【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 熊野も十津川も幕末には北朝朝廷のために滅私奉公してるんだよな。
幕末までに後南朝のかけらさえ消え去ったことは明白 熊野にも十津川にも後南朝勢力はフィクション内以外には存在しない 南朝を正統とする思想を突き詰めていくと、南北朝合一を認めないということになる。
したがって、後南朝皇胤の正統性を主張し、その何人かの皇族を天皇に擬する
ことになった。 本当に途切れてないのか江戸時代後半に創作された偽物かは区別が難しいな >>505
あれ?
出席者が口にサカキの葉を加えるのは、
吐息が自天王の遺品にかからないようにするためなのか
赤松残党というよそ者を信じて味方へ引き入れてしまったことへの反省で、
秘密は口外しないぞという意味だと思ってた 赤松がかつて南朝方だったことがある縁から、
それと幕府内で不遇な立場に置かれていることへの不満があるはずと言う点から、
うっかり信じてしまったのは仕方がないとも言えるんだが。 赤松は反鎌倉幕府だったが、建武新政期に干されて以降、ずっと足利派だけど。
いつ南朝方だったの? 赤松円心には子供が複数いて、そのうちの4男だったかがずっと南朝側。
兄貴たちは皆、北朝側で優遇されてるけどね。
この4男は、最後は播磨国で追い詰められて子供含めて全滅している。 >>509
実は観応の擾乱で
一回だけ円心も南朝に寝返って
護良親王の息子を擁立したことがある
ただこれはやらせ説もある
近江の佐々木も同時期に南朝に通じて
謀反を企てたとして尊氏が近江へ、
そんで義詮は赤松を討つと称して播磨へ出陣
対立する直義だけが京都に残る形となったからだ >>510
後南朝から神器を奪還した赤松旧臣はずっと北朝方だった方の赤松だろ。
南朝方の赤松とは縁がないじゃん。 >>513
馬鹿だろ お前
過去に同族が南朝側だった事があるから信用したという流れなんだが、スレの流れが読めんのか? >>514
そんなん言ったら、足利家含めてどの武家も全部信用できることになるじゃん。
武家内部の家督争いとかで不利になった方が南朝に(一時的に)つくのがスタンダードだったんだから、
一族内でだれも南朝についたことの無い家なんて、ほとんど無いだろ。
で、残ってるのは南朝方にならなかった方、もしくはいったん南朝に付いたが北朝に帰順した方。赤松も一緒。
赤松だけ特別扱いする理由にならん。 >>507
自天王(もしくは忠義王)の子孫が本当は村にいるけど、
村人や郷士たちが「外の者はもう信用できぬ」ということで、
頑なに箝口令を発して現在に至るまでひた隠しにしていたとしたら面白いな
ミステリー小説の題材になれそうw >>515
やっぱりスレの流れが読めないんだな 可哀想に
何故、赤松を信用したかの話になってたから補足情報を書き込んだ人がいただけ
それに噛みついて、あげくに「他の武家も同じだー!!」って騒いで、みっともないと思わないのかね 南朝も、後南朝に至ってはもっとそうだが、
自前の兵力だけでは足利を破って北朝を廃して天下を取り返すのは無理だとわかっている
だからかつての敵である北条得宗家の残党でも、
足利尊氏の弟でも息子でも、
南朝に味方したいと申し出る者には、すぐさま迎え入れて味方にせざるを得なかったんだよ
赤松残党を後南朝が信用した背景には、そうした歴史的経緯があったからだと考える必要がある いや、別に南朝が赤松残党を信じたのは史実なんだから別に異論はないんだが、
その理由を赤松は「南朝だったから」、といわれると、何言ってんの?としか感じないんだが。
南北朝騒乱は敵味方が頻繁に入れ替わる戦乱なのに、赤松に裏切られたから○○の儀式がある、
とか言われても、裏切られるたびに儀式してたら、365日儀式で埋まるんじゃね?としか思えん。 赤松氏がツテを持ってたのは南朝そのものじゃなくて北畠氏だったかも
うろ覚えですまんね >>519
赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。
それは事実。
それまで否定するとは頭が残念な人だね。 >>522
違うだろ。
「赤松に裏切られたから宮が殺されて、宮を弔うためにあの儀式ができた。」と主張してるんだろ。
南朝の宮が殺された事件なんてゴロゴロしてるのに、この件だけ儀式を作ってるのはおかしい。
他の起源の儀式を、後世になってこじつけたんじゃないのか? 自天王はただの宮じゃなくて南朝の「天子」だ
意義が異なる
だからこそ三種の神器の一つを持っていたし、
それを奪還した赤松氏のお家再興を幕府が認めたんだよ
ただの南朝の宮を斬っただけでは、将軍を討った大逆の罪は消えないよ 赤松再興を狙う細川が神器奪還と賊の討滅を命じてお家再興を提案約束したんだろ >>523
全くダメだね 君は。
最近、本当に日本人かと疑わざるを得ないくらい言語能力が低い人がいるけど、そのたぐいだね。
根本的なところで間違ってる。 将軍を討って「お家取り潰し」になった罪を、
(後南朝とはいえ)天子を討つことで「お家再興」となる
赤松家もすごいというか何というか
>>525
それはそうだが、この時期の細川は明応の政変後の細川とは違って、
将軍家の権威を大きく軽んじたり、他の守護大名らが眉をひそめるような
無謀な政務は出来ない
「後南朝の天子を討ち取る、三種の神器の一つを奪還する」功績ならば、
将軍を討った謀反人の家でも再興できるという「共通理解」が、
将軍家、幕府の重臣、有力守護大名らにもあったということは重要 共通理解とまではいかないだろうが、再興に反対しにくいほどの大きな手柄と思われるレベルではあったんだろうな
そこらの守護一人程度の叛乱よりは危険視されるレベルの重大事件だったんだろうな。
じゃなくてな、派閥人事の一環として、かつて細川閥にいた赤松を再興させたら派閥の面で助かると思ってそそのかしたんじゃないかって言っただけで。
派閥問題溶かなかったら赤松には声かけてないんじゃないかと。 赤松による強襲がなかったら、後南朝の正統はこの後も続いたことだろう。
無事に江戸時代まで存続できたら、5000石くらいで、将軍の客卿のような
地位を得たのではないか?
そして、やがて水戸藩によって、高く顕彰される日が来たことだろう。 本来なら大和国の守護である畠山氏が自天王を捕えて、
隠岐か佐渡へ流すべきだったと思うんだがな
何で守護や幕府の正規軍が自天王確保に動かなかったのか謎である 畠山氏は自分ちのお家騒動に夢中で後南朝ごときに構う余裕などなかったから仕方ないな
嘉吉以来の、このあとも戦国時代初期まで続く長い紛争だ。 守護大名たちは後南朝を討伐する余裕はなかった。
だから、後南朝が追手を逃れて生き延びる余地は十分にあった。
吉野朝廷だけでなく、関東とか九州に親王を派遣して、将軍府を作っておけば
仮に吉野朝廷の自天王が討たれても、誰かが生き残ることができた。 応仁の頃から、後南朝の担ぎ出しを求める人が激減した
後南朝の支持者がいなくなったんだよ 南朝の正統かどうかすら怪しいというのが実態
誰の血統なのかすら不明の山奥に潜む山賊で自称南朝の後胤
それが後南朝 吉野や紀伊である程度の勢力をもった奴らが南朝の後胤を名乗っただけの可能性も大きい
実際良くある例だし
例えば戦国時代に木曽谷を支配していた木曽氏
木曽義仲の末裔と自称しているが最近の調査で元々は藤原氏の子孫を名乗っていたが
木曽谷で勢力を拡大してゆく過程で、木曽が生んだ英雄の木曽義仲の子孫を詐称したのが判明している
その地域を支配するのに都合が良いから詐称した訳だ >>535
後南朝蜂起で担ぎ上げられた皇族の大半は京都近郊の寺から連れ出されて担ぎ上げられていて、
少なくとも当時の関係者の間では系統不明ではなかったんじゃなかったかな
応仁の乱の時に出てきた南方の宮が京都以外で担ぎ上げられた最初で最後だと思う。たしか紀伊あたりで出てきたんだっけ? >>537
その寺に入っていた宮がそもそも誰の子どもかよくわかってないだろ。
自称皇胤で世間もそのように扱ってるけど。 当時の関係者は知ってたけど特に記録に残さなかったから分からなくなった、程度だろ
関係が薄い立場の人しか日記に記録を残してくれなかったから誰の子か分からんだけだと思うが 時々このとんでも主張の「後南朝の皇子は京都に住んでていつでも抜け出せた説」を書く奴がいるけどありえないだろ。
寺に入れるのは南朝の皇統を断絶させるためだぜ。
簡単に抜け出せる訳がないし、子供を残す可能性が出るから女との接触すら難しかっただろ。
どう考えたらホイホイと抜け出せるんだよ。
しかもそういう事件があったら当時の人の日記とかに出てくるだろ。
たしか記録に残ってる南朝の皇子が寺から逃げ出して行方不明ってのは1件だけ。
レアケースって事だ。 ポエマーの脳内では京の都に行くと南朝皇子に簡単に会えて、話せて、一緒にどこかに行けるのだろう。
当時の会いに行けるアイドルって感じ? 南朝はまがりなりにも数十年続いたから、地盤や支持者を持っている。
合一後もすべての皇胤が出家したのではなく、支持者のもとに残った
者もいた。そのような者たちが支持者とともに蜂起したり、帝位に
祭り上げられたりしたということだろう。
そのような動きは、少なくとも応仁の乱のころまで続いたということだ。 >>534
享徳の乱で古河公方が後南朝を擁立してたら大変だったなw
足利成氏が、後南朝の天皇から征夷大将軍に任命してもらって幕府を開いてもおかしくなかった
だって成氏は乱が起きてから、幕府と朝廷(北朝)が決めた新年号は使わずに旧年号を使い続けていたので >>540
牛若丸も鞍馬寺から逃げ出したがな
牢獄ではないので、逃げ出す先に生活できる確かな場所があれば逃げ出せるのでは >>541
反乱軍が何十人とか百何十人とかの軍勢で押し掛けて宮を拉致してるんじゃないの >>542
そういう者がいたとしても正当にXXの子とか名乗るだろ?
小倉宮と名乗る時点で怪しさ十分 >>544
牛若丸どうこうを言い出す必要はない
当時の南朝皇子が逃げて行方不明になった記録はわずかだがあるのだから
ただ、ポエマーが主張するように「いつでも逃げ出せる」状況とは違うだろ 山名宗全ら西軍の諸侯が南帝の血統自体は疑っていなかったし、
東軍の諸侯も南帝の血統を批判していないので、
血統は当時の上流階級からみれば疑う余地はなかったのだろう
それに禁闕の変は日野有光や楠木正秀も後南朝軍に加わっているから、
ただの山賊とは考えにくい >>549
その後の西陣南帝の扱い見ればわかるだろ
当時から胡散臭いと思われていた
ただ、使えそうな神輿とも見られていた
実際には大して使えなかったので「使えねーな コイツ」と打ち捨てられた 本当に小倉宮の子孫なら伊勢の北畠家あたりが保護しててもおかしくないが
西陣南帝は、かつての南朝支持者たちからも見捨てられている
やはり出自が怪しいのだろう 出自が本当に怪しいなら見捨てられるのではなく、処刑されるのでは? (東)幕府に合流するために西陣南帝が邪魔だから見捨てたのだろう
西陣南帝の血統を疑うことを指摘する史料はない >>549
個人的には自天王までは正しい南朝の血筋だろうとは思う
楠木らが命がけで奪い取った神璽を持ってたんだから 西陣南帝が神器をひとつでも持っていたという説は許容されていない
本当にひとつでも持っていたなな放逐されることなく処断されていたことに疑いの余地がないので、もっていなかったと考えるべき。 小倉宮教尊の墓は、隠岐島にある。
小倉宮はここで絶えている。
西陣南帝は小倉宮を名乗ったのが致命傷になった。 自天王が元から神器をもっていたという史実はない
ただ、禁闕の変で奪った神器が後南朝に持ち込まれた頃に後南朝の一員として活動していたっぽいだけだろ 禁闕の変を起こしたのは後南朝なのに、
持ち込まれたも何もない 「大日本は神国なり!」by 北畠親房
東北地方の南北朝での主な勢力
【南朝方】
南部師行・工藤氏・伊達氏・北畠氏・大江氏・結城氏・多田氏、小国氏、菊池氏・山家氏・その他多数
【北朝方】
南部政長・曽我氏・浅利氏・安東氏・斯波氏・吉良氏・石塔氏・相馬氏・畠山氏・芦名氏・国魂氏・伊賀氏・その他多数
楠木正成、新田義貞、同様に東北方々にも感謝しようではないか。
敵だった足利尊氏も、南北朝後に足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、
建武の新政をめぐる戦乱で没した人々の零を慰めるために全国66ヶ国に曹洞宗系の「安国時」を設立した。
「我が日本は一つ!」
それぞれ南朝びいき、北朝びいきはおりますが、共に手を携えましょう!
以上 西陣南帝の血統が疑われたから放逐されたのではなく、旗印としての価値が
あまりなかったから放逐されたということだ。
小倉宮系であるかは確証はないが、後南朝後裔であるのは間違いなかっただろう。
山名持豊がいったんは西陣南帝を推戴しようとした、しかし、間もなく無価値と
見なされて放逐されたということは、応仁の乱当時は、後南朝の価値を認める
人ともう認めない人が混在した時代だったということを意味する。 それ以後には担ぎ出されなくなったことの原因としてなら価値の低下を持ち出すのが正しいけど、
放逐された原因自体について言うなら、価値の低下よりデメリット増大の方が大きいだろ
価値はあるがデメリットも大きいから放逐されたのであって、価値が全くなくなったとは言えないと思うのだが。 価値があると思って担いだが価値は無かったって事。
担げば旧南朝勢力が味方に付くかと思ったがそうでもなく、使えねーなと見なされたのだろう。
価値があるなら放逐された後でも誰がか拾い保護するはず。
それも無いからな。
わずかな記録からも、たらい回しにされたてたのが読み取れるし。 それでも拾うヤツがいるからたらい回しが成立するんじゃないの
足利義昭だってたらい回しの末に将軍になったじゃんか
西陣南帝の場合、宗全以外の西軍幹部たち、足利義視に管領の斯波義廉、次期管領の畠山義就らが利害関係の都合からか揃って反対したのが大きい
価値がなくなったからとは言えない状況が見える いらないから押し付け合いで、たらい回しになったと思うよ
いるから拾ったんじゃないでしょ 最初はいると思って引き込んだんだろ。
もう南朝の時代じゃないと気がついていなかったんだな 両親が死んで子供だけが残されて、厄介者扱いされて親戚中の家をたらい回しにされる感じ
最後は行方不明 朝廷の管理下にある北朝の皇族より、後南朝皇胤の西陣南帝のほうが担ぎ出し
やすかったのではないか?
だから、山名宗全は西陣南帝を担いだし、担ぐだけの価値はあると、宗全自身は
考えたのだろう。他の諸将が反対したのは、政治的な思惑による。
西陣南帝自体を無価値と考えたわけではない。 足利尊氏ですら北朝の天皇を擁立しておいて、
弟直義を逆賊にするために北朝を廃して南朝方にあっさり転身したほどだ
そして用が済めば北朝を再擁立して南朝から離反
西陣南帝もその延長線上に気楽に考えればいい
東軍が占拠している御所に天皇と上皇がいるから、
西軍も「天皇」に準じる帝を擁立して大義名分を少しでも得ようとしただけだ
ただ西軍は討幕を志向していたわけではなく、
南朝再興、まして公家一統の再興を志向していたわけではない
きっと西軍が勝っても、西陣南帝は追放されていただろう
そもそも西軍が本気で新たな「朝廷」を作ろうとしていた気配はなく、
山名や大内らが好き勝手に官位に任官したり、独自の年号を作った形跡もない 南朝側にいた武士の子孫は大抵存続してるはず
貴族や皇族は消息不明で、要するに滅亡してる 応仁の乱以後は、室町幕府や守護大名たちの政治闘争が変質し、もはや後南朝皇胤をかつぐ
需要もなくなってしまったということだろうな。
だから、後南朝皇胤が史料に登場することも少なくなり、いつしかどこへ行ったか消息不明
になってしまった。 西軍を追われた後の西陣南帝はどこで、どのように暮らしていたのだろうか?
わずかな廷臣や女官たちと御所を構えて、戦局を見守りながら再起をねらって
いたのだろうか? >>575
南朝の武将として活躍していた伊勢の北畠、肥後の菊地や、
それこそ今の大河ドラマの遠州の井伊が生活の面倒ぐらいみてれば
資料に出てくるのだが残念だ 木っ端の公家でも流浪したら面倒見てくれる大名がいたのに、
後南朝の皇胤たちは公家より不人気だったわけだよな
どんだけ不人気になってたのかと。
スポンサーもないなら女官とか採用できるはずもなし >>577
戦国時代ごろになると熊本らへんに名和の子孫が見えたりするね
南朝の衰退の際に、菊池か誰かを頼っていったのかな? 親戚の家の近くに長慶天皇の墓があるというお寺があるよ
確証はないらしいけどね
その親戚は太平記にも登場する新田一族の末裔 先祖の言い伝えなんて、捏造が多いから信用できないけどな >>579
詳細は聞けなかったけど
今でも南朝系の祭祀を奉っているそうだよ
それ以外は普通に生活されてるね 大内とか今川など学問好きの大名は、京都を追われたり、没落した公家をかくまって
「小京都」を作り、和歌や清談を楽しんでいた。
西陣南帝もそのような大名の食客になっていれば、記録が残って後半生も分かった
のに惜しいことだ。 大内にしろ今川にしろ、それぞれの需要/目的があって公家をかくまっただけだぞ。学問好きという特殊性があったからじゃない。
まあ、学問好きではなかったとも言えないがな
で、その目的には後南朝皇胤は不適合だから、まず歓待しなかっただろうよ 西陣南帝は自称:南朝皇胤にすぎん
小倉宮は断絶してるのに、その後胤と名乗ったのが致命傷になったのだろう >>585
公家を保護するのは趣味だけでやってることじゃなくて、京都とのコネを維持するのが目的だからな。
南朝後胤なんぞ保護してたら、朝廷からも幕府からも敵視されていいことがなんにもない。 子孫が現存しない以上は、断絶と言われても仕方ない。 断絶って子孫が存在しないことだろ、言われてもしかたないとかじゃなくてイコールじゃん 断絶していないという奴は、子孫を出せ
思い込みの自称子孫ではなく、史学的証拠がある子孫な 西陣南帝の皇子はいた可能性は高いだろう
だが、西陣南帝ご自身が失脚して潜伏したため、皇子も表舞台に出なかった
可能性が高い 西陣南帝の皇子は寺に入れられたのではないか?
住職をしながら父の西陣南帝のように擁立される機会を伺ったが、かなわなかった 伊勢北畠と浪岡北畠が後南朝皇胤をそれぞれ擁立して、一種の食客のように
かくまっていれば、戦国時代なかばくらいまでは、後南朝が続いた可能性はあった
そこまで続けば、後は信長や秀吉に小さな領地をもらって、存続できたかも知れない 小倉宮は断絶してるのに、その後胤と名乗ったから旧南朝系の北畠なども保護しなかった 浪岡北畠は眉唾だろ
現地の有力武士が北畠後胤を詐称しただけだと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています