【新田楠木】後南朝スレ★3【西陣南帝】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
・日本史板ですので、科学的な議論を心掛けましょう。
・荒らしは慎みましょう。
・相手に対して敬意を持ってレスしましょう。
前スレ【新田楠木】後南朝スレ★2【北畠小倉宮】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1409313168/ そういうのを創作する動きって17世紀ぐらいでもけっこうあった気がするしな
諸国の神社で由緒とか伝承を創作したり
その中でも最も大きかったのが先代旧事本紀大成経の事件じゃなかろうか
自分とここそ伊勢で/全国でもっとも由緒があるとの神話を創作して大紛争を引き起こしたんだよな
そういう動きの類例じゃないの?
あと、18世紀末頃か、古墳修造事業なんてのもあったし
そういうのとも関連があると思うよ 後南朝の遺跡や儀礼を尊崇するようになったのは、南朝を正統とする歴史観が
定まってきたことと関係が深いだろうな
歴代南帝の諡号や系図もそのような流れの中で作られた可能性がある 広範囲に定着したからじゃなくて、そういう思想の学派が出て隆盛になったからだろう >>952
血統は正統だ。
怪しいのはオマイらチョン 研究者だけではなく、一般の方向けにも、大学や文化センターで後南朝講座を
時々開講するようになれば、後南朝の知名度が上がると思う
一般の方が興味を持つようになれば、書籍も売れるようになるし、研究者の間
でも研究意欲が向上するのではないか? 正統ってのは、自分で確認できる程度では無意味で、第三者でも確認追認できないと意味がないんだよ
同時代の公家たちが残した記録に疑いの言葉が残るようになった以後の後南朝の正統性は問題外としか。
前半はともかく、後半はもうだめだね 後南朝の歴代天皇で即位が確認できるのは、西陣南帝が最後で、それ以降は
史料がなくて証明できないからな
以降の南帝の存在、在位期間も推測の域を出なくなる 西陣南帝はすでに血統に疑いが出るレベルだぞ、問題外 西陣南帝より前に担ぎ出された南帝は京都近郊の寺で育ってて、自称ではなく公家社会での認知で家系が明らかだろ
西陣南帝は地方育ちで、公家社会から知られてない出自なんで保証人がない つか、西軍諸将に正当性を疑われて、旗印にするのを拒否されるレベルだからな
東武天皇以下だわ 西陣南帝は父親すらはっきりしない
父親と弟がいたらしいが、父親が誰の血筋なのか不明
自身で小倉宮の子孫だと自称してただけ
だが、小倉宮は島流しになり断絶してるからな(墓もあるし)
南朝系の他の主要な皇族も、仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実 第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、そのまま隠岐で死亡というのが史実だが、
当時の 文書等から西陣南帝に無理矢理系譜をつなぐとこうなるが、非常に怪しい。
*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
そのまま隠岐で死亡。墓も隠岐にある。 >>968
それもあなたの思い込み
後南朝前半の奴らも怪しい
南朝は小倉宮と聖承まで
後南朝は初めから怪しい
後南朝時代になるともう山の奥地に隠れていただけ状態
紀伊半島の奥と吉野の奥にわずかに生息していただけ
絶滅寸前の動物のようになっていたと思われ
自称皇族だが山賊と変わらない 吉野の奥に行宮を構えていたが、都とは名ばかりで、都城として整備されておらず
従う公卿もわずかだったから、山賊と言われても仕方ない面もある 公卿は多少ながらいたぞ、問題は役人が皆無なこと
朝廷を動かすための実務を担当する、肝心な(笑) 官人たちは誰も南朝に仕えなかった 後南朝には地下官人がいなかったからな
官務が機能しておらず、南帝が宣旨を発給しようにも、口宣案を起草する官人がいなかった 人がいなくて山賊まがいの野良武士に官職をばらまいて役人の仕事させようとしたけど、
いくら頑張っても真似事すらできない難職もあったみたいだな
特に暦を作る関係の仕事は無理すぎたらしい 神皇正統記だっけか、その辺読み漁るとか相当受験勉強したんだろうな
好きでやってる奴なんて正式な価値も感じられない 帰ってなまじ半かに見える
文系として古文も得意になるだろうが、 久しぶりに勉強を勧められて昔の衣服の様子とか
古い時代の農機具の単語を見ただけでゾッとしたわ 西陣の南帝=東海に流されて、北条早雲がいさめて相模に送った
=相模の熊沢の先祖の可能性がある 暦を作ったり、年号を制定するのは朝廷の重要な役割だけど、技術や知識がいるからな
安倍氏や菅原氏も連れて行って、出仕させていればよかったが、連れて行けなかった
地元採用の武士ではできることにも限界がある 北条早雲が西陣南帝を「いさめた」というのは、具体的にどんなことを西陣南帝に
申し上げたのだろうか?
「陛下はもはや政治生命が尽きたのだから、もう引退なさいませ」といった
ことを忠告申し上げたということか? あれらの文書に書かれた神宮が同一人物なのかすら不明なんだけど、理解してから書けよ。
西陣南帝と推測されるのは、1つだけ。
以前、山名が担いでいた奴が越後だか越前だかに送られたらしいとの噂を書いたのだけ。
あとは誰の事を書いてるのかすら不明。 >>982
ほんの僅かとは言え古河の足利成氏の勢力とも接触しようとしたから
今後その様な事は無い様に言ったとか? >>985
いや、あれは西陣南帝と確定されてないから
誰か解らん人の事だからね 後南朝は史実から消えた。
それがすべて。
南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という綱文のもとに、次の四件あります。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、
越後より越前国北荘へ移った。
B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。
C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
(現:山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。
D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現:静岡県三島市)に着き、
早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。
当時の文献上は、これで終了。
南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。 山名宗全との関連から言って、「南方の宮」は西陣南帝である可能性が高い
のではないだろうか?
応仁の乱から10年以上たったころ、まだ庇護する人がいたということか。 「南方の宮」=西陣南帝かその弟だろうと推測されるが、「出羽王」と「王」は誰なのか全く不明
同一人物なのかそうでないのかすら不明 「王」は京都から東海へ「流され」たということは、京都で何らかの政治的事件に
巻き込まれて、失脚したことを意味する
ということは、「王」は西陣南帝かそれに近い係累だった可能性が高いか 西陣南帝も時代の徒花では有るが、他の後南朝の面々と違って殺された様子は無さそうだな。 >>995
南朝関係者とは限らないよ
朝廷関係の人間だから地方の人から見れば「王」というケースもあるからね
北朝の○○皇子でも成り立つ
どうして何でも南朝にしたがるのかね 不思議でならない 流されてという記述でも、遠流で流されたのか単なる流浪(流れてきただけ)なのか。
原文は漢字仮名混じり文じゃなくて擬似漢文なんでしょ? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 869日 11時間 8分 23秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。