菩提寺でお参りして帰りました
もっと早く訪ねておけばよかったです悲しい 大体そんなもんです。
親戚に聞こうと思ったら亡くなっている。
もっと早く聞けばよかったと後悔する。
皆さん、お早めに・・・・ 墓地とか位牌の管理は子孫の分家の人がしてるんだろうか >>218 >>219 ありがとうございます。
電話で問い合わせたら、電話ではお答えできませんので
請求書類を送ってください。でした。でも、戸籍は残ってそうな感じでした!
昔の字を読むのもおもしろくなってきました。 今は都会に出る人が多いけれども田舎に墓があれば一族の人が面倒を見てくれますから
墓は田舎でって最近よく寺でいわれるわwww 精液の運び屋?タイ人の男、税関が摘発 凍結ビン6本有料記事
タイから隣国のラオスに凍結した人間の精液を違法に持ち込もうとしたタイ人の男が20日、国境の税関で摘発された。
男は、別の男に頼まれてタイの首都バンコクのクリニックからラオスの首都ビエンチャンのクリニックに運ぶ途中だったと話しており、タイ当局は体外受精に使う目的だったとみている。
ラオスとの国境にあるタイ北部ノンカイの税関によると、男はたびたび大きなスーツケースを持って国境を越えていたため、監視対象になっていた。
20日に再び現れた男の荷物をチェックしたところ、窒素で冷やされた精液入りのビンが6本出てきた。男は、精液は中国人とベトナム人のものだと話したという。
また、これまでバンコクの四つのクリニックから12回にわたってビエンチャンに、カンボジアのクリニックにも13回にわたって運んだと話しているという。
http://www.asahi.com/articles/ASK4P5RGTK4PUHBI03Q.html >>233 自分はメールで祖先を遡って調べたいと言ったら、何通ありますからその料金を添えて申し込んでくださいという返事が来た。
だって料金がわからなければ申し込めないからね。 高祖父の父親まで戸籍取ったけど養子が3回も混ざってて調べる意義がわかんなくなってきた
先祖ってなんだろう このスレ的には否定されるのが多いと思うけど、養子元を辿るのも面白いだろう。DNAだし。 婿養子以外で養子入りした人の多くは親戚だしな、養子の実親まで調べないと分からんよな 江戸時代(元禄15年)に亡くなった女の先祖の戒名が信女や禅尼じゃなくて庵尼となっていたのですが、わかる人いますか? 庵や軒という文字が入っているのをみたことあります。
曹洞宗です。
特別にお寺に貢献した方とかではないのでしょうか? 和尚に家系図を書いてもらったんだけど、
初代(寛永四年)〜四代目まで○左衛門って同じ名前だった
こんなことあるの?
最近まで庄屋をやってて先々代が無くなった時に
子分(嫌な言い方だけど)が集まって主従関係取りやめ儀式をやった 初代から現在まで戒名は院居士
お前のところの家は檀家のなかでも特別だからって
親族が亡くなるとお布施にに100万以上要求される
正直つらいっす >>234
それは襲名じゃないですか?
成人すると親の名前を引き継ぐ 庄屋とかなら、襲名はよくある
あと、衛門とかの官職名っぽい名前は一般農民じゃなくて庄屋とかの
それなりの家の可能性が高い うちは何やってたのか不明だけど衛門で
二代連続で同じ名前だ
自分の土地を持ってなかったことと、
嫁が百姓の娘というパターンが何代も続いてることから
小作かなぁと思う
戊辰戦争で召集かけられて官軍側だったもんだから、明治以降は士族になってた 父親方の戸籍は江戸末期生まれの人まで遡れたけど
母親側が高曽父母が早死にしてて兄弟は多いパターンで(前戸主兄ばかり)
明治20年以降生まれまでしか遡れなかった
壬申戸籍見たい うちは江戸時代は代々大工だったけど喜八という名でずっと続いていたよ。 大工って江戸時代までは職人のなかでも割りと重要な職種だし
あと、大工という名称は職人集団のボスみたいな役割の人のことで社長みたいな感じ?
業種とは少し違ってたんだよ ここと 先祖探し(悠久の時を越えて) はどちらが賑わってるのかしら >>242
代々信州上田で大工をしていて仙石権兵衛が出石に転封したときに一緒に行った。
その後信州上田から養子を貰ったがそれも喜八だった。ネットで調べたら以下の喜八
が出てきた。
鼠宿村喜八他三名売上証文[覚](鴨居等作事料1両3分余受取に付)
〜 御棟梁中様端書
長池村久左衛門他三名売上証文[指上ヶ申候御金請取証文之事](御中御門
・扉御作料代7両3分余受取に付)長池村久左衛門・鼠宿村喜八・〜御棟梁衆中様
鼠宿村は上田のはずれ。喜八ってどれぐらい多い名前なのかな? >>244
あちら同じ人しかいなくない?
3人位しかいなそう 移封って藩士だけかと思っていたら江戸初期は庶民も同行してるんだよね。
だから同じ町名が多い >>222だいたい本家は子供の勉強のために上京させ、そのまま息子返ってこず。
なので位牌は分家、墓の所有権等は本家って感じが多いかな。
で、面倒を見てるのが分家と・・・そのうち問題になりそうだけどね。
流石に所有権が全く認められないものがこれからも面倒を見続けることをするのだろうか?
また、納骨の時でさえ本家の許諾が必要だし・・・ >>244
あそこ三千里の質問掲示板みたいになってるねw >>244
このようなサイトが会ったんですね、ご教示有り難うございます。
今行き詰まっていますので、管理人様に質問してみます。 >>227 いいんじゃ無い? 昔は普通に養子縁組は多かったんだし。
うちも戸籍を取り寄せたら、明治2年に婿養子に入ってきてた。 今まで父系の直系だと思ってたから最初は少しがっかりしたけど、そりゃあって当然だと割り切ってスッキリしてる。
文政8年 1825年生まれのその父親の名前までは辿れた。1800年頃まではわかるのかな。 寺の過去帳を辿ればもう少し遡れるだろうな。
そう言えば小学校低学年の頃に俺も養子に出ないかと言われたことがあり、わからないまま嫌だと答えて今になってるが、後から考えたら養子に行った方が幸せになってたかもともちらっと思うこともある。 相手は大きな店を構えてる家だとか言ってた。 江戸時代頃の相続事例の3割ぐらいが養子(婿養子も含む)だったと言うぐらいに養子の頻度は高かったんだよな 名前:通りすがり 日付:2015年11月25日(水) 1時49分
小次郎さんという人、アク禁にしたほうが掲示板も健全化して盛り上がると第三者から見ても思いますが。。。
中途半端な家系を鼻にかけてつまらない蘊蓄ばかり。
家系に興味を持つ人の大半は純粋な興味だと思いますが、こういう人がいると雰囲気が悪くなるし、先祖に興味を持つこと自体が実に卑小な、低劣なことのように感じられてしまいます。
こいつウザすぎw 戸籍を取り寄せたら、1825年生まれの先祖とその父親の名前まで辿れた。 だからその父親の生まれたのは1800年丁度頃だろうな。
200年以上同じ戸籍と言うのもなんだか凄いのかな? 尤も自分はその戸籍で生まれはしたが、離れて結婚した時に別の戸籍を作ったけど。
うちの爺さん、親父は朝鮮に出て行ったけど、本籍はずっと元のままだった。
だから戸籍は同じでも、朝鮮で出生届をしたと言うのも色々見える。
しかし、戦後引き上げてきて、また本籍地で何年か生活させて貰ったのはありがたかったんだろうな。
自分の子供達にも昔の本籍を大事にしろと言ってるんだが、人それぞれ。
自分の苗字は珍しく、一族以外には居ない。 だから初代にその苗字を名乗った人間から今までの家系図はあるが、自分の直接の家系がどう別れたのかはわからない。
何せ初代の苗字(1200年頃)からかなり時が経ってるからね。
その初代の前の氏姓(うじかばね)も事跡もわかってるからほぼ何処でどんな暮らしをしてたかもわかるけど。
でも面白いのは、今の同じ苗字一族は殆どその地の周りにしか広まって居なく、自分の家系に嫁入りしてきた人達も殆ど近所の人達だった。 >>258 その本籍が有る地は、今でも飲料水は地下水のみでまかなう珍しい都市。
作物は豊かに実るから外に出て行く必要がなかったんだろうな。
大雨で周りの土地が被害にあっても本家や自分の本籍の周りは一切被害を受けない地に住んで居たからでも有るだろうけど。
今回の豪雨でも近所はかなりの被害が出た様だが、本家周りは全く大丈夫だったそうだ。
これは、自分の苗字一族のFacebook グループが有りいち早く情報共有できたので安心した。
故郷は遠きにありて想うもの。 >>256
そこの掲示板読んだけど「通りすがり」の言ってる通りでふいたw
ほとんど途中から「拙家は」と自分の家の話になってるし。
室町幕府奉行人の中澤氏みたいだが
先祖は東寺から押領を続けた泥棒のくせにw 苗字と系図だけでは何とも言えないな
詐称かも知れないし、系図も後世捏造したほうが多いからな
その辺にその苗字が多いというのも、逆に言えばその辺に来てから苗字を詐称してお仲間の振りをしたかもしれんし
詐称で無くとも何らかの縁で血縁は無いけど苗字を使う許可を得たのかもしれん
昔は褒章として苗字を名乗ることを許すなんてのもあったからね 家系図を作るソフトで何か良いのはない?
条件。
1. できるだけ汎用性のあるデータとして残したい。 テキスト=HTML>EXCEL>>>アプリ
WebサービスとしてMyHeritageと言うのがあるが、このサイトが閉じられたら入力したデータが無くなるから使えなさそう。 それに英語混じりだから広く親戚に勧められない。
3親頭くらいまでの管理ならこれでもよいかもしれないけど。
Excel系で少し探してみたが、使い方が難しそうなのは避けてとりあえずこれを使い始めた
家系図作成ソフト Excel2010,2016
血縁者の系統図を簡単制作(Excel2010〜2016)
http://www.vector.co.jp/soft/dl/winnt/home/se498617.html
子供と両親の情報を順次入力し、中心になる人物を指定すると、中心人物の血縁者の親子関係を系統図で表示します。
中心人物を変える事によりいろいろな人の系統図が作成できます。
登録人数は、1000人分用意しました。100世代まで表示できます。
誕生日(&死亡日)を入力すると、年齢を自動計算し表示できます。
表示親等数を指定して、系統図を作ることが出来ます。
表示親等数を指定して、系統図を作ることが出来ます。
子供が出来たり、親戚が増えたりした時も簡単に作り直しができます。
解説ページ
http://blog.goo.ne.jp/noryyasuda/e/98bb56b0747c2369db9666a10e01687e
この作者のホームページが見つからなくなった。 苗字は氏と一緒に使って初めて意味を持つ。 つまり何処の誰と特定できなければならない。 戸籍調べてたら父方の曾祖父母が従兄弟同士だった。
母方の高祖父母も親が従兄弟同士だった。
昔は従兄弟婚多かったのね。 うち昔の戸籍見ててイトコハトコ婚が多い。姉妹そろって兄弟に嫁いでたり。
あと、明治時代でも協議離婚てあったんですか。
曾祖父の最初の奥さんが17歳で嫁いできてて一年後に離婚してる。いったい何があったのかなあと。
どういう経緯やご縁で嫁いできたのかもわからないし、この時代はすぐ出戻ったりるすことはどうだったんだろう。家族やご近所の目とか厳しいの?
その後曾祖父が再婚した自分の実の曾祖母よりも、なんだか気になっている女性です。そちらも幸せな人生を送れたのか。 男児を生めなくて追い出されるってのはよく聞くけど
たった一年だとそれじゃなさそうだね
うちの先祖の女性も一年で離婚再婚を3回繰り返してる人がいたわ
どんな理由があるんだろう >一年で離婚再婚を3回繰り返してる人
そっちのご先祖の方がすごいw
昔の民法で女性は何百日間は再婚できないてあったけど、さらに昔はどうにでも出来たのかなw 戸籍見てたら、高祖父の弟が未婚なのに分家してたんですが1人で分家ってできるんですか? 昔は隣町から嫁をもらうというのが多かったみたいだな。 殆ど10km圏内からもらってる >>268 分家って単に戸籍を新しく作るだけだから、結婚とは限らないよ。 結婚の場合は戸籍の作り直しが簡単だというだけ。 江戸時代とか分家の過程とかで、苗字がちょっとだけ変わることってある?
例えば桑井→糸井とか。 江戸時代は知らないけど明治時代「邊」の字が分家の度に微妙に変わってた >>270
一般庶民は同村内のこともおおいよ
庄屋とか上層部なら同村内の婚姻はまれで近隣の村が普通だけど。 >>272
読み方が変わるような別苗字にはしないのが普通では
読み方が変わるようなのはちょっとだけの変更じゃなく全面変更だと思うが んなことない
日本は分家が違う苗字になったから、世界屈指の苗字が多い国になった側面がある
源氏の分家から足利新田武田佐竹が生まれ、
足利の分家から今川斯波吉良細川が生まれ、
斯波の分家から最上が生まれた
今の大河ドラマでもおなじみだが、
井伊の分家は奥山とか中野とか別の苗字だ 修正訂正じゃなく新規名字を作ったときの例をあげられても困惑しかしない エピソード(episode) ムム 巨乳風俗レポート 投稿者:ムーンマスターさん
http://cloudfactory.main.jp/es/?p=262751 平成4年に戸籍再製されてる自治体の戸籍が複数あるんだけど
平成4年って何かあったのかな
戸籍法改正は平成6年だし謎なんだけど >>268
同じ質問あっちでし過ぎでしょw
あいうえおさん >>272 うちの家系には同じ一族の墓ばかりの山があるんだけど、その墓石に少し漢字が違う同じ読みの名字が2種類くらいある。
同じ墓地にあると言う事は血が繋がってるんだと思うけど。
>>272 それは戦後戸籍には当用漢字にない漢字は使うなと言うお触れが出たらしく、うちの家系は全ての戸籍を新しい当用漢字にした。
今戸籍を取り寄せると江戸時代までさかのぼっても当用漢字が使われている。
戦前までは旧漢字だったんだよ。 >>282 当用漢字というか、戸籍で許されてるのは、常用漢字と名前用漢字だな。
しかし切り替え時期に真面目に当用漢字に切り替えた苗字はそうなったけど、切り替えなかった不届きな連中の苗字をなくすわけにもいかず、仕方なく旧漢字を使ったのではないだろうか。 >>282
へーだからうちの先祖も戦後に漢字変えてるんだな
納得 >>282
戦後在日が通名を名乗る時に使用できない漢字が複数指定されて
(今は撤廃されてる)それはどれも旧漢字体だから当用漢字以外は使うなと
いうのはちょっと違うような気がする 私の家は「原」の字の日の上に棒がない「原」を戸籍で使っています。異体字と云うそうですが、
うっかり公的な書類で棒ありを書くと訂正させられます。保険証が棒ありで送ってきましたが
後で大変失礼いたしましたと改めて棒無しの保険証を送ってきたこともありました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10126742135 原じゃないがうちも旧漢字体だからこういうケースままある
要は変えたい家は変えればいいしそのまま引き継ぎたい家は引き継げば
いいみたいに結構アバウトだったんじゃないかと
旧家や社家や真宗系寺家のように古くからその字で通用している家なんて
そうそう変えられるものでもないし… 六代前の先祖に島津という苗字の人がいて、家紋が十文字でした。
薩摩の島津となにか関係があると思いますか?
それともただ単に先祖が有名な武将の真似して苗字や家紋を決めただけでしょうか?
特に伝承などは伝わってないみたいです。
ちなみに宮城県です。 幕末、薩長らの連合軍が諸藩を攻略した際に薩摩藩からは藩主の分家の人間も何人か従軍してるし、
その過程で現地の人のひとりかふたりぐらいならあり得なくはないと思う
名前、謂れ因縁等を明かせば手がかりのひとつぐらい出るかもしれんし、
逆に詐称が露見する可能性もある。 >>289
無関係を証明できる資料が現れない限りは「関係があるかないか不明」が正解だろう。 なにも史料がない場合は、(無関係ではない可能性もゼロではないにしろ)
無関係と見なすのが妥当と判定されるのが基本
本物より何十倍は多くの偽物が出てくるから仕方ない 苗字と家紋からたけじゃ全くなにもわからないだろ
んなもん明治人身戸籍でむちゃくちゃ。
それこそ被支配者層と支配者層の苗字なんて同一だらけだし。
そもそも戦国時代で旧来の支配者層が根こそぎ没落して、東海の馬の骨軍団(武士にあらず)が新興武士になりかわったわけだから、
その時代の河原や半グレ衆が事実上大量に傭兵武士としていれかわってるんだがら、
そら江戸の武士の苗字と非武士層の苗字は親和するわ。
それに由緒かきや、地域に聞けば大抵わかるレベルの存在がないような家なら、ほぼ明治申請か単なる偶然の同一苗字というだけだろ。 信長に始まる東海の大量傭兵動員の奇跡なんて、
家柄や出自門閥は一切問わず、さらには次男坊以下のあぶれものだらけを大量雇用して城下の寮に強制移住させてるわけで、
秀吉は決して特別じゃなく、あんなんだらけが東海の武士団だからな。
さらに天下人秀吉の時代にはもはや半グレ上がりが大量に武士団で構成されてる始末。 は?
動員数と動員数による傭兵武士割合すら知らないなら言うな とにかく、信長から始まる東海軍団の構成するなんちゃって傭兵武士団の出自は酷すぎる
よほど江戸時代もそのまま中世以来の在地衆が普遍的に存在する上層農家のが家柄や出自は遥かに由緒が正しいし 庄屋の出自が確かっていうのは移動しなかったってのも大きいだろうな
雑多な中に入ったら出自も怪しまれるし 大名の国替えの時、庄屋もついて移動する例が少なくなかったようで、
ずっと動かなかったわけではないよ >>300うーーん。そういう例もあるが、うちの先祖なんかは国替えの付いて行かずに帰農して
庄屋だな。 ちなみに国替え前200騎近い家臣団だったが国替えにより付いて行ったのは50騎程度だった。
後に改易になったけどね。付いて行けないくらい人望のない殿様だったのか、改易が目に見えていたのか? >>292
偽物って言うより、本物と証明されないから本物かどうかわからないものの方が何十倍も多いと思うけどな。
偽物と証明されたものがあったら知りたい。 >>304
前野家文書(武功余話)とか、竹内文書とか、ホツマツタエとか。
内容面では和田文書もそれらと同レベルに荒唐無稽だけどな ごめん、系図とかの話だったね
ご落胤伝説とかの大多数は偽物なんだけどさ >>303土豪の一族で殿様に呼び出し食らうと数騎で参上というかんじ
最初の殿様一族滅び、後から来た殿様数代交代しつつ着実に知行を減らされ一族
食っていけず家臣(一族?)を連れて原野を開拓して庄屋へって感じ
なので結構な数の同性一族が庄屋になってる
ちなみに戦国期は庶流は苗字が変わるのだが維新時に小作人が庄屋の苗字を
名乗ったため本流の苗字の方が圧倒的に多いwww 田舎で異なると思うが、うちの一族で面白いのが分家と一族は違うってこと
開拓する前に分かれた家が一族で庄屋になって以降に分かれた家が分家。
まあ、分家は財産貰って別れたって意味があるらしい
分家の分家っていうのはどうなるんだろうか?? 分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家の分家 >>307
だから、その偽物と証明された大多数のことを知りたいって言ってるんだよ。 傍系先祖にニューギニアで戦死した人がいた
15日に靖国行って来る >>288
ノーベル賞受賞者が勤めていた島津製作所は社章が島津の家紋
創始者が島津と血縁関係があったわけではなく
京に来た時にいろいろ世話したら、お礼に島津姓と家紋をもらった
こういう例もある 姓を褒美としてやるというのは昔からある。
俺の先祖(某外様大名の家臣)も明治維新の時に、長年自分の家で奉公してくれた家来に褒美として姓をやった。
全国でも少ない姓だが、それが原因で同姓でも一族で血縁のある人と、元家来の子孫で血縁の無い人がいる。
元家来の子孫の中には何故か知らんが一族だと主張する人もいる。
代を重ねる内に、いつしか一族だと思い込んだようだ。
3代くらいしか経ってなくてもそうなるんだよ。
家系の詐称なんて、そうして行われてゆくんだよ。 >>316
我が家も全く同じ状況で奉公人に姓を与えたが、
その一家はいまだに「姓をいただいた」と子孫に言い伝えてる。
家系の詐称が大多数なんて言えないと思う。 もともとは次男以下が家臣になるわけだから、ひょっとしたら外で作った子を体良く家臣にしただけかもしれんしな 秀吉が五大老含め有力者たちに豊臣姓を与えたけど、
それ貰った家はすべて、江戸時代には旧姓に戻してるしな
姓なり苗字なりを貰ったと言っても必ず感謝するとは限らないのでは? 豊臣政権が続いてたらありがたみが大きかっただろうにな
なくなってしまったんだからしかたがない、諸行無常 豊臣姓だよ
源平橘藤+豊ってかんじに。名字・苗字ではないよ。 >>317
>家系の詐称が大多数なんて言えないと思う。
大多数なんて書いてないだろ。 家系の詐称は公家系以外はどこも一緒だろうな
302だが我が家は戦国後期ぐらいまでは辿れるが(寺に記録がある)
それ以前は各家の系図でもばらばら(もとは同じだけど)、どう考えても
江戸期に適当に繋げたwww
いやいやいやいやいやいや、
江戸の大名家はどうのんだよ?
一部の外様や高家以外、見事なまでの家系詐称どころか、
もはや詐欺レベルのおおうそだらけだろが。
幕府すらカンエイ諸家系図伝でも系図や成り上がる前の家柄は自己申告をそのまま性善説で信用するとして信憑性は問わないとしてるから、
まあはひどい酷い
戦国時代以前なんて、そもそも戦国以降に支配者になった輩は成り上がりなんだから詐称が大前提。
名門は戦国時代にことごとく秀吉に滅亡没落させられてんだから。
秀吉様ですら藤原北家だから。
秀吉一門の浅野や木下、日野、杉原なんてのまで
いや、小飼すらみなみな名門源氏諸家だ。
話になんねえよかすが。 徳川の系図が詐称である以上、親藩大名は全部、偽系図だよな
さて、譜代大名には詐称じゃないやつが一人もいないだろうか? >>326
お前が詐称を前提として話してるのはわかるが、それをデータで示してくれと何度もお願いしている。 ネット上で有名武将の子孫だって自称してる人やたらと多いよな
芸能人やスポーツ選手にもたまにいるし
そいつらが詐称してる先祖武将自身もまた詐称してるという詐称の連鎖になってる
先祖が百姓って言ってる人の方が人として信頼できるよな 信頼できるではなく、
戦国以前までの名門たる守護や地頭黒人、在庁官人などの旧来の領主層は秀吉にことごとく滅ぼされ、
それらに仕えし在地武士たる地侍や土豪は江戸時代は大量に庄屋名主、上層農家になった。
かたや、土地もない不動産もない、在地もないというようなないないづくめの秀吉のように父親の出自しら定かではないレベルの輩が傭兵軍人化して江戸期は武士になっていった。
なぜこのような簡単に逆転現象が起きたのかは、
『土地』
土地という本来の旧支配者層の大定義である土地をもつものと持たざる物どもとの価値、すなわちパラダイムが全く相容れないものだったから。
だから旧来の支配者層は土地という守るべきものの象徴にさしがみつき、
かたや持たざる雑多出自不詳どもの傭兵上がりにすれば武士としての給金定期収入に憧れを抱いた。
このパラダイムの差をうまく利用したのが秀吉だった。 だから、江戸の大名家からしてことごとく成り上がりの家系詐称だらけ。
そこに奴隷化された切腹軍団の藩士なんて、戦国時代以前の出自なんて全くわからない奴等ばかりだからな。
徳川は根来みたいな輩や山伏、鍛冶屋、川なめしの甲冑屋まで武士団に加えてるし 。
幕末に薩摩長州の江戸攻撃の際、幕府が兵隊徴兵として頼ったのが江田頭の団差衛門や火消し任侠の恵みやらそんなんだらけだったのみれば、自ずと戦国時代背景が分かるわ。
因みに団差衛門は江田頭から旗本に昇格されてる。
さらには薩摩長州は騎兵隊に代表されるように漁師や猟師、力士やら任侠やらそんなんま借りだし、なんと薩摩長州とも明治の士族にはこれらにも見返りの金の代わりに士族として皆登録させてる始末
近世でこんなんだからな 因みに、薩摩長州は漁師や任侠にまで士族として登録してやり、幕府は弾には旗本、目組の新門辰五郎の娘を将軍慶喜の側室にまでしてやってるのに、
幕末の武家の最高峰の家柄と血統を持つ、
足利将軍家の直系の血筋にしてあらゆる大名家が詐称してる源氏の嫡流たる平島公方足利家の御仁を平民にさせてるからな。
源氏の嫡流にして足利将軍家唯一の直系血統にして、江戸の詐称武士どもが詐称してるその根源たるリアル源氏の直系にして日本最高峰の武家の殿堂名門の 公方足利家が平民で、
糞みたいな足軽やら下級武士みたいな輩が士族だからな。
ありえねえわ 因みに、将軍家と並ぶ帝鑑家たる喜連川家より足利将軍家の直系に近い超絶名門にして、日本唯一のリアル源氏の正統たる平島公方足利家は、
華族を拒否され、士族程度の扱いに成り下がるならと平民とした扱いで帰農してる。
まさに戦国以前の名門たる旧来の支配者層がたどった道を、もろ幕末に辿ってる。
上層百姓こそ開発武士団たる真の由緒正しい家系 >>幕末に活躍した第13代浅草弾左衛門は、長州征伐や鳥羽伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、
>>1868年1月に配下65名とともに被差別民から士分に取立てられた。明治維新後に弾直樹と改名し、
土地を持たない近世武士なんてこんなもんだ その弾家は『弾左衛門由緒書』等に依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり、1180年、鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる
だとさ 秦氏って中国系じゃなくて半島系じゃん
秦の始皇帝の関係じゃなくて秦韓(一般には辰韓だが)の方だろ 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は「そこの人々は華夏
(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「巴(ともえ)紋」
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋)
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
http://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html >>331
>ネット上で有名武将の子孫だって自称してる
その時点で詐称が多い
有名武将の子孫ですらない >>335
>>華族を拒否され、士族程度の扱いに成り下がるならと平民とした扱いで帰農してる
そらそうだ。足利家は武家じゃない。軍事貴族であって、公卿将軍みたいなもんだから、士族なんて絶対ありえないよ 有名武将の子孫も傍系含めれば多いから竹田宮みたいな目立ちたがり屋があっちこっちで暴れてる可能性もあるから、自称ばかりとは・・・証明できないし。
俺だって田舎では有名な某武将(かなり小者だが)の子孫だから歴史に興味を持ちこの板に出入りしてるし。 >>343
そう思い込んでるだけかもな、
そもそも傍流なんて子孫なんて呼べるレベルじゃなくない?
それこそ傍流なんていったら、歴史的に日本人皆兄弟的な話にだって可能だし だいたい傍流を悪用して家系図は詐称されてるわけで、
傍流なんて遡れば田舎じゃ町全域がみな兄弟になるよまじで。 系図屋に金を払って、詐称した系図を作成してもらってる家は多いからね 大体さ、武田の子孫や織田の子孫とか抜かしてるやつて、武田は高家、織田も寄合や大名家で残ってて直系子孫はいるのに、
武田や織田は戦国時代に滅亡したと勘違いしてる無教養の同苗字の馬鹿が抜かしてるに過ぎないだろ
まあ徳川も戦国時代に滅亡してる得川を自称しはじめたから同じだが、
なかには甘利のようになんの根拠も示せないのに、同苗字と伝承だけであたかもたまたま生き残ってた子孫みたいに発信しちまうからな
まあ、それいうなら島津の頼朝子孫もだな。
もう足利家以外は信用できねえは武家では。 高家武田以外は信憑性は落ちるが満更でもないのが信濃の武田落人伝承かな?
明らかにどこかに逃げてるはずだからな・・・ どこかに落ち延びて現代でも不詳なら武田てなのってた可能性すら低いだろ >>347
何度も言うが、足利家は武家じゃない。軍事貴族だ。公卿だから源姓足利家は。 >>349
重臣系は江戸期に系図提出したりで苗字帯刀許されたりしてるんだけど
武田家系は名乗り出てはいないが・・・場所的に有りそうとかいろいろある。
妄想は色々広がる >>349>>武田てなのってた
「名乗ってた」か・・・伝承的には大体街道から離れた奥まった集落の
小豪族に身を寄せ、娘を娶って婿入りがパターンだが、パターン過ぎて
噓くさ過ぎる。
どっちにしろ地元の土豪辺りが匿ってくれなきゃ話にならんしな >>351
>>重臣系は江戸期に系図提出したりで苗字帯刀許されたりしてるんだけ
千人同心のことですか? 公方足利家クラスの超絶名門すら後の唯一の藩主たる鎌倉公方足利家ですら足利姓を名乗らず喜連川家と改称してんのに、
武田の真の直系なら武田なんて名乗ってる可能性は低いだろ
現在のの藤原みたいなもんだろ 同門であっても、聖子の実家は寺の住職だが?
ほんと、嘘ばかりだな家系なんて、、
こんな有名人ですらこんなんだもんな 武田の末裔を自称してた万引きアイドルとか本物だったらとんでもない事だよな
10万円分くらいのカーテンの万引きしたんだっけか
まぁ万引きする前から子孫会の方から否定されてたが スレ違い、ここは自分の先祖探しのテクニックとエピソードを語るスレ。 >>351
そもそも武田討伐をおこなった織田が数ヵ月後には滅んでるのだから、
生き延びてるならそこで名乗り出てもおかしくないんだよ
逆に言えば、本能寺後のどさくさで、かくまってた家が不運にも滅んで
巻き添えで滅んだ、みたいな事故でもあったのか、もしくは武田滅亡事に逃げ切れずに即時滅亡してたかどちらかだろ 武田の正統な子孫は、信玄の七男か八男くらいの盲目の人で寺に預けられていたとか
上杉に養子に出されてたとかって系統 ttps://ameblo.jp/cohanlights/entry-11085176113.html
疑いだせばきりがないし信用すれば妄想が広がるし。面白いんだな >>361
いい加減な事を書くなよ
武田の正統は、次男の竜芳(盲目で海野家を継いだが甲州征伐時に自害)の子孫
→江戸幕府に正当な子孫として認められ高家になっている
甲州征伐時に上杉に姉(菊姫:上杉景勝の正室)を頼って逃げたのが6男の信清で、
のちに安田家(信濃の旧族)の家督を継いで、安田信清と名乗り上杉家家臣となった 高家武田の16代目が最高顧問を勤める武田家旧温会
http://www.kyuuonkai.net/
若狭の武田家末裔まで居るけど、信用できるの? これだって旧臣は自称だろ
幕末の板垣も、幕末に唐突に武田家臣末裔と抜かして乾から板垣に改姓してるし、
単純にこの会に高額献金してもらえりゃ自称で結構なわけで。 Wikipediaでは
>光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。子の義勝は津川姓、のち佐々姓を名乗り、京極高次に仕えた。
とあるし、いちおう子孫が残ってるってことだろ。武田氏を名乗ってないだけで。 守護大名の武田が、親が猿回しの芸人の日雇い層の秀吉に自害させられるところが堪らないな >>367
いや、よく見ると、若狭武田家26代目当主とはっきり武田を名乗ってる >>359
重臣は武田家滅亡後、江戸時代はどうなったんでしょうか?
苗字帯刀が許されていたということは帰農されてるのでしょうか? 武田家の旧臣の多くは本能寺後の混乱期に徳川の家臣になったはず
ほかに北条氏の家臣になった後で徳川家に従ったのとかも
もちろん他の大名家にいったのも居るしな
真田みたいな立場になったのは少数派 どこかで姓を元の武田に戻したのかもしれない
ほとぼりが冷めた頃に元の姓に戻すという例はいくらでもある
もちろん詐称の可能性も否定できないけどな まあ、明治維新のあたりで戻した人は多いらしいけどさ >>370この板の違うスレで一覧表があったが・・・
長篠で大体死亡で
内藤昌豊の子は一人は信濃に帰農、一人は高遠藩
原虎胤の子孫は千曲錦酒造という会社をやっていて軍配が伝わってると・・・
これには板住人から原昌胤の間違いじゃねーーのという突っ込み多数だった
後は色々あったけどググれば出てくるんじゃないかな?上二件入れて調べてみて 旧恩会では土屋氏の子孫もその後は帰農庄屋であったと紹介してる。 ほとんど大名の出ていない佐久(依田ぐらいか)はほとんど帰農してるわけだし
小県は真田家、諏訪は諏訪家、。静岡神奈川辺りは北条家→徳川家と地域によって身の振り方は変わるだろ つか、24将で徳川に拾ってもらえたやつの方が圧倒的にすくないんたが もっと下の方なら旗本になったヤツが百単位でいた気はするが、上の方は難しかったのかな 真田家は松代移封時に在地系は帰農した。土地を離れるのは中々出来ないんじゃないの?知行制に慣れてた層は別だろうけど 一般の庄屋でも2割3割程度のオーダーで大名の国替えにどうこうしたらしいというのに
まあ江戸時代はじめごろまでだけかもしれんけど 真田は二つに割れたし、どちらに恩を感じていたかでしょう
武田24将系も国人の寄せ集め連合だからね そういや真田家は松代移封時48騎の海野衆が故郷の小県郡に帰農した事件もあったね。
在地被官衆も置いていかれて幕府の目論見通りか >>379
後北条家の上位武将なんて、武田家より酷い扱いで、城主格クラスですら殆ど帰農してるからなあ。 そりゃ上位層が豊臣家の敵として扱われたんだから、いずれ豊臣が滅ぶことを夢見て意図的に雌伏するようなヤツ以外は諦めて帰農するしかなかったんじゃないの 後北条家は上位武将クラスは、反体制勢力とみなされたのと小田原評定とことわざされるように秀吉の勘にさわっようですね。
上位武将クラスだけではなく、
秀吉の小飼、特に浅野氏が埼玉近隣の土豪地侍にまで帰農しろという脅しにもにた書状が送りつけられてるのが鴻巣市に残ってますし。
案の定埼玉の後北条方の武士団では城主の一色家や成田家などの数家以外ことごとく帰農させられてるし。 持たざる者が権力側になったら、持ってた者は追い落とされる
まぁ下克上だよな 皆さんの中には同姓の方に手紙を送った事があるでしょうか?
先祖探しも行き詰まっています、自分の家の事は限界なので同じ苗字の方とかに何か伝承とかないかなと思い手紙を書いて見ようと思います。
でも、何かあったら怖いので躊躇しています、手紙を書いて返信があったり、いい情報を得たりした方はいるでしょうか? 遠い親戚だと確証のある家に手紙出したけど、向こうがびっくりしていろいろ教えてくれって
こっちが教える側になっちまったよ 母方の祖母の実家が武田の末と聞いたことがある家紋も武田の四菱らしい甲斐か若狭かは知らん
その家は和歌山県でなんで武田がいるのかは知らん
高野山の麓だから真田の蟄居みたいななんかの流れで居ついたのだろうか >>390
2017.8.27 05:00
身分・前科記載の「壬申戸籍」ヤフオクに出品…明治5年作成?閲覧の対象外 法務省、ヤフーに削除要請
明治5年に作られた「壬申(じんしん)戸籍」とされる文書が、インターネットのオークションサイト「ヤフオク!」に
出品されていたことが26日、分かった。「士族」「平民」といった当時の身分や前科が記載されている壬申戸籍は本来、
法務局で厳重に保管され、閲覧できない。法務省は、「プライバシー保護の観点から問題がある」などとして、
サイトを運営するヤフーに取引を中止し、文書の画像を削除するよう要請した。
■ヤフー「出品者判断で取り消した」
要請は24日付。文書の真贋(しんがん)は不明だが、法務省は「あたかも本物の戸籍が売買されているように見え、
戸籍行政の信頼を損なうおそれがある」としている。
ヤフーは産経新聞の取材に対し、25日付で「削除は難しい旨を法務省に伝えた」と回答していたが、
入札期限を迎える前の26日午前8時46分、オークションは終了。落札者はいなかった。
ヤフーは「出品者の判断で出品を取り消した」としている。
出品されていたのは「明治5年戸籍」とする文書。20日にオークションが開始され、期間は27日夜までの1週間。
25日午後10時50分時点で22件の入札があり、現在価格は1万5500円だった。
サイトに掲載されていた画像によると、文書はひもでつづられ、住所や名前に加え、「平民」「賃仕事稼」などの記載があった。
徴兵検査に不合格だったとする記載がある人もいた。
壬申戸籍は日本初の統一的な戸籍で、当時の身分や前科のほか、被差別部落の出身者であることが分かるような
記載がされていることもある。
法務省は、昭和43年の通達で壬申戸籍を閲覧対象外にするとともに、封印するよう指示。それまでは市区町村で
本人以外も閲覧可能だったが、現在は厳重に梱包(こんぽう)した上で法務局に保管されており、法務局職員も含め
閲覧することはできない。
法務省は「個人情報である戸籍の取り扱いには留意すべきであり、特に壬申戸籍に関する事案については、
今後も厳正に対処したい」としている。
■145年前の記載…個人情報か否か
インターネットのオークションサイトに出品されていた「壬申戸籍」とされる文書をめぐっては、145年前の戸籍の記載
であっても個人情報にあたるなどとして、法務省が画像削除を要請。一方のヤフーはこれに応じない姿勢を示した。
結局、出品者の判断で出品が取り消されたため売買には至らなかったが、取り消しまでには多数の入札もあり、
人権やプライバシーの保護について課題を残した。
※以下略
http://www.sankei.com/affairs/news/170827/afr1708270002-n1.html >>384-7 戦国後期で各家武士団が充足していて余力がないってのもあると思うけど。
少し図書館で調べものしてたんだが江戸初期に庄屋の扱いがどのようなもので
あったかは 今からは伺い知ることはできないとの前置きで、当初は武士と庄屋は
対等に近かったのでは という説を読んだ。
理由は書状の名前で江戸初期は庄屋も苗字が入り武士と同じ大きさで並んで
書いてあるが、時代が下るごとに庄屋は字が小さくなり左下へ書かれるようになり、
苗字が消え 江戸後期には武士は右側に苗字入りで、庄屋は左端に小さく印と名前
のみになっていったという考察だった。 >>287 役場がすべての旧漢字、新刊時の対応がわかるわけもなく、いい加減に処理されてきた結果だろうな。
意識の高い家系は通達に従った。 >>288 関係あると思うよ。 全く無関係でそんな恐れ多いことをできるわけがない。
少なくとも薩摩家に関係があったんだろう。
ま、宮城の山奥で勝手に名乗ったということもなきにしもあらずだが、都市部だと誤魔化せないと思う。 >>315 戦国時代以降は、大名が味方を増やすために無闇矢鱈に姓と家紋を分け与えてた時代があったからな。
本来姓(かばね)は、朝廷が与えるものだったんだが、かばね姓の他に苗字が使われるようになる後世になると大名が勝手に苗字を与えるようになった。 四辻さんを時々見かけるんだよね
それもあり得ないような地区で >>396
カバネは「宿禰??」とか「朝臣」とかのことだぞ、源平橘藤のはカバネじゃない姓 >>337 諸説あるが、秦氏と、波多氏(羽田氏)はどう見ても別の氏族だよ。
波多氏は、新撰姓氏録には、皇別、真人、朝臣とあるが、秦氏は、諸藩でしかない。
古代豪族の氏姓に関連した苗字の現代人
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/min/1326776604/
古事記などの記録を辿っても、秦氏は綿の栽培や織物を得意としてた、波多氏は天皇家の子孫であり武家。三韓征伐などで副将軍として活躍してる。
うちは、波多氏の子孫で大和国波多郷から鎌倉時代に頼朝の命により地頭として出た。
だからうちの直接の先祖は、氏が波多、姓(かばね)は宿禰、苗字が今の姓(せい)。 元首相の羽田さんが死んだね。 彼は秦氏の子孫だと言ってたからそっちの系統なんだろうな。 波多氏とは別系統。
古事記で波多だったのを波多郷の1人が副将軍になったのを機会に羽田と名乗るようになった。 この系統が日本書紀の編者になったものだから、古事記の波多を日本書紀では全て羽田に書き換えてしまって混乱させる原因になった。
古事記時代は、漢字は単なる表音文字として使ってたからいろんな漢字を使っても間違いではなかった。 詐称であろうが羽田氏があの地域で超絶名門な事に変わりはない 地方名家で留まるのと、室賀みたいに旗本になるのとどこが違うんだろうな 先祖が海軍で戦艦陸奥に乗っていたという情報があるのですが、乗組員の名簿などは存在するのでしょうか? <明智光秀>反信長派への密書の原本発見 本能寺の変直後、室町幕府再興を目指していた★6 [無断転載禁止]©2ch.net 本家は明治期に絶えたがその由来を記した「○○氏先祖来歴之記」の巻物がお寺に伝わっている。
最近読み下し文を入手し内容を読み解いているが、この文の最後は○○氏先祖来歴のあらましを
伝えの侭書記すと云と結んでいる。
ということは事実は伝えるときと書き記したときの2回先祖をよく見せたいというフィルターが掛けられて
いると見るのが普通で、そうすると各事柄ごとに真偽の確認をしたいわけだけど、確認すべき資料は
あるはずもなく途方にくれているのが現状です。
まあ先祖の歴史ロマンとみればなんということはないですが・・・。
ちなみに先祖来歴之記は戦国時代末期の天正10年から18年にかけて泉州の国侍兄弟に起こった
ことが記されており、書かれた年代は鑑定により幕末から明治始め、書いたのは頼山陽門下の者
とされています。 一人で紀州一揆五十餘兵を敗北させたお話
天正12年春、太閤秀吉大阪の城を出勢あらんとせしに紀州の一揆蜂起して妨をなしける故
同国岸和田の城主中村式部小輔是を防ぎけるを助力して一氏が旗下に在しに、
○○勘右衛門は名を得たる強弓の手垂なるぞ弓者共の空穂箙残らず勘右衛門に渡せよと
下知せしがば、矢を算木の如く勘右衛門が前に積置たるを手早に取てさしづめ引つめ
さんざんに射たりしかば紀州一揆五十餘兵一たまりもなく敗北せしとかや
鉄砲で武装した雑賀・根来衆に弓で勝つとは痛快、さてどこまでが本当かな
岸和田にはこのとき城を守ったのは蛸地蔵だったという伝説がある
私はそんな歴史ファンタジーより勘右衛門さんを信じたい 母方の曾祖母の姓が全国で50人もいなさそう
由来を調べてみたが何も出てこなかった >>408
どう考えても史実とは思えんな
誰かが捏造したんでしょうな 旧土地台帳の閲覧をしてきたが明治20年ごろに結構持ち主が変わってるのだが何かあった時期?
地元の旧家も中身結構変わってるのな。意外意外。数百年住んでんのかと思ってたけど結構違うんだな 墓に彫られてる家紋が「丸に平四つ目」なんですけど、祖父が昔着てた着物には家紋がついていて「丸に隅たて四つ目」でした。
祖父はとっくに亡くなっているので聞けません。
どっちが我が家の家紋なのか… >>412
家紋は地域によって事情が違うので何とも言えないわ
家紋を複数持つ家もあって表紋とか替紋って聞いた事ない?
いろいろ使い分けてたんだよ
女系から女系へ伝わる女紋という別の家紋もあったりするし(主に関西の商売人の家系)
北海道へ開拓しに行った人は心機一転するために家紋を変えた場合があって
旧家紋が着物の方に残ってて、それを見た記憶のある子供が旧家紋が復活させてしまい
墓には新家紋が彫られてるしで、孫や曾孫の代でもうわけがわかりませんという状態になった場合もある 松方デフレから大土地所有が進むから
明治20年頃なら、その過程だろう 大土地所有が進むという言い方よりもっと直接的に。
各地の地主が破産して、破産した地主が持っていた土地を買い集める形で地主の大規模化が進んだんだよ
農業以外の、大資本も土地を買い集めて地主化した。 ファミリーヒストリーでアンダッシュ渡部の母方、吉野の梅本家は寺領代官でいわゆる寺侍みたいだが
やっぱ寺関係って京都奈良が多い?郷士については少し調べたことがあるけど地方に行けば
少しは寺侍っていたのかな? かなり大きな規模の土地を領有する大規模な寺院でないと寺侍を抱えることはないと思う
寺の武力の中心は僧兵であって寺侍(出家ではない世俗の領主)を配下にするとなると、寺自身が大名のような大規模権力として力を振るうほどでないと無理だろう
興福寺とかの特大寺院以外では珍しいのでは? と思う。 >>417レス(*ゝω・)ノ アリガd♪
地元の郷士については結構調べたときに神官の資料は結構見たけど(田舎の神官は農兼帯で農民身分)
寺侍は全然見なかったので不思議に思ったので。
郷士は自称や慣例見たいのが多くてよく分からないんだが寺侍だと所属がはっきりしているだろうが話題にはならんね 明治維新までは神事で刀を排除するような考え方がなかったのでは。 神官って苗字帯刀っていえる?神事の時は差しても普段はどうなんだろうか?
あと、苗字帯刀は藩内に限るって話があったが田舎の某藩(1万数千石)があって
飛び地で陣屋がある領地は半分ぐらいしかないので20村ぐらい。
この藩が幕末に例に漏れず苗字帯刀乱発しまくりだったが近接してる天領に恐らく
行かざるを得ない(物資の集散地だったため)場合も刀は置いて髷も戻していくのかな?? 専業の神官じゃなく、村の有力者が兼業してるのが普通だったからねえ
たいていは名字帯刀の人が兼業してたんじゃないかな。それか、僧侶が兼業してた。
大きな神社だと違ったかもしれないが、小さな神社だと専業ではない。
庄屋とか村方三役ぐらいの有力者が普通だと思う。 >>421
勉強になりました!!!
皆さん詳しいですね。 郷土史調べてると庄屋が有力者なのは分かるが組頭以下全然出てこない 三重県 家計調査の名簿紛失 20世帯の個人情報
http://www.isenp.co.jp/2017/11/22/10519/
三重県は21日、津市内を担当している家計調査員が、20世帯分の姓や住所などを記した名簿を紛失したと発表した。
県は「今のところ個人情報が悪用されたとの情報は入っていない」としている。
県によると、紛失した名簿は、家計調査の対象とする世帯を抽出するために調査員が作成した書類。
うち1世帯については調査員が実際に訪問して聞き取りを済ませ、世帯主の名前や職業を記していた。
今月16日、自宅で作業をしていた調査員が、7枚あった名簿のうち1枚がなくなっているのに気付いた。
調査を始めた6日以降に紛失したとみられる。調査の対象地域を探したが見つからなかったという。
この調査員は県の聞き取りに「調査に慣れて慢心していた。書類の管理が不十分で、申し訳なく思う」と話している。
県統計課は「全ての調査員に書類の管理を徹底するよう文書で喚起する」としている。 除籍謄本を取得したら「明治二十四年■月中逃亡 明治二十五年○月△日届出 明治三十六年▲月○日帰村」
との記載がありました。この「逃亡」「帰村」というのがどういう意味かわかるかたいますか?
戸主以下全員にこの記載があります。
なにかヤバい記載なのだろうか…。ちなみに転籍後の別の自治体で取得した除籍謄本では「逃亡」の箇所
は消されておりました。 夜逃げしたんだろ?
生活困窮か、揉め事か何かで
で、後で戻ってきた 「逃亡」と記載されてるじゃん
理由は不明だが、「逃亡」の中に夜逃げも含まれるから可能性はある。 戸籍に肺結核とか病歴まで載ってる場合もあるし、夜逃げくらいならあるっしょ?
>>428
明治24年10月以降の岐阜、滋賀、福井、愛知のあたりなら別にヤバい事ではない
全壊家屋が15万戸くらいの大地震があって、特に震源地の岐阜で逃亡者が続出した
避難って意味くらいに考えればいいと思うよ 松下さん本格的にルーツ探る 新城/井伊谷七人衆の松下氏との関係
http://www.tonichi.net/news/index.php?id=65022
井伊直虎を支えた重臣井伊谷七人衆の一人・徳川家家臣の松下氏。
その松下氏と自身に関わりがあるのではないかと新城市海老の松下恒雄さん(65)が研究を始めた。
同市海老神社の宮司を務める松下さんは、同神社の歴史を研究。保管されている棟札や祈祷札...
資料や位牌に囲まれる松下さん(新城市海老の松下さん宅で)
http://www.tonichi.net/data/img/news/news/2017/12/news0_5a3ba2663af3c.jpg 除籍簿の叔父の説明欄の文意が分からないので教えてください
東京府・・・區・・・町 亡神田・・・右エ門離別長男
同縣同郡・・・新田中村・・・孫母・・・携帯養子ニ入籍
離別・携帯の字が読みにくいので画像貼ります。違う語かもしれません。
http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up115351.jpg >>434
字の読みはそれでいいと思う
「携帯養子」がわからんのでしょう?
普通は妻子を携帯した養子を指すんだけど、これは母を携帯した養子か、母に携帯された養子だろうな
高齢夫婦の家に養子に入ってるね。それは二行目の「孫母」という言葉からわかる
誰から見て孫なんだって話だね
その孫と母が携帯養子になったという事だから、どちらかが養子になって片方を携帯していたという形だわ
まぁ、想像も混ぜて書くと
父の右衛門が死んだか離婚して、母子家庭になり
生活がきつくて再婚相手も探したがなかなか見つからず
子供を老夫婦の家に養子に出そうとしたら、親子まとめて面倒見たるわって言ってくれたとかじゃないの?
全然違ってるかもしれんけど >>435
ありがとうございます。
ご意見をもとにもう一度よく読み込んだ結果、除籍簿全体をおおよそ理にかなった形で解釈できました。
この母というひとの名前が除籍簿にない(没年は墓石の情報から戸籍作成時よりも15年ほど後)のは
養子の携帯した母は転籍しなくても良いからなんでしょうかね・・・ >>436
養子がまだ幼くて、老人が世話するにはきつかったとかで
母は住み込み家政婦として雇われたとか、まぁ、そんな感じだったら転籍してないと思います
携帯養子の事例が少なくて珍しいので何とも言えないんだけど、
似たような用語に携帯分家というのがあって
本家で生まれ育った人が両親や兄弟を引き連れて分家になる場合で、
携帯された親が転籍してない場合があるので、あくまでも類推になります
ただし、「孫」という字が出ている点が少し気になります
母が養子にならないと息子さんは孫になりませんよね? もしくは、もともと孫(外孫だったか勘当で切れてた子供のとこの孫だったか)だったのを養子にしたとか? >>436です
叔父○○は父である神田・・右エ門と離別して、母子家庭となった。(神田から除籍)
母△△は旧姓中村で、母△△の父、中村●●から見れば○○は孫であるから
と解釈しました。
どうも養子先の夫妻(戸主から見て祖父母)は、除籍簿や墓石の年齢から推すに母△△とは同世代のようです。 ああ、亡神田なんて地名があるんだと勝手に思ってた
除籍簿作成時には亡くなってた神田さんという意味か
私には、誰から見ての孫なのか今ひとつわからなかった上に
同世代の夫婦の所に母子で携帯養子になったと・・・予想がハズレました
他の人ならもっと正確に除籍簿を理解、解釈できるかもですね 30分ほどで先祖を江戸時代まで遡ることができたことに驚いてます
もちろん自分で役所を訪ねました
江戸時代より前はどうしたら探せますか? 藩名や身分などを伏せた状態での質問には答えようがありませんが、
大前提として旧字体の崩し字が読めない事にはどうにもなりません
それと地元の地方史も勉強した方がいいです 地方史も文字も理解していない私ですが、なんとか動いてみました
戸籍謄本と除籍謄本を調べると江戸時代までずっとその地域に住んでいたようですぐに遡ることができました
父方の父をずっと辿りました
天保まで遡ることができましたがそれ以前は役所には記録がないということでした
名字は「橋本」で和歌山県のある地域にずっと住んでいるようです 地方史も理解していない私ですが、とにかく動いてみました
戸籍謄本と除籍謄本を調べて江戸時代まで遡ることができました
江戸時代(天保)からはずっと今までその地域に住んでいたようです
橋本権右衛門という人が役所で調べられる一番古いご先祖様でした
この方より前に遡るにはどうしたらいいのでしょうか 江戸以前の橋本という名字はどんな人が名乗っていましたか? >>443
和歌山は丸ごと紀州藩だからいいけど、他の人も見てるから書いておくけど県名じゃなくて藩名で
今の県は複数の藩が合体してたり、大きな藩が分割されて複数の県に跨ってたりとかだから
で、江戸時代に苗字が公式記録に書かれていたとなると武士とかだろう
武士なら紀州藩の資料をあたれば何かが出て来る可能性がある
資料は和歌山市の県立文書館にあるから10年とか20年かけるくらいの覚悟で通う
https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/shyozou/komonjyo.html
ここを見たらわかるように、和歌山の町単位での資料が保管されているから、関係ある町の資料は全部読む
残念な事に橋本家文書はないようだが、寄託されてないだけかもしれないし、あきらめずに根性出せ
崩し字の勉強から始める事になると思うけどな 先祖代々の菩提寺があり、過去帳が残っていればかなりたどれると思う。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
FW7YH 今は個人情報がなんとかで、先祖の過去帳なんか全く見せてもらえない‥ それは菩提寺と付き合いが浅いから。
うちの菩提寺も時々子孫だと名乗るどこの馬の骨だか解らないのが来るそうだが、住職か塩対応して追い返すよ。
普段付き合いの無い自称子孫なんて相手にしてられないって。 京都、大阪のふぉろわさんはご存知の寺院かもしれないけど、うちは臨済宗妙心寺派の末寺。
過去帳による身元調査には一切応じていないけど、
以前、○○さんの知り合いでお墓参りをしたいからお墓を案内してくださいということがあった。
後でわかったのだが、実は縁談の身元調査だった…
https://twitter.com/passei930/status/533826604594495488 >>450武士なら当然名字が記されてるが
庄屋等の名誉的な苗字帯刀って名字が書かれないこともあるのかな?
尾張藩の中山道沿いの宿場役人からさんざん苗字帯刀を許してほしいという願いが
出されたらしい(ほかの宿場で許されている役人がいるため差が出てしまい業務に
支障が出るとの理由で)が、許されたかどうかは不明だそうで・・・当時の資料に
名字が記されてるかどうか調べれば分かるほど単純なものでもないんだな。 密着!平成のお殿様〜子孫はつらいよ!〜 BS朝日
http://www.bs-asahi.co.jp/heisei/より
【放送日時】
2018年2月22日(木)よる9:00〜10:54放送
番組概要
2018年は明治維新150年という節目の年。歴史の大転換となった明治維新を境に、
お殿様たちは大いなる転換を迫られました。お殿様たちの子孫たちは、今、どこで何をしているのでしょうか。
子孫たちの「現在」を直撃!
●犬山城(愛知県 犬山市)の当主の末裔 成瀬淳子さん
●松代藩 藩祖 真田信之の子孫 14代ご当主 眞田幸俊さん
●板倉家(岡山県高梁市) 19代目板倉重徳さん、20代目勝慶(かつよし)さん親子
●宇和島伊達家 13代当主 伊達宗信さん
●山形米沢藩 17代目当主 上杉邦憲さん 除籍謄本父方母方どっちも遡れるだけ取り寄せた
富山、岐阜、山口、神戸、広島にルーツがあったわ
それぞれ墓参りに行きたいが、いきなり見知らぬ怪しい女から「遠い親戚なんです〜」って連絡あっても相手は困惑するだけだろうし躊躇ってしまう >>457
庄屋の場合は本人の署名に名字が書かれてないという場合はあります。
宿役人の場合、
名字帯刀が許可されていたなら、本陣や脇本陣の主人も兼任していたなどでしょう。
本陣というのは大名や旗本、天皇の勅使などが泊まる宿です。
脇本陣はそれの予備的な宿です。
役人というだけで名字帯刀は珍しいと思います。
先祖が武将だったけど帰農したなどという事情があれば話は違ってくると思います。 明治25年に曾祖父の兄弟が廃絶家再興により除籍になり、廃絶家だったA家の姓を名乗り始めました。
祖父も他界しており自分の家とA家がどのような繋がりがあったのかわかりません。
一般的に廃絶家再興はどのような意味合いがあるのでしょうか? >>461
あくまでも一般論としてですが、家名を維持したり、分家同士を繋げる本家を維持するために本家を再興するといった効果くらいしかないです。
大審院(今の最高裁)の判決で、廃絶家に財産があっても再興者に相続する権利は認められないと判断されたため
金銭的なメリットなどはありません。 >>459
基本は手紙で自己紹介でしょうね。
戸籍謄本同封して、自分とのつながりを家系図で記載。
祖父母や曾祖父母の名前を出していけば、先方の年配の方でしたら、自分の従兄弟か親の従兄弟
位で関係近く分かってくれる場合もあります。
その後、手紙の返信が来ない場合はこちらから電話してみましょう。
相手が年配の場合は返信できない場合も多いです。 >>460
大半の本陣は勿論だが、一介の東日本の庄屋なら大抵武将か地侍だがな。 25 日本@名無史さん[] 2018/02/27(火) 13:58:29.34 ID:
今月、やっとたどり着いた
うちは、大庄屋で苗字帯刀が許されてた
あと、公家だったという記録も出てきた
通常、公家で検索しても絶対に出ない苗字
苗字帯刀されてた時に蜜だった藩が公家絡みだったからなのか
まだまだ調査が必要だ
27 日本@名無史さん[] 2018/02/28(水) 01:38:59.12 ID:
苗字と帯刀、両方与えられてるって事はかなりの優遇措置だよな
それに大庄屋って知らなかったけどウィキペディアで調べたら凄いな
ある意味、下級武士より余裕で上だろ
公家から派生したか、大庄屋クラスだと
その前の戦国時代に大名直下の家臣だった可能性もあるが
公家に苗字があるなら公家派生が有力じゃないのかな
28 日本@名無史さん[] 2018/03/01(木) 14:05:39.51 ID:
公家の○○殿
とかよく古書に載ってる事あるけど
公家の人のことを殿って呼んでたのかな 一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ 大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし どんだけ庄屋を持ち上げてるんだよ。
ただの農民より多少マシ程度だよ。
確かに元は地方領主クラスもいるけど往時の勢力そのままではなく、没落して力を失い、庄屋に落ち着いただけ。
先祖が庄屋の奴が妄想書いてるだけだな。 庄屋の成立過程に関する研究を見る限り、庄屋の起源は農民じゃないよ それがどうした。
先祖が庄屋でない者にはどうでも良い事。
庄屋なんて下層に興味ない人が大半なんだから。
農民の親玉くらいにしか思われてない。 >>469
江戸初期の庄屋の実態
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n332.htm
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである 下級ぷしとか抜かす奴隷民ごとき出自不祥の一族糞貧乏ごときと、
庄屋様を一緒にしないでもらいたいわ まじ、怠慢なら下級藩士ごとき、束んなってかっせんしても、お得意?(笑)の武力でぶっ潰してやりますよ(笑)
庄屋が武力ないとかそれこそ幻想なんですよ、奴隷民が(笑)
★★戦国時代の幸手城主 名門武蔵一色氏
兄弟で、旗本、名主、 に分かれる
兄→旗本5000石
弟→当地に庄屋として帰農
>>幸手城主の一色直朝には、小田原北条氏に属したため領地を失ったが、徳川家康はあらためてその子義直に幸手領5000余石を与えた。
>>その弟政義はこの時渡辺を称し上川崎に土着した。この時に築かれたのが渡辺氏屋敷である。
>>江戸期に入ると、渡辺家はこの地方の名主として栄えた 国時代名門関東の地侍衆の小田原合戦後
その武蔵鴻巣七騎の詳細を紹介します。 ↓
@★深井対馬守 → 名主、家老藩士、 に別れる
【本家】
>>1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった
【分家】
>>2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派 (分家は本姓の深井を名乗る)
>>3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
>>4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
>>この戦で後北条氏が滅亡した後、名主となった深井景吉は、忍城主となった松平忠吉(徳川家康四男)に仕えている。足立郡箕田に陣屋を構え、周辺の村落の再開発を行ったという。
(『論集幕藩体制史6巻「藩体制の形成I」』)
http://hp.vector.co....s/roots/roots01.html 庄屋屋敷の基本形態って、中世城郭なんだよね
豊臣期や徳川期の城割り令で城壁(土塀が多い)や濠を半分だけ壊して半周だけ残すようなのが多くある。
まあ、城っつっても一国あたり数百もあった城のうち一形態で近世城郭みたいな大きな建造物じゃないけどさ 館みたいなもんだからな。
確かに下級藩士のような掘っ立て長屋レベルとは訳が違いますからね いちおう、戦国時代頃の領主屋敷って戦時に領民まで避難して立てこもれる程度の規模はあったはず
それゆえ、領民が建築/改修の主体となる風習もあった
普く(あまねく)請ける=普請という語句は、そういう「みんなでたてる」風習からきてると思われ。
元は寺院の建築とかで信仰上の風習から信者動員で建てたあたりからきてんだっけ? 領主もぴんきりだからなあ。
土豪クラスまでは領主になるのか?! 先祖が平民もしくは穢多クラスだった奴らの嫉妬感が凄いのにワロタw
過去のことなんてどうでもいいだろ いや平民じゃなく、ここで荒らす奴らは100%穢多非人の子孫だと思うよ
穢多非人といっても、武士だった奴が大罪犯してそうなった奴も含まれるんだろうけどさ
まあとにかく、そういう奴らがここを荒らすんだろうよ 江戸時代に藩士になったやつらも出自不祥が多く、
特に織田や秀吉は鍛冶屋や甲冑屋まで直属武士団に組み込んでるから、
土地を大量に所有する有力百姓より親和性がもろ近いだろうな
なんせ秀吉みたいなんが大量に武士団に組み込まれてんだから 末端層がなれる職業は傭兵武士か職人
絶対なれなかったのが土地を大量に所有する上層百姓
なに勘違いしてんだこの馬鹿 先祖探しのスレに身分差別持ち込む奴の方が荒らしだろ
ここは先祖探しのスレであって先祖自慢するスレじゃないから 江戸時代ならまだしも戦国時代以前には職人集団は平民じゃないぞ>>484
律令官人の子孫とか国家直属の職能民衆団構成員の子孫とかで、庶民と下級貴族の間あたりにいた
そういうのを武士団に組み込んだから出自不詳でとか言っても、庶民を雇い入れたわけじゃないんだよ >>466
26 日本@名無史さん[] 2018/02/27(火) 16:15:55.93 ID:
公家の三男四男が地方で庄屋をやるのはよくある話
その際、姓を変えるのもありがちだな 庄屋自慢の基地外が暴れているなwwww
庄屋なんて戦国時代に落ちぶれた土豪程度だろ せいぜい 笑わせるなwww >>486
そのとおり。
先祖が庄屋だと自慢している基地外に言ってくれ。 先祖が外様大名の家臣だった俺からすると庄屋なんて糞みたいな存在なんだが。 241 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/03/05(月) 12:50:59.63 ID:HYrca2L9
>>239
アホか?
専業ってのをプロって言うんだよ低能
プロの意味を調べてみろやキチガイ
同意語だろキチガイ低能
日本では専業という言葉をメディアが使ってるだけだろ
プロと専業の違いを詳細に述べてみろや低能
因みにおれは東大卒後、ケンブリッジの某大学に4年在籍しとった
まあ、大昔の話だがな
それともう一つ、かなり遠いが皇室とは親戚筋の家系だ
で、おまえは? >>489
>>490
>>491
穢多非人の子孫認定だな
頑張れよ、自己を卑下するな 庄屋って今で言うセレブより凄かったんだろうな
あの時代だもんな
けどそうなると悪いことはしてなくてもみんなからの
妬み、嫉み、僻みとかの念を被ってそうだな
大庄屋まで行くと完全に雲の上の人だろうから
オラが村の庄屋、ってのに念が行くわな
庄屋の家系が途絶えやすいのは、その念が影響してるのかもしれないね
オカルトとかじゃなくてさ
しかしその大庄屋って、どんな人がなれたのかな
苗字帯刀まで許されて場合によっては藩札の札元や
訴訟の調停までやってたんだよね
―――――-
大庄屋
おおじょうや
割元名主 (わりもとなぬし) ともいう。江戸時代の村役人の一つ。
数ヵ村から十数ヵ村を支配し,法令伝達,管内庄屋の取締り,
訴訟の調停などにあたった。
土豪の系譜をひくものも多く,苗字帯刀を許され,なかには諸士格として知行を給されている例もある。
―――――-
どんな人が大庄屋になれたのか知りたい >>495
だって一村の石高 は300石から七百石が平均
大庄屋クラスだと5から10村のほぼ知行レベル
1500から3000石レベルの領主とかわらないからなあ
ましてや、徴税権の独占のみならず、
村内の
政治執行役
インフラ公共事業
警察権
裁判権
までほぼ独占状態の完全な中世領主型
たんに大名家の奴隷たる藩士になってないだけで、
苗字帯刀は許され、
門構えは家老クラスにしか許されない長屋門、
さらには戒名も家老クラスしか許されない院号まで許されてる
奴隷民の出自不祥の藩士程度と、藩の扱いや優遇性が違いすぎるわ 関東の庄屋屋敷の典型
旧後北条家貴下の土豪だった庄屋屋敷
http://www.youtube.com/watch?v=TmDSqCAxoEk&feature=youtube_gdata_player
藩士と庄屋
どっちを藩政は気を使っての優遇を図ってきたか
元々の出自が、たかが藩士ごときとちゃうねん 大庄屋?
『腹が減っては戦ができぬ』
かなりの土地を有していて、
稲作、田畑などで食べ物を作っている人々がいて、
その上のほうにいる家でしょ?
開墾のプロ、作り手がいなくなると、
飢饉〜餓死のような事になり
大名だろうが、誰だろうが、死んでしまう 開発領主てしらないのか502の馬鹿は。
武家が土地から切り離されたのは戦国後期以降の東海軍団だけだぞ馬鹿が
土地すら持たない武家なんて、戦国時代以前にどこにいたよかすが 何の話なのか、わからないけど、
米(百姓)などを作っている家は、偉そうにしているんだよ
と言う話があったり
かなり大きい家の話、税などの話なのかな >>502
開墾のプロ
幕府や藩からすなわち開発が出来る立場のある家も
中世からの在地有力者、すなわち土豪地侍の家系を選定基準にしてんだが?
歴史にわかは口にチャックしとけ 特別扱いされていたとか、
税金も・・・納めていない?米で払っていた?
テレビなどの報道があるでしょ、
今年は、あまり米が出来なかったとか、豊作だとか
昔の話なのかな 中世の在地領主であり、
江戸初期に水戸藩から開発【開墾】を命ぜられた庄屋屋敷
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sakanomt.htm
藩士ごときの屋敷や出自と違いすぎるんですよ庄屋は。
開発できる上層百姓は中世の領主階層な >>499
なにそれ?
それが事実なら、武士でも手出しできないじゃん
いわゆる悪代官と密接に繋がってたとかかな たかが下級武士程度じゃ手出しできないどころか接点すらないから。
庄屋が下級藩士にぶち回され、娘をぶんどられるイメージは水戸黄門のテレビドラマの中だけな >>499
それプラス、藩札の札元って記録もある
今で言うと銀行兼造幣局だよな
で、一番の疑問
土豪とかがなれると諸説あるけど
そもそも江戸時代前はどんな身分にあった人間?
戦国時代の大名の家臣系統か?
公家系統か?
もっと他の身分? 因みに水戸藩内では、
生瀬騒動といい、
江戸初期、旧佐竹家貴下の地侍だった家が庄屋になり、
この庄屋が水戸藩の下級藩士を二人叩切って水戸城下に送りかえした事件が起きてんだが?
下級藩士程度じゃ庄屋にぶったぎられる立場な江戸初期は!
この結果は、水戸藩は庄屋の首を差し出すよう要求するも、一切応じなかった庄屋に、
水戸藩は藩兵300で庄屋の村を攻めることを表明
庄屋は村民を武装させ対抗する姿勢を示し、合戦
藩兵はおよそ80人近い死傷者だして三ヶ月に及ぶ包囲戦で勝利した騒動
庄屋なめんなよ?まじ >>510
そんな絶大な権力を持つ庄屋なんて存在してないだろ
先祖自慢者の妄想だから相手にするな 江戸時代、士農工商穢多非人
これは絶対なんだよ!
例外はない!
馬鹿者どもが! >>513
地獄谷事件
>>以後、この地は水戸藩領となったのです。佐竹家臣団の大部分は地元に土着、農民化しました。
∧> そんな水戸藩領になって間もない頃に一つの事件が起こりました。
いつもの如く徴税吏(年貢取り役人)が年貢米引取りに村に来て、生瀬村の人たちは何の疑いも無くそれを渡しました。それから数日後、再度徴税吏が来て年貢引渡しを命じます。これは二重取りの役人だと判断した村人たちはこの徴税士を追い回し、殺害。
その死体を詐欺行為として水戸城下に送り届けます
>>水戸藩内は大騒動になります。藩領入府間もない頃であり、水戸藩に従おうとしない旧佐竹士族や領民が多数いる頃の事。
>>このまま穏便に済ませば領地支配の今後に響くと判断、権威を守る為にと軍勢を起こして生瀬村討伐に向かったのです。
>> まだ戦国の荒々しい気風が残っている頃のこと。対する水戸藩は頭ごなしに討伐を叫び、両者は対峙しました。
>>生瀬村の人々は水戸藩の横暴、何するものぞとの気概を持ってありったけの武器を集め、水戸藩兵を迎え撃ちました。
>>農民たちは奮戦、水戸藩側にも多数の死傷者が出て、事態は最悪の方向に。 >>513
江戸初期の庄屋の実態
http://www.e-obs.com...heo/heodata/n332.htm
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである >>512
少しググれば分かる事を否定する意味は?w そもそも、
天草の乱も天草方の首謀者はおよそ10家の庄屋が反乱の主力なんだが?
勿論この庄屋衆全て旧大友家、旧龍造寺家の評定衆レベルの元家臣だが。
このおよそ10家の庄屋衆相手に
幕府は関ケ原以上の軍勢を全国諸大名から送り込み
2年に及ぶ戦争
そして幕府軍の総大将板倉は庄屋連合相手に討死してんだがWWWWWWWW 天草の乱の庄屋のソースだせ言うなら、詳しゅう書かれたのだしたんど
庄屋が一介の農民頭程度とか、、
なめんなよ庄屋をwまじ また基地外がおかしな事を言い出したな。
庄屋が領主と変わらないんだと。
どんだけ馬鹿なんだよ こいつは。 俺の曾祖父の嫁が庄屋の娘。
今でもその家との付き合いあるけど、ここで庄屋自慢してる奴の話と違う。
やっぱ 嘘をついてるんだよ ここで庄屋自慢してる奴は。 >>514
架空の制度だね
江戸時代の言葉じゃなく、明治ごろに幕府否定で使われてたやつだろ 米不足とか、凶作とか、
たまーに、そういう報道があるでしょ
家の親なんかは、
そういう報道を見ては、
よく言っているよ
税(税金?)が何やらとか、−−−−−−−−−−−不明 この基地外は、そのうち江戸幕府の真の支配者は庄屋だと言い出しそうだ。 自分と血の繋がりのない祖父の家系がどうも名家っぽいんだが、聞いても教えてくれないんだ
やっぱり血が繋がってないと戸籍謄本でこっそり調べることはできないんか? >>526
現在の安部首相も
副総理大臣の麻生も
どちらも庄屋
昭和以降の総理大臣は安部から遡って見事に庄屋出自だらけだけどな
皇后まで庄屋の出
さらには皇族に嫁に来た家柄しらべると、
大名家と庄屋しかいない。
なあ、どこが支配階層じゃないの? 麻生って菩提寺と過去帳の焼失で先祖不詳の怪しい炭鉱成金だろ。 因みに麻生の古くからかの庄屋屋敷
http://www.youtube.com/watch?v=Tp9PNSf2MQI&feature=youtube_gdata_player
なあ、小藩の大名家程度の陣屋より個人邸宅が遥かにでかいですが。
庄屋なめんなよ? >>529
それは戦国大名の麻生家との繋がりであって、
明治以降は大名家や維新の侯爵家、皇族だらけだぞ婚姻してんのは 炭鉱でのし上った伊藤伝右衛門の屋敷も凄い豪華だよな。
伯爵家の令嬢も娶ったし。 岡っ引きの家の生まれでも金持ちになれば伯爵家の令嬢ぐらいは娶れる。 庄屋なめんなよ?だってwww
基地外ここに極まれり
庄屋の身分は武士より下で確定です
江戸幕府を否定するのか この基地外
被差別階級の団左衛門は大きな権限と金を持っていたが、あくまで身分は下層だった
そこらの庄屋より持ってた権限も金も上だろう
団左衛門なめんなよ? >>534
江戸幕府の現実の制度面では庄屋の身分は庶民じゃなかったんだがな
お前さんこそ無知蒙昧 また庄屋基地外か。
で、武士より上だと言うソースは? 現実の制度面なんて言い出したよ この基地外www
自分に都合の良い勝手な解釈を披露するなよwww 庄屋自慢する人は身近にはいないけど、自分の先祖が十手もちだと自慢してた奴がいたなあ。
今で言うと警察官みたいなもんだったんだ!って。もちろん銭形平次のファンだったw
自分は何も言わなかったよ。大きなお世話だからね。 大庄屋なんて言い出してるし。
庄屋の一部に過ぎないし、落ちぶれた負け組武士や負け組貴族が先祖って情けないよね。
勝ち組になれなかったショボイ先祖なんて自慢するなよ。 てか、少しはググって勉強しろよ情弱
呆れるわ
そもそも歴史なんぞ曖昧模糊なんだよ
聖徳太子をいまさら教科書に載せんとかアホか
そんなもんアマチュア歴史家たちが昔から指摘してた事だろアホが
学者はホント使えねえな
仁徳天皇陵の正体もついでに明かしとけやアホども! 古代日本史なんぞまだ1%も解明されてねえんだよアホ
てか、解明しない方がいいし、解明を邪魔してるのは欧米の学者たちな
理由はググりまくれやあほ 庄屋基地外が逆ギレwww
ま、団左衛門より下だもんなwww >>546
子供はチンチンの皮がズル剥けになってから出直してこい
馬鹿者が 下層民と一番深い親和性をもつのが、
実は下級藩士という現実 >>549
どこをどんな風に論破したんだ?w
ワロタw ・庄屋は領主と変わらない
・実質的な身分
とか完全論破されたじゃん
庄屋基地外の妄想は論破されたんだよ 本人だけが認めてない
力があるものが身分が上という訳のわからない主張も、なら団左衛門のが庄屋より上だなと出されて沈黙 「久留米藩の百姓一揆と部落差別の構図」―私の学びから―
http://www2s.biglobe.ne.jp/~jyogyoji/index9.htm
興味深いところでは「宝暦一揆」の鎮圧に功があったとして、その翌年には「穢多」に物真似芸の興行権を認めている(1755)。
この一揆において、藩の処罰による刑死者(さらし首、打ち首等)は37人。死刑以外の受刑者(追放、過料等)165人にのぼる。
そして、この苛酷な刑罰を実際に手を染めて実行したのは、下級刑吏を命ぜられていた「穢多」の人びとであった。
大石久敬
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%B9%85%E6%95%AC-38995
宝暦4(1754)年、30歳のとき、領内の大庄屋、豪農、御用商人などを攻撃対象とする久留米藩の大一揆が起こり、
百姓数万人が人別銀の廃止などを強訴した。藩は農民側のいい分を受け入れ、大庄屋25人を詮議中閉門処分としたうえ、
御井郡御井村(久留米市)の大庄屋高松八郎兵衛を処刑した。
一揆の指導者層
http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/kurume/houreki/houreki/no5.htm
一揆後の大弾圧で、農民側は第54表に示すような多数の犠牲者を出した。
この中には死刑になった御原郡井上組の大庄屋高松八郎兵衛が入っているが、
彼については「大庄屋にて勧め候由の咎故、死刑」(吉田喜太夫筆記)とも、
「連々私曲の仕形これあり、当春百姓共申し出候に付き吟味を遂げ候処、
其の紛れこれ無く、役儀をも相勤む、右体の儀、重々不届の至り候。
これに依り死刑」(宝暦4甲戌歳騒動御制詞)とも記されている。
庄屋では竹野郡野中村庄屋八郎右衛門は、
一揆発頭村でありながら対処ふじゅうぶんで死刑になっているが、
御原郡干潟村(現小郡市)庄屋三郎右衛門と竹野郡門上村(現田主丸町)庄屋忠助は、
一揆に加担したとしてそれぞれ梟首、刎首に処せられている。 武士の介錯をするのは同じ武士身分だけど庄屋は農民だから賤民に首を刎ねられる しかし穢多非人の子孫はくどいな
だからいまだに穢れてんだよ 昔から見下す相手は直近下位と心理学では立証されてる
よほどエタヒニンと変わらぬ直近身分出自なんだろいなあ
誇りもてよ自分にwww 身分とは何か。
身分には比例した権限や権利があり、その権利や権限から派生する富も財力として比例していくもの。
身分に相応した実質的利益が他者より身分に相応して内包していないと、それは実行力を伴う身分権益にはならない。 実質、領主レベルの財力を伴う権益を持たされてるのが、上層武家と庄屋だからな
そら僻まれるわ奴隷民の傭兵扱いの長屋暮らしの出自不詳の金魚の糞程度には また庄屋基地外が自演してるんだな
子孫がこんなクソなんだから、先祖の庄屋もクソだよ 農民だし >>567
穢多非人乙
いまだ虐げられてるからって荒らすなよ 先祖代々小わっぱの下士程度に言われる筋合いはない
知識階層も俺のような一流大卒は庄屋の子孫のが多いと思うよ、なんせ総理大臣も庄屋だらけだからな(笑)
格が違いすぎる 庄屋は江戸時代の身分では農民の一部だよ
それを認められない馬鹿が騒いでいるだけ
ごく一部の基地外がね
農民のどこが悪いのさ?
先祖は農民ですって堂々と言えば良いじゃん
先祖を恥ずかしく思う事こそ、先祖を辱める事だぞ 農民が悪い、とか言うってる奴なんていねえだろキチガイw 町庄屋って言って町人の庄屋も実在するぞ、村じゃなく町を取り仕切る仕事。 396 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/02/28(水) 01:23:51.98 ID:fDTqIUNL
そんなこと言われてもな
資産家の家に産まれたんだから仕方ないよ
中学の時から毎月の小遣いは50万円だったしな
高校大学の時の小遣いは毎月100万円
ネタ扱いされそうだけどマジだよ
それが良いのか悪いのかは分からんけど
当然そんなに使える訳ないから結局貯金してたんだけどさ
大学卒業する頃には余裕で1億円以上は貯金あったよ >>573
因みにこの人、ちゃんと税理士の合法的画策で非課税贈与 どんな形であれ、それだけの資産を非課税で贈与なんてできねえよ馬鹿が >>575
おまえみたいな低能がいるから世の中、楽しいw >>575
おまえが税理士なら分かってて言ってんだろ?w
世の中、合法的脱税者だらけなんだよ
知ってんだろ、偽善者さんよw
腹が痛いwww >>578
当たり前過ぎる事を偉そうに言われてもな 467 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 01:34:06.39
一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ
468 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 08:37:00.70
大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし
―――――-
結局、大庄屋ってのはもともと武士だったんだな
なぜか家宝が農民が所持してるものとは思えない物ばかりだという理由が判明したようだな 庄屋・名主の選出方法は、個々の村々の慣習に委ねられることが多い。
(1)代々同じ家が就任する世襲名主制、(2)一年ごとに交代する年番名主制、
(3)その中間型(世襲ではないがある者が複数年務める形)の3つがあった。
また、庄屋・名主の選出には、村民による「入札」(いれふだ)と呼ばれる選挙が実施される場合もあった。
そのあり方は、地域差があるばかりではなく、同じ地域内でも村ごとに多様である。 544 名前:日本@名無史さん :2018/03/07(水) 12:21:22.31
てか、少しはググって勉強しろよ情弱
呆れるわ
そもそも歴史なんぞ曖昧模糊なんだよ
聖徳太子をいまさら教科書に載せんとかアホか
そんなもんアマチュア歴史家たちが昔から指摘してた事だろアホが
学者はホント使えねえな
仁徳天皇陵の正体もついでに明かしとけやアホども! >>578
772 名前:底名無し沼さん (ワッチョイ fbcf-J9qs) :2018/03/11(日) 01:07:16.36 ID:sl/6Ut+g0
何事にも抜け道はある
そしてそれはすべて富を得た者のみが歩ける道である
言わずもがな法律とは強者を保護する為のであり
弱者にとっては何ら意味はない
無論、その真実が露骨に露呈する事のないよう法律は賢く成り立っている
by 某司法界の重鎮のメモより >>580
大庄屋が農民出な訳がないだろうw
どんだけ情弱なんだよ
御先祖さまにちゃんと謝っとけよ >>585
証拠を出せ
そうじゃない証拠ならググればザクザク出てくるがな は?
没落してなけりゃ領主なんでしょ?
この基地外は自分で書いた事も忘れてるのか? エタヒニンと連呼している差別主義者は何なの?
今の時代に他人にそんな言葉を使ってる時点でお里が知れるね 平民出もいる下級武士の関東取締出役にひれ伏して接待と道案内するのが名主庄屋層 鹿野小四郎(1655〜1710)
https://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E9%87%8E%E5%B0%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E-1066912
江戸前期の篤農家、村役人。
加賀国江沼郡吉崎村(加賀市)の貧農の家に生まれ、船乗りとしても働いていたが、
のち大聖寺藩より十村役(大庄屋)に取り立てられ、職務に多忙の日々を送った。
晩年、子へ伝えるため『農事遺書』全5巻(1709年成立)を著した。
農業の実際に詳しく、また貧農の出でありながら十村役に取り立てられたという経歴や『農事遺書』の内容などから、
きわめて有能緻密な人物だったと考えられる。『農事遺書』は近世前期の北陸農業の実態を知りうる貴重な史料である。
「光る人。鹿野小四郎」
http://blog.livedoor.jp/dkastaff/archives/29919998.html
▼鹿野家は、その後11代まで十村役を務め、子孫らは平床の開墾、那谷山麓の杉苗植付け、
砂丘の植林と田畑化、紙屋谷用水の開墾などに尽力したという家系であった。 庄屋
http://www.geocities.jp/shoyzawo/index12.html
古庄屋や本庄屋は元禄年間以前に任命された古参の庄屋、元禄正徳年以後、
田畑売買禁止令の存在にもかかわらず、年貢未納のため、質屋高利貸に借金した農民が質流れで田畑を取られて小作農が激増、
古庄屋や本庄屋は農民一揆で痛め付けられ、一方高利貸の大地主が新興庄屋、大庄屋に取立てられた 天明8年(1788)相次ぐ大一揆に、府中市村で社倉を創始
府中市村、大戸直純 村内48名 社倉を創始
質に取りあげた田畑で大地主になった高利貸しは、不在地主のため、
百姓一揆にも被害なく、打ち壊しにあい罷免された旧庄屋に代って、新興庄屋に就任
寛政8年(1796)一揆打ち壊しの被害に会わなかった深津村庄屋石井武右衛門盈比、
質屋高利貸しで貧農から農地を取り上げて、大地主になり蓄財した金銀で義倉創設
遺金60貫目(金1000両)を千田村庄屋河相周兵衛好祖に託す
文化元年(1804)千田村河相周兵衛、府中大戸久三郎、福山福井常右衛門、大坂五軒屋、義倉設立「救法目論見」を藩に提出 深津郡千田村 河相傳四郎
千田村には、元禄享保や宝暦初年(1751)ころまで河相家はなかった
岡河相家の初代河相傳四郎は、蘆田郡中須村の山本家に生まれ、
西中條村岩岡河相家の養子となり、分家し、宝歴年間(1751-)に千田村に移住
当時、寛永・元禄期ころから庄屋を務めた旧豪農は、宝暦の一揆(1753)や天明の一揆(1786)の打毀しで疲弊しており、
傳四郎は年貢未納の潰れ百姓に対する高利貸しで、融資担保の田畑や近隣の土地を取り上げ、藩庁の役人と懇意となり、
流れ者・どこの馬の骨・「病人の布団を剥ぐ高利貸」と下げすまれつつも、
藩に献金を行い、一揆の調停をするなど、深津郡有数の豪農になった
(千田村河相祖)傳四郎包好(寛政2没、小左衛門) - 周兵衛好祖(天保4没、妻・浦上村坂本文五郎娘) - 周兵衛好煕(養子、河相清兵衛包義の子で保平(天保7没)、妻・菅波序平信恕娘) - 周兵衛好徳
吉永家:河相清兵衛包義(1749-1811、深津・品治二郡大庄屋里正、浦上村坂本安平の子、河相傳四郎包好の娘婿)ー多喜次包晧(妻太田市右衛門の娘)ー木右衛門包高
宮本家:河相料兵衛好静(尾道泉屋葛西太郎右衛門二男、周兵衛好祖娘婿)
安那郡北山村庄屋 河相彦三郎 - 河相彦右衛門 - 河相陸次郎 - 河相熊次郎 - 河相辯蔵
深津郡市村組頭 小畠吉兵衛 - 小畠吉郎兵衛 - 小畠賢三
深津郡森脇村組頭 児玉藤一 - 岩松 深津郡深津村 石井家
石井家の元祖は深津村に移住して来た石井孫四郎盈之(享保3年(1718)没)
当時の深津村の庄屋は寛永19年(1642)藤井庄五郎、元禄12年(1699)藤井吉郎右衛門
宝暦3年(1753)福山藩2万人一揆、天明6年(1786)「10万石残らず騒動」天明一揆頃、
初めて石井家で深津村庄屋になったのは3代目の石井武右衛門盈比(寛政8年(1797)没)
盈比には子がなく、千田村河相包好の子を養子
河相傳四郎と石井武右衛門は同年代で、千田村と深津村で両者とも寛永頃からの格式のある旧家ではなく、
共に移住してきた高利貸しの新興大地主で境遇が類似
石井孫四郎盈之(元祖 享保3年(1718)) - 武右衛門盈重(明和6年(1769)) - 武右衛門盈比(寛政8年(1797)) - 武右衛門粛(文政2年、河相傳四郎包好の子) - 長次郎盈慎(嘉永1) - 武右衛門盈武(妻河相)
年貢未納の貧農潰れ百姓に高利で貸し付け、農地を取り上げて、大地主になり、儲けた資金で百姓救済の義倉は偽装ともいう 倉敷の新禄派 中島屋大橋家
宝永元年(1704)頃倉敷村に移住、正徳5年(1715)の倉敷村高持百姓宗門帳に大橋家の名はなく、まだ名もない移住者であった。
児島屋植田家は信濃国上田から移住、角屋内藤家も井原から倉敷に移住、大原家も元禄頃、児島郡灘崎村から倉敷に移住
元禄8年(1695)に、勘定奉行・荻原重秀が「質地取扱の覚」で、高利貸しが質に取った田畑を質流れとして取り上げることを容認して以来、
備後国、備中国に限らず、全国的に、元禄から享保にかけて、移住者や小百姓が質屋高利貸で貧農から農地を取り上げて、大地主になり、
藩への献金や百姓一揆の旧禄派庄屋焼き討ちと相まって、新禄派の庄屋が多数出現新興庄屋村役人の所有田畑数十町歩まで急増 赤の他人をエタヒニン呼ばわりする時点でこの庄屋基地外の底は知れた
先祖が泣いてるぞ 高利貸しが江戸中期以降庄屋になるのは、利にかなってるよ。
庄屋身分買うのにどんだけの金が必要だと思ってんだ?
高利貸しレベルじゃないと無理だわ
勝海舟だってたいして変わらない検校から後家人身分買って三代で直参旗本にまで上り詰めてる
皇后も大棚商家から庄屋身分買ってるし。 これはイギリスやフランスでも同じ。
特にフランスやイタリアは中世以降の新興貴族は商人貴族が貴族層の8割に達する
結果封建以来の在地地主貴族は没落していく。
それは経済の発達が関わるが、
日本では在地での極端な貨幣経済が発達してたのは西日本であり、東日本ではまれ。
逆に新潟や山形の一部地域で集積ごうのうが末期に増加したのは事実だが、
高利貸しが暗躍なんて東日本ではそんなの稀 976 もしもし、わたし名無しよ[sage] 2018/03/13(火) 18:50:23.10 ID:
ワシは最高480時間寝ずにドールと語り合った経験がある
事実だ
977 もしもし、わたし名無しよ[sage] 2018/03/13(火) 18:52:34.26 ID:
人はワシのことをドールの神
ドール神のコンサラポッタンと呼ぶ
詳しくはこの地球に来た理由から話さねばならんが
長くなるので割愛する
因みに、日本人の祖先は地球人ではない 府中市村の延藤吉兵衛、味噌屋の屋号を称す
http://www.geocities.jp/abe_han_karo/
延藤家の先祖は、芦田郡行縢村の潰れ百姓で、元禄年間の久兵衛(味噌屋吉兵衛の祖父)という。
久兵衛は行縢村の庄屋羽賀市郎右衛門の下男だった。
享保3年(1718)に久兵衛の子が死去した後、丸河南村から養子に迎えたものの、
すぐに離縁した新助なる男と久兵衛の娘との間に、享保15年(1730)頃生れた子が初代味噌屋吉兵衛である。
久兵衛の死後、久兵衛の妻と娘(吉兵衛の母)は、下女として芳賀家の分家の納屋で暮らしており、
父なし子の吉兵衛は奉公に出された。
それから、20年後の寛延3年(1750)、質屋高利貸の吉兵衛は府中市村の表通りに店を持ち、田畑を所有していた。
宝暦6年(1756)に「味噌屋」の屋号を名乗った吉兵衛は天明9年(1789)の「酉正月算用帳」によると、
「向蔵」に米穀・茣蓙・繰綿・煙草・干鰯、「せと蔵」に実綿・繰綿・米・実綿屑、「店」に米・木綿(反物)・苧縄などの在庫を持っていた。
吉兵衛はこれらの商品を扱う問屋と小売を兼ね、質屋(高利貸し)、地主、貸家経営も手がけ、
290貫目の資産を有し、享和年間には500貫目(金8000両)に増やした。
吉兵衛は享和3 年(1803)に槙助と改名し、息子に家督を譲り、二代目「吉兵衛」を襲名させ、文政3年(1820)に90歳で死去。
近世後期における貸付資本の存在形態 - 備後府中・延藤家の事例
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/25280/20141016151253328162/SigakuKenkyu_172_1.pdf
延藤家は領内でも有数の大地主である。
「延藤吉兵衛」 備後・府中町長、備後報徳社社長
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/nobutou-kichibee/nobutou-kichibee.htm
延藤吉兵衛(第7代)、本名は重醇(しげあつ)、幼名を岩松、中年には奨、春堂・酔堂を号した。
延藤家では、代々の当主が吉兵衛を名乗った。
備後府中財界の重鎮
延藤家は代々素封家として知られ、第2代の延藤吉兵衛の時には、福山藩主5代阿部正精から書を拝領しており、
第3代吉兵衛は、7代藩主阿部正弘より自作の詩と時服(季節の衣服)を賜っている。 寛永20年(1643)3月、田畑永代売買禁止令
一地一作人、小作禁止、村請制連帯責任はすでに崩れ、年貢を納められない貧農に高利で貸し付けた担保の土地を取り上げ、
高利貸は、藩への年貢に、自分の収入の米も上乗せして小作料を課し、零細百姓は困窮の一途
増加する小作人の生活苦から社会不安を招き、一揆の増加に至った
幕府は、こうした中間搾取者をなくし、直接農民から年貢取る体制を守るべく、田畑永代売買禁止令を出した。
しかし,、高利貸しの質流れで 実際上、江戸時代を通じて公然と 土地の売買が行われた
荻原重秀が農地の質担保を容認した元禄時代以後、永代売買禁止令違反の取締りを行うことはなかったが、
明治5年(1872)に廃止されるまで田畑売買禁止は名目上の効力を持っていた
この有名無実の法が、倉敷の新禄派と古禄派の対立のように、
法を無視して金にまかせて質で土地を取り上げる新興地主の勢力拡大と、法無視には慎重な旧豪農の衰退の原因になった。
さらに、旧豪農から庄屋職を奪い取るため、新興勢力が意図的に農民一揆を扇動し、
旧勢力の庄屋を打ち壊し、焼き討ちさせ、衰退させていった。
宝暦天明の大一揆のあと、急激に田畑を買い集めて台頭し、
藩庁に巨額献金を行い、一揆の調停を行うなどで豪農になった百姓が続出した
しかも高利貸しの中には、「義倉」を設立して貧しい農民の味方を偽装する者もいた。
これは、第二次大戦後の闇米・闇売買犯罪を平然と行う闇商人勢力の台頭・肥大化の図式と一致する。 また庄屋基地外が自演を始めたな。
こいつは気に入らない他人をエタヒニン呼ばわりするクズなのが露呈してるから、相手にしちゃいけないよ。 先祖探ししてるだけだったはずなのに、庄屋という単語が出た瞬間に妙な流れになったよな 庄屋をありがたがるとか、「武士出身」を誇りに思うとか、東日本だけじゃないの? >>606
してないが。
お前だろ俺をエタヒニン呼ばわりしてるのは 民主主義と村方騒動
http://eritokyo.jp/independent/sato-col0347.html
江戸前期から中期、村政運営は名主や庄屋に独占され、村役人以外の小前百姓らは、
彼らの恣意的な態度や不正に不満を募らせて年貢割当ての合議制など村政への参加や用水利用権などの公正さを求めて運動している。
中期以降になると、幕藩体制が長期化し、人口も増加、商品作物の生産が浸透すると、小前百姓も経済力をつけていく。
村内の力関係の変化は新旧勢力の対立を激化し、分村運動にも発展しかねない。
村方騒動により小前百姓の代表である百姓代が村役人に加えられる。
また、小作農層からの村役人のリコールの要求に対し、入札で新たな名主を選出する方法が関東以西では制度として定着する。 村落秩序の変貌
https://www.library.city.takatsuki.osaka.jp/pdf/02_01/04.pdf
富田村騒動(1725〜1726年)
「近年富田村庄や共奢甚しく、(惣百姓が)年々困窮に及ぶ」状況が前提となっているが、発端は10年の暮、
入箇銀の支払いを連絡してきた庄屋藤兵衛に、市郎右衛門(清水家)が合点がゆかぬので入箇帳をみせるよう、庄屋に要求したことにある。
庄屋は拒否し、領主(大坂城代戸田忠囿)に訴え出、両者の争いとして始まったが、
間もなく一般百姓からこれを機に庄屋替えを願い出ようとする動きが出てきた。
並行して11年3月、富田村本郷・出作・エタあわせて181人の連名で訴状を大坂に提出し、村入箇(用)の吟味と掛け銀の返済を願い出た。
領主はこれに対し、120人の出訴は徒党だとして代表者(高持五人)を処分した。
4月、出入りは慶端寺大拙の扱いのもとで調停され、庄屋2名の退役、取込銀の返済で一度は落着した。
ところが後任の庄屋役をめぐって争論は再燃し、再度大拙が調停に入り、権兵衛・七右衛門二株の庄屋支配が以後行われることとなった。
翌12年6月には庄屋権兵衛の側で、入札(投票)までして決められた庄屋・年寄であるから、以後跡役を家伝子譲りにはしないと誓約している。 現存する大庄屋・庄屋は重要文化財になる
国や県から援助金も出る 藩がこのような村方騒動の黒幕なケースがおおい。
旧在地支配者層の在地支配力を温存させた形での帰農だったため、江戸初期から一揆というなの反政府運動がかなりの数を数え、
さらには、天草の乱という、日本至上最大規模の内乱にまで発展した。
幕府は天草の乱以降庄屋対策を江戸中期から本格化させてる。
しかし、全国的には決して効をそうしたと言えるレベルの対策はこうぜず、
このような村方騒動を画策して強制排除という強行手段で旧封建庄屋の排除に乗り出してる。
これは明治政府も公式文書で残してる。
明治以降も村長や戸長に旧庄屋を抜擢しているが、
明治政府のトップダウン式の命令に従わないものがおおいどころか、
反政府運動を起こすものが旧庄屋の村長戸長に続発する事態となったため、
政府は旧庄屋の介入の対策にのりだしてるしな 庄屋はそれだけ
在地支配力と
在地権力と
在地利権を
一手に掌握できた唯一の藩と対峙できる支配者層だからな
まじ半端ないから そして、結局旧庄屋という在地支配者層はそのまま大正、昭和、平成と時代が移ろえど、
内閣総理大臣は現代でも旧庄屋だらけ
現政府では安部総理も麻生副総理も旧庄屋
もし、明治が内乱なら、間違いなく庄屋がたかが小藩程度、武力でぶっ潰してたろうな
蔵んなかに刀や槍なんてぶっ積んで置いてあるっちゅーねん
屋敷も小規模陣屋レベルだから、下等武士なんぞ鼻から相手にしてないしな、そんな得たいの知れない馬の骨なぞw 文明開化したのにまだちょんまげ結ってやがるって、田舎侍を取り押さえてちょんまげ切り落とした庄屋が
報復されて焼き討ちにあってたりもするし、ピンキリだよ 全国に庄屋なんか何軒あったんだよ
それを全部一律に語ってる時点で嘘臭いんだよな
自分に都合の良い庄屋だけを並べて印象操作してるだけだ >>618
武士の総数より庄屋の数のが少ないですが? >>620
武士とかどうでもいい
このスレ荒らしてんのは庄屋側だからな 父方の直系をさかのぼったら、明治19年式の高祖父戸主の除籍簿でストップ
高高祖父は前戸主としての名前だけで、生年も不明、父母欄もなく、高高祖母は名前すら不明
この調子でせめて高祖父母16人は全員調べたいと思ったのだけど、少し不明な点が
高祖母というのが、なぜか高祖父の戸籍に入った形跡がない、これはなぜでしょうか?
継ぐ明治31年式の曽祖父の戸籍で、初めて曽祖父の母欄に「亡 ○○」と名前だけが分かる状態です
こうなってしまうと、高祖母の旧姓や旧住所はわからないということでしょうか?
どういったことが考えられるか、知恵をください。 >>616 何を寝ぼけたことを言ってるんだ?
庄屋って農民だぞ。 士農工商も知らないのか?
もっとも庄屋は苗字帯刀を許されてたが。 >>623
580 名前:日本@名無史さん [sage] :2018/03/11(日) 00:26:08.93
467 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 01:34:06.39
一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ
468 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 08:37:00.70
大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし
―――――-
結局、大庄屋ってのはもともと武士だったんだな
なぜか家宝が農民が所持してるものとは思えない物ばかりだという理由が判明したようだな
584 名前:日本@名無史さん :2018/03/11(日) 13:04:46.33
>>580
大庄屋が農民出な訳がないだろうw
どんだけ情弱なんだよ
御先祖さまにちゃんと謝っとけよ >>624
武士の中の負け組が庄屋身分に転落したというのが正解
でも、これを書くと例の人が発狂する
武士の中の勝ち組は大名や旗本、悪くても藩士になってるからね 確かに余程のへたを打たない限り、武士から農民である庄屋にまで転落はしない。
先祖も無能という事。 古くは、流刑に処された平清盛の子供達が開祖みたいになってる土着化した家系とかだし
新しいのだと関ヶ原の負け組みの子孫達だな
実にわかりやすい負け組み集団だよ
負けたんだからごちゃごちゃ言わずに潔くしてなさい
かつての武士の誇りがあるなら尚更だ >>623
士農工商ってのは江戸時代の身分制度のことを明治の人が呼んでた否定語みたいなもんだよ
実態を指し示した言葉じゃないし同時代の呼び名でもない
それに朱子学からの転用語だしな
実態と無関係な言葉を論拠にしようとする時点で君の無知さが明確に示されている >>625
秀吉時代に武士は城下町に行け離農しろと命令が出て、武士と庄屋の兼業が禁止された
このときに土地を捨てられなかった人が庄屋になった
もちろん転落して庄屋になった人もいるし一族を分けて武士と庄屋に別れた人もいる、いろいろ。 >>625
江戸の武士は、そもそも元武士じゃない階層が大半なんだから武士の中の勝ち組とか表現がおかしい
大名家自体、徳川幕府は、大名家自体があまりに出自が酷いため、寛政諸家系図伝を作成して、出自の信憑性は一切問わないとする捏造家計図を強制提出させてる始末
普代審判や秀吉に連なる外様なんぞ大名家自体が馬の骨ぞろいで成り上がった出自不詳だらけの分際で、
非武士階層からの武士化が戦国後期期の最大の変革。
幕末、崩壊寸前の幕府が頼ったのが、
町火消しの任侠集団
浅草の弾左衛門
だったよな
弾は旗本に取り立てられ、
新門は娘を側室にしてもらえた
幕末ですら幕府はこのありさまで、
戦国後期は秀吉やその一党のような輩を大量に武士化させていった事実
庄屋のような歴然とした在地支配者層の地侍土豪衆と一緒にすんなや >>629
秀吉の時代の秀吉貴下の武士団自体がもはや武士出自じゃないから、
在地なんぞないから簡単に兵農分離ができた 秀吉時代の兵農分離も刀狩りもほんの一部の地域に過ぎない
関東では後北条が滅亡後、在地衆は徹底した兵農分離がなされず、行われたのは徳川が幕府を開いて元和演武の大号令とともに兵農分離が徹底されてる
刀狩りは江戸期に入ってすら関東では行われていない >>625
そもそも下級藩士みたいな奴隷ど貧困ど隷属ど底辺身分が憧れの職業なんて現代の価値観
戦国後期や江戸初期に、こんな惨めな職業区分に甘んじるのがあり得ないから、
滅亡守護大名地域の在地衆はこぞって庄屋になった。
庄屋のが遥か彼方に利権や権益が半端じゃないからな。
そもそも庄屋は、かりに藩士になる場合は上士扱いなんだが。
とはいえ、はした金給金のたかが平均30石レベルの貧乏職場に奴隷民として雇用されることに魅力感じる貧困層が江戸藩士の出自なのはよく分かるが。 庄屋って今で言うセレブより凄かったんだろうな
あの時代だもんな
けどそうなると悪いことはしてなくてもみんなからの
妬み、嫉み、僻みとかの念を被ってそうだな
大庄屋まで行くと完全に雲の上の人だろうから
オラが村の庄屋、ってのに念が行くわな
庄屋の家系が途絶えやすいのは、その念が影響してるのかもしれないね
オカルトとかじゃなくてさ
しかしその大庄屋って、どんな人がなれたのかな
苗字帯刀まで許されて場合によっては藩札の札元や
訴訟の調停までやってたんだよね
―――――-
大庄屋
おおじょうや
割元名主 (わりもとなぬし) ともいう。江戸時代の村役人の一つ。
数ヵ村から十数ヵ村を支配し,法令伝達,管内庄屋の取締り,
訴訟の調停などにあたった。
土豪の系譜をひくものも多く,苗字帯刀を許され,なかには諸士格として知行を給されている例もある。
―――――-
どんな人が大庄屋になれたのか知りたい 510 日本@名無史さん[] 2018/03/05(月) 22:01:12.96 ID:
>>499
それプラス、藩札の札元って記録もある
今で言うと銀行兼造幣局だよな
で、一番の疑問
土豪とかがなれると諸説あるけど
そもそも江戸時代前はどんな身分にあった人間?
戦国時代の大名の家臣系統か?
公家系統か?
もっと他の身分? ほら、案の定 庄屋基地外が発狂したじゃん。
負け組の子孫と認められないんだな。 ある大庄屋が藩札の札元だったって話は普通にググれば出てくるだろ
特例だとは思うけどさ
すべての大庄屋に当てはまる話じゃないな >>631
秀吉の支配下の大名領にまで広範囲に適用されたから、出自の怪しい秀吉直臣だけの話じゃない
つか、秀吉直臣は所領の村に住み続けてるようなのはもともといないじゃん
そいつらの話じゃないんだよ、直臣とかの領有する領地に住んでた在地武士らのこと それに、
仮に兵農分離を分析した場合、
戦国後期ですら、帰農するものが多い背景には
兵たる傭兵程度の下級武士がステイタスに値しているものでは一切なく、
在地支配者層では帰農するメリットのが遥かに大きいから故に他ならない
いわんや、秀吉は、兵農分離がもたらすものは、当時身分間分離という意味合いを一切含んでいなかったことが明白
ということは、当時、たかが傭兵武士は現代での価値観のようなかっこよさ極まる身分上位の憧れの職業という価値観なんてないということを知らなければならない 藩邸レベル庄屋屋敷
https://imachika.com/item/5a27e39e23679c1f340c39a5/
なんでこげな屋敷に住める財力と利権許される庄屋捨てても、
平均20石レベルの糞貧困奴隷職にすがらなあかんねんw
何が負け組なんかまじ分からないわ
俺たちが真の勝ち組で真の旧在地支配者層だから。 まじ、旗本程度ならタイマンで武力でぶっ潰し足るわw 入札で庄屋を決めてた地域もあるし帰農武士に出自を持たない新興の庄屋も多い 勝ち組はそれこそ征夷大将軍とかだぞ
末端の底辺武士ばっか見てないで、先祖を打ち負かした大物に噛み付いてみろ >>648
だから、それは江戸中期以降の社会情勢に伴う変化だろ
江戸初期から層だったわけでは一切ない。
勝ち組が将軍様だけなら俺の勘違いだった。
完敗だ
確かに出自不詳の雑多階層出自の貧困奴隷身分の傭兵弾除け軽輩下等藩士ごとき最底辺の雑魚を相手にするのは惨めすぎる
まあ、庄屋は支配者中間層の旗本レベルならすべての面で対等に渡り合えるレベルやわなまじ >>622
高祖母というのが、なぜか高祖父の戸籍に入った形跡がない、これはなぜでしょうか?
●明治19年戸籍が作成された時点ですでに亡くなっていたのではないでしょうか?
継ぐ明治31年式の曽祖父の戸籍で、初めて曽祖父の母欄に「亡 ○○」と名前だけが分かる状態です
●曾祖父が戸主になった時に新しく明治31年戸籍を作成しますが、その時に高祖母の名前を追記
したのではないでしょうか?
こうなってしまうと、高祖母の旧姓や旧住所はわからないということでしょうか?
●かなり難しいでしょうね、 >>617
>>明開化したのにまだちょんまげ結ってやがるって、田舎侍を取り押さえてちょんまげ切り落とした庄屋が
報復されて焼き討ちにあってたりもするし、ピンキリだよ
よく考えよ
明治になっても、職にもありつけない雑魚が、ちょんまげにアイデンティティを見いだし、
國が禁止令をだして、在地支配者たる旧庄屋に村長職としてちょんまげ底辺馬鹿に國の大義名分執行してやって、
執行してやった時には何もできない軽輩が、
その後焼き討ちや夜陰に紛れて庄屋宅に報復したわけだ。
だから出じ不詳たる由縁の糞ぶりなんだろ(笑)
バックの成り上がり大名家がなけりゃなんにもできない糞職業がw 旗本と対等とか言ってるが、旗本にケンカ売るって事は幕府にケンカ売るって事で
有り得ないんだよね
旗本だけ切り離して都合の良い条件を整えるなど腐心してる時点で対等じゃないっていうね 下級藩士に対してもそうだぞ
藩主を侮辱した事になるからな >>653
んなもん、ネズミ小僧のこそ泥でも藩邸新入し放題なのに、
夜陰に紛れて赤穂浪士ごときさすが秀吉の親族大名家中らしい寝込み襲われたらどうしようもないだろ
>>654
だからよ、バックに自分の保証団体がなきゃなんにもできない江戸の雑魚成り上がりが、武士道なんて、明治の老いぼれが嘘八百の幻想をかきつらねなきゃならないレベルの存在しなき武士道なんてもんちらつかせたアイデンティティだすなってことよ
金魚の糞ごときでw
ましてや明治の時代に。
やってることが賊なんだよ出自通り 零細中小の社長 vs 大財閥の社員
の争いと似てて笑える おまえら調子こいて他人の個人情報を晒しまくってんじゃねえぞ!
アホ! 武士も将軍から足軽小者まで、農民も大庄屋から小作までと
さすがに武士も農民も範囲が広すぎるよね >>651
ありがとうございます 納得できました
役所もこれより古いのはないとのこと(あっても壬申ということでしょうが)
庄屋か武家の祖先持つ人達が口論してるようですが、
熱くなれて羨ましい限りです
うちなんか手懸かりは除籍しか無く、早逝も多く、よくて農家か元被差別部落民で、
代々土地も財産も言い伝えもない家系です
激動の時代を苦労したんだろうなぁとしみじみ思うばかりですが
それでも、ロマンを抱いてしまうわけですね
あとは郷土史を見て、思いを馳せるくらいのものです よく家系調査の会社ってあるじゃん。
依頼受けた調査で、そのクライアントの先祖が被差別部落だったとか判明したらどうするんだろ?
ちゃんとそれ伝えるのかな。それとも何もわかりませんでしたってお茶を濁すのかな。
先祖調査を専門家に依頼しようなんて人はある程度自分の家系に自負のある人でしょ。
少なくとも部落ってわかってて依頼する人なんていない思うし。
例えばあなたの先祖は一揆を起こして、とか、直訴して、とかで打ち首なりました、ならまだ
「時代的には犯罪者になりますが、皆のために立派な事をしたご先祖ですよ」って言えるけど。 >>661
ほとんどが行政書士が副業みたいな感じでやってるやつだな
基本的に戸籍を追うだけだから、そんな詳細までわからんよ
家系図を作成するってだけ
しかも江戸時代まで辿りつかないケースがほとんどじゃないかな
被差別部落だったかは、壬申戸籍の壁がね
あと、それなりに社会的地位のある職に就いてる人に葉書を送りつける系の会社は
葉書の返信があった人に3万円の振込みを要請し、確認次第、
その人と同じ名字というだけの武士のリストを送りつける(被害者の旧帝工学部教授談)
被害側はいい勉強代だと笑ってしまう余裕があるから事件化しにくい
結局、自分で調査するしかない おいおい 皆いじめすぎだろ
庄屋基地外がまた発狂じゃん
庄屋なんて所詮は武士より下の身分であり、大した事ないのは皆が知ってる事実
だが、彼だけはそれが受け入れられないんだよ
自分の先祖は特別だと思いたいんだ
そんな彼を生暖かく見守ってあげようよ(笑) >>645
>>秀吉に攻められ落城した英賀城(姫路市飾磨区英賀)の城主三木氏の弟が帰農し江戸時代初期に庄屋として建てた大屋敷です。
やはり江戸初期の庄屋は城主クラスが結構多いんだな >>661
一揆首謀者として処刑されたのを犯罪者呼ばわりするとか、害児かよ 庄屋の中には没落した元武士(いわゆる負け組)もいるってだけの話だぞ。少数派。
皆が皆、元武士ではないしな。
それに庄屋自体たいした存在ではない。
基本は農民のまとめ役程度に過ぎない。
中には成り上がって大地主のような存在になったのもいるが、例外であり少数だ。
庄屋なんて自慢するようなもんじゃないから(笑) >>665
幕府や藩からしたら立派な犯罪者だろ。
罪を犯したから処刑されてるんだぞ。
どこまで基地外なんだよ。 >>664
英賀城を支配していた三木氏は小勢力で、戦の兵力200とかのザコだぞ。
英賀城自体は播磨の三大城なんて言われてるが過大評価。
過大評価の元は播磨の本願寺が英賀にあったからなんだけどな。
寺の勢力とごっちゃにされて過大評価につながってるのよ。
小寺氏の家臣だった黒田氏(官兵衛)でも兵力500とかあるのに三木氏はザコ。 名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし
http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/03/post_650.html
著者:成松佐恵子、出版社:雄山閣
福島県にあった二本松藩。
そこで長く名主だった安斎家に残されていた人別帳をもとにして、江戸時代の中後期の農村の実情を探った本です。
名主(なぬし)は、必ずしも世襲ではなく、一般の百姓からの新規取立も3割をこえていた。
不正があればもちろんのこと、状況に的確に対応できない名主も罷免されることがあった。
書籍「奥州二本松藩年表」を読む
http://iwasironokuni.cocolog-nifty.com/komiti/2007/08/post_78c2.html
それらを統治する代官、名主、の移動が非常に多いことにびっくりした。
今の転勤族の比ではないくらい頻繁に代わっているのである。
それに、「・・村名主、強欲非道につき罷免」、「・・村名主、鞭打ち30回後追放」
という記述が少なくないところを見るとその名主職も厳しく管理監視されていたようである。 庄屋は大名レベルではありません。
妄想垂れ流すのも程々に。 麻生庄屋様みたいな、あんなイカツく貫禄ある方が庄屋様だったんでしょうね!
ここにいるアンチ庄屋の御仁が麻生庄屋様に会いにいっても、
半径300メートルすら近づけないような方々がアンチしてるんでしょうが、、 曾祖父の太吉が炭鉱業を始めて財を成し「麻生」姓を名乗ることを許されたが
奇しくも?菩提寺の川島正恩寺が火災にて消失し、
過去帳なども灰になったため太吉の父以前の記録が残っていない
石炭掘りは当時から、決して社会的に尊敬される職業ではなく
政略結婚にて名家と繋がってきた
本拠地の筑豊を見ても決して上品な家風ではないと推察できるし
むしろ成り上がりの業の深い家系だと思われる ちょっと前まで旗本と対等とか言ってたのに、大名レベルにまで妄想が肥大してるんだけど大丈夫か?
ちゃんと今日のお薬飲んだ? 大名レベルと言えるのは大庄屋だけだろ
あれはさすがに、規模的に見ても大名クラス(小大名)だと思う。まあ、そういうのは例外だよな 大庄屋とかの話も面白いけど、別件で質問です
地元の図書館とか地元の大学図書館に江戸時代の文献があるのですが
その文献に、公家の◯◯殿、とあります
これはその◯◯家は公家だったということなのでしょうか?
通常、◯◯家 公家 で検索しても出て来ませんし
公家に関する文献にもその◯◯家は、今のところ確認できません
いわゆる歴史書などに載る公家の苗字は
何らかの歴史に関わった者だけで
公家ではあったが場末で歴史にも関わらなかった場合
記録として残らない公家苗字とかも存在するのでしょうか? 大庄屋とかの話も面白いけど、別件で質問です
地元の図書館とか地元の大学図書館に江戸時代の文献があるのですが
その文献に、公家の◯◯殿、とあります
これはその◯◯家は公家だったということなのでしょうか?
通常、◯◯家 公家 で検索しても出て来ませんし
公家に関する文献にもその◯◯家は、今のところ確認できません
いわゆる歴史書などに載る公家の苗字は
何らかの歴史に関わった者だけで
公家ではあったが場末で歴史にも関わらなかった場合
記録として残らない公家苗字とかも存在するのでしょうか? 5000石の旧大名家庄屋
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
>>子孫は5000石相当の大庄屋
>>加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴してい 一万石の庄屋も普通に存在している地域もある
鳥取藩
http://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/3syo/02011000.htm
鳥取藩の在方支配は
大庄屋、中庄屋、1000石庄屋にわかれ、
大庄屋は一万石の高に対し配された庄屋
中庄屋は5000石の高に対し配された庄屋
1000石庄屋は1000石の高に対し配された庄屋
>>
(1) 大庄屋は1郡1名とし、宗旨庄屋の役務を兼務する。
>>
(2) 家数500戸、高5000石につき1名の割で中庄屋を置き、大庄屋の補佐役とする。
(3) 家数100戸、高1000石につき1名の割で庄屋を置き、従来の1村1名の庄屋は廃止する。
(4) 5人組の頭として新たに小頭を置き、組頭は5人組数組を統括する役とする。
(3)は千石庄屋といわれる >>676
公家の名前で○○殿ってのは、家名じゃなく個人名の場合も多かった気がするね
うちの隣の寺で「九条殿〜〜」とかいう来歴?かなんかがあるけど、あれも個人名だね。摂関家の九条家とは関係ない。
○○家ではなく○○殿と書いてあるんだから○○殿で調べてみては。 大名は数十万石や百万石級がいるし、やっぱり武士すごいよな
庄屋は所詮は農民 大半の大名は5万石未満、最多が3万石未満
いくら規模が大きい大庄屋と言っても5万石以上相当のとかいないんじゃね? >>668
いやいやいやいや(笑)
雑魚としても、あくまで統治者レベルでの話だろ(笑)
で、仮に雑魚としても、三木家クラスが庄屋としての処遇に甘んじられても、下級武士みたいな奴隷身分にまで減り下される例は無いから(笑) 大名の動員兵力の目安が万石あたり250人前後と言われてるから(200〜300って意味なのかな?)
兵力200なら1万石足らずって感じか、500なら2万石前後だよな
いずれも、国力ではすでに小大名クラスだよ >>686
それ明治時代に関ヶ原の動員から推測した数値な
庄屋は関ヶ原に参戦したんか? 庄屋は庄屋。
大名クラスでもなければ旗本クラスでもない。
1万石相当の地域を見る農家の親玉だとしても、それは大名の手下として管轄してるだけで自力で支配している訳ではない。
どうもその辺を勘違いしてる馬鹿がいる。 中立な立場で言うけど、一万石の大名と一万石の庄屋なら手取り高は圧倒的に庄屋のが多い。大名の手取り高なんて知行高の十分の一もないかもな。かたや庄屋は一家のみで独占だから一万石の庄屋は5から10万石の大名の手取り高に近いはず 一万石の大名の領地に居た庄屋は絶対に一万石にならないわけで
無意味な比較なんだよね。 ただ、知行高が低い小藩には、御用庄屋と言われるような独占権持つ藩との癒着性が強い庄屋が増えるのも事実
小藩では御用商家や庄屋が歳入や借財の面で藩の財政を牛耳ってしまってる、藩は過度の肩入れからこのような依存性が生じ、表高では見えない経済的循環が存在するわけで 馬鹿がいるな。
大名は実行支配してる。
庄屋は実行支配する力はない。
力は武士階級が持ってるんだよ。
どうもその辺を理解せずに議論してる。
庄屋では武士の相手にならない。
史実の江戸時代を見れば解る。
庄屋が蜂起して武士を駆逐した例は無い。
庄屋が農民を焚き付けて一揆を起こしても弾圧され、処刑されておしまい。 おーおー、相変わらず庄屋コンプの低脳が寝言語ってるのか(笑)
>>693
いやいやいやいや、諸大名に固有の実効支配権なんかないが?
一部外様や審判以外、特に審判普代は知行は将軍家、いや幕府が根拠主体なわけで、
一介の大名程度に 特定地域の固有の支配権なんて存在しない。
おまへが言っとる馬鹿理論は、庄屋の一側面からみた実効支配権がないという評価は、全く比例して大名にも専属的実効支配権なんてない。 >>693
それから、庄屋が武士を駆逐した例がないから庄屋は雑魚という低脳理論
そもそも戦国期が終わって江戸期の一揆は、藩を排除目的のものでは一切なく、権利関係の履行に関する直訴なわけで、
一揆の目的が違うのに武士の排除なんてあるわけない。
職業的すみ訳が完了しているなかで、藩の排除なんて必要ない。
それに、戦国までなら、紀伊山中やら宗教勢力やら、江戸期以上の数の傭兵武士軍団相手が何度も排除されてるんだが、目的は排除が目的だからきちんと排除できてんだろ。
だからおまへは馬鹿に開いた口が塞がらないと評価されるんだよ(笑) やっぱこういうのに異常に食いついてくる奴は穢多非人の子孫なんだろうな 今現在も進行形で苦しんでる可能性があるから仕方ないんだろうけどさ 論破されたらエタヒニン呼ばわり(笑)
さすが奴隷で260年も虐げられてた遺伝子は違うな(笑)
永遠に卒にでもアイデンティティ見いたして生きろよ(笑) 被差別部落にも庄屋あったし、どの筋の庄屋の子孫なのかは興味あるね
言動からして育ち悪そうなのはわかる 昔、同和問題の集会で
我家は苗字帯刀が許されていた!
というプラカードを持ってた人がいたな
マジかよ、とか思ったけどw
冷静に考えて、そんなことあるのか? >>702
なんでそんな集会に居たの?w
すげ〜露骨な自己紹介だな!
清々しい 苗字だけなら同和の庄屋ももらってるだろうが
帯刀までとなると刀を使って何かする忌避職だな
帯刀できないと不便だからな
と考えるとそれっぽい家がある
代々、首切り処刑人をやってた山田家とかね
浪人だったとか言われてるが、その筋っぽい気もする 悔しいなあ(笑)
悔しいよなあ(笑)
涙拭いたらええやん(笑) 庄屋基地外がまた逆ギレか。
すぐにエタヒニン呼ばわりする差別主義者のクズだからね こいつは。
庄屋なんてたいしたことない先祖を自慢してる時点で駄目。
武士に虐げられてきたから、変なコンプレックスだけは持ってるんだな。 江戸時代の話してるのに戦国時代の話を持ち出して、論破したつもり(笑)
完全にマジ基地ですね(笑) >>707
アホか?
大庄屋・庄屋になぜなれたのかを暴くには
その前の時代の検証が必要だろ
江戸時代になって突然、なれたとでも思ってるのか?
特に大庄屋
あんなもん突然任される身分じゃないだろ
その前の時代検証が必要なのは明白だ
おまえの発言は自分の低脳ぶりを自ら露呈させてるに過ぎない
愚か者が! 愚か者はお前(笑)
大庄屋?
笑わせるな 農民だっつーの。
負け組武士も一部だけ。
何度書けば理解するんだ低脳。 そもそも差別主義者のクズのくせに庄屋を馬鹿にされたら切れまくりのダブスタ。
僕の先祖は特別なんだ、旗本や大名クラスだ、馬鹿にするな ってか(笑) >>710
読解力皆無の低脳は文脈すら読み取れないのか、、
明らかに庄屋で論破されたらアンチ庄屋が庄屋を被差別扱いしてんだが
どんだけ知能が遅れてんだよ 鹿野小四郎(1655〜1710)
https://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E9%87%8E%E5%B0%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E-1066912
江戸前期の篤農家、村役人。
加賀国江沼郡吉崎村(加賀市)の貧農の家に生まれ、船乗りとしても働いていたが、
のち大聖寺藩より十村役(大庄屋)に取り立てられ、職務に多忙の日々を送った。
晩年、子へ伝えるため『農事遺書』全5巻(1709年成立)を著した。
農業の実際に詳しく、また貧農の出でありながら十村役に取り立てられたという経歴や『農事遺書』の内容などから、
きわめて有能緻密な人物だったと考えられる。
「光る人。鹿野小四郎」
http://blog.livedoor.jp/dkastaff/archives/29919998.html
▼鹿野家は、その後11代まで十村役を務め、子孫らは平床の開墾、那谷山麓の杉苗植付け、
砂丘の植林と田畑化、紙屋谷用水の開墾などに尽力したという家系であった。 この基地外は都合が悪いレスされるとすぐに
穢多非人ガー
穢多非人ガー
穢多非人ガー
と喚きだす
本当に劣悪な人格だ 人様に穢多非人と言えるほどお前は偉いのか 百姓の子孫のくせに
庄屋だっけ?先祖が泣いてるぞ >>717
論破されたら勝手にレッテル張り工作
よほど悔しいんだな
百姓の子孫て、
貴族や國人層以外に百姓出身じゃない武士なんていんのか?
あっ、確かに、江戸期の武士は、その百姓ですらない土地すら持てなかった階層だったからそう言いたいのか?(笑)
見事に江戸期の武士の大半は在地がない階層だもんな(笑)
土地を大量に保有した在地権力を多分に有した武力をも持つ百姓ですんまそん(笑) >>716
何が言いたいの?(笑)
庄屋に取り立てられた品脳一件ようやくみちけてきて、
あたかも庄屋なんてこんなもんとふちょうしたいの?(笑)
なら旧武家の庄屋をこのスレがなくなるまで永遠に次から次へと張ってやろうか?(笑)
お前も江戸期の武士のように出自不詳の庄屋ガンガンはってけよ、有るなら(笑) 名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし
http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/03/post_650.html
著者:成松佐恵子、出版社:雄山閣
福島県にあった二本松藩。
そこで長く名主だった安斎家に残されていた人別帳をもとにして、江戸時代の中後期の農村の実情を探った本です。
名主(なぬし)は、必ずしも世襲ではなく、一般の百姓からの新規取立も3割をこえていた。
不正があればもちろんのこと、状況に的確に対応できない名主も罷免されることがあった。 書籍「奥州二本松藩年表」を読む
http://iwasironokuni.cocolog-nifty.com/komiti/2007/08/post_78c2.html
それらを統治する代官、名主、の移動が非常に多いことにびっくりした。
今の転勤族の比ではないくらい頻繁に代わっているのである。
それに、「・・村名主、強欲非道につき罷免」、「・・村名主、鞭打ち30回後追放」
という記述が少なくないところを見るとその名主職も厳しく管理監視されていたようである。 強い(強権的な)統治の風習でもあって村民の反発、恨みを買うことが多かったんで叛乱多発だったってだけじゃないの
で頃されまくって古くからの名主が減ったから村民から選ばれるようになっていったんだろ、特殊事例じゃん 民主主義と村方騒動
http://eritokyo.jp/independent/sato-col0347.html
小作農層からの村役人のリコールの要求に対し、入札で新たな名主を選出する方法が関東以西では制度として定着する。 >>726
少しでも良く見せようと必死に背伸びして補正かけてるだけ 自分を大きく見せようだなんて庄屋以外もやってるんだから安心しろ
別に恥じる事でもないよ
見抜かれてるのにしつこくやるといけないけど 庄屋馬鹿の主張は嘘だらけ。
妄想のたぐい。
この馬鹿の言ってる事が史実だとしたら、日本史が覆る。
でも学会等でそんな事にはなってない。
つまり、?八百って事。
都合が悪くなると穢多非人連呼する時点で、器の小さい歪んだ人間だと解る。 庄屋なめんな(笑)
これ 迷ゼリフだわ
お前こそ日本史なめんなと言いたいね
江戸時代には、お前の言ってるような事は無いから
庄屋は大名クラス(キリッ) だって・・・・・笑わせるなよ 先祖が庄屋程度で良く自慢出来るね。
俺なら恥ずかしくて言えないよ。 大庄屋より大商家の方がすごかったんじゃないか?
年貢納めるわけでなし おまえらガキに何が分かる
チンチンの皮がズル剥けになってから出直してこい糞ガキの馬鹿者どもが! >>732
庄屋に千石レベルの管轄の管理権もつのがごろごろいて、
3000石や5000石レベルの庄屋もいて、
多くは旧在地封建領主層がなってる場合が多く、
武家では旗本クラスにしか許されてないような長屋門が許されてる庄屋が多数あり、
屋敷たけで1000坪以上は当たり前の壮大な屋敷にすみ、
苗字帯刀も多く、
戒名は、藩執政クラスにしか許されてないような院号居士が庄屋は許され、
、、、、
と言うことに、何が学会が否定してんだ?
上記のようなそんなことは無かったという事実がどこにあんのや?
卒が(笑) >>734
旧在地封建領主層が新興成り上がり勢力に存亡をにぎられても、
庄屋を選択するばっても、
卒や下士ごときワープア貧困奴隷民に成り下がった事例なんてないから(笑)まじ ★★戦国時代の幸手城主 名門武蔵一色氏
兄弟で、旗本、名主、 に分かれる
兄→旗本5000石
弟→当地に庄屋として帰農
>>幸手城主の一色直朝には、小田原北条氏に属したため領地を失ったが、徳川家康はあらためてその子義直に幸手領5000余石を与えた。
>>その弟政義はこの時渡辺を称し上川崎に土着した。この時に築かれたのが渡辺氏屋敷である。
>>江戸期に入ると、渡辺家はこの地方の名主として栄えた
こんな事例は後北条家滅亡後の関東では城主格くらすがこぞって帰農させられ、大庄屋や本陣庄屋になっとるから、
ガンガンだしたんぞ(笑)
卒が(笑) 因みに、武蔵一色家は、高家であり、
江戸初期は筆頭吉良家以上の待遇。
高家クラスのさらに筆頭クラスの
武家の最高峰のクラスでも
庄屋な(笑)
卒が(笑) いくらでも出てくるが、
現存屋敷付の旧在地封建領主庄屋だしますよ
武田家より在郷領主として穂高地方の領主だった帰農庄屋
http://www.nagano-tabi.net/modules/enjoy/enjoy_89028001.html
長屋門自体が中規模藩の藩邸レベルだから(笑) 徳川家ともコネクションあった戦国以前からの庄屋
http://kamogarden.web.fc2.com/kamoso.htm
>>加茂家は桃山時代からの庄屋であり、天正十七年に当時浜松城主であった徳川家康よりの書状をはじめ、江戸時代を通ずる古文書多数を蔵し、
>>一部は文部省資料館に保存され、近世史家の間に加茂家文書として知られています。
敷地5000坪に、庭には500坪以上の池も有する >>735
村の庄屋だけじゃなく町庄屋ってのもいる。基本的に大商人だな
この手の主要な商人は身分的に一般農民より上(農村の庄屋とは同格)として扱われていた。 壕が巡らせてある帰農庄屋屋敷
http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/hasegawake.html
江戸初期から続く藩邸レベルの本陣庄屋 江戸初期から続く藩邸レベルの帰農本陣庄屋
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/babayasiki.htm なんで上級武士ですら許されてままならないレベルのあらゆる権利や利権が、
お前らが馬鹿にするその庄屋に持たされてるのか。
お前らみたいな低学歴には絶対分からないだろうな
そこに歴史の真実が存在する。
馬鹿だから論文すら書いたことないだろし(笑) 後北条家 最上位の武将に位置する評上衆のその中の筆頭にして
伊豆下田城主 清水秀康
後北条家滅亡後は小田原宿本陣庄屋に
>>本陣となり幕末に至るまで名主や年寄などを務め、明治に入ってからは沼津郵便電信局を営んだ。
本陣屋敷
https://sagami.in/reki/obarajyuku 735 優しい名無しさん[sage] 2018/03/21(水) 11:58:50.75 ID:jbugsewB
この季節は一番効くな
毎日全裸で白眼剥いて奇声を上げながら町内を走り回ってるわ
警察ももう呆れて来なくなったし
町内では毎年の風物詩と化してるわ
さて、またいまから走ってくるわ 241 名前:本当にあった怖い名無し :2018/03/21(水) 12:12:37.02 ID:tAyAvKji0
これ↓気になるね。
チャンネルくらら
https://youtu.be/N3kLPCSWhmQ
25分以降に注目。
・森友問題が(本当に)まさかの展開になる。衝撃の一打があの方から
・衝撃は最速で明後日(文春や新潮の早刷りとか全く関係なし)。遅くて3月25日。
・“NIの会でなくOIの会です”との事。やっとわかってくれた。安倍辞めろデモはもうやらない方がいい。
・一年前に業者の方がお亡くなりになった時、先日の近畿財務局の方の時、私が誰よりも早く報告した。その私が言っているのだから間違いはない。野党も市民運動家も間違えるな。 安倍首相も昭恵夫人も“全く”悪い事はしていない。 デモなどやめた方がいい。 51 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2018/03/21(水) 23:44:36.20 ID:Z14T9h7h
我は >>1 なり
文在寅は近く暗殺される
米朝会談は行われるが決別
即、米朝戦争へと
日本は巻き込まれるが全滅はしない
韓国はほぼ全滅
以上
本物の預言者が本物の予言を語る ※質問には答えん
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/cafe50/1516800357/ また庄屋基地外が発狂したな(笑)
庄屋なんて大したことが無いというのが認められないんだね
実際、大した事ないよ
コピペをまた貼り付けてご満悦だが、どれも中身は大したことが無い話ばかり
庄屋は大名、旗本クラスなんてどの教科書にも書いてないぞ(笑)
お前の妄想じゃんか 南北統一したら朝鮮の属国になろうじゃないか!
その方が楽だ! >>688上杉忠勝征伐や大坂冬夏の陣までは庄屋層は騎乗で参戦してる。
元和偃武以後兵農分離政策で郷士に位置付けられ、その後色々あって(移封等で領主が頻繁に
変わる)庄屋(農民)へという感じ。 いつもそうだけど、自称庄屋は自分のちっぽけなプライドが大事で発狂するな
結局言い負かされたくないだけ
もはやこのスレにとって迷惑になってるって気づけよ基地外 >>764
庄屋も大名の配下として参戦だろう?
領主が西軍だけど、うちは東軍とか庄屋はそこまで独立してない
参戦だけなら臨時で掻き集められた山賊とか居そうだよな >>767
庄屋=農民
戦国時代は農民の戦参加は当たり前
庄屋だからどうこうではない 庄屋は一応足軽引き連れて騎馬だから唯の農民とも言い切れないだろう
その辺は周辺論でいろいろ議論があるが・・・・まあ、薩摩の郷士対城下士
みたく次第に農村居住が疎まれていくんだろうけど 580 日本@名無史さん[sage] 2018/03/11(日) 00:26:08.93 ID:
467 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 01:34:06.39
一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ
468 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 08:37:00.70
大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし
―――――-
結局、大庄屋ってのはもともと武士だったんだな
なぜか家宝が農民が所持してるものとは思えない物ばかりだという理由が判明したようだな またコピペか。
元大名なんてほぼいないし、極少数の負け組の没落者が庄屋になっただけ。
往時の勢力そのままに庄屋になった訳じゃない。
元武士じゃないのもいるし、元武士でも勢力小さいのが更に落ちぶれてパターン。 681 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2018/01/29(月) 00:58:37.23 ID:aITPY702
>>670
自慢話かよキチガイ!
死ねや!
ワシの現実
年収30万円弱
300万じゃねえぞ、30万弱だ
で、借金7500万円強
750万じゃねえぞ、7500万円だ!
これが本物の借金地獄ってやつだ
キチガイが!
でもな、ワシには夢がある
豪華クルーザーを買うことだ!
叶うよな!
応援してくれるよな! >>771江戸初中期で元武士じゃない庄屋っているの?西国の商業が発達した地域ぐらいじゃないの?
以前別スレで初中期の新田開発庄屋が話題になったことがあったけど金と人員を動員できる力が(まあ、近隣の農民の力は借りる前提でも)無いと新田開発など出来ないと 庄屋の名称が地域によって違う(名主--なぬし--とか)事例の1つが郷士ってだけだよな? 郷士は農村で居住する武士や苗字帯刀を許された農民を総称する言葉だったはずだけど
最近の学会?wiki?では若干の武士的特権を有しているもので、名誉的な苗字帯刀の農民は
除くらしい
九州のように兵農分離が進まなかった地域の地侍の末裔が郷士で兵農分離が進んだ地域の
地侍の末裔が庄屋・名主だけど、当然前者は武士で後者は農民だから違うって言ったら違う
また、先祖が武士で苗字帯刀を許された庄屋等も郷士と自称したらしい 自称だけではないか・・・天領等で文書(何の文書かは不明だが)に郷士等記載があるらしい、
天領・幕領には郷士はいないのに。 そもそも大庄屋や庄屋といってもかなり開きがある
当時のことだ、当然現代のように確立されたものじゃないし、基準も曖昧だ
特に所謂、普通の庄屋
これはもう地域ごとにまったく様相が違ってたかもしれんよ
大庄屋も地域ごとに名称が違うが、庄屋、村を束ねてて
農民とはかけ離れた存在だったんだろうね
それは間違いないと思われるが出自となると
農民、武士、戦国時代の大名の家臣、下層公家など、といろいろだったんだと思われる 徳川政権下で地侍の名誉回復が庄屋なわけで初期庄屋は地侍以外はいないでしょ。 江戸が長すぎて初期、中期、後期では庄屋のあり方も変わったんだろうね
しかし、大庄屋に関してはそんなに変化したとは思えないな 大庄屋や在地代官みたいのはだいたい1700年代前ぐらいで廃止になってる。
この年代辺りで兵農分離ができたと。もはや徳川政権も盤石で懐柔策の
必要がなくなってきたのだろう。
江戸初期の庄屋は島原の乱に見てとれるような、武力持ち合わせてるからな。
必然と封建的旧武士階層しかいない。 https://blogs.yahoo.co.jp/zengoodhistory/41631064.html
この1600石を誇る庄屋
屋敷に槍やら刀やら鉄砲やらごろごろ置いてあるが、
関東の庄屋なんて、鉄砲以外の槍やら刀なんか屋敷にごろごろおいてあんぞまじ。
まじ、中規模旗本以下なら潰せるわ。 580 日本@名無史さん[sage] 2018/03/11(日) 00:26:08.93 ID:
467 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 01:34:06.39
一般の庄屋だって戦国時代まで領主階級だった元武士の家が普通ですからね
太閤検地を含む秀吉時代の政策で武士ではなく農民と変更された感じ。
ましてや、複数の庄屋たちを束ねる大庄屋なら、
戦国時代までは凡百の武士よりも高い地位だったはずですよ
468 名前:日本@名無史さん :2018/03/04(日) 08:37:00.70
大庄屋クラスだと、戦国大名だったクラスも結構いるくらいだからな
真田幸村の娘も大庄屋に嫁にやってるくらい、戦国時代から財力や在地権力は相当なもの
逆に江戸中期以降かなりの弱体化させられてもこのレベルだし
―――――-
結局、大庄屋ってのはもともと武士だったんだな
なぜかうちの家宝に農民が所持してるものとは思えない物ばかりが残されていた理由が、やっと判明したようだ 700 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/03/24(土) 04:40:52.88 ID:ZRtSDkhX0
いいか諸君!
これくらいの大オナラをしても、実も出さず屁力で飛ぶ事もない
これぞ本物のオナラマンと断言する
君たちもうんちを漏らさず、このくらいの大屁を大放出してみなさい
素晴らしいオナラマンに、乾杯!
https://i.imgur.com/iOXqZfG.jpg また基地外がコピペ祭りしてるな。
庄屋なんて武士以下だし、武士の相手にならない。
その事実を認められない基地外が一匹いるだけ。 維新後の屯田兵の主力のと、地域の名望家として戸長や区長になる主力と、全て格が相手にならないわ
幕府や大名家という核の傘がない単体なら貧農以下の分際で(笑)
奴隷民が(笑) さっそく差別主義者が出てきてるな。
そんな事では自慢の先祖(農民)が泣くぞwww >>786
おまえみたいな情弱にはただ呆れるのみ
多分知ってて煽ってるんだろうな
なんでか?
自分の出自が穢多非人だからだろ
わかりやすいwwww 少しググれば真実が出まくる事実を認めない
または、煽る奴らの出自はすべて穢多非人で確定
さて、次はどんな煽りかな?wwww
はい、次! 少しグクればわかることを認めてないのって庄屋否定の無学者のことだよな 🌉>>789
お前わざと庄屋の立場にたってヒニンヒニン言うて、レッテル張り張ろうとしてる自演だろ
ヒニンは関係ないから出すなよ 維新時活躍して士族になった下級武士や郷士と違って、活躍したのに士族になれなかった庄屋 >>792
仮に一介の格下身分を農民とできる理由はなに?
なぜその農民に武士という大名から足軽までが庄屋の上に立っていたそんざいとするなら、
下士足軽みたいなみすぼらしい困窮者階層の徹底服従腹切り鉄砲玉要員とされ、にもかかわらず目道りすら叶わぬ軽輩とののしられながら、
戒名も屋敷も財力も利権も特権も全て庄屋どころか平百姓以下の底辺なんだか、
論理的に答えがあるなら答えてみよ(笑)
根拠のない身分と財力は比例しないなんていう低学歴のヨタバナシはなしな(笑) >>794
武家の頂点にしてあらゆる武家の起源、根拠となす血統上の日本最高峰に位置する、
足利将軍家男系唯一の将軍家直系の平島公方家
>>明治後、義俊は、足利将軍家の唯一の正当な直系末裔として華族として遇されるように運動を行ったが[16]、却下された。 受爵に失敗したのみか、阿波藩から離脱していたため士族にもなれず、洛西の下山田村(現在京都市西京区)にて帰農[17]し、平民となった。
足利将軍直系の血統の究極の武家の頂点の正統を平民にならしめ、
輩出自の糞足軽やら下士ごときが士族と成す独断と偏見の形状になんの価値があんだよ(笑) まじ旗本程度なら庄屋単体で武力でぶっ潰し足るわ今が幕末ならw また自称庄屋が妄想書いてるwww
庄屋は武士より身分が下だし、抵抗する勢力も無いし、鎮圧されるだけのザコですよ。 盛り上がっては無い。
自称庄屋は完全に荒らしと化している。 こういうのはどうなんだろう
姓の母音(ア行イ行・・・)でルーツが全て決まっていたとかいう説
オカルトっぽい感じだけど引用とかがやけに自信満々なんだよね
ttp://www2.odn.ne.jp/~caj52560/seinohousoku.htm >>799田舎だと今でも庄屋の家系は一目を置かれてるが都会に出ると・・・そんなとこだろう。
都会での承認願望がネットで表出するのだと思う。 でも一般人がイメージする「名家」っていうのは基本的に田舎の庄屋のイメージな訳だが
、つまり立派な門があり玄関があって書院造、庭園etc
実際成り上がり企業の創業家など旧庄屋や医者の家系の娘を貰いたがっていて結婚も多い。
こういうところに何故か旧士族って出てこないんだよね。不思議
明治期には旧庄屋が士族の婿を貰いたがっていたけど >>801
入夫婚が多かった昔は苗字の連続性も怪しいのに
トンデモ本の類でしょ 田舎の庄屋が名家?
違うだろ。
名家と言われるのは、旧華族とかだよ。 >>805田舎行くとすごいぞ庄屋の威光は。今でも檀家総代とかだし >>804
引用してる武将と旗本の母音のつながりもやっぱ都合いいとこ抜き出しただけかな
そもそも戦国以降ならさすがに何か文献で残りそうなもんだし
でも苗字のルーツって謎だよね
口語、読みが先で漢字の普及に伴って当て字されただけとか
今ほど即時情報伝達するわけじゃないのに全国に分布する名字があることとか
(江戸以前って引っ越し自体出来なかった、しなかったはずなのに)
明治以降に分家や引っ越しだけで分布したとはとても考えられない >>809
いちおう律令時代には全国民に賜姓されてるはずだよ、一般庶民でも部民とかの〜〜部とかあるし。
たいていの庶民は姓を後世まで残せずに忘れてて後付けで苗字を持ったのが多いんだけどさ。
江戸時代以前の引っ越しは、庶民ではたしかに珍しいことで、武士とかが必要に迫られて引っ越すのがむしろ主流だったと思うけど、
室町時代や戦国時代あたりだと戦乱の影響で故郷を捨てる事例も少なくないし、けっこう庶民の移動例は多いんだよ
武士の時代より前からある苗字(というか、たいていは姓)だと、国司として地方赴任した際に分家を残すみたいな事例も多かったと思うね また自称庄屋がエタヒニン呼ばわり始めたな
最低だな こいつ >>811
うちは全国に何十万人もいる平凡な姓ながら、現集落ではポツン、
分家同士が一緒でかたまって住んでるだけで学区単位で見ても周囲にはいない
隣県にその姓の伝承やルーツがあって、人数も多い
→なら源流はそこで昔引っ越してきたに違いない!
→いやいや江戸はいろいろあって引っ越せなかったらしい
→ならなぜここでポツンとこの姓?となったんだけど
なるほど室町やら戦国やらに来てた可能性か〜
除籍から6代辿るに、幕末でも今の戸籍だし
蔵があるでもなければ、小さな田んぼがあっただけの貧農だったようだけど
隣県ルーツなら何のために来たんだか
そうじゃないなら偶然なのか
とわからない事を考察するのが楽しいね 調べてたら平成前期に処分した、と言われた
もう少し早く調べればよかった
いまは120年に伸びたのかな
失敗したよ 郷士も大部分は平民ぽいけどね。以前地主の資産家総覧かなにかで士族の家は士と書いてあるのをみたけど有名な郷士の家は農になっていた。たぶん平民だろう 雄藩への道
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/cyo1.htm
では、この藩の家臣団構成はどうであったのか。
いま、嘉永5年(1852)の調査になるものをつぎに示そう。
これは、前後二百数十年間を通じほぼ大差ないとされている家臣団の構成である。
そのほかに高禄の武士にはその禄高に応じて陪臣がいる。
一門六家・両家老のごときはその数5600人にのぼったという。
寛政3年(1791)の調査ではその男女総人員は3万982人といい、
明治2年(1869)では戸数6257戸、人口(男女総数)2万5487人とされている。
一般の家臣団は城下町萩を中心に居住することが原則ではあったが、長州藩には在郷住宅の制があった。
これは当初は家計窮迫し、勤務に堪えがたくなった藩士が、負債整理のため藩庁の許可をえて一定期間萩の勤務を離れ、
知行所その他縁故の村落で倹約住居する制度であったが、のちにはとくに家計窮迫とまではいかなくても、
請願によって一定制限のもとで在郷住宅を許可したので、藩士の在郷居住は一般化した。
天保末期に作成されたこの藩の村明細帳の集大成ともいうべき『防長風土注進案』には、
各村落ごとに「在宅御諸士足軽以下并(ならびに)陪臣之(の)事」という項目があって、
これら村落居住の藩士以下の名前が列挙されている。
木村礎教授の調査によれば、『防長風土注進案』記載のその数は1299名で、これは全家臣約5700名弱の約23%にあたり、
士分のみについてみれば2717名中832名の約31%、足軽以下では約3000名中461名で約16%が在郷している。
士分中でも下層のものほど在郷の傾向が強い、とされているのである(『史学雑誌』六二の八)。
天保大一揆の攻撃対象のなかに、これらの在郷住宅の武士がはいっているのは、
すでにふれたように産物会所と密接な関係のあるものもあったからであるが、
同時に、在郷武士そのものが、村落居住の過程で、知行地のほかに農民名義で田畠山林をもち、
小作農民を隷属させているいわばオヤカタ・コカタ関係を形成した存在でもあったからである。
だからこそ、彼らは積極的に一揆鎮圧にも出動して一揆勢とも対立したのである。
こうしたこの藩の在郷武士の存在やさきにふれた地方知行の残存の比率の高さは、注目しておいてよい。 武士の居住地分類(藩)別にみた農家住宅と武士住宅の関連性
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijax/379/0/379_KJ00004066838/_pdf
人吉藩主の相良氏は建久四年(1193)以降、
戦国大名、近世大名としてこの領域を支配し続けた旧族居付の外様大名である。
人吉藩の在郷に居住する武士は小知徒士以上の正式な家臣であり、在郷では「御家士」と称されている。
一方「郷士」または「郷侍」と称される階層も在郷にかなり多く居住しているが、
これは正式な家臣ではなく農民などから身分の格上げされた所謂「登用郷士」である。
郷士は軽輩、足軽ともいわれ実際の身分と生活は百姓同然である。
苗字、帯刀、傘、足袋などが特別に許可され、村方三役勤めが可能な上層農民といえる。
この「御家士」と「郷士」は在郷において「郷侍並百姓、御家士に対し、御失礼なく、士と見掛候て、
傘・頭巾・手拭等かぶり候ハ取之、又ハ下駄・木履をはき候節ハこれを脱ぎ、片寄礼儀を整へ罷通べし。」
諸郷法令(文化四年)とあるように身分的差異は明確であった。 だからね、当時の制度なんて藩によってバラバラなんだよ
全国統一されてた訳じゃない
自分に関わる藩制度を調べないと意味がない 735 優しい名無しさん[sage] 2018/03/21(水) 11:58:50.75 ID:jbugsewB
この季節は一番効くな
毎日全裸で白眼剥いて奇声を上げながら町内を走り回ってるわ
警察ももう呆れて来なくなったし
町内では毎年の風物詩と化してるわ
さて、またいまから走ってくるわ 西日本のようなど〜でもよい地域はそんな無秩序なんだろうが、
東日本、とりわけ関東にはそもそも藩や幕府の在郷武士なんて一切存在せず、
郷士にいたっては、ほとんど存在しない。
例外的に存在するのは、鹿嶋大宮司家などの平安からの名門や鎌倉からの関東武士の板東平氏直系レベルが存在してる。
西日本のような糞みたいな藩の財政事情がもろ反映された無秩序な枠組みと、他地域との統一性や一貫性の存在しない非公式にすぎないレベルは正直全く話にならない まあ外様は個人経営レベルだから、経営者の胸先三寸だからまったく参考にはならないわな >>825
それ東西の違いじゃなくて外様大名だからだぞ >>825力の差だろう
関東の藩や幕府の在郷武士の主張など耳を傾けなくても藩政に影響ないので無視してるので
自称郷士にすぎないのだろう。 >>828
だから関東には在郷武士なんていないんだよ一切
そもそも藩士や幕臣、御家人ていどでも、在地に住むなんて一切有り得ない
そんな外様のよいな廃れた地域の困窮者臨時対策なんか話にならない 関東においての在郷とは旧在地領主層のこと
特に関東においては、鎌倉開拓武士団の時代から、後北条家統治下におけるまで、一貫して
在地の領主層たる地侍や土豪層の徴収軍役混成軍団
だからそれらが在郷にひしめいている条件下であり、
から糞成り上がり大名家の出自不詳家中の中の底辺の貧困貧民の城下士ごとき平百姓以下の雑魚が在郷に入る余地なんてない
在郷旧領主層と困窮者奴隷下層傭兵上がりとは力の差が歴然としてるから入る余地なんて有り得ない 関東では鎌倉の開発領主層の関東武士団が後北条時代まで在郷で君臨してるので、それらが在郷で大半が帰農している状況があり、よそ者の譜代親藩の大名家が入部しても、全く縁も所縁もない藩士が、藩の財政事情の都合のみで在郷に割り込めることは、そらないわな そういえばさっき郷士について調べてたら、相馬藩はかなり広範囲に「在郷給人」がいた、
野馬追の参加者の多くはその家系、というのを見かけ、ああそういうことか、普通の農家ではなかったのね、と納得。
https://twitter.com/nonomaru116/status/434338977688977408
東北はそういう存在が多いですね。仙台藩を筆頭にw
https://twitter.com/1059kanri/status/434339168412381184 旧渡辺家住宅
http://suwako-kankouguide.com/?p=41
代々高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家で、
現存する武士の家としては全国的にも貴重で、県宝に指定されている。
建築は18世紀中ごろとされ、その後19世紀に改築。
土間が広く、農家とよく似た間取りだが、中床をそなえた座敷などに具家住宅としての特徴が見られる。
渡辺家からは、宮内大臣の千秋、大蔵大臣と逓信大臣の国武、司法大臣の千冬と明治以降に3人の大臣を輩出。
渡辺千秋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%8D%83%E7%A7%8B
信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺政徳の子として生まれる。楓関と号する。
生家は、長野県岡谷市長地芝宮に旧渡辺家住宅として保存されている[3]。 ◆会津百二十万石から米沢三十万石へ
http://staff.yonezawa.info/note.php?p=log&lid=422536
上級・中級家臣は三の丸内に配置され、小身のものは城下の郭外に置かれたが、
その割合は城郭内892軒に対して郭外は1,877軒になっていたとされている。
下級の武士が郭外に配置されている理由は、一つには城下町が狭く、全部の家臣を収容できなかったこと、
もう一つは下級家臣に荒れている地を開拓させて生活の保障と同時に防備の役割を持たせたことである。
南原・舘山・玉庭等はこうした半士半農の生活の地であったが、
後世、城下の下級武士は在郷の下級武士を「原方のクソつかみ」と軽侮し、
在郷の士は城下の貧窮な下級武士を「城下のおかゆ腹」とののしり、互いの喧嘩言葉になったという。 原士
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3620615100/3620615100100010/?hid=ht000020
原士とは、徳島藩特有の身分で、他藩の郷士とは違い、はっきりした藩の在地家臣団で、
当初は家老長谷川氏の直属配下の半農半士の在村藩士であったが、
寛政三年(1791)長谷川貞幹が失脚した後は郡奉行に属するようになった。
原士の名称は、原地を賜った士からきていると言われているが、初期の頃には原侍(はらさむらい)といわれていたと見られる。
原士の起源は、家政が慶長年間に巡国したとき、香美原に原野や荒地が多くあったので、
その開拓をさせるために、その付近に住んでいる土豪に土地を与えて士分に取り立てたのが最初だとも言われている。
しかし、原士(はらし)制度の成立は蜂須賀家記によると慶安三年(1650年)に二代藩主忠英が領内を巡視した時、
阿波郡内に未開墾の原野が多いのを見て、この土地を筋目正しい浪人や家臣の二・三男に拝領地として三町五反から十五町を与え、
家臣団に編入して藩の兵力増強の一助とすべく創設するように随行していた家老長谷川貞恒に対し命じたとも、
また長谷川貞恒が阿讃両国境の警固をも兼ねた計画を建議したことに始まるとも言われている。
そのため、寛政までは家老長谷川家の与力並として代々配属された。
阿淡年表秘録によると原士は長谷川家の代替わり毎に改めて預けられ、形式的には一代限りだが、実質的には世襲であった。
原士の多くは柿原村広永や、市場町興崎を中心に約六十戸あり西条原、香美原(後に興崎と改称)の開墾に従事して、
農業に従事する傍らで参勤交代の警護や阿讃国境警備、百姓一揆の鎮圧、勧農普請の監督などを努め、
幕末期には海部海岸や京都、江戸湾の警護にも当った。
原士の身分は、平常は郷高取(ごうたかとり)の次、庄屋の上位にあり、戦時においては組士(高取士分)並、下士並であった。
また殿様への御目見(おめみえ)ができた。原士は常時文武の道を励み、在郷では卓越した権威と格式をもっていた。 蜂須賀のようなリアル広域指定半グレ軍団上がりは話のネタにすらならない
やつらなら山賊や博打打ち上がりがそもそも城下士だから 武士として生き残れた方が勝ち
負けて庄屋に落ちぶれるよりは良いよ 下級武士や足軽みたいな奴隷下層の軽輩に、
なんの実質的勝ち組要素が存在したのか知りたいよ(笑)
そもそも庄屋が負け組という実質的要素が見当たらないし、なぜ負け組なのか理解不能
貧困階層のひがみ妬みにしか見えんの〜の >>840
理解できないのはお前さんが没落して庄屋になった元武士の子孫だと自称してるから。
普通の人なら理解できるよ。 蜂須賀や九鬼の家臣たちの婚姻て他藩まで広がってるのかね?
先祖が半ぐれってのも名門武家にとっては嫌そうだけども 以前にも話したが、
江戸幕府は、余りに江戸期の大名家の出自が酷すぎるため、
信憑性は一切問わずという捏造でいいから繕えという名目の緒家系図伝を林羅山監修で作らせてる
藩士も秀吉やら徳川のように、
在地もなければ三代前の先祖も知らないが、
何十代前は列記とした清和源氏の庶家だの糞家系図こしらえてるからな(笑)
しかも、他家も成り上がりだらけやし(笑)
武門誉れ高き、半グレの祖蜂須賀様は、
>>もともと藤原姓を称しており、松平氏が藤原姓から源姓に改めたのに従って、忠英の代になって源姓に改めたとしている。
時代によって血統的遺伝子構造が変わるんやて(爆)
さすがわカリスマやは秀吉軍団は(笑)(笑)(笑) 因みに、
江戸幕府は、幕末、幕臣や譜代大名家らにことごとく裏切られた鳥羽伏見以後、
長州の江戸攻撃の際、部隊がいないため、
将軍家が頼って兵隊集めた相手が、
弾左衛門
新門辰五郎の任侠衆
新撰組
弾はその後幕府から直々に旗本として取り立てられ、
新撰組の局長級には旗本は勿論だが、
新門辰五郎は御家人、そして娘は将軍家の側室ちにしてもらった。
幕末ですら御正道たる幕府、そして将軍家が頼った相手がこれらや
戦国時代なんて、もはや目も当てられないレベルだわ
大地主たる家系がどれほど出自が由緒あるか、
江戸の武士こそ本当に戦国以前の出自なんて途方にくれるレベルだぜ(笑) 小県の名主は真田幸村の血を引いてるのがいるし、佐久は内藤昌豊や原虎胤の血をひいてるのもいるだろうし、血脈的には確かに庄屋のほうが平均すれば上ぽいな 敗残者の子孫に価値はない。
しかも、ほとんどが自称子孫で何の証明も無い。
自作の家系図がある程度www 702 名前:日本@名無史さん :2018/03/18(日) 15:50:28.01
昔、同和問題の集会で
我家は苗字帯刀が許されていた!
というプラカードを持ってた人がいたな
マジかよ、とか思ったけどw
冷静に考えて、そんなことあるのか?
703 名前:日本@名無史さん :2018/03/18(日) 16:09:07.55
>>702
なんでそんな集会に居たの?w
すげ〜露骨な自己紹介だな!
清々しい >>849
真田は娘の「すえ」の子孫だし内藤は確か江戸幕府のお墨付きで苗字帯刀許されてたとおもう。
原は知らんな。そういやー甘利とかどうなんだろうか?
東江部村山田庄左衛門家文書目録
http://www.city.nakano.nagano.jp/city/hakubutukan/page9/bunnkazai/009.pdf
かつて北信地方を支配していた上杉景勝は、慶長3(1598)年に中間・小者にいたる全家臣団をともなって会津へ移封するが、
山田家はその後元和期(1615〜1624)に東江部村に土着したと伝えられている。
家の由緒として武田遺臣の伝承を持つが定かではない。
近世初期の状況を語る史料は多くないが、持高は延宝検地で24石、
17世紀中は庄屋も別の家が勤めるなど、当初は村内の有力者の一人であっても最有力者ではなかった。
しかし、享保期(1716〜1736)には村内持高で164石、全所持地で8か村423石にまで成長し、
酒造業や年貢米の換金・貸金などでも利益を上げていき、村外での土地集積も拡大している。
その後、明治4(1871)年に875石、さらに大正13(1924)年には145町歩と長野県最大の地主に発展していく。
この間、東江部村名主は分家の理右衛門家・文六家など一族が独占するところとなり、
庄左衛門家は名主をほとんど勤めず、幕末に郡中取締役や掛屋(中野役所の公金取扱)などを勤めた。 wikiから拾ってきたレスばっかだな
たぶん5代前の先祖さえわかんない奴ばっかだろな 鳥取藩主たる大名家がみずから緒大名の出自を言及している
>>鳥取池田家の分家鉄砲洲家の5代藩主で学者の池田定常は自分の系図を調べた結果
>>「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよくわからない。と述べている
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B0%8F
WWWWWWWW 武家の棟梁たる江戸の大名家兼学者が、
江戸の武士こそ非武士階層たる貧困階層からの成り上がりだらけと、
当時の戦国時代よりまもない大名家の学者が調べてきちんと吐いとるやないかいWWWWWWWW
江戸の武士層こそ出自不詳どころか在地も土地もない底辺階層出身だらけで、香ばしさ満開と大名家から下達されとるわWWWWWWWW
江戸の武士層こそ際どいやろWWWWWWWW 縁より在地に土地と権力もつ江戸の庄屋層たる旧封建武士階層のほうが、
遥か彼方に安定した出自階層だわ
なにが江戸の武士だよWWWWWWWW
単なる江戸の自衛隊員みたいなレベルをなにが武家だよWWWWWWWW
リアルに三代前の先祖不明は江戸の武士と平百章未満じゃねえかWWWWWWWW 7 優しい名無しさん[sage] 2018/03/30(金) 20:27:43.16 ID:GEBkkieJ
なんでそんなことに拘るのか、分かるには分かるが
そうならこんなスレは立てないだろ
一応言っとく
近所では昔から大人しい子供と言われた
大した反抗期もなく進学校から東大理科三類へ入学、卒業
後に、医師国家試験に合格するも、精神を病む。
患者相手が無理な状態になり臨床医として生きるが
数年後、精神的に崩壊
両親には多大な迷惑と心配をかけた
その心労で親の死期をかなり早めさせてしまった
俺が殺したようなもの
いや、俺が殺した、と確信している
これで、満足か?
こういった場の性格上、ネタ扱いされるだろうな
ネタだと思うならそう思い、上げ足を取って楽しめばいい
が、すべて事実だ
SSRIなどをODして犯罪を犯し前科者になった人々
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1522368601/ 完全に江戸の支配構造は、世界史でいう奴隷王朝
形質も瓜二つだが、日本戦国時代以前は下克上だらけだったため、その予防策を講じたのが、世界史の構造とは違ったが、完全に奴隷王朝と形質は同じ >>862
10 優しい名無しさん[sage] 2018/03/30(金) 21:06:17.00 ID:srAFx7zF
>>7
※外出先から訂正
臨床医→研究医
いまから夜のランニングだ
殺すなら殺せ!
親殺しの極悪人非人の俺を殺せ!
殺せや!
早う殺せ!
殺し倒せや!!! 元々、負け組で落ちぶれて庄屋になっただけからな
現代でも負け組なんだよ だとすると、勝ち組とか言う武士、士族はまだ士族身分を維持してるわけか、そんなの見たことないけどな。 結局の所、先祖云々こだわる人は
今の自分の家、品格、人生に誇りが持てず不満があるから
せめてと過去に逃避して、少しでも価値を見出そうと必死なんだろうなと思う
真の名家筋はいちいち自分から云々言わないなんて当たり前
それこそ家宝や財産があって、今の暮らしも豊かなはずだから
本当の名家たる旧幕臣・華族なんかは、明治以降も代々金持ちで
財力・人脈も揺るがないゆえに世襲して官庁に関わってたりするわけで
たかだか小市民が、無理やりこじつけた自己満家系図を元に
やれ先祖庄屋、やれ苗字帯刀・・・
今の貴女のお家は何をやっていますか?
父や祖父は何をやっていましたか?
今の家が平凡ならば、誇大化した何かを主張する度に虚しくなると思うよ
例えばこういったレベルでないと
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF 近衛文麿
親族
前田慶寧(祖父)
井伊直安(義祖父)
近衞篤麿(父)
毛利高範(岳父)
徳川家達(義叔父)
近衞秀麿(異母弟)
大山柏(妹婿)
徳川家正(従弟)
細川護煕(孫)
近衞忠W(孫)
島津修久(孫)
東隆明(庶孫)
本当の名家は戦国時代以降の並み居る名家の血を嫌でも継いでいるはずなんだよね
事実として、今上天皇も因縁の織田信長と明智光秀の両者、豊臣、徳川の血まで引いていらっしゃる
更に遡れば源平藤橘の偉人に至るまで血筋は明瞭に系譜が残っている
上流階級は上流階級同士で結びつくことの現れ
つまり自ら起源を探る、主張するまでもなく、周囲に承認されながら必然的に系図も明確である
今を平凡に生きて、一般社会の中で四苦八苦労働している人たちは
こういった偉人たちの側仕えで、せいぜい姓苗を拝借しただけの"今はただの人"に過ぎない
悲しいかな、言ったもの勝ち程度の精度、伝承ばかり
高祖父世代が士族だろうが、卒族だろうが、平民だろうが、制度が消失した今些細な違い
立派な長屋門と広大な土地、蔵に金銀財宝でもあって初めて起源探求の価値があるかないか・・・ 全くそのとおり 自称庄屋君に言い聞かせてくれたまえ >>872それは割と都会というか東京の考え方だよね。
田舎だと数百年前からの脈々と受け継がれた「家(柄)」という考え方が未だに残存してて
日々自分が生まれた家のプライドを冠婚葬祭で確認されるし、人が集まれば家柄の話とかだし。
「あそこの家は名門で」と日々言われて勘違いしてしまうのが田舎。
都会に出てくると、家のことなんか誰も知らないことに驚愕するんだけどね。 >>877
横からだけど、住んでる地域はどの辺なの?
東京も含めて、色んな土地の地域性があって、「田舎」でひとくくりは出来ないのかもと思ったり。 田舎なんてどこもそんなもんだろ。
鹿児島とかなら城下士じゃないと話にならんかもしれんけれども 近世〜現代名栗村の地域経済に関する研究序説―町田家と柏木家の比較を通して―
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiyu/2/1/2_71/_pdf
埼玉県飯能市名栗地区(以下名栗)は、関東山地に属し、歴史的にも上名栗地区(上名栗村)と下名栗地区(下名栗村)に分かれる。
土豪町田氏(中世武士が帰農土着)は、代々名主(初代は承応年間(1651年〜)頃より)を勤めており、
炭の江戸への販売などで蓄財した(宝暦〜天明期(1751〜1788年))。
天保期(1830年〜)には、江戸での拡大経営や経営保証のために、仲買から多額の借金を行ったり、
江戸の当主(安次郎)が名主として名栗へ戻らなければならなくなったりと、江戸の経営は衰運に向かったようである。
文久〜慶応期(1861年〜)には、町田瀧之助は、小作金の滞納も加わり、父安之助や一族の町田屋、藤田屋だけではなく、
柏木氏から借金を行っている。
柏木家では、江戸時代に柏木の松下家の百姓株を求めて江戸から名栗へ移り住んだ下級武士が名栗での祖とされている。
柏木氏は、新館の名主の町田家に隣接する地に居を構えていて、次に述べるように道場も併設していたことから、
用心棒だったのではと現当主の柏木正之氏は冗談めかしておっしゃったが、
今回の調査研究で町田家と姻戚関係にあって、名栗では組頭で、名主の町田氏と共に林業技術改良を行い、
江戸では町田氏の片腕として材木商を営んでいたと考えることが妥当と思料される。
町田家の家人であった柏木家音(乙)次郎(寛政4(1792)年生〜安政5(1858)年没)は、
文化12(1815)年頃、醤油(店貸)を引き継いでいる(村内で唯一牛2頭所有)。
文政4(1821)年に名跡(百姓株)を継ぎ百姓として独立し、その後、天保2(1831)年に組頭となる(三代継続)。
柏木氏は、醤油業の他に、筏商、材木商、質商を営み、次第に土地を集積して行った。
眞八はこれまで述べた事業を行いつつ、名栗村村長を務め(昭和7(1932)年〜昭和19(1944)年。後に県会議員)、
正之氏も最後の名栗村村長を務めた(平成10(1998)年〜平成16(2004)年)。
ある意味では、かつての名主町田氏に代わって柏木氏が二代にわたり上下名栗の名主となったともいえよう。 >>872
片田舎だけど凄い分かる
実際にいたのは「○○家は日本に10件くらいしかない。内はその本家」とか
どんな名字かというと、読みは極めて平凡で
単にちょっと漢字の当てが変わってて希少姓になってるだけというオチ(佐藤→沙藤みたいな)
名字って読みが先行だから漢字の当ては曖昧なだけであって
独自のルーツを持っているわけでもないんだよね。そんで、蔵もないレベルのただの農家
調べてみても過去に著名な人もいないし何も引っかからない
他にも「○○家は昔は藩にお金を貸したくらいの金持ちだった。褒美もたくさん貰った」とかいっているけど
今はボロ家住まいでやっぱり蔵もなくて生活保護受けてるおじさんとか
嘘かホントか分からないレベルの人ばっかり
何も言わない・聞いたこと無い人の家に限って、よくよく思い返せば立派な古い蔵が建ってたりする
蔵が全てとは言わないけど権威のある家で蔵がないとか考えづらいし
まさにこういう人たちが無理やり家系図引いたりこじつけたりするのかなぁと >>882
そりゃ庄屋でもない、ただの自称「名家」だろ。
公儀お墨付きの名家=庄屋とは全然レベルの違うお話 蔵なんて自作農レベルならそれなりにあっただろうに。
古い間取りとかの絵が残ってるならわかるが、昔は蔵は
布団蔵、書庫蔵,味噌蔵、武器蔵、倉庫等いくつもあるもんだがね
必要がなくなったので順次取り壊されて今では蔵のある家
自体珍しくなってしまったからか>>882みたく訳の分からんの
が出てきた 平均的な普通の農民だと、倉とかは持ってないよ
塀とか門とかのある家も普通の農民ではないよ、禁止行為だから。
つか、塀とか門とかは破城令の対象で破却されてるし ただ言えることは、平百章レベルの平凡な屋敷未満の三丹百姓レベルと同等レベルが下級藩士 蔵は上層農家が江戸期は主流
平百章以下は長屋が主流だよ
長屋レベルの掘っ立て小屋が母屋なのが下級藩士だが。 >>885平均的農家が何を指すかがわからないけど、今と違って超絶格差社会だから
「自作農」レベルであれば蔵は立ってると思われ。明治初めのころの記録だと
富者3割貧者7割ぐらいらしいが。中間は少ないと思われ 江戸期だと関西だと1割が御大尽といわれてたらしいから、そこまでいかないレベルも
入ってるんだろうが・・・富者じゃわかりにくいね。 奈良のスレより
912 列島縦断名無しさん[] 2018/04/06(金) 11:26:52.10 ID:3Ps47ydy
とにかく霊をよく見る
場所によっては京都より
でも京都は別格
夜なんて土日の原宿状態
見えない人はいいね 50代以上のスレより
271 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/04/06(金) 16:02:16.15 ID:F3DRANM8
ワシはいまプー、小中高とよく遊んでた同級生がいま大総合病院の内科部長医師
サシで会う時は昔のように話すが、会ったあとは落ち込むね
成績も大差なかったのに、完全なる落ちこぼれ街道まっしぐらだった、ワシの人生
クラス会?
そんなもん無理に決まっとる!
272 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/04/06(金) 16:03:49.52 ID:F3DRANM8
おおお!
そうじゃ!自業自得じゃ!
すべて自業自得なんじゃ!
早う殺せや! 277 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2018/04/06(金) 19:32:34.64 ID:VQ66VrKD
>>271
そんだけ差がついた奴と2人っきりでも話せるだけ凄い
自分なら同じ町内でも徹底的に避ける
場合によっては引っ越す うちは田舎で蔵は珍しくなくて自分ちでも友達んちでも子供の頃よく遊んだけど
中身は空っぽとか納屋代わりみたいなのばっかりだよ
それこそ子供の頃は蔵の意義すら分からなかったし
刀だの金物だのも戦争でごっそり持っていかれてるしね 昔は高価だった布団、本、什器が主なものだろう。後は農機具とか・・・
流石に庄屋クラスになれば一揆の対象になるので威嚇する為の武器蔵とか タモリの家系図が物凄いややこしい話、誰もが知る有名な話だと思ってたけど今の若い子らは知らなくてビックリした。
一応詳細。
まず、タモリの両親は幼少期に離婚し、実質的には姉とともに祖父母の養子として育つ。
しかし、その祖父母が実は叔父と大叔母の夫婦。
便宜上祖父母で統一するが、この二人には子どもが出来ず、養子を取ることになる。
全くの他人より、血縁者なら愛着わくからと、双方の親戚から一人ずつもらうことに。
まず、祖母は親子ほど離れた弟がいたので、自分から見て弟を養子に。
祖父には妹がおり、乳飲み子を抱えていたが夫は戦死。まだ若い妹は再び女として生きたいと希望するが、祖父はその赤子が邪魔になるのではと気を遣い、養子にする。
つまり、夫婦と、妻の弟と、夫の姪がひとつ屋根で暮らすことに。
そして、二人の養子が成人した際、仲良しなんだから結婚しろとなり、その後できた子どもが姉とタモリ。
しかし、兄弟として育った二人の夫婦生活はすぐに破綻し、姉とタモリは祖父母に引き取られる。
タモリの実母はすぐに別の男と結婚し、二人の子どもを儲けるが離婚。再再婚してさらに二人の子どもを儲ける。
タモリ本人は母の二人目の夫は一度も会ったことなく、四人の弟妹もほぼ面識がない。
これ、家系図に図式化可能なのかな? >>895
ただの穢◯非◯
証明出来るがしない
個人情報保護法が無くなったら存分に証明してやる ソロソロ重イ?メッセージ聴ケ死刑スタッフ以外ニグループ100件以上介護保険税金泥棒殺ッテマス100森友ノロウイルス虐待スイッチ押死耶手ゲローン戦争ソンポシテルンデシタッケ郡大報酬薬害公害モヤシテ老害麻薬王盗難ケタチガイ違反重々ヤット死ンデ振戦山炉ウドモ死ネ世
https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1441750123/ >>893
明治以降の建てた蔵がごまんとある
現実は
江戸期は大半の農家は長屋
三役くらいは蔵があるレベル
一部役なし豪農も蔵はある程度 >>899門や書院造は禁制だったから庄屋ぐらいしか建てられなかったが
蔵は禁止されていないし、当時は唯の防火用の倉庫だからな。「蔵が建つ」
とはいわれるが、それほどコストがかかるわけでもあるまい。 中世(戦国時代も含む)の「勧農」の風習によれば、農具や種籾は在地領主が所有して村民に貸し付けるものだったから、一般の農民は蔵を建てても入れるものが無いよ
農具も武器も種籾も全部、庄屋なり寺なり神社なりに置いてるからね、自宅に置く必要のあるものが少なすぎる 田舎でも長屋なんてあったのかなぁ
うちの最古の除籍(20くらい入ってる戸)の住所を旧台帳引いたら他人の土地だった
今は荒れた更地でわからないし小作農一家で住まわされてたとかかな
そんなんでも戸主とかいうもんなんだろうか 蔵って、米俵を置くためのものだから
年貢徴収する村役人、地主当たりが持ってたわけで
農具とかは納屋でしょ >>901
そうなんだよね、本来の蔵は徴税米の保管であり、構造もそのための利にかなったもの
一介の農家のしまう農具程度の保管に蔵スペースや厳重さは必要ない
長屋=納屋だろうが、一般農家はこれで足りる
必要のない価値を維持するなら見栄という価値になるが、見栄を見いだすほどの余裕が一般農家にあったとは思えない 米蔵っていうのは今の蔵のイメージとは少し違う感じがするけども
零細な農家なら兼用なのかな?
ttps://libs.colocal.jp/wp-content/uploads/2017/06/rizm.jpg
ttp://samidare.jp/kenbunroku/box/1160_06.jpg ttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/011/929/19/N000/000/025/150345480750396807178_001_20170823112007.jpg
これは今の人がイメージする蔵に近いかも。荷車で持ってきて、そのまま入れる
平屋で雨除けの屋根もあるし・・・ 蔵の入口の前に大きな庇が付いてて、入り口前に止めた荷車が、つみおろしの間も雨を避けられる、積み卸し作業者が雨に当たらないって感じか うちのご先祖さまは地球人じゃなかったみたいだ
証拠の資料もたくさんあるけど、公表したら政府に暗殺されるかもしれないよね
日本政府が動かなくてもアメリカやロシアが動きそうだしね
政府はそういうのはすべて知ってて隠してるんだよね
政府やアメリカやロシアを相手にしたくないんだよね 956 列島縦断名無しさん[] 2018/04/08(日) 10:45:51.42 ID:IxJcyK5D
平城京は知らんが平安京はな!
高句麗に滅ぼされた百済の民だらけだったんよ!
インド人もベトナム人もたくさん居たんよ!
いまの国際都市ニューヨークみたいなもんよ!
当時、百済と倭国は兄弟みたいに仲良くしてたんよ!
で百済が滅ぼされた時に日本に助けを求めたんよ!
日本は今で言う大量難民を受け入れたんよ!
スゲー量の移民なんよ!
だからいまでも地の京都民の先祖が百済民、つまりいまで言う朝鮮人は多量におるんよ! 958 列島縦断名無しさん[] 2018/04/08(日) 10:54:02.58 ID:IxJcyK5D
もっと言えば、アシュケナージユダヤ人じゃなく、
本物のユダヤ人も多量に来とるんよ!
平安京はそもそもその渡来人、つまり本物のユダヤ人が作った街よ!
太秦とかその他いろいろはすべてヘブライ語なんよ!
もっと知っとるが話しても信じないからオラは話さんよ!
けどすべて真実なんよ!
教科書には絶対に載らんのよ!
昔でいう仁徳天皇陵の話もするか!
これはさすがに引くぞ!
けどな!
アメリカは知っとるんよ!
英国もな!
知らんのは日本人くらいよ!
これも当然、教科書には絶対に載らんのよ! 959 列島縦断名無しさん[] 2018/04/08(日) 11:00:29.87 ID:IxJcyK5D
実は平城京についてもよう知ってるんよ!
けどな衝撃が強すぎて話せんのよ!
5ちゃんでもな!
平安京の話はググれば出てくる話よ!
けどな平城京の話は違う!
これは話せんのよ!
絶対に話せんのよ!
いくら5ちゃんでもな! 庄屋の家系の人たちって先祖は農民だと思っているのか、それとも浪人だと思ってるのだろうか?
幕府は元和偃武以後仕官してた人達しか「浪人」とは認めなかったが。 どこどこの系譜だとかどこどこの幕臣だとか屁みたいなもんでしょ
莫大な資産、土地、豪邸・・・
それこそ太平洋戦争でも揺るがず、雲の上から見てたようなレベルじゃないと
空襲倒壊や戦犯断罪もなんのその、戦後も財力で余裕で復興して当代に繋いでるレベルじゃなきゃなんの意味もないね 229 もしもし、わたし名無しよ (ワッチョイ c6be-bHOB)[sage] 2018/04/09(月) 11:04:09.50 ID:HyiIhlY+0
こんにちは、月収約8億円の男です
年収じゃないですよ、月収です
さて、久しぶりに現金風呂に入りたくなったので
1億円、現金にして来ました
現金風呂とは、風呂桶に現金を1億円入れて
そこにお湯を張るという簡単なものですが
これがまたいい、もう至福の時間を独り占めですよ
皆さんもやってみてください
ココロもカラダもスッキリしますよ
ふやけた現金1億円は水を切ってから固めて燃えるゴミに出します
乾かして使おうなんてそんなセコイことは考えてはなりません
ところでドールですが
今年、もう6億円ほど使いました
ありがとうございます >>916
は?
なんで薄汚い浪人風情なわけ、村方支配者なのに、、
我らは在郷領主層な
単純に江戸幕府が制度下の仕組みを勝手に在方は庄屋とくくりにしたまで。
単純な古来よりの属性は江戸出自不詳幕府の勝手な組み替えなんて関係なく在方支配者の在郷領主層だから
なにが浪人だよ、土地すら持てない労働者階級の自衛官レベル風情だろが
在方支配者なめすぎなんだよ、財力も武力も土地面積も影響力も在地特権も莫大な権益も。
浪人ごとき、庄屋と何が争える?
秒殺どころか瞬殺レベルなんだが 悪いが千人同心なんて関東庄屋連合の中では非常に規模が小さい
戦国以前からの武蔵や相模、北関東辺りの旧在地封建領主層の庄屋は、桁が、規模が違いすぎるからな 結局今財産がなければ見栄張れば張っただけ惨めになるよね
先祖が名主のヒラリーマンと
先祖がド平民のお医者弁護士じゃ
比べるまでもないし
言う人が凡人なら凡人なほど、惨めな遠吠えに聞こえることでしょう・・・ 悪いが
明治以降の地方行政長は庄屋だらけだし、
現在の将軍たる総理大臣は庄屋だらけだし、
圧倒的に庄屋の血筋は日本のアシュケナージだわ
成り上がりでも渡来系でもない日本の最優良血統 >>923
ならダウンタウンやたけしなど芸能人が現代の新興貴族層なのは疑う余地ないな
正直加賀前田家レベルの財力保持者なんて、芸能人には腐るほど現代はいる
アッコや浜田の血統こそ日本の新興支配者層なのは間違いないわな
庄屋の血統なんてたけしやダウンタウンの前では虫けらですよそりゃ >>925
仮に貴族としても世襲できない一代貴族だよな >>923医者は庄屋層からなったのばかりだろうに。地方に医療がなかったので
無料奉仕に近い医院がたくさんあった。
弁護士は水飲み百姓からの成り上がり左翼イメージが強いけど実態はよくわからん。 >>927
いやいやいやいや、あれだけの資産保有するトップ芸能人は、資産運用してるだけで10代以上余裕でくってけるわ、コネありまくりだわ、名声ありまくりだわ、完全に累代新興貴族層に成り上がったわまじ >>924も言ってるが、明治時代は財産制限選挙
大金持ちじゃなきゃ参政権がなかった
だから豪農豪商が府県会議員、市町村長になることが多かった
学歴だって義務教育から有料なので、貧困層が学歴を身に着けることが難しかった
だから豪農豪商層が地方官吏になることが多かった
明治時代は、従来は国を支配していた大名や武士が零落して、
豪農豪商というブルジョワ層が力を得ていった時代といえる >>929
資産を見ればそうだろうが、
地元を代表する都道府県会議員、市区町村会議員、
都道府県知事、市区町村長には、
〇代前から地元に土着しているという豪農豪商系が好まれるという現象が、まだ多い
地元と縁がない「落下傘」政治家も、当選するためには地元に土着した勢力を
後援会に組み入れることが必須となる さすがに大物タレントの資産でも10代はキツいというか、10代後には環境自体が破綻してそう
今がずっと続くという意味でなら多少金遣い荒い程度なら3代はいけるだろうけど・・・
とか話してて気づくのは、WW1、WW2と大戦争やって
人間魚雷・人間爆弾・金属回収令とかやってたのがほんの3代前の話なんだよな
ラジオはあってもテレビはない、携帯どころか電話もない世代
6〜7代前にゃ県もなく、藩に年貢納めて黒船来航やら大飢饉があったわけで
10代前は戦国?
世界情勢、技術革新、人口増加と食糧問題、温暖化問題
5代後にはフツーに滅びてるかもね 庄屋層は戦前は群会議員や高額納税者は貴族院議員だぞよ。もっちと勉強しろ 明治後半やら大正、昭和初期ごろでも庄屋が破産して凋落する事例は少なくなかったけどな
それで破産庄屋の財産を集積する形で大土地所有が進行したし なるほどね
うちの村も隣村も庄屋のじーさんが2人、市議になってたけど
田舎だと関係あるかもね
家も見た目もただの成金という感じではないしやっぱり何かあるんだなぁ 群会議員や県会議員をやった家は市議会や町議会議員になるのを嫌がるけどなwww
家格の差かな? >>931
大前提が違う
民選行政長選出の選挙制以前の官選、
すなわちサッチョウの県令がいた廃藩置県直後の選挙制がないサッチョウの官が選んだ戸長制度時代から、
明治政府は庄屋を戸長郡長区長に選出してる
行政執行の江戸からの適正委譲には庄屋が最適認だっただけ。
選挙権の財産の有無と行政執行の適正委譲の資格には厳密には関係性は薄い。
ただ、近代前期においても、
権力や権益と財力は比例しており、
江戸時代からどこに権力や権益が存在し、結果富がそこに集中していたか、これで歴然とするという関連図の典型例 940で分かるように、
身分とはそこに実質的特権とそこに集約される富が成り立ってはじめて身分となすのが大前提。
明治初期から圧倒的な財力の差が庄屋と一般藩士にあった現実は、
そこにある格差は実質的な権益や権限の格差に他ならない事実
あくまで日雇い労働者階級が大半だった江戸の武士層は、
日本最大の内乱たる天草庄屋連合の乱で大打撃を幕府は食らったため、
実質的な権限も権力も持たない家中の出自河原レベルの藩士どもも立場上圧倒的に格上の上流階層の庄屋でも殺傷や反抗を禁じたものが、
単なる江戸の身分上の隔たりになったまでで、
しかし実質的な権益も権力も権限も、在郷領主層たる庄屋が集約さるてるため、富も集中していた。
これが世界には希にみるイビツな分かりにくい構造の真相 さらには、幕府は庄屋のような、藩主のミニバージョンレベルの行政特権の形態を外様の庄屋に許していた事実、
さらには、
戒名
長屋門
屋敷の広大さ
絹使用の許可
大量武器保有の免除
上士と同じ高下駄使用の免除、、
など何故そんな虫けら農民に許していたのか。 ここに江戸時代の矛盾だらけだった職域と権益と富の関係性の謎と、
そこからよみとれる真実がつまってる
これが分かればすべての答えなわけで。 933
違うね
日本には下克上なんて三回しかない。
そのうちが
戦国時代、
明治維新
そして太平洋戦争敗戦
完全にマクロレベルで大多数の支配者層が入れかわった。
これ以外では、実は富の再配分もほぼ起きていないのが実質的日本。
政情の安定期に入れば、富の集中する階層は固定化してしまう。
富が富を生む構造が出来上がる
日本最大のパラダイムの破壊と転換は、まさに内乱でなく、アメリカという地球圏惑星圏最大最強の力を持つ破壊神により破壊つくされた敗戦に他ならない
この究極にして最大の外圧により日本の根幹が崩壊した戦後に富裕層となした最大級の芸能人層は、安定期に入って固定化したパラダイム秩序の中では完全な新興貴族層と成したのは紛れもない。
まさに江戸時代と同じ、天井人に成り上がれる隙間など僅かしかない
せれは富を集約させじものが固定化してしまうから。
芸能人は国会議員率も圧倒的に だから933のいう変動はミクロの話
ようは中産階級以下のレベルにほかならず、
その時代の支配者層はなんら変化などない
いつの時代も、時代の移り変わりに翻弄されるのは弱者で、
維新時に翻弄されまくった江戸の旧武士層は江戸時代から実質的弱者だったということ。
維新でも安定した権益委譲がなされた庄屋や大名家は、江戸期から実質的強者だったという事実
庄屋に至っては戦国以前から江戸、明治、戦後まで時代の変化にもに適応できた強さ、すなわち実質的な権力を持ち合わせていたという証明 どこからコピペしてるかわからんけど
ごはんたべたらうんちがでる レベルの小中学生でも分かるようなことを長々書くな さっきテレビで、江戸時代に士農工商なんて身分制度はなかった!
と偉い大学教授が断言してたぞ
2000年から学校の教科書にも載せてない
つまり削除された、と言ってた
間違いない! 士農工商という言葉は朱子学からの借り物だし、江戸時代の身分制度のことを士農工商と呼んだのは明治に入ってからだからな。
江戸時代の実際の身分制度とは違うシロモノで不適切だから使わないことになったんだ 下級藩士なんて、実際江戸以前の出自なんて小作未満だらけだぞ秀吉レベルの。 946
コピペと思うくらい、俺は一流大卒の偏差値王だからな 士農工商 の4分割で済んでたかのような教え方は確かにおかしかったな
壬申戸籍の表記だけでもかなり色々あるのに 長いものに巻かれてれば家は維持できてるんだから
長いものには巻かれるよな >>940
明治時代の選挙権が財産制限になったので、貧困士族は選挙権を持てなくなった
江戸時代は貧しくとも「お侍様」として、豪農豪商と比べれば支配層として一応振舞えたが、
それすらできなくなった
>>942
地方知行制が大体廃止され、武士の大半は「領地」がなくなり、
城下町に集住して藩から支給される蔵米で生活するようになった
つまり武士と農民の直接的なつながりが絶えてしまい、
農民を統制するためには、名主(庄屋)の力を借りることが大いに必要となり、
名主(庄屋)を優遇していくことになった てか国家危急存亡の時に武士からだけでなくすべての国民から優秀な人材を求め、必要になったと。それに答えられたのは元々教育程度が高かった武士、庄屋層だったてだけの話 🌉>>954
そもそも、いつから一介の藩士が領地なんて概念なんだバカ
大名家からの租借地米にすぎない分際の金魚の糞なんだが。
領地ならその地で帰農してみろや
屋敷もなにもかも大名からの租借地に過ぎない分際が
何にも持たないもつことができない、与えられてる制限制約付の権利しか持たない奴隷民 戦国時代では400石500石取りでも領地をもらえていたよ
妻や娘ですら化粧領として領地がわずかでもあった >>955
今年の大河ドラマの西郷どんの終盤に、そのあたりはやるでしょう
農民が徴兵されて武士の代わりに国家の兵士となり、
庄屋らが藩士に代わって地方行政の要職に就き、
武士は廃藩置県→廃刀令→秩禄処分で存在意義が縮小し、生活にも困窮し、
明治政府(大久保利通ら)に不平不満を持ち、西郷どんを頼って西南戦争勃発 >>957
そういう石高による領地規模の把握って戦国時代末から広がったことで、
元々は領地規模を正確に表現できるような統一的な基準がなかったけどな そういえば真田丸の時、広大な領地のわりに石高の少ない真田家とかネットで言われてたな。山ばかりで・・・ >>958
石高というのは、その地を領主として治めることで得られる税(等)収入の多寡を一律に比較できるようにするために導入されたもの
実際に育てられてる米の量を示すものではない
交易や鉱山など農業外の収入があるなら、それも石高に算入されてるんだよ
屋敷地も田地、それも「上田」扱いで石高に計上されてるしな 昨日のテレビ番組で士農工商なんてなかったと断定してたのは面白かった
明治政府が江戸時代を身分制度なんかがあった不遇の時代だと思わせる為の印象操作だと断言してた
記録にも残ってるんだからホントだろう
やることが汚いな
明治になって民は解放された!というキャンペーン
今も大して変わらんな >>958
だから違うんだよ
君は庄屋が藩士に変わって地方行政を担うようになったのが明治と言ってるが、
なぜ私がいってるのが分からないかな?
江戸期から地方行政を納めていたのが庄屋。
だからそのまま委譲された。
その証拠が富の圧倒的格差。
権限あるところに富は集中する。
これは絶対的な組織論の大前提
この格差は江戸期から実質的特権が庄屋に集中され、
一般藩士には庄屋より圧倒的にないことが証明される。 それに、
庄屋の権限は各藩から江戸初期、認めさせた権限
一般藩士は大名家から与えられた存在
わかるかこの違い?
与えられる存在とはその与えられた価値の見返りへの隷属性を意味する
これは社会学の大原則
奴隷制の原理はこれが成す大前提の原論
ようは大きな存在から、権威、権力、権限に統制されし存在を意味する。
実際上司の腹切りマシーンレベルの意識から隷属化されていたしな。
庄屋の権限は江戸初期に認められた、獲得した権力
ここには一方からの統制が及んでいない形態。
ようは実質的支配者体制外の存在に他ならない。
ようは藩から庄屋が統制されていたのは、大名家の権威のみ。
大名家の実質的権力や権限が及んでいないため、制約や制限は庄屋にはない。
だから庄屋には旗本レベルの長屋門やら絹やら高下駄やら未曾有の中世以来の在地特権が存在する理由。
分かるかな低学歴には?(笑) 社会学規範では
制限制限の主体は隷属性を意味する
そして権限あるところに富は集積される
これは世界史のどの欧米列強もこの形態はベースとなった支配体型になっている。
日本は違った
下克上や国家転覆、一揆を恐れるがゆえ、権限を持たない隷属化されている分野にも反抗的敵対行為を禁ずるため、無理矢理権威を付加させた。
そこには支配者たる大名家のいち側面での必然性のない付加価値の付与なため、その権威には権限も特権も存在しない。
庄屋には権威は付与されずとも権限や特権は温存された
だから庄屋とは圧倒的に経済的格差が生じた。 訂正
制限制約されし主体は隷属性を意味する
一揆防止という大名家のいち側面のみの思惑から反抗的敵対行為を禁ずるための権威が付加価値として付与されたまで。
だからそこには実質的特権や権限は存在しなかった。 庄屋が江戸時代に任されていた地方行政は、概ね町村単位
でも県単位(藩)の地方行政は藩主を擁する家老や奉行ら藩士が決めていた
しかし明治時代になって廃藩置県を迎えると、庄屋たちは県(旧藩)の地方行政にも参画するようになっていった
江戸時代には地方知行制の大幅縮小で、武士は城下町に集住して藩主から支給される蔵米で生活するようになったため、農民と武士の直接的関係が薄れた
でも農民からは税を取り立てなければならない
そして村請制度といって、村単位で税を取り立てることとし、庄屋に税の取り立てを
任せていたが、地方知行制の大幅縮小で武士と農民の関係が一層薄れたことで、
庄屋への傾斜が強まったといえる あと武士の零落は庄屋の勃興というより、商人の勃興のほうが大きい
平和な時代になると商人が豊かになり、武士が貧乏になるんだよ
江戸時代に興った三井や住友は今でも日本経済に君臨している >>969
だから君はマーチレベルの糞私大しか出れてないわけ
商業の根幹は生産主体なわけで、庄屋の生産主体が存在しての商業なんたが。
何千回も言うが、庄屋は明治期に勃興してんじゃないんだが?
お前は馬鹿なの? 無理に小難しそうな理屈こねてケムに巻くなよ
全国どこ見ても小競り合いばっかだった戦国時代に武家として興っていても、
安土桃山からは村落レベルで見たって没落せざるを得なかった家なんていくらでもあったろ >>970
そこまで読解カゼロじゃ史学雑誌にも日本歴史にも投稿しても却下でしょうなw 明治中期以降は格差が増えて寄生地主が誕生していくことになる
一方で土地を失った者は都会に出て工場労働者になるケースが増えていく 明治時代に、豪農らは自由民権運動を推進した(豪農民権という)
つまり西洋の啓蒙思想を習得したうえで、国会開設を主張し、
国政へ参画しようと積極的に運動した
その結果、直接国税15円以上を納税する25歳以上の男子(豪農商らブルジョワ階級)が、衆議院総選挙への投票権を得て、一応ながら国政への参政権を獲得した
第1回衆議院選挙では自由党や改進党といった民党が過半数を抑えたが、藩閥政府と激しく対立する
しかし藩閥政府と民党の妥協体制が徐々に作られていき、
旧自由党が伊藤博文を総裁として戴く立憲政友会誕生に結実したことで、
ブルジョワ階級の要求が政友会を通して、政府の政策へ反映されやすくなっていった
こうしてブルジョワが富栄える一方で、貧困化して工場労働者になってしまった下層民と一部のインテリは、共産主義思想に目覚めていき、共産主義勢力が台頭する
共産主義に危機感を抱いたブルジョワ層は、保守化していくこととなり、
戦時中を経て戦後にもこの構図は続くこととなる 同じ庄屋でも武家の意識の強い家と,ただ大きな農家で軍役を担っただけの家で農民意識の
強い家があるみたいだけど地方差なのか家の歴史の違いなのか >>975
藩の締め付け如何によるんじゃない
郷士とか認めない、名字帯刀も認めないって藩も多いだろうし
逆に緩い藩もあるだろうし
まあ、庄屋のほとんどは何かしら武士の出自が多い 八王子千人同心は、幕末には二本差で出陣してるレベルなのに、一見郷士扱いと思いきや、郷士どころか平時は苗字すら公に扱うことすら許されてない。さらには庄屋すら置かれず、組頭扱い
関八州の締め付けは本当に厳しい。 庄屋だけでなく小作人抱えているような大百姓も武家だった由緒はあるだろうけど
そんなの言い始めたら日本中・・・ 中世・戦国の農民は刀持って村益のために戦っていた(野)武士 >>980
いや、「村の軍隊」は武士じゃなく「国民皆兵」の方に近いだろ。軍制の特徴はむしろスパルタ国に近い気がするが >>978
ただ、江戸の武士層は大半が非武士階層からの出自
だから庄屋や大地主の方が現実には旧封建武士階層が圧倒的なのは兵農分離してるのだから必然 藩主経験者の息子・娘でまだ健在の人っているのかな?
孫なら結構な数いるかな? まだ庄屋が暴れてるの?
もう結論出たじゃん。
農民はどう言い繕うが農民。 >>977
大久保長安事件が締め付けの主な理由らしいけどこの事件って
本当に単なる横領事件だったのかね?と千人同心の現実を
知るにつけ思ってしまうわな 関ヶ原の合戦に両軍合わせて約20万と言われてる。
もちろん、当時の武士がすべて参戦したわけじゃない。
大阪冬の陣は両軍合わせて30万近い。
当時の人口が1200万程度という推計がある。
江戸末期の武士の人口が約200万。江戸初期が80万だったとしても、半分が女で
そのまた半分が子供だから、大人の武士は約20万。
半分くらいの武士が帰農したのだろう。
ただ、その「武士」ってのは、信長のころに専業の武士団を作るようになってから
一気に増えたはずなんだよな。
土地をもらえない次男坊三男坊が足軽になってリーマン化する。
で、勝ち残って大名になった殿様についたり徳川についた運のいいものは下級武士になった。
戦国期に負けて淘汰された多くの武家の家臣は帰農する。
うちんとこじゃ、戦国の山城の城主だった家は江戸時代は百姓だ。
江戸末期の時点で、特別すごい地主って訳じゃない。
近畿のように「お殿様」があまりいない地域は「村」の自治が強い。
幕府領と寺社領と大名領が入り乱れてるからな。
勘違いしてる人が多いのは、「一国一城の大名」みたいのはあんまりないってことだ。
それと、「武士の領地」ってのを、欧州の貴族の荘園みたいのと勘違いしてる。 庄屋や郷士は藩や幕府から見れば唯の百姓だが本人たちは農民とは思っていないのでは? その辺の細かいことって、国というか体制側でちゃんと記録とかしてなかったのかな
家系図がなければもうおしまい?
寺も過去帳見せてくれないし
市役所はギリ幕末までしか見せてくれないし
国(藩)が管理してたとしても身分の関係でなかったことにされるのかな
どうにかして知る方法はないものか 小藩なら庄屋クラスと武士の婚姻も結構あったようだしな 兵農分離とは
土地を持てなかった労働者低層階級がはした金の安定欲しさに専属傭兵化を選択し、
土地を大量に持つ旧封建武士階層のブルジョア階層が、権益や利権の保証のために帰農を選択
これが真実
そのため江戸の武士層は秀吉レベルのよう出自だらけになり、
庄屋は真の旧封建武士層だらけとなった
江戸の武士層こそ戦国以前の出自 は下層民とリンクしてる 俺、苗字の由来である家系の先祖の他、
血筋の先祖である男系の先祖なども、判明した。
俺の曾祖父と曾祖母はどちらも養子で、
曾祖父は養継子だ。
曾祖母の実家は某戦国大名軍師の子孫、
平安時代末期は義経公家臣。
曾祖父の実家は戦国時代は某戦国武将で、
家康公に敗戦して本多平八郎忠勝の家臣となる。
家系の先祖は、元鎌倉御家人で、北条家に追われ、遠くに逃げる、後に某藩士某士族となる。
曾祖母は藤原鎌足の子孫、
曾祖父は清和天皇の子孫、
家系の先祖は桓武天皇の子孫。
以上 曾祖父の養父の父親は、諱を重□といい、維新後に士族です。先祖は北条時政に謀反の疑いをかけられ、追われました。
一族は重を通字にします。重道の父親は、某藩士300石でした。その父親である重□の祖父も某藩士でした。
通称は治兵衛(もしくは治衛門(家系図読めば分かる、出すの面倒))です。治兵衛が初代です。治兵衛の父親は
分かります(家系図読めば分かる、出すの面倒)。
曾祖母の父親は諱を□久といい、殿様の命令で、藩の旧臣の名跡をついでおります、旧臣の家系の通字は久です。
曾祖母の父親の先祖は藤原姓で通字は重です。
つまり、藤原姓□□氏(通字:重)の嫡流が藩の命令で、旧臣の□□氏の名跡を継ぎ、諱もそれらしく久となりました。
でも嫡流なので、同時に一族の中で本家だけが名跡の苗字を名乗るという慣例が始まり、今も一族会の宗家を
自称する家(本当は分家筋の家だったが、曾祖母の実家が絶家となり、
分家が本家を自称し、苗字も曾祖母の実家の苗字に改名)曾祖母の実家の苗字を名乗っています。
曾祖父の父の諱は正□です。これは平安時代末期の清和源氏の棟梁的存在だった人の名前から始まっています。
一族は正を通字としていることが多いです。通称は三郎を通称としていることが多いです。
この三郎も鎌倉時代の御家人だった時代から三郎を通称としています。
他にも信という字を通字にしたりします。信の通字の由来は甲斐源氏の家臣だったときの由来です。
俺は歴史も好きですが、系図が好きなんすよね!
どちらかというと、系図なんすよ!よろしく! 俺、苗字の由来である家系の先祖の他、
血筋の先祖である男系の先祖なども、判明した。
俺の曾祖父と曾祖母はどちらも養子で、
曾祖父は養継子だ。
曾祖母の実家は某戦国大名軍師の子孫、
平安時代末期は義経公家臣。
曾祖父の実家は戦国時代は某戦国武将で、
家康公に敗戦して本多平八郎忠勝の家臣となる。
家系の先祖は、元鎌倉御家人で、北条家に追われ、遠くに逃げる、後に某藩士某士族となる。
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