後一条・御朱雀天皇の生母である藤原彰子を同母姉に持つ頼通、教通は出世街道を驀進したが、
異母腹の頼宗は年下の教通にすら追い抜かれ、顕信は三条天皇自らが昇進の話を持ちかけたのに対して、
父の道長が「その能力に足りず、人のそしりを受けるから」って断ってしまってるのが何だかな。
出家の理由は父への葛藤が最大の要因だろうな。

道長って、明子とも6人の子をなして夫婦仲は良かったんだろうけど、
明子腹の寛子が危篤の時なんて、父上に一目お会いしたいと寛子が望んで、渡ってきたのはいいけど、
倫子腹の嬉子が妊娠中でそのお世話があるからって、危篤の寛子を置いて帰ってしまったよな。
葬列にも加わらず。嬉子がその翌年に亡くなった時は、前後不覚状態で号泣しながら、
それでも親族に支えられて葬儀の列に一緒に加わったのに。
いくら天皇や東宮の妃ではないからといって、危篤の娘を置いて別腹の娘の世話をしに帰るって。