木曽義仲と京都幕府の謎 [無断転載禁止]©2ch.net
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1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に
征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか? もともとそこにいた人達を追い払って新政府を作ると後後まで抵抗されて
面倒くさいという事を平安京で学んでいるから
辺鄙な関東の方が都合が良いのではないだろうか 巌本 金沢から人物が出ないようです
勝海舟 出ない 義仲ルート義経ルートで幕府開くとか考えると
頼朝が如何に奇跡的なことを成し遂げたか分かる >>68
関東は潜在的な生産力が高いが、金沢はそれがゼロに近い。
その上雪は降り冬期には軍事行動が出来ず、統治するには全く向いていない。
地方政権を作るには向いていると思うが、全国政権は難しいんじゃない。
出来ても早々と室町幕府化じゃないかな。
地盤が弱いと天領御料所を増やすことも出来ないからね。 >>70
甲信地方は正一位諏訪氏のほうが凄いだろうに。 義経は政治音痴だから無理だろう
あくまでも戦術家だから
頼朝は石橋山の窮地を生還した類稀な強運もある >>73
あんたの言う通りだと思う。
でも、地方政権ってのが義仲には似合ってると思うな。
義仲が全国政権を狙ってたとはとても思えないからね。
「俺が一番強い、俺の言うこと聞け」みたいなのが義仲の短所だけど、好感の持てるところなわけで。
つまりなにが言いたいかというと、金沢あたりで義仲が幕府開いていたら、京都義経、鎌倉頼朝、金沢義仲、欧州藤原と4つの勢力ができて、
まあその後どうなるか、という歴史のifも興味あるな、と思うわけですよ。 >>77
公武合体政権が一つと武家による地方政権が3つが割拠するわけか。
要は室町鎌倉の統一期間を経ずして、300年早い戦国時代に突入していたら?って仮定だな。
多分、京都の義経政権は、本人の政治力的に考えて平家政権をそのまま踏襲するだろう。
そしてそれでいて、多分清盛の様に太政大臣や関白にはなれないだろう。
義経には平家の様に大規模な収入源が無いからな。
畿内惣官職に留まるだろう。
そして徐々に戦国時代の細川のように、貴族化し弱体化。
そんなタイミングで、武力を持つ義仲と頼朝が南と北で天下を相争うことになるのではないかな?
藤原は自ら天下を狙う事は無いだろう。
第三勢力として生き残りを図ると思う。 >>78
勢いだけじゃない地方政権で力を蓄えた義仲と、頼朝の天下の取り合いは、なかなかに興味深いな。
そうこうしているうちに、平家も九州あたりで力を盛り返してきて、瀬戸内海を大船団で東に向かう、とか考えると胸が熱くなるな。
義経は政治的に中央で主導権を握れないだろうから、やっぱり奥州へ亡命する。
義仲が残っているのなら、秀衡の息子たちも義経を裏切らないだろう。
結果として、西国平家、北陸義仲、相模頼朝、奥州藤原(大将義経)の4国戦国状態とかどうよ。 頼朝は甲斐源氏武田とも少なからず確執があったからな
源氏は争い合う運命 道州制を目指す義仲 北陸維新の会
西国と東国と奥州と大陸の統合を目指す欧州藤原氏。通貨はユーロ 62:06/10(金) 20:27
最近さ(信州甲州人)と混ぜる陰湿信州人がいるんだよな
甲州武士>>>信州武士だろ 源氏が身内で争うのはなんでかね。
平氏も将門のころは身内で争ってたけど、平家の仲が良いのはなんでかね。
清盛の人徳かね。
北条も身内争いあまりないね。 そりゃ、血縁で繋がってる前提だったのに
血縁でもない連中に家系図売りまくったらそうなる >>83
北条時政は、政子らと争い伊豆に隠居
時輔は、時宗に謀られた。
他の御家人つぶしで忙しかった。 名越家も幾度も得宗家と反目しているとはいえ、二月騒動以降は大人しいからな 身内で争うのは、何の不思議でもないw
現代人でも、兄弟でも遺産相続で争うしな >>83
源氏将軍と足利将軍は身内で争ってるイメージ
平氏や北条氏は一門で争っても敗者の一族をある程度の役職で登用しているイメージ 野心の達成の為なら手段を選ばないあたり源義光は相当だと思う 2016/6/16 12:02 ブルームバーグニュース日本語版 中国が米国株を大量売却−世界を圧倒的に上回る急ペースで保有削減
【アホノミクス】 中国ナイス! さぁ、始まるぞ、サヨクの時代が! ゲスウヨ土下座?(笑) 【クロダショック】
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界に振りかかる負担は莫大です。世界を餌にして生きており、社会に何も負うことなく、何も還元しません。
来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
竹下雅敏「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
矢追純一「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKe tUkq8 公家と武家の間での戦争を、仮に「公武戦争」と呼称してみる。
公家と武家の覇権争いは大きなものでは次の4つを挙げてよろしかろう。
@ 法住寺殿合戦 (1182年)
A 承久の乱
B 元弘の乱
C 延元の乱
ここまででは武家側の3勝1敗だが、周知のとおり、延元の乱後に南北朝の争乱と言う長期戦が始まる。
この「公武200年戦争」の結果、公家側が完全敗北し、朝廷は政治権力と経済基盤を喪失。
その後は政治的・宗教的儀礼のみを行う存在に転落した。
公武200年戦争の最初の口火を切った木曽義仲を新視点で捉え直してみるのも面白い。 頼朝は父親の失敗や後白河院の陰謀を見てきて尚更のこと京とは隔絶したかったんだろう 頼朝が鎌倉を動かなかった理由は>>94のとおりだと思うが、考えてみればこれは大変なことである。
京都は室町時代においては産業・金融が高度に発達し、全国各地へ通じる交通網も整備され、
「一極集中」状態にあった。 日本を統治する拠点としてここを外すという選択は
政治論として普通は有り得ない。
室町幕府も豊臣政権も畿内の他に本拠地を置かなかったのは故なしとしない。
方向性というより、そもそもそれが本来自然なのだ。 地方政権としてスタートしたけど承久の乱や元寇などの有事を契機に全国政権となったというかならざるを得なかったんだよな 頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと
同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って
日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、
頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?
我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方が
いいのかもしれない。 東国武士も以外と都との繋がりが深かった連中もいるらしいし、
義時に至っては娘の多くは都に嫁いでる。 三浦などの旗揚げ以前からの重鎮もいることだし少なくとも頼朝にとっては軍事的にも政治的にも関東が基盤だからな 秋山豊寛さんて覚えてる?
木曾義仲は秋山豊寛さんとカブるんだよなあ
秋山さんは正真正銘日本人初の宇宙飛行士でありながら、世間では毛利衛さんが初と思われており、秋山さんは不当に無視され続けている
理由はいくつかある
・秋山さんは当時TBS社員であり、TBSの企画で宇宙に行ったので、他のマスコミから無視されている
・秋山さんは宇宙から帰還後、TBSの上層部と喧嘩し退職しているので、TBSからも無視されている
・日本の正規の宇宙開発コミュニティであるJAXAは、毛利衛さんより先に宇宙に行ってしまった秋山さんを心良く思っておらず、
宇宙関連のイベントなどに秋山さんが呼ばれることは無い
・毛利衛さんが人格者すぎて、ほぼ国民の総意として秋山さんは無かったことにされている 義仲も気の毒だが、頼朝義仲と並ぶ勢力だった甲斐源氏の無視されっぷりはもっと悲しいぞ。
最近は注目されつつあるけど。
そういえば甲斐源氏の中に秋山っていたな。 京師(京都)は高位貴官の在る王城にも似合ず万事軽薄鄙吝を専となし、何事も陰等に事をはかろふ故、遂に弁舌の工みと相成、内大小相違するなり。
それ故近辺のうわさにも「京の弁舌」といひて、人を欺く習ひと相成、歎ずべきの至りなり。
其故男児らしき英偉磊落の気風はさらに無し。うちめうちめと計ろふなれば、少しく侠心のある人々は、とても永住のならぬ地なり。 尊氏はともかく義満はむしろ関東に移るべきだった
ただ鎌倉はないな 甲斐源氏に関しては一条と安田が討たれる一方で加賀美遠光や小笠原長清を与党として厚遇する分断工作があったからな 甲州武士>>>信州武士ヘタレ腰抜けやぶれて敗北武士wwwwww >>102
>木曾義仲は秋山豊寛さんとカブるんだよなあ
成程 ウケた。しかしそれ言い出すと、「無かった事」になっている人物達って
義仲に限らず沢山いるでしょ。 光厳天皇とか、三条実美首相とか。
名前忘れたけど後醍醐天皇が吉野に逃げる前に譲位した親王とか。 >>103
もともと協調路線で戦争に及ぶ前に完全に牽制されたからな
鎌倉に召集されて神前で起請文を書かされてるし >>110
その起請文書かされた時期が実は吾妻鏡の編集の際に操作されたという説もある。
吾妻鏡の記載順だと
武田信義の起請文→甲斐信濃侵攻→一条忠頼殺害だが
延慶本平家物語等の期日に従えば
一条忠頼武蔵守任官(?)→一条忠頼殺害→甲斐信濃侵攻→武田信義の起請文
なのではないかともいわれている。
安田義定なんかは、義仲と一緒に都に上ってその時に任官してるから
頼朝としては甲斐源氏はやっかいな連中と思っていただろうな。 逆に加賀美遠光は御門葉だからな
あれだけ分家が有れば両陣営に分かれるのは当然だけど >>112
逆にそれだけ一門をまとめるのが大変な時代だったんだろうな。
分裂の芽をみつけてそこにつけこむ頼朝が上手いってことだろう。 そういえば義仲も上洛するときは結構人数集めたけど
その人数減るのも早かったよな。
坂東の御家人たちを脱落させずに、まとめつづけていた頼朝ってやっぱり凄いのかな? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>114
上総広常の場合、日和見というかかなり強硬的な態度だったからな 戦に敗れて弱っている時にたくさんの人が助けにくる頼朝と、戦に負けると人が離れる義仲の違いはなんだろう。
軍事力あっての政治力という見方もあるけど、軍事力を背景に味方にした軍勢は、負けて旗色が悪くなると離れていくよな。
頼朝は戦に負けてしょぼんとしているときになぜか仲間が多くできる。
梶原景時しかり、千葉常胤しかり、上総広常しかり。
人望なのか、政治力なのか。 永井路子さんの「北条政子」の中の頼朝のセリフに「俺の運はどんずまりになって開くことがある。いや、どうもそこまで来ないと開かないらしい。」
とあった。
頼朝の人生を象徴するセリフだなと思った。
平治然り、石橋山前後然り。 平賀家があれ程厚遇されたのも平賀義信が義朝の七騎落ちに忠節を尽くした恩義も含まれてるからね
苦労を知ってるからこそ義理堅いのでしょう >>118
相模、武蔵、房総武者と信濃、上野、北陸武者の差 >>123
その差が実際にどういうものか、具体的に教えてくれんかね? 政子が嫁がなかったら三浦あたりが執権になってたんだろうな 出会いにも恵まれ、人生で伊豆の流刑時代が最も平穏だったんだろうな 政子の前に付き合ってた伊東祐親の娘とは引き離されたけどな。
間に生まれた娘も祐親に殺されてる。
祐親次第では伊東が執権だったのに。 しかし頼朝ってほんと等身大の普通の人間だよな
たいがいはさ
こう弟の義経みたいに超人伝説みたいのあんじゃん
そういうのがあんまりないつうか
鮭食って喜んだり
普通過ぎるよな >>129
最後は馬から落ち死んだからな あまり伝説的に書くわけにも 超絶の人たらしだったんじゃないかな
表面的には魅力あってカリスマ性もあるけど
中身は冷徹な政治家 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 義経は戦に於いては鬼神の如くだけど政治面がアレだからな
軍事的にも政治面でもバランス良く揃ってるのは範頼かな 確かに、石橋山の合戦で敗れた頼朝のところに、続々と武士たちが
合流してくるというのは不思議な話だ。
ふつう、あれだけ惨敗してしまえば、政治生命を失うものではないのか?
義仲が粟津の松原で敗れた後、無事に北陸に落ち延びられたならば、
再び武士たちを集めて、再起できたであろうか? 頼朝の売りって軍事力ではないから、戦でボコられてもダメージは無いという、ある意味最強の存在だったんじゃないのか 頼朝の売りは源氏の嫡流(河内源氏の)であるということだよ。
これが大きいんだろう・・・
南北朝でも足利尊氏が源氏の棟梁と認識されてたから味方した勢力も多いだろうしな・・・
じゃあ、新田義貞(源義国の長男系)はどうだったんだ?、って疑問に思うかもだけど、そこはスルーして見逃してくれ! 新田の一門でも山名義範は一番に馳せ参じてその忠義を評価されて御門葉として優遇されたからな 足利と新田は鎌倉時代から扱いに差があったからなぁ。
義貞の責任ではない。 >>137
本人が流刑前に獲得した官位と都との人脈、それと父親を通じて南坂東の武士たちがまんざら知らない顔じゃなかったという点が大きいだろう。
嫡流は勝ったもんが名乗るものだから
石橋山時点では頼朝が嫡流と認識されてたわけじゃないだろう。 頼朝は曲がりなりにも令旨を奉じてたってのが大きかった
義仲もそのあたりは一緒だろう 頼朝は血筋の正当性のわりには誰のツバも付いてないというか、
北条という外戚はいたものの、決起時には北条単体では何の力も無いという状態で、
つまり頼朝のもとに参陣する武士団は平等にスタートアップの権利を有することになる、
というのも頼朝人気の理由の一つではないかな
木曽義仲などは地元の武士団が創業メンバーで、後から参陣してもどうしたって2番手3番手の扱いだろうし、
それではモチベが上がらないよね 千葉と上総が来たのがデカイよね
流れを作るには三浦じゃ身が小さ過ぎる
両総に頼朝担ぐメリットがあったってのが最大の要因じゃないかな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 上総広常は伊藤忠清との紛争があったからな
平家と確執が生じていた 千葉も重盛縁戚の千田氏にかなり圧迫されて
起死回生の機会を狙ってたし。 木曽殿は京都を放棄して北陸方面へいったん退き、再起を期したほうがよかった。
その際、北陸宮をお連れし、可能ならば後白河院もお連れするのがよい。
北陸宮の行宮を建設して旗印とし、木曽殿ご自身も左馬頭・伊予守の官位が
あるのだから、十分に求心力がある。
辛抱強く平家や奥州と連絡を取って、鎌倉の佐殿を牽制すれば、独立勢力を
維持できたに違いない。 頼朝・義経がいなければ義仲は天下統一ができたのだろうか?
マネジメント 人心収攬術 外交手腕がなさそうな人なので京都幕府は長続きしそうな気がしない。
あるいは南北朝時代の足利幕府のように四苦八苦しながら存続するか。
西国は平氏に、奥州は藤原氏に半独立状態を認め、他の源氏と同盟軍の将として京都幕府は存在。
足利幕府の劣化バージョンだな。 義仲はブサメンというイメージだな
イケメンだったら、京の貴族たちも一目置いたんではないか 源義仲は政権構想がないし、広範な武士団の支持もないので、「幕府」と
言えるような政権は無理だと思う。
後白河院が平家を牽制するための手段として使われるのが関の山ではないか。
後白河院を幽閉して全権を掌握し、「京都幕府」のような状態になったの
だろうが、その後の構想がなく、人脈やノウハウもない。
仮に頼朝・義経がいなくても、院宣を受けた別の武士に追討されてしまう
のではないか。
義仲よりまだ平家のほうがはるかに政権運営力があると思う。 京都を 「姦ってよし。 盗んでよし。 殺してよし。」の街にしたのが
義仲さん 牛車の乗り降りの作法を間違えて顰蹙を買ったんだよな
貴族化した平家とは対照的だが 用事で尋ねて来た貴族に強引に食事を勧め、大盛りのご飯を出して、
困らせたこともあった。
根は善良だが、都の文化を知らない無骨者として描かれている。 古田織部の方が当時の京の貴族より器がでかいということだな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 「京都幕府」は義経軍との合戦以前にすでに空中分解していた。
平氏の京都奪還も有り得た。
仮に鎌倉幕府が成立しなくとも(頼朝が存在せずとも)、義仲政権は長続きしなかっただろう。
都落ちした義仲は北陸の武士たちにも見限られ、信濃へ逃げ帰ったのではないか? 20 :日本@名無史さん 2015/09/22(火) 17:54:07.17
信濃源氏などは義仲に従ったというよりは、やや義仲に主導権のある同盟ってとこかな?
信濃以外に義仲についてたのは(同盟的立場)
北陸豪族 → すぐ離れる
源光長(美濃源氏)→法皇につき敵対
葦敷義隆(尾張源氏)→距離を置く
安田義定(甲斐源氏)→離れて頼朝につく
源行家→ 敵対
山本義経(近江源氏)→最後まで義仲につく
志田義広→最後まで義仲につく
頼朝のような強力な主従関係によって構成された(といっとも後世より拘束力ははるかに弱い)家人をあまりもたない
同盟者頼みの義仲は同盟者に去られると
軍事力はすぐにガタ落ちする 治承寿永の乱(源平合戦)蜂起勢力
伊豆→南坂東 源頼朝 (河内源氏義家流)
甲斐→駿河・遠江 武田信義・安田義定他甲斐源氏 (河内源氏義光流)
信濃→越後 源義仲 (河内源氏義家流)
尾張 源重隆他尾張源氏(清和源氏満政流)
美濃 源光長他美濃源氏(清和源氏頼光流)
近江 山本(源)義経他近江源氏(河内源氏義光流)+園城寺
若狭・越前 反平家在庁官人勢力(当初は義仲とは無縁に挙兵)
大和 興福寺他寺社勢力
紀伊 熊野三山のうち湛増など反平家勢力
伊予 河野通信ら河野水軍(源平両氏に関係なし)
土佐 源希義(河内源氏義家流)
肥前・筑後 菊池氏など反対平家勢力(源平両氏に関係なし) 頼朝・義経が攻めてこなかったとしても、源義仲は平家に都を奪還されて
いたのではないか?
「京都幕府」の末期は、義仲よりも一の谷に拠点を作った平家のほうが
軍事的に優勢であるように見える。
後白河院は平家による報復を恐れて、平家の再上洛をためらうかも
知れないが、無教養な義仲による狼藉より、中央貴族としての教養が
あり、統治経験のある平家を、最終的には選ぶだろう。 義仲と頼朝の差は政治能力の差であることは論をまたないが、具体的には
組織のマネジメント力、人心収攬術の差に顕著に出ている。
義仲入京時の反平家軍は美濃源氏 甲斐源氏、北陸の豪族などの混成軍で、
入京後の狼藉三昧を義仲一人に責任を負わせるのは聊か可哀そうではある。
しかし、「頼朝だったら・・・」と考えるともう少し上手く処理できただろう。
対朝廷政策も稚拙であったし、実際史実においても、宇治川の戦い直前には
京都幕府は事実上空中分解していた。 義仲は自身の勢力圏が頼朝よりはるかに京都に近かったため、頼朝より先に上洛できた。
清和源氏の嫡流を自任する頼朝にとっては忸怩たるものがあったろう。寿永の宣旨の要請は、
実は頼朝の焦燥から為されたものであることに注目するべきである。
しかし、義仲は先に「幕府を築いた」ことによって、様々な諸問題を一気に背負いこんでしまい自滅した。
頼朝はこれを反面教師に、入京前の事前学習が出来た。常にピンチをチャンスに変えてきた
頼朝らしさがここでも発揮された。 大蔵合戦の件で頼朝の一家とは少なからず因縁があるんだよね 木曽義仲は日本人好みの悲劇性 英雄性は十分持ちながら 同時期の義経においしい所を
全部持っていかれて マイナー武将になってしまった。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています