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邪馬台国畿内説を論理的に潰すスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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0001倭国大乱
垢版 |
2016/06/01(水) 20:55:14.95
憎き畿内説を潰すための有意義な情報を交換しましょう
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 11:56:35.97
>>991
>●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、女王国の首都「邪馬台国」は畿内にあった。

いきなりの飛躍。 根拠なし

>●九州勢力指導層は、女王国崩壊後〜古墳時代初期に大和に移動し、地位を得た

その九州勢力指導層が女王国崩壊後〜古墳時代初期に大和に移動した痕跡が見当たらない。  @阿波
0993日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 11:59:14.80
>>991
>いきなりの飛躍。 根拠なし

隋書
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

隋書編纂時の都は大和であることは明確。
今のところこの記述を否定する史料は提出されていない。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:03:48.59
>その九州勢力指導層が女王国崩壊後〜古墳時代初期に大和に移動した痕跡が見当たらない。
ごく一部の指導者が移動したところで、物理的痕跡など残らない。
「記紀の神武東征を、完全フィクションではなく何らかの事実を基にしていたならば」の仮定的推察。

九州勢力→大和への移動は、畿内説的にはあっても無くても構わんよw

二唐書も比定検討史料として加えるならば…の話。加えなくても、これもOK。
0995日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 12:09:02.62
>>993
>隋書
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

隋書編纂時の都は大和であるが、
隋書が記しているのは、魏志倭人伝(晋代)での「魏代の都」のこと。 勘違いしてはいけない。  @阿波
0996日本@名無史さん
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2018/05/19(土) 12:09:05.49
>>991
>こちらの方がよほど馬鹿…というか、二唐書は「邪馬台国」について言及された文書ではない。

魏志倭人伝だって、邪馬台国について記した書ではない。
倭について記したものだ。
その倭の東に別の日本国があったという記録の存在は無視するべきではない。
後漢書は明確に倭を朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までとしている。
卑弥呼が即位するのは後漢滅亡の頃になるが、倭が大きく移動した記事はその時代にはない。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:10:23.15
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:10:57.15
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:13:49.27
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/05/19(土) 12:14:22.68
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
10011001
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