【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ 権力さえあれば先例などどうにでもなる
先例が問題になるのは権力が充分ではないから 大海人皇子は出家して吉野に隠遁してから挙兵して近江朝廷を破り、天武天皇として即位に成功した
吉野は奇遇にも南朝と縁があるから、後南朝の出家した親王たちが大海人皇子の先例を 意識しても無理はない >>891
足利義教と今川義元が還俗の代表格だな
義元の場合、花倉の乱っつって後継争いが起きてるけど、
争った相手も還俗する予定で争ってる
状勢次第では天皇だって還俗皇族が駆り出される可能性があったとしか考えられないな
皇位を狙う皇族が多すぎたから、たまたま駆り出されなかっただけだろう 足利将軍家も将軍を継がない人は出家する傾向にあったね
義満の弟の満詮、義教、義視、義昭がそうだ
そして、義教、義昭は還俗して将軍になったし、義視も還俗して将軍になろうとした >一度は前例があっても臣籍降下した元皇族からの即位が一度で終わったあたり
宇多天皇、醍醐天皇。 【皇室】秋篠宮妃“紀子さま”と“美智子さま”の『異常性』〔心理学悪用編:小室眞子さま〕★2
ICU大学時代、山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話。
そのスキー部に眞子様もいた事実。
少ない人数のスキー部内で男を、とっかえひっかえの眞子様。
しかも小室さんに乗り換えた後、山守さんも居るスキー部で活動継続。
小室さんに騙されたとかいう風潮は、あまりにもおかしい。
2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持って・・・(以下略)
詳細は、以下のスレッドでどうぞ!!
〔2chのスレッド〕:https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532735877/
〔記事元〕:http://www.laf.im/yahoo_co_jp-news-20180703 南北朝時代って考えてみれば、東西ローマ帝国みたいに東日本国、西日本国分裂時代と解釈していいのか? ローマの東西分裂の始まりは4分割試案のときだから、東西分裂ってわけでもない
ただ、4分割は一代限りで一旦終わってて、東西ローマへの分裂までにしばらく時代が空いてるけども。 >>900
その考えとなるとむしろ室町の本家と関東東北山梨伊豆の鎌倉公方の分け方になるな
西側の本家と東側の鎌倉古河流 鎌倉時代に足利氏の通字だった「氏」を引き継いだのが鎌倉公方家で京都の将軍家では初代尊氏以外誰も「氏」の文字を使ってないんだよな
基氏、氏満、(満兼は氏を使ってないから飛ばして)、持氏、成氏、(成氏以後は古河公方)政氏、(これまた使ってないので高基も飛ばす)、晴氏、義氏、藤氏
いや、高基も元服当初は高氏だったから含むのか。
足利将軍家が二代目以後の通字とした義は義家流の嫡流と自称すべく用いたのかな? 鎌倉時代から流通しだした為替の流通範囲が、鎌倉時代には全国規模だったのが室町時代になると東国と西国に二分されて排他的に流通するようになったらしい
幕府の範囲と鎌倉公方の範囲境界あたりが境目とか
経済的にも東西分裂なんだよな 室町殿が滅亡した後も鎌倉公方家は関東では一定の権威を持っていて、豊臣秀吉や
徳川家康もその存在に配慮した。
江戸時代になってからも、徳川将軍家に対する客将としての処遇を受けて、
「御所」の称号を用いることもできた。
一方、南朝の後裔はそのような処遇を得ることもなく、民間人の地位に甘んじた。 >>907
一応官職を得ていたのもいたから、民間人呼ばわりはどうかと思うが >>907
南朝の後裔としては、美作後南朝が津山藩から厚遇を受けて、御所号の使用も
認められていた
元禄年間まで続いた >>909
応仁の乱よりあとには南朝の子孫なんて確認されてないのに誰が官位をもってたんだよ まがりなりにも後南朝が帝位に就いていたのは西陣南帝まで
美作後南朝は確たる史料に乏しいので、参考記録にとどめるべき 西陣南帝は南帝とは呼ばれてるけど帝位についてないぞ というかそもそも後南朝では誰も即位してなくて、南朝の後亀山が最後 南朝の残党を便宜上「後南朝」と呼んでるだけで、中身はその辺の山賊と変わらないからな 鎌倉公方家は明治維新後も子爵に叙爵されて、華族になった。
もちろん、鎌倉公方(小弓公方)の地位はなくなっていたが、それでも「公方」と
公称して、大名たちからも「公方様」と呼ばれた。
後南朝もこのくらいに地位で存続するチャンスはなかったのだろうか? 南帝の行宮は北山御所と呼ばれていたから、鎌倉公方家と同様に、事実上、
御所号を使用できていたのでは?
廷臣や女官からは「主上」と呼ばれていただろうし、「朕」を自称していただろう >>918
いや、お前、自称でよければ熊沢だって天皇だろ 本来なら皇居や行宮を呼ぶ言葉のはずの御所が、室町後期とかになると将軍御所とか、
単なる貴種の意味(土佐一条家など)で使われてるからな、
そんな時代に御所と呼ばれてたところで天皇扱いとは言えないよ
単なる皇族でも御所と呼ばれる可能性があった 源頼朝の居館は「大倉御所」と呼ばれ、頼朝をはじめ源氏将軍は「御所」と呼ばれた。
頼朝の孫で藤原頼経の夫人も「竹御所」と呼ばれている。
頼朝の弟の源範頼の居館は「吉見御所」と呼ばれた。
天皇以外の貴人の居館を御所と称するのは、鎌倉初期にはすでに見られることであった。 自称南朝系の子孫と語り、子に教える。
教えられた子は、薄々気付きながらも 虚勢を張って南朝系の子孫だと言い張る。
その子が親になり、自分の子に南朝系の子孫の称号を伝授…。
死んだ祖父の嘘を孫は鵜呑みにして胸を張る。
が、いずれ歴史に詳しい知り合いに出会い 矛盾ばかりの話を笑われて恥をかいて終了。
↑基本はこんな感じです。 奥州藤原氏も居館を御所と称していたな。その地方の最有力者であれば、御所と称する
のは平安時代の後半には存在したと言ってよい。
平清盛も神戸にあった邸宅は御所を称していた。 涼しくなって気候がよくなってきたから、後南朝の史跡めぐりツアーとかを
やったら、行く人は多いのではないか?
歴史好きには魅力的なツアーになりそうだ 後南朝の史跡って中には根拠のない奴も混じってるだろ
三之公とか 後南朝好きなら大河原はぜひ訪れて欲しい
いい場所だ 南朝の三大秘境
宗良親王の信州大河原
良成親王の筑後矢部大杣
後南朝の奥吉野三之公 教尊の遺跡を訪ねる隠岐の島ツアーも企画してほしい
みんなで船に乗って、教尊に会いに行こう 教尊は女性の人気が出そうだ。教尊女子とか出現するかもな
男性にはやはり金蔵主とか自天王とか勇敢なキャラクターが人気だろう 奈良の山岳地帯を旅して色づいた紅葉を見ると、後南朝を思い出す
これこそ日本人の心かも知れない 研究者と旅行会社でコラボして、後南朝史跡ツアーとか企画してほしいな
関西・・・川上村・朝拝ツアー
中国・・・隠岐の島・教尊ツアー
関東・・・浪岡御所・出羽王ツアー >>936
大赤字になったらお前が赤字補填しろよ それなら旅行会社も企画してくれるだろう 自分は2年前に後南朝ツアー行ったよ
回数は少ないけど、地方のバス会社が時々開催する 史実にないフィクションの聖徳を顕彰するとか、マンガを教科書がわりにするようなふざけたガキと同レベルだな
空想と現実の区別が付かない。どうしようもないよ 後南朝の研究がもっと進むといいんだけどな
呉座さんの「応仁の乱」にも後南朝の記述はあるが、まだ少ない そもそも興味を持つ人が少ないから、研究しようと思う人も少ないし、
研究費を出す人がいない
南朝贔屓の人たちが集まって募金で研究費を捻出しないと話が始まらないだろう >>944
あらたな史料は無いから研究のしようが無いのでは 富山大学に後南朝の講座があるし、地道な研究は着々と進んでいる
研究成果をもとにして、室町期における後南朝記述を増やしていってほしい >>946
直接は新たな資料が出てこなくても、同時代の資料と突き合わせてみると、新たな事実が判明することはよくあるよ。
後南朝伝説は誰が何のために作ったのか、ってことすら分かってないんだから、研究する気になればいくらでも
テーマがあると思う。 1月20日(日)に大阪で後南朝講座あるよ
ttp://www.nara-u.ac.jp/research/pdf/Web-kintetsu2018.pdf 後南朝自体が血統が怪しい上に、西陣南帝は更に怪しいからな 大阪の後南朝講座を受講する方、ぜひレポートして下さい。
西陣南帝や出羽王について、どのくらい解説があるのか興味があります。 川上村をテーマにするなら、朝拝式についても取り上げてほしい
今も残る後南朝の儀礼なのだから その手の儀式は幕末ごろ、百何十年か前に創始された偽物の可能性が高いと思う そういうのを創作する動きって17世紀ぐらいでもけっこうあった気がするしな
諸国の神社で由緒とか伝承を創作したり
その中でも最も大きかったのが先代旧事本紀大成経の事件じゃなかろうか
自分とここそ伊勢で/全国でもっとも由緒があるとの神話を創作して大紛争を引き起こしたんだよな
そういう動きの類例じゃないの?
あと、18世紀末頃か、古墳修造事業なんてのもあったし
そういうのとも関連があると思うよ 後南朝の遺跡や儀礼を尊崇するようになったのは、南朝を正統とする歴史観が
定まってきたことと関係が深いだろうな
歴代南帝の諡号や系図もそのような流れの中で作られた可能性がある 広範囲に定着したからじゃなくて、そういう思想の学派が出て隆盛になったからだろう >>952
血統は正統だ。
怪しいのはオマイらチョン 研究者だけではなく、一般の方向けにも、大学や文化センターで後南朝講座を
時々開講するようになれば、後南朝の知名度が上がると思う
一般の方が興味を持つようになれば、書籍も売れるようになるし、研究者の間
でも研究意欲が向上するのではないか? 正統ってのは、自分で確認できる程度では無意味で、第三者でも確認追認できないと意味がないんだよ
同時代の公家たちが残した記録に疑いの言葉が残るようになった以後の後南朝の正統性は問題外としか。
前半はともかく、後半はもうだめだね 後南朝の歴代天皇で即位が確認できるのは、西陣南帝が最後で、それ以降は
史料がなくて証明できないからな
以降の南帝の存在、在位期間も推測の域を出なくなる 西陣南帝はすでに血統に疑いが出るレベルだぞ、問題外 西陣南帝より前に担ぎ出された南帝は京都近郊の寺で育ってて、自称ではなく公家社会での認知で家系が明らかだろ
西陣南帝は地方育ちで、公家社会から知られてない出自なんで保証人がない つか、西軍諸将に正当性を疑われて、旗印にするのを拒否されるレベルだからな
東武天皇以下だわ 西陣南帝は父親すらはっきりしない
父親と弟がいたらしいが、父親が誰の血筋なのか不明
自身で小倉宮の子孫だと自称してただけ
だが、小倉宮は島流しになり断絶してるからな(墓もあるし)
南朝系の他の主要な皇族も、仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実 第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、そのまま隠岐で死亡というのが史実だが、
当時の 文書等から西陣南帝に無理矢理系譜をつなぐとこうなるが、非常に怪しい。
*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
そのまま隠岐で死亡。墓も隠岐にある。 >>968
それもあなたの思い込み
後南朝前半の奴らも怪しい
南朝は小倉宮と聖承まで
後南朝は初めから怪しい
後南朝時代になるともう山の奥地に隠れていただけ状態
紀伊半島の奥と吉野の奥にわずかに生息していただけ
絶滅寸前の動物のようになっていたと思われ
自称皇族だが山賊と変わらない 吉野の奥に行宮を構えていたが、都とは名ばかりで、都城として整備されておらず
従う公卿もわずかだったから、山賊と言われても仕方ない面もある 公卿は多少ながらいたぞ、問題は役人が皆無なこと
朝廷を動かすための実務を担当する、肝心な(笑) 官人たちは誰も南朝に仕えなかった 後南朝には地下官人がいなかったからな
官務が機能しておらず、南帝が宣旨を発給しようにも、口宣案を起草する官人がいなかった 人がいなくて山賊まがいの野良武士に官職をばらまいて役人の仕事させようとしたけど、
いくら頑張っても真似事すらできない難職もあったみたいだな
特に暦を作る関係の仕事は無理すぎたらしい 神皇正統記だっけか、その辺読み漁るとか相当受験勉強したんだろうな
好きでやってる奴なんて正式な価値も感じられない 帰ってなまじ半かに見える
文系として古文も得意になるだろうが、 久しぶりに勉強を勧められて昔の衣服の様子とか
古い時代の農機具の単語を見ただけでゾッとしたわ 西陣の南帝=東海に流されて、北条早雲がいさめて相模に送った
=相模の熊沢の先祖の可能性がある 暦を作ったり、年号を制定するのは朝廷の重要な役割だけど、技術や知識がいるからな
安倍氏や菅原氏も連れて行って、出仕させていればよかったが、連れて行けなかった
地元採用の武士ではできることにも限界がある 北条早雲が西陣南帝を「いさめた」というのは、具体的にどんなことを西陣南帝に
申し上げたのだろうか?
「陛下はもはや政治生命が尽きたのだから、もう引退なさいませ」といった
ことを忠告申し上げたということか? あれらの文書に書かれた神宮が同一人物なのかすら不明なんだけど、理解してから書けよ。
西陣南帝と推測されるのは、1つだけ。
以前、山名が担いでいた奴が越後だか越前だかに送られたらしいとの噂を書いたのだけ。
あとは誰の事を書いてるのかすら不明。 >>982
ほんの僅かとは言え古河の足利成氏の勢力とも接触しようとしたから
今後その様な事は無い様に言ったとか? >>985
いや、あれは西陣南帝と確定されてないから
誰か解らん人の事だからね 後南朝は史実から消えた。
それがすべて。
南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という綱文のもとに、次の四件あります。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
越後より越前国北荘へ移った。
B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。
C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
(現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。
D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、
早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。
当時の文献上は、これで終了。
南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。 山名宗全との関連から言って、「南方の宮」は西陣南帝である可能性が高い
のではないだろうか?
応仁の乱から10年以上たったころ、まだ庇護する人がいたということか。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。