豊臣が滅んだのって… [無断転載禁止]©2ch.net
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>>19
直接の開戦理由は片桐追放
当時はそれで十分に理由になった 秀吉のやってきたあれこれを考えるなら息子に報いが来たという印象 代々続く名家でもない一代成り上がりの豊臣に、
代々政権伝える芸当はムリだったんだろうな 秀次って母方の甥で父方の一族じゃなかったんだな
普通に木下家の一族だとばかり思ってた 秀吉的には、毛利は、大老輝元の跡を、秀長の娘の大善院(毛利秀元室)夫妻に、
大老小早川隆景の跡を小早川秀秋が継ぐことで豊臣化するはずだったんだろう。
徳川も、大老家康は妹婿で、秀忠は秀頼の叔母で秀勝の後家の江と婚姻。
秀頼と千姫が婚約。養子だった秀康もいる。ということで、豊臣化がある程度出来たと思っていたはず。
前田も、利家とは摩阿姫を側室としていて舅婿のような関係で、豪姫も養女。
嫡男利長室の永姫は、信長の娘なので、三の丸殿の姉妹。
宇喜多は、秀家も正室豪姫も秀吉の養子。秀家母の円融院も秀吉の側室的な良好な関係。
上杉だけが豊臣家とのめぼしい閨閥が無かった。 >>54
秀頼生まれた時点でどのみち崩壊だよ
秀吉が死んだら天下取りたい家康が秀頼に孫娘の千姫を嫁がせて
こっちが嫡流だと言って擁立し秀次を殺す
都合のいいところで秀頼放り出すか処刑して徳川の天下 秀次自害とか豊臣家の弱体化だろう
3代で終わった源氏も内紛だし
あと淀殿と秀頼が家康の口車にのって
寺社を再建しまくって秀吉の遺産の大半を使っちゃった
そのせいか近畿では豊臣家人気あるけどな 豊臣家が滅亡に至った諸悪の根源は
やっぱり秀吉じゃね?
大和大納言家と秀次をこの世から消し去っただけでなく、
豊臣の天下を強固なものにする制度を秀頼に残せなかったのが致命的。
これじゃ誰かに天下を奪ってくださいと言っているようなもんだわ。 結局頼りになる一門・譜代衆のいない家はもたない
それらが居たのに粛清して滅んだ源氏鎌倉将軍家と
草創期に南北朝動乱と観応の擾乱で揺れ続けたが
結局250年続いた足利将軍家との違いが証明している 小田原とか九戸とか和睦の約束を破って滅ぼしている以上は大坂の陣での徳川を非難する資格は無い 茶々が滅亡した浅井家出身で家臣縁戚がいなかったのも大きいと
黒田氏なんかは言ってるよね。
結果、片桐且元頼みになり豊臣家中から不満が噴出してああなったと。 豊臣秀長
前田利家
蒲生氏郷
小早川隆景
みんないなくなったら、そら動きやすいわな >>68
それはあまり関係ないんじゃない
よく言われてるけど浅井の血は茶々が産んだ豊臣秀頼にだけ流れているわけではなくて
江が産んだ徳川家光にも流れてるわけでどちらが勝っても浅井の女系は天下人になる
同じ両親を持つ浅井家の姉妹が豊臣と徳川に分かれているのだから
浅井家なら皆茶々に付いて忠義を尽くすというわけでもないと思う
茶々は最後まで叔父の織田有楽斎やら従兄の織田信雄を頼りに思う気持ちがあったけど
結局彼らは家康に翻弄されて大坂夏の陣の前に豊臣を出てしまったし 血縁というより、浅井家が秀吉政権下に大名として存続してたら多少違ってた可能性があるかも
って事じゃない? >>71
浅井家が残ってたとしても豊臣に付いたか徳川に付いたかは微妙でしょ
豊臣秀吉の母方親族で秀吉に幼い頃から可愛がられて重用された
福島正則や加藤清正すら関ケ原では家康に付いちゃうくらいだし
もともと側室になるのは実家が没落した名家の姫か譜代家臣の娘が多いので
浅井家が大名として存続なら譜代家臣を持たない秀吉の側室に茶々がなってた可能性は低いかな
それこそ妹の初のように近江の姻戚のところへ正室として嫁いでたんじゃないの 豊臣家が凋落した原因は色々あったと思うけれど、滅亡したのは大坂城を明け渡さなかったからだな。
大坂城に拠っている限り、天下は一つにならない。逆に出て行っていれば豊臣家という家は残った。
安土城は燃えてしまったけれどそういうのが残らなかったのは織田という「家」には幸いだったかも知れないね。
徳川家は、江戸城を明け渡したから、家は存続できた。 >>73
大坂城が陥落して徳川の手に落ちた後も
家康は秀頼の遺児を探し出して8歳の男児・国松を六条河原で処刑し
6歳の女児を出家させて根絶やしにした
豊臣も家は残っているでしょう
北政所の兄の家系が本姓豊臣、苗字木下で江戸時代も残っていた
秀吉の血は引いてないけど >>74
そんな屁理屈が出て来るとは思いませんでしたw
木下ならもう豊臣は残っていない。
根絶やしにしたのは大坂城に最後まで籠っていたから。
要は天下を窺う家としての「再興」を目論む考え方を豊臣関係者は根絶やし以外に止められないからで豊臣家の意志というだけではなかった。
逆に言えば、そこまで「根絶やし」のみに拘ったのなら、何故木下を根絶やしにしないのかという話になる。豊臣はもう残っていないという認識だからに他ならない。 要は「意思」と「行動」が大切。城から出て降るというのも「意思表明」、
豊臣を名乗らないというのも同じく意思表明です。もう担げない。
一旦意思表明したのに、後でそれに反して再興を目論むというのは武家社会では通用しないので。
本人であれ、周囲であれです。 >>4
信長家康みたいな子たくさんなら豊臣は続いた >>65
秀吉がたくさん子供作ってれば豊臣が勝ってた
側室たくさん居たのになぁ >>75
屁理屈じゃないだろ
大坂城を出たら家名だけ残ってどっかの旗本として残ってても意味がないのでは
徳川慶喜は江戸城を出たけど本人は財産没収、徳川家家督放棄で
慶喜の子孫ではないどっか遠い親戚が新たな徳川宗家になったよね 木下豊臣がダメなら羽柴豊臣が残ってればいいのかな? >>79
やっぱり秀吉の血筋じゃない寧々の親類なんだよ木下家は >>81
血筋重視なら秀頼が秀吉の血統上の子ではなかったら
秀頼の豊臣家が残っても秀吉の血が残ったことにならないということになる >>79
どっか遠い親戚とか、少しは調べようね。会津松平からですよ。
「豊臣が滅んだのって…」というのがスレタイだ。
政権が変わるのは歴史的にはよくあるが、滅んでしまうというのは平氏とか豊臣とか数が少ない。しかも伊勢平氏は男系も壇ノ浦以降も残った。
意味ないだろ、というのなら「豊臣が政権を失ったのって…」という別スレ立てて書けばいい。 徳川周辺って嘘ばかりだな
松元親氏
三河国賀茂郡松元郷を拠点に山賊・樵・山窩を従え三河平野に進出
後に松平を称す
山窩
昭和30年くらいまで山中に潜伏していた
狩猟・竹細工で生計をたてたり、人里を襲って物を盗み政府に従わない放浪者集団
弓馬術礼法小笠原流
足利義教の「御弓師」をつとめた京都小笠原氏小笠原持長の末裔小笠原稙盛が
1565年永禄の変で討ち死にしたドサクサにまぎれて
放浪中の小笠原長時と小笠原貞経がでっち上げた偽武家相伝
偽小笠原流は小池甚之丞、水島卜也を通じ全国に広まる
小笠原貞経が徳川秀忠の弓馬術礼法師範となったことで幕府公式の礼法とも呼ばれる >>83
だから周囲の加藤清正福島正則は徳川に味方したのかも知れないぞ
関ヶ原で豊臣が負ければどうなるかわからないほど馬鹿じゃなかったろ 秀吉と秀頼の骨は残ってないの?
DNA鑑定してほしいわ 秀吉はあると思うけど秀頼は爆死みたいなもんだから不可能だな、信長も骨などがないし同じ
仮に生存しててもどこに骨があるかわからない 結局は秀吉の死後の淀と北政所の確執が原因かと 北政所が淀と協力し合う仲なら関ヶ原で西軍に付く大名が圧倒的に多かっただろ
北政所が可愛がってた大名はことごとく東軍 >>89
加藤清正や福島正則は自分たちを朝鮮で酷い目に合わせ
自分は日本にいた石田三成がとにかく嫌いで
秀吉が死ぬとすぐ石田三成を殺害しようとしてるだろ
石田三成が実質的な主導者である西軍に就くことはあり得なかった
北政所が関ケ原でどちらかに肩入れした形跡はない
北政所は当時、秀吉が京都御所のすぐそばに建てた豊臣の城・京都新城にいたが、
東軍は北政所がいる京都新城をどさくさに紛れて壊し、北政所は転居を余儀なくされている
北政所が東軍だったために豊臣恩顧大名は東軍についたと言うなら
東軍にとって北政所の身の安全は最優先のはずなのに >>84
ここは豊臣スレだから無関係の徳川現当主の話題は避けただけなのに
「ググった俺、偉い!」みたいなバカが湧くよなw >>90
だから北政所は無事で天寿を全うしただろ
徳川に協力してなかったら無事じゃなかったろ >>91
あんな書き方したら、そりゃあバカが湧くだろ >>90
ただ家康と利家が秀吉死後に争っていた時は、
清正は利家派、福島は家康派に加担しているね
だから加藤福島の政治的スタンスは一体化されて考えられているが、両者には「温度差」があったとみるべき >>92
北政所が壊さないでと願ったのに家康は秀吉の墓も神社も壊しているだろ
だいたい関ケ原で家康に内通しなくても秀吉の妻たちはみんな生き残ってるだろ
淀殿は勝手に秀頼と一緒に自害しただけ
仮に捕らえられてても尼にさせられて終わり >>94
加藤清正は家康か利家かといわれれば利家ってだけだろ
しかし利家死後は三成など絶対にありえず家康一本化
福島も加藤も三成屋敷襲撃事件に参加した七大名に名を連ね
三成を殺害しようとしている
利家ではなく関ケ原で三成に協力するか否かだぞ?
三成に死んでほしかった福島や加藤が三成に協力するはずもない >>96
ただ清正は島津家の内紛に介入し、家康に叱責されて詫びを入れるなど独自の動きがある
そのため清正は上杉征伐の従軍を家康に許されなかった
一応関ヶ原では清正は毛利からの誘いを断って東軍に加わったけど、
本格的に清正が軍事行動を起こして小西行長が留守していた肥後宇土城を落としたのは関ヶ原の翌月
黒田如水同様に、東軍を装いながら中央政界の様子を注視していたように思う
だからバリバリ東軍の急先鋒だった福島とは温度差がある。 >>96
細川忠興は妻のガラシャを溺愛していたから、
本音では本能寺の変ではガラシャの父の明智光秀に加勢したかっただろう
でも忠興は妻への愛という「私情」で決断せず、
光秀には断固加担しないこととした 福島って秀吉と身内だったと思うが徳川に味方して最後は改易されたはず
黒田は息子がバリバリの徳川の味方だった 福島正則は豊臣の身内なのに徳川に味方したんだなぁ
どれだけ恩知らずのくずだろ
黒田官兵衛は息子が徳川側の娘と結婚して積極的に徳川についてたが そもそも家康は秀吉の妹婿だからな。
青木家との繋がりが家康の外祖母も秀吉のおばもあるようでもともと遠縁ではあったとも。
あと、秀康は秀吉の養子。(お江も養女かも) >>97
加藤清正は本人の会津征討参加は認められなかったが
家康に懇願して家臣を同行させてもらっている
家康は関ケ原前に私婚を行い養女を諸大名に嫁がせているが
先室が亡くなっていた加藤清正も家康の養女を有難く受け入れ後室としている
そら九州地方の大名は加藤や黒田に限らず
中国地方に大領を持つ毛利の動向見てから動くだろ
家康の養女を有難くいただき東軍につきますといってはいたが
万が一西軍が勝ってしまったら毛利に恨みを持たれてもかなわない
だから家康の天下確定後に動いた、それは九州の大名はどこもそう
関ケ原で中央突破した島津ですら当主はどっちつかずで
あれは当主の弟が自己判断で勝手にやったことで俺は知らんと
関ケ原後に家康に返答してるからね 秀吉が信長家康並みに子供作ってれば滅びなかったろ
長浜時代に生まれた噂の子供を豊臣家に引き入れたり‥やり方はあったと思う >>98
三成を殺したいと言う話とガラシャに何の関係が?
本能寺を起こしたのは光秀であってガラシャではないじゃん
細川忠興は本能寺後にガラシャを幽閉し別居してこれ幸いと大勢の側室を作った
数年後、秀吉の忠告でガラシャの幽閉は解かれたが夫のところへ戻ってみると
それまでいなかった側室が大勢いて中にはガラシャの親戚に当たる明智の娘まで
明智の娘だから別居幽閉だったのならばなぜ親戚の娘を側室にしてよろしくやってる?
夫に絶望したガラシャは一夫一妻を旨とするキリスト教に入信した 忠臣の自分でも織田家の社稷を奪ったくらいだから、危険な外様大名を始末しなかったのは手抜かりだ
甥っ子などより危なそうな大名がけっこういたのだから >>105
家康の事?確かに家康対策は全くしないで秀吉は死んだ
家康はそういう対策は終わらせて死んだ
大きな違いだとは思う >>106
秀吉が生きてた時代、家康は秀吉の一番の身内だったんだよ
秀吉の妹婿となりこの弟家康がいる限り
殿下に二度と甲冑を着させませんと言って秀吉を喜ばせ
家康に嫁がせた妹の朝日姫が京へ逃げ帰って亡くなると
今度は秀頼の叔母の江を家康の跡取り秀忠と結婚させた
家康を危険視するどころかこの世で
自分の次に秀頼を大事に思っているのは家康だとして
家康を秀頼の一番の身内として待遇を引き上げ五大老筆頭にまでした
秀吉は外様の家康を誰よりも一番に信頼していた 秀吉による家康の関東移封は大優遇
冷遇説は江戸幕府によるプロパガンダ 秀吉の頭が耄碌せず最期まで全盛期のままでも同じ判断したんだろうか?
まあ全盛期の頭だったら家康を信用するしない以前に自分の天下は自分一代だということくらい理解してるかもしれんけど。 身分が低い秀吉は中国古典は勉強しないと思う
家康は頼朝の事や色々と勉強してたが >>110
甥で養子の秀次を殺さずに入れば
秀忠は28歳の若さで30人以上の側室と10人前後の子がおり(息子は4人程度いた)
長生きしていれば更に増えただろうし豊臣は盤石だった
そこへ秀吉に実子の秀頼が生まれた
源頼朝は実息子2人のために
将軍になる可能性がある弟たちをほとんど粛清した
結果、源氏将軍は3代で絶えた
源頼朝は50代前半で死んだのでまだボケてなかったが
それでもあの判断だから(息子のライバルになりそうな血縁者はすべて殺す)
秀吉でも分からん >>116
そりゃあそぅだろう
少し前まではガチで戦ってた相手だし、最大領土だし。 男には実の子供などいない それが当たり前なのに、実子を求めようとする
バカの見本だ 女の腹から出てきた生き物は、女の実子というだけ
そんなものに入れ込むことがバカげているんだよ
妻の産んだ子を、自分の血を分けた子供だと思い込んでいるバカもいっぱいいるけど 秀吉は無能なくせに野心の強いおねの甥っ子たちを信頼してなかった
むしろ控えめで有能な秀康と秀忠を秀頼の後見として頼っていた
家康は警戒していたが近々老衰で死ぬだろうと 小早川秀秋のことかw
秀頼が生まれたことで秀吉の養子である秀秋も扱いが格下げになった
秀吉は秀頼のライバルになりそうな身内を粛清してたから
秀秋が大封を持つようになったら秀頼から家督を奪うんじゃないかと怖かったんだよ
徳川なら家臣として秀頼に尽くしてくれると信じていた 確かに女が産んだ子供だが男の種がなければ生まれない
他人の男の種から生まれた子供が嫌いで虐待する男いるだろ
自分の好きな女が他の男の種で産んだ子供は嫌いな男は多い
それと同じで血の繋がりは男もこだわるだろ >>118
男に実の子供がいないとか言うの頭おかしい
女だけで子供はできないのに >>122
女は自分の股から出てきたから自分の子だとはっきりわかるが
男は女が「あなたの子供よ!」と言ったら信じるしかないって話だろ
秀頼に限らず他の連中だって自分の父親と血縁関係があるかどうかは
DNA鑑定しない限りは分からないとしか言いようがない >>123
だから秀吉も秀頼が自分の子供だと確信持てなかった
だから家康に対してそこまで強気で潰せなかったのかも
秀吉は家康に関東で大盤振る舞いだよな >>124
それだと秀次の件が説明できないけどなあ
秀次は秀吉の姉ともの子で秀吉の甥
家康などよりよっぽど近い秀吉の身内
しかし秀吉は秀頼を唯一の家督相続者とするために
秀次とその息子、秀次の男子を懐妊している可能性がある側室たちを
すべて殺した >>125
そんな秀吉が家康を退治しとかなかったのが謎だな >>126
家康のことは家臣として信用していたんだろ
豊臣家の家督相続権は持っていないから
秀次はすでに関白となっており秀頼と秀次の娘を婚約させ
将来は秀次に娘婿の秀頼に豊臣家家督を譲る約束させたが
秀次にはすでに数人の男子がいたし側室が50人近くいたため更に増えかねず
秀吉が死んだら譲らんだろうということで殺した >>127
家康のが人たらしだなぁ、福島正則と加藤清正と黒田官兵衛などの豊臣家臣も家康は取り込んでる >>126
秀吉から見ると既に関白・豊家氏長者の秀次と単なる源氏の家康を比べると秀次の方が遥かに危険だった。
家康が将軍になれるとは考えにくかった(この時点では)から、秀頼を邪険に扱うとも考えてなかったんだろう。
ところが、秀吉の死後朝廷が家康を将軍にしたから歯車が狂って秀頼は死んだ。
とどのつまり、秀吉が見誤ったのは家康じゃなくて朝廷だった。 秀吉はのし上がるのは天才的だったが
組織つくりがへたくそ過ぎた 一族のトップを経験しないまま国のトップになってしまったからねえ >>129
朝廷に拒否権はないだろう
家康を征夷大将軍にしないなら家康のいうことを聞く天皇に挿げ替えるだけ
実際、家康は秀吉が死ぬと秀吉の庇護を受けた後陽成天皇第一皇子の八条宮良仁親王を出家させ
強引に第三皇子の政仁親王を儲君に立てた(これにより後陽成天皇と不和になった)
政仁親王が即位して後水尾天皇となると家康の孫娘の徳川和子との婚礼を強引に取り決めた >>128
加藤も福島も黒田も家名を残すために家康についただけだろ
人として家康が好きだったとかはないと思う
加藤と福島は家康に味方して養女を娶るなどしたのにお家取り潰しになった
黒田は何とか江戸時代を乗り切ったが
明治になり明治天皇が家康が潰した秀吉を祀る豊国神社を再建せよと勅命を下すと
黒田と蜂須賀が発起人となって寄付を募り再建されたはず 徳川に大領を与えず
秀次も粛清しなければ
豊臣秀頼 222 関白
豊臣秀次 101 太閤
−−−
北条氏直 255
上杉景勝 120
徳川家康 119
毛利輝元 112
織田信雄 109
前田利長 83
島津義弘 61
伊達政宗 58
宇喜多秀家 57
佐竹義宣 54 >>134
北条氏直は最後まで秀吉への臣従はせずのらりくらりしてたから
小田原征討で討たれたのであって大名として存続で225万石も貰えないだろ
北条が真っ先に上洛して秀吉に積極的に臣従し小田原征討がなかったらだが
北条氏直は徳川家康の娘婿で家康の義理の息子になっていたからさすがに北条存続なら
姻戚関係にある北条+徳川で秀頼+秀次を超える370万石も与えるわけにいかない
北条幕府を開いてしまうからな >>132
秀吉が将軍になれなかったように、家康も又将軍にはなれないはずだったんや。
だから秀吉は家康が天下を握るには秀頼を奉じるしかない→家康に秀頼を託せば(例え見せかけでも)天下人になれる、と思ってたんや。
ところが朝廷は豊臣による関白独占を嫌って家康を天下人にすることにしたんや。
家康を将軍に、ってのは天皇ではなく朝廷が決めてる。朝廷の意思を秀吉が甘く見ていたとしか言えない。 いやだって家康が関白職を摂関家に戻しちゃったので、家康が関白にはなれんだろ
あと家康が1603年に将軍になったが、関白は九条兼孝
翌年の1604年に九条兼孝の子の幸家に、淀殿の意向で豊臣完子が嫁いでいる
江戸幕府成立後に諸大名の大坂登城が少なくなっていく中で、公家は大坂城のほうが江戸より近いこともあってか、熱心に大坂城登城が多いよ 朝廷が秀吉死後に家康を将軍にした
この時点で豊臣は勝ち目なかった 家康も当初自分が天下人になれるとは思ってなかったから諸大名にも融和的な姿勢で、五奉行からの詰問とかにも応じていた。
ところが朝廷から将軍の打診が来た途端に態度を変えて五奉行を蹴散らして指示を出し始めてる。
明らかに朝廷の力が歴史に作用してるわけで、秀吉が見落としていたところもあるだろうなぁ。 秀吉は朝廷から関白に任ぜられ、主家の織田家を官位で圧倒的に上回ることで、
なし崩し的に臣従させ、下克上に成功した
家康の場合も関白じゃなくて将軍だが、
同じようになし崩し的に主家の豊臣家を臣従させたかったと思うが、
淀殿が粘りをみせて豊臣家は臣従せず、戦で滅ぼすことになった
ただ豊臣家を滅ぼすことで、徳川が世の謗りを受けないように、徳川の天下が定着するまで10年以上戦をせずに待つことになった
家康も高齢化していたし、自分の存命中に天下統一できるか気が気じゃなかったろう >>136
秀吉が関白になった頃にはまだ足利義昭が征夷大将軍だったじゃん
豊臣の関白独占も何も豊臣秀次切腹以降
豊臣は関白の座についていないし
幼少の関白も過去にはいたにもかかわらず
秀頼を無理に関白にすることもなかった >>141
五摂家は秀吉が関白になるのは一時的な処置で、その後五摂家にまた返還すると思ってた(五摂家はこれを秀吉と約束してたって話もあるけどソースがわからん)みたいだから、
秀次が関白になった時点で秀吉アンチの感情を抱いていたと思うよ。秀吉は五摂家が秀吉、というか豊臣を嫌ってる事は感じていたはずだし、感じてなかったとしたら耄碌していたとしか…
朝廷からしたら秀頼が関白になることは五摂家が関白になれなくなることすら意味していたハズだから、何をしても妨害せんといかんかった。 >>142
すべては家康の言いなり
関ケ原後、家康が公家に摂関を返し、秀頼の関白就任を阻止した
家康が秀頼の関白就任を認めていればできなかったし
すべて家康次第 >>136 >>142
関ケ原で勝っても家康は天下を取れなかった
関白を豊臣家に奪われた朝廷が摂関の座を取り戻すために
家康にあなたに天下を治めていただきたいと征夷大将軍に指名したというのはなあw
家康はなりたくもない征夷大将軍に朝廷のお願いで嫌々なったのかw
しかも朝廷は家康と全然仲良くなかった
都の繁栄が江戸に取られてしまった上
天皇の禁裏御料も公家たちの知行も秀吉時代よりずっと下げられた
公家町の門には幕府軍が常駐して天皇と公家の行動をすべて監視
天皇は幕末まで在位中まったく内裏から出ることができなかった
家康に天下を与えた立場なのにw >>145
朝廷、つまり帝や公家からすると豊臣に天下とられるより家康に天下取ってもらった方が都合が良かった、ってだけヨ。
家康は確かに実力者だけど朝廷をどうこうする力は無いとは言わんが小さかったはずだし。
五摂家に関白が戻った九条の復帰も元を辿ると朝廷サイドの策略だしなぁ。
天下人目指して虎視眈々と豊臣政権を侵食してた家康に、朝廷は「はい、君だけで天下作れるようにしてあげるね」って将軍をくれた。
これで家康は豊臣政権に寄生する必要が無くなった。そして、その対価は豊臣を滅亡させることだった。 室町時代には公家でありながら、武家の将軍家に仕える昵近公家衆がいた
信長秀吉に仕える公家もいた、
秀頼に殉じた公家の持明院基久が有名
徳川にはそれがなかった
江戸と京都が遠いこともあるが、武家に扈従する公家という構図を宮中の天皇周辺が忌避したのかもしれない
先行研究では徳川と朝廷の対立に重きを置いているが、ここもポイントだろう 家康の動きを見てると、彼が何考えていたのかが朧げに分かる気がする。
1599年1月の時、家康は天下人になれるとは思ってなかった。だから豊臣政権を合議制にして、その中でイニシアチブを取る事を目指してた。
諸大名との婚姻関係や、利家なんかとの和睦もこのため。
ところが1599年の6月、朝廷から将軍の打診があった。これは最早豊臣の力無しに天下を握れることを意味していた。
これで家康は反徳川の連中を叩けば良くなり、楽なことになった、と。 >>149
いや秀吉はワンマンで豊臣政権を運営してきたが、
幼少の秀頼でそれは無理だし、秀次を粛清したから豊臣一門の後見人もいないから、
秀次死後に慌てて合議体制を泥縄式ながら整えた
でも家康が秀吉死後に牙を剥き出しにして、独断専行をはじめた
1599年3月に前田利家が亡くなって石田三成が失脚すると、もはや家康を抑えられる大名はいなくなった 前田利家が生きていた時は四大老五奉行の9人が、家康を弾劾できたが、
利家の死去と三成の失脚で9人の連合が崩壊した >>150
死後すぐ、とは言い難いよ。少なくとも3月26日までは家康は利家や五奉行衆とは事を荒立てたくは無い…って振舞ってるからね。
家康が態度を変えたのは利家が死んだから、ってよりも朝廷からの将軍打診で最早豊臣を気にしなくて良くなったって事が大きいと思うな。
仮に利家が生きていても、家康が将軍になれば利家は家康に従うかさもなくば逆らって死ぬかの選択肢しかなくなるわけだし。 関ヶ原の前に朝廷工作で家康が将軍になっても、天下は従わないよ
むしろ反徳川の大義名分になるだけ >>143 >>148
「なるほどな」って自分でつけてるよな >>146
後陽成天皇は秀吉に神号出してるし豊臣を滅ぼす気なんてなかったぞ
関白は豊臣でも朝政はそのままだったし
だいたい家康だって公家がもっていた源氏長者を奪っている
家康は勝手に武家官位作って独自の太政大臣に就任したが
それって幕府はこっちで勝手に将軍が官位発行しますので
朝廷要らないよって話だし >>155
定員数に限度がある朝廷の官位に武家と公家がいては人数オーバーになって面倒だから、武家官位の存在は公家にとっても都合がよかった
幕府としても諸侯の官位私称は抑えたかったし、公家との摩擦も防げるし、武家官位は一石二鳥 >>157
家康がありがたくもかたじけなく征夷大将軍に任じられたなら
もっと朝廷にお伺い立てて下手にでるものだろ
関ケ原の戦いで全国の大名を支配下に置いた家康が
征夷大将軍になりたいなんて夢にも口に出せず
朝廷の申すがままに豊臣の天下だというなら秀頼公をお支えするつもりだったのに
朝廷が豊臣嫌いだから家康に天下をやるといったために
朝廷への忠義のために征夷大将軍になってやったとかw 朝廷が困ったのは全国の諸侯が江戸へ参上して豊臣の実態が大坂の一大名で孤立していても、京都↔大坂が京都↔江戸よりも近すぎて、戦になったら豊臣軍が一時的でも京都を制圧できそうということ
だから朝廷も、江戸時代に入っても豊臣を重んじる態度を見せる必要があった >>158
秀吉が死んだ段階では、家康単独では天下人になれないのは明らかだった。家康は将軍にも関白にもなれないからね。
だから秀頼を名目上トップにして、実権は自分が握るっていう得宗政治に似た政治形態を目指してた。それが徳川と諸大名の婚姻。
秀吉も多分死ぬ時に家康ならそうするだろうと踏んで家康に秀頼を託したわけ。秀頼が死んだら家康は諸大名とまた戦国時代の泥沼の戦争しないといけない。
ところが、朝廷から家康を将軍にするという打診がきた。
実力のある家康に、権威ある将軍職があれば家康単独の天下を作れる。
ここで、秀吉の目論見はつゆと消えた。 >>155
家康は別に源氏長者を奪っては居ないぞ。ちゃんと源氏長者を引き継いでいるからね。(それが公家の本心だったかは別として)
秀吉がしくじったのは、豊臣を強引に作ったもんだから、豊氏長者の財産が無かったことよ。
それを五摂家の藤氏長者で補ったもんだから、五摂家からの恨みを買った。
秀次が死んだことや、豊臣の滅亡を春日大社の神罰っていう人がいたけど、これも藤氏長者と関わりがあるらしいし… 秀吉が死ぬ前に何で秀頼を関白にしなかったのかな?
それまで子供が関白になった例は、なかったかもしれんが
平安時代までの征夷大将軍で、子供はいなかったろう
鎌倉時代になり本来の職務から、武家の棟梁となり4代からは京から子供連れて来た
これと同じように強引に子供関白すれば良かったと思う
関白には子供では無理な職務があるとしても、律令政治はとっくに崩壊しており
権力の力で何とか新しい朝廷の常識を
秀頼が関白だったとしても、関ケ原は避けられないだろう
戦後関東に徳川将軍、畿内に豊臣関白
この2つの権威が並立したら、また違う豊臣有利な歴史があったと思う >>162
秀吉は信長に仕えた頃の頭の切れは消えてたな、色々な意味で >>161
五摂家が江戸時代に秀頼と対立していたとは聞いたこともない
むしろ諸侯が秀頼から離反する中で比較的最後まで秀頼と親交を持っていたほうだろう あと家康が関ヶ原の前に朝廷から将軍打診があったという明確なソースあるの?
公家の一人がご機嫌取りに言ったとかじゃなくて 1599年6月に、源氏長者久我氏に醜聞があって当主敦道、その息子通世が後陽成天皇の怒りを買って追放されてる。
家康が源氏で最高官位に居ながら源氏長者で無かったのは久我氏の力によるものだから、
1599年6月の時点で家康になんらかの打診が行ってるのは間違いない。
そして1599年6月以降、家康は
1 諸大名に帰国を勧める
2 秀頼に執政を宣言
3 家康暗殺事件に関与した大名の処分
と今までの態度をマルっと変えてる。
つまり「もう豊臣派にどう思われても関係ない」っていう家康の開き直りであって、
それが将軍就任内定に由来していてもおかしくはないと思う。 その程度のソースで1599年6月に朝廷が家康に将軍職を打診したに違いないと言われても困る
まだ関白職だって豊臣家に遠慮して空位にしたままにしている朝廷が、1599年6月に家康に将軍職打診って >>166
久我氏追放に家康が暗躍した可能性はないのかな?
秀吉死後、関ケ原前から家康が朝廷に将軍になるよう動き出した
朝廷から積極的に動くより、家康から積極的に動く方が
自然に感じるけどな
秀吉関白就任も、朝廷からでなく秀吉の方から動いたはずだし >>167
既に朝廷は秀吉が死んだことで暗躍を始めてるよ
1598年には右大臣に菊亭晴季が復帰してる。
これは秀吉の遺命を反故にするための策と言われるけど…
少なくとも、秀吉に尽くし、娘を秀次の嫁にしたにも関わらず秀吉の都合で娘を殺され、それどころか墓すら作られず、挙げ句の果てに流罪にされた菊亭晴季が右大臣に戻ってくる…
ってのは、朝廷が「もう豊臣の時代じゃないよ」って言っているに等しいと思うな。 >>169
そこは何も証拠が無いから完全に憶測になるね。
家康には伊賀衆・甲賀衆・裏柳生と諜報部が有名だからそこが何らかの工作をしたとしてもおかしくない。
ただ、こうした裏工作はいっちゃ悪いが東侍の家康より貴族の連中が得意としてると思う。
クッソ困ったことに、久我氏は秀吉と結びついて美味しい目にあった貴族なので他の貴族からの妬み嫉みを買っていたのは間違いない。
豊臣を潰したい勢力、特に五摂家からすれば潰しても心は痛まないからな… >>171
戦国時代貧乏だった朝廷が、秀吉の関白就任で生活潤ったが
公家の中でも豊臣と結び付き大いに潤った公家と、あまりそうでない公家に分かれたと思う
秀吉死後、幾多の武家が徳川に近づいたよに
後者の公家で徳川に近づいたのいたと思う
朝廷内の一部の徳川寄りの公家が、秀吉死後から家康の将軍就任に暗躍した
この可能性はあるやろね
当時の朝廷内の実情詳しくないので、どの公家が徳川寄りになるんかな? 裏柳生って・・
調略を得意としてきた家康だから裏工作は慣れているだろうけど、
朝廷を過大評価しすぎてると思うよ
一部の公家が家康に接近してきた可能性はあると思うが、
さすがに当時の朝廷が秀吉死後の政局の中で能動的に行動し、
まして1599年時点で朝廷が自発的に家康に将軍職を打診するという高度な政治的行動をするとは思えない 秀吉もそう思ってたんだろうね。
それが「豊臣が滅んだ理由」だと思う。
朝廷が、自発的に動くはずが無い…と思っていた
ところが違った。朝廷は朝廷で、自分たちの事を考えて行動する。
秀吉は確かに晩年耄碌していたかもしれないけど、家康が天下を狙ってる事は分かっていたと思う
それでも家康に秀頼を託したのは、家康単独では天下人になれないと踏んでいたから。
実際、家康は他大名と婚姻関係を通じてイニシアチブを取ろうとしていた。
逆に言えば、この時の家康には将軍になれるかは懐疑的だったはず。
更に、朝廷からすると豊臣に天下人になってほしくない。公家社会を利用する豊臣より、それから独立する徳川の方が都合が良い。
朝廷が家康の為に何らかの活動をした可能性は高いし、それによって秀吉の計画が瓦解したというのも割とあり得る話だと思う。
少なくとも、耄碌しきって支離滅裂になってた…ってよりは… 家康が会津征伐で京を留守にしたが、朝廷を放置したまま
京を制圧した西軍も朝廷を放置
別に朝廷が秀吉死後の豊臣政権の政局に関係してない現れ
朝廷は武家政権の言いなりで、自分から一方に加担しないよ
明応の政変でも公家がそういって、天皇を諌めた そこは微妙な話なんじゃない。
余程の場合を除いて、朝廷を武力攻撃すれば危険な結果を招く事はどの時代でもわかりきってた事だろうし。
家康からも豊臣からも、相手が朝廷を攻撃すればそのことを以て朝敵討伐すれば良くなるので大変都合が良い。
それだけじゃないの?
朝廷は戦国時代影が薄くなるけど、決して傍役じゃない。
朝廷は独自の組織と理念を持って行動する。
朝廷が家康が好きだったとか、そうした関係ではなくて単純に朝廷にとって豊臣は不都合な存在、徳川は都合の良い存在、それだけ。
関白を独占しかねない豊臣を、どうやって滅亡させるか?っていう絵図は朝廷も引いていたと思う
もちろん、自分たちの手は一切汚さず、徳川にやらせる腹積りでね。
秀吉も、朝廷がそこまで動くとは思ってなかったろうし、家康も思ってなかったかもしれない。 君独自の持論は結構だが、根拠は弱いね
朝廷が1599年時点で家康に将軍を打診したという証拠も、秀吉死後の政局で豊臣政権を不都合な存在として家康の天下統一を待望していたという一次史料もないし、まして家康が朝廷から将軍職を打診されて、天下取りに奔走したなんて徳川側の史料にもないし 信長に任命する官位は太政大臣か関白か将軍かという三職推任問題があるように、
朝廷は武家の天下人が関白になることは、信長時代から想定されていたこと
豊臣家が関白を世襲したことで、豊臣政権を朝廷が不都合な存在とみなし、家康の天下取りを待望していたとは、それだけでは言えない
公家の日記か書簡で、そういうことを言っているものがあれば別だが >>176
>関白を独占しかねない豊臣を、どうやって滅亡させるか?
秀吉死後の朝廷内で、こんな考えを持った公家はいたかもしれないが一部の公家でしょ
戦国時代の朝廷は、天皇即位するにも金が足りない、公家は地方の戦国大名に娘を嫁がせ報酬を得る
こんな状況だったのが豊臣政権のおかげで金は潤った
徳川の天下となれば、また元の貧乏暮らしになるかもしれない
こう思う公家の方が多かったと思う
豊臣政権で日の目を見なかった一部の公家は、上記のような豊臣滅亡を期待したかもしれない
朝廷全体の意見と考えるのは強引な解釈だと思う
戦国時代は天皇より足利将軍の方が権威は上だったと思う
信長上洛の際に義昭奉じなければ、あんな簡単に上洛は無理でしょ
織田徳川浅井連合軍だけでは一進一退で失敗だったかも?
足利義昭の存在で集まった武将がやたら多かったらしい
それで義昭も勘違いし、信長に反抗したんだろう
集まった武将も足利に、織田という大勢力がプラスして集まったのを義昭は見抜けなかった
尊氏の頃から、足利が立てばやたら兵が集まってきたな >>179
本来なら一部の公家…なんだが、豊臣に関しては朝廷の半数以上が敵意を持ってた可能性がある。
秀吉が関白を独占して、公家の官位と武家の官位を組み合わせた事に端を発するんだが、
これでただでさえ少ない出世の席が減った。
さらに、秀吉の最大の敵でもある五摂家が大臣以上につけなかった。
これが何を意味するか?
必然、五摂家クラスが権大納言以下で渋滞する。
そうすると本来権大納言クラスだった中流公家がそこにつけない。
そうなると…という負の循環が出来ていたらしいからねぇ…
だから朝廷全体として、豊臣の関白就任妨害の意思を持ってた可能性は否めない。
家康が武家官位を創設したのも、ここらへんの事情を汲んだかららしいし。 家康の行動を見れば大体予想は出来るんじゃない?
秀吉が死んだ時点で、家康は自分が天下人になれるとは思ってなかった。
だから秀頼(というか豊臣)を傀儡にして、実権は自分が握るという得宗政治に似た政治体制を作ろうとしていた。
それが諸大名との婚姻で、これで来るべき合議制政治でのイニシアチブをとる予定だった。
ところがこれが糾弾されると家康は異心無いという書状を連発する。これも自分単独では天下人にはなれないという脆弱な立場が現れてる。
ところが、久我氏が没落、家康に源氏長者・将軍が内定する。
つまり家康は単独で天下人になれる。
だとしたらもう合議制も、豊臣も必要無い。
と、なれば五奉行どころか五大老すら不要。
そこで態度を豹変させて刃向かって来そうな奴を次々と…
秀吉が死んだ時点で将軍内定していたとも思えないし、将軍内定が分からんで見切り発車したとも思えん。
家康自身にとっても望外の出来事が、そして秀吉にとっては慮外の出来事が起きていたんじゃないかな。 >>172−>>181
家康が征夷大将軍になるずっと前から、
秀吉が死んだ直後から家康は秀吉が決めた五大老五奉行制度に従ってないじゃん
秀吉が禁じていた私婚を行い各大名家に養女を送り込んで
諸大名を義理の息子として従わせると
まずは家康にとって目障りな五大老としては徳川に次ぐ立場の前田征討を行った
前田は生母を家康の人質にするからどうか家来にしてほしいと臣従
家康は戦わずにして前田を豊臣ではなく徳川の直臣とし
秀忠の娘を跡取りにくれてやった
続いて残る五大老、上杉にも上杉征討を行い
家康に人質を出して徳川の直臣になるよう求めた
そして始まった関ケ原の戦い
関ケ原の戦い後、家康はすべての諸大名から徳川への臣従の誓いをさせ
豊臣ではなく徳川の直臣とした >>182
同意
朝廷陰謀説は本能寺の変にも言えるが、結論ありきで客観的な史料的裏付けもなくてお腹いっぱい 秀吉が死んだ時点で家康が天下を目指す見切り発車の訳がない、1599年6月に朝廷が家康に将軍職を打診したから、家康は天下取りを目指せた?
普通に秀吉が危篤になってから家康は天下取りを考えてたと思うよ
家康に接近しつつあった黒田官兵衛は秀吉死後に早々に乱が起こると予想していた >>184
黒田官兵衛は抜かりなかったなすぐ徳川に乗り換えた
蜂須賀家と福島正則もだが >>182
上でもそう書いてない?
家康は秀吉が死んだ段階では、「単独で」天下人になれるとは思ってなかった。
だから秀頼を飾りのトップにして実権は五大老が握る。そして五大老のトップに徳川が立つ。
という考えでいた。
ところがこれは朝廷には都合が悪い。
若い秀頼が関白になれば、二度と五摂家には関白の座が回ってこないだろうから。
だから朝廷は、家康を将軍にして、単独で天下人になれるようにしてやった。
つまり、朝廷は家康の手段を簡単にしてやった。
家康はこんな事が起きるとは思ってなかったし、
秀吉は尚更思ってなかった。 淀殿が時世を読めなかったから
豊臣秀頼は真田幸村と一緒に鹿児島に逃げ島津家がかくまった
当時の鹿児島は独立国家みたいなもんだから幕府も手出しできなかった
鹿児島谷山には大男伝説があるらしい
秀頼も197cmあったしな まぁ民間伝承ってのはそんなものだから…
ただかなり薄いけどね。
いかに島津とはいえ幕府に目をつけられたくは無かったはずだし 個人的に豊臣を滅ぼしたのは織田だと思う。
強硬派を焚き付けて戦争起こしといて、挙句サボタージュからの織田家復興とか割とエゲツないことしてる。 >>192
そう考えると大坂の陣って壮大な織田の復讐劇な気がしてきて…結構面白い >>193
織田は大坂冬の陣までは豊臣陣営にいただろう
織田は淀殿の母方一族であったため
織田有楽斎は秀吉存命中から淀殿の後見人となっていたし
織田信雄を豊臣方の総大将とする案があったはず
家康の翻弄により夏の陣までに織田は大坂城から出てしまったが
家康は織田一門を冷遇
豊臣時代のほうが織田は優遇されてた >>194
まぁ青森にもイエスキリストの墓あるしな… >>196
割と織田はやってることひっどいぞ。
冬の陣だと総大将にさせろとゴネて、
受け入れられないと戦闘放棄して皆戦ってる最中女に腰を揉ませてたとか。
そもそも織田が秀頼焚きつけたようなもんなのに… >>195
国松は家康に今までやってきた豊臣秀吉の多き罪を糾弾されながら
家康自らの手で六条河原にて首を切り落とされてる >>197
記念碑的な墓ならどこにあってもおかしくはない >>198
淀殿は自身の外戚として織田を頼りに思っていたが
さすがに大坂の役の頃になると完全に徳川の世で
豊臣に期待されるだけ重荷だろ
結局自身で家康に内通した >>201
織田信雄は初めっから穏便派というか親徳川っぽいんだよな。
有楽斎とその息子たちは豊臣をダシに使って織田家復興を考えてた感じっぽい。 >>202
織田信雄は小牧・長久手で家康と組みながら
自分だけさっさと秀吉と和議を結んだし親徳川というわけではない
秀吉も家康ももともとは織田の家来みたいなものだから
自分を担いでくれるならどっちでも良かった
どちらもうまく利用しようと思って失敗した
織田幽楽斎は秀吉死去直後の利家VS家康では家康に参じ関ケ原でも東軍
娘は家康の孫に嫁いでいる
信長の異母弟で嫡流ではないため織田家を背負って立つ立場にない >>203
片桐且元の話や慶元記だったかだと、大坂方の片桐且元暗殺計画を且元に教えたのは信雄なんだよな。秀頼の事をどう考えていたかわからないけど、少なくとも大坂の陣以前では戦争には反対してたっぽい(秀頼が且元討伐の軍を挙げたから戦争になったけど)
有楽斎と愉快な仲間たちは戦争には賛成してたけど、オレを総大将にしろと言い出して受け入れられないと戦闘放棄したらしいのでかなり立場が特殊だと思う。
豊臣を上手く使って織田家に都合のいい事態を起こそうとしてたのは間違いないネ。 >>204
それはすでに家康に内通してたからだろ
家康に豊臣家から片桐且元を引き離すよう命じられて実行しただけ
この頃になると信雄は家康の手先
その証拠に関ケ原後に家康から功労のために5万石貰って藩主になっている
片桐且元を追放して自分が豊臣家総大将として家康と戦うつもりだったなら
この厚遇はない
大坂の役後は斬首だ >>205
内通してた証拠ってのはあるのかな?
そもそも片桐且元を豊臣から離すってのもイマイチピンと来ないし…
徳川からすると、片桐且元が豊臣から居なくなる方がダメージが大きいんじゃない?豊臣でヘイト買ってた執事が居なくなるわけじゃろ?
それに信雄が既に徳川と繋がってたとすると、且元襲撃計画を漏らすかな?
且元襲撃計画は「且元を殺して徳川と決戦」するためなんだから、徳川からすれば是非且元殺してください、ってもんじゃない?
偶然秀頼が且元を討伐しようとしてくれたから戦争になったけど、秀頼が豊臣強硬派を処罰してたら戦争の大義名分が無くなるところだったわけだし… >>207
何もしないことで豊臣を滅ぼしたんやで。
織田左門とかはバリバリの右派で、徳川との決戦を叫んでたくせにいざ戦争になると一切戦わないで終戦。
秀頼が切腹して果ててる頃には茶人として大成してましたとさ、って酷いと思わんか? >>206
片桐且元はもともと家康と大変親しい
大坂屋敷を持たない家康のために自邸を提供して宿泊させたし
関ケ原後は自分の娘を家康の人質に出した
二条城会見でも秀頼を連れて来いという家康の命令に従うべく淀殿を説得
片桐且元が豊臣に仕えながら豊臣方からヘイトされていたのは
家康と親しすぎるからだからな?
淀殿を家康の人質に出せと言ってたのだからそりゃ嫌われる >>206
「オレを総大将にしろと言い出して受け入れられないと戦闘放棄した」
信雄が豊臣方総大将に自分から立候補したなんていう史料があったっけ?
家康への協力なしに大坂の役後急に大名に取り立てられることもありえない >>210
織田信雄に関しては秀頼が総大将を任せたけど信雄はその場では受けておきながら大坂城を脱出したって話はある。
戦闘放棄したのは織田有楽斎の子供織田左門。
慶元記なんかによると、大坂城要の南面を担当しておきながら銃撃を禁止したり、戦闘の最中風邪をひいたと言って女に腰を揉ませてた(意味深)とされてる。
織田といえばかなりのネームバリューがある一族で、それが徳川についたとなると大名格復帰はそんなにおかしくないと思う。
ただどんな協力かはわからん。 >>209
まぁ片桐且元は徳川家臣の一面もあったらしいしな。そもそも秀頼執事の職は家康からの命令だったらしいし。
問題は、家康は兎も角徳川は豊臣を滅ぼしたかったはずで、そこに豊臣家臣でもある且元の命を秤にかける余地があったかってところよ。
戦争したいなら徳川家臣・片桐且元は死んでるのが一番都合が良い。
どうあれ秀頼の責任になるし、少し力で押せば秀頼が且元を攻撃、ひいては徳川への反逆とできるから。
信雄は且元を逃したわけだが、これは徳川にとっては都合が悪かったはずなんだ。
もし秀頼に政治力があったら、強硬派を粛清して戦争の火種が消えていたわけだし。
家康の事は好きだけど、「且元が死んじゃダメでしょ」って言い出すほど徳川が優しかったとは思えないんだ。
むしろ「天下のため、その命無駄にはせんぞ」って平気で見殺しにしてると思うのよね。 とは言っても、織田と徳川の間で何らかの密約があってもおかしくは無いと思う。
大坂城には徳川方のスパイが多数入っていた可能性があるけど、織田クラスの武将を押さえておくのは戦略的に重要だったろうし。
織田としても秀吉なんてオレの親父の草履取りだったんだぜ!って思っていても不思議じゃないしな。
豊臣と徳川で徳川をとってもそんなにおかしくはないか。 >>212
豊臣秀頼は片桐且元を殺すつもりだったというのがそもそもデマだろ
家康の命令を受けた信雄は片桐且元に嘘を言って大坂城から追い出し
自分も大坂城から出た
家康はとにかく豊臣を滅ぼしたかったが
70過ぎた高齢で大坂まで行ってひと戦するよりも
願わくば秀頼のほうから降伏して大坂城から出てきてもらったほうが有難い
出てきても織田秀信みたいに高野山追放だろうがな
片桐と信雄追放で降伏を狙ったとみるべき >>214
資料に嘘を書かれているなら兎も角、且元暗殺計画は存在しただろうし、秀頼が且元討伐の軍を挙げてる事も確かっぽいのでこれを否定するとなると考古学的研究をせんといかん。そんな知識は私には無いです…
家康が秀頼降伏を願ってたことは有り得るけど、且元と信雄が退出することでそれが成るかって言うと微妙じゃない?
大坂城の2/3の兵士が退出!とかなら秀頼も諦めるだろうけど、親徳川派2人が出てったくらいでは…
ただ、凄い陰謀論だが、徳川の手が両方に伸びていたなら有り得る。
つまり且元(親徳川)が融和策をぶち上げ、
それを織田(徳川と内通)が糾弾して秀頼を焚きつける。
且元を流したのは死体を隠されると困るから(表立って徳川が且元の状況を知らなかった?)だとすれば割と辻褄は合うかも知れない。
こうすれば秀頼がどう打っても詰んでる。
攻めれば戦争、退けば降伏。 >>215
秀頼による且元暗殺計画を記している史料がそもそも眉唾物だと思うが
そもそも方広寺鐘銘事件で且元と大蔵卿局に全く正反対の態度をとり
豊臣家を疑心暗鬼に陥らせたのは家康の策略だし
淀殿が且元よりも自身の乳母である大蔵卿局を信じるのは自然な流れ
淀殿は大蔵卿局を信じて家康は全然怒っておらず戦になるはずないと思っており
そもそも信雄が総大将に立候補するも何もなかった >>216
ちゃうちゃう。
秀頼による暗殺計画じゃないぞ。
元々は大野修理や木村長門等豊臣家強硬派が計画していたのが片桐且元暗殺計画。
それを聞きつけた織田信雄が、密かに且元に知らせた。片桐家秘記なんかに書いてあるらしい。
問題は、その後秀頼が片桐且元を攻撃する挙に出たことなんじゃ。本来なら大野等強硬派を処罰するなりすべきところを、その行動に乗ってしまった。
方広寺の件は色々言われてるし、確かに家康上手いなーともおもうが、
だが考えてみると取次役として職務を遂行してる且元、上に言われて来ただけの大蔵卿局で同じ対応する方がおかしくない?
大蔵卿局に何を言っても、別に大蔵卿局に権力があるわけでもないわけで、事態は好転しないわけじゃろ?
常識的に考えても、女の方にはなぁなぁに言って本題は取次役に叩きつけるに決まっとるやん。
問題は、豊臣家がそうした家康の対応で謂わば独り相撲しちまったことよ。
大蔵卿局が相手にされてない、って気付いていれば片桐の方が徳川の真意だと知っていたはず。 @冬の陣前から戦争反対
片桐且元
清正利長浅野親子など親豊臣大名が死に、死にかけ家康は健在
こんなタイミングで徳川と戦するなんて馬鹿げてる
現在の徳川の実力を城内で最も知ってたからこそ片桐は反対
A冬の陣前は戦争賛成だったが、大名誰一人味方せずで反対
織田有楽斎
有楽斎の息子長頼は使者として大名の元へ出向いたらしく
有楽親子は最初は賛成だったんだろう
しかし冬の陣始まってからの行動を考えると
B堀を埋まられ戦えないから戦争反対
大野治長
考えを転向したら弟に襲撃される
Cどんな状況であろうと滅亡するまで戦うぞ
木村重成、大野弟、浪人集
戦争反対派は3段階で分かれると思うが
織田信雄は@かな、秀頼はCかな、淀殿はBかな マジでわからんのは秀頼の立場。
秀頼事記だとか慶元記だとかの話を組み合わせると、
且元が徳川に内通してると疑う→戦争→徳川の圧倒的優位が判明、って時に秀頼は「城を枕に討死」するつもりだったらしいのよね。
ところが周囲に説得されて和睦。
これでもう徳川に全面降伏かと思ったら突入もう一戦かますつもりになって滅亡。
立場がブレすぎてる… >>217
違ってないだろうがw
発案者は大野や木村でも秀頼がその案に乗ったから片桐は豊臣から出たというのだろ
そもそもそれがデマなんだよ
なにしろ片桐且元は家康直下の家臣でもあり娘を家康の人質に出している
片桐を殺せば家康が攻めてくるのは最初から分かり切っている
戦をしたくなかった淀殿が片桐且元暗殺計画になど乗るはずはない
片桐且元は、秀頼は大坂城を出て江戸城へ行って秀忠に家臣の礼を取り
以降は家康がいつでも殺せるよう家康の本拠地駿府で軟禁生活をする
淀殿は江戸常駐で秀忠の人質とする
などという豊臣が飲めない条件を叩きつけて家康のもとへ去った
その後の且元は家康直下で大坂城の詳しい間取りや
秀頼や淀殿は山里丸にいると居場所を教え堂々と豊臣滅亡に加担している >>219
秀頼は開戦派、淀殿は反戦派
冬の陣の和睦は淀殿が直々に実妹の常高院(浅井三姉妹の次女、初)
を豊臣方使者として遣わしていることからも淀殿主体であった >>220
うーん。悪いけどデマっていう根拠が弱過ぎる気がするなぁ…
要は、且元が徳川家臣だからってのが理由なんだろうけど、それだけだとなぁ。
秀頼を江戸に参勤させるってのは元は加藤清正の案だったらしいし、且元の属性とはあまり繋がらんし…
それに、且元は今まで豊臣に尽くしてきたのに、その報酬が襲撃事件となれば忠を尽くす気は無くなるでしょ。
それは非難出来ないと思うなぁ。 >>222
そもそもの話の始まりは織田信雄が豊臣方総大将に立候補したと言い出したことだろ
それは史料にないしあの状況で信雄が総大将になるメリットもない
すでに江戸幕府成立から10年以上がたち諸大名はすべからく徳川の家臣
信雄が総大将になれば六条河原で処刑が妥当な線だろ
加藤清正はすでに死んでいる
有名な二条城会見の直後にな
よって発案できるはずもない >>224
資料によると、秀頼の参勤は元々加藤清正が考えていたもので、片桐且元も賛成していたらしい。
だからこれを提案したそうだ。 >>224
うーん。
信雄の総大将と片桐且元襲撃未遂の関係性がわからん…
信雄が総大将を任された、ってのはその後大坂城を奪取したまでがセットの風聞だし、
総大将にするよう要求したのは織田左門だし… 織田左門(頼長)の言うことなんか聞いてたら危なくて仕方ないだろ そんな左門(ていうか織田)が担当したのが大坂城南面で、しかも総大将になれなかった腹いせで戦闘放棄してるとかいう。
にも関わらず処分無し。
まぁ織田に反旗を翻されれば秀頼なんざ一瞬だからどうしようもなかったんだろうけどさぁ… 織田家は豊臣恨むべきなのに関ヶ原では豊臣に味方して改易されてる
織田家は最後は徳川についたが
織田家は全然復讐ってイメージないが でも豊臣の滅亡に一枚噛んでると思うゾイ。
豊臣が生きていくためには波風避けて頭低くして生きていかないといけないのに、戦争を起こしておいて、
かと思えば積極的に戦うわけではなく、最後は「あの織田が徳川についた」って事で生き残りだからね。
豊臣をダシに使ってお家再興って感じが… >>230
織田は大坂城を自主的に出たというだけで積極的に徳川に付いたわけではない
大坂城を出た後も積極的に家康に豊臣を売るようなことはしていない
豊臣を売ってお家再興といっても
織田信雄は家康から5万石の捨て扶持を与えられたにすぎんし
生涯京都で軟禁され領国へ赴くことは禁じられた
片桐且元が家康に大坂城の図面から秀頼や淀殿の居場所や一日の行動、避難場所まで
事細かに情報を提供して秀頼と淀殿の息の根を確実に止めたのとは全然違う >>231
5万石は捨て扶持とはいえないと思うぞ…確かに織田の家格からすると少ないかもしれないけど。
大坂の陣で積極的に攻撃しない、どころか攻撃を禁止したことは豊臣方に不利な行動だし、
豊臣が弱り目と知るととっとこ離れたりと割と織田家は酷いことしてると思う。織田家からすると大正解なのは確かだけどね。
片桐且元は秀頼に愛想が尽きたんだろ。
精一杯豊臣家の存続の為に東奔西走してたのに、それを悉く台無しにされたならもう徳川家臣として出来る限りの事をする以外に生き残る術が無いからね… >>232
織田家が秀吉を恨むのは当然
織田家は豊臣家に対して生ぬるいと思うぞ >>232 >>233
織田が豊臣を恨んでいるならそもそも関ケ原で西軍につかんだろw
大坂の役でも大坂城に入りギリギリまで淀殿の後ろ盾になっている
秀吉の親族だった福島や加藤は関ケ原前に家康養女を娶って
関ケ原の時点でさっさと東軍につき豊臣に一瞥も与えていないのに >>236
豊臣につくってか、徳川のポジになれそうな気がしてただけじゃないの?
ちなみに信雄さんも西軍に与するつもりだったけど、三成のせいで参戦見合わせとかいうね。 福島と加藤で蜂須賀は素早く徳川に乗り換えたな
それ考えたら織田家が豊臣に復讐したとかありえんわ 黒田も婚姻結んで徳川に乗り換えたな
福島と加藤と蜂須賀と黒田が全て徳川に乗り換えた
豊臣が滅びるわけだ 豊臣家周辺の織田家ゆかりの人物
羽柴秀勝(信長四男、秀吉養子)
三の丸殿(信長の娘、秀吉側室)
姫路殿(信包の娘、秀吉側室)
淀殿(市の娘、秀吉側室、秀頼母)
初(市の娘、秀吉養女)
江(市の娘、秀吉養女、豊臣秀勝室、完子母)
これだけの織田家関係者を豊臣家に抱えてたから、不忠な仇敵と一概には言いづらくて、親族的ではあったと思われる。 >>236
淀の妹は秀忠の妻
秀頼の妻は徳川の娘千姫
普通に考えたら徳川につく=豊臣につく、と思えるんだが。 >>238
福島や加藤が徳川につくことと、織田の豊臣への復讐がありえないってつながりがよくわからないんだが…む そもそも秀吉が家康を倒せなかったから降伏の名を借りた同盟でようやく全面戦争回避。
秀吉にも無理だった打倒家康、三成には荷が重すぎるだろ。
大野治長にはなおさら無理な話。 >>242
織田家が復讐するまでもなく豊臣が滅ぶから >>242
織田は豊臣に復讐などしていない
むしろ他大名が皆裏切った後も大坂冬の陣まで豊臣を支えようとした
豊臣を滅ぼして徳川に付きたかったなら関ケ原の時に奏していればよい
加藤や福島はその功績で大大名に昇進してるからね
織田は西軍として岐阜城を死守した織田秀信といいそんな気まったくなかった >>246
大坂の陣での織田はどうかなー。
信雄・有楽斎は反戦派で、信雄は冬の陣、有楽斎は夏の陣で離脱。
有楽斎の息子左門は総大将を要求して受け入れられないと肝心要の南口の守備を放棄してるし…
しかも左門は豊臣を扇動して戦争起こした疑惑があるし。
豊臣についたってのは単に徳川より当主の弱い豊臣の方が旨味がありそうだからであって、
旨味がないとみるやポイしてるもんなぁ… >>244
正直三成って忠臣扱いされてるけどそうは思えないんだよな。
こいつのせいで徳川の世が決まった様なもんだし
三成も三成で天下狙ってたと思うんだよね。 >>248
つまり三成が家康に追従しておけばよかったと?
ばーかw >>250
何が馬鹿なのかわかんないけど、実際あの時点で家康に挑むのは無謀だし、豊臣の力を削ぐ以外の何物でもないじゃん。
秀頼が当主として相応しい年齢になる前に戦争を起こしたら徳川も豊臣の勢力を使って戦争出来るからどう転んでも豊臣が傷付くだけ。
三成が戦争したのは、徳川が強くなると自分の立場が危うくなるだけだったからじゃないか? >>249
よく言われてるけど、秀吉は家康を倒せなくなってたよ。その最後のチャンスは小牧長久手の辺りで、そこ過ぎたらもう家康は倒せない。
特に晩年だと織田家含めた大名達との折衝や朝廷への対策は家康任せで、もし家康を倒してしまうと秀頼の最後の後ろ盾が消滅することを意味していたからね。 >>251
もしあの場で挙兵しなかったら上杉は倒され、次に宇喜田、
小西や石田三成自身も理由つけられて倒されていくだけ。
それなら団結して家康を倒すと考えるほうが至極当然なわけ。
馬鹿なのは自分たちが豊臣の力を削ぐために奮戦した福島などだろ。
それに最初に挙兵したのは三成ではなく秀家だから。
その程度のことも知らないでドヤ顔すると恥かくよ。
司馬遼太郎小説なんか忘れてもっときちんとした本を読むんだね。 >>252
秀吉にも倒せない家康を三成に倒せるはずがないよな
それで三成を叩いている奴って頭おかしいよな >>252
倒せなかったから自分の死後淀殿と家康を結婚させるよう遺言した>多門院日記
当然というか淀殿が拒絶して立ち消え。
秀頼は薩摩に落ち延びて(木下家の当主も証言)そこに墓があるらしいが、
DNA検査してほしいところ。歴史がひっくり返るから嫌がる人が多いだろうな。
木下家の当主にも抗議した人たちがいるらしいし。 >>256
DNA検査しようにも、墓から出た物と何を比較しなければならない
秀頼存命時に血判とか残ってる物があれば、それと比較すればいいけど
血判は自身の血でなく、側近が素早く指切った血のもあるだろうし
疑惑の多い父秀吉の残した物と合致すれば
それは秀頼当人の可能性が高く、また親子関係あった決定的証拠になる >>252
秀吉は西国経営に忙しかっためで本気でかかったら家康は滅ぼせたよ
家康が秀吉政権で秀吉から貰った土地は三河一国にすぎなかった織田時代の数倍
秀吉はなぜか家康が大好きで殺すよりも身内として傍に置きたかった
家康は下賤の秀吉が大嫌いだったみたいだが >>258
だから殺さなかったのが秀吉の落ち度だろ >>256
島津家も当然知っていたが、見て見ぬフリしてたそうだ
秀頼は大阪城で育った坊ちゃんで店で金を払うことすら知らんから食い逃げしまくりで
そのたびに島津家が代わりに支払ってたというw >>260
その噂は徳川幕府が流したと思ってしまうな
元主君秀頼を殺した、これはちょっと世間体に悪い
なので実は密かに助けて薩摩にいる
しかし秀頼はだらしない性格で、薩摩でこんな事してると >>261
徳川家康は秀吉秀頼の罪状を並べ立てて
秀頼の8歳の遺児・国松を六条河原で公開処刑しているのでそれはないだろ
幼い国松を公衆の面前で公開処刑で
徳川に逆らうとこうなるとアピールしておいて
秀頼が薩摩でのうのうなんて徳川家の沽券にかかわる >>253
何に顔真っ赤なのかわからんけど、結局三成が戦争したのは己の保身の為ってこと?
そもそも家康は秀吉が特に頼みにしてたわけで、それに歯向かったのは頂けないと思うな。
家康が豊臣を倒した未来から逆算すると結果的に三成が豊臣の忠臣っぽいけど、あの時点では家康は豊臣政権のナンバーワンでしかない。
それに集団で刃向かうってのは、要はこれから冷や飯食わされる連中の反乱ってことなんだろ?
言い逃れ出来ないと思うな。 お前はまともな本読んでからモノを言え
どうせ家康におびき出された説を真に受けた司馬糞信者だろ >>265
人望ってか人間関係の調節がすげー上手かったらしい。 >>264
なんかイキってるゥー!
ていうか相手が何書いるかすら読めてない人がいうまともな本ってすげーヤバそう。 >>260
その秀頼が薩摩で残した子孫の一人が天草四郎だって説もあるねw
それでその天草四郎も原城では死なずルソンあたりに逃げたって説も。
そういえば国松も本物は九州のどこかの養子になった話を見た覚えがあるな。 >>257
秀吉の子ではない可能性が高いから母の淀殿由来ということになるね>DNA鑑定
妹のお江与の子孫から母系解析するしかないか。 秀頼が生き延びてる可能性は無いじゃろ。
少なくとも公式記録で死んでる訳だし、生きていたら賞金稼ぎにつけ狙われるのは間違い無いし。 島津に守るメリットが無いからね、仕方ないね。
ロマンはあるんだけど、現実味はねぇ…
島津が秀頼を守ってるなんて話が幕府に知られたらそれこそ全力で島津潰しされてもおかしくない
ロマンはあったけど、結局ロマンはロマンなんかなぁ。 >>272
幕末徳川と対立した時、密かに隠してた豊臣秀頼の子孫がいたら
何か利用価値があったと思うし
豊国神社復活はしたが、それ以外は何もやってないし
誰かが作った噂話なんだろう
>>268
大分県の日出藩やな、北政所の兄弟の木下家
3万石の大名だったが、5千石を次男(木下延由)に分与した
この次男が国松だと、木下家に密かに伝えられた一子相伝を元に、数十年前に木下家子孫が発表した
しかし学会では否定されてしまい、一子相伝は否定されてしまった
これが事実でないとすれば、先祖の殿様が勝手に作った話なんかな?
「息子よ聞け、木下家は関白秀吉公の正室の一族である
秀吉公の子孫は密かに木下家がお守りしておる
いづれ徳川の世が終われば、その時に豊臣家を復活せよ」 秀頼生存の噂は翁草とか甲子夜話にも書かれてるから江戸時代からある噂だったんだろう。
ただ、その内容は二つあって、
一つはあの悲運の秀頼が生きていた、という話
二つ目はあの絶頂期には日本全てを征服した豊臣家の末裔が、ただの百姓に転落した、という話
考えてみると秀吉が百姓の生まれって話は有名だったろうし、百姓から一代で関白にのし上がった男の息子が百姓に戻った、ってのはいかにも日本人の好きそうな盛者必衰系昔話だなとは思う… >>275
学会なんて自分たちの昔からの研究結果をもとに議論してるんだからな。
何か科学的根拠があればそんなもの無意味だけど。
ただ末裔が華族になったのが分からないな。
いわゆる華族一覧にはそれらしい名前はないし。
五千石じゃ武家華族の要件満たさないから。 >>277
混乱の中で戦死した人は、本当に死んだか?疑ってしまうもんがあり
話好きな人が勝手に創作し、それが世間に流通するてのはよくある話だと思う
城山で死んだ事になってる西郷が、ロシアに亡命した噂が流れ
ニコライ二世来日当時、西郷も一緒に来るって噂が流れた
それを信じた精神病の津田が大津事件やってしまった
秀頼生存の噂も大坂の陣から数年後に、少しづつ噂が広まったんじゃないかな?
一度死んだ事になってたが実は生きてた
これが現実化したのは楠木正成ぐらいかな?最初の旗揚げ後
もしも頼朝が石橋山敗戦後、打倒平家諦め各地に逃亡しながら静かに暮らし死んだら
頼朝は生き延びたか?戦死したか?
そんな議論があったかもしれない、しかしそんな頼朝は歴史上有名でない頼朝だけど >>272
当時の薩摩は独立国家みたいなもんでバリバリの軍事独裁国家だよ
家康も攻めるリスクは十分知ってたと思う
関ヶ原では赤っ恥かかされてんだし
秀吉ですら20万の大軍を送り込んで5万の島津をやっと抑え込んだぐらい手ごわいし
その割にメリットまるでないしほっとくのが一番でしょ
江戸時代の島津は外様だし何かあったときのために秀頼カードを捨てなかったのでは
真田を「日の本一の兵」と称えたのも武門で名をはせた島津だし武士の情けは心得ていたと思う
秀頼と真田幸村をかくまっていても何ら不思議ではない >>280
そこは考え方次第じゃないか?
薩摩が単なる雑魚の弱小国家なら確かに放っておくと思う。
ただ、薩摩が強大な軍事国家であったら徳川は無理してでも滅ぼしたと思う。
軍事力の高い国家に、幕府に刃向かった危険分子の親玉が逃げ込んだなんて最悪の事態だもの。
それじゃ国松を処刑した意味がない。
逆に島津からすると秀頼を匿ってるって噂が流れて、徳川が本気になったら潰されるのは明らかだから、秀頼を匿うことはしないだろうし。
武士の情けなんて国と家の前には消え去るさ。それは浅はかでも冷酷でもない。
たった1人の男のために一族と家臣団を犠牲にはしないさ。 >>281
関ケ原後に徳川が新たに得たのは、旧徳川領地と尾張と越前と、近江伊勢の一部
東日本に地盤があり、西日本は関ケ原で戦った大名ばかり
西日本地盤の秀吉が、敵対勢力を一つづつ潰し島津に攻めたのとは違い
一気にまとめて天下取りした家康
対島津戦では秀吉と、関ケ原後の家康とでは色々立場が違うと思う
少ない兵数だと裏切る大名が出ると思うので、島津攻めにかなり兵力を東日本から持って行く事になる
そうなると東日本が不安
西日本では島津に付く大名や、関ケ原で負けた浪人も集まるだろう
早期決着は難しく泥沼化した戦いが予想される
せっかく賭けに勝ち手に触れた天下を、自爆した形で手放す可能性が出てくる
安全策として島津を不問とし、参勤交代などでジワジワ締め付けた方がベターだ
そう家康は考えたと思う >>281
薩摩は徳川幕府を潰さなかった?徳川を欺くのは簡単だろ >>283
欺く、っていうか、信用させるのは相当に難しかったと思うぞ。何しろ既に温和な家康から割と冷酷な秀忠の時代になっていたわけだから。
仮に島津が秀頼を奉じて反旗を翻そうとしてます、なんて噂が幕府の耳に入れば、薩摩は潰されるのは明らか。
幕府からすれば、島津が秀頼やその子孫を旗頭にして天下を狙うつもりなら先手を打って滅ぼすしかない。仮に泥沼の戦となって天下が乱れようとも、未来で島津に先手を打たれるのと同じなのだから。
逆に島津からすると、ここで幕府から疑われたら割と身の終わりが近い。秀頼を助けるなんて事は絶対にしないと思うが… 生存説でもいったん薩摩に逃れたがその後日出藩預かりになってるから>国松
島津も幕府の目はかなり気にしてたんじゃないかな。 >>282
別に家光を悪く言うつもりはないが
参勤交代を制度として確立させたのは家光だぞ
それに徳川家の家祖・家康は自由貿易主義者で
島津とガッチリ組んで海外との主に中国や東南アジア間の
朱印船貿易で平和的な富を得ようとした近代的な思考の持ち主でもあったし >>285
甲子夜話で秀頼の薩摩逃亡説が取り上げられてるけど、それによれば元々秀頼は肥後に逃れたが幕府を恐れて薩摩に渡される。
島津は幕府に密かにお伺いを立てたところ、「もう大坂城もないし、生きていても死んだと同じ身」と幕府が許した…という話が伝わってるらしい
でも、家康を悪くいうつもりはないけど、徳川がそんな殊勝だったとは思えないんだよなー… >>287
うん思えない。わざわざお伺い立てるのも考えられない。
もしその会話が本当にあったのならその後伊賀者にでも
消させに行ってると思う。 >>288
実際のところ、国松は殺すけど秀頼は許したげる、なんてことは無いはずで、
逃げ出したのなら地の果てまで追い掛けて殺害してるはず。 当時は影武者とか普通にいた時代だろ
これだけ具体的な話がたくさん出ているんだし俺は生きていたと思うな
歌まであるらしいじゃねーか
「花のような秀頼様を鬼ような真田が薩摩へ連れていく」とかw きれいなお相撲さんみたいな感じだったんじゃないかな。 >>284
島津が秀頼救う危険な橋を渡らないだろうな 豊臣の力がそんなに強くないのに秀次事件で一層弱くなったのがよろしくないわ。 徳川によほど恐れがあったのかな?一度徳川に負けてるから 徳川が脅威だからこそ対抗手段で秀頼カードなんだと思う
武勇に名をはせた島津が簡単に徳川の軍門に下ることはしないと思う >>295
秀吉は家康が好きで好きで仕方なかった
妹と結婚させて義弟として猫かわいがりしたかった
だから小牧長久手では下手に出ただけ
小牧長久手で家康優位だったのは和睦の使者を斬り捨てて奇襲攻撃かけたからだし
長期戦になれば全国を支配下におさめた秀吉に勝てるはずもなかったよ >>297
流石にそれは秀吉を馬鹿にし過ぎてるのでは… >>298
秀吉が家康の命を助けたかったのは事実
そんなに脅威に思っているなら朝鮮出兵より家康殺害だろう
秀吉存命中なら可能だったよ >>298
秀吉が家康より弱かったというほうが秀吉を馬鹿にしている >>300
え?秀吉を馬鹿にしてると思わないか?
だってもし小牧長久手が家康を取り込むための茶番なら死地を味わい部下を多数失った秀次たちが同化になるじゃん。 >>297
小牧、てか白山林で負けたことで秀吉はかなり苦しかったはず。 海音寺潮五郎氏も書いていたが、秀吉は、諸大名の前で家康に対して
「天下も大坂城もくれてやるから、そのかわり秀頼のこと豊臣家のことは大事にしてくれ」
と言えばよかったと思う
後継を「秀頼でなく家康にする」と決めれば、石田三成ら不満があるものも従わざるを得ないし、
家康自身も、秀頼を守る代金に天下をやる、なんて言われれば、いくら家康が秀吉を嫌ってたとしても、
諸大名の手前、約束を守らざるを得ない
でなきゃ、天下人としての器量が問われる やっとできた自分と血のつながった子供に天下とらせたいだろ
それに秀吉は晩年は思考が低下してたし先読みは若いころのようにできなかったかも 血つながってないだろう。
やっぱり滅ぼした家の女に手出しちゃだめだな。
武田といいろくな末路にならない。
それでもやってしまうのが人間なのかな。 秀吉存命中に、家康を引退させて、家康の領地を、家康の子に分割相続させて、
あちこちに転封させられれば、(取り潰さなくても)勢力は削げたと思われる。
秀次も殺さないで隠居させ、秀次の領地を4人居た男児たちに分割相続させてし
まう方法はあったと思う。秀次100万石ではなく25万石程度の大名4家なら、秀頼
の対抗馬になれなかったのではないか。 >>307
秀次は明らかに危険人物だからね(秀吉視点では)
若くて健康で、その上子沢山となると秀吉の死後秀頼に関白の座を与えてくれるかは不明だった。
仮に秀次を隠居させても、元々秀吉が後継にしてた関係もあって政治力は高かったろうし(まぁだから皆殺しは明らかにおかしいが)
そして朝鮮出兵のあたりではもう家康に手出しが出来ない。家康は対大名・対朝廷の交渉役で政権の要になってたからね。
家康を退陣させても代わりが居ない。
つまり最早半分以上詰んでいるんだよなぁ… >>308
朝鮮出兵の段階でも家康を滅ぼすといえば滅ぼせたと思うよw
秀吉と家康は6歳差なんだし秀吉のほうが長生きできれば
家康は秀吉の忠実な身内として終わるはずだった
秀吉が死んだ時点ですでにそこそこの爺だった家康に諸大名がついて行くとも思えず
跡取りの秀忠は秀吉の養子、秀吉の養女で秀頼の叔母の江と結婚
秀忠の代になれば江の発言力も大きくなり困った状況は来ないはずだった 秀次を殺しさえしなければ家康潰すことは不可能じゃなかった。
ただ、秀次を殺した時点で家康を倒すどころか勢力を削る事すら不可能になった。
内大臣の家康が居なくなったら秀頼が関白になれなくなるし、秀頼が関白になれなくなれば天下を狙う奴らが台頭してきておしまいだし。
どのみちやれるなら小牧長久手で倒しとく以外無かった。 内大臣の家康がいなくなっても秀頼は関白になれるんだが
そもそもこの時点では秀吉は秀頼が成人するまで生きてるつもりだった >>311
秀吉視点だとかなり厳しい。
と、いうのも「関白の息子」ってだけでなれるほど関白はチョロい職じゃない。
何しろ関白になれる家が5つもあって、そこに関白になりたい連中がワンサカいやがる。
秀吉は武家関白制を行ったけど、その結果貴族の昇進が遅れて大量の貴族が出世待ちしていた。
だから秀吉が居ない状態で内大臣・家康まで居なくなると、その連中がドカドカ昇進してきて秀頼が大臣以上になれない恐れがあった。
秀吉は近衛家を騙して関白になっていたから、秀頼に報復される可能性もあった。
ベストは秀吉が秀頼が大人になるまで生きてる事だが、次点は家康が面倒見てくれるってこと。 >>311
すげー謎なのは秀次事件とその後で秀吉の考え方が違うところなんだよね。
秀次も、秀頼が関白になるまで秀吉が生きていたら何もできない。
秀次を殺したのは秀吉が己の死を予期していたからのはず。
ところがその後は「自分が長生きすれば良い」と楽観的になってる…としたら、かなり甘い思考だったとしか言いようがない。
秀次の時には自分の死をおそれ、その後には自分の長生きを前提とした策をとる…
何故なのだろう。 >>314
秀吉と秀次は30歳ぐらい年齢差があったから
たとえ秀吉が生きてるうちに秀頼を関白にできたとしてもその後が不安
実際、関白は秀次でも諸大名は太閤である秀吉の言いなりだったし
同様に関白が秀頼でも諸大名は太閤秀次の言いなりになる可能性がある
そうなったら家督相続は太閤秀次の思うが儘
秀次の大勢いる息子を関白に据えるかもしれん
秀吉は家康よりは長生きする気でいたとしても
若い秀次より長生きできるとは思ってなかっただろうから
たとえ秀頼を関白にできても秀次が生きてる限り不安要素は消えなかった >>313
だから秀吉としては秀頼成人前に家康が死んでくれるのが理想
家康に豊臣家の全権力を与えて秀頼を後見させる以外になかったってさすがに秀吉もそこまで馬鹿ではない
死ぬときも家康に伏見城を任せる一方、前田利家に秀頼に同行して大坂城に入るように命じ
家康の一極集中にはしなかった
秀吉が死んだら即、利家も死んだのが不運だった すげー皮肉なことに、
家康に全権を与えていれば、もしくは秀次を信用して秀次を後継者にしていれば、
少なくとも豊臣は残った可能性が高いんだよな。
秀次を信用せず殺してしまったことで豊臣の勢力が著しく弱体化し、家康に権力集中しないようにした結果それが豊臣内部の抗争を産んだ。
晩年の秀吉は踏んだら蹴ったりなのがなぁ… 島原の乱は実は豊臣家復興の戦だったんだよな
で天草四郎は秀頼の子孫というw >>318
ところがそうでもない。
家康からすると一応家族だからね。大坂の陣でもギリギリまで待って降伏勧告したりと存外優しい
千姫との間に子供が産まれていれば幕府の対朝廷工作の要にもなるからそれなりの立場にいられたとは思うよ。
だから、家康「は」秀頼を助けたと思う。
問題は秀忠以降で、下手すると千姫との間に子供が産まれた次の年に秀頼は病死とかになるだろうなぁ… >>319
だからキリシタンがついていて、ポルトガルに日本占領を懇願していたんだよな…
実は日本が危ない戦だった島原の乱。 デマルカシオンを今どれだけの日本人がしっているだろうか
知ればなぜ日本が鎖国したりオランダを出島にひっこめたのか容易にわかるはず 江戸時代に日本を占領出来るような輸送補給能力持った外国なんかねえよ 可能か不可能かで言えば可能だったと思うぞ。
当時の日本は連合国家だから、裏切り者が少し出れば幕府でも負けたかもしれん。 例えば大藩の2つか3つがヨーロッパからの甘言を真に受けて一斉蜂起してたらかなり厄介な戦いになってた可能性はあると思う。
それが連中の戦法だし。 スペインに僕になりますって文書携えた使節送った藩主がいたな。 仲間割れさせて自分の手を汚さないのがヨーロッパ流
幕末だって幕府に武器の支援を申し出たのはフランスだし
仲たがいさせて漁夫の利を得ようとする連中だよ白人は 秀吉が始めた禁教令だけど、徳川の禁教令の方が徹底してたからキリシタンは豊臣領に逃げ込んでいた。
そしてその連中が島原の乱に関わっている、
島原の乱は苛政による農民一揆の側面が強いけど、実は豊臣会キリシタンによる反乱でもあった。
彼等は徳川憎しでポルトガルに日本を統治させようとしていたりと結構危険な思想を持っていた… >>316
前田利家暗殺ありある?加藤清正は暗殺の噂あるが 伊賀・甲賀・裏柳生とロマンある連中を従える徳川家だけど暗殺はどうかなぁ。
バレた時失うものが多過ぎるからなぁ… ヒ素なら少しずつ食事に盛っていけば気づかれないらしいけどね。
うまく料理番に入り込んで。
死ぬ前の前田利家からは薄墨色の尿が出ていたって記録がある。
ガン患者でもそんな尿はしないから何かあるのかな。 家康を駿府119万石のままで
北条を155万石くらいで小田原に残しておけば
氏直から召し上げた分の100万石を秀次と
約立たずの三中老で分ければいい 徳川の移動がない場合
織田信雄が清洲109万石で残る 福島正則や池田輝政、山内一豊とか東海道筋はほとんど家康シンパになるんだから
無能の織田信雄を清州に置いておいた方がマシかもしれないw そもそも何故唐入りなんて考えたのか。
何故その最中に関白を殺したのか。
これがわからない。 >>331
前田利家が亡くなって家康は動けるようになった
と言うか前田利家が死ぬのは待ってた感じかな でも秀次殺したわけだし、秀長も同じ運命辿ってそう。 秀吉は天皇家と同じD系統やろ
秀吉には手のひらの指が6本あったんだよ >>337
前田利家と秀長が生きてたら家康は動けなかった
秀長が生きてたら福島と蜂須賀と黒田が徳川とくっつくのは阻止してる
秀長と前田利家が目光らせてたら秀吉子飼いの武将も裏切れなかった 多指症自体はよくある遺伝子上の問題だからそこまで変な話ではないでしょ。 ただ、前田利家もそんなに豊臣派って訳じゃないからな。何をしてたかはわからんぜ。 >>346
しかもそんな重大な疾患じゃないんでしょ?
遺伝子の異常ってわけでもなく単なるエラーらしいし。 普通は赤ん坊の時に切り落とすから普段見かけないわけで
六指のまま育てるケースがレアなんだよね 秀吉が6本指だったっていう話、朝鮮出兵時の捕虜が書いた、なんだかウソ臭い史料以外に
なにかあったっけ ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、
醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、
支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
抜け目なき策略家であった。」 前田利家『国祖遺言』
「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候然時蒲生飛 生飛弾殿肥前様金森法印
御三人しゆらく(聚楽)にて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半
敷御かこいにて夜半迄御 咄候其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを
御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな
とゝ御意候由御物語共候色々御物語然之事」 >>343
夏の陣で家康・秀忠本陣が一時的に崩れた時
前田利常は重臣たちから今こそ徳川を討つ機会といわれても取り合わなかった
当人は秀忠の婿だから当たり前だが
重臣たちは夏の陣の時点でも徳川に心服していなかったのがわかる >>352
それは徳川を討てば前田の天下がくるぞという話で
そのくらいはどの大名も思っていただろうし 逆に考えると徳川が倒れれば自分の時代と思われていながら誰も味方してくれなかった豊臣の詰み具合よ… 350
戦国時代日本の武士や武将らほとんど150センチ台やで
140センチ台の将軍もいた 豊臣秀頼が飛び抜けた長身だったんだってな
2メートル近くあったらしい だいたい平均身長でとるやろ
男が156センチくらい、女らが145センチくらい 秀頼の身長197cmって根拠はなんなの
前から不思議でしょうがない wikiからだが、明良洪範に6尺以上と書いてあるらしい。
ただし、この書物では秀頼は不義の子で大野が実の父と記している。
他の資料は知らないが、航海士の日記では秀頼は太っていて自分では動けないようだ、とか他の日記にも世にも類を見ないお太り、だとか言われてるらしい。 >>360
どっちにしても、すごいデブだっていう話はあっても、身長に関しては、確かな史料はないってことだよね
大河で「真田丸」をやってた時も、旧参謀本部編さんの「大坂の役」の書き方では、片桐且元が、徳川家と交渉して言い負かされて帰ってきた時
「家康が、秀頼公と対面した時、風采が立派なことに驚いて警戒しているに違いない」みたいに、いわば勝手に家康の心情を忖度してるだけなのに、
それが「秀頼は家康を警戒させるほどの偉丈夫だった」ことが既成事実であるかのように、5ちゃんで語られてるのを見て不思議に思ってた >>361
家康が警戒した、ってのはよく聞くけど最初に言われ出したのは一体いつの事なんだろうな? でも冷静に考えると、
6尺以上の大男を「お太り」なんて表現するか?っての疑問はあると思う。
そんな巨漢、もっと良い例えがありそうだが… 実際、家康はそんなに豊臣潰そうとはしてないからな。
ただ秀忠筆頭の徳川首脳陣は潰す気マンマンだが… 秀頼は秀吉が生きているうちに関白に昇進しておくべきだった。
そうすれば、仮に解官されたとしても、家康は「前関白」(太閤)に対して臣従を
求めることはできないし、生命を奪うこともできない。
大坂城や領地は失ったかも知れないが、「前関白」の貴人として生涯を全うできたと思う。 >>366
いくら秀吉でも、幼児の秀頼を関白にはできないでしょう 関白が(秀吉からして)歴史と伝統ある職だったのがいかん。
公家衆のポストだからルールが厳格すぎる…
だから秀吉が武家関白を新設しておくべきだったと思うの。 明文化されてはないらしいが関白最年少は16歳の近衛基実らしい。 そこからいくと秀頼が最短で関白になれるのは、
1609年くらいってことになる。
ちょっと遅過ぎたね… 秀頼は二条城で家康と会ってるけど、実はこの裏ではちょっとした事件が起きてる。
それは秀頼の右大臣辞任。
秀頼は関白こそなれなかったが取り敢えず右大臣にまでは出世した。ところが秀頼はその右大臣を辞めてしまう。
これには朝廷の嫌がらせがあったと推測されている。朝廷の会議は関白を除いた大臣が仕切らねばならない。ところがこの時、内大臣が空位であった。そして左大臣が関白だったので朝儀を仕切るのは秀頼の役割であった。
しかし、秀頼が京都に上がった形跡が無い…と、なると朝廷が仕事をしない秀頼に辞任するよう求めたのかもしれない…という。
秀頼は自分の身の振り方がわからなかったのかもなぁ 関白は条件が厳しいことと、将軍と違ってなりたがる連中が山ほどいることが問題よね。
秀頼が成人するまでにそいつらが関白になってしまえばお終いだもの。 >>373
家康も豊臣政権で長らく内大臣やってたけどまったく朝廷に上がってなかっただろ
秀吉は関白時代に御所へ行ったり後陽成天皇を聚楽第に呼んだりしてるが >>375
だから秒で右大臣が復活したぞ。秀吉に娘を殺されて流罪にされた菊亭晴季ってやつが…
秀吉か家康を内大臣にしたのは内大臣に蓋をすることで五摂家が大臣以上になれないようにするためだったとは言われてる。
ただ、ここで朝廷の家康と秀頼での温度差は確かに否定できない。
家康の場合は、空位の大臣職を埋めたいという提案。
秀頼の場合は、お前もう辞めろやという圧力。
朝廷も意外とエゲツない手を使うのだ。 >>376
どうしても朝廷黒幕にしたい奴がいるが朝廷にそんな権限ないからw
朝廷は豊臣が嫌だったとしても徳川も嫌だからな
家康は秀吉に神号与えた後陽成天皇が気に入らなかったので
家康が跡取りに決まってた皇子を廃して後水尾天皇を立てた
徳川が擁立した天皇だから言うこと聞けと孫娘と結婚させて朝廷牛耳ろうとしたが
当の後水尾天皇は無茶苦茶対立してた >>377
権限自体はあると思うぞ。朝廷ってのは日本の歴史で中枢を担ってた組織だからな。
ガチの伏魔殿で、天皇・皇族・上級公家・下級公家が利害や歴史でくっついたり離れたりを繰り返している。それは戦国時代も江戸時代も同じ。
秀吉が関白になれたのも菊亭晴季の入れ知恵があったと言われてるくらいだからね…
朝廷という巨大組織は、強者の都合で動くというより朝廷にとって都合の良い強者を選ぶ。
家康をそれとなくバックアップするどころか、豊臣を刺激させて戦争させようとしたりとかもう恐るべき伏魔殿よ。
家康は武家と公家を分断させようとしたけど、むべなるかな… >>280
薩摩は庄内の乱で経済ボロボロの上、島津家支流が大量にあったから軍事独裁なんてものじゃないぞ
江戸幕府の権威傘にした新当主が琉球征伐と一族粛清したけどそれでもずっと貧乏w 戦国大名の天皇と足利将軍、どっちの方が権威あったのかな?
信長の上洛戦で足利義昭を担いだが、天皇を担いでも効果少なかったと思う
信長が美濃を出発した時1万〜2万ぐらいだったが
浅井などの同盟軍に加え、足利がいるから集まった武将は多かったらしい
天皇が大納言、将軍が管領
どっちか選べと言われたら大納言だろうな
天皇が尾張守、将軍が尾張の守護大名
これも尾張守だろうな >>377-378
朝廷は、決められた儀式を執り行い都の治安を守ってくれるのなら、時の権力者は誰でもよかったんだと思う
だから、朝廷や都に害を及ぼす行為をするような奴でない限り、自ら積極的に排除に動くようなマネをする必要はないでしょう
なにか陰謀をめぐらせて万が一ばれて実力行使に出られたらどうするのか、と
反撃の手段が何もないのに 朝廷は自分たちの利害で動くけど、逆に言うと害になるやつらには容赦をしない。
豊臣がそれで、秀吉が関白を利用して天下人になったことで、貴族が出世できなくなってしまった
だから朝廷としては豊臣を排除する方針を決めた
で、この時朝廷はどうするか?
っていうと、敵の敵に力を与えて滅させる。ってことをするんですな。
朝廷は何百年とそうした陰謀で生きてきた歴史があるからね。そこらへんはお得意さ。 >>383
その筋だと、秀吉の生前にも北条とかに力を与える政策してないとおかしいのだがな。 >>365
家康は秀頼に会って豊臣潰しを決断したとは言われてる 秀吉生前なら、秀次に殺生関白だの噂を流して秀吉と反目するように仕向けたのは朝廷側からの働きかけはあった可能性はあるな。
豊臣秀次の高野山追放や謀反の疑いについては石田三成が関与していたから石田も朝廷に操られていたと思う。
で都合よく秀吉も死んだから朝廷側は家康と三成を対立するように仕向けた可能性はあるが、この時点ではまだ家康は天下人とは目されてなかった。家康に力を与える事を決めたのは関ヶ原後。 >>384
朝廷はあくまで朝廷の利害で動いてるからね。
北条がどんな対朝廷工作をしてたのか教えてくれないとなんとも言えないけど、なんらかの陰謀が巡ってた可能性自体はあるよ。
一つ気をつけないといけないのは、朝廷は秀頼を関白にするつもりは全く無かったってこと。
これは朝廷の故実からしても明らかで、関白になれるのは5つの家のみで豊臣はこれに入っていない。
にも関わらず秀次が関白になれたのはひとえに秀吉の権力によるもの。だから秀吉が生きている間はただ朝廷は牙を隠していた。
そして秀吉が死ぬと牙を剥いた。 >>386
違うと思うけどね。
官僚同士の争いが、秀次、秀吉までになってしまったんじゃないか?
石田系官僚:石田一族、増田長盛、長塚正家、前田玄以
秀次系官僚:田中吉政、池田輝政、池田教正、木村重これ、前野長康
彼らが不仲を極め、争った挙句、石田が宿敵田中吉政を追い落とそうと
讒言で秀次ごと秀次系官僚を壊滅させたのが、真相だと思うが。 まあ、秀次事件で池田輝政一族を亡ぼさなかったのは、致命的な失敗
だったがね。 >>383
ずーっと朝廷陰謀説を飽きもせずに書いてるのが一人いるが
豊臣秀吉は関白になったから朝廷は五摂家の地位を奪ったと怒り
豊臣は絶対に滅ぼさなければいけないと思った
征夷大将軍なら朝廷の利権とは反目しないから
当然豊臣秀頼も征夷大将軍にしていた
徳川家康の天下は来なかったということになる >>390
落ち着け文章が意味不明になってるゾ。
朝廷は当初、秀吉が関白になるのは一時的な事だと考えていたんじゃ(だって近衛家に養子に入った近衛秀吉を関白にしたんだからね)
ところが秀吉は文書を改竄して豊臣秀吉が関白になったことにした。
その上、秀吉の人事によって朝廷のポストが壊滅的になった。(例えば五摂家でも40まで大納言とかね)
朝廷からすると最早豊臣家を生かしてはおけない
自分たちの利益を害する存在になってしまったからね。
逆に家康は非常に都合の良い存在だった。
将軍を狙ってたからね。 >>392
豊臣秀吉が征夷大将軍になっていたなら
朝廷は豊臣秀頼も征夷大将軍にしていたとお前は考えるんだろ
家康の天下は来なかったと >>392
馬鹿だな
秀吉に豊臣姓と関白の座を与えたのは朝廷だぞw
近衛秀吉でなければ関白にする気などなかったとお前はいうが
豊臣秀吉が関白になった事実をどうするんだ >>394
秀吉が関白になった経緯はご存知じゃろ?
五摂家の争いに秀吉が介入して、秀吉が関白になった。
この際、秀吉は近衛家の猶子になってるワケだが…つまり、朝廷の理解はこう。
近衛秀吉→豊臣秀吉
「近衛」家に与えるから先例には抵触しないし、その後「豊臣」氏にするから秀吉が近衛家を乗っ取る事も出来ない。
ところが秀吉は豊臣秀吉に関白宣旨がきた事にして秀次を関白にしてしまった。
当たり前だけど、朝廷は一貫して関白になれるのは五摂家のみとしている。つまり完全な秀吉の横暴ということになる。
もっとも、強い秀吉が生きている間は朝廷は黙っていた。文句を言った奴は流罪にされちゃうからね。
だが秀吉が死ねば、遠慮は要らない。
豊臣を滅ぼさないと、二度と五摂家は関白になれない。それくらいの覚悟で彼らは豊臣を葬ろうとしていたはず。 359
家康と秀頼の対面記事
秀頼の容姿などが文中に書かれている >>391
河原者、非人の村で少年期を過ごした(遠回しにそこ出身だ)と
言ってる人いるね。
関白太政大臣にしてしまった以上事実でもなかなか
公式に認められない説だと思うけど。 足利将軍家は、足利家と似たような血筋の源氏の名門たちに対して、有力守護にはしたけど、高位の公家にはさせなかった。
豊臣秀吉は、羽柴家と似たような勢力の諸大名に対して、中納言・参議以上の高位につけたりしてた。
この部分が計算違いだと思った公家は居ただろうな。 尾張守は治部少輔と並ぶ忌避官名だぞ
謀反人(陶隆房)と裏切り者(松田憲秀) 豊臣秀吉は(とよとみ の ひでよし)のなのに
何で(とよとみ ひでよし)と言われてるんだ 他の武将、大名の通称を呼ぶときに「の」は入れないからそれに合わせてるんだろう。 >>393
実際、将軍だったら問題無かったんじゃないか?
将軍なら5歳くらいでもなれるし。
そうすれば秀頼が天下人ってお墨付きはついてた 豊臣は姓
羽柴が氏
備中足守の木下(大坂落城の後に羽柴から改める)子爵家が
豊臣の祭祀を受け継いだ宗家扱い まぁ時代が時代だからね。
才能が出自を上回ることは良くあることよ。 逆らうなら支那人らに死んでもらうだけやが(╹◡╹) 630日本@名無史さん2020/01/18(土) 01:49:52.65
仮冒と判明したならそいつら抹殺でよい話よな(╹◡╹)
632日本@名無史さん2020/01/18(土) 02:21:15.93
天皇家と源氏と平氏
血統的にはどれも同格なんだよ(╹◡╹) 秀吉が子たくさんじゃなかった時点で豊臣は詰んでたな >>409
それでも血縁者は居たからうまくやればなんとでもなった。秀吉本人の先見の明の無さが主要因 晩年の秀吉の精神状態を分析した研究とかないのかな。
明らかに何らかの精神疾患にかかってると思うけど。 秀吉の朝鮮征伐計画は九州征伐してる時の秀吉書簡にはもう出てきてるらしいのでマトモな頭で考えていたのは間違いなさそう。
秀次とその一族皆殺しは史料が無さすぎて(使者の日記か何かにも「とても言えない理由」としか書かれてなかったり)不明… 朝鮮から明へというのはもともと信長が考えてたことだと言われてるし。
ただ失敗した後の2度目の出兵はまともな頭で考えてないと思う。 >>413
だがちょっと待って欲しい。
日本は(一応)戦闘では圧勝していて、その上ある程度歪められた情報が届いていたわけで、
マトモな思考でも判断ミスする事は有り得たのではないか?
…ただ、本来そうしたところをしっかり調査・検査して判断くだすのが今までの秀吉なわけで、たしかにおかしくなってるとは思う… 414
補給線がもたなかったの
てより最後の方はほとんど向こうで戦闘している連中らに対して補給を行わなかったらしいだ
その結果が関ヶ原以降の豊臣から徳川への乗り換え 補給線がもたなきゃ現地でも乱取り暴力三昧になるだ
最後になりゃかなり非道なこともやったろ
最初は朝鮮側も日本軍を歓迎していて味方に付いていたが一斉に中国側に流れた 当時は貴族らによる専制政治らしかったからな
その貴族政治を壊すのを期待した連中らが味方に付いていた 朝鮮の軍部は最初は日本軍を歓迎していたの
貴族政治は最初から上に行ける連中ら決まってるからな
ただし戦闘が長引きすぎた
向こうは普通、都を占領したらそこで戦闘はやめなんだよ >>413
信長が明への侵略を考えてた、という話、フロイスの報告書にしか書いてない話で、
その内容も「信長は、日本を全部統一したら国民を全員キリシタンにして、
続いて明を征服して、そこでも住民を全部キリシタンにする」という内容なんだとか
どうもフロイスは、日本でのキリスト教布教が遅れていることを、上司にごまかすために
適当なことを書いた、という説があるらしい
もしそうなら、朝鮮経由で明へ侵略、という構想自体、秀吉のオリジナルなんじゃあるまいか 補給線がなきゃあとは餓死するだけだからな
武力で統治できるってのが日本から出たことない連中らの妄想なわけだったんだよ 日本の、てか割と世界の進軍って足りなきゃ奪って補給しろ…だもんね。
これは豊かなところへ進軍するならセオリーだけど、貧しいところに攻め込むとなると… うんうん
奪って補給しろは敵軍の穀物庫だの武器庫だのだろ
これは当たり前に行われている
弱い連中らを傾ぐならいずれ迂回戦術を取られるんだよな
つまりその付近の民衆らみたいなん一斉にいなくなり周りから包囲戦術取られて絶滅に追い込まれる あと地味に日本軍と朝鮮・明軍の戦力差が圧倒的だったのが判断曇らせた可能性はあると思う。
例えば明軍強過ぎます!日本軍は撤退中!とかなら冷静に判断できたかもしれんが、
日本軍が敵を粉砕している最中、それ以外の要因に目を向けられたか…どうか そゆん普通は上にいる連中らのが知ってるの
だから回避するのはできるだよな
やりすぎたんだろ 結局これやられて孤立したんだべ
住民らは移動するからいなくなる
変わりに要請受けた軍勢らがどんどん集まってくる
食い物はなくなるし奪う相手らもいなくなる
やがて孤立し絶滅 朝鮮が貧し過ぎた。
もし日本並みの豊かさだったら成功していたかもしれない。
そして、秀吉のところには正確な情報が集まってなかったのかも…
ボケていたかまでは定かじゃない。ボケて無かったのかもしれない。
でもそういわれても文句は言えないぜ。 秀吉の晩年は裏目ひきまくってて辛い。
正直、秀吉の扱いが微妙なのはここら辺に起因してるんだよなぁ… ちなみに中国支配に成功した女真族はその後圧倒的多数の漢民族に同化させられて、今では少数民族に成り果て故郷だった満州は中国の一部となり、ヌルハチの子孫は王位にいないし、女真族の独立国も存在しない。
もし秀吉の構想が実ってたら日本は完全に中国の領土の一部となり、日本人は少数民族として朝鮮半島にでも押し込められてたんだろうなw 愛新覚羅の当主は居るだろ
徳川家広みたいな一般人で
朱氏の末裔は昔、首相かなんかやってなかったか 渡来人やろ
名簿に書いてあるべな
天皇っちゃあ古代の豪族連合の代表やけ もし徳川家光と豊臣秀頼の二大巨頭会談が実現していたらと思うと胸熱だな。 朝鮮征伐はあまり深入りしないで、済州島・巨済島あたりを占領して割譲させる
くらいで止めておいて、改易などで主家を失った浪人たちを移住させればよかった。
そうすれば、明軍と戦うことなく終戦させることもできた。
女真族が明を滅ぼすころ、再び北上して、女真族と朝鮮・遼東半島あたりを分け合えば
よかった。 鬱陵島、済州島、巨済島の3島はなんとしてでも確保し領有しておくべきだったと思う。 確かにその通りなんだが、清の動向が読めない。
ヌルハチは一応明に援軍を提案してたって聞いてるし、日本軍の橋頭堡は潰しておきたくなってもおかしくない。
もう少し時代が降っていれば、朝鮮人を扇動して朝鮮で革命をおこさせてドタバタしてる内に貰えるところを…って出来たかもしれんが… >>436
それ最高だな。徳川家でその方針を進めてほしかった。
朝鮮も無くなって清国とも陸続きで交易結べていいことづくめじゃないか。幕末の様子も大きく変わっただろう。 朝鮮出兵は日本と中国の二つの政権を崩壊に導いたとか言われてるからなぁ… 半島本土は必要ない。
ウルルンとチェジュとコジェの3島さえ確保し領有できればよかった。 おまえらが扶余人らのこと語ってるなら正解かもな
扶余人分かるか? まあ秀吉も、自分が明の皇帝の臣下だという自覚はあったと思うよ。 家康は人質時代に織田信秀が殺していれば
徳川の世は来なかった >>448
その場合北条幕府ができてたはず。どのみち日本の中枢が関東に移動するのは確実 織田軍NO2じゃ戦国大名の中で周回遅れ。それで出世でNO1と勘違いも無能。
兵の命を何と考えていたのか。 >>449
後北条は無理
あっさり秀吉に負けてたじゃん >>449
征夷大将軍になるには上洛して都を手中に収め
公家に根回しして天皇から任命されないといけない
室町幕府は京に置かれており幕府の場所は関東と決まっていない
都に幕府を置かない場合は鎌倉幕府の六波羅探題や江戸幕府の京都所司代同様
都に幕府の出先機関を置き軍勢を留め置かないといけない
関東から出なかった後北条に幕府は無理 朝鮮出兵の行き当たりばったり感。
寄る年並みが施策を焦らせたのかな? 日本軍はそれなり以上に強かったからなんとかなると思ってたんだろうなぁ。
九州征伐の時には既に唐入り構想持ってたらしいけど、朝鮮であれほど手こずるとは思ってなかったはず。 史実通りに小田原征伐が起きたらそうだが、徳川が居ないと北条と反目する理由も無くなりそうだが 結局秀吉が死んで生きてる大名の中で最も領土の大きい北条が力を持って、官位的にも上の方だっら、史実のように関ケ原的な衝突が起きて自然に北条に政権が移るよ 家康が織田家人質時代に殺されてたとしたら、そもそも三河国の支配権はどこが手中にしてたか
家康がいるいないにかかわらず、桶狭間の戦いが起きていたら、駿河国だけでなく遠江国も武田家が
支配してたんじゃなかろうか
そうなったら、信長だってそう簡単に戦線は広げられないだろうし、本能寺の変だって起きてなかったんじゃないの
秀吉が台頭する、という前提は無理な気がする >>458
信玄は自力で領土を奪って広げたのは1つだけ
武田に支配する力はない
よく武田を過大評価する人が多いけど、信玄は自力は1つだけしか領土を奪ってない まぁタラレバを言えば、信長の機嫌が悪かったなら秀吉は居なかっただろうしな… >>458
家康がいなかったら、桶狭間合戦が起きても三河を統一する武将が出てこなくなる
だから織田が三河へ攻め入らなければ今川の手に三河は残る
だから結果として今川はあまり衰退しない
だから武田も史実のように一撃で駿府を落とすように簡単にはいかない >>459,461
今川義元亡き後、武田家が駿河遠江をどうするかは、本題じゃないんだけどなぁ
義元亡き後も今川氏真が、武田信玄あたりに対抗できる力があったかどうかは置くとして、
仮に、今川家がそのまま勢力を維持できたとしたら、信長としては、上洛どころじゃない強敵を
背後に抱えるわけで、やっぱり秀吉が台頭できるかどうかわからなくなってんじゃないの、と
そうなったら、そもそも小田原征伐だの北条政権だの成り立たない話じゃなかろうか >>462
信長はあくまで駒だよ。光秀と秀吉という優秀な手下がいて対公家戦略も対足利戦略も対西国戦略も全てを完璧に回せたのがたまたま信長だったってだけ。
信長のもとにこの二人がついた時点で天下の趨勢は決まっていた。
東国は東国で勝手に力を蓄えてたしどう転んでも小田原政権のあとを継いだ大名が関東に政権を築くのは必然だったと思う。 徳川が台頭できたのは武田の軍事力をそのまま分捕れたのと、東国の地力を無傷で継承できたから。 逆に言えば光秀と秀吉が揃って今川や武田についてたらそこがてんかを握ってた。 まぁ歴史のタラレバは難しいよな。
家康が小牧長久手で秀吉を圧倒してこれが後に天下取りに繋がったっていうけど、
正直この1番の影響って秀次が負けた事だと思うの。
秀次が無様に負けたことを秀吉が叱責したとか言われてるけど、
これが後々の2人の関係に何か影響を与えていたとしたら… >>463
信長ありきの秀吉と光秀だろう?秀吉と光秀が駒だ! >>466
それなら秀吉が秀次を嫌うわけだな
秀次が負けたせいで家康は大幅に勢力を伸ばして秀吉に脅威を与えた >>468
秀次からすると踏んだり蹴ったりだぜ。
小牧長久手のあの不意打ちは秀吉が発案者って説もあるし。しかも敵はあの家康とはいえ、まんまと出し抜かれたのは秀吉も同じなのに…
これでお互い仲悪くなった挙句、最後やっぱあいつ信用ならねぇわー、ってなり秀次を殺害、
それで重用したのが家康ってそりゃないぜ。 「秀頼は生き延びて薩摩に行った」って話、
あれよく聞くと嫌な話なんだよな。
秀頼は薩摩で農民になりました。
聞けば秀吉は農民から駆け上がって天下人になったという。
その息子は天下人から下がって農民になった。
あぁ諸行無常…
ってお話っていう。 薩摩の在郷に酒飲みの大男がいて
それが秀頼で厄介者
城下にやってくると乱暴なのでみんな逃げたとか ねね「インポの秀吉が子供作れるわけがない。秀頼は秀吉の子じゃない。豊臣家は乗っ取られてる。何とかして」
家康「わかった。俺に任せてくれ!」
なんてアホな展開がない事だけは間違いないな。 おてもやん「恵方巻きの馬鹿食い騒ぎでアベコロナが大爆発や
お・も・ち」 伊達と浅野が非常に険悪で、伊達と蒲生も非常に険悪。
その中で徳川は、六男忠輝の正室を伊達家から迎え、五女市姫の伊達家との婚約を進めた。
一方で、九男義直の正室を浅野家から迎えた。
更に、三女振姫は、最初蒲生家に嫁ぎ、夫と死別後は浅野家に嫁いだ。
豊臣政権として、徳川家の牽制になりそうな東北に伊達家と蒲生家、山梨に浅野家が置かれていた中でのこと。
さすがに徳川家はどちらにもつかず上手く乗り切ったなと思う。 江戸時代に徳川の仲立ちで浅野伊達の手打ちが計られたが失敗した
分家の伊予伊達氏は浅野内匠頭に作法を何も教えず
伊達一門の田村家は令和の現在に至るまで
旧藩邸跡に内匠頭切腹の供養碑を建てることを拒んでいる 本筋同士は一応当代で和解したのにな
長益系織田と前田も仲が悪いんだっけか 佐竹も「浅野弾正(長政)に悟られないように素早く上洛して
殿下(秀吉)と直接交渉しないと奴がいて酷い目に遇う」
という旨の手紙が残っている
義宣の予感は適中し、佐竹一族の宇都宮家は浅野に目をつけられ取り潰された 実際に奥羽の取り次ぎは浅野だったので(のちに前田に代わる)
下総の千葉氏に寄騎した南方三十三館(常陸南部の国人たち)を
謀殺した佐竹義宣は浅野長政に経緯を知られたら危なかったのだが
秀吉の覚えめでたく何故か当代きっての律儀者と呼ばれた 豊臣は夏の陣で滅んでない
平氏も壇之浦で滅んでない
北条も小田原の陣で滅んでない 秀吉の代で天下を固めきれなかったのがね
織田家も信雄信孝では秀吉に敵わず簒奪を許した
豊臣も家康と戦えるのは秀吉だけだったけど大勢力を維持したまま家康を放置した
【7人目】第49ロシア軍司令部を破壊、ヤコフ・レザンツェフ中将戦死 [754019341]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1648198090/
394 ホスフェニトインナトリウム(神奈川県) [US] sage ▼ New! 2022/03/25(金) 19:17:36.65 ID:mC8t7Gx40 [1回目]
よくわからんから秀吉の朝鮮出兵に例えて
396 アシクロビル(新潟県) [CN] sage ▼ New! 2022/03/25(金) 19:19:03.25 ID:rDqBXVYF0 [6回目]
>394
加藤清正が死んだ感じか?
401 ラニナミビルオクタン酸エステル(神奈川県) [RU] sage ▼ New! 2022/03/25(金) 19:21:16.02 ID:2kqA+8IT0 [2回目]
>394
加藤清正が虎狩りして楽しんでたら熊に襲われて死亡
416 ホスフェニトインナトリウム(神奈川県) [US] sage ▼ New! 2022/03/25(金) 19:28:29.05 ID:mC8t7Gx40 [2回目]
>396
>401
一大事じゃないか
>>487
維持したままどころか織田政権下では三河一国の小大名にすぎなかった家康を
秀吉が天下ナンバー2の大領地与えて厚遇したんだよね
秀吉は家康が好きで好きで身内にして大厚遇したけど裏切られた >>8
少なくとも伊勢国主の道は家康残してたからな。
蹴ったのは淀と秀頼 >>490
家康はそんな提案してないよw
方広寺鐘銘事件で難癖付けられて謝罪に行った片桐且元は家康から
「豊臣家は俺に対して最大限の誠意を見せろ、分かるな」と言われて
秀頼が江戸城へ行く、淀殿を人質に出す、大坂城を明け渡して捨て扶持を貰う
のいずれかなら許してもらえるのではと淀殿と秀頼に提案しただけ >>491
>>490は夏の陣前の話、伊勢か大和に移るか浪人の追放どちらかを要求した >>492
だから夏の陣の前にも家康がそんな提案をしたことはない >>493
慶長20年3月29日付、4月1日付伊達政宗書状に記載がある >>494
慶長6年4月18日、4月21日付書状じゃなくて?
伊達政宗が今井宗薫に宛てて秀頼公は大きくなるまで江戸に人質として留め置き
大きくなったら2,3国与えておけばいい(伊勢とは書いてない)と書き送り
宗薫から本多正信へ伝えてくれれば家康の耳に入るだろうとしたが
家康に届いたかは不明だし、家康が秀頼に命じたことではない >>495
『大日本史料』に記載されている、綱文にも伊勢か大和とある 内政力しかないのに天下の差配を狙った三成のミス
外交力、軍事力、統率力が無さすぎた 豊臣秀吉が信長個人だけじゃなく織田家自体にも忠臣だったらその後どうなったんだろうな
あんまりこのifは聞いたことない気がする >>499
この板でも一時期しつこく言われてたぞ
信長からすでに家督を譲られていた信忠存命なら
家督相続争いは起きず織田政権存続だったとか
秀吉は三法師に岐阜城与えて大大名として遇してたし
関ヶ原でも西軍についてて不満はなかったんだよな
織田家を壊滅に追いやったのは家康
信雄に家督存続は認めたが零細大名としてだった 家康に全面的に降伏しどこかの小大名として残してもらうしかないよね
最後の将軍の慶喜はさすがだったね 豊臣が滅んだ本質的な原因は
豊臣政権が秀吉という天才に依存した個人商店だったからだよ
機能的な官僚団を作れなかったから、秀吉の死で政府が機能しなくなった
長く続いた戦国が終わり、大デフレ時代に突入したという情勢変化も大きい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています