藤原道長 [無断転載禁止]©2ch.net
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日本史の中で超重要人物でありながらあまり語られない
藤原道長について語ってください。
道長が天皇の臣下のままでいたから後の頼朝も家康も
天皇を倒そうとしなかったと思うんですが。どうなんでしょう?
あと、具体的に何をしたのかあまり知られてないですよね。
紫式部のパトロンとかは知られてますが。どういった人だったのでしょうか? 大河ドラマって、「秀吉」なんか、秀次を殺すところもやらずに(当然死なずに)最終回を迎えた時もあったからなあ。 同じく栄華を極めた「平清盛」はどんな感じだったの?
見て無いから分からん
2012年だったっけ
清盛もクライマックスの壇ノ浦前に地味に熱病で死んだけど
そこらへんもやったのか… 源氏物語の頃って他に小説書く奴いなかったんだろうか? 井沢元彦によると源氏物語は、藤原につぶされた源氏への鎮魂歌らしいけど
確かに源高明は追放したけど、妻の父である源雅信とは藤原氏は協調して政治をやっていたようだが
それ以降、道長は、源氏とは協調して政治をしてるだよな
源氏物語の源氏は、貴族であり
平家物語の源氏は、武家なんだよあ
源氏はいたるところにいたんだよ 公家の源氏が藤原氏に張り合えた程の力を持った時代って特にないしね
高明は源氏として久々に大臣になれた例外的な存在だ >>95
外戚政治だからな。
源氏は一世王か二世王からの降臣、つまり比較的皇位継承の可能性の高かった者が機会を喪失した場合。政争に負けての場合だから、
妥協で右大臣やらにはなっていても、関白や左大臣トップにはなれていない。
自身が外戚として権勢ふるったり、有力な外戚がついていたりして、関白になる政治力がついてるなら、臣籍降下せず皇位についてる。
二世王までくらいからの降臣なりで、天皇に近い新しい家の方がなんだかんたで上位になる。構造的に、家の力が蓄えにくい。 村上源氏は、摂関家の娘婿となった関係で、清華家として大臣を輩出したがな。 源氏は藤原氏と違って団結がしにくいというのを聞いたことがある。
藤原氏は兄弟で争うことも多いが、団結することもある。
この場合父親や一族の長老が要となって団結しやすいが、
源氏はその要になるはずの父親が天皇でなれない。
だから、同母同志はいいが、母親が違うだけでほぼ他人になる。
ましてや同じ源氏でも出発点の天皇が違うだけで違う氏族。とか。 >>99
藤原は藤原で団結してるのは血縁の近い系統の間だけ。九条家とか近衛家とかいう主流が、それぞれの支流と団結していて、本流どうしは競うばかり。
源氏は、血統の関係の薄いのがどんどん新しく出てくる。嵯峨源氏が本流でも、その後から、醍醐源氏、宇多源氏、村上源氏と、新たに出てきては、
とって代わられる。
大臣と、天皇の孫とでは、どっちが格が上か?というと後者なので、新たに臣籍降下があると、大臣を出していた以前の源氏の系統でも、新たに出てきた
源氏に入れ替わってしまう。
長老というのは、ぬっちゃけていうと、氏長者だな。氏族の親分。任官の推挙をする権限が有るんだよ。 藤原北家の連中は、藤の紋以外に個人紋持っていた。日光東照宮が出来る以前に、抱き茗荷紋は藤原北家しか無かった。秦氏の影響だと思われる。特に道長の父兼家は、八角形を好んでいた。見かけないが、八角形に抱き茗荷紋は、直系の末裔か? 源平合戦の頃ってもう藤原氏は影響力なくなってたの? いやあるよ
政治的になくなるのは、足利義満あたりで
完全なくなるのは明治時代からじゃないの 源平合戦の時って何してたんだろう?
莫大な財力を持ってるわけでしょ?藤原氏は。
援護してたりしたのかな?
承久の乱で源氏の影響力が西にも拡大したらしいが。
そのときは藤原氏も相当抵抗したのかな? 流石に往時の実力はないよ
政治的には師通の早死にで若年の忠実が跡を継いだのと、堀河天皇の早死にで外戚の地位をなくした当たりで完全に院政に取って代わられてる
その上荘園管理等々のために保持していた藤原氏の私的な武力は保元の乱の敗北で解体されて、家の自立性すらも弱まってしまってる
源平合戦の前段階でそんな感じなもんだから、鎌倉幕府成立後は、特に九条家が将軍と婚姻関係を結んだり将軍を排出したりで、基本幕府にベッタリだからそもそも抵抗するもなにもという感じに となると歴史で再びでてくるのは
秀吉が豊臣をもらうあたりか?最初は藤原氏の養子になろうとしてたんだよね。
朝廷内には残ってたわけか。近衛とか九条とかあれは全部藤原氏なんでしょ?
北条氏みたいに一族のトップを代々決めておいてないのかな?
得宗だっけ?
徳川家が16代もいるように。藤原氏もずっとトップを決めておけば歴史に残りやすいのに。 >承久の乱で源氏の影響力が西にも拡大したらしいが
そのときは、頼朝の子孫の源氏は滅亡していて、幕府の力が増した
そのときの執権の北条氏の力が増した
そのときの藤原氏は近衛、九条に分かれて傍観していたんじゃなかったけ >>104
とりあえず九条兼実のwikipediaを読もう >>107
とりあえず西園寺公経のwikipediaを読もう >>106
藤原のトップは藤氏の長者になっていたらしいけど
院、幕府は、藤原氏を近衛、九条、一条、二条、鷹司の五家に分裂させていたほうが都合が
よかったんじゃないの
江戸幕府は、朝廷を統制下におくため、皇族、摂家を分裂させていた
天皇はともかく、親王だったら、関白の下だったらしいけど
それで光格天皇は、自分の父である親王に上皇の称号を与えようとしたが
幕府に拒否される尊号事件も起きている 藤原氏総合スレじゃねえし、書くことがないなら過疎らせておけ 道長と紫式部
みたいな関係ってその後も続いていくのかな? 近衛、一条家は後陽成天皇の皇子(母は近衛前子)が養子に入ってる。鷹司家も閑院宮家からの養子。 私は創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続bフwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちるからので、
朝夕に南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心が招いた事で、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で、新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 >>104
源平合戦って、平氏方は自前だけれど、源は雇われ兵力。 >>107
北条は平氏だから、また取って代わられたわけか >>115
貴族化した平氏に嫌気さした武士が源氏を担いだ
頼朝も神輿といえる
源平合戦とは、実は律令体制に嫌気をさした武士の反乱 >>117
神輿って……源氏は伝・以仁王裔の通称・北陸宮を担ぎだしてきてたじゃん。
後白河上皇にけんもほろろに孫と認知しろという訴えを無視されてたが。 頼朝の死は、落馬になっているのが、実はよくわかっていない
自分の娘を後鳥羽天皇の妃にしようとしたことが、武士の反感を買って、暗殺されたという説ある
頼朝も実は、貴族の考えの持ち主だった
その点では、清盛と同類 なんとなく日本で一番の金持ちイメージあるなあ。
豊臣秀吉か藤原道長かって感じ。 頼朝が幕府を開くなっているが、公卿だったら、幕府みたいな組織は誰でも
つくれた
幕府は、政所、侍所、問注所からなる
道長も頼朝みたいに政所開設してるし、夫人は北政所いわれていたしと
別に特別な組織ではない
侍所はわからないが? >>124
だから、鎌倉幕府は、公卿か親王の将軍を必要とした。家政機関を置くために。 北条は一応平氏だから貴種ちゃあ貴種なのに、なして叙爵されないの? >>126
承久の乱で勝利したのに、将軍すらなれないほどの低身分
平時のときなら、北条政子は、頼朝の正妻になれないほどの低身分の一族
つまり頼朝はそれほど身分が高いということ
北条氏は、貴種じゃないよ >>127
平直方裔の桓武平氏だから貴種じゃん。源頼義の正妻が直方の娘で八幡太郎義家はその子、頼朝はその子孫だ。 自分が知ってるつもりになっていることを書き込むだけのスレ 関白の任命のときの宣旨の文面が気に入らないと引きこもった大臣もあったな。
文面下書きした公卿が島流しにされたやつ 道長が天皇家と対立しなかったのは。やっぱり
蘇我家が滅ぼされたことを考えての事なんだろうか?
蘇我入鹿とかもあんまり語られないよね。 道長時代は、一条、三条、後一条天皇
一条天皇のときは、表面的には良好だったけど皇后定子、その親王で確執があった
三条天皇のときは、確執があった
後一条天皇のときは、道長にとって自分の孫 おばにあたる人を皇后にした。
対立はあったようだが、滅ぼそうとは思っていなかったようだ。
日本を神国にしたいんで天皇家を神の子孫した。
だから天皇家を滅ぼすわけにはいかなかったんじゃない >>132
そもそも天皇家と藤原氏は律令国家になって以降は二人三脚で政治をやってきてる
だから道長みたいに天皇個人と対立することはあっても、家としての機能をお互いにカバーしあってるから根深い対立にはなりえない
後は朝廷内の勢力図は確かに藤原氏一強だけど、その内部では常に主導権争いが世代ごとに再生産され続けてるから、基本的に天皇家をどうこうする余裕がないっていうのもある その律令が、天皇を専制君主にしないために、政治権力に制限をかけている
なんでも太政官から出てきたものを天皇といえども拒否することはなかなかできなかったみたい
関白も同じ
だから道長は、関白にならず内覧左大臣のままでいた
院政も律令が、上皇に天皇と同じ権限認めていたことによる >>135
藤原ブラザーズ「あのプリンス気に入らねえ」
と讒言で長屋王を讒言で陥れてるよ
元正天皇も不比等が死んだときにモタモタしてないで長屋王に譲位してればよかったのに。 >>134
二人三脚は無い
単なる神輿だね
とっかえひっかえ
平安になって
皇族を殺さなくなったのは
たたりが怖くなったからでそ 藤原氏の力の淵源ってのは、天皇家の外戚である事実じゃないの?
だったら天皇家と持ちつ持たれつ、つぶしあったりしないのは当たり前。
外戚である事実こそが意味があったので、太政官の一の上にならなくても
摂政関白みたいな天皇代理的地位から朝廷をコントロールできたんだし、
世の中が母系から父系に変わると摂関政治は終わり、、天皇代理は
父系尊属の役になってそれが幕末まで続くわけだ。 太政官の力は意外と強い
長州の毛利敬親がそうせい侯といわれたとおり、天皇も「そうせい」ということが
多かったらしい。
摂関も天皇の代わりなのだから、摂政はともかく、関白にはそれほどの力はなかった
ただ自分の親戚が太政官の高官なのだから、それで朝廷をコントロールできた >>135
院政は律令外だよ。だから院政期の治天は専制君主 象徴天皇制は、戦後から言われているけど、実はかなり前から
まあ嵯峨天皇以降あたりから 大河ドラマ「藤原道長」。立身出世物語ですから人気になりそうです。 一条天皇の母が、道長を押したから出世したんだろう
女の力がものを言った
それと兄二人が短命だったのもある さすがに長命だったら彼(道長)の時代はなかった。 >>144
当人にあまり動きが無いんだよねー
松山ケンイチの平清盛の前半のようなわかりにくいストーリーになりそう 大河ドラマなんで伊藤博文がないんだろうかな
やっぱ韓国に配慮してるだろうか
韓国では、豊臣秀吉、西郷隆盛、伊藤博文は三大悪人となっているらしいからな >>144
立身出世モノか?
道長が十代の前半に、父・兼家は正二位右大臣だぞ。二十代の半ばに、従一位・摂政・太政大臣・藤氏長者・准三后だぞ。
身分制・貴族政治時代で、縁故にこんな有力者が居て、出世しない方がおかしいだろ。
アホよばりされてる異母兄・道綱でも正二位大納言にまで出世できてる。 >>150
道長は、兼家の五男だったからそんなに出世しないだろうと妻の父が、嘆いていた
それぐらいの人物だった。
ところが兄2人が短命だったから運が開けた
道隆(道長の兄)が道長より長生きしたら、とても道長の時代はなかっただろう >>147
亡国、じゃなかった某国での評判などどうでもいい。
伊藤博文は、大久保・西郷が退場したからトップになれたということ。
二人のどちらかでも生きてたらトップになれたかどうか。 道長の富の源泉は、荘園の寄進と国司の任命権からくる受領からの贈り物だろ
二つの矛盾したもの成り立っていた
荘園を増やせば、国衙領を支配する受領の富は減るし、それによってなる成り立っている
律令制ゆるがし太政官制おかしくなる
道長も太政官の官職によって権勢をふるっていたのだから 世界記憶遺産になるような日記を残したことが
素晴らしい この時代の国衙領って、事実上荘園だろ 預所或いは領家が国司ってだけで。
荘園だって最終的に得分の収取権を国家が保障するわけだし。
国家の土地とそこからの収益への権利が上から重層的に委任されていく
職の体系の中にどちらも収まってる点で、あまり変わりがない。 >>151
この時代、長子相続じゃないし、衛生も栄養状態も良くなくて殿上公卿でも簡単に死ぬ。
無゜ンに乳兼家は三男だし曾祖父の忠平は四男だし、その先代基経は長良の三男で、長良の弟・良房のところに養子に出されてる。
基経が養子に出たとき、実父基経は正三位権中納言(最終的には従二位)、良房は正二位右大臣(最終的には従一位太政大臣、摂政、准后)。
道長以降は長子相続のような形になって以降藤氏筆頭の近衛家に連なっていくが。 >>153
お公家さんではダメだろ。百姓から大臣になるくらいの冴えて活きのいいヤツでないと 氏長者の継承は正室の長男だが家の財産の相続は娘です。 最後の太政大臣、最初の新制内大臣で十分。
明治天皇は、三條が好きだったみたいで、総理兼任を2ヶ月やらせたり、生前に正一位与えたりしたな。 >>157
忠平の場合、時平が早死(道真のたたり?)にしたから
たしかにこの頃は長子相続にはなっていないが、
道長の場合、道隆が長生きしていたら、娘の定子は一条天皇の皇后になっていて
、天皇も定子を寵愛していたから、道長が入り込む隙はなかったと思われる >>161
今でこそ日本は世界一長生きの簡単な国になってるけれど、千年前は殿上に上がる上級の公達でも天然痘や赤痢や栄養失調でバタバタ死んでたからね。 まあ何が言いたいかと言うと、
長兄が長生きしていれば……とかいうような、長生きが当たり前の世の中ではなく、長兄が死ぬかもしれんことは織り込み済み、長幼不問で出世できる限りは出世させる、スペアは沢山必要
ということよ 道長の妻は二人いたけど倫子 明子
出世したのは倫子の長子の頼通、教通
明子の子は出世が遅れて、能信は、そのため頼通と対立した >>156
>この時代の国衙領って、事実上荘園だろ 預所或いは領家が国司ってだけで。
えっ? 公家も充分権力闘争してたし、活きがいい感じもあるんだけどな。
武士とは決着のつけ方が違うので、わかりにくさもあるかも知れないけど。 >>186
荘園ではないけど荘園に近い
知行国になるとその国の国司を推薦できる権利を持つ
国主は、子弟とか家司を国司にした
一種の私物か
鎌倉幕府の将軍も知行国主だった
御家人たちを国司に任命した >>161
定子は23歳の時に難産で死んでしまったし(道隆が長生きしても定子の寿命は一緒だろう)
その後一条天皇のお手付きになった定子の妹も難産のために子と一緒に亡くなった
定子が産んだ一男二女のうち、内親王2人は未婚(妹のほうは9歳で亡くなっている)
唯一の男子であった敦康親王は19歳の時に娘一人残して死亡
この娘は頼道の養女として後朱雀天皇に入内したが内親王2人を産んで難産のため死亡した
つまり、道隆一家は天皇の外戚になることができなかった
この時代は娘に皇子を産ませてナンボだからね
道隆&道長の父・兼家は三男坊だったのに娘に一条天皇、三条天皇を産ませることができたので政権を捕れた
道隆&道長の祖父・師輔は次男坊だったが娘に冷泉天皇、円融天皇を産ませることができたために政権を取れた
つまり、道隆は長男だからと言う理由で長生きさえすれば政権安泰だったとは言えないわけだよ
現に道隆の父も祖父も長男でもないのに娘に天皇を産ませることによって政権についた人だったし >>165
倫子は後一条・御朱雀天皇の生母である藤原彰子を産んだからね
彰子が後一条天皇を産んだ時には倫子は新皇子の外祖母として従一位を貰い
当時夫の道長よりも上位になった
頼道、教通は彰子と共に育った同母弟として彰子が常に身近に置き、出世した
彰子の入内前にはそんなに差がついてないんだよ
明子は一条天皇の生母・東三条院詮子の養女だったし
彰子の母が倫子ではなかったならばまた結果は違っていたと言われる 倫子パパが一上卿だったから先に従一位になってたのか。
と、道長が摂政・太政大臣やってるときの一上卿は毎朝最初に参内した議政官がやるとか、はっちゃけ過ぎ。 >>172
倫子のパパは関係ない。
倫子が従一位になったのは「(未来の)天皇の外祖母」だから。
道長の母・時姫など、ただの受領の娘だが、一条天皇が即位した時に
「天皇の外祖母」であるによって従一位を追贈されている
(すでに時姫は死亡していたため、死後の追贈) パパンの兼家もジジンの師輔も受領の娘を妻にしてメイン処の子供たちを産ませてるよね。
結構な後から内親王を妻にしてるけど、早いうちに身分の高い娘を妻にしてる形跡はなさそう。
このころは妻の身分、ひいてはわが子の母親の身分は気にしないんだろうか? >>176
兼家のところも長兄の伊尹は若い頃に恵子女王という
しかるべき正室を迎えているんだよね。
次兄の兼通も若い頃に昭子女王と結婚している。
師輔とか兼家とか、本来摂関家嫡流とはみなされていなかった弟筋だしねえ。
兼家は孫を即位させて摂政になってから急遽、内親王を正室に迎えたけど
夫婦仲が上手くいかず晩年は長女に仕えていた女房と暮らしていたみたいだし。 よくいわれているのが傲慢で勝気な性格と言われる
それはある一面で、小心なところややさしいところもあった。
二面性をもった矛盾した性格 いわゆる、昔の貴族にあるような残忍なエピソードとかはなさそうだけど。 基経以降は時平と忠平、実頼と師輔、伊尹と兼家、道隆と道長
4代続いて嫡男でなく弟の系統が本流なっていくという
この時代ならではのものだな ねぇねぇ、藤原道長って色々言われてるけどさ、道教の長のことを指すんじゃないの?
今、キョンシー観てて、そう思った。
道教の長であれば、この世は我が世のものだ〜ギャハハハ〜ってなってもおかしくない気がする。
だって、実際に世界の動きを見てると、陰陽に沿って動いてるじゃん。 たぶん違うだろ
しかし摂関政治の全盛期と言われるが、本人は摂政には、1年 関白には就任
しておらず、なにゆえそういわれるのかわからん
息子の頼通は、関白を50年ぐらい務めたらしいけど >>186
道長の苦労をただ食いしたのが頼通なんだよね。
で、頼通ってのはかなり平凡な人物。 >>167
いや、貴族や皇族も領地から武士を連れてきて
結構武力闘争してたみたい。
花山院の屋敷まわりは非常に評判が悪くて、
下乗しないで通過すると配下の武士に引きずり下ろされて
牛車をぶっ壊されたとか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています