神武天皇みたいな架空の人物信じてる奴って頭悪そう [無断転載禁止]©2ch.net
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世界史でいろんな国が覇権争いしてる時期に
神がどうこうって恥ずかしい >>80
ワカミケヌの定住した纏向の村は出雲からの避難民の村だと思ってるんで一理はあるな
後世の人は男系ということで鹿児島の阿多へと遡っていくが
当時のこの村の大多数の人は出雲の人間だったろうから
ただ避難民のリーダーだとどうもパッとしないな
まぁ神武天皇=傭兵隊長=入婿のほうがリーダーぽいか 神話を史実だと思い込んで、根拠のない証拠もない妄想ストーリーを作り
神武は実在したと吠えてるだけだな 中国人は除福が神武になったと考えてるようだ
宋の時代には既に除福は日本人の祖って言われてるんだよな、あっちで >>70
違うな。
・崇神以前の天皇家は天皇(大王)ではなかった。
・神武〜開化まではヤマト南部の豪族程度。
・纏向の箸墓以前の墓には葬られていないがその程度。
盆地南部の豪族に婿入して、ささやかな領地を持っているだけ。
卑弥呼共立の後、おそらくは母方の血筋の良さでのしあがって来た。
母方とは、火明命系であり、卑弥呼もその一族だったと思われる。
ホアカリ系の直系当主が早死するか何かで、争いが起こり、傍系のものが
王位を争い、崇神が勝った。
妻はほぼホアカリ系から取っている。
ヤマト古墳群に入っているのは、ホアカリ一族。 >>70
垂仁は権力争いには勝ったが、丹波から妻を取らねばならなかった。
景行は、母が日葉酢媛であるから権力争いにならなかった。 >>84
記紀をオレ様解釈して妄想ストーリー作ってるようだが
考古資料に反してるからその妄想ストーリーは100%デタラメ
間抜けすぎる
考古学を少しでも学んで出直してこい >>86
妄想は確かだけど、どこが考古資料に反してんの? 神武天皇も5世代前のスサノオも架空の人物ではなく、
充分に実在を認識してたので、
時代を遠く追いやることにより神話化したのだよ。
理由はスサノオが倭国王師升だったから。
スーパースター・スサノオが生口を捧げて中華に朝貢してたなんて日本の恥だから。 >>22
皇室の認識として「素尊」(≒スサノオ)がそれかと 。
素尊は皇国の本主なり。故に津島天王社を日本総社と崇め奉るなり!? 神武は実在だよ。
三輪 氏 安曇氏 物部氏 三上氏 忌部氏 紀国造家 久米氏 大伴氏 中臣氏 皇室
櫛御 方 穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都 天富 天道根 大久米 道臣 天種子 1神武
健飯 勝 摩幣区利 彦湯支 天夷沙比止 彌麻爾支 伊麻枳利 布理祢 味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻 意伎布根 意冨祢 川枯彦 和謌富奴 比古麻 味耳 稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主 小栲梨 出石心大臣 . 坂戸毘古 佐久耳 知名曽 五十真手 大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵 大綜麻杵 . 国忍富 阿加佐古 .久志多麻 久米大人 角日 梨津臣 7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男. .大加賀美 玉久志古 大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝 10崇神
大御 食持 百足足尼 十市根 鳥鳴海 多良斯富 .宇遅比古 七拳脛 武日 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 勝海足尼 胆咋 八倉田 麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 大浜 .五十琴 室毘古 佐岐大人足尼 豊布流 伊与足尼 佐彦 雷大臣 15応神
石床 浜子 .伊呂弗 比賀多 多比古足尼 塩籠 加志古 山前 大小橋 16仁徳 >>87
・崇神以前の天皇家は天皇(大王)ではなかった。 → 大王はいた(箸墓、西殿塚他)
・神武〜開化まではヤマト南部の豪族程度。 → 神武〜開化の墓は偽物
・纏向の箸墓以前の墓には葬られていないがその程度。 → 意味不明 出雲国譲りは母系継承で天下人が代わった話でもある。
播磨国風土記にも、そのヒントが残っている。
出雲の大国主が、娘婿の火明命に降伏して、自らの支配地を譲った話だから。
火明命は高天の王。
高天とは、高野山と天野山の山間の地域の地名で
古代にあった大和湖の南岸の地域後もである。 アマテラスとかスサノオとかは個人名ではなく神話の話だよ、本当に。
でも、そのあとの天忍穂耳命とか天穂日命とか天火明命とか邇邇芸命は
実在した人物の話。 紀元前660年と言うのはユダヤの歴史に繋げている
天皇が長生きなのはユダヤを名乗る別の王朝時代と区別するため
首長連合物部主導から権力を取り戻した崇神が神武の実体 10代崇神が行燈山か西殿塚だとして4世紀前後の墓なのだから、
纏向石塚までの遡ること100年間、王朝が存在したという事。
纏向石塚が王墓かどうかは別としてね。
欠史8代なんて言われてたけど、充分実在が考えられるわけだ。
津田史学なんてもはや昭和の遺物だよ。 大和の地に外部勢力の痕跡が見られるのは、纒向以降だからな。
神武東征の逸話は、卑弥呼を共立した30ヶ国と狗奴国の争いの一場面だったんじゃないかな。
吉備と行動を共にした神武もこの戦いに参加し、河内で大敗後熊野に迂回し大和入りしたと。
神武東征として描かれた戦いは、2世紀末に纒向の営みが開始される前の2世紀後半だろうね。
崇神は3世紀末から4世紀初めだから、神武から崇神まで約100年となり、これが欠史八代に当たることになる。
この間は女王卑弥呼や台与の時代だから、天皇という存在はなかった。
欠史八代はどういう立場の人々だったかという問題になるが、女王を支えるNo.2の地位にあった人々が該当するんじゃないかな。恐らく有力豪族が10年超のスパンで交代で担ったと推定される。
それを記紀編纂時に神武→崇神の直系の系図に無理矢理組み込んだと考えられる。
倭国大乱前は卑弥呼を中心とした勢力と卑弥弓呼を中心とした狗奴国は元は同じ勢力で、統一倭国を形作っていた可能性もある。それが倭国大乱で卑弥呼派と卑弥弓呼派に分かれて争ったと。
倭国大乱は、後漢書の記録によると大体146〜189年頃となる。その前に70〜80年男王が続いたとあるので、統一倭国は、1世紀中頃に成立したと推定できる。
伊勢遺跡は当時の遺跡だが、1世紀末〜2世紀末と推定されているんだよね。
統一倭国の成立と少しズレるんだよね。
誤差なのか別の地域に統一倭国の中心があったのか、今のところ不明。 古墳の大きさを国力の根拠とするなら
それにふさわしい人口がなければならないが
纒向周辺には住居跡が少なく
比較的小型の古墳が多い九州では
住居跡がびっしりある。
むしろ逆の傾向を示しているのは
なぜだろう。 狗奴国の乱は
許乃国の領主だった武埴安彦命の乱のことだよ。 神武東征伝承の実態は、あくまでも、畿内王権本国の内戦に
九州生まれで、当時は吉備国に赴任していた若御毛沼命(神武)が
援軍の一つとして参戦しただけ。
その当時の吉備国の知事は、五瀬命のほうで
その弟の若御毛沼命(神武)は兄に従って吉備にいただけ。
この戦争の主戦は、その当時の畿内で3代目の倭王だった天村雲命に対して
初代倭王の天火明命の櫛玉(形見=御落胤)を名乗る饒速日が、義理の兄のナガスネヒコと共謀して
クーデターを起こしたというのが主戦。
五瀬命や若御毛沼命(神武)の曽祖父は邇邇芸命といって
初代の倭王の天火明命の弟(庶兄)にあたり、
天火明命が出雲国譲りで大国主を降伏させ天下をとり初代の倭王になったあと、
兄の天火明命の命令で、九州の高千穂に赴任していた。 >>64
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡って発見されたの? >>97
大和の地に外部勢力の痕跡が見られるのは、纒向以降と言いながら
2世紀後半に外部勢力の侵略があったと言い張る矛盾
ワロタ >>100
その妄想ストーリーに今まで誰か一人でも同意したのか? 当時の事なんか殆ど分からないのに等しいのに。
なんで神武天皇が実在しなかったと言い切れるの?
そういう名前じゃなかったと言うのは無しにしてだぞ。 >>104
記紀に書かれてることが全部デタラメなのにその人物がいたことだけは伝承されていると考えるのは論理の飛躍だ
後世に創作された人物と考えるのが妥当 おまえら、初歩的なことすら知らないんだな。
実は、古事記や日本書紀の原文には、神武天皇は登場しない。
大和朝廷の皇室の祖先に、磐余彦若御毛沼命という人物がいたこと
だけが知られていた。
それを記紀の編纂後、数十年後に
淡海三船が、磐余彦若御毛沼命に
神武天皇という漢字名を作り出した。 >>107
天皇号なんてほとんどが亡くなられた後に名づけられるもんだろ >>107
ただの論点ずらしだな
磐余彦も若御毛沼命も創作だということだ 日本書紀がいくら神武東征を強調しようが、
イワレヒコ(神武)という男は在地(奈良)の王家に頭を下げて通い婚をゆるしてもらった男。
つまり婿入りというかマスオさんだねw
ここは大きなポイント。
つまり男子優先の後世に天皇という事にされたのだが、実際は大王ではない。
当時の大王は奥さんの側。
神武の奥さんの名前と卑弥呼という呼称が酷似してるのは偶然か? 神武以後の八代は事跡がほとんど書かれてないので、架空説はある(欠史八代)
それが、十代目の崇神からは全国に四道将軍を遠征させたりと事跡が詳しくなる
よって、崇神から実質的に皇統が始まると言う説もある
神武、崇神、応神など諡号に「神」が付くのは重要な証し >>110
奈良の端っこだぞ
トップだったとしても大王とはいえないよ
前に書いた神武天皇=傭兵隊長=入婿がいいんじゃないかな
ニギハヤヒのほうが羽振りが良かったし
ヒメタタライスケヨリヒメもしくはヒメタタライスズヒメと卑弥呼の共通点というのはヒメだろ
そりゃ大方似るよ 饒速日はクーデター軍の親分だよ。
正統性なんてものはない。 >>111
存在はしているが、正当な倭王の王位にはいなかったんだろう。
箸墓の被葬者を卑弥呼とみた場合
欠史八代の中頃と倭国大乱が同時期になるし。 饒速日は、別名は櫛玉命と言われている。
御落胤の皇子くらいの意味だ。 >>112
>ヒメタタライスケヨリヒメもしくはヒメタタライスズヒメと卑弥呼の共通点というのはヒメだろ
そりゃ大方似るよ
はぁ?名前の最初にヒム・ヒメ・ヒミがついて、
高齢で夫がいない時期があり、
宮に出入りする愛人らしき人物があり、
政治を補佐する男弟(この場合、弟を徒弟の弟とみる)、
鬼道が得意とくれば彼女しかいない。 >>112
>奈良の端っこだぞ
トップだったとしても大王とはいえないよ
いや纏向のある桜井も盆地の端っこだしw 饒速日は瀬戸内〜九州にまでいた物部集団を伴ってやってきた。(天神本紀)
纏向遺跡が筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素(寺沢薫)であることと符合する。
纏向遺跡とは古代物部の遺跡。
卑弥呼はいない。
いつでも書き込みをお待ちしてます。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/e606ba43cbadd4e1e6c925af7d305bf1 >>110
魏志倭人伝を否定するならそれなりの根拠が必要
根拠を提示できないなら記紀をつまみ食いした妄想ストーリーでしかない
問題外 >>117
息子がいて父の跡つぐという大きな違いがあるな
娘だったら台与と言えたかもしれないが >>120
>魏志倭人伝を否定するならそれなりの根拠が必要
魏志倭人伝通りだと言ってるわけだが?
まさか卑弥呼が生まれた時から高齢で夫がいないなんて思ってないよね? >>121
>娘だったら台与と言えたかもしれないが
卑弥呼はかなり長生きだよね。
当時の平均寿命は40歳に満たないと言われてるから、
孫、または曾孫の時代まで生きてたかもね。
ヒメタタラの5代目がアマトヨツ。
これが台与だろうね。 >>122
捏造なのか知識不足なのか知らんが
倭人伝には卑弥呼に夫はいなかったとある
弟が取り次ぎをしていた
よって神武を卑弥呼の夫とするのはただの妄想ストーリー
しかも宮や墓の位置は記紀とも合わないし >>124
>倭人伝には卑弥呼に夫はいなかったとある
だから「歳すでに長大」の時点でだろ。
これくらい分かるだろ。
卑弥呼を生涯独身だったと思ってるような頭の固い人間が歴史を見えなくさせて来たんだよ。
>しかも宮や墓の位置は記紀とも合わないし
どうして?
ホホマ丘、秋津、国見山ことごとく葛城だ。
ヒメタタラの鴨氏の根拠も葛城。
何が合わないんだ?
ま、こんな所でうだうだ言わずここに書き込んでくれ。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f >>125
>だから「歳すでに長大」の時点でだろ。
倭人伝が書かれたのは卑弥呼死後のトヨの時代だ。
当然それまでの史実は記載されていると考えるべき。
卑弥呼が婚姻したというなら、きちんとした根拠を示すべき。 >>124
宮の位置が記紀と合わないというのは、
本居宣長も言ってる通り、
柏原という地名が実際には畝傍山の西南にしかない。
今の御所市柏原であり、おそらくここだろう。
今も神武天皇社があり、ホホマ丘であろう本間丘がある。
畝傍山の東南という記紀の記述が間違えたという事だろう。 >>126
>当然それまでの史実は記載されていると考えるべき。
歳すでに長大という以前の記録はない。
彼女が何歳で即位したとかの記録はあるのか? >>125
卑弥呼が若いころ夫がいたなどと勝手に妄想しているだけだ
根拠のない妄想に付き合うつもりはない
纒向に宮や墓が現実にあるんだから記紀の葛城地方と不一致だと指摘したんだが >>129
こっちも頭の固い奴に付き合いたくはない。
>纒向に宮や墓が現実にあるんだから記紀の葛城地方と不一致だと指摘したんだが
おまえさぁ、纏向に宮を造ったのは10代崇神からなんだが?
神武の宮が纏向にあったとでも思ってるの?w
神武以降9代はおおよそ葛城が中心なんだが。
全然分ってないじゃないか。 >>130
何が言いたいのかさっぱりわからん
神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
卑弥呼の夫が神武だと妄想しておいて夫の宮は纒向ではなく葛城にあったと妄想してるんか?
わけわからんやつだな 通い婚・招婿婚だったら大いにあり得るよ。
ただ私は神武=卑弥呼夫説には与しないがw >>131
>神武は卑弥呼の夫だと主張してたんじゃないのか?
そうだよ。
>纒向は2世紀末に築造が始まった
卑弥呼が共立されたとされる時期と一致してる
そうだね。
>つまり卑弥呼は在位中は纒向にいたと推測するのが合理的
そこで何で飛躍するのかな。
卑弥呼を共立した兆有力な豪族という選択肢があるだろ。
もうひとつの天孫降臨・ニギハヤヒだ。
ニギハヤヒが神武に屈したのも桜井の外山(とび)だろ。
しかも瀬戸内集団を随伴してきたという天神本紀の記述は、
寺沢の纏向古墳群の見解とも合う。
つまりニギハヤヒ、ウマシマジの時代にヒミコはいた。
先代旧事本紀でいえば崇神時代のタベノスクネから6世代前、
1世代間20年で纏向石塚の時代とも合う。
わけわからんのはおまえだ。 >>133
こっちは物証ベースで推測してるのに
おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
妄想ストーリーには付き合いきれん
勝手にやってくれ >>134
>おまえはいきなりファンタジーぶっこんできた
こっちも物証ベースなのだが。
寺沢の見解のどこがファンタジーなんだ?
それと天神本紀の記述が合致していて何かおかしいのか?
まぁ言いたいことがあったら上述のtextreamのわしのトピに書き込んでくれ。 >>136
安本説のように神武実在で大和朝廷開始が4世紀からと言うのは、
もう考古学的に無理だし、
現実は10代崇神が4世紀初頭で墓は行燈山あたりだろう。
ならば大和朝廷開始時期の纏向石塚まで約100年以上あるわけで、
戦後津田史学あたりから欠史8代なんて言われてたが、
神武から開化まで実在したとみなければいけないだろうね。
ただ記紀の通り葛城近辺に宮を構えたとしても、
あのあたりの発掘調査が進んでない。
京奈和自動車道の工事で遺跡が出たようだが、
欠史8代時代の遺跡とはみなされてない様だ。
まぁ遺跡は出なくても時代考証から神武実在の予言はできるわけだけどね。 >>138
それ無理。
応神(390年元年)から実質4世代前。
やはり4世紀初め頃の即位で318年没だろう。
考古学的にも崇神絡みの古墳などがことごとく4世紀前後。
崇神墓最有力の行燈山、会津の一基古墳群、
吉備津彦の中山茶臼山、武埴安彦の椿井大塚山などなど。 崇神は西暦3世紀中ごろなんだよ。
ちなみに、有名な倭の五王の中に、応神はいない。 >>140
だから何を根拠に崇神が3世紀中頃なのか言ってもらわないと。
言いっぱなしはいけません。 魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
魏志倭人伝に登場する狗奴国の乱とは
日本書紀に登場する武埴安彦命の乱。
これらのことから、崇神天皇は西暦3世紀中ごろの人物ということになる。 崇神は卑弥呼の死後数十年経って産まれた実質初代天皇。
十数代までの天皇は架空の人物がけっこういる。
一人の天皇の実績を複数の天皇に分けた場合もある。
例えば神武は崇神が東遷した実績を記録するために作られた天皇。 >>142
該当する古墳がない
よって間違いである 卑弥呼が崇神の大叔母なら、
欠史八代と倭国大乱が同時期。 >>142
>魏志倭人伝の西暦3世紀中ごろに死んだ卑弥呼は
日本書紀の崇神天皇の大叔母。
だからこれの根拠はと聞いてるのだがw 狗奴国王の乱は
許乃国の領主だった武埴安彦命の乱のこと。
狗奴国王の副官だった拘右智卑狗とは
武埴安彦命の母方の河内彦のこと。 >>64
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡って発見されたの? 崇神は285〜318
箸墓=大物主
神武天皇が存在しなかったことを証明できる遺跡・・意味不明 >>151
神武が実在と言い張ってるやつらってこんなのばっかりといういい例だな
何も根拠も示さず自分の妄想が事実だと断言するだけ >>154
親鸞でさえ、
明治時代は架空の存在じゃないかと、疑われていたのだぜ。
神武天皇時代の天皇家は身上が小さいから、存在を証明する
物財がろくに残っていないのでないの?
神武天皇が九州から、関西に渡ってきた伝承でも
実際は軍隊をつれて、大々的に渡ってきたのではなしに、
北条早雲みたいに7〜8人くらいの集団で、関西に伝手があるから
関西でひと旗揚げに行こうぜと渡っただけじゃないのかネェ >>154
親鸞でさえ、
明治時代は架空の存在じゃないかと、疑われていたのだぜ。
神武天皇時代の天皇家は身上が小さいから、存在を証明する
物財がろくに残っていないのでないの?
神武天皇が九州から、関西に渡ってきた伝承でも
実際は軍隊をつれて、大々的に渡ってきたのではなしに、
北条早雲みたいに7〜8人くらいの集団で、関西に伝手があるから
関西でひと旗揚げに行こうぜと渡っただけじゃないのかネェ 後に応神が神武天皇となる台本なのだが新羅討伐に向かった神功皇后が身籠ってたのが皇女で
その婿として連れてきた応神が神功皇后の皇女を選ばず第2の后をを選んだ為に歴史が変わってしまった >>155>>156
伝承が残ってたと仮定するなら
年齢もデタラメ、系図もデタラメ、事績もデタラメ、宮もデタラメ、墓もデタラメなのはなぜだ?
全部デタラメなのにその人物が実在したことだけは信じろなどと言われて誰が信じるんだ?
カルト以外のまともな判断力がある人は神武が実在したなどととてもじゃないが信じることはできない >>159
創作するのなら50歳くらいで亡くなる人物にすればいい。
神武が100歳超える年齢なのはそうしなければならない強い何かがあったのだ。
神武は実在していた、しかし実年は書けないというジレンマがあったのだろう。
俺の計算では神武からおおよそ5世代前のスサノオと倭国王帥升の時代が合う。
国史とはプライドだ。
日本の歴史をスサノオの朝貢という惨めな史実から始めるわけにはいかない。
ゆえ、スサノオの時代をずらした。
当然神武の時代も大きくずらした。
そういう事だと思う。 >>161
いや分るよ。
崇神の時代にソナカシチという人物が朝貢に来たと書かれてる。
おそらく313年、高句麗が楽浪を滅ぼした時、
暴走する高句麗対策に日本と軍事同盟を結びに来たのだろう。
つまり崇神=楽浪滅亡が1つの基点になる。
記紀編纂者が遣隋使からの情報で、楽浪滅亡の時代を把握してたなら、
それが基点になるのだ。
そ >>161
あと弥生時代にはすでにスズリがあり文字が入ってたようだ。
暦も入ってた可能性はある。 >>163
「魏略曰:其俗不知正?四節」
暦が入ってくるのと使いこなすのは違うから >>160
はあ?
年齢がデタラメだからこそ実在したと言い張るのか?
わけのわからん屁理屈 神武教カルトにとっては
文献の記述が正しければ、実在した証拠だ
文献の記述が間違ってれば、あえて嘘を書かなければならない理由があったからでありそれこそ実在した証拠だ 一方、中国で売ってる日本史の本は、神武天皇から始まっている 日本史板だと神武や初期の天皇の実在を信じてないけど、歴代天皇125代+北朝5代を暗記してるってやつは多そうだなw ここでもセイントセイヤ、北斗の拳・・・その他
・・・の話をしているの?
実際の事は、わからないけど、近代(現代)に入ってからは、
漫画やアニメのほうが詳しいと言っている人もいたよ
出版社には、いろいろな文献があるはず、
他の国から取り寄せたり、購入したり、取材に行ったり? 団塊世代の阿保ジジイに聞いてみ。
みんな神武はいないとか、天皇は朝鮮から来たなんて言うから。
このスレの>>1はそういう団塊世代の阿保ジジイの影響をもろ受けw
それこそ昭和の遺物。
パチンコ、雀荘、バンカラ、スナック来夢来人、純喫茶スワンと同じwww 結局、神武が実在と思ってる人は詭弁でこれが根拠だと言い張ってるだけだね 山口の公立高校だと日本史の時間に125代暗記させられるし 神武東征があったのは6世紀
根拠その1
日本書紀によると神武は川を溯って草香邑(日下村)の白肩津に辿り着いたことが記されているが、古代において日下の周辺は河内湖が広がり、川を溯ることなく直接着岸できてしてしまう。
4‐5世紀になって漸く陸化が進行して草香江と呼ばれ、記紀が書かれた8世紀頃には完全に陸化して船で溯ることはできなくなる。
日本書紀の記述どおり川を溯って草香邑に辿り着くことができたのは、日下が完全に陸化してしまう直前の6世紀だけである。
根拠その2
記紀の神武天皇の条に下記の歌あり、「神風」が伊勢(伊勢神宮)の枕詞として使われている。ところが伊勢神宮が祭られるのは垂仁天皇の時代であり、当然「神風」が伊勢の枕詞に使われるのは垂仁天皇の時代以後である。
従って神武天皇は、垂仁天皇より後の時代の人物である。
・「神風の伊勢の海の 大石にや 這ひもとへる 細螺の 細螺の 吾子よ吾子よ 細螺のい這ひもとへり うちてしやまむ」
根拠その3
・神武は飛鳥の橿原宮で即位したとされており、神武一族の入植地の中心は飛鳥地域である。
当然、神武一族の陵墓も飛鳥地域に造られたが、飛鳥地域で古墳の建設が始まるのは6世紀後半からである。 根拠その4
・6世紀に任那が滅び、7世紀には百済が滅亡し、多数の難民が九州倭国へ押し寄せた。この人口圧力が東征の切っ掛けとなり、また天孫族の元と考えられる。
・・6世紀−7世紀初頭の「飛鳥時代」の近畿では北部九州より多くの寺院の痕跡がみられ北部九州より早く仏教が普及している。
これは、6世紀の神武東征により既に仏教を信仰していた天孫族(半島からの引揚者)が大勢近畿へ移住した結果だと考えられる。
・・坂上苅田麻呂は、高市郡の人口の8割‐9割は渡来人である七姓漢人であると述べている(七姓漢人#渡来伝承)。
8世紀の高市郡で応神天皇の時代に帰化した七姓漢人が多いのは、6世紀に神武と共に大勢の帰化人が飛鳥を含む高市郡に入植した結果だと考えられる。
・・『隋書俀国伝』に「竹斯国の東に秦王国があり、俀に附庸している」とある。筑紫国(九州倭国)の東に九州倭国に従う秦氏の国(渡来人の国=神武一族の国=日下)があったということだと考えられる。
・・「新撰姓氏録」によると平安時代になっても畿内5カ国の貴族の約30%は渡来系である。
・・天武朝では葬儀の際に和風諡名が奉られる慣わしが行われておらず、天武朝は渡来系であると考えられる。
根拠その2
・神武に続く欠史八代の時期が古墳時代後期から飛鳥時代であると考えられる。
根拠その5
・「日本」の名称の起源は神武等が征服した「日下」であるが、日本が「日本」と呼ばれるようになるのは天武の時代からである。
神武東征が6世紀だったからこそ天武が政権を盗る7世紀末まで日本が「日本」と呼ばれることはなかったのである。 4‐6世紀頃に畿内地方で巨大古墳を築いていたのは長髄彦など神武に討伐された豪族たちであると考えられる。
5世紀頃に近畿地方で巨大古墳が出現するのは、この時期に既に西方からの征服王朝が近畿地方にあり地元住民を奴隷として大量動員する力を持っていたからだと考えられる。
・弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸、弥生後期に近畿地方に西方からの進入に備えたとみられる「高地性集落」が存在し、九州勢の東進の跡が観て取れる。
・畿内では弥生時代の墳墓から鏡が全く出土しないが、古墳時代の古墳では多数鏡が出土し、文化的断絶がある。
神武紀に長髄彦の記述があり、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に高天原(九州)から天孫族として大和を征服していたところに、更に九州から神武がやって来たと考えられる。
・糸島地方、春日市などの古墳や沖ノ島などの北九州一帯からは多数の三種の神器が揃って出土しているが、近畿地方の古墳からは出土していない。
・長髄彦は神武東征軍を日下の戦いで撃破するほどの強力な軍団を擁しており、九州勢の東征の痕跡は、武器出土数に反映されるはずであるが、弥生時代においては武器出土数は、東に進めば進むほど減少していくので、九州勢の東征は、弥生時代ではない。
・4世紀‐5世紀になってやっと河内の古市古墳群、和泉の百舌鳥古墳群、大和の佐紀盾列古墳群と馬見古墳群などで多数の鉄製武器類を副葬した例が現れる[78]ので、これら4世紀‐5世紀の古墳が神武に対抗した長髄彦など豪族たちの墓であると考えられる。
畿内では4‐6世紀頃に巨大古墳が多数建設されている。もし、この時期に九州倭国の分家や代官、または臣従する豪族だったと考えられる神武一族が既に畿内を平定していたとするならば、九州倭国の権威を無視するような巨大古墳の建設をするはずが無い。
巨大古墳を建設したのは長髄彦など先住の九州倭国からは独立した勢力だったと考えられる。 『日本書紀』においてヤマト王権(天武朝)の系譜の天皇は、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の天皇(第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇)の9代と第40代天武天皇、
第41代持統天皇の2代を加えた計11代であり、間の第10代(崇神)から第39代(弘文)までの30代の天皇は九州倭国の系譜を挿入したものと考えられる。
つまり、天武の父はヒコオオビビ(第9代とされる開化天皇・彦大日日・日子大毘毘)、祖父はヒコクニクル(第8代とされる孝元天皇・彦国牽・日子国玖琉)、曾祖父はヒコフトニ(第7代とされる孝霊天皇・彦太瓊・日子賦斗邇)である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています