神武天皇みたいな架空の人物信じてる奴って頭悪そう [無断転載禁止]©2ch.net
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世界史でいろんな国が覇権争いしてる時期に
神がどうこうって恥ずかしい >>129
こっちも頭の固い奴に付き合いたくはない。
>纒向に宮や墓が現実にあるんだから記紀の葛城地方と不一致だと指摘したんだが
おまえさぁ、纏向に宮を造ったのは10代崇神からなんだが?
神武の宮が纏向にあったとでも思ってるの?w
神武以降9代はおおよそ葛城が中心なんだが。
全然分ってないじゃないか。 >>130
何が言いたいのかさっぱりわからん
神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
卑弥呼の夫が神武だと妄想しておいて夫の宮は纒向ではなく葛城にあったと妄想してるんか?
わけわからんやつだな 通い婚・招婿婚だったら大いにあり得るよ。
ただ私は神武=卑弥呼夫説には与しないがw >>131
>神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
そうだよ。
>纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
そうだね。
>つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
そこで何で飛躍するのかな。
卑弥呼を共立した兆有力な豪族という選択肢があるだろ。
もうひとつの天孫降臨・ニギハヤヒだ。
ニギハヤヒが神武に屈したのも桜井の外山(とび)だろ。
しかも瀬戸内集団を随伴してきたという天神本紀の記述は、
寺沢の纏向古墳群の見解とも合う。
つまりニギハヤヒ、ウマシマジの時代にヒミコはいた。
先代旧事本紀でいえば崇神時代のタベノスクネから6世代前、
1世代間20年で纏向石塚の時代とも合う。
わけわからんのはおまえだ。 >>133
こっちは物証ベースで推測してるのに
おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
妄想ストーリーには付き合いきれん
勝手にやってくれ >>134
>おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
こっちも物証ベースなのだが。
寺沢の見解のどこがファンタジーなんだ?
それと天神本紀の記述が合致していて何かおかしいのか?
まぁ言いたいことがあったら上述のtextreamのわしのトピに書き込んでくれ。 >>136
安本説のように神武実在で大和朝廷開始が4世紀からと言うのは、
もう考古学的に無理だし、
現実は10代崇神が4世紀初頭で墓は行燈山あたりだろう。
ならば大和朝廷開始時期の纏向石塚まで約100年以上あるわけで、
戦後津田史学あたりから欠史8代なんて言われてたが、
神武から開化まで実在したとみなければいけないだろうね。
ただ記紀の通り葛城近辺に宮を構えたとしても、
あのあたりの発掘調査が進んでない。
京奈和自動車道の工事で遺跡が出たようだが、
欠史8代時代の遺跡とはみなされてない様だ。
まぁ遺跡は出なくても時代考証から神武実在の予言はできるわけだけどね。 >>138
それ無理。
応神(390年元年)から実質4世代前。
やはり4世紀初め頃の即位で318年没だろう。
考古学的にも崇神絡みの古墳などがことごとく4世紀前後。
崇神墓最有力の行燈山、会津の一基古墳群、
吉備津彦の中山茶臼山、武埴安彦の椿井大塚山などなど。 崇神は西暦3世紀中ごろなんだよ。
ちなみに、有名な倭の五王の中に、応神はいない。 >>140
だから何を根拠に崇神が3世紀中頃なのか言ってもらわないと。
言いっぱなしはいけません。 魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
魏志倭人伝に登場する狗奴国の乱とは
日本書紀に登場する武埴安彦命の乱。
これらのことから、崇神天皇は西暦3世紀中ごろの人物ということになる。 崇神は卑弥呼の死後数十年経って産まれた実質初代天皇。
十数代までの天皇は架空の人物がけっこういる。
一人の天皇の実績を複数の天皇に分けた場合もある。
例えば神武は崇神が東遷した実績を記録するために作られた天皇。 >>142
該当する古墳がない
よって間違いである 卑弥呼が崇神の大叔母なら、
欠史八代と倭国大乱が同時期。 >>142
>魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
だからこれの根拠はと聞いてるのだがw 狗奴国王の乱は
許乃国の領主だった武埴安彦命の乱のこと。
狗奴国王の副官だった拘右智卑狗とは
武埴安彦命の母方の河内彦のこと。 >>64
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡って発見されたの? 崇神は285〜318
箸墓=大物主
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡・・意味不明 >>151
神武が実在と言い張ってるやつらってこんなのばっかりといういい例だな
何も根拠も示さず自分の妄想が事実だと断言するだけ >>154
親鸞でさえ、
明治時代は架空の存在じゃないかと、疑われていたのだぜ。
神武天皇時代の天皇家は身上が小さいから、存在を証明する
物財がろくに残っていないのでないの?
神武天皇が九州から、関西に渡ってきた伝承でも
実際は軍隊をつれて、大々的に渡ってきたのではなしに、
北条早雲みたいに7〜8人くらいの集団で、関西に伝手があるから
関西でひと旗揚げに行こうぜと渡っただけじゃないのかネェ >>154
親鸞でさえ、
明治時代は架空の存在じゃないかと、疑われていたのだぜ。
神武天皇時代の天皇家は身上が小さいから、存在を証明する
物財がろくに残っていないのでないの?
神武天皇が九州から、関西に渡ってきた伝承でも
実際は軍隊をつれて、大々的に渡ってきたのではなしに、
北条早雲みたいに7〜8人くらいの集団で、関西に伝手があるから
関西でひと旗揚げに行こうぜと渡っただけじゃないのかネェ 後に応神が神武天皇となる台本なのだが新羅討伐に向かった神功皇后が身籠ってたのが皇女で
その婿として連れてきた応神が神功皇后の皇女を選ばず第2の后をを選んだ為に歴史が変わってしまった >>155>>156
伝承が残ってたと仮定するなら
年齢もデタラメ、系図もデタラメ、事績もデタラメ、宮もデタラメ、墓もデタラメなのはなぜだ?
全部デタラメなのにその人物が実在したことだけは信じろなどと言われて誰が信じるんだ?
カルト以外のまともな判断力がある人は神武が実在したなどととてもじゃないが信じることはできない >>159
創作するのなら50歳くらいで亡くなる人物にすればいい。
神武が100歳超える年齢なのはそうしなければならない強い何かがあったのだ。
神武は実在していた、しかし実年は書けないというジレンマがあったのだろう。
俺の計算では神武からおおよそ5世代前のスサノオと倭国王帥升の時代が合う。
国史とはプライドだ。
日本の歴史をスサノオの朝貢という惨めな史実から始めるわけにはいかない。
ゆえ、スサノオの時代をずらした。
当然神武の時代も大きくずらした。
そういう事だと思う。 >>161
いや分るよ。
崇神の時代にソナカシチという人物が朝貢に来たと書かれてる。
おそらく313年、高句麗が楽浪を滅ぼした時、
暴走する高句麗対策に日本と軍事同盟を結びに来たのだろう。
つまり崇神=楽浪滅亡が1つの基点になる。
記紀編纂者が遣隋使からの情報で、楽浪滅亡の時代を把握してたなら、
それが基点になるのだ。
そ >>161
あと弥生時代にはすでにスズリがあり文字が入ってたようだ。
暦も入ってた可能性はある。 >>163
「魏略曰:其俗不知正?四節」
暦が入ってくるのと使いこなすのは違うから >>160
はあ?
年齢がデタラメだからこそ実在したと言い張るのか?
わけのわからん屁理屈 神武教カルトにとっては
文献の記述が正しければ、実在した証拠だ
文献の記述が間違ってれば、あえて嘘を書かなければならない理由があったからでありそれこそ実在した証拠だ 一方、中国で売ってる日本史の本は、神武天皇から始まっている 日本史板だと神武や初期の天皇の実在を信じてないけど、歴代天皇125代+北朝5代を暗記してるってやつは多そうだなw ここでもセイントセイヤ、北斗の拳・・・その他
・・・の話をしているの?
実際の事は、わからないけど、近代(現代)に入ってからは、
漫画やアニメのほうが詳しいと言っている人もいたよ
出版社には、いろいろな文献があるはず、
他の国から取り寄せたり、購入したり、取材に行ったり? 団塊世代の阿保ジジイに聞いてみ。
みんな神武はいないとか、天皇は朝鮮から来たなんて言うから。
このスレの>>1はそういう団塊世代の阿保ジジイの影響をもろ受けw
それこそ昭和の遺物。
パチンコ、雀荘、バンカラ、スナック来夢来人、純喫茶スワンと同じwww 結局、神武が実在と思ってる人は詭弁でこれが根拠だと言い張ってるだけだね 山口の公立高校だと日本史の時間に125代暗記させられるし 神武東征があったのは6世紀
根拠その1
日本書紀によると神武は川を溯って草香邑(日下村)の白肩津に辿り着いたことが記されているが、古代において日下の周辺は河内湖が広がり、川を溯ることなく直接着岸できてしてしまう。
4‐5世紀になって漸く陸化が進行して草香江と呼ばれ、記紀が書かれた8世紀頃には完全に陸化して船で溯ることはできなくなる。
日本書紀の記述どおり川を溯って草香邑に辿り着くことができたのは、日下が完全に陸化してしまう直前の6世紀だけである。
根拠その2
記紀の神武天皇の条に下記の歌あり、「神風」が伊勢(伊勢神宮)の枕詞として使われている。ところが伊勢神宮が祭られるのは垂仁天皇の時代であり、当然「神風」が伊勢の枕詞に使われるのは垂仁天皇の時代以後である。
従って神武天皇は、垂仁天皇より後の時代の人物である。
・「神風の伊勢の海の 大石にや 這ひもとへる 細螺の 細螺の 吾子よ吾子よ 細螺のい這ひもとへり うちてしやまむ」
根拠その3
・神武は飛鳥の橿原宮で即位したとされており、神武一族の入植地の中心は飛鳥地域である。
当然、神武一族の陵墓も飛鳥地域に造られたが、飛鳥地域で古墳の建設が始まるのは6世紀後半からである。 根拠その4
・6世紀に任那が滅び、7世紀には百済が滅亡し、多数の難民が九州倭国へ押し寄せた。この人口圧力が東征の切っ掛けとなり、また天孫族の元と考えられる。
・・6世紀−7世紀初頭の「飛鳥時代」の近畿では北部九州より多くの寺院の痕跡がみられ北部九州より早く仏教が普及している。
これは、6世紀の神武東征により既に仏教を信仰していた天孫族(半島からの引揚者)が大勢近畿へ移住した結果だと考えられる。
・・坂上苅田麻呂は、高市郡の人口の8割‐9割は渡来人である七姓漢人であると述べている(七姓漢人#渡来伝承)。
8世紀の高市郡で応神天皇の時代に帰化した七姓漢人が多いのは、6世紀に神武と共に大勢の帰化人が飛鳥を含む高市郡に入植した結果だと考えられる。
・・『隋書俀国伝』に「竹斯国の東に秦王国があり、俀に附庸している」とある。筑紫国(九州倭国)の東に九州倭国に従う秦氏の国(渡来人の国=神武一族の国=日下)があったということだと考えられる。
・・「新撰姓氏録」によると平安時代になっても畿内5カ国の貴族の約30%は渡来系である。
・・天武朝では葬儀の際に和風諡名が奉られる慣わしが行われておらず、天武朝は渡来系であると考えられる。
根拠その2
・神武に続く欠史八代の時期が古墳時代後期から飛鳥時代であると考えられる。
根拠その5
・「日本」の名称の起源は神武等が征服した「日下」であるが、日本が「日本」と呼ばれるようになるのは天武の時代からである。
神武東征が6世紀だったからこそ天武が政権を盗る7世紀末まで日本が「日本」と呼ばれることはなかったのである。 4‐6世紀頃に畿内地方で巨大古墳を築いていたのは長髄彦など神武に討伐された豪族たちであると考えられる。
5世紀頃に近畿地方で巨大古墳が出現するのは、この時期に既に西方からの征服王朝が近畿地方にあり地元住民を奴隷として大量動員する力を持っていたからだと考えられる。
・弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸、弥生後期に近畿地方に西方からの進入に備えたとみられる「高地性集落」が存在し、九州勢の東進の跡が観て取れる。
・畿内では弥生時代の墳墓から鏡が全く出土しないが、古墳時代の古墳では多数鏡が出土し、文化的断絶がある。
神武紀に長髄彦の記述があり、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に高天原(九州)から天孫族として大和を征服していたところに、更に九州から神武がやって来たと考えられる。
・糸島地方、春日市などの古墳や沖ノ島などの北九州一帯からは多数の三種の神器が揃って出土しているが、近畿地方の古墳からは出土していない。
・長髄彦は神武東征軍を日下の戦いで撃破するほどの強力な軍団を擁しており、九州勢の東征の痕跡は、武器出土数に反映されるはずであるが、弥生時代においては武器出土数は、東に進めば進むほど減少していくので、九州勢の東征は、弥生時代ではない。
・4世紀‐5世紀になってやっと河内の古市古墳群、和泉の百舌鳥古墳群、大和の佐紀盾列古墳群と馬見古墳群などで多数の鉄製武器類を副葬した例が現れる[78]ので、これら4世紀‐5世紀の古墳が神武に対抗した長髄彦など豪族たちの墓であると考えられる。
畿内では4‐6世紀頃に巨大古墳が多数建設されている。もし、この時期に九州倭国の分家や代官、または臣従する豪族だったと考えられる神武一族が既に畿内を平定していたとするならば、九州倭国の権威を無視するような巨大古墳の建設をするはずが無い。
巨大古墳を建設したのは長髄彦など先住の九州倭国からは独立した勢力だったと考えられる。 『日本書紀』においてヤマト王権(天武朝)の系譜の天皇は、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の天皇(第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇)の9代と第40代天武天皇、
第41代持統天皇の2代を加えた計11代であり、間の第10代(崇神)から第39代(弘文)までの30代の天皇は九州倭国の系譜を挿入したものと考えられる。
つまり、天武の父はヒコオオビビ(第9代とされる開化天皇・彦大日日・日子大毘毘)、祖父はヒコクニクル(第8代とされる孝元天皇・彦国牽・日子国玖琉)、曾祖父はヒコフトニ(第7代とされる孝霊天皇・彦太瓊・日子賦斗邇)である。 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるので『日本書紀』、『古事記』も本来は、
ヤマト王権の前王朝である九州倭国の歴史書として編纂が始まったものが、途中で方針が変わりヤマト王権の正当性を示すため、天皇の先祖は神である(万世一系)として九州倭国の存在自体を消去したものと考えられる。
第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトであり、名称から九州倭国の初代国王であったと考えられる。
天武は自らの先祖の記録も残す為、また九州倭国の歴史を畿内ヤマトの歴史に見せかける為、九州倭国の歴史の前に自分達ヤマト王権の系譜を記したと考えられる。
欠史八代の間、畿内周辺の狭い領域のことしか記されておらず、欠史八代は畿内の地方豪族の王達の歴史である。
欠史八代の御陵は考古学的に見て古墳時代後期−飛鳥時代に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかないので、欠史八代の時期は古墳時代後期−飛鳥時代であると考えられる。
「日本根子」という称号を欠史八代の中の7代孝霊天皇・8代孝元天皇・9代開化天皇と22代清寧天皇、天武朝の43代元明天皇・44代元正天皇だけが持っているので、これらは畿内日本(天武朝)の皇統であると考えられる。
7代−9代は明らかに実名を元に作られた和風諡号であり、天武の曾祖父、祖父、父であると考えられる。
この間、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない。 記紀に記された6代孝安以降の天皇の母親の名前が殆ど一致するにも係わらず、第2−5代の天皇の母親の名前が日本書紀と古事記の記述では全く異なる。
これは口伝でも3−4代前までの名前は分るがそれ以前は文書に拠らないと正確に分らなかったためだと考えられる。
『新唐書』には「国王の姓は阿毎氏、彼がみずから言うには、初代の国王は天御中主(アメノミナカヌシ)と号し、「彦瀲(ヒコナギサ)に至るまですべて32代、いずれも尊と呼ばれ、筑紫城にすんでいた。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて天皇と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」とある。
つまり古くは筑紫城(九州倭国)の31代の国王の後に彦瀲、神武と続く歴史認識が在ったのである。
それを『日本書紀』では彦瀲、神武とそれに続く欠史八代の天皇を筑紫城(九州倭国)の国王達(崇神から弘文)の前に移動させているのである。
(『新唐書』では彦瀲、神武とそれに続く欠史八代の天皇の前後に同じ天皇を二重に記している。) 古代の皇別氏族でも、いついつの天皇の子孫かどうかで
与えられる姓が違っていたりしたから
あの系図は間違いではない。
一応、記紀が書かれた時点での伝承を正しく記載している。 >>177>>178>>179では一応根拠もどきが書かれているが(もちろん突っ込みどころ満載であるが)
>>180>>181>>182はただの妄想ラノベ 九州王朝説を無理やり正当化するために文献を曲解したり何でもありだな
誰も賛同しないのは明らかだが 長文乙
レス2つ目までは読んでただのこじつけと判断しそれ以降は読んでない
というか読む価値なしと判断した >>182
欠史八代の中頃の時に
尾張氏の祖先と皇室の祖先の間で逆転現象が起こったということだろう。 卑弥呼が箸墓古墳の被葬者である
崇神天皇の父方の大叔母である巫女の女性ならば
神武は西暦1世紀後半、天忍穂耳命は西暦元年前後の人物だろう。 >>190
当時は王権の世襲はなかった
今の天皇家と血は繋がっていないだろう
同じヤマト政権の一族であるから婚姻などで繋がりはあっただろうが >>191
同じ系統の血族だから、問題になったんだろうが >>190
天皇という称号は7世紀から。
卑弥呼の時代は女王はヒメ、男王はヒコと呼ばれてただろう。 天皇や総理大臣が伊勢神宮に参拝に行くから
天照大神は信じてるから神武天皇も信じてるんじゃないのかな。
税金の無駄だと思うけど・・・・・・・・・・・・・・・ >>1
フィクションし実在かの神武天皇とキリストの扱いが似すぎっ >>197もとい
>>1
フィクションもしくは、実在かの神武天皇とキリストの扱いが似すぎっ >>195
昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王が古代史専攻の歴史学者で
神話と史実を切り離して考えるべきとして色々主張したもんだから保守派と対立した経緯ある
今の皇族はネットも見れるらしいし、国際キリスト教大(改宗ではない)に入ったり、
留学先のイギリスで外国人とヤリまくったことをmixiで暴露した人すらいるからね
神道をただの多神教の風習がルーツになってると考えてるか、ガチで信じてるかは本人にしか分からない 都市伝説によると
・右翼、ネット右翼というのはアニメばかり観ている。
架空戦記。
理由は単純、どのような争いにも勝利することが出来る。
そのようにストーリーを作ることが出来る。 本当に重要になってくる
8マンというのは何者なの?
それと『ザ・モモタロウ』という作品に登場する、
テングテングというキャラクターだよ、wikiでも良いから読んでみて
気になっている人ばかりいるみたいだよ 漫画やアニメ?
「いままでの作品は間違っていた」このような謎の説があったり
主人公側と悪役側?設定のことなのかな 『THE MOMOTAROH』
イワン・シュテンドルフ
>作中ではっきり死亡した描写があるのは彼だけである。
確実に実在している人物(人間)という意味なのかな >>195
史記や旧約聖書を信じる程度には信じていると思うな。 以下のことから4‐6世紀頃に畿内地方で巨大古墳を築いていたのは長髄彦など神武に討伐された豪族たちであると考えられる。
・5世紀頃に近畿地方で巨大古墳が出現するのは、この時期に既に西方からの征服王朝が近畿地方にあり地元住民を奴隷として大量動員する力を持っていたからだと考えられる。
・神武紀に長髄彦の記述があり、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に高天原(九州)から天孫族として大和を征服していたところに、更に九州から神武がやって来たと考えられる。
・畿内では4‐6世紀頃に巨大古墳が多数建設されている。
もし、この時期に九州倭国の分家や代官、または臣従する豪族だったと考えられる神武一族が既に畿内を平定していたとするならば、九州倭国の権威を無視するような巨大古墳の建設をするはずが無い。
巨大古墳を建設したのは長髄彦など先住の九州倭国からは独立した勢力だったと考えられる。 >>207
もう少し勉強しろ
・3世紀には巨大古墳は出現している
・神話が史実である根拠なし
・神武や長髄彦が実在した根拠なし グーグルなどで検索してみるとわかる、
エイトマンの曲じゃないの?
エイトマンに登場するデンデン虫の曲
『(緋き悪魔のトラジェディア) Ariabl'eyeS-罪と罰』 >>154
存在しなかったというやつの根拠も存在しないけどなw
誰にでも父と母がいる。崇神にだってもちろんいる。その父にだってもちろん。
当時は「天皇」ではなかったにせよ、崇神にも10代前の父は存在する。 >>191
世襲はなかったという証拠はないな。
卑弥呼と天皇家の血が繋がっていない証拠ももちろんない。
普通に考えれば、当時の有力者は相互に政略結婚を何代も続けていたと考えられるから
まったく無関係と言い切るほうがおかしいと思うね。
卑弥呼に子があったかどうかは別として、卑弥呼は有力者の一族の出身であり、
彼女の甥が天皇でもおかしくないし、従弟でもおかしくない。
崇神前後の天皇家一族の嫁の出身氏族を見れば、あれがヤマト王権を支えた
有力者であり、卑弥呼を共立した有力者達だと想像できる。
共立したということは、その時点では天皇家は絶対的な権力を掌握していなかった
ということだ。 >>155
住吉明神(翁)と猿田彦神(少彦(出雲の副王))の仲介(九州×大和)により入婿、政略結婚。
神武天皇とされるお方はその時四十代も半ばを過ぎた壮年〜老齢(四十で初老ですから)で
九州の安平王の娘(安平(依)姫)と結婚して二男一女?を設けていました。
大和国入に際しては、九州の妻子を置き去り、わずかな 供回りの者と共に出発。
この政略結婚に頑強に反対をしていた長須根彦王(大和=なか/ながの国)の説得のため一時、岡山や香川(金比羅)に逗留なさっり交渉?
大和と讃岐は付かず離れずの絶妙な距離感
香川をサヌキというのは神武天皇とされる方の諱、サノの命=サノの岐(神)からでは?
(天村雲命と全く同じ伝承) 先祖は当然いるだろう、人類が誕生してさまざまな移動ルートで民族が分かれて、今日までつなげてきたのだから
数人の家長→数家族の長→集落の長→小国の豪族→国の大王
のような形で吸収して組織が大きくなっていったのだろうが、
事情があって途中で別の家系に長が替わったのかもしれないし、
長が女になってもそのままつないだかもしれないし、
替わってないかもしれない >>208
ナガスネヒコ。凡そ、ナガ国ス(主)ネヒコ(大王)位の意味。
大和他をナガ/ナカの国、、、蘆原中津国と言ったか?
各地にナガ/ナカの地名、河川、山野があるはその名残かと思う。
王権は光輝き眩いモノ=金。
長国の王権、、、金長/金鳥/金鵄(神武天皇に飛来した(=王権が飛び込んできた))で表される。
金長をデフォルメして神紋としているのが金比羅宮。
たぬきに化けたのが金長たぬき(阿波国の筆頭) >>210
>誰にでも父と母がいる。崇神にだってもちろんいる。その父にだってもちろん。
>当時は「天皇」ではなかったにせよ、崇神にも10代前の父は存在する。
だから何だ?
崇神の9代前の先祖が神武である根拠はない
さらに9代前の時期に畿内のローカル首長はいたであろうが
その人物が神武である根拠もないし崇神の先祖である根拠もない >>188
卑弥呼の在世は欠史8代の直中。
この時代の大王家は天村雲命(初代倭国大王)流れの倭国大王家。
いわゆる、葛城高尾張族。
卑弥呼は天村雲命のじい様、天火明命/天火火出見命の六世孫(七世代目)。
なんとなれば、伝聞する称号が尋常に非ず。
まずは、大倭日女命。(凡庸、凡百の王に大倭は冠されません)
次、天造日女命。!!
次、大海日靈女命。
次、竹野日女命(竹野(タカノ)を領した。)
宇那比日女命。(凡その意味は、大国魂日女命)
日女命。(ヒルメ、、、特別な巫女様)
孝安天皇の兄に嫁して、共に和邇氏の祖となった。
卑弥呼の娘は実の叔父の孝安天皇に嫁して孝靈天皇を産む。
卑弥呼の実兄の孫娘が次代の卑弥呼、トヨ。
まさに、天豊日女命。
当然、称号は大倭日女命。
大叔母の遺領を相続なさって、竹野日女命。
一説には開化天皇の后で有ったとか? >>216
先の大倭日女命を大日靈女貴命。次の大倭日女命を稚日靈女命としたか?
この王権の天照皇大神は、始祖の天火明命かと思う。 人間である以上先祖がいたわけだけど人によって幅がありすぎるね
記紀から天から人が降ってきたとか金色の三本足のカラスとか除いて
鹿児島の田舎から奈良に出てきて島根出身の嫁をもらい村長になったでいいと思うけど
ラノベとも言えない妄想は論外として日本神話に日向神話と出雲神話の占める割合を考えると
否定はできないと思うけどね zarakokuに何言っても無駄。
普通、議論でソース示したら納得するものだが、
zarakokuはそのソースが畿内説だから間違いと言ってくる。
AさんとBさんが議論してて、そこにzarakokuが割り込んできて、
Bさんに「あなたは間違いだ」とzarakokuが言う。
Bさんが「そのソースは?」とzarakokuに聞くと
「Aさんが言ってるから」と言う。
つまりアホでキチガイ。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home こういう人もいる。
707 名前:0510 ◆XtGOTOMAKI @転載は禁止[] 投稿日:2014/08/31(日) 19:31:03.10 O
私は推古天皇の末裔だよ
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1409417295/707
◆gotomakils
◆Dq0510MAKI
◆GotoMAkIc2
◆0510MAKIx. ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています