記紀に記された6代孝安以降の天皇の母親の名前が殆ど一致するにも係わらず、第2−5代の天皇の母親の名前が日本書紀と古事記の記述では全く異なる。
これは口伝でも3−4代前までの名前は分るがそれ以前は文書に拠らないと正確に分らなかったためだと考えられる。
『新唐書』には「国王の姓は阿毎氏、彼がみずから言うには、初代の国王は天御中主(アメノミナカヌシ)と号し、「彦瀲(ヒコナギサ)に至るまですべて32代、いずれも尊と呼ばれ、筑紫城にすんでいた。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて天皇と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。」とある。
つまり古くは筑紫城(九州倭国)の31代の国王の後に彦瀲、神武と続く歴史認識が在ったのである。
それを『日本書紀』では彦瀲、神武とそれに続く欠史八代の天皇を筑紫城(九州倭国)の国王達(崇神から弘文)の前に移動させているのである。
(『新唐書』では彦瀲、神武とそれに続く欠史八代の天皇の前後に同じ天皇を二重に記している。)