【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。
前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 小倉宮は、教尊が禁闕の変の同調者として捕らえられ隠岐島に配流され、その地で没した。
隠岐島には教尊の墓もある。
そこで終了だよ。 >>602
大乗院寺社雑事記に出てくる「小倉宮御末、岡崎前門主御息」の西方新主
これが詐称と証明できない限り、史料上は小倉宮家が存続していたということ >>604
あれは当時の噂を書いただけで、それが史実かどうかは証明されてないよ
そんな事は常識でしょ
「秀頼を連れて真田が鹿児島に行った」という当時の噂を書いた書物と同じ
あれも史実とされてないでしょ? 伝聞(噂を記した部分)は文末が「と云々」などと、伝聞とわかるように書いてあるんだよな
この部分を削除して紹介するのは文意捏造みたいなもんだ 詐称するなら、北朝の有力な宮家を名乗るだろう。そのほうがメリットが大きい。
わざわざ後南朝皇胤を名乗ったということは、それが事実だったからと考えるのが
合理的だ。当時はまだ後南朝皇胤が残っていてもおかしくはない。 >>608
逆だろ。北朝後胤なんて一発で嘘だとばれるやん。大名家なら京都と何らかのパイプ持ってるんだから。
南朝後胤です、って嘘はそれが嘘だと証明する人がいないからばれない。 北畠家は清華と書かれてることがあるが
北畠家は初代より権大納言が極官だろ?
そもそも中院家の庶流だし、何をもって清華なのか?
南朝で清華だったの? 南朝、後南朝に仕えて貢献したから家格が上がったのだろう
北朝だったら半家止まりだった公家でも、後南朝に出仕したため
清華家クラスにまで昇った者は多い つても、南朝に仕えた貴族らの大多数は南北合一に伴って凋落したけどな。
なんせ北朝側に居場所がない、働く役職がないんだから。
南朝側で得ていた格式のすべてを失うのが普通だった。 >>614
南朝における家格ってどんな感じだったんですか?
半家で清華になるとかありがたみないよね
半家と名家って1度地下家に落ちてから成り上がった家だろ
先祖代々堂上であり続けた家は落ちぶれても羽林家だし >北畠家は清華と書かれてることがあるが
何に書いてあるのか知らんが、南朝では右大臣や近衛大将を
歴任した例があるから、家格で言えば清華家に当たるのかも。 後南朝は天皇親政だったから、摂関は置かなかったんだよな
だから、摂家はなくて、清華家が最高の家格になる 北畠満雅なら後南朝の小倉宮を擁立して挙兵したことはある 後南朝が続いていれば、南朝側に着いた公家たちはその家格を守ることができた
そもまま明治維新にまでなだれ込んでいれば、後南朝華族のようなものになって
爵位をもらうこともできていた それはない
南北合一の時点で南方の公家たちは帰る先がなくて宙ぶらりん、無職のプー太郎になってて収入源すらないから。
後南朝は散発的に蜂起するだけで、そこには旧南方の公家らが帰参する余地もなかったし、「南朝」じゃなく「後南朝」って時点で公家らは終わってるよ
ポエマーさんの話はだいたい後南朝じゃなく南朝でしか通用しなかった話をしてるんだよね。後南朝の時点ではそういうのは終わったあとなんだよ >>618
南朝にも関白はあった
後村上天皇の時の関白は二条師基
後村上天皇の正后と伝えられる嘉喜門院は二条師基の猶子
また南北朝合一の時にも南朝の関白「近衛殿」が出て来る
もともと北朝の関白だった近衛経忠が南朝へ走り
その子近衛経家も南朝に走ったため経家の子か孫だと言われている >>608
それは君の思い込みに過ぎない
詐称した理由はさまざまであり、当事者でないと解らない 南朝系の詐称は難易度が低い
何故なら子孫にクレームを付けられることが無いから
実際、家系の詐称はあらゆるところで行われているが滅亡大名の子孫を詐称するのが多い(在日とか)
子孫がいないので文句を付けられないからという理由が多い 南朝系の公家は絶滅
小倉宮ですら伊勢で北畠に担がれて反乱おこし敗れて京に戻った後は、生活に困窮し餓死寸前だった 討伐された○○の宮が京から潜伏場所の××まで逝く道中の逗留時に、宮をもてなした現地豪族の娘と一夜のちぎりを云々、ご落胤が云々
みたいなホラ話をでっち上げて南朝皇胤を自称するのはハードル低かっただろ。信憑性が乏しかっただけで。
地元民ですら信じないレベルの荒唐無稽なホラ話ぐらいしか南朝皇胤の話題がない。それほどにまで信憑性がなかったんだよ 南朝方の公家は、自分の地位を保全するためにも、南朝の皇統を守り抜くべきだった
それにもかかわらず、南朝皇胤の血統すら不明確な状態にしてしまったため、
自分たちも生活に困るようになった ttps://www.yamatobito.net/tour/0204kawakami/
朝拝式の前日に後南朝史跡ツアーやるってよ >>628
馬鹿か
生活出来ないから南朝公家は消滅したの
自分たちの生活すら守れない状態では、皇統がどうこうどころではない
それ以前の問題だ 後南朝史跡ツアー、楽しそうだな
ブームになれば、「後南朝女子」とかが出てきて、史跡の写真をインスタに
上げて、友達に自慢するようになるかも知れない >>632
なんか耽美系とかBLとかに向いた良さげな名前だし、
腐った系の女子たちに人気が出る可能性はあるな >>628
発送の転換、生活の転換が出来ていればねえ
草刈りとか薪取り、薪割り、猪刈り、熊退治そういう事を職能にすれば生活も出来るし、軍事訓練にもなった。
指輪物語に出てくる森のエルフみたいな神秘的で格好良い存在になれたのに 特定の職能、家職を保持する家系は貴族とか公家ではなく官人っていうんだよ。これが南朝方にはほとんどいなかったわけでな 普段から熊と戦い剛力を養い
猪を訓練して騎乗していれば
守護大名の軍勢なんか恐るるに足らんかったろうに 後南朝の朝廷には、実務を司る地下官人がいなかったため、行政機構としての
実態が伴わなかった。小槻氏のような実務官僚も参加していない。
だから、公家たちが煩瑣を厭わず自分でしなければいけなかったのだが、
結局しなかった 南朝は独自に年号を制定しているから、菅原氏のような学者が参加して勘申者を
務めたのは間違いない
後亀山天皇以後は年号を制定していないから、もう学者はいなかったに違いない >>639
参考になるお話です
ありがとうございます 後南朝どころか南朝の時点で官人がいないんだがな
だから年号制定程度はできるけど暦をつくって頒布する力がない
つかそもそも行政機構自体がない >>642
暦博士は平将門の王朝にもいなかったらしい。 将門の集めた百官は、軍記ものでは暦博士以外みんな集めたように書いてるけど、
実際は半分ぐらいしかそろえられなかったみたいだね
そんなにレアだった暦の専門家も、戦国時代ごろになると
朝廷以外に属する在野の専門家があらわれたりしたらしい >>644
戦国時代じゃないから南朝にはいなかったかもな。 南朝には(暦博士も含めて)官人がほとんどいなかった、これは間違いない。
後南朝になると、ほとんどどころか全くいなかった。 >>647
熊を退治して
熊の肝を売れば財源には事欠かなかったと思いますよ! 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
PX51I 後南朝は国衙領や荘園からの収入が見込めなかったから、狩猟・採集などに
よって生計を立てるしかなかった
熊退治もその一環と言えるかも知れない 南朝の大覚寺党の荘園は後南朝に引き継がれなかったんだよな
それでは誰もついてこないわな 収入がない状態で、後南朝の南帝の食膳には、どのような大御食を奉ったのだろうか?
近侍の武者やわずかばかりの官人が吉野の山中で仕留めた鳥獣の肉が献上されたのか? 当時の天皇は鳥肉しか食べられなかったのに、
南朝の天皇は四足獣肉を憚らずに食べたため
神慮に違って没落したと『海人藻芥』に書いてある 南朝も後南朝も吉野の影響で修験者みたいな天皇や皇子が多いね(たまたま肖像画がそういう描き方してるだけかもしれないが)
当時の京都の洗練された支配層からは、南朝系の人達は野人の類に見えたのでは無いかと思う。 >>642
でも南朝を摂津の住吉大社が支援していた
行政実務や祭礼で協力を得ていたのでは? >>656
五条家みたいな事務官僚のエキスパートがこぞって懷良についていってるしね。 朝拝式自体が捏造でしょ
何もしてなかったのに途中から始めたんでしょ >>659
なんだかね
元は狩りで熊とか猪とか
そういう大物が取れた事を
山の神様に感謝する儀式のようだね 古くからあった土俗的な祭事が、後南朝によって宮中の祭祀に取り込まれたり、
南帝が崩御したときの葬礼と結びついたりして、現在の形に変化したのではないか? >>661
室町時代後半から戦国時代頃は南朝系祭祀を続ける動機がなかった時代だが、江戸時代後半に入ると捏造してでも南朝系祭祀を行う動機があったからなあ
その頃(または明治後期から大正頃)に創作された可能性はかなり高いだろうよ 後南朝を専門としている研究者は、フィールドワークなども駆使して、朝拝式の
研究をしてほしい。ゼミ生たちを引率して現地に入って、朝拝式に実際に参列して
みるのも効果的ではないか? >>663
1700年代って天下が太平になって、儒学が浸透した後だからな。 各地の神社で由緒やら来歴の偽作創作が行われだしたのも、だいたいその辺の時代だよな 後南朝の研究は、歴史的事実の究明も大切だが、なぜそのようなイデオロギーが
成立したのか、どのような経緯で成立したのかという、精神史・思想史の究明
という意味がある 北条早雲によって相模に送られた西陣南帝の末裔が相模の熊沢家 ちなみに遠州には、木寺宮の末裔の木宮氏がいて、現地常葉学園の学長などやっている。 後南朝って地方の修験者が箔をつける為に
京都の門跡の真似をして南朝の没落子孫を
担いだだけじゃないの?
比叡山延暦寺や仁和寺御室のような高貴な
箔を付けたかったという事じゃないのかね。
あの一向宗ですら皇族や公家から門首の嫁を
迎えている時代だから、修験が門跡を求めて
も不思議ではない。 >>669
いや、それ西陣南帝の後胤かどうかすら解らんのだが
あくまで当時の噂話を書き留めてるだけだし
それも王と書かれてるだけで、どこの誰かは不明なままだし >>670
それ自称な
木寺宮の子孫は一次資料では確認できていないよ >>671
西陣南帝はその可能性なきにしもあらずだが、
小倉宮や金蔵主、自天王は北畠氏、日野氏、楠氏が擁立していたから
本物の血統だと思われ 名古屋の熊沢家は相模の熊沢家と先祖名が共通しているので、おそらく同族
どちらも数百家と繁栄している。
木宮家は遠州に20家ばかり、宮崎にも同姓の家があるが同族かどうか不明 本人の意識では皇族でも、中央貴族たちと疎遠になり、朝廷から親王宣下や官位を
授かっていなければ、周囲の人から見れば「本当に皇族かどうかわからない」
状態になっただろう。
後南朝の末裔が、「王」と称しているだけの真偽不明の情報になるのは、
そのためではないか? >>677
いや、そもそも後南朝の末裔かどうかすら不明
そういう記述は当時の文献にはないから
王=異国の王の可能性もあるよ 朝鮮とか琉球とかね 西陣南帝とか出羽王を最後に、後南朝の消息はわからなくなったな
その後は、美作後南朝が出現するまで不明になっている 明応の政変で失脚した前将軍足利義材が、越中や周防で仮の幕府を開いて公方と
名乗っていたが、この時に後南朝の宮を天皇として擁立して、征夷大将軍に任命
してもらって、都にいる将軍足利義澄や細川政元に対抗するという図式がありえた
と思うが、それをしなかった
もはや北朝の天皇に正当性が認められていて、
別の天皇を擁立する余地がない「風潮」だったのだろう もうその頃には擁立するメリットよりデメリットの方が上回ってたんだろうな
権力こそ無くなったとは言え、幕府に加えて北朝天皇までもセットで敵に回すことは討伐/鎮圧される危険性が増すだけだったんだろうさ 室町時代の初期には、足利尊氏に敗れた足利直義が南朝に帰参するということもあった。
だから、北畠・浪岡北畠・楠木・名和などの功臣が後南朝の皇胤を擁立して仮御所を
作って、ある程度朝廷としての実態を作っておけば、反主流となった足利将軍家と
連携することもできたかもしれない。
反主流側の足利氏に征夷大将軍の官位を授けた実績を作れば、後南朝の威信を回復
することにもつながる。 それらの連中には仮御所を作る力は無かったよ。
北畠だけは、その力があったが小倉宮を担いで反乱して幕府の総攻撃受けて、当主が討死して以降は幕府寄りになったからな。 >>687
せいぜい「ポエマー氏よりはマシな内容」ていどだね
史料と論考の区別も付けてないし、考察と呼べるレベルには達していないよ >>687
ソースの提示無しで妄想を書き連ねているだけで、全く駄目だな 南朝の子孫は今でもいますよ。
一番確実なのが、神奈川県茅ヶ崎市香川の熊沢家。
後亀山天皇の孫(曾孫とも)が山梨の石和の豪族、熊沢氏の娘との間に
生まれた皇子がさらに相模の北条早雲のもとへ逃れ、現在の場所に定着し、
分家は20近くもあり、江戸時代の儒学者「熊沢蕃山」もこの一族。
で、尾張の熊沢家はこの香川の熊沢家の分家の分家だとか。
他にも和歌山の浅利家もやはり南朝の一族だとか。 >>690
どれも真偽不詳(というか、極めて疑わしい。この上なく怪しい。) 後南朝の子孫は臣籍に下ってしまった上、その系統が不明になってしまったので、
「ここの家は、元は後南朝」と言っても、なかなか信じてもらえないのが実情だ
臣籍降下するときに、後南朝の当主から源姓を賜姓され、堂上家としての家格を
認定されるという過程を経ておくべきだった 後南朝で源姓を賜姓されたのは後醍醐源氏くらいだよな 後南朝は初期のころは、熊野宮とか十津川宮のような宮家が自天王のような南帝の
藩屏となっていたが、いつの間にか臣籍に下っていたな 臣籍に下るってのは臣下としての籍を与えられることで、南朝系では籍を与えられて下ったものなどいないから間違い
没落零落凋落しただけだよ 熊沢とか、賜姓された記録あるの? つか、賜姓されてたら、天皇を自称するのおかしくない? 賜姓されないまま、ずっと末端の皇族として王を名乗っていた
明治以後に自分で苗字をつけて戸籍に登録し、地元に土着するようになった
だから、気分としては皇族だが、実態は地元民という形になった 何を言っているんだ
自称皇族でしかなく、証明できるものなんて何もないだろ
ただの地元民だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています