神武天皇みたいな架空の人物信じてる奴って頭悪そう [無断転載禁止]©2ch.net
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世界史でいろんな国が覇権争いしてる時期に
神がどうこうって恥ずかしい >>53
はっ?字が読めないの?目が悪いの?頭が悪いの?
>>43 に示しているでしょう
反論、期待しているからね! >>48
当然、記紀とおりの神がかった出来事は作り話だろうけど
モデルになった人物の存在や、九州勢の東進は認めるの? >>49
当然、記紀とおりの神がかった出来事は作り話だろうけど
モデルになった人物の存在や、九州勢の東進は認めるの? 「神武天皇」は実在しないよ
大和朝廷の出来た時期に漢字は伝わってないし天皇という称号も存在しない 神武天皇という漢風諡号は完全に後世の人間の作ったもの。
厳密には、西暦8世紀中ごろの淡海三船がつくった漢風諡号。
淡海三船ってのは、天智天皇の長男の大友皇子の嫡系の曽孫。
つまり、西暦8世紀前半に書かれた古事記や日本書紀には
神武天皇という名前は登場しない。
ただ、皇室の祖先に、磐余彦若御毛沼命という人物がいたということだけ
分かっている。
その人物に、後世、神武天皇という名前が贈られた。 神武天皇という名前は、完全に後世の人間が作ったものだが
磐余彦という皇室の祖先がいたことは確かである。
この人物を、後世、皇室の流れをもつ人間が
神武天皇と名付けた。 おそらく西暦1世紀中ごろ、九州(東征時は吉備に赴任?)から東征した若御毛沼命は
その当時の正当な倭王の地位にはいなかったはず。
東征戦争も、その当時の正当な倭王だった天叢雲命を助けるのが目的だったはず。
天叢雲命の祖父の天火明命と
若御毛沼命の曽祖父の邇邇芸命は兄弟であり
前者の家系が天孫の嫡流にあり、正当な倭王の地位にあった。
後者は九州統治を任されていた傍流。 >>61
考古資料を無視して、文献から使えそうな部分を抽出し古代史オレサマ物語を作っても無意味
1世紀には近畿第X様式土器が近畿地方の大部分に広がっておりそれなりの勢力として成長していたことが伺える
もちろんそこには九州の要素はなし
2世紀後半のいわゆる倭国大乱を経て、2世紀末纒向に都が造られ瀬戸内海勢力と連合でヤマト王権が誕生した
威信財の副葬など北部九州の要素はあるが南九州とは無縁 考古学資料では歴史を推測するのは無理。
鎌倉時代の考古学的な資料だけで判断するのなら
鎌倉時代には、九州王朝と畿内王朝の二大王朝があったと錯覚するぐらい。 >>63
無知ゆえに考古資料を認めないだけ
根拠のない妄想より100万倍まし 【田布施システム】の定義
・全ての戦争は支配層マフィアによる茶番である。 (少なくてもワーテルロー以降の殆どの戦争や事件に関して証明出来る)
・全ての宗教は支配層マフィアの道具である。
・敵対する思考・組織を乗っとれば、それらを完全にコントロールする事が出来る。
・世界中の中央銀行と金の価格を決める権利が在れば世界を支配する事が出来る。
上級者以外視聴完全不可 イルミナティとは
https://www.youtube.com/watch?v=HDctJ2IN6us
陰謀論の研究、日本を牛耳る田布施システムとは ※週刊ポスト2017年1月13・20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170106_480581.html
銀行のタブーに気付いた経済学者は大学を追われマスコミも無視する。これは陰謀論ではなく現実に日本も闇の勢力に支配されている証拠ではないか?
https://www.youtube.com/watch?v=kG3TeORdYkI
天皇は山口県田布施朝鮮人部落出身
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSu(NGワード)U
歴史=支配者都合で創られたモノ
「宗教」も「天皇」も支配者の道具として外国から来た
2chで「田布施システム」で検索
「アベ政治を許さない」は安倍の身内が作った→これも田布施システムの手法
「原発反対派」は「原発を推進派」の経済界・政治家・有名人の大物が乗っ取って茶番対立→これも田布施システムの手法
全ての政党を支配しながら茶番対立支配→これも田布施システムの手法
全ての業種・財界を乗っ取って幾つかの企業に分けて対立競合支配(日本人企業に対しては銀行引き締め、叩き放題・創価や神道・政治系団体・ヤクザ・街宣右翼等の子分には利権を御裾分け)→これも田布施システムの手法
右翼と左翼に分けて茶番対立支配→これも田布施システムの手法
全ての宗教を乗っ取って茶番対立支配→これも田布施システムの手法 考古資料は事実だから認めなければいかん
ただ考古資料のなないところは合理的に推定する必要がある 10代天皇・崇神が4世紀初頭というのがおおよそ定着しつつある。
ならば大和盆地最古の纏向石塚が2世紀末なので、
崇神以前から大和朝廷は存在したという事になる。
(纏向石塚が天皇の墓という意味ではない)
欠史8代なんていうのはもはや昭和の遺物。
神武が実在した可能性は高い。 >>69
論理の飛躍
欠史8代とされる天皇は葛城地方に宮や墓があると記紀に記述されている
一方、纏向に宮を造り崇神より前に実在したはずの天皇は記紀に記述されていない
ここから推測できることは
・崇神より前の天皇は後世に伝承されていない
・代わりに欠史8代を創作し長い歴史があるようにした
・欠史8代より前である神武の実在可能性はさらに低い ヤマト政権の首長にも生物である以上祖先は存在するが、それを神武なる存在と同一視するのは別の話。 崇神は3世紀中ごろだろう、いつまで在位したかは知らんけど。
というか、その当時には、明確な王制はなかったかもしれんし。
いつからいつまで在位という考えもなかったかもしれんしな。
欠史八代は西暦2世紀の中頃で倭国大乱の時期だと思う。
そういうに考えたら、西暦1世紀中ごろから後半は神武のいた時期
出雲国譲りが西暦前1世紀から西暦1世紀ぐらいになる。 >>43
なんでこれが証拠なんだwww
個人的感想を並べただけじゃねーか
こんなの考古学的物証の前では何の意味もない
神武なんていなかっただよ
諦めろ >>72
根拠のない妄想
しかも神話である出雲国譲りを史実として勝手に断定している >>52
無関係とは言い切れないだろうな
古代において行政組織が出来上がっているとするのは無理がある
世襲とは関係なく前の天皇(大王)が死亡した時点で最も力のあるものが新たに天皇(大王)になると仮定して
それまでの天皇であった人物、すなわち赤の他人の家のルーツまで把握していたと考えるのが妥当なのか?
先祖崇拝はあったはずで稲荷山鉄剣などで8代前の人物まで名前が残っている
よって万世一系が崩れるなら神武も崩れると考えるべき 記紀には二つ、三つ、四つの
建国の話が出てきている。 大和朝廷の本当の建国は出雲国譲りの時だよ。
その時に初代天皇とされてもよい人物が誕生したはず。
でも、そこは日本書紀では神話としてバッサリ切り捨てられた。 >>80
ワカミケヌの定住した纏向の村は出雲からの避難民の村だと思ってるんで一理はあるな
後世の人は男系ということで鹿児島の阿多へと遡っていくが
当時のこの村の大多数の人は出雲の人間だったろうから
ただ避難民のリーダーだとどうもパッとしないな
まぁ神武天皇=傭兵隊長=入婿のほうがリーダーぽいか 神話を史実だと思い込んで、根拠のない証拠もない妄想ストーリーを作り
神武は実在したと吠えてるだけだな 中国人は除福が神武になったと考えてるようだ
宋の時代には既に除福は日本人の祖って言われてるんだよな、あっちで >>70
違うな。
・崇神以前の天皇家は天皇(大王)ではなかった。
・神武〜開化まではヤマト南部の豪族程度。
・纏向の箸墓以前の墓には葬られていないがその程度。
盆地南部の豪族に婿入して、ささやかな領地を持っているだけ。
卑弥呼共立の後、おそらくは母方の血筋の良さでのしあがって来た。
母方とは、火明命系であり、卑弥呼もその一族だったと思われる。
ホアカリ系の直系当主が早死するか何かで、争いが起こり、傍系のものが
王位を争い、崇神が勝った。
妻はほぼホアカリ系から取っている。
ヤマト古墳群に入っているのは、ホアカリ一族。 >>70
垂仁は権力争いには勝ったが、丹波から妻を取らねばならなかった。
景行は、母が日葉酢媛であるから権力争いにならなかった。 >>84
記紀をオレ様解釈して妄想ストーリー作ってるようだが
考古資料に反してるからその妄想ストーリーは100%デタラメ
間抜けすぎる
考古学を少しでも学んで出直してこい >>86
妄想は確かだけど、どこが考古資料に反してんの? 神武天皇も5世代前のスサノオも架空の人物ではなく、
充分に実在を認識してたので、
時代を遠く追いやることにより神話化したのだよ。
理由はスサノオが倭国王師升だったから。
スーパースター・スサノオが生口を捧げて中華に朝貢してたなんて日本の恥だから。 >>22
皇室の認識として「素尊」(≒スサノオ)がそれかと 。
素尊は皇国の本主なり。故に津島天王社を日本総社と崇め奉るなり!? 神武は実在だよ。
三輪 氏 安曇氏 物部氏 三上氏 忌部氏 紀国造家 久米氏 大伴氏 中臣氏 皇室
櫛御 方 穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都 天富 天道根 大久米 道臣 天種子 1神武
健飯 勝 摩幣区利 彦湯支 天夷沙比止 彌麻爾支 伊麻枳利 布理祢 味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻 意伎布根 意冨祢 川枯彦 和謌富奴 比古麻 味耳 稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主 小栲梨 出石心大臣 . 坂戸毘古 佐久耳 知名曽 五十真手 大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵 大綜麻杵 . 国忍富 阿加佐古 .久志多麻 久米大人 角日 梨津臣 7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男. .大加賀美 玉久志古 大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝 10崇神
大御 食持 百足足尼 十市根 鳥鳴海 多良斯富 .宇遅比古 七拳脛 武日 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 勝海足尼 胆咋 八倉田 麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 大浜 .五十琴 室毘古 佐岐大人足尼 豊布流 伊与足尼 佐彦 雷大臣 15応神
石床 浜子 .伊呂弗 比賀多 多比古足尼 塩籠 加志古 山前 大小橋 16仁徳 >>87
・崇神以前の天皇家は天皇(大王)ではなかった。 → 大王はいた(箸墓、西殿塚他)
・神武〜開化まではヤマト南部の豪族程度。 → 神武〜開化の墓は偽物
・纏向の箸墓以前の墓には葬られていないがその程度。 → 意味不明 出雲国譲りは母系継承で天下人が代わった話でもある。
播磨国風土記にも、そのヒントが残っている。
出雲の大国主が、娘婿の火明命に降伏して、自らの支配地を譲った話だから。
火明命は高天の王。
高天とは、高野山と天野山の山間の地域の地名で
古代にあった大和湖の南岸の地域後もである。 アマテラスとかスサノオとかは個人名ではなく神話の話だよ、本当に。
でも、そのあとの天忍穂耳命とか天穂日命とか天火明命とか邇邇芸命は
実在した人物の話。 紀元前660年と言うのはユダヤの歴史に繋げている
天皇が長生きなのはユダヤを名乗る別の王朝時代と区別するため
首長連合物部主導から権力を取り戻した崇神が神武の実体 10代崇神が行燈山か西殿塚だとして4世紀前後の墓なのだから、
纏向石塚までの遡ること100年間、王朝が存在したという事。
纏向石塚が王墓かどうかは別としてね。
欠史8代なんて言われてたけど、充分実在が考えられるわけだ。
津田史学なんてもはや昭和の遺物だよ。 大和の地に外部勢力の痕跡が見られるのは、纒向以降だからな。
神武東征の逸話は、卑弥呼を共立した30ヶ国と狗奴国の争いの一場面だったんじゃないかな。
吉備と行動を共にした神武もこの戦いに参加し、河内で大敗後熊野に迂回し大和入りしたと。
神武東征として描かれた戦いは、2世紀末に纒向の営みが開始される前の2世紀後半だろうね。
崇神は3世紀末から4世紀初めだから、神武から崇神まで約100年となり、これが欠史八代に当たることになる。
この間は女王卑弥呼や台与の時代だから、天皇という存在はなかった。
欠史八代はどういう立場の人々だったかという問題になるが、女王を支えるNo.2の地位にあった人々が該当するんじゃないかな。恐らく有力豪族が10年超のスパンで交代で担ったと推定される。
それを記紀編纂時に神武→崇神の直系の系図に無理矢理組み込んだと考えられる。
倭国大乱前は卑弥呼を中心とした勢力と卑弥弓呼を中心とした狗奴国は元は同じ勢力で、統一倭国を形作っていた可能性もある。それが倭国大乱で卑弥呼派と卑弥弓呼派に分かれて争ったと。
倭国大乱は、後漢書の記録によると大体146〜189年頃となる。その前に70〜80年男王が続いたとあるので、統一倭国は、1世紀中頃に成立したと推定できる。
伊勢遺跡は当時の遺跡だが、1世紀末〜2世紀末と推定されているんだよね。
統一倭国の成立と少しズレるんだよね。
誤差なのか別の地域に統一倭国の中心があったのか、今のところ不明。 古墳の大きさを国力の根拠とするなら
それにふさわしい人口がなければならないが
纒向周辺には住居跡が少なく
比較的小型の古墳が多い九州では
住居跡がびっしりある。
むしろ逆の傾向を示しているのは
なぜだろう。 狗奴国の乱は
許乃国の領主だった武埴安彦命の乱のことだよ。 神武東征伝承の実態は、あくまでも、畿内王権本国の内戦に
九州生まれで、当時は吉備国に赴任していた若御毛沼命(神武)が
援軍の一つとして参戦しただけ。
その当時の吉備国の知事は、五瀬命のほうで
その弟の若御毛沼命(神武)は兄に従って吉備にいただけ。
この戦争の主戦は、その当時の畿内で3代目の倭王だった天村雲命に対して
初代倭王の天火明命の櫛玉(形見=御落胤)を名乗る饒速日が、義理の兄のナガスネヒコと共謀して
クーデターを起こしたというのが主戦。
五瀬命や若御毛沼命(神武)の曽祖父は邇邇芸命といって
初代の倭王の天火明命の弟(庶兄)にあたり、
天火明命が出雲国譲りで大国主を降伏させ天下をとり初代の倭王になったあと、
兄の天火明命の命令で、九州の高千穂に赴任していた。 >>64
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡って発見されたの? >>97
大和の地に外部勢力の痕跡が見られるのは、纒向以降と言いながら
2世紀後半に外部勢力の侵略があったと言い張る矛盾
ワロタ >>100
その妄想ストーリーに今まで誰か一人でも同意したのか? 当時の事なんか殆ど分からないのに等しいのに。
なんで神武天皇が実在しなかったと言い切れるの?
そういう名前じゃなかったと言うのは無しにしてだぞ。 >>104
記紀に書かれてることが全部デタラメなのにその人物がいたことだけは伝承されていると考えるのは論理の飛躍だ
後世に創作された人物と考えるのが妥当 おまえら、初歩的なことすら知らないんだな。
実は、古事記や日本書紀の原文には、神武天皇は登場しない。
大和朝廷の皇室の祖先に、磐余彦若御毛沼命という人物がいたこと
だけが知られていた。
それを記紀の編纂後、数十年後に
淡海三船が、磐余彦若御毛沼命に
神武天皇という漢字名を作り出した。 >>107
天皇号なんてほとんどが亡くなられた後に名づけられるもんだろ >>107
ただの論点ずらしだな
磐余彦も若御毛沼命も創作だということだ 日本書紀がいくら神武東征を強調しようが、
イワレヒコ(神武)という男は在地(奈良)の王家に頭を下げて通い婚をゆるしてもらった男。
つまり婿入りというかマスオさんだねw
ここは大きなポイント。
つまり男子優先の後世に天皇という事にされたのだが、実際は大王ではない。
当時の大王は奥さんの側。
神武の奥さんの名前と卑弥呼という呼称が酷似してるのは偶然か? 神武以後の八代は事跡がほとんど書かれてないので、架空説はある(欠史八代)
それが、十代目の崇神からは全国に四道将軍を遠征させたりと事跡が詳しくなる
よって、崇神から実質的に皇統が始まると言う説もある
神武、崇神、応神など諡号に「神」が付くのは重要な証し >>110
奈良の端っこだぞ
トップだったとしても大王とはいえないよ
前に書いた神武天皇=傭兵隊長=入婿がいいんじゃないかな
ニギハヤヒのほうが羽振りが良かったし
ヒメタタライスケヨリヒメもしくはヒメタタライスズヒメと卑弥呼の共通点というのはヒメだろ
そりゃ大方似るよ 饒速日はクーデター軍の親分だよ。
正統性なんてものはない。 >>111
存在はしているが、正当な倭王の王位にはいなかったんだろう。
箸墓の被葬者を卑弥呼とみた場合
欠史八代の中頃と倭国大乱が同時期になるし。 饒速日は、別名は櫛玉命と言われている。
御落胤の皇子くらいの意味だ。 >>112
>ヒメタタライスケヨリヒメもしくはヒメタタライスズヒメと卑弥呼の共通点というのはヒメだろ
そりゃ大方似るよ
はぁ?名前の最初にヒム・ヒメ・ヒミがついて、
高齢で夫がいない時期があり、
宮に出入りする愛人らしき人物があり、
政治を補佐する男弟(この場合、弟を徒弟の弟とみる)、
鬼道が得意とくれば彼女しかいない。 >>112
>奈良の端っこだぞ
トップだったとしても大王とはいえないよ
いや纏向のある桜井も盆地の端っこだしw 饒速日は瀬戸内〜九州にまでいた物部集団を伴ってやってきた。(天神本紀)
纏向遺跡が筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素(寺沢薫)であることと符合する。
纏向遺跡とは古代物部の遺跡。
卑弥呼はいない。
いつでも書き込みをお待ちしてます。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/e606ba43cbadd4e1e6c925af7d305bf1 >>110
魏志倭人伝を否定するならそれなりの根拠が必要
根拠を提示できないなら記紀をつまみ食いした妄想ストーリーでしかない
問題外 >>117
息子がいて父の跡つぐという大きな違いがあるな
娘だったら台与と言えたかもしれないが >>120
>魏志倭人伝を否定するならそれなりの根拠が必要
魏志倭人伝通りだと言ってるわけだが?
まさか卑弥呼が生まれた時から高齢で夫がいないなんて思ってないよね? >>121
>娘だったら台与と言えたかもしれないが
卑弥呼はかなり長生きだよね。
当時の平均寿命は40歳に満たないと言われてるから、
孫、または曾孫の時代まで生きてたかもね。
ヒメタタラの5代目がアマトヨツ。
これが台与だろうね。 >>122
捏造なのか知識不足なのか知らんが
倭人伝には卑弥呼に夫はいなかったとある
弟が取り次ぎをしていた
よって神武を卑弥呼の夫とするのはただの妄想ストーリー
しかも宮や墓の位置は記紀とも合わないし >>124
>倭人伝には卑弥呼に夫はいなかったとある
だから「歳すでに長大」の時点でだろ。
これくらい分かるだろ。
卑弥呼を生涯独身だったと思ってるような頭の固い人間が歴史を見えなくさせて来たんだよ。
>しかも宮や墓の位置は記紀とも合わないし
どうして?
ホホマ丘、秋津、国見山ことごとく葛城だ。
ヒメタタラの鴨氏の根拠も葛城。
何が合わないんだ?
ま、こんな所でうだうだ言わずここに書き込んでくれ。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f >>125
>だから「歳すでに長大」の時点でだろ。
倭人伝が書かれたのは卑弥呼死後のトヨの時代だ。
当然それまでの史実は記載されていると考えるべき。
卑弥呼が婚姻したというなら、きちんとした根拠を示すべき。 >>124
宮の位置が記紀と合わないというのは、
本居宣長も言ってる通り、
柏原という地名が実際には畝傍山の西南にしかない。
今の御所市柏原であり、おそらくここだろう。
今も神武天皇社があり、ホホマ丘であろう本間丘がある。
畝傍山の東南という記紀の記述が間違えたという事だろう。 >>126
>当然それまでの史実は記載されていると考えるべき。
歳すでに長大という以前の記録はない。
彼女が何歳で即位したとかの記録はあるのか? >>125
卑弥呼が若いころ夫がいたなどと勝手に妄想しているだけだ
根拠のない妄想に付き合うつもりはない
纒向に宮や墓が現実にあるんだから記紀の葛城地方と不一致だと指摘したんだが >>129
こっちも頭の固い奴に付き合いたくはない。
>纒向に宮や墓が現実にあるんだから記紀の葛城地方と不一致だと指摘したんだが
おまえさぁ、纏向に宮を造ったのは10代崇神からなんだが?
神武の宮が纏向にあったとでも思ってるの?w
神武以降9代はおおよそ葛城が中心なんだが。
全然分ってないじゃないか。 >>130
何が言いたいのかさっぱりわからん
神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
卑弥呼の夫が神武だと妄想しておいて夫の宮は纒向ではなく葛城にあったと妄想してるんか?
わけわからんやつだな 通い婚・招婿婚だったら大いにあり得るよ。
ただ私は神武=卑弥呼夫説には与しないがw >>131
>神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
そうだよ。
>纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
そうだね。
>つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
そこで何で飛躍するのかな。
卑弥呼を共立した兆有力な豪族という選択肢があるだろ。
もうひとつの天孫降臨・ニギハヤヒだ。
ニギハヤヒが神武に屈したのも桜井の外山(とび)だろ。
しかも瀬戸内集団を随伴してきたという天神本紀の記述は、
寺沢の纏向古墳群の見解とも合う。
つまりニギハヤヒ、ウマシマジの時代にヒミコはいた。
先代旧事本紀でいえば崇神時代のタベノスクネから6世代前、
1世代間20年で纏向石塚の時代とも合う。
わけわからんのはおまえだ。 >>133
こっちは物証ベースで推測してるのに
おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
妄想ストーリーには付き合いきれん
勝手にやってくれ >>134
>おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
こっちも物証ベースなのだが。
寺沢の見解のどこがファンタジーなんだ?
それと天神本紀の記述が合致していて何かおかしいのか?
まぁ言いたいことがあったら上述のtextreamのわしのトピに書き込んでくれ。 >>136
安本説のように神武実在で大和朝廷開始が4世紀からと言うのは、
もう考古学的に無理だし、
現実は10代崇神が4世紀初頭で墓は行燈山あたりだろう。
ならば大和朝廷開始時期の纏向石塚まで約100年以上あるわけで、
戦後津田史学あたりから欠史8代なんて言われてたが、
神武から開化まで実在したとみなければいけないだろうね。
ただ記紀の通り葛城近辺に宮を構えたとしても、
あのあたりの発掘調査が進んでない。
京奈和自動車道の工事で遺跡が出たようだが、
欠史8代時代の遺跡とはみなされてない様だ。
まぁ遺跡は出なくても時代考証から神武実在の予言はできるわけだけどね。 >>138
それ無理。
応神(390年元年)から実質4世代前。
やはり4世紀初め頃の即位で318年没だろう。
考古学的にも崇神絡みの古墳などがことごとく4世紀前後。
崇神墓最有力の行燈山、会津の一基古墳群、
吉備津彦の中山茶臼山、武埴安彦の椿井大塚山などなど。 崇神は西暦3世紀中ごろなんだよ。
ちなみに、有名な倭の五王の中に、応神はいない。 >>140
だから何を根拠に崇神が3世紀中頃なのか言ってもらわないと。
言いっぱなしはいけません。 魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
魏志倭人伝に登場する狗奴国の乱とは
日本書紀に登場する武埴安彦命の乱。
これらのことから、崇神天皇は西暦3世紀中ごろの人物ということになる。 崇神は卑弥呼の死後数十年経って産まれた実質初代天皇。
十数代までの天皇は架空の人物がけっこういる。
一人の天皇の実績を複数の天皇に分けた場合もある。
例えば神武は崇神が東遷した実績を記録するために作られた天皇。 >>142
該当する古墳がない
よって間違いである 卑弥呼が崇神の大叔母なら、
欠史八代と倭国大乱が同時期。 >>142
>魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
だからこれの根拠はと聞いてるのだがw 狗奴国王の乱は
許乃国の領主だった武埴安彦命の乱のこと。
狗奴国王の副官だった拘右智卑狗とは
武埴安彦命の母方の河内彦のこと。 >>64
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡って発見されたの? 崇神は285〜318
箸墓=大物主
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡・・意味不明 >>151
神武が実在と言い張ってるやつらってこんなのばっかりといういい例だな
何も根拠も示さず自分の妄想が事実だと断言するだけ >>154
親鸞でさえ、
明治時代は架空の存在じゃないかと、疑われていたのだぜ。
神武天皇時代の天皇家は身上が小さいから、存在を証明する
物財がろくに残っていないのでないの?
神武天皇が九州から、関西に渡ってきた伝承でも
実際は軍隊をつれて、大々的に渡ってきたのではなしに、
北条早雲みたいに7〜8人くらいの集団で、関西に伝手があるから
関西でひと旗揚げに行こうぜと渡っただけじゃないのかネェ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています