豊臣が滅んだのって… [無断転載禁止]©2ch.net
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結局誰が一番の戦犯なん?
直接滅ぼした家康?
最後まで出陣しなかった秀頼?
止められなかった淀君?大野治長?
主戦派の浪人たち? もともと連合政権みたいな性質で
脆弱な基盤だったんじゃないの
秀吉がたてられたのも
後見で一代限りのモノだったんじゃない?
二代目につなげるのに成功したのは家康
秀吉もさっさと二代目に継がせたかったのに
うまくいかなかったし秀頼は晩年の子で
死ぬときまだ小さくて無理だった 大阪の陣で浪人わんさか集めたら乗っ取られたと考えたら信繁とか逆に豊臣滅ぼした戦犯なんじゃ……と考えるのは穿ちすぎかなぁ? 徹頭徹尾信長を格下に見続けた挙げ句に滅亡した朝倉義景と、
同じように徳川に抗い続けた挙げ句滅亡した豊臣秀頼。
両者とも時流に逆らって、御家を滅ぼすような愚をした。 秀吉って、養子をたくさん取っていて、子ども好きでもあったイメージがあるのだけれど、
秀次の子たちとの交流があったっていう文献ってあるんでしょうか。
秀次自体が養子なので、義理の孫にあたるわけで、可愛がった逸話があっても不思議じゃ
ないと思うのですが。 当時の養子取りは子供が好きか嫌いかは全く関係ないんだが そもそも家康に関東八州を与えたから家康の力が増大した。
遠くに追いやりたい気持ちは解るが、有能な信頼出来る家臣を家康の背後に置いた方が良かった。
結局上杉にその役割が来て上手くいかなかったからなあ >>13
関八州の開発と北条の残党狩りで
にっちもさっちも行かなくなるのを期待してたのだろう。
佐々成政が肥後で失敗したように。
一方、秀吉は朝鮮征伐で豊臣の分母を大きくしようとした。
結果は関東支配は成功して、朝鮮征伐は失敗したので
ドツボにはまった。 関東はヨソ者の北条が、うるさ型の国人層をすでに掃討して
地ならししてくれた後だから、後任者はむしろ楽だろう
それくらい秀吉も分かっていたはずなので、佐々の肥後とは違うと思う >>13
秀吉は実妹を家康に正室としてやり
その死後は養女であり秀頼の叔母である江を家康の嫡子である秀忠にやり
家康・秀忠も秀吉生前は豊臣家一門のような顔をしていたから
裏切るとは思っていなかったのだろ
そもそも家康の裏切りを予測していたのならば
朝鮮出兵の動員力でもって全国の大名をかき集めて徳川征討に向かわせれば
家康に勝ち目はなかったぞ >>18
家康も名目がないのに「方広寺鐘銘事件」を作り上げて
豊臣家を滅ぼした
家康は小牧長久手の戦いでは大胆にも秀吉に刃を向けているのだし
口実などいくらでも >>1
滅びたのは秀頼と淀殿の問題
衰退したのは秀吉の問題 最大の戦犯は、黒田長政(あるいは父・如水も)。
小早川・吉川への工作、これが全てよ。
吉川広家は黒田に並ぶ戦犯扱いでも良いけれど。 >>22
黒田は早い時期から徳川に寝返っていたので、
「戦犯」じゃないだろう。 立花宗茂
自分が関ヶ原で西軍についたことを謀反と言う者らがいるがそれは違う。
関ヶ原で西軍についたのは豊臣家臣として忠節を貫いたからである。
豊臣家滅亡は、
故太閤殿下の常軌を逸した振る舞いによる家臣団の離反を招いた事、
秀頼公らの自業自得
で因果応報というものである。
今は徳川家にお仕えしている身であるから、どんな事があろうと忠節を曲げる事はない。 淀殿が迷走し、というのが定番だが今回は大蔵卿のババァが迷走して負けたな 昨日のドラマよく見てなかったが、大野道犬とか修理の前で
「大蔵卿のババア」呼ばわりしてなかったか? 本人の前では無かったかと。
キムタクが言ってたけど。 豊臣の血自体はどこかに残ってるの?
389 名前:日曜8時の名無しさん :2016/12/20(火) 09:16:21.13 ID:s8sgqtQH
>>386
側室の子供助命嘆願して
娘は鎌倉東慶寺の住持になるんだけどな
仏殿建立したり義理の娘との交流続けてたのに
ものすごく薄情なキャラにされてて可哀想だな千姫 これも秀頼が秀吉の誠の子であったらの話になるんだろうが… >>18
>>19
大義名分と言うのはいつの時代でも大切だよ。
あの戦国時代だって、それなりに大義名分を押し立てて
戦争をしている。 >>28
皇室に残ってるよ。
昭和天皇の母親の先祖の一人が豊臣秀次の弟とお江の間にできた娘。 >>19
家康は太閤に対しては忠実な臣下だからなあ
後付で滅ぼしておいた方がよかったとか言われても・・・
秀頼は一応家康に頭は下げたが臣下の礼は拒否してる あくまで現代視点だが、
秀吉:
・家康の関東移封自体はそんなに悪くなかった
・海外進出自体は愚策でもなかったけど、
「朝鮮の土地を広々支配する」
っていう構想がひどすぎる
船買ってたくさんこしらえて港町を拠点にしていけば・・・
・秀次事件。
秀頼・淀・牢人:
・二条城会見前に臣下の礼取っとけばよかった
「徳川様の天下のために働くため、
陣羽織、返していただきとうござる」
とでもいえば日本史の名場面となっただろう
その他:
・北条は早めに臣下の礼とって残ってほしかった
・小早川隆景が死んだ
・上杉と毛利の度胸がなかった、読み間違えた
・小早川秀秋 >>33
秀頼に関しては大阪から京都に移って
徳川家の誰かを大阪城代にして公家化してしまうてもあった。 信繁はじめ牢人たちって結局豊臣への忠義なんてなかったんだろな…まあ雇われ兵なんだから当たり前だけど。
軒を貸して母屋を取られるの典型だな。 例えば松平忠直を大阪城代にしたら、
家康は豊臣攻撃の名目を失ったまま寿命を迎え、
家康死後に徳川家の内紛がおこって豊臣が漁夫の利を得たかもしれない。 関ケ原で負けてから冬の陣・夏の陣で滅亡させられるまでの15年間、
豊臣さんちはどんな感じで過ごしてたのかな?
地方の一大名みたいな感じ? ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが[注釈 49]、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。
男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたとき秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。
やはり男色しなかったからだろう >>37
徳川秀忠の長女・千姫の婿だったわけだし
妻の筋から行っても徳川に代わる大名ではあっただろ
石高も関ヶ原後家康に強制没収されたとはいえ徳川に次ぐナンバー2
ただの地方大名ということはない 大阪城に行って色々思ったんだけど、
今の大阪城は秀吉時代の名残というのは完全に残ってないんですか? 残ってないでしょ、堀も徳川建て直し後のもんだし、城はコンクリートのレプリカのうえ徳川時代もんだし。
だから金集めてるんだろうけど。 今残っている徳川時代の大坂城の入り口に
千貫櫓という防御の建物があるが
石山本願寺時代から場所を変えていないらしい
石山本願寺を攻めた織田信長が
「あの櫓を落とした奴は千貫の価値がある」
といったことからの名とか 上町台地のスバラシイ立地に目を付けた秀吉が奪い取ったんやで
一代運の英雄で良かったやん ナポレオンを彷彿とさせる
ボケ始める前に、跡取り息子が一人前に采配できる様になってんと最低限、
終わりやで戦国の世は 采配できる息子が何人もおっても織田信長も織田の天下続けられへんかったのに
秀吉は奇形で、指が6本あった 信長にはサルと呼ばれたんじゃなくて、六つ目、と呼ばれてた
といわれてる、色々奇形で戦の天才だったんだろうが、種なしもその一環じゃないのかな
弟の秀長も娘一人?だか子が少ない 秀吉も信玄も滅ぼした敵将の娘が生んだ子供を後継ぎにして家臣が分裂し衰退して滅亡
秀吉の養子の中では秀康が抜群に優秀なので彼を後継ぎにすべきだった 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
2OP6N >>41
大坂城ちかくの下水道は豊臣時代そのままらしい
太閤下水とよばれる >>19
直接の大義名分は片桐追放
信雄の三家老成敗と同じで当時はそれだけで十分に開戦理由となった >>32
逆らわない限り当時の秀吉の個人権力としてむしろ家康が不可欠だったという事なんだよな
その辺りは晩年の毛沢東と周恩来の関係にも似てるが なんといっても、秀吉の子や親戚が少なかったことが大きい。
シングルマザー育ちだから、父親方の親戚は、ほぼ無し。
妻方の親戚がメインになっているが、秀次関係はまるごと処刑。
意外なことに、家康との親戚関係がすごく深い。妹婿にあたるわけだし、
浅井三姉妹は秀吉の養女となって、そのうち一人は家康の子のヨメへ。
家康の息子(次男)も秀吉の養子にした。
家康は豊臣家にとって筆頭の親戚。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
U3Y 秀次にそのまま継がせていれば、豊臣家中が割れることもなく、安泰だっただろう。
秀次のもとに一門や家臣団が団結していれば、簡単に倒されることはない。
秀次を五奉行と宇喜多秀家、小早川秀秋、安国寺恵瓊、小西行長が補佐する
体制を築いておけば、五大老とて滅多な動きはできない。 秀次粛清の後の豊臣家は完全に秀吉の個人商店
当然に秀吉が死ねば終わりの >>19
直接の開戦理由は片桐追放
当時はそれで十分に理由になった 秀吉のやってきたあれこれを考えるなら息子に報いが来たという印象 代々続く名家でもない一代成り上がりの豊臣に、
代々政権伝える芸当はムリだったんだろうな 秀次って母方の甥で父方の一族じゃなかったんだな
普通に木下家の一族だとばかり思ってた 秀吉的には、毛利は、大老輝元の跡を、秀長の娘の大善院(毛利秀元室)夫妻に、
大老小早川隆景の跡を小早川秀秋が継ぐことで豊臣化するはずだったんだろう。
徳川も、大老家康は妹婿で、秀忠は秀頼の叔母で秀勝の後家の江と婚姻。
秀頼と千姫が婚約。養子だった秀康もいる。ということで、豊臣化がある程度出来たと思っていたはず。
前田も、利家とは摩阿姫を側室としていて舅婿のような関係で、豪姫も養女。
嫡男利長室の永姫は、信長の娘なので、三の丸殿の姉妹。
宇喜多は、秀家も正室豪姫も秀吉の養子。秀家母の円融院も秀吉の側室的な良好な関係。
上杉だけが豊臣家とのめぼしい閨閥が無かった。 >>54
秀頼生まれた時点でどのみち崩壊だよ
秀吉が死んだら天下取りたい家康が秀頼に孫娘の千姫を嫁がせて
こっちが嫡流だと言って擁立し秀次を殺す
都合のいいところで秀頼放り出すか処刑して徳川の天下 秀次自害とか豊臣家の弱体化だろう
3代で終わった源氏も内紛だし
あと淀殿と秀頼が家康の口車にのって
寺社を再建しまくって秀吉の遺産の大半を使っちゃった
そのせいか近畿では豊臣家人気あるけどな 豊臣家が滅亡に至った諸悪の根源は
やっぱり秀吉じゃね?
大和大納言家と秀次をこの世から消し去っただけでなく、
豊臣の天下を強固なものにする制度を秀頼に残せなかったのが致命的。
これじゃ誰かに天下を奪ってくださいと言っているようなもんだわ。 結局頼りになる一門・譜代衆のいない家はもたない
それらが居たのに粛清して滅んだ源氏鎌倉将軍家と
草創期に南北朝動乱と観応の擾乱で揺れ続けたが
結局250年続いた足利将軍家との違いが証明している 小田原とか九戸とか和睦の約束を破って滅ぼしている以上は大坂の陣での徳川を非難する資格は無い 茶々が滅亡した浅井家出身で家臣縁戚がいなかったのも大きいと
黒田氏なんかは言ってるよね。
結果、片桐且元頼みになり豊臣家中から不満が噴出してああなったと。 豊臣秀長
前田利家
蒲生氏郷
小早川隆景
みんないなくなったら、そら動きやすいわな >>68
それはあまり関係ないんじゃない
よく言われてるけど浅井の血は茶々が産んだ豊臣秀頼にだけ流れているわけではなくて
江が産んだ徳川家光にも流れてるわけでどちらが勝っても浅井の女系は天下人になる
同じ両親を持つ浅井家の姉妹が豊臣と徳川に分かれているのだから
浅井家なら皆茶々に付いて忠義を尽くすというわけでもないと思う
茶々は最後まで叔父の織田有楽斎やら従兄の織田信雄を頼りに思う気持ちがあったけど
結局彼らは家康に翻弄されて大坂夏の陣の前に豊臣を出てしまったし 血縁というより、浅井家が秀吉政権下に大名として存続してたら多少違ってた可能性があるかも
って事じゃない? >>71
浅井家が残ってたとしても豊臣に付いたか徳川に付いたかは微妙でしょ
豊臣秀吉の母方親族で秀吉に幼い頃から可愛がられて重用された
福島正則や加藤清正すら関ケ原では家康に付いちゃうくらいだし
もともと側室になるのは実家が没落した名家の姫か譜代家臣の娘が多いので
浅井家が大名として存続なら譜代家臣を持たない秀吉の側室に茶々がなってた可能性は低いかな
それこそ妹の初のように近江の姻戚のところへ正室として嫁いでたんじゃないの 豊臣家が凋落した原因は色々あったと思うけれど、滅亡したのは大坂城を明け渡さなかったからだな。
大坂城に拠っている限り、天下は一つにならない。逆に出て行っていれば豊臣家という家は残った。
安土城は燃えてしまったけれどそういうのが残らなかったのは織田という「家」には幸いだったかも知れないね。
徳川家は、江戸城を明け渡したから、家は存続できた。 >>73
大坂城が陥落して徳川の手に落ちた後も
家康は秀頼の遺児を探し出して8歳の男児・国松を六条河原で処刑し
6歳の女児を出家させて根絶やしにした
豊臣も家は残っているでしょう
北政所の兄の家系が本姓豊臣、苗字木下で江戸時代も残っていた
秀吉の血は引いてないけど >>74
そんな屁理屈が出て来るとは思いませんでしたw
木下ならもう豊臣は残っていない。
根絶やしにしたのは大坂城に最後まで籠っていたから。
要は天下を窺う家としての「再興」を目論む考え方を豊臣関係者は根絶やし以外に止められないからで豊臣家の意志というだけではなかった。
逆に言えば、そこまで「根絶やし」のみに拘ったのなら、何故木下を根絶やしにしないのかという話になる。豊臣はもう残っていないという認識だからに他ならない。 要は「意思」と「行動」が大切。城から出て降るというのも「意思表明」、
豊臣を名乗らないというのも同じく意思表明です。もう担げない。
一旦意思表明したのに、後でそれに反して再興を目論むというのは武家社会では通用しないので。
本人であれ、周囲であれです。 >>4
信長家康みたいな子たくさんなら豊臣は続いた >>65
秀吉がたくさん子供作ってれば豊臣が勝ってた
側室たくさん居たのになぁ >>75
屁理屈じゃないだろ
大坂城を出たら家名だけ残ってどっかの旗本として残ってても意味がないのでは
徳川慶喜は江戸城を出たけど本人は財産没収、徳川家家督放棄で
慶喜の子孫ではないどっか遠い親戚が新たな徳川宗家になったよね 木下豊臣がダメなら羽柴豊臣が残ってればいいのかな? >>79
やっぱり秀吉の血筋じゃない寧々の親類なんだよ木下家は >>81
血筋重視なら秀頼が秀吉の血統上の子ではなかったら
秀頼の豊臣家が残っても秀吉の血が残ったことにならないということになる >>79
どっか遠い親戚とか、少しは調べようね。会津松平からですよ。
「豊臣が滅んだのって…」というのがスレタイだ。
政権が変わるのは歴史的にはよくあるが、滅んでしまうというのは平氏とか豊臣とか数が少ない。しかも伊勢平氏は男系も壇ノ浦以降も残った。
意味ないだろ、というのなら「豊臣が政権を失ったのって…」という別スレ立てて書けばいい。 徳川周辺って嘘ばかりだな
松元親氏
三河国賀茂郡松元郷を拠点に山賊・樵・山窩を従え三河平野に進出
後に松平を称す
山窩
昭和30年くらいまで山中に潜伏していた
狩猟・竹細工で生計をたてたり、人里を襲って物を盗み政府に従わない放浪者集団
弓馬術礼法小笠原流
足利義教の「御弓師」をつとめた京都小笠原氏小笠原持長の末裔小笠原稙盛が
1565年永禄の変で討ち死にしたドサクサにまぎれて
放浪中の小笠原長時と小笠原貞経がでっち上げた偽武家相伝
偽小笠原流は小池甚之丞、水島卜也を通じ全国に広まる
小笠原貞経が徳川秀忠の弓馬術礼法師範となったことで幕府公式の礼法とも呼ばれる >>83
だから周囲の加藤清正福島正則は徳川に味方したのかも知れないぞ
関ヶ原で豊臣が負ければどうなるかわからないほど馬鹿じゃなかったろ 秀吉と秀頼の骨は残ってないの?
DNA鑑定してほしいわ 秀吉はあると思うけど秀頼は爆死みたいなもんだから不可能だな、信長も骨などがないし同じ
仮に生存しててもどこに骨があるかわからない 結局は秀吉の死後の淀と北政所の確執が原因かと 北政所が淀と協力し合う仲なら関ヶ原で西軍に付く大名が圧倒的に多かっただろ
北政所が可愛がってた大名はことごとく東軍 >>89
加藤清正や福島正則は自分たちを朝鮮で酷い目に合わせ
自分は日本にいた石田三成がとにかく嫌いで
秀吉が死ぬとすぐ石田三成を殺害しようとしてるだろ
石田三成が実質的な主導者である西軍に就くことはあり得なかった
北政所が関ケ原でどちらかに肩入れした形跡はない
北政所は当時、秀吉が京都御所のすぐそばに建てた豊臣の城・京都新城にいたが、
東軍は北政所がいる京都新城をどさくさに紛れて壊し、北政所は転居を余儀なくされている
北政所が東軍だったために豊臣恩顧大名は東軍についたと言うなら
東軍にとって北政所の身の安全は最優先のはずなのに >>84
ここは豊臣スレだから無関係の徳川現当主の話題は避けただけなのに
「ググった俺、偉い!」みたいなバカが湧くよなw >>90
だから北政所は無事で天寿を全うしただろ
徳川に協力してなかったら無事じゃなかったろ >>91
あんな書き方したら、そりゃあバカが湧くだろ >>90
ただ家康と利家が秀吉死後に争っていた時は、
清正は利家派、福島は家康派に加担しているね
だから加藤福島の政治的スタンスは一体化されて考えられているが、両者には「温度差」があったとみるべき >>92
北政所が壊さないでと願ったのに家康は秀吉の墓も神社も壊しているだろ
だいたい関ケ原で家康に内通しなくても秀吉の妻たちはみんな生き残ってるだろ
淀殿は勝手に秀頼と一緒に自害しただけ
仮に捕らえられてても尼にさせられて終わり >>94
加藤清正は家康か利家かといわれれば利家ってだけだろ
しかし利家死後は三成など絶対にありえず家康一本化
福島も加藤も三成屋敷襲撃事件に参加した七大名に名を連ね
三成を殺害しようとしている
利家ではなく関ケ原で三成に協力するか否かだぞ?
三成に死んでほしかった福島や加藤が三成に協力するはずもない >>96
ただ清正は島津家の内紛に介入し、家康に叱責されて詫びを入れるなど独自の動きがある
そのため清正は上杉征伐の従軍を家康に許されなかった
一応関ヶ原では清正は毛利からの誘いを断って東軍に加わったけど、
本格的に清正が軍事行動を起こして小西行長が留守していた肥後宇土城を落としたのは関ヶ原の翌月
黒田如水同様に、東軍を装いながら中央政界の様子を注視していたように思う
だからバリバリ東軍の急先鋒だった福島とは温度差がある。 >>96
細川忠興は妻のガラシャを溺愛していたから、
本音では本能寺の変ではガラシャの父の明智光秀に加勢したかっただろう
でも忠興は妻への愛という「私情」で決断せず、
光秀には断固加担しないこととした 福島って秀吉と身内だったと思うが徳川に味方して最後は改易されたはず
黒田は息子がバリバリの徳川の味方だった 福島正則は豊臣の身内なのに徳川に味方したんだなぁ
どれだけ恩知らずのくずだろ
黒田官兵衛は息子が徳川側の娘と結婚して積極的に徳川についてたが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています