木曽義仲と京都幕府の謎 [無断転載禁止]©2ch.net
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1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか? 頼朝を武家政権の創始者にするために
京都幕府は歴史から抹消された 幕府っても影響力のある地域が少なすぎるし、体制も何も出来ていない。まあ単なる占領軍だね。義仲はあくまでも武人で政治力はサッパリだから。配下にも政治的な駆け引きに長けた者がいなかった 木曾義仲は旭将軍に任ぜられたが、統治機構たる幕府は造る暇がないまま、義経に破れ去ったから京都幕府はないのだと、
今際の際に小沢せいえつが言っていた 頼朝も当初は関東一帯に過ぎない
最大領域で見ても関東東海東北くらいじゃないだろうか そもそも平家政権自体、六波羅幕府と見なす人もいるからな、どうなんだろう 平家は征夷大将軍の位じゃなく
公家の位について政治したからなぁ
天皇と縁戚結んで行ったから
どっちかというと藤原氏と同じ政治
武家政権とは言えないような 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
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1位 木曽義仲
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4位 吉田 羊
5位 榮倉奈々 木曽義仲って教養がない脳筋だったん?
源氏の武士ならそれなりの教育受けてるもんじゃ無いの?ど田舎育ちでも >>14 義親とか為朝 義平 は見た目も脳筋。
平氏には忠度のように一角の歌人がいた。 武家政権を幕府と呼ぶよよぶばったのは江戸時代後半から。征夷大将軍に就いていないからといって
平氏や豊臣政権を幕府と呼ばないのは日本史学界の無知蒙昧ぶりを表している。
安土・桃山時代という用語もかなりおかしい。 豊臣政権の本拠地は大坂なのだから
「安土・大坂時代」とするべきだろう。「大阪」を忌避する理由はなんなのか? >呼ぶよよぶばったのは
ちょ、ちょ、ちょ、ちょいと訂正ww
呼ぶようになったのは ○ 木曽義仲と新田義貞って、なんか似ている。性格は違うんだが、キャラ枠がかぶっている。
義経と護良親王も。 >>14
親父の義賢が甥の義平に殺されて木曽の山奥に匿われて育ったからろくな教育は受けてない。
義賢は父為義の命で、為義と不仲で関東を勢力圏としつつあった兄義朝を牽制するために関東に下った。
これを邪魔と見た義朝は長男義平に邪魔ができないように軽く締めてこいと言いつけたら討ち取ってしまった。
義平はさらに義賢の遺児駒王丸(2歳)も殺そうと手配したがあまりに可哀そうと思った斎藤実盛によって
信州に逃がされた。 >>20
義仲と義貞は死に際が似ているけど、あれは太平記が平家物語の影響を受けているかららしい。 >>20
あ、あと義経と護良親王も。護良の十津川逃避行は義経記から影響を受けてる。
護良の部下に片岡八郎、武蔵坊といった義経の手下の名前が見える。 幕府ってのは統治能力を持った政権を言うんじゃなかったか。
頼朝は守護地頭を使って実質的に統治権力を収奪したから幕府と呼ばれるんじゃないか。 遠征した将軍が占領地統治のために開く臨時政府じゃなかったっけ 将軍の陣所 → 将軍の居館 → 将軍の政権
円喜、これでよろしいか? 木曽義仲は将軍だったけど、政権とは認められていないということかな。
統治機構がなかったから幕府と呼ばれないということか。 頼朝だって政権のために征夷大将軍の地位を望んだわけじゃないからね。
そこんところを理解していない人が多すぎる。 >政権のために征夷大将軍の地位を望んだわけじゃないからね
? >>30
そんなこと書かずに教えてやれよ。
俺も知りたい。 ああすまんアンカ間違えた。
>>31そんなこと書かずに教えてやれよ。
俺も知りたい。 「奥州藤原氏を討伐するために征夷大将軍を望んだ」
と、31が言い出しそうな悪寒 そもそも、幕府って、「開く」ものなのか?
んぢゃあ、
『1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を閉じる』という表現も誤りではないはずだ。 建前としては奥州藤原を討伐するため、と言っていたけどさ。
頼朝が実際に何を望んでいて、何を目的としていたかはわからんだろ。 >>38
近年は「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と言わないように、
征夷大将軍=幕府と言う考えではなくなってるのも知らないみたいだね。
武家のトップとしての将軍、という意味も当時は出来てない。
鎌倉に摂関家や親王の将軍がいたし、建武の新政下でも親王が将軍になってる。 頼朝が望んだものは摂関家の家格
右近衛大将も征夷大将軍も本望ではなかった
大姫を入内させ、天皇家の外戚となり日本国総追捕使として国家の軍権も併せ持つこと
清盛も成し得なかったことだ(清盛の場合、後白河の幽閉が悪手だった) じゃあ頼朝は純粋な意味で武家政権を望んだわけではないということか。 摂家将軍を迎えた北条政子は頼朝の理念を受け継いでいたと言える >>37
はずれwww
その説は現在の学界では否定されているんだね。
大体、頼朝の将軍任官は奥州征伐の2年後だし。
やっぱり ゆとり世代はどうしようもねえなw 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 将軍任官=幕府成立でないのは知ってるよ。ただ >>31のレス見て、
「コイツ、絶対 奥州征伐のこと持ち出すぜww」と思っただけww >>9
軍権だと清盛の畿内惣官職も幕府とみなしてよいかも >>44
甘いな
>>46
ウィキペディアの記事は間違いではないが、研究者が逃げ道を用意した消極的な論説
正解はズバリ
中国風に言えば「大都督」の地位
日本での唯一の例は藤原仲麻呂(ただし凶例としてこの名称を忌避)
頼朝は流人時代の20年間、写経と漢籍の日々を送っている
それと京下りの大江や中原は紀伝・道文章道の専門家
大都督を手本に独自の地位を創出した 大都督は太政官の統制外に在った
実は近代日本にも都督は存在した
中国大陸に展開した関東軍を隷下に持つ関東都督府である
関東都督府は合法的に日本政府や陸軍の統制外に在ったのだ おおお!
関東都督こそが武門の棟梁か
いいくにつくろう
満州幕府
(ダメリカに壊されたが) 満州事変が関東軍の暴走のように言われるが
関東都督府が軍権を持っていたので当然、法的に交戦権を有する(国際法的には微妙だが)
大日本帝国憲法で最終大権(統帥権)は天皇に有るが >>44
ちゃうちゃうww
征夷大将軍の由来なんか、」どうでもええ。おまえさんの知識よりもっと詳しい事
書いてもいいけど。まあそんなんどうでもいい。
要は>>31(>>37)が薄っぺらいレスを書いたので、
「あんた、知識無さすぎ。やり直し」と書いたまで。
ええか、<<31>>37
何万回でも書いてやるが、奥州征伐と頼朝の征夷大将軍任官は無関係。
奥州征伐の3年後に征夷大将軍になって、どないすんねんww
少し頭を使いたまえ。 >>49
何が 「正解」やねん、アホかw
おまえさんとウイキペディア、言うてること同じやがな。
つーか、 独自解釈書く時は出典出せよw
おれが言いたいのは
奥州征伐と頼朝の征夷大将軍任官を結びつけた>>31>>37は
非論理的で根拠がない、つーこと。わかったか? >>29ほどではないけどな
>そこんところを理解していない人が多すぎる。
何度読み返しても笑いがこみあげる 有り得ない{もしも}だが、義仲が頼朝を倒して幕府を置くとしたら、
やはり京都だろうか? 木曽ということはいくらなんでもないわな。 天険の要塞
木曽谷幕府か?
木曽源氏の巴御前VS越後城氏の板額御前で
女総大将どうしで天下分け目の最終決戦となる。 木曽はなさそうだが、近江とか名古屋、金沢とか小松あたりなら有りかな?
そういう歴史も見てみたい。 さすがに金沢小松はないだろう
北陸へ行くにはどの道を通っても他の地域と行き来するのに厳しい峠がある
閉鎖的だったので文化的にもかなり特殊だしな 加賀藩こそ雪深く敵寄せ付けぬ越し幕府の成功例
木曽氏も北陸にいればいまごろ侯爵だ そりゃぁ、北陸は日本書紀の頃まで日本じゃなたからな
いつの間にか東北の仲間になってた出羽は許せん!
何処にも入れてもらえない越後には・・・ざまぁw 金沢に幕府が開かれていたら、北陸新幹線は50年早く開業しただろう。
他にも 金沢オリンピック 金沢サミット 金沢タワー etc 鎌倉から全国の統治は出来たけど、金沢じゃどうしても地方政権で終わりそうだな。
狭ずぎだし冬は寒いしマイナス要素が多すぎる。 >>67
そうかな? 鎌倉の方が狭いし 当時のk感覚からいえば関東の方が辺鄙だ。
加賀がそんなにいいとは思わんが、相模より悪いとは一概には言えんな。
後知恵で歴史を見ていないか? もともとそこにいた人達を追い払って新政府を作ると後後まで抵抗されて
面倒くさいという事を平安京で学んでいるから
辺鄙な関東の方が都合が良いのではないだろうか 巌本 金沢から人物が出ないようです
勝海舟 出ない 義仲ルート義経ルートで幕府開くとか考えると
頼朝が如何に奇跡的なことを成し遂げたか分かる >>68
関東は潜在的な生産力が高いが、金沢はそれがゼロに近い。
その上雪は降り冬期には軍事行動が出来ず、統治するには全く向いていない。
地方政権を作るには向いていると思うが、全国政権は難しいんじゃない。
出来ても早々と室町幕府化じゃないかな。
地盤が弱いと天領御料所を増やすことも出来ないからね。 >>70
甲信地方は正一位諏訪氏のほうが凄いだろうに。 義経は政治音痴だから無理だろう
あくまでも戦術家だから
頼朝は石橋山の窮地を生還した類稀な強運もある >>73
あんたの言う通りだと思う。
でも、地方政権ってのが義仲には似合ってると思うな。
義仲が全国政権を狙ってたとはとても思えないからね。
「俺が一番強い、俺の言うこと聞け」みたいなのが義仲の短所だけど、好感の持てるところなわけで。
つまりなにが言いたいかというと、金沢あたりで義仲が幕府開いていたら、京都義経、鎌倉頼朝、金沢義仲、欧州藤原と4つの勢力ができて、
まあその後どうなるか、という歴史のifも興味あるな、と思うわけですよ。 >>77
公武合体政権が一つと武家による地方政権が3つが割拠するわけか。
要は室町鎌倉の統一期間を経ずして、300年早い戦国時代に突入していたら?って仮定だな。
多分、京都の義経政権は、本人の政治力的に考えて平家政権をそのまま踏襲するだろう。
そしてそれでいて、多分清盛の様に太政大臣や関白にはなれないだろう。
義経には平家の様に大規模な収入源が無いからな。
畿内惣官職に留まるだろう。
そして徐々に戦国時代の細川のように、貴族化し弱体化。
そんなタイミングで、武力を持つ義仲と頼朝が南と北で天下を相争うことになるのではないかな?
藤原は自ら天下を狙う事は無いだろう。
第三勢力として生き残りを図ると思う。 >>78
勢いだけじゃない地方政権で力を蓄えた義仲と、頼朝の天下の取り合いは、なかなかに興味深いな。
そうこうしているうちに、平家も九州あたりで力を盛り返してきて、瀬戸内海を大船団で東に向かう、とか考えると胸が熱くなるな。
義経は政治的に中央で主導権を握れないだろうから、やっぱり奥州へ亡命する。
義仲が残っているのなら、秀衡の息子たちも義経を裏切らないだろう。
結果として、西国平家、北陸義仲、相模頼朝、奥州藤原(大将義経)の4国戦国状態とかどうよ。 頼朝は甲斐源氏武田とも少なからず確執があったからな
源氏は争い合う運命 道州制を目指す義仲 北陸維新の会
西国と東国と奥州と大陸の統合を目指す欧州藤原氏。通貨はユーロ 62:06/10(金) 20:27
最近さ(信州甲州人)と混ぜる陰湿信州人がいるんだよな
甲州武士>>>信州武士だろ 源氏が身内で争うのはなんでかね。
平氏も将門のころは身内で争ってたけど、平家の仲が良いのはなんでかね。
清盛の人徳かね。
北条も身内争いあまりないね。 そりゃ、血縁で繋がってる前提だったのに
血縁でもない連中に家系図売りまくったらそうなる >>83
北条時政は、政子らと争い伊豆に隠居
時輔は、時宗に謀られた。
他の御家人つぶしで忙しかった。 名越家も幾度も得宗家と反目しているとはいえ、二月騒動以降は大人しいからな 身内で争うのは、何の不思議でもないw
現代人でも、兄弟でも遺産相続で争うしな >>83
源氏将軍と足利将軍は身内で争ってるイメージ
平氏や北条氏は一門で争っても敗者の一族をある程度の役職で登用しているイメージ 野心の達成の為なら手段を選ばないあたり源義光は相当だと思う 2016/6/16 12:02 ブルームバーグニュース日本語版 中国が米国株を大量売却−世界を圧倒的に上回る急ペースで保有削減
【アホノミクス】 中国ナイス! さぁ、始まるぞ、サヨクの時代が! ゲスウヨ土下座?(笑) 【クロダショック】
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界に振りかかる負担は莫大です。世界を餌にして生きており、社会に何も負うことなく、何も還元しません。
来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
竹下雅敏「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
矢追純一「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKe tUkq8 公家と武家の間での戦争を、仮に「公武戦争」と呼称してみる。
公家と武家の覇権争いは大きなものでは次の4つを挙げてよろしかろう。
@ 法住寺殿合戦 (1182年)
A 承久の乱
B 元弘の乱
C 延元の乱
ここまででは武家側の3勝1敗だが、周知のとおり、延元の乱後に南北朝の争乱と言う長期戦が始まる。
この「公武200年戦争」の結果、公家側が完全敗北し、朝廷は政治権力と経済基盤を喪失。
その後は政治的・宗教的儀礼のみを行う存在に転落した。
公武200年戦争の最初の口火を切った木曽義仲を新視点で捉え直してみるのも面白い。 頼朝は父親の失敗や後白河院の陰謀を見てきて尚更のこと京とは隔絶したかったんだろう 頼朝が鎌倉を動かなかった理由は>>94のとおりだと思うが、考えてみればこれは大変なことである。
京都は室町時代においては産業・金融が高度に発達し、全国各地へ通じる交通網も整備され、
「一極集中」状態にあった。 日本を統治する拠点としてここを外すという選択は
政治論として普通は有り得ない。
室町幕府も豊臣政権も畿内の他に本拠地を置かなかったのは故なしとしない。
方向性というより、そもそもそれが本来自然なのだ。 地方政権としてスタートしたけど承久の乱や元寇などの有事を契機に全国政権となったというかならざるを得なかったんだよな 頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと
同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って
日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、
頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?
我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方が
いいのかもしれない。 東国武士も以外と都との繋がりが深かった連中もいるらしいし、
義時に至っては娘の多くは都に嫁いでる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています