豊臣秀吉ってなんで途中で頭おかしくなったの? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>1
老害の典型例。
漢の武帝、梁の武帝、唐の玄宗、呉の孫権、東郷平八郎、武井保雄、水島廣雄など
例には事欠かない。 男児がなかなか生まれなかったから
精神的におかしくなった
女児にでも後を継がせればよかったのに ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 おそらくビタミン不足による脚気では無いかと
推定しています。 天下取るまでは戦国武将の理想男子といって過言じゃなかったよね >>10
実際にはかなりえぐいことはしていた。
三木城のなで斬りなどが典型例。しかし、情報操作して隠していた。
基本的に豊臣秀吉は中国人、韓国人並の残虐性を持っており、
城攻めは屠城が基本。 むしろ秀吉の失敗は秀次事件の際に秀次の義兄、池田輝政に情けをかけて
しまったこと。若い頃なら族滅していた。秀次の正室(処刑)の兄であるゆえ、
秀次の残党に擁立される危険が高く、若い頃の秀吉なら確実に滅ぼしていた。
池田輝政は生きている間は秀吉に恭順するふりをし、秀吉の死後最も早く
秀次の残党を糾合し、秀頼に反旗を翻した。石田三成、増田長盛が警告した
通りになった。 >>12
>秀次の正室(処刑)
なんでこう思い込んでる人が多いのか?
処刑されてないよ・・・正室
全く持って無罪放免、というより蚊帳の外だよ。
つか、秀吉の天下取りへの池田氏の功績を考えたら処分などありえんよ。
徳川との小牧長久手でも、秀次を逃がして、親兄弟を羽柴のために討ち死にさせてる家だ。
それに池田輝政は秀次の直臣とか近臣ではない。 秀次を生かしておけばと、そう思うよ
おそらく秀次健在では加藤・福島など秀吉子飼いは家康にはつかないだろうし 外国の学者が細胞は2年で死滅する脳細胞も同じで記憶は消える
それじゃ困るから記憶は寝ている時にコピーしている
そこに取り巻きが「太陽の子だ、摂政の隠し子だ」を数年かけて刷り込まれると頭の中で本当になる
金正恩もヨーロッパ留学して見識あるはずが取り巻きに洗脳され独裁者
怖い怖い >>12
一方で父を殺した家康に肩入れとかダブスタにもほどがある。
結局長いものに巻かれただけ。
頭にあるのは保身のことだけで、それ以外の恨みといった感情はない。 >>16
実はあのあり得ない婚姻を成立させてしまったこと自体、秀吉のミスだけどね。
最も、あの出鱈目な婚姻は、石田三成の、秀次を追い落とすとき、義兄の池田の
縁で家康を連座させることができる、というものだけどね。
(実際に秀次事件で池田族滅、督姫処刑、家康領地大幅減を主張した)
流石に増田長盛は反対したけど、三成の強硬な推進を覆すことはできなかった。
その他、池田側も、自家が滅びるとき、多くの遺恨を残してやろう、という意図が
あったようだ。流石に家康を巻き添えにして、ただで済まないという読みがあった。 そりゃ百姓出身なんで階級にうるさかった中世じゃ身分が高い人間から差別されまくっただろうし
苦労して出世して頂点に経ったら今まで我慢してたものが全部出たんだろ
秀次も自分がここまで苦労して築き上げたのに棚からぼた餅で関白にしてやっただけなのに
秀頼から豊臣家奪う可能性考えたらどうしても許せなかったんだろ
実に人間らしくていいじゃないか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 秀頼が生まれずに、関白秀次があのまま後継者になっていたら、豊臣政権は
安泰だったと思う。秀次はすでに成人しており、秀次のもと、豊臣氏の
家臣団が割れることもない。
秀吉が晩年になって、もう余命がほとんどない段階で、秀次を廃嫡して
滅ぼしたのが致命傷だった。 でも秀次は勝手に怯えて高野山に逃げてダメダメだったじゃん 秀吉の子供じゃない豊臣家になんの価値があるのって気もするが 秀吉か白河院くらいしか独裁者っぽいのがいないのは凄いことだ!
秀吉はあくまで後陽成院の臣下だからまた違うか… 取り巻きからしたら秀吉が認めた後継者であれば血なんてどーでもよかったと思うけど 秀吉発狂説は徳川幕府が下っ端や外様の武士や庶民に外交や国際交易に興味を持たせない様にする為に吹聴したデマゴーグ
秀吉は名門の信長と違って藤原氏を名乗れなかったので
外交権を藤原氏から完全に奪取する為に関白秀次を抑え蓋にして藤原氏を京に蟄して
自分は朝鮮に出兵して取り敢えず朝鮮王乃至明帝にこれから日本の外交を把握するのは豊臣氏であると認めさせようとした
尤もこれは黒田官兵衛辺りの集兵の為に建てた実行計画で在って秀吉自身は本気で明に取って代わる気で居たかも知れない
秀次は自分は蹴鞠連歌のお遊び職で既に充分一門の役に立って居た情況を理解できず秀頼が長じると秀吉に排斥されると勘違いしてああなった だが、秀次の立場からすると、秀頼の誕生によって、自分はやがて粛清される
のではないかと疑心暗鬼になるのも無理はない。
せめて庶子であったならともかく、秀次は秀吉の実子ですらない。自分の立場は
微妙になったと、ふつうは考えるのではないか?
自分が秀次だったとしても、隠居して表舞台から消える以外に助かる道はない
と考えただろう。 >>28
疑心暗鬼になるし、不安マックスだったろうな
それならそれで秀吉に関白返上して秀頼盛り立てる展開を進言するくらいの頭はなかったのかねえ
プライドが許さないとか、そういうのは恥も極まるとかだったのかねえ
蟄居だなんだとなるより良いと思うけど。
強かならそのうえで別の地位をもらえばいいわけだし。 信孝を自害に追い込んだり、妻子を処刑したりなど
主家乗っ取りをやったわけじゃん。
因果応報を恐れるのは仕方がなかろう。 秀次自身は関白を退いて引退し、その子孫は清華家クラスの公家となって、
秀頼の豊臣宗家と一線を画すのがよかったと思う。
武家伝奏のような役目になり、大阪城の秀頼と朝廷のパイプ役になるのだ。
そうすれば、秀次一門を生かすこともできるし、秀次を関白にまで昇進
させたことも無駄にはなるまい。
秀頼の豊臣宗家が紛争に巻き込まれたとき、秀次一門は大きな藩屏となる。
秀吉の死後、徳川家康や前田利家より、身内の秀次のほうが、幼い秀頼の
後見人にふさわしいだろう。
だが、名門武将としての経験もなく、まだ若い秀次はそこまで知恵も回らなかった
だろうし、疑心暗鬼に陥って滅亡するしかなかったのか。
誰か忠告してくれる側近はいなかったのか? 秀次一族の怨霊たちに城内中を取り囲まれて、無事に政権が続く訳がない。
豊臣が滅んだのは自業自得なり。 豊臣秀吉、九州征伐
↓
秀吉「よし、次は関東じゃ。薩摩の義久よ、琉球にワシんところに挨拶の使節を派遣しろ、拒否すれば痛い目みるぞと伝えろ」
島津義久「ははっ(ムギギ)・・おい琉球、関白秀吉公が京都(聚楽第)まで挨拶に来いと言ってるぞ
拒否すればオレたちみたいに痛い目みるかもな」
琉球尚寧王「マジかよ、オレはまだ即位したばかりで、いきなりかよ・・これから明からの冊封式典をしなきゃいけねーのに、日本に使節派遣してる場合じゃないんだけどな・・・
仕方ねーな、天龍寺の桃庵僧よ、ウチの我那覇親雲上秀昌を付き添いでつけて京都まで行って来てくんないかな?」
↓
秀吉「おー、遠路遙々よく来たな僧と琉球人よ、琉球人の名はガナハシュウショウ?ペーチン?
つかその頭に乗せた冠なに?wハチマチ?ちょっとワシにもかしてみ?ワシも頭に乗せてみたいw・・
ちょwデカっwwワシの耳まですっぽり被ったぞwシュウショウの頭デケーな!wwwぷっw琉球人は皆こんなに頭デカイのかよ?w」
天龍寺桃庵「はは・・頭の大小はそれぞれ異なると思いますが・・・琉球人は冠の色柄でもその身分を示しておるんですよ・・・(チラッ)」
我那覇秀昌「・・・・はは(苦笑)・・(こいつDQNザルじゃねーか)」 >>31
>だが、名門武将としての経験もなく、まだ若い秀次はそこまで知恵も回らなかった
>だろうし、疑心暗鬼に陥って滅亡するしかなかったのか。
>誰か忠告してくれる側近はいなかったのか?
むしろ、側近の方が、秀次の引退、一線を退くことを許さなかったのでは?
池田輝政(秀次の義兄、蟄居、謹慎)、浅野幸長(能登に遠流)、木村重?(死刑、族滅)、
前野長康(死刑)、田中吉政(蟄居、謹慎)、中村一氏(蟄居、謹慎)、
山内一豊(蟄居、謹慎)、堀尾吉晴(無罪)、こういった連中が、かえって邪魔になった。 >>17
秀次事件は三成の仕組んだ罠とする史料はあるの?
輝政と督姫の婚姻は徳川が持ってきた話というのは
当時の池田家家老である伊木が残した記録でも確認できることで
三成なんて全く出てこないんだが…
そして出鱈目ではなく正式な婚姻だわな >>36
史料に頼っていては、真の歴史は見えて来ない
推察するのだ もともといいやつじゃなかったんだよね。
行動がゴマすり一途。
強い人間に媚びて媚びての反省だった。
本当に上司のことを尊敬なんてまるでしていない口八丁の人間。
なので自分が偉くなると遠慮する必要がなくなるので
素の本性がでてきただけにすぎない。
世間ではボケたっていうがそれだけじゃないと思うよ。 >>37
じゃあ家康の存在をどうやって証明するんだよ
史料に頼らないなら何を根拠にするんだ? >>40
いや、多くの将を配下に取り込み、また子飼いも育てた
個人の才覚だけでは天下はとれないので
上だけでなく下も見ていたのは間違いないよ
ただ天下をとると、今度は軍人が邪魔になるのよね
走狗を煮るのは、仕方ない行動なんだよ
優秀な部下をいかに潰すかが最後の大仕事だ 明を興した朱元璋とその奥さん・・・・の日本版なんだとw おかしく成った事実が存在して無いよねっていう
存命なら半島の南部1/3が手に入った訳だし 敵の軍隊を倒して主要都市を制圧したら維持できるというゲーム脳らしい考え方だな。
チョンの民衆どもが素直に従うと思ってんのか。 今で言うアルツハイマーだろうな
激昴しやすくなり、最後は鬱状態 真田丸の秀次は最近の説を反映したシナリオだったな
あれだと仏門云々が助かる道とは思えん 出家したんだけど許してもらえなかったんだわね。
もし秀次が健在だったら、秀頼の天下が危ないとマジに考えられたんだな。
閨閥多くしすぎだったね。
秀吉亡き後、秀次にはたくさんの子女とそれに連なる親戚諸大名があるから、
いずれ秀次の子が関白職を継ぐ可能性は低くない。 >>51
その割には、池田輝政、及び尾張池田氏を根絶やしにしなかったなどという
チョンボをやったけどね。脇が甘すぎ。
池田を生き残らせたら、秀次の仇討ちを輝政が目論むか、そうでなくとも
輝政が秀次残党に擁立されるか、いずれかのリスクが極めて高かった。
更に史実を言うと、池田輝政は死ぬまで秀頼を憎み、激しく敵対している。 (参考:池田輝政=秀次の正室の兄で、秀次のナンバーツー。
さらに、池田家は父の代からの秀次の家臣で、父や兄は秀次を逃すために
玉砕した、秀次の忠臣中の忠臣。) >>54
督姫を返せば家康は黙るはず。
それ以前に、秀頼生誕後の督姫と池田輝政の縁組自体不自然極まりないもので、
秀次のナンバーツーの池田輝政に家康のような後ろ盾は思いっきり邪魔なはずで、
普通ならこんな出鱈目な縁談は思いつきもしない。
石田三成が家康を秀次、池田輝政に連座させ陥れるために仕組んだ罠ともされている。
秀次とともに池田輝政を督姫ごと葬り、岳父の家康も連座させようとするものである。
逆に、それ以外に池田輝政と徳川家康を結びつける動機は皆目存在しない。 なってない
秀吉発狂説は後世徳川幕府が庶民や外様大名に対して政治や外交に興味を持たせない様に流布した偽説 秀吉から秀次宛書状
側室どんどん入れて子供もいっぱい作れ!→(秀頼誕生後)そんなに家族を作ってなんか企んどるのか? >>52
いい加減輝政が秀頼を憎んでいたというソース出しなよ
ここは日本史板だぞ
輝政と督姫の婚姻についても家康側から話があったのは
伊木の記録などでも確認できることで秀吉はあくまで仲介にすぎす
秀吉主導での縁組ではない
そして輝政と家康を結び付ける動機がそれ以外みつからないのは
単にあなたが勉強不足で自論しか見ていないからだよ 真田丸見る限りは秀次の被害妄想ってやつだな
プレッシャーって怖い >>65 まあ、秀長が家康ほど長命なら日本の歴史もかなり変わってくるだろうな。 なんだろ
秀吉のような云わば「ぽっと出」なキャラに「更に」弟も優秀とは
たまたまなのか歴史の必然だったのか?と >>67
優秀な兄の血を半分引いている。
優秀な兄を見て育った。
優秀な兄の家臣として指導され、経験を積んだ。周りの家臣も優秀で勉強になった。
別に不思議ではないだろう。 小一郎殿存命なら秀次事件は起こらなかった
秀次事件がなければ豊臣が関白職を失う事はなかった
豊臣が関白職を失わなければ徳川家征夷大将軍補任などなかった
小一郎殿の死は惜しんでもなお惜しあまる 逆に、何ではっきりと切腹させたんだろうな。
秀次だけ邪魔なら毒を盛って、病死と発表してもいいだろうに。
秀次の子たちも、小早川秀秋のように、有力家臣の養子に出しまくる手もあったように思うんだけどな。
秀忠の養子に入れれば、徳川家の中にも豊臣家の家臣を送り込んでスパイ出来ただろうし。 野心満々の家康に250万石もくれてやる時点で、どうかしてる >>71
これは豊臣政権の基本政策ととらえた方が理に適っている。
徳川・蒲生・上杉・伊達・前田(北陸豪雪そのまま)ら外様同輩大大名は、
軒並み加増とはいえ東へ東へと追いやられている。
実際、1590年時点で家康が天下へ・・・などとは万に一つも考えられない。
数字上250万石とはいっても、はっきり言って畿内西国東海地方と比較したら、
超未開地で、東北に至ってはさらにさらにさらにですよ・・・
蒲生は近江の先進地帯→山だらけ海なし会津
上杉は飛び地だらけの120万石で蒲生の尻拭い、越後の港湾利権全没収、佐渡支配有りでも鉱山支配は豊臣
伊達は更に北へ追われて、豊臣改修の岩出山入城
前田も豪雪地帯封じ込め
徳川は敵地あてがい、さらに東関東は難治であり、とりあえず本多と榊原を置いてしのいだ。
当初徳川の意にとりあえず従順なのは西関東(西上野・相模・伊豆・西武蔵)だけだったと思われ到底250万石云々などおぼつかなかっただろう。
徳川は超大規模領国インフラ整備を敢行して民心をとらえ、安定支配に成功した。
逆に、もし関東領内に一揆でもおきれば、確実に減封させられただろう。
国替え直後の徳川に豊臣家に逆らえるような力など全く無いからね。 250万石とはいえ当時の関東なんて僻地も僻地だものね。 でもこんだけまとめて、東に追いやったらいずれは反豊臣でまとまるんじゃね??あたりは頭に無かったのかな
家康が頼朝みたいになる、という 頼朝以来、関東を制した武家が天下を制する
農民上がりの関白には関東の重要性が分かっていなかった >>75
江戸が僻地
小田原とか鎌倉は栄えてたよ
家康は小田原を拠点にしようと考えてたけど、
秀吉が「江戸」と指定したのでそうなった 結果、利根川東遷は大変だったが良かったよな
石高も飛躍的に伸びたし まあ、江戸が開発できたのは天下普請で
大名にやらせたからで、徳川独力では無理だっただろう >>78
最近の研究ではこの「江戸寒村説」は見直しの必要があると考えられています。
✕江戸城の玄関は、舟板3・4枚を並べただけのみすぼらしい城
✕城下町も大手門の外側にかやぶきの家が100軒ある程度
〇小田原合戦の時には、城代だった遠山氏が1000騎で守りを固めていました。(兵士5千名程度)
〇江戸が16世紀にすでに武蔵東半の一大拠点
〇後北条氏の武蔵野国の支城網の拠点の1つ。(北に川越、岩付。西に滝山、八王子。南に小机。)
〇鎌倉街道中道(なかつみち)支線(江戸(浅草)→岩槻→関宿→小山)のルートの基点
〇海路の拠点(江戸湊、品川湊) 後北条氏を滅ぼしたのが間違い
小田原征伐後、減封ぐらいの処置にしておけば東からの対徳川牽制に利用出来た
上杉も越後に留め置けば北からの徳川牽制に使えた
結局、秀吉の大名移封は関東で敵無しとなった徳川を利しただけ 家康なんかインネン付けてさっさと潰しときゃ良かったんだよ
前田毛利上杉宇喜多に比べ、どう考えても徳川がガンだろ
秀吉は甘い 秀吉は家康の関東転封をめくり、徳川家臣団の知行割についても相当干渉している。 家康17,000 vs 秀吉100,000
家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(「NHK英雄たちの選択/小牧長久手の戦い」磯田道史・岡山県出身の歴史学者)
番組前半と後半で2回言ってたね…磯田先生… >>82
まあ、そうだな。
ただ北条は徳川と割と近い関係にあるので、
徳川と隣接する地域に置くと同じ結果になるだろう。 >>83
関東で失敗すると見てたのだろう。
北条残党の内乱が起きて秀吉傘下のだれかが掃討に出陣すれば
終わった暁にはそのまま徳川を潰せる。 でも秀吉は朝鮮で勝つことを想定してるからな。
徳川は免除というよりか、これ以上功をたてて
領地増やさせないようにするためかと。 >>87
小田原攻めの後、前田利家は自分が降した氏政の弟・氏邦の助命を秀吉に嘆願し、許された。
氏邦が金沢で死去すると、その末っ子が大徳寺の僧となっていたのを呼び出し、
北条庄三郎と名乗らせ、知行1000石と甥・利益(前田慶次郎)の娘まで与えてやった。
それを聞いた徳川家康が、利家の長男・利長に意見した。
「北条家はすでに殿下(秀吉)が成敗された家であり、北条が絶えるならそれが自然であり、
末子は出家のまま差し置くのが筋ではないのか。」
利長はその通りに父に伝えた。 聞いた利家も返答する。
「いや、氏邦に関しては殿下が許して拙者に預けたものであり、その限りではない。
であるのに死後に跡目もないのは哀れゆえ、縁者を探したまでのことです。」
その後、家康に父の返答を伝えて、帰った利長を利家は呼びつけた。
「さても、うぬは智謀なき者よ。家康がああ申してきたら、いちいちわしに聞かず、
先ほどの返答ぐらいはその場で返せねばならぬ。
よく考えてみよ、普通に行けば我らと徳川はゆくゆく敵となる。その時のことよ、
関東は昔から恩を忘れぬ義理堅い土地じゃ。
我らが北条を押し立てて旗を揚げさせれば、関八州の大半は味方にできるわ。
好ク謀ル者ハ未ダ兆シナキウチニ慮ル、という言葉もある。
大志を抱く者は必ず心得ねばならぬ言葉ぞ。」
晩年の利家の深慮遠謀が感じられる。
茶坊主斬った時とはまるで違う。 「北条の子孫を集めておけ」
関東の者は義理堅い、と利家は言う。
小田原北条氏にゆかりの者を見つけだし予め召し抱えておき
家康と事を構える事になれば北条の子孫を表に立てて家康の領地で旗を挙げさせる。
「さすればたちまち関八州は味方になろう」
利家はそんな事まで計画していた。
こんな不気味な事をされてはたまらない。家康は心中深く利家を恨んだ。
(『殿様の通信簿』磯田道史) 頼朝、足利と関東から将軍輩出してるし
関東は新田の出身地だし、家康は内心ラッキーだと思ったかも 権力あるしぃ〜金持ってるしぃ〜オンナ一杯抱けるしぃ〜♪
ガキなんぞ「後から」付いてくるだろう・・・・
・・・あれ?そろそろヤバくないかい?自分www状態
江戸期、伊勢長島の増山の殿様もそんな感じだったかと >>93
利家の対応より家康がそこまで目を光らせている所が抜け目無いというか凄いと思った >>95
なんでそこでそんなマイナーな大名がでてくるの? >>96
というか、他国を侵略するとき地侍をてなづけておくのは
将棋やる人が櫓だの美濃囲いやるのと同じで、
戦国人にとって定石なのだろう。 マイナーってか「蛍」大名ねw 家綱母親の弟
若い内に出来た跡取りを名門那須家に養子に出したはいいが
「まさか」その後跡取りが全く生まれなかったが故に後で一騒動起きてしまったという話 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています