木曽義仲と京都幕府の謎 [無断転載禁止]©2ch.net
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1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか? >>110
その起請文書かされた時期が実は吾妻鏡の編集の際に操作されたという説もある。
吾妻鏡の記載順だと
武田信義の起請文→甲斐信濃侵攻→一条忠頼殺害だが
延慶本平家物語等の期日に従えば
一条忠頼武蔵守任官(?)→一条忠頼殺害→甲斐信濃侵攻→武田信義の起請文
なのではないかともいわれている。
安田義定なんかは、義仲と一緒に都に上ってその時に任官してるから
頼朝としては甲斐源氏はやっかいな連中と思っていただろうな。 逆に加賀美遠光は御門葉だからな
あれだけ分家が有れば両陣営に分かれるのは当然だけど >>112
逆にそれだけ一門をまとめるのが大変な時代だったんだろうな。
分裂の芽をみつけてそこにつけこむ頼朝が上手いってことだろう。 そういえば義仲も上洛するときは結構人数集めたけど
その人数減るのも早かったよな。
坂東の御家人たちを脱落させずに、まとめつづけていた頼朝ってやっぱり凄いのかな? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>114
上総広常の場合、日和見というかかなり強硬的な態度だったからな 戦に敗れて弱っている時にたくさんの人が助けにくる頼朝と、戦に負けると人が離れる義仲の違いはなんだろう。
軍事力あっての政治力という見方もあるけど、軍事力を背景に味方にした軍勢は、負けて旗色が悪くなると離れていくよな。
頼朝は戦に負けてしょぼんとしているときになぜか仲間が多くできる。
梶原景時しかり、千葉常胤しかり、上総広常しかり。
人望なのか、政治力なのか。 永井路子さんの「北条政子」の中の頼朝のセリフに「俺の運はどんずまりになって開くことがある。いや、どうもそこまで来ないと開かないらしい。」
とあった。
頼朝の人生を象徴するセリフだなと思った。
平治然り、石橋山前後然り。 平賀家があれ程厚遇されたのも平賀義信が義朝の七騎落ちに忠節を尽くした恩義も含まれてるからね
苦労を知ってるからこそ義理堅いのでしょう >>118
相模、武蔵、房総武者と信濃、上野、北陸武者の差 >>123
その差が実際にどういうものか、具体的に教えてくれんかね? 政子が嫁がなかったら三浦あたりが執権になってたんだろうな 出会いにも恵まれ、人生で伊豆の流刑時代が最も平穏だったんだろうな 政子の前に付き合ってた伊東祐親の娘とは引き離されたけどな。
間に生まれた娘も祐親に殺されてる。
祐親次第では伊東が執権だったのに。 しかし頼朝ってほんと等身大の普通の人間だよな
たいがいはさ
こう弟の義経みたいに超人伝説みたいのあんじゃん
そういうのがあんまりないつうか
鮭食って喜んだり
普通過ぎるよな >>129
最後は馬から落ち死んだからな あまり伝説的に書くわけにも 超絶の人たらしだったんじゃないかな
表面的には魅力あってカリスマ性もあるけど
中身は冷徹な政治家 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 義経は戦に於いては鬼神の如くだけど政治面がアレだからな
軍事的にも政治面でもバランス良く揃ってるのは範頼かな 確かに、石橋山の合戦で敗れた頼朝のところに、続々と武士たちが
合流してくるというのは不思議な話だ。
ふつう、あれだけ惨敗してしまえば、政治生命を失うものではないのか?
義仲が粟津の松原で敗れた後、無事に北陸に落ち延びられたならば、
再び武士たちを集めて、再起できたであろうか? 頼朝の売りって軍事力ではないから、戦でボコられてもダメージは無いという、ある意味最強の存在だったんじゃないのか 頼朝の売りは源氏の嫡流(河内源氏の)であるということだよ。
これが大きいんだろう・・・
南北朝でも足利尊氏が源氏の棟梁と認識されてたから味方した勢力も多いだろうしな・・・
じゃあ、新田義貞(源義国の長男系)はどうだったんだ?、って疑問に思うかもだけど、そこはスルーして見逃してくれ! 新田の一門でも山名義範は一番に馳せ参じてその忠義を評価されて御門葉として優遇されたからな 足利と新田は鎌倉時代から扱いに差があったからなぁ。
義貞の責任ではない。 >>137
本人が流刑前に獲得した官位と都との人脈、それと父親を通じて南坂東の武士たちがまんざら知らない顔じゃなかったという点が大きいだろう。
嫡流は勝ったもんが名乗るものだから
石橋山時点では頼朝が嫡流と認識されてたわけじゃないだろう。 頼朝は曲がりなりにも令旨を奉じてたってのが大きかった
義仲もそのあたりは一緒だろう 頼朝は血筋の正当性のわりには誰のツバも付いてないというか、
北条という外戚はいたものの、決起時には北条単体では何の力も無いという状態で、
つまり頼朝のもとに参陣する武士団は平等にスタートアップの権利を有することになる、
というのも頼朝人気の理由の一つではないかな
木曽義仲などは地元の武士団が創業メンバーで、後から参陣してもどうしたって2番手3番手の扱いだろうし、
それではモチベが上がらないよね 千葉と上総が来たのがデカイよね
流れを作るには三浦じゃ身が小さ過ぎる
両総に頼朝担ぐメリットがあったってのが最大の要因じゃないかな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 上総広常は伊藤忠清との紛争があったからな
平家と確執が生じていた 千葉も重盛縁戚の千田氏にかなり圧迫されて
起死回生の機会を狙ってたし。 木曽殿は京都を放棄して北陸方面へいったん退き、再起を期したほうがよかった。
その際、北陸宮をお連れし、可能ならば後白河院もお連れするのがよい。
北陸宮の行宮を建設して旗印とし、木曽殿ご自身も左馬頭・伊予守の官位が
あるのだから、十分に求心力がある。
辛抱強く平家や奥州と連絡を取って、鎌倉の佐殿を牽制すれば、独立勢力を
維持できたに違いない。 頼朝・義経がいなければ義仲は天下統一ができたのだろうか?
マネジメント 人心収攬術 外交手腕がなさそうな人なので京都幕府は長続きしそうな気がしない。
あるいは南北朝時代の足利幕府のように四苦八苦しながら存続するか。
西国は平氏に、奥州は藤原氏に半独立状態を認め、他の源氏と同盟軍の将として京都幕府は存在。
足利幕府の劣化バージョンだな。 義仲はブサメンというイメージだな
イケメンだったら、京の貴族たちも一目置いたんではないか 源義仲は政権構想がないし、広範な武士団の支持もないので、「幕府」と
言えるような政権は無理だと思う。
後白河院が平家を牽制するための手段として使われるのが関の山ではないか。
後白河院を幽閉して全権を掌握し、「京都幕府」のような状態になったの
だろうが、その後の構想がなく、人脈やノウハウもない。
仮に頼朝・義経がいなくても、院宣を受けた別の武士に追討されてしまう
のではないか。
義仲よりまだ平家のほうがはるかに政権運営力があると思う。 京都を 「姦ってよし。 盗んでよし。 殺してよし。」の街にしたのが
義仲さん 牛車の乗り降りの作法を間違えて顰蹙を買ったんだよな
貴族化した平家とは対照的だが 用事で尋ねて来た貴族に強引に食事を勧め、大盛りのご飯を出して、
困らせたこともあった。
根は善良だが、都の文化を知らない無骨者として描かれている。 古田織部の方が当時の京の貴族より器がでかいということだな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 「京都幕府」は義経軍との合戦以前にすでに空中分解していた。
平氏の京都奪還も有り得た。
仮に鎌倉幕府が成立しなくとも(頼朝が存在せずとも)、義仲政権は長続きしなかっただろう。
都落ちした義仲は北陸の武士たちにも見限られ、信濃へ逃げ帰ったのではないか? 20 :日本@名無史さん 2015/09/22(火) 17:54:07.17
信濃源氏などは義仲に従ったというよりは、やや義仲に主導権のある同盟ってとこかな?
信濃以外に義仲についてたのは(同盟的立場)
北陸豪族 → すぐ離れる
源光長(美濃源氏)→法皇につき敵対
葦敷義隆(尾張源氏)→距離を置く
安田義定(甲斐源氏)→離れて頼朝につく
源行家→ 敵対
山本義経(近江源氏)→最後まで義仲につく
志田義広→最後まで義仲につく
頼朝のような強力な主従関係によって構成された(といっとも後世より拘束力ははるかに弱い)家人をあまりもたない
同盟者頼みの義仲は同盟者に去られると
軍事力はすぐにガタ落ちする 治承寿永の乱(源平合戦)蜂起勢力
伊豆→南坂東 源頼朝 (河内源氏義家流)
甲斐→駿河・遠江 武田信義・安田義定他甲斐源氏 (河内源氏義光流)
信濃→越後 源義仲 (河内源氏義家流)
尾張 源重隆他尾張源氏(清和源氏満政流)
美濃 源光長他美濃源氏(清和源氏頼光流)
近江 山本(源)義経他近江源氏(河内源氏義光流)+園城寺
若狭・越前 反平家在庁官人勢力(当初は義仲とは無縁に挙兵)
大和 興福寺他寺社勢力
紀伊 熊野三山のうち湛増など反平家勢力
伊予 河野通信ら河野水軍(源平両氏に関係なし)
土佐 源希義(河内源氏義家流)
肥前・筑後 菊池氏など反対平家勢力(源平両氏に関係なし) 頼朝・義経が攻めてこなかったとしても、源義仲は平家に都を奪還されて
いたのではないか?
「京都幕府」の末期は、義仲よりも一の谷に拠点を作った平家のほうが
軍事的に優勢であるように見える。
後白河院は平家による報復を恐れて、平家の再上洛をためらうかも
知れないが、無教養な義仲による狼藉より、中央貴族としての教養が
あり、統治経験のある平家を、最終的には選ぶだろう。 義仲と頼朝の差は政治能力の差であることは論をまたないが、具体的には
組織のマネジメント力、人心収攬術の差に顕著に出ている。
義仲入京時の反平家軍は美濃源氏 甲斐源氏、北陸の豪族などの混成軍で、
入京後の狼藉三昧を義仲一人に責任を負わせるのは聊か可哀そうではある。
しかし、「頼朝だったら・・・」と考えるともう少し上手く処理できただろう。
対朝廷政策も稚拙であったし、実際史実においても、宇治川の戦い直前には
京都幕府は事実上空中分解していた。 義仲は自身の勢力圏が頼朝よりはるかに京都に近かったため、頼朝より先に上洛できた。
清和源氏の嫡流を自任する頼朝にとっては忸怩たるものがあったろう。寿永の宣旨の要請は、
実は頼朝の焦燥から為されたものであることに注目するべきである。
しかし、義仲は先に「幕府を築いた」ことによって、様々な諸問題を一気に背負いこんでしまい自滅した。
頼朝はこれを反面教師に、入京前の事前学習が出来た。常にピンチをチャンスに変えてきた
頼朝らしさがここでも発揮された。 大蔵合戦の件で頼朝の一家とは少なからず因縁があるんだよね 木曽義仲は日本人好みの悲劇性 英雄性は十分持ちながら 同時期の義経においしい所を
全部持っていかれて マイナー武将になってしまった。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 火牛の計について教えてください。
義仲勢は加賀の百姓武士どもを叩きのめすのは簡単だったのでしょうか? 吉川英治の新平家物語を読んでる。とても面白い。
木曽義仲が京にのぼったところまで読んだ。
名作ですな。 古典も現代版も読んだことが無いので誰かに訊きたいが、大夫房覚明はなぜ義仲のもとを離れたの?
やっぱり 「こいつは天下取る器ではない」と見限ったから?
>>170
火牛の計は『源平盛衰記』の作者が『史記』からパクった創作と言われてるよね。 なるほど。
勇猛果敢な加賀武者が義仲などに簡単に負けるわけがないと考えていました。
火牛の計は作り話ですか。やはり加賀の百姓武者とはいえ、百万石のルーツ。
田舎源氏の義仲などに負けるはずがない。 百万石のルーツっても武で切り開いた100万石でもないし >やはり加賀の百姓武者とはいえ、百万石のルーツ。
誰のこと言ってんの? 誉れ高き加賀びとたちのなかで平家追討の旗揚げをする武者はいなかったのでしょうか?
政治が得意の加賀武者なら都を静かに治めることなど容易だったはず。
文武両道に長けた加賀武者が静かに征夷大将軍になり幕府を開くのが筋のはず。
謎は深まりますね。 源氏は
鬼退治(源頼光)・オオカミ退治(義家・義仲)などの武名・伝説が多い
・(八幡太郎)義家の、軍勢でのオオカミ退治の手柄で「狼坂(おいぬざか)」
源義家の狼退治伝説 - 地元あちこち
kacco.kahoku.co.jp/blog/m-katono/53770
> 「医学部北門から南に延びる旧新坂通りのこの辺りのゆるい坂道は、
> 八幡太郎源義家が後三年の役に奥州下向の折(1083年)、
> 万民を悩ます狼を退治し埋めた所と言い伝えられている。」
> 昔は中山の辺りには狼が多く住んでおり、 この辺りまで下りてきて
> 住民に危害を加えていたそうです。
>>167
義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺
人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた… <鎌倉幕府> 源頼朝 −北条政子ー北条時政ー大江広元
<京都幕府> 源義仲 −巴御前 ー中原兼遠ー大夫房覚明
こう見れば相似形で義仲も悪くないんだが、どこで差がついたのか? >>180
ブレーンというより嫁ハンの手綱の違いではないか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>173
木曽義仲は、個人の勇猛さでは子供時代の狼退治があるな>>178 頼朝って
義仲はころすし義経も殺した。
だから3代で滅んだ。
これといった戦績も残していないのに
幕府を築けたことが不思議。 だからこそ、幕府開けたんだろうし
んな腐れ儒者みたなこと言われても困るだろう 鎌倉幕府は、二代目の頼家が京都の公家から正室を迎えて嫡子を設けていれば
比企の乱を防止できて、源氏将軍を継続できていたのではないか?
関東の御家人を外戚にするのは、源氏将軍にとってリスクが大き過ぎる。 比企と梶原も足並みが揃ってないからな
頼家も梶原を見捨てたし ちょっと長いけど
1180年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺
の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠
地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏
内の武将達を従えました。兼平も根々井行親の領地の近くに館を構えまし
た。そして、義仲に従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。
横田河原の合戦で勝利の後、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるため
に、兼平を各地に赴かせました。兼平は新潟県糸魚川市、新潟県中魚沼郡
津南町、福井県丹生郡清水町にそれぞれ「今井城」を築き、義仲の期待に
応えました。
1183年、頼朝と対立した義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきま
した。その事をネタに頼朝は義仲に兵を送って「二人のおじか、息子の
義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と脅しました。義仲
は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。
義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、「ここで鎌倉と
戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という
小室光兼と「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだから
ここで戦うべきだ」という兼平が対立し、義仲は小室の意見を採って、息
子の義高を鎌倉に送りました。これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から
脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。
義仲軍は、倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を
義仲軍は連戦連勝で進みました。兼平は木曽四天王の随一として、各地で
戦いました。特に倶利伽羅峠の戦いの前哨戦であった般若野(富山県)の
戦いでは六〇〇〇騎を率いて平氏側の先鋒部隊をけちらし、倶利伽羅での
勝利を導き出しました。(続く) (続き)
義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めて
から京都へ入りました。平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろう
としました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、義仲はそれに従
わず、都の治安を守ろうとしました。しかし、一一八一から二年にかけて
の飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入る
という変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかた
って乱暴狼藉を働く者も現れました。また御白河院進めていた新天皇の
人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、
次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」
を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。
義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、
また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した
事を知り、急いで京に戻りました。しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発
し、義仲は院に弓を引く事を決意しました。
兼平はそれをとめようとしましたが、義仲の意志がかたい事を知り、兼平
は自ら院の御所に火を放ちました。 その結果、義仲は政権を握り、征夷
大将軍にまでなりましたが、頼朝が送った義経らの軍に追われる身となり
ました。
兼平は義経の軍に立ち向かうべく義仲と別行動をしていましたが、死を前
にして、二人は奇跡的にめぐり合い、そして、共に粟津で果てたのでした。
http://kyaro.nikita.jp/jinbutu/siten/imai.htm 兼平は
「どうせいつかは頼朝と戦わなければならないのだから」
って思っていたんだね。
いつから、どうしてそう思ったんだろう。 後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
どんな顔してたんだろ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>195
>後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
俺も昔はそう思ってたけどね。朝廷は自前の武力を持ってないから身を守るために
使える者を常に求めているのだ。平家は大きくなりすぎて言うことを聞かなくなったから
源氏に声をかけた。義仲も言うことを聞かない暴れん坊だから義経に目をつけた。 それを引っ掻き回すって言うんだろ。
民はいい迷惑だな。 しかし武士の武力無しには京の治安も守れないんだぞ。
武士がちゃんとやれば民のためにもなる筈だ。 自分は動かない麻呂の為にちゃんと働くわけは無いだろう。
まぁだからこその承久の乱なんだが。 百万石の武士団は何をやっていたの?
加賀の武士団が勢いよく都を制圧して幕府を開けばよかったのに 軍事貴族連合盟主としての河内源氏と
それを下支えの暴力装置とした摂関権力を破壊するため
白河上皇は、軍事奴隷階級を自らの直卒として掌握し
全国の国衙郡衙を軍事管制した。
その総司令部が法勝寺の北面であり
総指揮官が平家である。
この革命的権力を継承したのが後白河であり
武装皇権というべきもの。
皇家がやんちゃなので他家もならい
勝手に外交していたのが平家
勝手に幕府を建てたのが源氏 >>202
院政期が中世の始まりだから
単に武士対貴族という階級闘争的な史観ではなくて、貴族社会に中世の発祥を求めるのが最近の考え方だからね しかしその貴族社会は社会のてっぺんから程なくドロップアウトしてしまう。
だから中世=武士って感覚なんだろ。
それに貴族は封建制を敷いてないからな。
半中世?的な感じか。 一応、鎌倉末までは公家は膨大な所領を有する支配階級の最上層部だろ。
中世も南北朝の真ん中あたりで二分化されるんjyないかな。応安の半済令あたりで。
前期中世・後期中世みたいな。 摂家や宮家から将軍を迎えたり協調しつつも、京と鎌倉は隔離してたから
ジレンマを完全に克服したのが室町で単純に権限自体は守護領国制の方が大きいからな > 義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺
> 人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
> http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…
木曾義仲の興亡と越中国の伝説
http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=299381386
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治
えっ・・・義仲が「7歳で」オオカミ退治って、ものすごい武人では? >>182 183
「便女」(びんじょ)
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。」平家物語 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています