先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 21 [無断転載禁止]©2ch.net
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○自分の先祖を語るスレ○
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1172634664/
【源平】お前らのご先祖様を語れ!【藤橘】
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戦国大名の家柄や先祖について
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190452733/
みんなの家紋ってどんなの?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/live/1390913655/
家柄ってなんだろう?
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先祖探しのテクニック、エピソードを語るスレ 20
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1411232212/ 士農工商 の4分割で済んでたかのような教え方は確かにおかしかったな
壬申戸籍の表記だけでもかなり色々あるのに 長いものに巻かれてれば家は維持できてるんだから
長いものには巻かれるよな >>940
明治時代の選挙権が財産制限になったので、貧困士族は選挙権を持てなくなった
江戸時代は貧しくとも「お侍様」として、豪農豪商と比べれば支配層として一応振舞えたが、
それすらできなくなった
>>942
地方知行制が大体廃止され、武士の大半は「領地」がなくなり、
城下町に集住して藩から支給される蔵米で生活するようになった
つまり武士と農民の直接的なつながりが絶えてしまい、
農民を統制するためには、名主(庄屋)の力を借りることが大いに必要となり、
名主(庄屋)を優遇していくことになった てか国家危急存亡の時に武士からだけでなくすべての国民から優秀な人材を求め、必要になったと。それに答えられたのは元々教育程度が高かった武士、庄屋層だったてだけの話 🌉>>954
そもそも、いつから一介の藩士が領地なんて概念なんだバカ
大名家からの租借地米にすぎない分際の金魚の糞なんだが。
領地ならその地で帰農してみろや
屋敷もなにもかも大名からの租借地に過ぎない分際が
何にも持たないもつことができない、与えられてる制限制約付の権利しか持たない奴隷民 戦国時代では400石500石取りでも領地をもらえていたよ
妻や娘ですら化粧領として領地がわずかでもあった >>955
今年の大河ドラマの西郷どんの終盤に、そのあたりはやるでしょう
農民が徴兵されて武士の代わりに国家の兵士となり、
庄屋らが藩士に代わって地方行政の要職に就き、
武士は廃藩置県→廃刀令→秩禄処分で存在意義が縮小し、生活にも困窮し、
明治政府(大久保利通ら)に不平不満を持ち、西郷どんを頼って西南戦争勃発 >>957
そういう石高による領地規模の把握って戦国時代末から広がったことで、
元々は領地規模を正確に表現できるような統一的な基準がなかったけどな そういえば真田丸の時、広大な領地のわりに石高の少ない真田家とかネットで言われてたな。山ばかりで・・・ >>958
石高というのは、その地を領主として治めることで得られる税(等)収入の多寡を一律に比較できるようにするために導入されたもの
実際に育てられてる米の量を示すものではない
交易や鉱山など農業外の収入があるなら、それも石高に算入されてるんだよ
屋敷地も田地、それも「上田」扱いで石高に計上されてるしな 昨日のテレビ番組で士農工商なんてなかったと断定してたのは面白かった
明治政府が江戸時代を身分制度なんかがあった不遇の時代だと思わせる為の印象操作だと断言してた
記録にも残ってるんだからホントだろう
やることが汚いな
明治になって民は解放された!というキャンペーン
今も大して変わらんな >>958
だから違うんだよ
君は庄屋が藩士に変わって地方行政を担うようになったのが明治と言ってるが、
なぜ私がいってるのが分からないかな?
江戸期から地方行政を納めていたのが庄屋。
だからそのまま委譲された。
その証拠が富の圧倒的格差。
権限あるところに富は集中する。
これは絶対的な組織論の大前提
この格差は江戸期から実質的特権が庄屋に集中され、
一般藩士には庄屋より圧倒的にないことが証明される。 それに、
庄屋の権限は各藩から江戸初期、認めさせた権限
一般藩士は大名家から与えられた存在
わかるかこの違い?
与えられる存在とはその与えられた価値の見返りへの隷属性を意味する
これは社会学の大原則
奴隷制の原理はこれが成す大前提の原論
ようは大きな存在から、権威、権力、権限に統制されし存在を意味する。
実際上司の腹切りマシーンレベルの意識から隷属化されていたしな。
庄屋の権限は江戸初期に認められた、獲得した権力
ここには一方からの統制が及んでいない形態。
ようは実質的支配者体制外の存在に他ならない。
ようは藩から庄屋が統制されていたのは、大名家の権威のみ。
大名家の実質的権力や権限が及んでいないため、制約や制限は庄屋にはない。
だから庄屋には旗本レベルの長屋門やら絹やら高下駄やら未曾有の中世以来の在地特権が存在する理由。
分かるかな低学歴には?(笑) 社会学規範では
制限制限の主体は隷属性を意味する
そして権限あるところに富は集積される
これは世界史のどの欧米列強もこの形態はベースとなった支配体型になっている。
日本は違った
下克上や国家転覆、一揆を恐れるがゆえ、権限を持たない隷属化されている分野にも反抗的敵対行為を禁ずるため、無理矢理権威を付加させた。
そこには支配者たる大名家のいち側面での必然性のない付加価値の付与なため、その権威には権限も特権も存在しない。
庄屋には権威は付与されずとも権限や特権は温存された
だから庄屋とは圧倒的に経済的格差が生じた。 訂正
制限制約されし主体は隷属性を意味する
一揆防止という大名家のいち側面のみの思惑から反抗的敵対行為を禁ずるための権威が付加価値として付与されたまで。
だからそこには実質的特権や権限は存在しなかった。 庄屋が江戸時代に任されていた地方行政は、概ね町村単位
でも県単位(藩)の地方行政は藩主を擁する家老や奉行ら藩士が決めていた
しかし明治時代になって廃藩置県を迎えると、庄屋たちは県(旧藩)の地方行政にも参画するようになっていった
江戸時代には地方知行制の大幅縮小で、武士は城下町に集住して藩主から支給される蔵米で生活するようになったため、農民と武士の直接的関係が薄れた
でも農民からは税を取り立てなければならない
そして村請制度といって、村単位で税を取り立てることとし、庄屋に税の取り立てを
任せていたが、地方知行制の大幅縮小で武士と農民の関係が一層薄れたことで、
庄屋への傾斜が強まったといえる あと武士の零落は庄屋の勃興というより、商人の勃興のほうが大きい
平和な時代になると商人が豊かになり、武士が貧乏になるんだよ
江戸時代に興った三井や住友は今でも日本経済に君臨している >>969
だから君はマーチレベルの糞私大しか出れてないわけ
商業の根幹は生産主体なわけで、庄屋の生産主体が存在しての商業なんたが。
何千回も言うが、庄屋は明治期に勃興してんじゃないんだが?
お前は馬鹿なの? 無理に小難しそうな理屈こねてケムに巻くなよ
全国どこ見ても小競り合いばっかだった戦国時代に武家として興っていても、
安土桃山からは村落レベルで見たって没落せざるを得なかった家なんていくらでもあったろ >>970
そこまで読解カゼロじゃ史学雑誌にも日本歴史にも投稿しても却下でしょうなw 明治中期以降は格差が増えて寄生地主が誕生していくことになる
一方で土地を失った者は都会に出て工場労働者になるケースが増えていく 明治時代に、豪農らは自由民権運動を推進した(豪農民権という)
つまり西洋の啓蒙思想を習得したうえで、国会開設を主張し、
国政へ参画しようと積極的に運動した
その結果、直接国税15円以上を納税する25歳以上の男子(豪農商らブルジョワ階級)が、衆議院総選挙への投票権を得て、一応ながら国政への参政権を獲得した
第1回衆議院選挙では自由党や改進党といった民党が過半数を抑えたが、藩閥政府と激しく対立する
しかし藩閥政府と民党の妥協体制が徐々に作られていき、
旧自由党が伊藤博文を総裁として戴く立憲政友会誕生に結実したことで、
ブルジョワ階級の要求が政友会を通して、政府の政策へ反映されやすくなっていった
こうしてブルジョワが富栄える一方で、貧困化して工場労働者になってしまった下層民と一部のインテリは、共産主義思想に目覚めていき、共産主義勢力が台頭する
共産主義に危機感を抱いたブルジョワ層は、保守化していくこととなり、
戦時中を経て戦後にもこの構図は続くこととなる 同じ庄屋でも武家の意識の強い家と,ただ大きな農家で軍役を担っただけの家で農民意識の
強い家があるみたいだけど地方差なのか家の歴史の違いなのか >>975
藩の締め付け如何によるんじゃない
郷士とか認めない、名字帯刀も認めないって藩も多いだろうし
逆に緩い藩もあるだろうし
まあ、庄屋のほとんどは何かしら武士の出自が多い 八王子千人同心は、幕末には二本差で出陣してるレベルなのに、一見郷士扱いと思いきや、郷士どころか平時は苗字すら公に扱うことすら許されてない。さらには庄屋すら置かれず、組頭扱い
関八州の締め付けは本当に厳しい。 庄屋だけでなく小作人抱えているような大百姓も武家だった由緒はあるだろうけど
そんなの言い始めたら日本中・・・ 中世・戦国の農民は刀持って村益のために戦っていた(野)武士 >>980
いや、「村の軍隊」は武士じゃなく「国民皆兵」の方に近いだろ。軍制の特徴はむしろスパルタ国に近い気がするが >>978
ただ、江戸の武士層は大半が非武士階層からの出自
だから庄屋や大地主の方が現実には旧封建武士階層が圧倒的なのは兵農分離してるのだから必然 藩主経験者の息子・娘でまだ健在の人っているのかな?
孫なら結構な数いるかな? まだ庄屋が暴れてるの?
もう結論出たじゃん。
農民はどう言い繕うが農民。 >>977
大久保長安事件が締め付けの主な理由らしいけどこの事件って
本当に単なる横領事件だったのかね?と千人同心の現実を
知るにつけ思ってしまうわな 関ヶ原の合戦に両軍合わせて約20万と言われてる。
もちろん、当時の武士がすべて参戦したわけじゃない。
大阪冬の陣は両軍合わせて30万近い。
当時の人口が1200万程度という推計がある。
江戸末期の武士の人口が約200万。江戸初期が80万だったとしても、半分が女で
そのまた半分が子供だから、大人の武士は約20万。
半分くらいの武士が帰農したのだろう。
ただ、その「武士」ってのは、信長のころに専業の武士団を作るようになってから
一気に増えたはずなんだよな。
土地をもらえない次男坊三男坊が足軽になってリーマン化する。
で、勝ち残って大名になった殿様についたり徳川についた運のいいものは下級武士になった。
戦国期に負けて淘汰された多くの武家の家臣は帰農する。
うちんとこじゃ、戦国の山城の城主だった家は江戸時代は百姓だ。
江戸末期の時点で、特別すごい地主って訳じゃない。
近畿のように「お殿様」があまりいない地域は「村」の自治が強い。
幕府領と寺社領と大名領が入り乱れてるからな。
勘違いしてる人が多いのは、「一国一城の大名」みたいのはあんまりないってことだ。
それと、「武士の領地」ってのを、欧州の貴族の荘園みたいのと勘違いしてる。 庄屋や郷士は藩や幕府から見れば唯の百姓だが本人たちは農民とは思っていないのでは? その辺の細かいことって、国というか体制側でちゃんと記録とかしてなかったのかな
家系図がなければもうおしまい?
寺も過去帳見せてくれないし
市役所はギリ幕末までしか見せてくれないし
国(藩)が管理してたとしても身分の関係でなかったことにされるのかな
どうにかして知る方法はないものか 小藩なら庄屋クラスと武士の婚姻も結構あったようだしな 兵農分離とは
土地を持てなかった労働者低層階級がはした金の安定欲しさに専属傭兵化を選択し、
土地を大量に持つ旧封建武士階層のブルジョア階層が、権益や利権の保証のために帰農を選択
これが真実
そのため江戸の武士層は秀吉レベルのよう出自だらけになり、
庄屋は真の旧封建武士層だらけとなった
江戸の武士層こそ戦国以前の出自 は下層民とリンクしてる 俺、苗字の由来である家系の先祖の他、
血筋の先祖である男系の先祖なども、判明した。
俺の曾祖父と曾祖母はどちらも養子で、
曾祖父は養継子だ。
曾祖母の実家は某戦国大名軍師の子孫、
平安時代末期は義経公家臣。
曾祖父の実家は戦国時代は某戦国武将で、
家康公に敗戦して本多平八郎忠勝の家臣となる。
家系の先祖は、元鎌倉御家人で、北条家に追われ、遠くに逃げる、後に某藩士某士族となる。
曾祖母は藤原鎌足の子孫、
曾祖父は清和天皇の子孫、
家系の先祖は桓武天皇の子孫。
以上 曾祖父の養父の父親は、諱を重□といい、維新後に士族です。先祖は北条時政に謀反の疑いをかけられ、追われました。
一族は重を通字にします。重道の父親は、某藩士300石でした。その父親である重□の祖父も某藩士でした。
通称は治兵衛(もしくは治衛門(家系図読めば分かる、出すの面倒))です。治兵衛が初代です。治兵衛の父親は
分かります(家系図読めば分かる、出すの面倒)。
曾祖母の父親は諱を□久といい、殿様の命令で、藩の旧臣の名跡をついでおります、旧臣の家系の通字は久です。
曾祖母の父親の先祖は藤原姓で通字は重です。
つまり、藤原姓□□氏(通字:重)の嫡流が藩の命令で、旧臣の□□氏の名跡を継ぎ、諱もそれらしく久となりました。
でも嫡流なので、同時に一族の中で本家だけが名跡の苗字を名乗るという慣例が始まり、今も一族会の宗家を
自称する家(本当は分家筋の家だったが、曾祖母の実家が絶家となり、
分家が本家を自称し、苗字も曾祖母の実家の苗字に改名)曾祖母の実家の苗字を名乗っています。
曾祖父の父の諱は正□です。これは平安時代末期の清和源氏の棟梁的存在だった人の名前から始まっています。
一族は正を通字としていることが多いです。通称は三郎を通称としていることが多いです。
この三郎も鎌倉時代の御家人だった時代から三郎を通称としています。
他にも信という字を通字にしたりします。信の通字の由来は甲斐源氏の家臣だったときの由来です。
俺は歴史も好きですが、系図が好きなんすよね!
どちらかというと、系図なんすよ!よろしく! 俺、苗字の由来である家系の先祖の他、
血筋の先祖である男系の先祖なども、判明した。
俺の曾祖父と曾祖母はどちらも養子で、
曾祖父は養継子だ。
曾祖母の実家は某戦国大名軍師の子孫、
平安時代末期は義経公家臣。
曾祖父の実家は戦国時代は某戦国武将で、
家康公に敗戦して本多平八郎忠勝の家臣となる。
家系の先祖は、元鎌倉御家人で、北条家に追われ、遠くに逃げる、後に某藩士某士族となる。
曾祖母は藤原鎌足の子孫、
曾祖父は清和天皇の子孫、
家系の先祖は桓武天皇の子孫。
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