戦国時代の到来を防ぐにはどうすればよかったのか [無断転載禁止]©2ch.net
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戦国時代という現在のソマリアのごとき
群雄割拠状態による戦乱時代を防ぐにはどうすればよかったのか 応仁の乱が早期決着の場合
・応仁の乱で西軍が勝ち西陣南帝が王政復古の大号令。
応仁の乱が史実通りの場合
・細川政元が子沢山で、足利幕府から半将軍細川幕府にマイナーチェンジ
細川政権も史実通り混乱の場合
・天文法華一揆で大軍を擁した比叡山が、朝倉などの周辺大名を従え叡王政権。
細川・三好政権より強靭なので戦国時代とならない 足利の世継ぎにこだわらないこと
将軍の性質は連合体の長みたいなもんだったから
三管四職ではないが色々な大名家で回せば良かった 成立間もない李氏朝鮮に討ち入りすれば国内の引き締めになったはず 李氏朝鮮を上回るには
従二位兵部卿
左京大夫(しかも公卿もきてる山口が当時の実質的な首都)
日本国王
百済王末裔
西国無双の大大名
大内の役目だな
百済王 オオウチ
上佐平 スエ 朝鮮征伐だったら鎮西武士はヤル気満々だ
足利義満の息子のモミアゲ野郎が適任じゃないかな? それよりも樺太まで攻め込めよ
というか北海道より寒い朝鮮半島は
防寒対策がないと攻めとるのは無理 有力守護はもとより国人衆まで統制するためには恩賞が必要
樺太まで攻め込んでもサケかカニくらい
アイヌから略奪してもアザラシの毛皮くらい 懐良親王の征西府がやってた公営海賊=倭寇が正解だろうね 防ぐ必要があまりなかったともいえる
おかげで聖域化して圧倒的な軍事経済力持っていた寺社勢力を
去勢させることができたし いわゆる戦国時代は足利義稙と細川政元の争いに始まるけど
政元の孫にあたる細川晴元、コイツが一番ダメ
一向一揆というパンドラの箱を開けたもんだから三好長慶のような怪物が飛び出して来て
松永久秀みたいなのが跳梁跋扈する魑魅魍魎の世界に突入した 家来(細川家)の家来(守護代・三好家)の家来(三好三人衆)の家来(松永久秀)の家来某に殺害された足利義輝 可哀想ス(´・ω・`) >>2
応仁の乱より前にとっくに戦国時代やっちゃってる関東の情勢が考慮されてない
やりなおし
てか南北朝から検証しないと駄目なんじゃない? 誰が味方で誰が敵なのか?
味方という名前の敵なのか?
敵のふりをした味方なのか?
最初は敵など居ない錯覚だったのか? 足利幕府が大名の寄せ集まりで将軍の力が弱い
遅かれ早かれ戦国時代にはなった
歴史の必然だな。 朝廷の支配が緩んだ流れで鎌倉幕府があり
鎌倉幕府がの支配が緩んだ流れで室町幕府があり
室町幕府の支配が緩い流れで戦国時代がある
この流れを止めるのは容易じゃない 守護大名の権力の源泉は守護本来の軍事警察権と合わせて下地進止権と上分知行からなる一円知行である
守護領国制では全国各地に事実上のミニ幕府を誕生させる結果となった
守護領国制を確立させた応安の半済令は足利義満が幼少の頃、管領細川頼之によって発布され、明徳の乱の遠因ともなった
室町将軍は足利義満の後半生以降、このミニ幕府化した守護大名の統制に費やされたと言っても過言ではない 惣領制の変質と守護大名の既得権益拡大は守護大名家の家督相続争いの熾烈化を招き
庶家が宗家を簒奪し、家臣が主家を下克上する風潮の火種となったと言える
その火種を掻き回して煽ったのが室町将軍本人であったことは何という皮肉であろうことか なるほど
室町将軍のゾンビ化と引き換えに日本全国が戦国時代になったわけか 南北朝統一時点で義満が幕府を鎌倉に移していればあるいは 室町なんていう京都市民以外には何処に在るのか分からないような名前をつけるから
過小評価されてるんだよ 室町幕府のクソ統率のせいで
戦乱がおこりどれほどの人命が失われたことか >>26
足利義満以降の将軍は歴代火遊び将軍だよな
足利義政は火遊びが過ぎて大火事を起こして火だるま将軍になりましたとさ 大内義興が上洛の褒美にもらった堺を寺社に返上せずに
信長と同じことしてたら60年早く戦国終わってた 戦などなくても人がどんどん死ぬ時代だからな
どうしても人命軽視のはなってしまう 戦などなくても人がどんどん死ぬ時代だからな
どうしても人命軽視にはなってしまう 三職、御一家
七頭、御相伴衆
国持衆
外様衆
御供衆、御部屋衆
奉公衆、京都扶持衆
申次衆 三職、御一家
七頭、御相伴衆
国持衆
外様衆
御供衆、御部屋衆
申次衆、
奉公衆、京都扶持衆 前の時代では足利は御家人の同輩だからな(´・ω・`) 格式を細分化して権威付けしてもヘソで茶を沸かすようなもの >>43
鎌倉時代、疑いをかけられ、足利当主で切腹したのもいる。狂ったように見せかけ余生を過ごした者も。 日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
竹下雅敏「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
矢追純一「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKe tUkq8
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないでしょう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動(1種類の政治形態が世界中を支配する)をコントロールするのは、マイト レーヤの任務です。
史上初の世界演説は英国BBCが放送
それは非常にまもなくです。マイト レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。14歳以上のすべての人々はマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=6cO vo6n7NOk みんなが大内義興にひれ伏して
大内幕府が開かれれば
戦乱の時代はそれで終わった 内藤湖南の言説に従えば、応仁文明乱を境にしてこの国の様相が変わった訳なんで
スレタイの答えは南北朝の趨勢に懸かっていたことは明白
正平一統をひっくり返した黒幕は二条良基 王朝国家は摂関家のアダ花である二条良基によって自滅
孫の満済は魔王将軍足利義教を誕生させた 足利義教は結局のところ改革が挫折して恐怖政治に走っただけ
しかも恐怖と言われるほど残酷なことは一切していない
ただ掲げた理想は時代を考えればこの上なく素晴らしかった 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 本日、無料イケメン祭り開催。
URL貼れないから
メーンズガーデン ってググってみて
※正しいサイト名は英語。 建武の新政が成功していたとしたら、それは朝廷が常備戦力を持った事を意味する。
後醍醐天皇が失敗したのは、あくまで軍事力は汚れだから嫌がったってからだ。
しかし成功したということは恐らく、護良親王が即位なり何なりして朝廷を一新したのだろう。
そして日本は奈良時代の頃のものに先祖返りする訳だが、これまた余った大量の兵士の対策に苦慮することだろう。
そして大陸へ活路を、なんてこともあるかもしれない。
ひょっとしたら英仏百年戦争ならぬ日明百年戦争になるかもな。 余った大量の兵士なんて当時は農民だからね。
また農地を耕す生活に戻るだけでしょう。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 北海道や樺太に行って
寒さに強い雑穀を大量生産する生活が待っているわけだ 日野富子が親バカじゃなく
京で戦争が起こらなくても
いずれは各地で力付けた大名達が畿内の命令を聞かなくなって
戦国時代になってたのかねえ じゃあ、政元が子沢山で子供はそこそこ優秀だったら?
全国の統制は取れただろうか? 実際、戦国時代の戦は経済的理由・目的がほとんどだね
領土獲得よりも流通利権争いや奴隷狩り目的が多い まず鎌倉府の世襲とかいうアホなことをやめるべきだった 守護領国制度を認めて守護が
大名となり幕府の命令や判決の権威が低下
これが戦国時代の一因 つうか大名を取り潰すたびに他の大名にばらまくようなアホなことやらずに
秦が潰した国に県を置いたみたいにしろよ >>66
残念ながら、>>41に示してるように中世は家格がガチガチで従順で忠節有能でも奉公衆レベルでは一円支配も政治にも参与出来ない
幕府の実務官僚も申次衆以上の家格が必要
ちなみに伊勢新九郎が駿河下向したのも中央での限界があってのこと >>67 横レスすんまへん。鎌倉末期には陪臣の長崎円喜なんていうのが権力を持って
いた。だから、中世というのはおかしい。 それは霜月騒動〜平禅門の乱の結果としての末期症状
室町幕府でも末期は同様に享禄・天文の乱の結果、三好長慶が権力を握った 高一族の先祖は、源義国と共に足利に下向した高階惟頼
あるいは惟頼の父惟章とも言われている
高師直は足利尊氏と共に足利幕府創設に貢献している (官職は三河守、武蔵守)
室町幕府初代執事であり武蔵、上総両守護職 家格は一門衆と同格
また高階惟頼は義国と異腹の兄弟という説が有る 尊氏の優柔不断すぎるところからやり直すべき
マジレスすると朝倉を守護と認めたところから。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 火遊び将軍と欲と格式にばかり捉われた無能集団だったから >>72
優柔不断じゃない
決断がことごとく空振りになってるだけだ 実は尊氏は長男じゃないから足利家嫡男の英才教育を受けていなかったのでは? >>66
四代将軍義持が赤松氏討伐を試みた際に播磨国を御料国
にしようとしたが結局赤松氏討伐自体が諸大名の支持を得られず中止 足利尊氏、直義と高師直の三人の関係を検証してみよう
尊氏、直義兄弟は一歳違いで足利貞氏側室・上杉清子の同腹
高師直は足利宗家執事であると同時に正室は尊氏、直義兄弟の生母・上杉清子の実妹
上杉清子の叔母(父親・上杉頼重の姉または妹)は足利尊氏、直義兄弟の曾祖母にあたる
上杉頼重の足利家家中での立場は高師直の下僚である
尊氏、直義兄弟から見れば高師直は母方の叔母の夫であると同時に父方では祖父の母親の姉妹の夫である 訂正
×尊氏、直義兄弟から見れば高師直は母方の叔母の夫であると同時に父方では祖父の母親の姉妹の夫である
↓
○尊氏、直義兄弟から見れば高師直は母方の叔母の夫であると同時に父方では、祖父の従姉妹(祖父の母親の兄弟の娘)の夫である 足利幕府の各階層では血縁、婚姻関係でがんじがらめだね
御一家、御一門衆と相伴衆との間の壁
相伴衆、国持衆と外様衆以下との壁
中でも御供衆、申次衆と奉公衆との間の壁は越えられない 武家の有職故実、礼儀作法は室町時代中期に完成している
それを打破する下克上ってとんでもなく凄いことだったんだな
赤松氏の一刺しで瓦解が始まった(義教暗殺だけでなく後南朝の息の根も止めた) 武士というのは際限なく所領拡大の欲望を持ち続ける人種だから、戦国時代の到来は
不可避だったろう。武士の業、宿屙だな。
もし、回避できるとしたら足利義教の頑張り次第かな。あそこで強大な中央集権体制が気づくことが出来れば
戦国の到来を幾分かは遅らせられただろう。しかし これも一時的で、誰かも書いているが
守護領国制そのものに戦国化に至る構造的欠陥があるからねえ。
映画「タイムマシン」で 主人公が過去に遡って恋人の事故死を防ごうとするのだが、
結局 別の原因で恋人は死ぬ。何回やってもそれぞれ違う理由で恋人が死ぬ。
それと同じで戦国時代はどんなIFやっても不可避な希ガス。 連投するぜい。
他スレで「清盛が頼朝・義経をガキの頃に処分していたらどうなっていたか」というのが
あって、ひとつ成程と同意したレスがあった。平氏の都落ち後、群雄割拠状態になり、
鎌倉室町を経ずに戦国が来る、というものだった。
おれもちょいと書き込んだが、木曽義仲の京都幕府が形式的に存在し朝廷も京都幕府もグリップが効かないカオスが
到来すると考えてみた。先の>>86と併せ考えると、
もしも頼朝が居なければ戦国時代は300年早く到来し、もしも足利義教が10数年長生きして
日野富子ももっと早くに男子を儲けていたら、戦国は50年遅かったかもしれない。
まあ、どっちにしろ戦国は来るわけだ。それが中世社会の本質なのではないか? 守護大名が持つ特権は
幕閣としての中央での参政権
守護としての軍事権、警察権
領主としての裁判権、財産権
国司としての指揮権、行政権 足利義教は治世前半はいいとして後期は人間不信に陥って躁鬱病状態とも言われているのだが
あんなのが長く続いてたら逆に戦国時代が早まったんじゃないか >>89
司法、立法、行政、軍事
は? 王様じゃねーかw
ちなみに後に南蛮船で来航した宣教師は戦国大名を「国王」と記述している 足利義満、あるいは義教あたりが後醍醐天皇の路線を徹底させて、
通貨の発行をして、できれば紙幣まで発行して、銭の経済に移行して、
海外貿易を行って、火薬兵器まで導入して、徹底的な中央集権国家
に移行すれば 守護大名を廃藩置県するしかない。
守護は大貴族に特権階級と残せても守護代・国人が納得しないから結局戦国へ。 結局尊氏の政策のヘマがのちまで祟ってるわけだ。
なら、尊氏ではなく直義や新田義貞に天下を取らせればいいんじゃないか?
義貞は性格的に京都ではなく鎌倉に幕府を開きそうだし、幕府の政策も基本的に前政権の中央集権的な物を引き継ぐだろう。
直義も守護に気前よく領地や権限を渡すなんて事はしなそうだしな。 直義や義貞では南北朝の内乱を収拾することができない。
結局戦国へ。 >>81
しかし応仁の乱以降、公卿クラスの公家の知行地への下向や有力守護大名・守護代への寄生、降嫁で
身分秩序は徐々に崩壊する 世界史的に見て
守護大名、戦国大名に匹敵する存在は中国・春秋戦国時代の諸侯か神聖ローマ敵国時代のドイツ領邦国家君主ぐらいだろうね ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>97
インドの藩王とかオスマントルコの総督とか アジアには多い気がするけど >>92>>93
少し話反れるが、江戸時代に廃藩置県・全国の天量化はできなかったんだろうか?と
思案したことがある。江戸中期 中小藩では地方知行制から蔵米制に移行し、武士の心情も
主君個人への忠誠から家(公)への奉公という意識が強くなる。この時期に大名を貴族化、藩士を
官僚化して中央集権は出来なかったのだろうかと。
社会発展段階として江戸中期よりはるかに後進的な室町中期ではなおのこと
守護大名領国制の解体は無理な話だったろうな。 戦覚悟ならできただろうし、やれば勝てばと思う
けどそこまでやる必要性も感じなかっただろうな 結局、そこまでやらないと駄目だ・・・って皆が実感して、始めてそんなバイタリティの奴が出てくるんじゃないか。
それが信長秀吉家康のトリオだったんだろ。 信長なら郡県制を断行しそうだ。 恩賞に土地ではなく茶器をくれてやるという発想が凄い。
秀吉は天正大判を作ったが、恩賞が物品・貨幣が当たり前という社会までなれば、大名の改組は
可能かもしれない。室町中期は経済がかなり発展しているが兵農が未分離で国人の被官化が
まだまだ弱いこの時期では無理な相談だったろう。
織田信長と千利休と呂宋助左衛門を3つ足した豪傑が現れて初めて可能な「革命」だろう・ 最終的に「戦国」を終わらせたのは大久保利通と渋沢栄一と福沢諭吉dだった。 問題は大名身分でなくて世襲でしょ
家臣団が行政組織でなくて家政組織だったことが大問題
だから後醍醐天皇の建武の新政がとても重要な意味があったわけだ >>105
いつまでも茶器で満足するわけがないから信長のやり方も限界が来るんだよ。
給料の代わりに茶器を貰って生活できるはずがないからね。 >108
あいわかった。先の3人に淀屋常安を加えてみる。
ルソン助左が疸壺を輸入→信長が購入、家臣に下賜→家臣が利休に鑑定依頼 高値が付く→
家臣が疸壺を換金→淀屋常安が言い値で買う
大名を土地信仰から現金主義に切り替える。大名や一般武士を土地・領民から切り離して
完全な資本主義体制に組み込むことが大事なんだ。世襲制は問題ではない>>107
こうすれば戦国を回避できただろう。 >>109
甘いね
やがて世間に疸壺が溢れてデフレになる
さらに言うと俸給の原資は? だから武士の給与は金 銀 銭 にすりゃいいんだよ。 >>111
君は淀屋の力を知らないんだ。歴史をもっと勉強しなさい。淀屋は世界史上最高の金持ち。
その資金は汲めども尽きぬ大海の水のごとくであり、全国の疸壺を買い占め、大阪城公園の地下の
タイプカプセルに10万年所蔵しても淀屋はびくともしない。
ちなみに淀屋の居間の天井はガラス張りでジンベイザメを飼っていたんだ。 >家臣が利休に鑑定依頼 高値が付く→家臣が疸壺を換金→淀屋常安が言い値で買う
ここに無理があるな。
痰壺が満ち溢れたら価格は当然ながら大暴落する。当然淀屋も買いとらない。
仮に買い取るとして、淀屋はその痰壺をその後どうするかっていう問題も生じるんでね。
ただ廃棄するだけになるとわかれは商人は手を出さないよ。
ジンベイザメを買っていたことは自分の財力を他人に見せつけるとともに取引先への威厳にもなるが、
行き場のない痰壺の山などを抱えた商人はただの馬鹿でしかない。 バカだねキミたち。経済的合理性を言い出したら、大富豪の桁違いの寄付や
社会奉仕事業などは利に全く合わないだろ。いいか、鴻池や三井なら君たちの言うとおり
「商人がそこまですはずがない。」となる。 なぜ 私が淀屋常安の名を出したのか
考えてみたまえ。
>淀屋はその痰壺をその後どうするかっていう問題も生じるんでね。
だから、淀屋は買い取った疸壺は大阪城公園のタイプカプセルに所蔵すると書いてあるでしょ。
淀屋が疸壺を買い続けることで大名は解体に向かう。
呂宋助左衛門と利休と淀屋、 一見 バラバラな3人だがひとつの目的でつながっているんだよ。
それは、 >>117
だからタンツボを買う意味がないわけよ
そんなことするくらいなら淀屋が金を出した方が早い
そもそも淀屋は商人なんだから無意味な投資はしない >118
今日はまだ2錠しか飲んでいない。まだ大丈夫だ。
君ら歴史知識無さすぎ。淀屋を三井・住友やビルゲイツ程度の商人と同一に論じていないか?
淀屋は世界史上最高の資産家なんだよ。君らの狭い知識で語れる人物ではない。
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/1591732.html 世界最高の資産家であろうと日本中の大名を飼いならせるような大金は持たない。
持っているなら信長はいらない。 スレチだが暇だから話を続ける。 今 3錠目を飲んだ。
江戸時代 幕府や藩が四苦八苦しながらなんとか社会が回っていたのは豪商のおかげでもある。
大名は商人から金を借りていたが実際はほとんど踏み倒して商人は泣き寝入りだった。
じゃあ商人はなぜ倒産しなかったがというと、簡単に言うと法人税・所得税がなかったからだ。
豪商は借金踏み倒されても持ちこたえられる内部留保があった、ちゅうことだな。
前近代の社会は何とかうまくまわってたんだよ。
このスレはIFスレなんで、おもしろおかしいシミュレーションを皆でワイワイ談議することが
ネット討論の面白さである。 上で誰かも書いているが足利義満が貨幣経済を推し進めることで
中央集権はできないか、という指摘に少し興味を持った。 おれは室町中期の商品生産力 物流では
守護大名領国制を崩すだけの経済体制基盤はないので無理な話だと思った。
そこからスレも進んで、ある程度の経済発展、強力なリーダー、そして経済的なコーディネイターの
3つが揃えば>>92>>93も少し期待が持てる。
>>16
BSプレミアムの英雄たちの選択で、足利 義教がテーマの回が放送されたが
関東公方の足利 持氏を征伐したせいで関東が大混乱したと言ってたね。 86 87も俺なんだが、そこで書いたように守護大名領国制がある限り、何やっても「戦国」は
不可避だと俺は結論している。時期や内容は変わるだろうがね。
だけど それ言っちゃあ >1に申し訳ない。IFスレの醍醐味は、既成概念を取っ払って
どこまで頭の体操をできるか? だと思うしね。
先週の{真田丸」で久々に幸四郎のルソン助左衛門を観たのと桂三枝の利休が「死の商人」だというシーンを
観て、「守護大名解体論」を書いてみただけ。
助左 利休 淀屋 信長 この4人ならもっとワクテカな日本史が出来たと思わんかね?
それがIFスレの楽しみ方だと思うがな。
まあ、おれの与太話にマジレスくれてありがとね。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 守護大名に朝廷への忠誠心を強くするとか領地を50万石
までにするとかすれば天下統一の野望を防げたんじゃない
の。100万石を越えると上洛するシグナル 建武の新政を破綻させた元凶は阿野廉子
建武の新政が成功していたならば戦国時代は到来することがなかった
後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子は元々、中宮西園寺禧子の上臈であった
いわば略奪愛である
西園寺家はかつて関東申次であり北条家とは昵懇であったため中先代の乱では足元をすくわれることになる
そして中先代の乱は足利兄弟に上手に利用されてしまう ぶっちゃけ
高氏を異常に厚遇しながら結局背かれるような馬鹿に成功できたとは思えない 足利直義の腹黒さが有れば日本のリシュリューに成れる 日本人の国民性か?専制君主は悉く頓挫するね
結局、有力者の合議制で内紛の火種は抱えたまま
大和朝廷の昔からそう 戦国時代に至る日本の中世の萌芽時期を求める場合
政治史的には院政期(戸田芳実)
経済史的には延喜の治後(福田徳三) 勉強になります。僕もそう思います。
鎌倉から中世って、変だと思っていました。 >>130
別に国民性じゃないと思うよ。
それを言うなら、天智天皇も天武天皇も秀吉家康もガチガチの専制君主だ。
要は、負けた側だからそう見えるってだけじゃないかな。 >>131
経済史が政治史に先行する法則に従えば
経済史的に戦国時代開始は、貸し上げ・土倉が急成長し悪党が台頭して徳政令が出された鎌倉末期だろうね ぢゃあ、経済史的に戦国時代終了はいつですかいのう? 経済史的に戦国時代終了は全国的に石高制が導入された太閤検地
国際的な背景として明朝の衰退による明銭の国家保証の消滅と銀本位制への転換が挙げられる
従って銅銭を基準にした貫高制は米の収穫量の不正確さに加え価値の実際レートとの乖離で不適格に成った為 >>137
それじゃあ全然先行してなくね?
「経済史は、政治史に先行するんだぜ(ドヤ」と言うのなら、
戦国時代は、織田信長の登場より前に終わっていないと、法則に合わないだろw
本所の権威完全失墜による荘園のオワコン化だとか、
座の結束の緩みによる商業自由化だとか、そっちを言うかと思ったら、秀吉かよww ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 政治史的には戦国時代は1615年の元和令によって終了
戦国時代は近世初期も継続しており中世、近世などの歴史区分とは関係無い
ちなみに江戸幕府発足当初は室町幕府のコピーに過ぎない 映画やドラマで織田信長の天下布武を戦国の世を終わらせたと嘘が喧伝されている
最新の研究では天下布武は「畿内を武力制圧しましたよ〜」と言ってるだけ >>138
経済史的に中世の終了は君の言う通り本所の機能不全でThe end 重要なポイント
経済史的にも政治史的にも中世の終了と戦国時代の終了は一致していない 144の言うてることは同意するが、中世の終わりが>>137だと思うでやんす。
その上で訊きますよ。>>138氏と>>143氏
ぢゃあ、具体的には
「本所の権威完全失墜による荘園のオワコン化」はいつですかいのう?
( 15×0年代、 15××〜××年、という回答を尋ねております。) あー、>>145一部訂正
144の言うてることは半分同意するが、 経済史的に近世の嚆矢は1549年の六角定頼による楽市・楽座
地方政権ではあるが実力(軍事力)を背景にした重商主義政策 本所は二つの大きな機能を持っている
@重層的な土地所有権構造の最終権者
A座や市の主催権者
このどちらか一方が破綻すれば機能不全とみなされる ぢゃあ、具体的には
「本所の権威完全失墜による荘園のオワコン化」はいつですかいのう?
( 15×0年代、 15××〜××年、という回答を尋ねております。)
追加すると 全国的にその段階に入った時期をお尋ねしています。 権威完全失墜って何?
オワコンって何?
抽象的過ぎてわかりません 更に言えば
経済史的にですか?
政治史的にですか?
制度・法制史的にですか? >135氏
135と137 143 147 148がたぶん同じ人だと考えたので質問した・別人ならすまん。
違っていたら、「違う」と言ってね。
この5つのレスは文意から「経済史」面から語っている。当然こちらの質問は経済史の質問である。
まず、>>150の質問は138氏にしてください。 >>143の文中
「>>138 経済史的に中世の終了は君の言う通り本所の機能不全でThe end 」
この文章からいくと138氏の「権威失墜」と「オワコン」の意味を理解した上で
「君の言うとおり」と返事したが、138氏の「言うとおり」を理解していなかったようなので、
この部分は撤回し 再質問します。
「本所の機能不全」は具体的にいつですかいのう?
( 15×0年代、 15××〜××年、という回答を尋ねております。)
追加すると 全国的にその段階に入った時期をお尋ねしています。
135氏に尋ねているので他の人は結構です。(こちらの人違い・誤爆をさぇたいので)
これからアンカーをつけますのレス頂ける場合はアンカーをお願します。
「 >136 」で結構です。こちらのレスは136で投稿します :
日本 誤植がいくつかあり すんません。 意味は理解できますよね? いや だから経済史的な戦国時代の終了も経済史的な中世の終了も織田信長とは関係無いってw 誰に言ってんの?>>154 136と138は別人
135がレスくれるまで待つよ。レスくれなくても別に逃亡とは見ないよ。
おれが無視されただけ。 >>136
室町幕府が守護大名抑制策として本所一円領に付与されていた守護使不入権の否定が
経済史的に中世の終了の始まりと言える
1498年の越後守護上杉房能による越後国内での守護使不入権の否定宣言
永正年間の駿河守護今川氏親による遠江侵攻と検断権の侵害
1552年の今川義元による分国法「今川仮名目録追加」の制定 138です。
>>137
まず、俺の立場を明確にするよ。
俺は>>135説の基本命題に、そもそも反対の立場。
135が掲げている経済状態は、「鎌倉時代の終焉」を示すものであって、
戦国時代とは全く関係がない、と理解する。
西日本における商業経済の発展に従い、いかにも鎌倉的・坂東的な、
農本主義的な封建土地支配が、ガタガタになった。先行するのではなく同時並行で鎌倉幕府が潰れる。
鎌倉期は西国では承久の乱以降なので、鎌倉期は近畿中四国では、「あっという間に終了した」w
135の言ってる状況は、別の言い方をすると「南北朝&室町時代の経済」を語っている。
室町幕府は畿内政権で、本質的にかなり商業主義的であり、
在洛の各種領主をトップにいただく、重層的な貢納によって支えられている。
本所と座は、権力構造としては、最終的に大抵は京都の領主につながるもの。
畿内西国ではこれでよかったが、東国はそもそも135的状況が起きておらず、
ずっと鎌倉時代の延長戦。でも「右大将の残影が消された鎌倉時代w」だから、カオスのまま。
本所に吸い上げられても対価がなく、昔の御家人システムが切断されただけ。つまり無政府状態。
坂東は早々に戦国時代に突入する。つうかそもそも東国には室町時代がない。
上に書いた室町的システムが、西国でもgdgdになって騒乱状態になるのが、応仁の乱以降。
これが畿内西国における戦国時代。
138に書いたのは、これは俺に言わせれば戦国時代の経済史のメルクマール。
ただし東国では、「終わる前に始まっていない」とも言える。
>>137の答えは「地方によって違う」としか言えない。 >135
もう1回訊くよ。
「本所の機能不全」は具体的にいつですかいのう?
( 15×0年代、 15××〜××年、という回答を尋ねております。)
追加すると 全国的にその段階に入った時期をお尋ねしています。
こちらは「解説」を尋ねているのではなく、年代を質問しています。
「いつですか?」と訊いています。
えーと、138氏が自らの立場を説明しています。こちらも立場を明確にするべきですし、
実は長文(下書き)がすでに書き終えています。内容は135に対する異論です。
この板はIDが非表示なので討論が見えにくく誤爆をしやすいので、
質問の回答と138氏と貴兄の議論の後に>>135に対する所見を述べます。
(2人同時に討論するとシンドイでしょw こっちは急がないし) >135氏
今 ざざっと157を読んだが俺の異論は全く違う視点での>>135に対する異論である。
やはり 138氏との討論を先行して下さいな。彼が先に自分の立場を明らかにしているし。
それまで待つよ。ゆっくり またーりやろうや。過疎スレだし。 157だけど。
>>158
135は、本所の機能不全云々は、何も語っていないんじゃない?
そりゃ俺の説だ。
135=137なんじゃないのかね。
つまり、
「悪党が台頭した13世紀末から、太閤検地の1580年代までの
約3世紀(300年)に渡る長さの時代が、経済史的には全部戦国時代である。」
というのが、彼の説。
これに対する俺の「皮肉交じりの反論」が138。
俺はそもそも135の基本命題に反対だから、157で俺自身の年代観を示した。 >>169
>>152を読んでくれてる? 135 137 143 144 147 148は同じ人だよ。
135は「君(138)の言うとおり」って言うから「言うとおり」の語句を使って質問したら
前言翻して「138の意味がワカラン」と言ってきた。だから143の文中の語句
「本所の機能不全」を使って再質問したんだよ。
143 : 日本@名無史さん2016/07/27(水) 07:39:09.48
>>138
経済史的に中世の終了は君の言う通り【本所の機能不全】でThe end
135は中世の終期を「本所の機能不全」を起こした時としている。
>>156では「経済史的に中世の終了の始まり」を説明しているがおれはそんなことは訊いていない。
おれが訊いているのは「経済史的に中世の終了の終わり」の 年 代 である。
ここをしっかり押さえないと、次の質問に進めない。135氏には悪いが腐るほど質問と反論がある。
まあ、彼も大変だから 貴兄から先に討論してよ。
それと、135の「基本命題」に反論という点では俺もそうだよ。まず彼の考えている
「経済史上における戦国時代」なんちゅう概念は一体どこの誰が提唱しているのか?
135氏の自説ではなく学説の確認からしたいと考えている。 アンカーミス >>160
居酒屋でビール3本と酎ハイ2杯飲んできたんだよww 他にミスがあったらすんまそん
寝る ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>143
「経済史的に中世の終了の終わり」は極論すると明治の地租改正じゃないの?
ヘタすると進駐軍による農地解放かも 昔、田舎のばあちゃんが大地主のことを「本所」と言ってたのを思い出した >明治の地租改正じゃないの? ヘタすると進駐軍による農地解放かも
それは近世の終わりだな。江戸時代は荘園制度はもうない。 >>167を「もうこれ以上 突っ込まないでくださいよ〜」宣言と受け取ってよいか? 村請制度
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E8%AB%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6
>中世の地下請の伝統を引くもので、近世社会において領主は検地を行い村高を把握し、村落は村単位で年貢が賦課された。
>明治時代の地租改正によって、村請制度は解体した。 なんと日本では経済史的に中世が1000年続いていた! 司馬さん流に言えば
「ニッポンの農村は1000年の長きに渡り重い十字架を背負わされていたのである。」 中世なんかもともと無かった。宇宙人から見れば現在は古代社会 >>168
そもそも戦国ヲタは経済のことに興味ないからね。
信長の政策で楽市楽座を挙げるけど中身を語れないし。 キミたち 浅いね
西欧以外、中世なんて無いのに 残念でした〜 日本史では一応、古代・中世・近世・近代と分けてあるんだけど。
その中で中世ってのは平清盛から織田信長まで。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 堺の貿易商・呂宋助左衛門を主人公にした「黄金の日日」ってタイトルの大河ドラマの劇中で
盛んに「〜こうして中世が終わった・・・」と何度も連呼されていた
当時、胡散臭いなと子供心に思っていたけど
調べてみると原作は城山三郎で脚本は市川森一の書き下ろしじゃんw
こりゃ ダメだ 映画やドラマの悪影響って多いよね
特にNHKの大河ドラマが酷過ぎる
即座に廃止して欲しいね いろんな説があるけど
社会・土地制度面で見ると、中世≒荘園公領制
院政期〜太閤検地ってことになる ポケモンGOの経済効果?
ポケモンGOによる経済的損失を並挙すれば多少の説得力もあるが >>183
論争は「中世」の定義ではなくてコレ。
「経済史的に戦国時代開始は、貸し上げ・土倉が急成長し悪党が台頭して徳政令が出された鎌倉末期だろうね 」
ポイント
@ 「経済史の歴史区分としての戦国時代」の定義
A ↑ の始まりは鎌倉末期か否か 戦国時代の定義を提案したいんだけど
戦国時代とは国人領主の出現と消滅じゃないのかな?(国人領主制)
だから鎌倉末期から南北朝期にかけて、特に観応の擾乱の頃から始まり元和令で完全に終了 >戦国時代の定義を提案したいんだけど
却下。
個人の独自解釈の「定義」論争ではなく、通説上 >>135が正しいかどうかが、
先日の論争である。
論争とは別に「ぼくのかんがえるせんごくじだい」談議とは一旦切りはなしておくべき。
135論争と別の提案はもちろん自由。(つまり、>>186の定義は先の論争に全く無関係に進めるということ。) そもそも>>135の「経済史的に戦国時代」は「ぼくのかんがえるせんごくじだい」で語っているので、
当然 反論が出てくる。
135の反論を聞いてから、186の提案を論議すればよい。 国人領主を飼い慣らそうとした足利幕府の政策が奉公衆制度 国人が所領を有した法的根拠はあるのか?
法的根拠が無ければヤクザと同じ占拠屋・占有屋と変わりない というか、国人って鎌倉時代の御家人が政府の統制を受けなくなって野生化?したモンじゃないのか。
なら、鎌倉幕府が終わった時が中世の始まりじゃないだろか。 それなら御家人こそ朝廷の支配を受けなくなって野生化したんだから、
源平合戦時代が中世の始まりだろ。 戦国時代の定義を提案したいんだけど
戦国時代とは武士の出現と消滅じゃないのかな?
だから平安中期から院政期にかけて、特に承平・天慶の乱の頃から始まり西南戦争で完全に終了 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 東西二つの王権の統制が外れて野生化した御家人、在庁官人、荘官が国人だとすると
国人のサバイバルが戦国時代
地域によって発生時期がずれていても仕方ない 遅くなりました
「本所の機能不全」は職の体系の崩壊であり
職の最終権者である本所の室町時代における保証人=足利将軍家の権威失墜である
明応2年(1493年)の明応の政変が該当する >>198
そんなん、誰でも知ってるがなww
あんたの経済史の歴史区分でいう戦国時代が、「ぼくがかんがえたせんごkじだい」だから、
>>135は ただの個人の独自歴史観でしょ、つー話。
学説や著者名挙げて >>135を説明できるの? あんたの独自理論でしょ?
大体、「戦国時代」って政治史上の歴史区分で、経済史の用語じゃないしw 政治史の用語である「戦国時代」を 独自理論で経済史を語ろうとしたのが、
>>135.
だから、中世と戦国時代の終期の年代が最後まで回答できずに誰も聞いていない
「「本所の機能不全」の解説で逃亡を試みる。
>>135は通説じゃなくて「ぼくがかんがえたせんごくじだい」というのがよくわかりました。
以上 ということは
中世の終了は明応の政変で近世の開始が太閤検地
その間はアナーキー状態
戦国時代は関東では永享の乱後から、全国的な終了は元和令まで では、
院政時代〜明応の政変を中世
明応の政変〜太閤検地を混世
太閤検地〜幕末を近世
とする 公然と反抗する守護大名、野生化した国人、得体の知れないインチキ武士、貪欲な商人、怪しげな新興宗教 >>203
その中でお金だけは流通していて、それなりに経済が機能している。 初っ端から八条院領を相伝できなかったのが痛すぎたのではないか ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>86の見解に賛成する。武士社会にとって、戦国時代の到来は、どんな経過を
たどったとしても不可避だったと自分も考える。
それでも、仮に戦国時代を回避する方法を考えるなら、豊臣秀吉がやった
唐入り(朝鮮征伐)をもっと早くから継続的にやっておくのはどうだろうか?
蒙古襲来に追随した懲罰として、鎌倉時代に高麗征伐をやればどうか?
所領相続にあぶれた御家人の子弟、所領を失って没落した御家人たちを
征討軍として次々に高麗・満州・南宋に送り込み続ければ、武士社会の
不安定要因を解消できたのではないか? >>207
あんた、いい人だ。木沢長政教えてくれた人だよね? 鎌倉時代に国勢調査があればいいけど
武士人口は多くても2%以下じゃないかな?
人口500万人だとして10万人(内女老人子供70%だとして実質3万人)
継続的な外征は無理でしょう
嫌がらせ程度は出来るかもw 昔太平洋戦争はどうしたら防げたかって問題で
現代人が戦前にタイムスリップして見事に大戦を回避して
そこまではいいんだけどその後どうするか分からなくて結局戦争に突入してしまうオチの
漫画があったような記憶が・・・
戦国も同じだろ
結局どうやっても混乱は訪れる >>209
あの時代は、何をもって武士と認定するかの基準が
定まっていないから。
武士と農民と百姓の区別がつかないかないから。 一つの問題として、嫡子相続が確立したあとの跡目争い
一つの問題として支配者側の権力基盤から生じる、権力基盤内の争い及び権力の限界
結局これを上手く処理できず破滅的に失敗すると秩序が崩壊する >>209
その人口2%程度の連中の身勝手なサガが本来武士でない地侍・名主層を寄子寄親制で巻き込み
足軽雑兵を動員して日本全土を戦乱の渦に叩き込んだ >>211
>武士と農民と百姓の区別がつかないかないから。
それは後世の近世武士の子孫が自分の出自を誤魔化す為の方便
中世当時、武士身分は厳格に規定されていたんだよ
御家人の子孫を含めて国衙軍制で国内武士と認定された者の子孫のみが武士なの 西洋での騎士叙任権は王権の象徴
日本における「二つの王権論」は京都の朝廷の国衙軍制での国内武士認定と
鎌倉将軍による御家人制度で説明できる ということは
武士の資格は京都大番役か御家人の勤めを果たした者 主語領国制の源泉は半斉法と段銭である
段銭のルーツは後白河天皇が制度として確立した一国平均役である
後白河天皇は後鳥羽法皇と美福門院の遺領である広大な八条院領に手を付けられなかったので
院の財源として一国平均役の院宣を出したのである
だからの300年前の後白河が居なければ戦国時代の到来を防げたかもしれない なんか知らんが、また独自理論の「ぼくがかんがえたぶし」を
学説のように語っている奴がいるなw 鋭いね。国人領主の成立を東西二つの王権論で説明してる >>220
では君が考えている徳川時代以前の武士の定義とは?
楠木正成を時代人は武士として認定していたのかなぁ?
まあ楠木正成は最終的には武士として認定されていたようだけど、
楠木正成の親父はどうだろうか? 国人領主は両属性が有るからしぶとい
信州村上氏を例に上げると守護でもないのに村上義清の官位は正四位上で守護の小笠原長時や甲斐守護の武田晴信より高い そう言えば鎌倉時代の非御家人である武士を○○国住人と呼んでたな
しかし、悪党は○○国住人とは呼ばれなかったはず >>215
>中世当時、武士身分は厳格に規定されていたんだよ
中世って、範囲が広いんだけど(院政期〜戦国末期) どの時期のこと?
>>209と>>211が鎌倉時代のことを明示しているから、鎌倉時代の武士身分の話?
室町・戦国は除外した話という理解でいいの? >>223
>徳川時代以前の武士の定義とは?
徳川以前って、範囲が広いんだけど(平安中期〜豊臣時代)、この期間は
武士の定義がそのまま同じではないでしょ?
質問が雑すぎない? >>231
>>215は>御家人の子孫を含めて国衙軍制で国内武士と認定された者の子孫のみが武士なの
と言っている
だから武士認定された者の子孫=武士交名に記載された者の子孫 訂正
京下りの文官御家人や新補地頭の例があるから≒ >>215(>>233)
>だから武士認定された者の子孫=武士交名に記載された者の子孫
それ、出典何処? 国衙軍制論って、武士の発生に関する議論で、職能論に対する反論として
提唱された学説じゃなかった?
鎌倉時代の武士の定義の議論としての国衙軍制論って誰が唱えているの? 武士認定された者の家は武士の家
すなわち鎌倉時代であろうが鎌倉幕府が滅亡しようが武士の家の者は武士身分 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >国衙軍制論って、武士の発生に関する議論で、職能論に対する反論として
>提唱された学説じゃなかった?
お前の大学は内ゲバ大学か?
職能論や国衙軍制論がセクトじゃあるまいしw
下向井龍彦もどちらの立場にも固執してないし 国衙軍制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E8%BB%8D%E5%88%B6
>初期鎌倉幕府政権は、国追捕使の権限を継承した惣追捕使を各国に設置することについて、朝廷から承認を得た。惣追捕使は、国内武士を統率する役割を担っており、これは国衙軍制の枠組みを導入したものと評価できる。
>惣追捕使はその後、守護制度へと発展していった。 >>242 >>243
だから、国衙軍制論は武士の成立に関する議論で
鎌倉時代の武士の定義とはそもそも別の議論。
石井進氏にはじまる国衙軍制論
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35_4.html
>>215は 国衙軍制から守護制度の変遷をつまみ食いして
平安中期の武士の定義を そのまま鎌倉時代の定義に脳内変換させた、
ウリジナル解釈だ、という指摘。
結局>>215は 「ぼくがかんがえたかまくらじだいのぶし」
それ以上でも、それ以下でもない。 >>215(242)
下向井龍彦が、鎌倉時代の武士について、
「御家人の子孫を含めて国衙軍制で国内武士と認定された者の子孫のみが武士なの 」
と言ってるのか?
おまえのレスは何が言いたいのか さっぱりわけわかめ。
国衙軍制論は職能論や在地領主論という既存の武士成立論に対する反論として
60年代に出てきた学説。 未だ決着していないはず。 鎌倉時代の武士身分って厳格に規定されてたか……?
下級の奴はほとんど百姓と変わらなくなかったか? >>243
そのウィキから引用するなら、こっちの方だろがw ↓
『その注文をもとに国内武士を列挙した名簿「武士交名」が受領のもとで作成された。
「武士交名」に登載されている武士たちは、承平天慶期に勲功を挙げた者もしくは
その子孫であって、武芸を世襲している者たちであった。
「武士交名」へ登載されていることが武士身分を表す指標だったのであり、すなわち武士とは、
武芸者として国衙に承認された者たちを指したのである。こうした国内武士の数は、
一国あたり数人 - 十数人程度だったと推測されている。』
これ、王朝国家期の話で鎌倉時代じゃないんですけどw
鎌倉時代に 国衙軍制が鎌倉時代の総追使に形態的にスライドしたので、
この「国衙軍制論」と「御家人制度」を脳内で混合させて独自の「武士論」に昇華させたわけね。
ははーん、これで>>215の「ぼくがかんがえたかまくらじだいのぶしみぶん」に至っちまったわけだ。
了解。(爆) 戦国時代を終わらせた秀吉の論理は、王朝国家の復活なんだよな。
まずは天皇の権威を高めて、日本は天皇が治める国であるとの
論理を打ち出してから、全ての揉め事は天皇から関白に任命された
秀吉が解決するとの建前で、戦国の世を終結させたのだよな。
頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、徳川家康にしろ、それなりに天皇を
尊重または意識して天皇の代行者として統治したのだよな。
ちなみに明治維新も、幕府ではこの国難に対処できないのは
明白であるから、ひとまず天皇に天下をお返しして、その上で国民国家を
樹立する党流れで混乱を収めたし、大東亜戦争の終戦のときも、
陛下の御聖断で、アメリカに降伏した上で、改めて天皇の名の
元に国家再建を図ったとの建前なんだよな。
戦国の到来を防ぐにはまず天皇の権威を持ち上げることから
始めないと駄目だよな。 王道と覇道というのがあり、前者は天皇で後者は時代ごとの為政者とはよく言ったものだな。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>247 鉢ノ木の佐野常世とか蒙古襲来絵詞の竹崎季長は御家人。
楠木正成とか赤松円心,名和長年は悪党。 やはり、腐っても鯛か? >>250
武士社会の変遷を考えていったとき、やっぱり天皇に収斂する歴史観に
逢着するのだなあ、と感慨深く思った。
戦後はものすごく評判の悪くなった平泉澄のいわゆる「皇国史観」だが、
これは単にイデオロギーであるにとどまらず、武士社会を通観したとき
最終的に抽出できる歴史観で、実は実体のあるものだったのかなと
考えてみた。
平泉など、当時本気で国体思想を唱道していた人に聞いてみたい気がする。 138です。
>>197
なるほど。職の体系というタームをこんな板で聞けるとは思わなかった。
着眼点は素晴らしいと思う。しかし一つ疑問がある。
果たして、「職の体系の保証人は室町幕府」なんだろうか?
室町殿とは関係ないところで止まる「職」もあるだろうし、
とりわけ坂東では、京?院?室町?なにそれおいしいの?という勢いで勝手にやってる。
その意味で、坂東は終始、結局のところは本所と関係ない世界だった。
中世の職って、そういう演繹的な「上から天下りする権益ラベル」ではない気がするんだよな。
そこが、江戸期や大日本帝国とは決定的に違う。水戸黄門的(時代劇的)なシナリオは成立しない。
正統性は上に上に求めていくが(だから重層的になってカオス化する)
必要性は、それぞれの階層の経済権益保持者が求めているもので、「お上」はその中身を追認するだけ。
そして、追認の適任者は下位者が決めるものだから、上位者が統制できるとは限らない。 >>197は中世の終わりではなく、戦国の始まりと思うね。
「ぼくのかんがえたせんごくじだい」や「ぼくのかんがえたちゅうせい」等は
独自の着眼点での一解釈であって、トータルとして複数の批判に耐えれるかどうかが
重要なんだね。
匿名掲示板での独自解釈 以上でも以下でもない。>>135も>>215もただそれだけ。 時代的に合うかなと思ってここに書くけど
守護大名と戦国大名って何が違うの?
守護大名から戦国大名になったのは少ないんだよね? 守護大名は幕府から守護として認められて一国を支配していた大名の事。
戦国大名は幕府とか関係なく、国を切り取って支配している。 室町幕府が通貨発行権を確立すべきだったねぇ
どうして室町幕府は通貨発行権を確立できなかったのかねぇ
いや鎌倉北条氏でもいいや。
通貨発行権を確立さえしていれば、土地を巡っての争いを
かなりのところ抑制できたのに。
なぜか日本の武家は、信玄のころまでは経済政策と言うのを
まったく考えていないのだよな。 >>260
鎌倉時代の通貨はコメ。
鎌倉時代はそのコメを統制して成り立っていた。
しかし、室町幕府はコメすら統制できなくなった。 鎌倉時代の貨幣経済
http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme/kaheikeizai.html
>鎌倉時代の通貨はコメ。
毎度のことながら このスレッドは珍説のオンパレードだな http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme/kaheikeizai.html >>262
その貨幣は全てメイドインチャイナだよ。
勝手に一般人が使ってるだけで、幕府が発行した貨幣じゃない。
勿論それを幕府がハッキリと公式に認めている訳でもない。
どちらかと言うと、クーポンに近いもの。 鎌倉・室町幕府が貨幣を発行出来なかったのは朝廷の権威を差し置いて独断でやることが出来なかったということなのかなあ >>264
相だよ。中国銭だよ。 だから何? 俺は幕府の通貨発行権の話をしてるのではなく、
「鎌倉時代の通貨はコメ」(>>261)という間違いを正しただけ。
「鎌倉時代の通貨は米ではなく宋銭」ですが何か?
このスレは怪電波を平気で飛ばす奴がいるから、訂正放送流してるだけ。 通貨の概念だが、近代国家なら政府発行の貨幣・紙幣に限定してもいいかもしれないが、
中世における商品経済発展期においては広義に商品交換決済媒体と解釈するべき。
少なくとも>>261はこの意味で「通貨はコメ」と書いている。
だから、「ちゃいまっせ、宋銭がおまっせ」と書いた。
ちなみに平安中期は絹織物が「通貨」になったりしている。12世紀初頭からだんだん宋銭が
これに代わってきた。 >>265
鎌倉幕府の場合は、土地争いの調停だけが仕事だと
思い込んでいたのではないかねぇ。
鎌倉北条氏は割りと名君が多いのに、貨幣を発行しようとの
感覚は持っていなかったくらいだからな。
少なくとも銅山を押さえて、開発するくらいの力はあっただろうに、
後醍醐天皇は貨幣の発行どころか、紙幣の発行まで検討していたようだけど
室町幕府はやろうと思ってもできなかったのではないかなぁ 鎌倉幕府の北条は土地持ってるし権力基盤強そうだな。
全国の守護、地頭の統制が効いていたイメージ。
室町幕府は、強力な守護大名たちのパワーバランスの上に成り立っていて不安定なイメージがある。 ちなみにかの後醍醐天皇は通貨を掌握し発行しようとしてたよ どうして武家は通貨を把握しようと考えなかったのだろうな?
信長、秀吉、家康のころまで通貨の発行を考えた形跡がないからな。
武家でも貨幣経済の波に飲み込まれて、それなりに通貨のことを
考えるやつはいただろうに。 室町幕府の軍事力って
なんで隣の大和の反乱をつぶすのに20年ぐらいかかるぐらい弱いの 後醍醐のおっさんのイメージは銭がないならたくさん作ればいいじゃない
的な怖さがあるんだよな >>273
それはそれで、そういう世の中を見てみたかったなww
間違いなく経済学は発達していたと思うぞ。 壬申の乱の直後に天武天皇が用済みになった藤原不比等を殺して置けば中世の戦国時代は訪れなかった >>275
中国みたいに天命思想で、王朝交代が起きるようになっていただろうね そうか! 道鏡が即位していれば戦国時代は防げたんだね! >>272
天領御料所が山城と足利しかないからね。
そもそも鎌倉と江戸とかとは直属の軍勢の数が違う。
そして、臣下の軍勢を動員しても命令系統が大名寄りだから、よっぽど強い将軍じゃないとマトモに使えない。 足利将軍家の直属家臣団は大きく3つ。奉公衆 奉行衆 京都扶扶持衆(東国在住)
将軍の直轄兵力は推定5000〜20000.諸説あり。
明徳の乱で 義満が直接率いた直轄軍(奉公衆)は5000. >>279
それだけあれば、指導力のある将軍が出たら
きちんと守護大名を統制できただろうに、
戦国最強の武田信玄や上杉謙信は2〜3万くらいだったからな。 指導力のある将軍が出ないようみんなで努力してたからな >>281
徳川幕府でも、権力の分散にこだわって、
例えば奉行所一つにしても、北町奉行、南町奉行といちいち分割しては
相互にチェックさせていたけど、
徳川幕府は結構まとめていたけど、室町はどうしてあそこまでグダグダに
なったのだろうな。 尊氏が気前よく武将に領地をあげまくったから。
後、守護の世襲化や年貢の中抜きを認めたのも大きい。
この南北朝時代に、始めて現代で言う“大名”が成立した。
それ以前の守護は単なる代官だ。 >指導力のある将軍が出たら きちんと守護大名を統制できただろうに
そんな将軍は消されます。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 クッソつまらんifではあるが、
「直義の意見を採用して、足利幕府本庁を鎌倉に置いた」としたら、
室町戦国の政治的様相は、全く異なるものになっていただろうな。
幕府本庁が鎌倉に置かれて「第二鎌倉幕府」となり、
坂東を中心に、足利将軍本人との間の主従関係を結び直すことで、東国政権としての基盤を固める。
史実は鎌倉公方の求心力不足が坂東に早々にカオス化をもたらすが、幕府本体が鎌倉なら全く事情は違うだろう。
西日本については、「室町探題」でも置いて、朝廷と西国守護を牽制するだけで深入りしない。
室町幕府の失敗は、畿内西国の商業の上がりに、軸足を置きすぎたことではないだろうか。
室町第を引っ掻き回す守護勢力は、よくみればみんな尾張国から西(承久の乱の上皇方地域)に実質的な地盤を持つ西日本勢だ。
ある意味、室町幕府は「その経済的先進性により、屋台骨を壊された」ように見える。これは江戸幕府と対照的だ。
このifでも、結局のところは、経済力を身につけた西国勢力が引っ掻き回して騒乱の時代が起きる可能性は高いが、
東国政権としての足利幕府本体は、実質的な統治機構を維持してぎりぎりまで粘れたような気がする。 東に戻っても足利には強引に事を進められる実力も求心力も無いという現実 >>286
いや、面白いアイデアだ。気に入った。簡単に言うと 寿永の宣旨以前の東国独立路線の焼き直しだ。
「もう西国はウザいから関わりたくない。棲み分けしようぜ。」という選択肢は当然有り得る。
単純に足利家の永続を考えたなら その方が良かったかもしれない。検討に値するプランではある。
しかし、この「プランB」は採用されなかった。西国を切り捨てられなかったんだろうねえ。
足利一門も西国に多くの所領を得てしまっているし、「西国は吉野朝、東国は足利氏」という
日本分割論は結局は一時的な休戦条約であって、長続きしそうもないことは明らかだ。
だから幕府を鎌倉に移転などとはできない話だし、直義も大局観に欠けている。 武士という社会階級の存在がそ不可避もそも戦国の原因なんだよ。
だから 何やっても戦国の到来は不可避。これ、前にも書いた。
戦国を止めたければ、平安初期にまでタイムスリップしないといけない。 やり直しw
武士という社会階級の存在がそもそも戦国の原因なんだよ。
だから 何やっても戦国の到来は不可避。これ、前にも書いた。
戦国を止めたければ、平安初期にまでタイムスリップしないといけない。 >>290
徳川幕府と言う例もあるからねぇ
武士と言うよりも、中央権力が土地争いをきちんと処理できたら
戦国は防げたのではないかねぇ。
鎌倉北条氏は曲りなりのにもできたから、安定政権ができたけど、
足利幕府は全くできなかったから、戦国になった。
徳川幕府はできたからねぇ 北条氏同様、足利一門も多くの国の守護を抑えてるのになんで団結できないんだろう >>291
ふむふむ。要するに 公平な裁判と、裁判結果を実行できる軍事力の2つが
担保されていたのが鎌倉・江戸であり、これが出来なかったのが室町時代というわけか。
なるほど。>>290で言いたかったのは平安中期には政府直轄軍が消滅し、その後は治安維持は
軍事貴族や地方豪族の私兵に依存することになったことが、そもそも問題、
という指摘だった。
閑話休題。 ここで「幕府論」をぶってみる。 幕府というのは、先に上げた、朝廷に治安維持能力が
全く喪失した状況(平安末期)に対応するために編み出された社会制度と言える。
これを創設した頼朝は一種の政治的天才だった。武士階級の要求をしっかり汲み取る新しいシステム、
それが鎌倉幕府だった。鎌倉幕府は経年劣化による金属疲労が祟って崩壊したが、
室町幕府はそもそも 新作発表の段階からシステムに欠陥があったわけだな。 そして、その構造的欠陥とは、
守護領国制だと、以前 書かせていただきました。 そもそも、なぜ尊氏は部下にあんな大盤振る舞いをしたんだろう
頼朝みたいに膨大な所領を持っておけばよかったのに 大盤振る舞いを約束して実行したからあそこまで行けたんやで この時代の武士の行動基準は恩賞を沢山くれる方につくこと。だから働く。
天下人でケチなのは家康ぐらい。蒲生氏郷も大盤振舞だったが天下取る前に死んだ。 だから、この時代の天下人は徳川みたいに力を持って押しつぶすか土地の代替物が必要な訳だ。
そうでないと何時まで経っても中世の延長線上だろうな。 >>295
金持ちのボンボンだったからじゃないのかな。
家康はなんだかんだと言っても、経営を知っているけど
(今の世の中に生まれても、トヨタくらい大企業を築き上げそうだ)
足利尊氏は本当に金持ちのボンボン臭が漂っているのだよな。
経営者の視点で行けば、後醍醐のほうがマシと言うか、
後醍醐はそれなりに経営者の視点を持っていて、
京都市長程度なら難なくこなしていたくらいだからな。 >>300
金銀もあるけど、名誉と格式と言うのかなり有効な手だ。
徳川幕府は金とか土地は渋ちんだったけど、
名誉と格式の配り方はかなり工夫していただろう? >後醍醐はそれなりに経営者の視点を持っていて
なかなかブラックユーモアがあるな。
経営感覚が最も乏しいリーダーの一人が後醍醐天皇なんだがw 尊氏は軍記で唄われているような武士の理想を自分が体現しようとしたら基地外になった、という感じ >>302
経営学の本を書いた人が、会社を興したら
すぐに倒産してしまったという例があるからな。
少なくとも、通貨の発行をやろうとしたのは評価すべきだろう?
それに京都市長としてなら、それなりに有能だったようだし BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 後醍醐天皇のやろうとしていることは、現代人から見たらわかりやすいから好き 尊氏だろうが後醍醐だろうが
どっちが勝ってもいいが
勝敗がさっさとつかず長引いたことが根本原因
孫の代で決着て長すぎるわ。
紛争始めたお前らの代で終わらせろ。 割りとマジでそういう姿勢が内乱を長引かせたんだろうな。
途中から私怨が原因の喧嘩になってたんだろ。 内乱は封建制度の宿命
律令制から絶対王政へ、或いは一足飛びで立憲君主制にする >>293
奈良時代や平安初期においても、地方(特に東国)の秩序維持を行っていたのは、
古墳以前からの在来豪族としての郡司層だったんじゃないの?
そして、弥生古墳以来の旧郡司の没落がもたらしたものが、
更級日記が、今の東京都内にあたる地域の往年の姿として描写するような、
関東平野を中心とする平安中期以降の治安の悪化。つまり武士が台頭するゆりかご。
ただし、具体的な人的問題としては、郡司が在地の武士に横滑りする例は頻出する。
そして、その武士を「鎌倉に居着いて、横から割り込んで統制した」のが源頼朝(鎌倉幕府)。
「在洛政権として、上から支配を及ぼそうとした」のが室町幕府(というより高師直、後に足利義満の発想)
上からなので、支配の兵站線が伸びきってうまくいかず、間接支配になる。古代の畿内律令政府の再来になる。
奈良時代の郡司と違い、守護や国人は統制が効かない。そしてgdgdになる。
更に、室町固有の事情として、中華との交易に刺激された西日本商業の発達がある。
古代、郡司が最も強かったのが関東、その次が東海だった。
在地武装勢力としての武士揺籃の地もここだった。近畿からでは手が届かない。
直義案(足利幕府鎌倉設置案)は、悪いものではなかったと思う。 戦国時代の到来を防ぐにはどうすればよかったのか=
足利尊氏がさっさと後醍醐や新田を殺すにはどうすればよかったのか
後醍醐が尊氏をさっさと殺すにはどうすればよかったのか >>311
そもそも尊氏も幕府は当初は鎌倉に、関東に置こうとしてるよ。
じゃあ何故置かなかったというと、それはまだ関西に南朝が居たからに他ならない。
京都より西に南朝の勢力がいる以上は、京都を開けることは無理だ。
これも尊氏が優柔不断すぎて南朝を倒せなかったことが響いているんだよな。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 尊氏は優柔不断じゃない
判断が間違いまくってただけ >>316 判断が間違いまくってよく幕府が開けたもんだ。 >>318
後醍醐は今の目で見たら、筋が通っていたと思うけどな。
ただあの時代の日本の実情に合っていなかっただけで、
これが明治維新の時代だと、案外成功していたのではと
思うのだ。 >>321
せめて秀吉の時代くらいだとどうにかなっていたのかもしれない。 今まで内緒にしていたが、足利尊氏の生まれ変わりが宇喜多秀家だったんだよ。
さらに輪廻転生して鳩山由紀夫に生まれかわった。 尊氏は決断力はあったよ
その決断はことごとく間違ってただけで
普通だったら新田程度さっさと殺せてる >>320
時流も読めてないが、度量が小さい
建武の新制なんてものを押し通すには、相当な大物でないと無理 >>320
地方の具体的支配スキームを、そもそも全く作動させられなかったのだから、
後醍醐は、そもそも話にならんだろ。
平泉澄まがいの、すべての現実を超越する純粋な皇国史観唯一神絶対崇拝でもしないかぎり、
後醍醐の大失政のフォローは無理だよ。
これは、なぜ(在地武装勢力としての)武士という階層が出現したのか?という問題そのもの。
律令国家の真の生命線だった「近畿の都からの古い在地首長の間接的掌握」が出来なくなった段階で、
孝徳天皇以来の古代型天皇親政は画餅に帰する。
これの解決策が、より土地に近い位置(鎌倉)からの横からの割り込み統制として
源頼朝と北条義時によって発明された。鎌倉幕府は崩壊しても、これに代わるシステムはない。
いくら後醍醐が対抗して、「ぁゃιぃアウトサイダー」を親衛隊にして煽っても無駄。
この「古代の崩壊」の後遺症の最終解決は、豊臣秀吉が10年程度で一気に成し遂げる。
惣無事令なる概念は、今はかなり批判されているけど、それでも、関ケ原合戦の頃には、
中世的な土地問題は、「大名家のお家騒動」と「惣村の争論」に分解していた。
こうなれば、中世的権力は必要ではない。 馬鹿なボンボンと
構想だけは雄大だが実行力はイマイチの無能と
落ちぶれ家出身のいざというときに逃げ出す無能の
レベルの低いうんざりする戦いが南北朝 秀吉って中世を終わらせたという意味でめちゃくちゃ偉大なんだよなあ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 新田をさっさと殺せてるという謎理論は何なんだ
そもそも新田殺したあとも内輪もめ始めただろ >>331 そもそも、後深草の系統のみ天皇に即位していたら倒幕はあったであろうか?
倒幕なくば楠木や赤松は兵をあげてないし。尊氏も兵を挙げる誘因はない。もちろん、
義貞も。北条の天下はいつ崩壊するんだろうね。 北条による守護の独占、分割相続による御家人の窮乏でシステム疲労を起こしていたのは間違いないでしょ。
後醍醐天皇が現れなくても同じくらいの時代に誰かが倒幕に動いていたという思う。 正解って言い方されると困るが、
鎌倉幕府の倒幕まではあの流れで、そこから穏便に納めるには、
後醍醐天皇が配下におもねった人事を行えば
取敢えずは分裂は避けられたんじゃないかな ああもう大内義興がさっさと天下を制覇して山口で交易行いまくっていたら
日本はもっと発展してたんだよ
だれだよ邪魔したやつ >>336
あの時代は国家意識が今よりは希薄だったからネェ
大内氏は自称百済王の末裔で、李朝に先祖の土地があるから譲ってくれと
手紙を出したくらいだからな。
それに大内と後継者の毛利は天下統一には余り関心が
なかったみたいだし。 江戸時代交易が下火になったのは赤字貿易だからじゃないのか? 「後醍醐は、公家偏重の恣意的な恩賞をやらかして人心を失った」というのは、
小学校の社会科教科書にも書いてある話だけど、「恣意的」というのは疑わしいと思うんだよね。
他の政治的施策をみる限り、後醍醐は、「恣意や復古妄想に走るタイプの無能」だとは思えないんだよ。
彼の政策自体、古代的だとは到底思えない。王莽や平田篤胤のような真正の怪電波男の要素は全く無い。
「義良親王に北畠顕家を付けて、奥州多賀城に配置する」なんて、古代的発想では思いもよらない発想だし、
そしてこれは地政学的にも実効性を持つ軍事政策として、実際に見事に機能した。
後醍醐は、公家偏重の「恣意」で自滅したのではなく、
「地方の在地武装勢力としての武士の政治的意義」を、
結局崩御するまで、まったく理解できなかっただけなんじゃなかろうか。
戦後の教科書は「後醍醐は公家偏重というクソ政策を行った(意訳)」と書いていて、
一見脱皇国史観のようにもみえるけど、実際には「裏返して罵っただけ」で、
「建武中興の理想」なる皇国史観イデオロギーの致命的桎梏から、逃れられていないんじゃないかね。
平泉澄が絶対崇拝していたような「唯一絶対にして永久不滅の皇国の理想」なんてものは、
後醍醐には最初から無かったんだろうと思うよ。 後醍醐政策の実質はともかく
自分と同じように政策を解釈しないのはイデオロギーのせいだとするのは論理が飛躍してるだろ だから権力の私物化だろ
「地方の在地武装勢力としての武士の政治的意義」を理解できない、
なら彼の理解ではどうなってたかと言うと、
権力は自分に集中するものとなってたわけだ。それは「恣意」だよ >>342
後醍醐、というより朝廷や権門からみれば、武士とりわけ東国御家人は、
「その存在自体が権力の私物化」にみえるんだよ。
孝徳天皇以来の律令帝国の統治スキームからすれば、
鎌倉武士なんて「実力(暴力)を傘に、日本国版図の公的な地方統治に対し
『横入りしてわたくしする』チンピラども」にすぎない。
でも、古代豪族の没落とともに、このチンピラこそが地方における実務統治の実行部隊になる。
このチンピラを、一番荒れた地方の地元(=関東平野)に居着き、横から割り込んで束ねたのが
源頼朝であり、北条歴代執権。
後醍醐は、最後までこの深刻な事実が理解できなかったのさ。だからあんな恩賞配分になった。
恩賞というのは、為政者側からみれば、終わった戦の事後的報奨に尽きるものじゃないからね。
彼の将来の知行地の統治能力をも見越して与えるもの。御恩と奉公は継続的な契約関係だから当然だ。
後醍醐は、彼なりに恩賞を公平に与えたつもりだった。
でも、武士の意義が分かってないから、チンピラが一肌脱いでくれたくらいにしか思っていない。
ここをゼロ査定してしまう。それで恣意だと罵られた。 >>1
ちと言わせてくれ。
戦国時代というと無秩序、無法状態で映画「7人のさむらい」のような
夜盗がごろごろいたイメージだ。スレ主もソマリアを出したようで、同様の
イメージのようだ。
だが、ボクが資料やら文献やらを調べ見たら、そんなイメージは全然ない。
土豪(国人)にしても、京の大寺の地方の庄園の荘官になりたいと入札に参加している。
年貢の徴税・納付を請け負っている。で、うまくやれないとクビになっている。
そこには秩序、法の支配、慣習、権威がキチンと存在している。
そういった秩序の上に戦国時代はあるんだと、今までのイメージとは違うと認識した。
土地の所有権はキチンと保持されている。重層的な所有権があって、戦国時代は一番上の
所有権の争奪をしたと言うこと。寺や神社の土地所有権はキチンと確保されたということ。
どう? イメージ変わった? キチンと確保なんてされてない
信長の所業を調べてみろ
邪魔する奴はぶち殺す。血で血を争う闘いの時代で
親子、兄弟でさえも敵味方に分かれて殺し合った
強いものが得、弱いものが奪われるのが戦国時代 ところでさぁ
博識なおまいらに質問があるけど、
鎌倉・室町・戦国時代で給与生活者はどれくらいいたの?
土地こそ命の土地本位制度から、銭こそ命の価値観になれば
戦国の世は防げたと思うのだけど。
平成みたいに土地よりも銭とまでは言わん。
せめて遺産相続で土地はもらえなかったけど、銭を分けてもらったから
まあいいやと考えるようになったのはいつ頃かなぁ〜と 大量に居た、と言うか殆どの人が土地持ちの下で給料貰って働いてた
土地が銭になっても利権を守る確保するためにヒャッハーするよ
穏やかになったのはヒャッハーを退治する公的権力が強くなってから >>347
室町は銭で税金を払っていたようですが、
小作人レベルまで銭払いでやっていたのですかねぇ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 信長に脅されて金払った堺の町衆みたいにカツアゲされるだけ
仮に銭で武士を雇っても、後で、そいつらから金をせびられる
自分が強くなるしかないんだ >>344
地方が本当に「リアル修羅の国」になったのは、実は平安中期だからね。
この事情は、更級日記に赤裸々に書かれている。
追い剥ぎが出るような暗い峠道ではなく、関東平野の真ん中が修羅の国になっていた。
関東平野は僻地だが、地形的には開けていて、まともな政府があれば統治は容易な地域。
ここの治安が崩壊するということは、統治機能が麻痺しているということ
旧豪族は没落し、受領は任期中の収奪だけを考えていて、
でもなぜか公務員(在庁官人)の数だけは膨れ上がっていた。しわ寄せは全部農村の庶民に来る。
京都の宮廷で、呑気に惚れた腫れたの物語文学が書かれていた頃が、
地方統治としては、最悪の失敗国家状態だった時代。
武士という階層が曲がりなりにも成立してからは、
地方は、それなりの「中世ルール」で動くようになっている。
もちろん公家も参加してる。後醍醐がそれを理解できなかったとしても。 京都だって鴨川辺りは死体だらけだったんだろ
ちょっと前はインドのスラムがそんな感じだったらしいな
道端に何か落ちてると思ってたら死体だったとか聞いたわ
日本も昔はインドみたいに混沌としてたんだな 奈良辺りの鬼道に事え、能く衆を惑わす女を長にたてれば良かったのだ >>356
それに近いのが後醍醐であったり、信長・秀吉・家康だったのではないかな?
当時の人だと、通貨を統一したり、紙幣の発行を志したり、
関所や座の権利を否定したり、一円支配を標榜したりするのは
それこそ鬼道を持って衆を惑わすような感覚だったのではないかな。 はっきり言って戦国大名は豪族の延長なんて矮小なもんじゃなくて地方王権でしょ そう。藩は外交も内政も独自に行っていた
日本という一つの国の中に、さらに小さな国がある
むりやり現代の言葉を利用すると、連邦制といか合衆国というか、
ともかくアメリカの州よりも、強い権限があった 中世の支配概念は今とは違っていたからな。
徳川時代は原則的に藩がその地域の裁判から外交から全て仕切っていたけど。
室町期の守護大名は大名とは言っても、神社仏閣に対して犯罪人を
引き渡せとか、税金を払えとかは一方的には命令できなかったからな。 >>359
どれは幕末期の支配が緩んだ時代の話で、それ以外はそうでもないよ。
封建制の政府の割には、下知の一言で余裕で取り潰しとか領地の没収とか出来るしね。
そして地方の反には幕府のポストはほぼ与えられないというのも、室町幕府との違いだな。
だから江戸幕府の藩には、国政の参加権は無かった訳だし。 まぁ余裕の一言になるよう下準備はしっかりしてたけどね ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 コメにこだわりすぎて、新天地の開発をあまりやらなかったというのも
大きいのではないかねぇ
遅くとも平安時代には、北海道があるのはわかっていたから、
分家で余った連中を送り込んで開発させたら、
鎌倉幕府ももう少し続いていたかもしれない。
鎌倉幕府がもう少し続いて、楠正成みたいな銭の経済の人を
味方につけて、通貨の発行や貿易立国をやればあるいは 北海道送りなんて、ただの刑罰だろよ
島送りの最高刑としてしか成り立たない
寒くて凍え死ぬか、アイヌと同化して土着化するかが良いところ
幕府存続の力になるようなものは得られない 昔の日本は朝鮮より防寒技術が遅れていたのか
冬の朝鮮は北海道よりも寒い 朝鮮から防寒衣服や防寒に優れた建築技術が導入されて
近代化が進んだかもね 明治の屯田兵の苦難を思えば、室町の時代に失敗しても仕方ない 朝鮮出兵なんてどだい無理だった
北海道の寒さ程度でねを上げる程度じゃ ほら、日本て温暖湿潤じゃん
寒さには基本弱いんだよ
大陸に比べて防寒が弱い
まあ蝦夷地言ってたら
防寒技術が史実より進んだかもしれんけど 防寒技術が進む
○中国人や大陸の異民族の猿真似するだけ 戦国時代を終わらせたときは、朝鮮征伐でゴロツキどもを処分して、
各地で城下町を建設したけどな。
明治の時も、北海道開拓と殖産興業と海外進出をしたし。
昭和の戦後の時も、戦争はやらなかったけど、移民を出したり
高度経済成長をやったからな。
やっぱり北海道開拓くらいはやるべきだったよな。 北海道よりも、任那の地を取り戻す方が良さげじゃね
まあ、それじゃあ戦国の世だけどさ 北海道って羆が跋扈してんだろ?
槍や火縄銃ごときで勝てるのか? 石器時代の人間がナウマン象狩ってたんだろ?
熊ぐらい何とかなるべ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 中世の社会だと、北海道の数の子とか昆布等の海産物には
関心がなかったのかネェ
米が取れない、ジャガイモやカボチャやサツマイモがないといっても、
(サツマイモは北海道では作れないが)ソバや大豆、稗、粟が
あるから何とかなりそうな気がするのだが? 水稲稲作に必ずしも依存しない北方開拓というのなら、
鎌倉時代後期に東北北部で行われていたことが、考古学的にも文献学的にも明らかになってるよ。
典型例は、南部氏の岩手・青森への定着だ。
山梨(のうち最も温暖な南端部)から、肌寒いやませ吹く岩手に乗り込んだ彼らの生業は、
文献上も考古学証拠でも、雑穀栽培と馬の飼育だった。
つまり、当時の大和民族の「拡張するパワー」自体、
基本的には東北北部で十分だったということだろう。
松前渡島は、基本的には、アイヌ民族との交易をするところであって
大和民族自体の組織的入植地にする必要はなかった。 拡大していくための資本を集中できる勢力が存在しなかった >>380
いやそれなりの勢力はあったみたいじゃないか?
あの時代の青森県の十三湊は、九州の博多並の街だったそうだし、
安東氏は李氏朝鮮に使節を出したりもしていた。
それに北海道からも、あの時代の銅銭が何十万枚も詰まった
壷が見つかっている。
それなりの資本をつぎ込めたと思うのだけどな。 ファッシズム政権の終わりは、いつでも残酷な結末しかない。
安倍晋三はどんな殺され方をするんだろう?
https://twitter.com/tok aiamada/status/605899171313246209
辺野古新基地建設反対ママの会に対して、機動隊員が「お前たちには汚い血が流れている」
「だってお金欲しいもん〜」「俺の写真を待ち受けにしろ」などと暴言。(顔写真)
https://twitter.com/MothersNoWar/status/690357793702940672
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。
イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。
しかし、そうはならないでしょう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動(1種類の政治形態が世界中を支配する)
をコントロールするのは、マイト レーヤの任務です。
史上初の世界演説は英国BBCが放送
それは非常にまもなくです。
マイト レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。
この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、
歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=6cO vo6n7NOk 鎌倉・室町あたりだとわりと朝鮮半島や中国に行っていた人は
多いだろう?
その中には、東北出身の人も少なからずいただろうし、
現地で北方の寒いところの出身者と話はしただろうし、
場合によっては北京や平壌周辺にまで行っていたと思うのだが?
現地で交流していた人は、南の方の温暖な地域の人
ばかりだったのかねぇ? >>383
どの階級の人たちが中国朝鮮に何をしに行くんだ? >>384
そりゃ一旗組だろうてww
海外旅行=物見遊山の観光旅行のイメージができたのはそれこそ
近代に近くなってからだからな。
前近代だと、何処の国でも食い詰め物の一旗組が大半だったのでは
ないかねぇ 実例はあったの?
俺の知る範囲では聞いたことないから詳しく頼む。 守護が強ければよかった
そして、力にものを言わせる者が出てこなければ・・・ 守護大名が力をつけていたから戦国に向かったんではないか。
もし将軍家が義満の時代のまま一強を保っていれば江戸幕府みたいになっていた。 戦国時代を防ぐって誰の立場で言ってるんだ
日本列島原住民の立場ならどうする力も無いよ
渡来人が日本列島上で争ってたのを農奴の縄文人は見てるしかない 武士は農奴やろ。
室町時代にゃ渡来人は京都でオカマやってらな。
ひょっとしたら戦国時代というのは、原住民が江戸幕府という独自の王朝を開くための戦乱だったのかもしれない。 凶暴な朝鮮人スリ団 被害急増
東京都内の鉄道で起きた韓国人武装すり団とみられる窃盗や強盗事件のうち、JR中央線と京王線での被害が昨年に比べて急増したことが、警視庁のまとめでわかった。
一方、地下鉄の被害は半減した。同庁は「全般的に、警戒が厳重な都心部より郊外で犯行が多発する傾向がある」と警戒を強めている。
韓国人武装すり団は数人で乗客を取り囲み、バッグを切り裂くなどして財布などの金品を盗みとる。
犯行が発覚しても取り押さえられないよう、隠し持っていた刃物で乗客らを切りつけ、けがをさせることもある。高齢者や女性に被害が多い。
捜査3課が現在、武装すり団による被害件数を沿線別に比較したところ、JR中央線は昨年同期に比べて31件から73件へ、京王線が15件から42件へと2〜3倍になっていた。
一方、東京メトロと都営地下鉄の合計は、昨年が394件だったのが今年は187件に激減した。
今年は6月に地下鉄渋谷駅で駅員が銃撃されたり、東急田園調布駅で乗客がすり団のメンバーに切りつけられたりする事件が起きており、とりわけ都心部で厳重な警戒態勢がとられた。
武装すり団は乗客が少なくなる日中に犯行に及ぶことが多い。乗客が多いと、逃げる際にも支障が出たりするからだ。同課は「郊外に行くほど、すり団にとって狙いやすい環境が整う」と分析している。 既出ならスマン
インフラ
・高速道路 (早馬用 大規模道路)
・海路ルール・船便 改善
・南蛮の高速艦船 導入
法律
・法治主義。人の支配 禁止
・憲法 整備
政治
・入れ札(多数決)導入
・円卓(上座・下座禁止)導入
話し合いでも、
意見の是非より上下関係優先したら
そりゃ不満が噴き出しますわ
階級
・門閥禁止。政策本位の政党政治導入
(たまーに同門同士の対立もあったが
政策本位の対立を恒常化させる)
軍事
・外敵(仮想敵国) 既出だな>>4
・暴力・手駒私兵規制 要は、近代化=経済安定・法治主義を怠けりゃ、
そりゃ、クーデター起きますわ
あと、軍事外交的には、無論
南蛮=大航海ラテン諸国に対して
足利があまりにも無策だった
これでは、各地氏族が不安を抱いても当然
将軍なら世界史はちゃんと勉強しましょうよ、と
>>390
ニアピン賞
国譲り以来、
アマテラス vs オオクニヌシ
この抗争が常に噴出してきた
(ちなみに、松平徳川はオオタタネコ、
つまりオオクニヌシ寄り)
モラルハザードを考慮するなら、
アマテラス皇族が自主的に廃朝して
諏訪氏に大政奉還しておけば、
少なくとも徳治や法治、非暴力主義を徹底できた
まあ、暴力主義、負の連鎖 悪循環ですわ
ちなみに、今の時代も、ね 尊氏が「武士たちは、足利家という源氏名門の家柄ブランドに
ついてくるはずだから」と過信しすぎた
北条得宗家の増長や建武の新政の恩賞不満をみていたからだろうが、
将軍の直轄領はわずかにしてしまった
北条と徳川は他の御家人や大名を圧倒するような巨大な軍事力を
持っていたから天下を統治できたから対照的だ だな、将軍の直轄領が少なすぎだ。少なくとも5ヵ国は押さえて常備軍編成しておく
べきだった。 >>394-396
違う
軍事力だけではイタチごっこで切りが無い
人治 門閥 私兵
これでは
クーデターチキンレースが続くだけ
ちゃんと唐やギリシアあたりを研究して
すみやかに国軍と議会、
何よりも法治の法理を導入しなかったのが
最大の敗因
どんな分野だろうと
近代化しないバカは必ず負ける 国が発展していけば保てるが、発展しないと保てない
その点の差が室町と江戸のさがある 戦国時代が悪い時代って、
俺はおもわんけど
人間の正体が、剥き出しなっただけだろ。
平和な時代では、
それが隠れているだけ。
無くなってっはいない。 鎌倉時代、北条氏は他の御家人に突出した所領を保有しており、軍の動員力も
ずば抜けていたが、最後には北条氏のみが鎌倉に孤立して滅亡した。
当時の武家の権力者が生き残るには、単に直轄領と直轄軍を保有するだけでは
なく、武家社会の中で広範な支持を得ることが必要だった。
だから、足利尊氏が配下の守護大名たちに多くの所領を与えて懐柔したのは
当時の判断としては、適切だったと思う。
結果として室町幕府は弱体化したが、足利将軍家は高い権威を保ち、鎌倉幕府
より長く続くことができた。足利氏自体も、江戸時代以後も貴種として高い
家格を保持し、明治維新まで続くことができた。 徳川は足利のような弱体化した幕府にしないように心がけていたのだろう
仮に家康が天領400万石を御三家たちに分配しつくして、
御三家を三管領のように幕政の中枢を担わせたら、
徳川将軍家は第二の足利将軍家のように弱体化してしまう
だから徳川将軍は天領400万石と旗本八万騎という
圧倒的な軍事力を持ち、
御三家には格式と名誉を与えても、幕政には参加させない そして徳川は武家社会の中で広範の支持を得るために、
家康は神となり、その後は儒教を奨励することで、
徳川への忠誠心を醸成していった
徳川も自らを「公儀」と称して、徳川の私利私欲ではない、
武家のための公的な存在であるとアピールした(実態は別として) >>86にあるように、武士が武士である限り、武士の所領拡大欲求は尽きることはなく、
戦国時代到来は不可避だったのだろう。
だから、戦国時代を終わらせるには、武士を武士でなくすしかなかった。
江戸幕府の統治政策とは、武士を武士でなくすことだったのではと考える。
われわれは武士のイメージを江戸時代の武士から抱くことが多いが、あれは
何か別のものの姿を見ているのではないか? つまり相続のシステムを分割から嫡子総取りに変えれれば防げたと >>405
その通りかもね
徳川に反乱を起こさないように棘を抜いてるうちに
「非武士化」されたのであって、最初からそれを意図してたのではないだろうが >>408
兵農分離ってか、万石未満の旗本を原則江戸定府にして
知行地から切り離したことだろ? まあ、幕末の旗本みたいに「刀差して歩くなんて、重くて仕方ありませんよ」なんて嘯くところまで落ちぶれるとは思ってなかっただろう。 >>398
そういう発想は議論そのものを否定するから
ここでは禁句
>>401
墓の所在さえわからん氏族が成功なわけありません
>>403
徳川も賀茂一門なんだから
オオクニヌシとの関わりから論じたまへ
考察が薄っぺらすぎる
やり直し >>405
ハッキリ言って、徳川家の国防構想は極めて脆弱
織豊と比較して話しにならない
おそらく、家康自身の本音として
国防は二の次だったんだろう
で、どうして天下盗りに討って出たか
結局家康のプライドだよ
「オレも賀茂の末裔、神の一族だ」
この王族としてプライドがあったから
日光みたいな山奥に神殿まで造ったのさ
>>407
トゲ抜くなら
バーターで国軍を強化しないと
国防としては大失敗
ここらへん、徳川家の執念、
悪く言えば冷静さに欠けた狂気を感じますな 徳川の250年間特に外国が攻めてこなかったのでよかったのかと。
徳川が地政学をどれだけ理解してたかしらんが、
16-19世紀前半までなら戦略的に重要拠点ではない プライドでも何でも無く、当時の武将が皆抱いていた野心じゃないのか。
誰だって信長秀吉を見ればお次を狙うだろ。 江戸時代の武士は、従来の武士とは違って、一種の文官だったと思う。
武士が文官に変化することによって、社会が固定化し、戦乱の要因がなくなった
のではないか。 つか戦争がなくなって世襲の家来を何に使うかってと文官しかないわけよ
で、文官として成功するには武芸より学問ができた方がよい
インテリ集団のできあがりだ
西洋のように商売始める武士があまりいなかったのが
せめてもの武士の矜持なのかな。
金貸しは相当数いたようだが。 >>415 吉川元春 小早川隆景 父の毛利元就より天下を狙わぬよう厳命される。
上杉謙信 謙信の目標は室町幕府の復興ではなかったか?
北条一族 関八州の掌握
後 長曾我部とか大友・島津なんかも四国や九州の統一が目標じゃなかったかな。 >>418
それは当面の目標だろう。
戦争している以上は、地域統一だけで収まる訳が無い。
そこを統一したら、自信ができて次は天下へ京へ・・・と言うのは自然な流れだ。
それに、仮にそこが収まっても他が許さないだろう。
地域の統一というのは、パワーバランスの崩壊を意味するからな。
他が攻め込んでくるだろう。
そして撃退したら同じことだ。
結局は嘗ては統一されていた同じ文化圏で戦っている以上は、ゴールは統一以外には有り得ない。
そして文化圏に所属している以上は、統一戦に参加せざる負えないという事だね。 >>400
こういう中二病って何でさっさとソマリアかメキシコにでも移住しないんだろう
斜に構えたこと言っておきながら自分は殺し合いする度胸ないチキン 足利義満みたいなのが代々続いていたら
足利幕府による恐怖の支配が続き
とりあえず戦乱は起きない 別に義満の頃だって大した戦力あったわけじゃないから
恐怖政治なんて長く続くわけないよ
内部分裂を誘発してそれをうまく調停するのが足利幕府の基本的な統治方法 それ自体は何ら戦力を持たない国連と同じだからな。
国連はご存知の通り国土も住民も戦力も持たない。
国連軍というものはあるが、実態は各国軍の寄せ集めだ。
アメリカ軍etcの寄せ集めで、国連直轄部隊というものは殆ど存在しない。
それは室町時代も同じで、一応奉公衆という軍隊を作ったが、所領も民も無いから大して長続きはしなかった。
維持が出来なかったんだな。
だから、室町幕府を続けたいならまずはマトモな天領を作らないと話にならない。 君たちはもう気づいているはずだ。 戦国時代の原因(遠因)は足利尊氏にある。
もっと言えば観応の擾乱である。 戦国の始まりは1349年である。 >>426
これは否定しようがないね
また尊氏ファンとして誠に遺憾の意を表明 後醍醐天皇が南朝を建てる前に亡き者にする、辺りから歴史改変しないとな。
幕府の存在意義が統制に拠る安定でなくて、調停に拠る均衡だから、成立過程から変えないと・・・尊氏・直義兄弟しっかりしろと。 尊氏に信長秀吉家康並のやる気を持たせれば良いんじゃない?
そうすりゃもう少ししっかりした物が出来たかも。
若しくはせめて、義詮の早死が無ければ或いは・・・ 尊氏がどんなに頼朝みたいに統治しようが、既に時代は貨幣経済に移ってたから鎌倉幕府みたいにはいかなかったんじゃないだろうか 関東といふ僻陬の地に開幕すれば、何故か長く続くやうぢや。 それは南北朝時代が早期に終了しないとできないな。
せめて尊氏の代に終わらないと、京都に定着しちまうからね。 まず地方の守護大名の国力を削ぐ政策を実行できる能力を持った強力な政権がないと実現不能
地方大名の本領安堵を許さず中央に財力を集中させるシステムが必要
だからまず誰かが武力で統一するしかなかったというのはあるな
律令を作った天武天皇や徳川幕府はそのシステムを構築したからその後数百年持ったと思う 日本史上、初めて全国統一したのは足利義教。 そう、日本史上最強のリーダーである。 戦国時代の始まりと終わりはいつからか? とかいうスレがあった。 近年はその始まりを
応仁の乱ではなく、明応の政変(1493年)とする説が注目されている。
まあ、それに立てつくわけではないが、 もっと巨視的に歴史を眺めると、義満〜応仁の乱の機関は
一種の小康状態・平和条約ではなく休戦協定のまままの状態と見做し、
南北朝争乱の勃発〜関ヶ原の戦い(又は大坂の陣)までを「戦国時代」ではないか、と考えたりもする。
義満〜義政(前半)時代のいわゆる「室町の平和」を無視してしまうと、何か今までのモヤモヤがスッキリして
目がさえた気がしてくる。 >>1
タイムトラベルして後醍醐天皇と足利尊氏と新田義貞を消す。
鎌倉時代がダラダラ続く。
やがて、この腐った幕府を倒す英雄が現れる。
大塩平八郎である。 鎌倉時代が長続きは無理だろうよ。
後醍醐天皇や護良親王がいなくても、いずれ応仁の乱のような動乱は起きてたろう。
そして室町時代を挟まずに戦国時代に突入・・・
そして信長や秀吉に相当する誰かが登場し、統一していたかもしれないな。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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