なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。
彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。 >>16
もし随筆だったら王統譜より興味深いが、残念ながらそれは無いだろう
王統について書き遺すようなレベルの文化であれば、当時なら金石文の形で
実現しようとするのではないか。弥生期にはそれを可能にする技術があった
のではないかと思うが、出土していないので、今のところ王統など無かったか、
興味が無かったのではないかと考える。反証などがあれば指摘して欲しい >>17
というか、それなら硯で墨を磨って何を書いてたのか?という質問に戻るわけだが。
5世紀には倭王武の上表分のような優れた漢字文化があったが金石文は日本で出ない。
つまり出ないから「ない」とは言えない。 2世紀前半の三重の大城遺跡出土土器に書かれた文字は「奉」または「垂」らしい。
地方都市にまで難しい字が来ていた。
とはいえ、この字は首長のエンブレムのように使われたのかもしれない。
しかしそれであったとしても王統は伝達できる。 8世紀の神社の祭神の書き換えが
歴史学的には大ダメージだな。
ほとほとヤマト政権の捏造書き換え
焚書には悩まされる。
それがなくば明治以後の大暴走も
なかっただろう。 >>18
その質問の答えは >>15 に書いた
出ないから「ない」とは言えない。その通りだ。私も無いとは言っていない
ただ、なぜあると推測したのか、その根拠が聞きたかっただけだ
「ない」とは言えないから、あったに違いない、というだけのことなら、
あまり話を聞いても意味はなさそうだ 「日本に伝えた」とする朝鮮半島で山ほどの文字が出ていて、日本では出ていない
ならば、「なかった」ことでもいいが。
朝鮮半島のその時代の遺跡から文字が山のように出ている事実はあるのかな? >>21
>その質問の答えは >>15 に書いた
ということは「何らかの文書であったと推測できる」ということだな?
その文書が「公」なのか「私」なのかと言えば当然「公」だろうね。
俺はそれを言ってるのだが。
その「公」とは当然王統に関わるものだと思うのだが。 三輪 氏 安曇氏 物部氏 三上氏 忌部氏 紀国造家 久米氏 大伴氏 中臣氏 皇室
櫛御 方 穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都 天富 天道根 大久米 道臣 天種子 1神武
健飯 勝 摩幣区利 彦湯支 天夷沙比止 彌麻爾支 伊麻枳利 布理祢 味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻 意伎布根 意冨祢 川枯彦 和謌富奴 比古麻 味耳 稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主 小栲梨 出石心大臣 . 坂戸毘古 佐久耳 知名曽 五十真手 大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵 大綜麻杵 . 国忍富 阿加佐古 .久志多麻 久米大人 角日 梨津臣 7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男. .大加賀美 玉久志古 大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝 10崇神
大御 食持 百足足尼 十市根 鳥鳴海 多良斯富 .宇遅比古 七拳脛 武日 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 勝海足尼 胆咋 八倉田 麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 大浜 .五十琴 室毘古 佐岐大人足尼 豊布流 伊与足尼 佐彦 雷大臣 15応神
石床 浜子 .伊呂弗 比賀多 多比古足尼 塩籠 加志古 山前 大小橋 16仁徳 >>23
文書というのは広義の意味で書いた
おそらく何らかの情報、文字を書いたのであって
お絵描きをしたのではなかろうという意味
名前を書いたのかもしれないし、随筆を書いたのかもしれない
公か私か、という点についてはあまり興味が無い
できれば >>6 の根拠を聞かせて欲しい
私はそう >>13 で書いたつもりなのだが、
質問に質問で返されたので、残念な思いをしている >>25
>できれば>>6の根拠を聞かせて欲しい
>>6のどの部分の根拠? ふつーに春分秋分で2才
古代中国人もギリシャ人もオリエント人もユダヤ人も異常に長寿
孔子の「50にして立つ」など平均寿命越えたじじいになってようやく立つとか
あり得ない
弟子の顔回も40と言う平均的な寿命で夭折とかも不審 すまんそうだったかw
しかし30でも同じだ。古代中国の平均寿命が35〜50と言われている
時代だからね。 二倍暦だったからかもしれないし、単に盛っただけかもしれないし
旧約聖書の創世記なんかでもノアあたりまでは寿命がすごく長いし、
(この部分に至っては、神様が人間に絶望して寿命が減ったことになってる)
シュメールの王名表なんかでも寿命が長かったりおかしげな(実在を疑うような)名前があったりするし 在位が60年以上の天皇は60年盛っている
これは古事記や百済記との比較で確認できる
更に、魏志の記事から二倍暦を採用した事も推測できる(百済記も二倍暦という事になる)
以上の修正をすると卑弥呼の時代は天照とすっぽり重なる 崇神(4世紀初頭)
・
・
・
・
・
神武・ヒメタタライスズ(卑弥呼)(2世紀末〜3世紀初頭)
・
・
・
・
スサノオ=師升(2世紀初頭)
(・は一世代20年)
スサノオ=師升は生口160人を献じ、謁見を申し出たが朝貢に失敗しているようだ。
金印をもらえなかった。
この恥ずかしい過去を隠すにはヒメタタライスズ(卑弥呼)と神武の時代も隠さねばならない。
ここを基点にすればスサノオ=師升だと分ってしまう。
だから神功皇后を干支を120年ずらしてまで強引に卑弥呼の時代に持ってきて卑弥呼を隠した。
だから100歳超える天皇の記述になった。
そういう事だ。 >>32
>以上の修正をすると卑弥呼の時代は天照とすっぽり重なる
いや無理だ。w
アマテラスを卑弥呼の時代に持ってこれない。
>>33が事実。 確かに神武天皇と崇神天皇の間に
8人の天皇が実在したとすれば少なくとも
合計在位年数80数年〜100年間ぐらい
と見積もって良いんじゃなかろうか。
卑弥呼の後に神武天皇が即位したとなると
天皇一代あたりぎゅうぎゅう詰めという感じ。
卑弥呼の時代にアマテラスがいてその5世代後が
初代天皇だとすれば、神武天皇より崇神天皇をも
ってきたほうが自然。 神武〜崇神の10人の天皇じゃなくて
綏靖〜開化の8人の天皇の在位年数の合計がそれぐらいってことね。
神武〜開化まで親子継承が順調だったら、日本書紀なら
神武・孝昭・孝安・孝霊から60年ずつ差し引いて
その他に二倍歴を適用すればだいたい210年ぐらいになるか。 >>35
>卑弥呼の後に神武天皇が即位した
いや違うって。
神武は実在しただろうが、記紀で大きく誇張された存在。
大和のヒメ様に通い婚を許されただけのたわいない男。
権力比重ではヒメ(ヒメタタライスズ媛)80対神武20くらいだろう。
記紀では卑弥呼=ヒメタタライスズを悟られないために、
神武東征をことさら誇張した。
その結果、誰も初代皇后のお名前を知らないようになった。 ふ〜ん、東征は創作の可能性ありか。
じゃあ、神武は卑弥呼より先に死んで
卑弥呼ことヒメタタライスズヒメは孫
ぐらいの世代の天皇のときまで生きていた
と考えてるでOK?
崇神天皇即位が4世紀初頭のいつかが
やや不確定だが、それまで天皇一代十数年
は在位したと見ないとなー。
で、もう一つ気になるんだが卑弥呼の死後に
女王になった台与は誰がモデルなんだろう。
彼女もヒメタタライスズヒメの親族かな? >>38
>卑弥呼ことヒメタタライスズヒメは孫
ぐらいの世代の天皇のときまで生きていた
と考えてるでOK?
その通り。
安寧天皇の時代まで生きてたと思う。
ヒメがお婆ちゃんで孫の安寧がヒコだね。
>卑弥呼の死後に
女王になった台与は誰がモデルなんだろう。
4代懿徳の皇后・天豊津媛命だろうね。 畿内説では邪馬台国は銅鐸国となる。
なぜなら「其の国」は2世紀前半から存在してるからだ。
畿内で鏡は3世紀からだからな。
それ以前は銅鐸だ。
ということは卑弥呼は銅鐸族から出たという事でいいな?
では銅鐸族とは誰か。
出雲系カモ族だ。
カモからヒミコが出たのだ。
ヒミコとは誰か?
ヒメタタライスズ媛だ。
このヒメ様の元に、日向から来たイワレヒコ(神武)という男が通い婚を申し出た。 古代天皇の誕生年を推測。±10年ぐらいの誤差はあるかも。
1世代目 スサノオ(1世紀半ば生)
・
・
・
・
6世代目 卑弥呼(175年頃生まれ)・神武(?)
7世代目 綏靖・安寧(190年代〜200年頃生)
8世代目 懿徳(220年代生?)・台与(235年頃生)
9世代目 孝昭・孝安(250年代生?)
10世代目 孝霊・孝元・開化(270年代生?)
11世代目 崇神(290年代生?)
12世代目 垂仁・景行(310〜320年代生?)
13世代目 成務・仲哀(340〜350年代生?)
14世代目 応神(380年頃生?)
15世代目 仁徳(400年頃生?) 16世代目 履中・反正・允恭(420〜430年頃生?)
17世代目 安康・雄略(455〜460年頃生?)
18世代目 清寧(?)・顕宗・仁賢(470年代生?)
19世代目 武烈(510年頃生?)・継体(485年頃生)
20世代目 安閑・宣化(501、502年頃生?)・欽明(525年頃生?)
21世代目 敏達(547年頃生?)・用明(549年頃生?)・推古(554年生)・崇峻(560年頃?)
22世代目 押坂彦大兄皇子(565〜570年頃生?)・厩戸皇子(574年生)
23世代目 舒明(593年生)
24世代目 皇極(斉明)・孝徳(601〜605年頃生?)・天智(626年)・天武(630年代生?) 卑弥呼から天智・天武まで19世代と見なしてよいのではなかろうか。
実際の皇室系図の世代間隔は平安〜戦国期頃とあまり変わらない。
4世紀〜6世紀初めでも各天皇が活躍していたと推測される年代が
日本書紀と大きくずれている。古事記ともややずれている。 ✕平安〜戦国期頃
正確には10〜16世紀だな。平安時代でも桓武天皇から後三条天皇
まで11世代で300歳近い年齢差がある。ところが後三条天皇から
北朝の崇光天皇まで14世代だがちょうど300歳差。系図のいろん
な部分で区切ってみると13世代で300歳差になるところが多そうだ。 老臣の武内宿禰なんて三百歳前後
二倍暦でも使ってたんかなぁ 神武天皇の誕生年は分からないが、神武には東征のとき
既に吾平津姫との間に長男が(古事記では次男も)いたとされる。
ヒメタタライスズヒメは神武からすると娘ぐらいの年齢の女性で、
綏靖は神武35〜40歳ごろの子だった可能性もある。
安寧天皇が2世代目なのか3世代目なのか微妙。
日本書紀では天豊津媛命は神武とヒメタタライスズヒメ
との間の玄孫だが、ここでは台与を卑弥呼の孫とした。
早く生まれたひ孫かもしれない。それが一世代上の懿徳
の妻となった可能性もある。
崇神天皇は即位してまもなく二人の皇女に倭大国魂神と
天照大神を祀らせた記事などから、即位当時30代に達していた
と思われる。垂仁紀には崇神天皇が短命であったという記述がある。
それ以降の天皇もあまり長生きではなく30代や40代で亡くなった
人物がたくさんいたと思われる。
日本書紀では允恭天皇の在位年数は42年と長く、その間に皇子皇女が
生まれたとされるが、皇子・皇女の約半分は即位前に生れていたのでは
なかろうか。在位年数もそんなに長かったとは考えられない。
継体天皇の誕生年は日本書紀の450年より古事記の485年のほうが真実味
があるのでこれを採用した。当時の天皇は允恭…、いや雄略ではなかろうか。
これより少し前、480年ごろ雄略は顕宗・仁賢の二人の父、市辺押磐皇子を暗殺
した。そこで顕宗・仁賢の兄弟は470年過ぎ生まれ、仁賢の皇女、手白香皇女、
橘皇女、武烈は505〜510年の間の生まれ、継体と手白香の間の欽明天皇は
継体が大和に入ったころの誕生で、継体が531年(一説に534年)ごろ亡くなった
ときまだ幼児だったのではなかろうか。 推古天皇・舒明天皇・天智天皇の誕生年は通説どおりとした。
雄略から欽明までの天皇は通説よりもかなり後に生れたに違いない。
敏達天皇とその曽孫の皇極・孝徳も通説より十年ほど
遅く生まれたのではなかろうか。皇極が天智を33歳で産むよりも20代で産む
ほうが現実味がある。天武を産んだとき30代の可能性はある。
系図の世代はあくまで男系中心に数えているので、実際には叔父と姪の
婚姻関係もあるから、男系では継体→欽明→敏達→押坂彦人大兄皇子→
舒明→天智→持統の7世代(1世代26.7年)でも数え方次第では、継体→
宣化→石姫皇女→敏達→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→皇極→天智→持統
で9世代(1世代20年)となる。 >>41-42
スレ主です。
素晴らしい。
もひとつ倭国王師升=スサノオだろうね。
記紀編纂者が一番隠したかった事だろう。
日本は中華の属国であった。
スサノオ=師升までもが朝貢してた。
記紀を読む未来の日本人のためにも、
こんなぶざまな歴史は隠さねばならない。
そして時代を大きく古くずらした。
その結果が100歳超える天皇になった。
これで間違いないでしょう。 日本は3世紀後半台頭した鮮卑族北魏のパクリ
皇祖神=黄帝、天照大御神
初代皇帝=成皇帝、神武天皇
欠史=節皇帝〜聖武皇帝、綏靖天皇〜開化天皇
始祖=神元皇帝、崇神天皇
建国者=道武皇帝、天武天皇以降が前身の代国、倭国の大王を皇帝、天皇に追尊しまくるw ヒミコ≒大倭日女命(大女王を意味する/また、竹野(タカノ)媛命)(6世孫世代)は孝安天皇(当時は弱小領主程度)の義理の姉。
その子孫らがいわゆる和邇氏(和邇氏の祖の世代)。
トヨはヒミコの兄の孫世代。八世孫世代。天豊媛命。同じく大倭日女命。竹野媛命。
確か、、、開化天皇の后さま。
スサノオとは後の天皇(亀)が最大庇護を受け歴代姻戚関係をたやさなかった本宗の大王家と王族(浦島太郎)の概念上の存在。
時が満ち、いよいよ力を着けおとなしく偽装していた亀がガメラに豹変して浦島太郎らを撃滅
(崇神、垂仁)
決死八世代の真っ只中がヒミコら先天の王権の時代ゆえに後の天皇家や朝廷らが記述が憚られた ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>52
それ曲学さんと同じ説かな?
でも時代が合わない。 この掲示板に書き込むつもりですが、まだ過去の投稿を全部見ていないので、とりあえず、あいさつ代わりに。
古代天皇の年齢が100歳を超えるのは、現行太陰太陽暦の1年を、2年(以上‽)と据え烏、独自の和暦(倭暦)が存在したことが一つ、もう一つは、
もう一つは、過去の大王家が、中国に朝貢し、その権威により、国内を支配していた、という事実を
隠蔽する為に、神武即位をォオh場に過去に遡及させた為。
尚、私は記紀では神代と人代を明確に区分しているので、スサノヲのような
「神格」とされた存在は、実在の大王ではありえないと考えている。
従って、帥升ハスサノヲではありえない。 NO.32で、倍暦支持者がいたが、どうも安本美典氏の説に近い印象を受けた。他にも古田武彦氏も、倍暦論者だ。
私は邪馬台国近畿説の立場なので二人とは意見が異なるが、『日本書紀』などに
倍暦の根拠が明記されているので、『魏志倭人伝』の記述とも矛盾がないから、倍暦が存在したと考えている。
『日本書紀』敏達紀と欽明紀の、立太子記事、『古事記』と『日本書紀』の継体天皇の寿命等、継体欽明皇統の時代でも
倍暦が行われていた可能性は強い.おそらく推古天皇の時代までは、倍暦は行われていたのだろう。 >>55
これはこれはさっそく書き込みどうもですw
私も名前入れますね。
> 尚、私は記紀では神代と人代を明確に区分しているので、スサノヲのような
「神格」とされた存在は、実在の大王ではありえないと考えている。
従って、帥升ハスサノヲではありえない。
自分は逆に、充分、人代と認識してたスサノオを、
遠く神代に追いやる必要があったと考えてます。
スサノオが師升だと分っていたからこそ、
やはりそれは書けなかった。
国民にとってスーパースターであった人物の朝貢、
白村江の敗戦時、これはあまりに辛く、
やはり書けなかったであろうと思ってます。
それゆえ、時代を大きくずらした。
こういう事だと思ってます。 もしかしたら今上陛下は100歳どころか新和も含めた歴代天皇のうち最長寿になるかもしれない。 >>55
それはそうと、その「YAP?」という名前、hnさんでしたか。
いや、2ちゃんに来た10年位前、いやもっと前かな、
そのハンドルネームを見たことあります。
そうですか、そうですか… 2世紀初頭 帥升=スサノヲ
3世紀前半 7代目大国主⇒事代主, 卑弥呼=天照
3世紀後半 神武、大和南部に居住
5世紀初頭 崇神、纏向に進出、邪馬台国勢力を伊勢に移転
賛=垂仁
珍=忍熊or神功
済=応神
興=仁徳
武=履中&允恭 YAP?というのは2ch専用の私のHNで,ssnさんのお察しの通りです。
ここ数年書き込んでいないので、誰か他の人が使用されていたかもしれませんが。
倍暦について、ご都合主義との批判がありますので、とりあえず、反論を先にします。 >>61
日本書紀編纂前は推古天皇の75歳が最長寿で、たぶんその年齢まで
生きたことに推古本人が驚いたかもしれないが、その後古代天皇の
寿命が水増しされたことで白河天皇や後水尾天皇も自分が最長寿の
天皇になったことに気づかなかったんだろうな。
さすがに昭和天皇は自分が最長寿じゃないかなと思っていたかも。
>>64
倍歴はなあ…。ある部分は3倍、4倍ぐらいにしないと2倍じゃ
ちょっと長いんじゃないの。日本武尊の年齢とかそのまま30歳でOK
でしょう?神功皇后が100歳まで生きたというのはちょっと信じがたいが
31歳で応神天皇を産んだは信じていいのでは?それとも16歳とか? 倍暦の根拠
@敏達天皇の立太子時期
『日本書紀』欽明紀:欽明天皇15年春正月戊子の朔木上午(7日)に
後の敏達天皇を、皇太子にした
『日本書紀』敏達紀:欽明天皇二十九年皇太子になる
A継体天皇の没年
『日本書紀』継体紀:継体天皇春2月丁未(7日)死亡、82歳
『古事記』継体記:43歳((丁未年4月9日脂肪)
ところで、継体天皇の治世を、百済系史料では25年ではなく、28年としている。
で、継体紀の82歳に3年足せば、85歳となり、継体記の43歳の倍数となる
後仏教公伝の時期の2説、338年と552年説のずれも、じてゃ倍暦からの換算ミスで説明可能だが、
これは、継体没後の安閑・宣化朝と欽明朝の二王朝並立問題とも絡み、ややこしいので、省いたが、
元興寺露盤銘や聖徳太子即位説とかとも関連し、説明が面倒になるので省いたガ、
これも倍暦の根拠になり得る。
いずれも、記紀の近現代史とも言うべき、継体欽明朝の話だ。
従って、倍暦、元嘉暦、干支などが、儀鳳暦中心に切り替わるのは、推古天皇の次代になる。 >>66
倍歴の話になると私にはチンプンカンプンなのですが、
一方で、崇神を4世紀初頭〜前半と言っておられましたね。
これには大賛成です。
でも「崇神=4世紀初頭〜前半」を倍歴で説明はできないと思うのですがいかがでしょう? 継体欽明紀の記載ミスを根拠にされてもねえ
邪馬台国以来倍暦だった根拠はないんかい >>65
神武天皇が127歳だが今上はそれ位は超えそうだな ある部分は倍歴が当てはまりそうなところもあり
ある部分は思い切り60年を上乗せ、つまり干支は合うように
在位年数に手を加えているんじゃないかな。
仁徳天皇の場合、在位年数87年より在位年数27年のほうが
もっともらしそうだし、崇神天皇も4世紀初頭の天皇だとすると、
日本書紀の干支だけが正しいとして在位前97年〜前30年(68年間)
を在位324年〜331年(8年間)に変えればいいんじゃないかな。
神武天皇が亡くなった後、長男のタギシミミがヒメタタライスズヒメ
を娶った話が古事記にあるので、神武天皇が亡くなった時大和で生ま
れた子供たちが20代に達していたか疑わしい。神武天皇の在位年数は
38年(二倍歴)や25年(三倍歴)でなく16年(干支だけ同じ)ではな
かろうか。これは綏靖天皇が14歳で皇太子に立てられた計算になるこ
ととよく合っている。 ただ崇神天皇の先代の開化天皇、その後の景行天皇、成務天皇から
60年を引いてしまうと在位ゼロ年になってしまう。先々代の孝元天皇
の在位年数も57年、垂仁天皇の在位年数は99年を39年に改めても長す
ぎる印象がある。開化天皇の場合、実際の寿命は111歳から60年を引い
て51歳、在位年数は二倍年暦で30年ぐらいにすればよいかもしれない。
崇神天皇は在位8年40歳ぐらいで亡くなったとすれば短命だったという
記述も頷ける。垂仁・景行はそれぞれ20年は在位しただろうと思う。
垂仁は40歳ぐらい、景行は50歳ぐらい、成務は30代、仲哀は20代半ば
ぐらいで亡くなったと思う。景行が東国、九州征伐の業績を残してから
神功皇后がクーデターを起こし応神が即位するまでそれほど年数が経って
いない感じがする。 日本書紀では継体天皇は17歳で安閑天皇を、18歳で宣化天皇を
儲けた計算になる。継体天皇の崩御年が古事記の527年(丁未の年)
でなくそれに7年を加えた534年(甲寅)だとすると、継体は50歳で
亡くなったことになる。日本書紀ではこの年が安閑天皇の元年で、
安閑は翌年535年、70歳で亡くなったとされているので、これに二倍歴を
適用すると35歳になるから、継体は485年生まれ、安閑は501年生まれになる。 要するに、記紀の何れの記事からも、日本独自の「倭暦」が存在し、それは『魏志倭人伝』の
春耕秋収を、倍暦と解釈すれば、卑弥呼の時代にも行われていたことになる。
記紀の記録を全面的に正しいとして、そのつじつま合わせに、倍暦どころか、3倍暦や4倍暦をも仮定する人もいるが、
私はそれこそ根拠の曖昧なご都合主義だと思う。
S下肢、1年(トシ)=12月(ツキ)、一月(ツキ)=十四日(小の月)、十五日(大の月)という太陰暦の和暦の存在は
認められるべきだろう。辛酉革命説に拠り、神武紀元を遡及させた為、倍暦での年齢とも、大幅にずれが生じたのだと考えているが、正直、補正方が思い浮かばない。 国家の書いた書物なんだぞ。一年を二年と数える暦が使われていたのではなくて
年数をいじり回しての皇室の権威造作ぐらいやってると見ていいと思うが。 どちらにしても、考古学的には、崇神天皇が4世紀初頭になる可能性が極めて高い。
この時期の干支は、古事記の方がはるかに信憑性が高いと思う。
古事記によると崇神の没年干支は「戊寅」
考古学と照合すれば、それは318年だろう。 仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
信憑性が高い。それに合うのは380年だ。
応神天皇の時点で王朝が変わったという見方もあるがそれは置いておき、
神功皇后の摂政元年は381年で摂政期間は9〜19年でないかと思う。
日本書紀編纂者は神功皇后が卑弥呼でないことぐらい百も承知で
180年も前の人物に設定した。そうなると神功に続き応神・仁徳・允恭も
史実より過去の人物とされ在位年数が伸びるのは当然のことだ。
60×3年分のズレを潰しまくってどこかで年代を正常にしなければならない。
継体天皇の即位年は526年頃だったがこれを20年前倒しし、彼が越前国で
青年期だったときの天皇、雄略天皇の在位期間を20年ほど前にずらしたことも
影響し、継体・安閑・宣化三天皇の寿命が伸びたのかもしれない。 以前、このような書き込みがあったはず
「それで、墓荒らしは、終わったの?」 それと、このような書き込みとか
「他人の家の、お墓参りに行く人なんていないでしょ」 >>81
>仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
>信憑性が高い。それに合うのは380年だ
そうかな。仲哀なら、俺は古事記の壬戌(362)没が正しいと思う。
根拠は、崇神の前後である開化、垂仁、景行の没年干支が書かれていない。
書かれていないという事は「伝承できませんでした、すいません」と言ってる事だから、
じゃ、逆に没年干支が書かれてる崇神、成務、仲哀は正しいのだろうとなる。
一方、日本書紀はもう何が何でも書いてあるわけだから、
逆に信憑性が低いと思う。
古事記の方がよほど誠実だ。
というわけで日本書紀の応神元年390年までは考古学との整合性も出てきてるので、
信頼できると思うが、それ以前は信頼できない。 >>85
スレ主の主張と>>24の豪族系譜との比較により
神武(卑弥呼の時代)〜崇神までを6世代、仁徳までを10世代
とすると、仲哀天皇が340〜350年代の誕生で380年頃に応神天皇
を残して亡くなったとして特に問題ないと思われる。
継体天皇の誕生年を485年とすると、5世代前の応神天皇の誕生年
は362年頃もありうるが、380年であっても一世代21年で子供を作
ればちょうど105年差になるのでありえない話でもない。
崇神天皇崩御から成務天皇崩御まで37年(319年〜355年)を
入れ込むか39年(332年?〜370年?)を入れ込むかあまり大差ない。
仲哀はとりあえず崇神の孫世代と考えている。
記紀通り仲哀は崇神の玄孫だというなら崇神の没年を318年にすると
仲哀の没年を380年以降に持ってこないと不自然。362年52歳没だと
崇神の存命中の誕生になる。崇神天皇はよほどの長生きだったのか。
仲哀天皇は52歳でなくもっと若い年齢で亡くなったに違いない。 何も知らないんじゃないのか?『聖造』の人というのは何者だと思う 「大和朝廷こそ狗奴国である」で検索
blog.goo.ne.jp/ryuhide/e/fb574a4a6cc1891253885f48d1610171 ssn>倍暦の話になると私にはチンプンカンプンですが、
倍暦についても、安本美典、古田武彦氏ら、諸説がありますが、私が最も納得できたのは、
貝田禎造氏『古代天皇長寿の謎』(六興出版:昭和60年12月発行)です。
と言っても、全部に納得したわけではありませんが、倍暦の存在を認めざるを得ないと思いました。。
日付の入っている記事で、16日以降というものがほとんど存在しない、という事実と、
夏であるはずの季節にしばしば、雪の記事があることなどです。
しかし氏の年代観に完全に同意は出来ず、継体天皇の即位年から、逆算して、神武天皇即位年を出そうと試みましたが、
どうも成功していません。
一応、貝田氏の著書から、巻末の天皇の没年を記載します。
神武天皇:AD195年没
綏靖天王:AD204年没
安然天皇:AD213年没
懿徳天皇;AD222年没
孝昭天皇:AD242年没
孝安天皇:AD267年没
孝霊天皇:AD286年没
孝元天皇:DAD301年没
開化天皇:AD316年没
崇神天皇:AD333年没
私は欠史8代の前半の天皇の没年が詰まり過ぎているのが、気になります。特に神武と綏靖の年代差が10年に満たないというのは、
おかしいと感じています。神武は、AD107年前後には、成人していたと思います。 >>89
反正天皇あたりから古事記と日本書紀の干支が違ってきていますね。
特に応神以前からは大きく食い違いますね。
記と紀のどちらかが間違えてるという事ですね。
私は日本書紀だと思います。
理由は>>85にも書いたように、
「書かれていない」ということは「伝承できませんでした」という事で、
逆に誠実だと思うからです。
したがって崇神の没年干支が考古学と整合させて318年。
これ以前を遡るのは無理だと思います。 YAP?さん
>>89
>神武天皇:AD195年没
おっw
今気づきました。
私の年代観と同じだ。
つまり卑弥呼と神武は同時代ということですね。
もはや卑弥呼は一人に絞られましたねw
その時代にヤマトに女王がいました。
ヒミコという名前に最も近い女王でした。
いかがですか? 紀年のない古事記になぜか崩年干支
しかも分注として後で書き加えられたものだ
書写のいつ誰が書き加えたのかも分からない
信憑性?どこにあるの >>92
>しかも分注として後で書き加えられたものだ
書き加えて良いのなら、
開化、垂仁、景行の没年干支は何で古事記に書き加えなかったのだろう? 崩年干支は真福寺本とか一部の写本にしかないからねえ
往年の歴史学の大家はだいたい否定的だよね まあ崩年干支は神社伝承レベルだね
信じるも信じないもあなた次第 >>95
別に構わない。
考古学的に崇神が4世紀初頭である可能性が極めて高くなっている。
俺にとってはそれだけでいい。 >>93
全ての天皇について書き加えなかったからといって正しいことにはならないが? >>97
その理屈なら間違っているとも言えないよね。 スサノオが実在した、などとは津田史学や、
その影響を受けた近代文献史学の人達には、
にわかに受け入れがたいことではあるだろう。
しかしだ。
2世紀前半の出雲の田和山遺跡からスズリの破片が発見された。
この時代に文字があったとは認めれない学者は、
このスズリをあくまで「権威の象徴」と言ってた。
ところが九州からもスズリの破片が発見された。
もう弥生時代に文字がないとは言えなくなった。
ではその文字で何を書いてたのか。
王統、王権に関わること、「官」しか考えられないではないか。
崇神が4世紀初頭である可能性が高い。
ならば神武、または神武以前の系譜もおおよそ正しい。
そしてスサノオも実在した。
彼こそが師升であった。 『古事記』の崩年(没年)干支や、或いは太歳年号と言ったものを、同艦がW手良いのか、正直な所判りません。
従って今の所は、記紀の「系譜部分」を基本的に信用する(時間との関係が切断されている神代の神々は徒然除く)
という考えで、記紀を解釈していryにが私の立場ですが、神武とその子綏靖の貝田氏説が、記紀の系譜を信じる以上、
整合的でない事は明らかです。
神武・綏靖・安寧の初期3代が、没年が9年違い、というのは、生年に触れていない以上、生物学的にはあり得る話だが、
現実の親子孫3代では、神武の子のタギシミミ、キスミミの存在を考えると、成立し得ない話です。この辺りの貝田氏の論稿は記憶していないが、
或いは安本氏の古代天皇の平均在位年数約10年という説の影響を受けているのかもしれません。
貝田氏の推定没年邑知、初期の3人に加え、4代懿徳天皇も、父の没後9年で死亡しており、以後の5代孝昭天王意向が、その父天皇よりも
15〜25年後に死亡しているという、極めて生物学的に自然な状況と考えられるのと皮脂、
明らかに、神武・綏靖・安寧・懿徳4代は、一律9年刻みの死亡間隔と異常性を示しています。
これは生物学的により自然な、20年程の没年の感覚を考えれば、懿徳天皇の没年AD222年を基準とすれば、
安寧天皇AD202年、綏靖天皇没年AD182年、神武天皇没年AD162年頃となります。
実際には、タギシミミ、キスミミと綏靖が1世代差あったとも考えられるので、
神武天皇はAD150年頃に没し、タギシミミが義母を娶り、神武末年の子である綏靖天皇兄弟3人が
ほぼ成人に達し、異母兄を除いたと想定すべきでしょう。
宋であれば、神武は,AD107年の倭国王帥升等の生口献上時には、既に生誕しており、この事件と
神武東征とが関係があると考える余地が出て来る。 なるほどYAP?さんの考えでは神武=帥升があり得るという事ですね。
記紀の神武の時代が、古く大きく引き伸ばされてる理由を、
日本の国史を「中華の属国でした」から始めるわけにはいかなかったので、
それゆえ、時代を大きく引き伸ばしごまかしたという事では納得できる説ですね。
もう、おそらくそれ以外に理由はなかろうと思います。
私は帥升=スサノオだと思ってます。
神武が実在なら、スサノオはほんの5世代前の人物ですから、
これを非実在にしてしまうのは無理があるような気がします。
結局、考古学的にも整合性がある4世紀初頭の崇神を基点に、
神武まで6世代と見るか(先代旧事本紀、中臣、鴨、三上祝などの系図)
記紀の通り9世代と見るかの違いですね。
私は6世代だと思います。
それで卑弥呼も解けますから。 【田布施システム】の定義
・全ての戦争は支配層マフィアによる茶番である。 (少なくてもワーテルロー以降の殆どの戦争や事件に関して証明出来る)
・全ての宗教は支配層マフィアの道具である。
・敵対する思考・組織を乗っとれば、それらを完全にコントロールする事が出来る。
・世界中の中央銀行と金の価格を決める権利が在れば世界を支配する事が出来る。
上級者以外視聴完全不可 イルミナティとは
https://www.youtube.com/watch?v=HDctJ2IN6us
陰謀論の研究、日本を牛耳る田布施システムとは
※週刊ポスト2017年1月13・20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170106_480581.html
銀行のタブーに気付いた経済学者は大学を追われマスコミも無視する。これは陰謀論ではなく現実に日本も闇の勢力に支配されている証拠ではないか?
https://www.youtube.com/watch?v=kG3TeORdYkI
天皇は山口県田布施朝鮮人部落出身
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSu(NG)ワードU
歴史=支配者都合で創られたモノ
「宗教」も「天皇」も支配者の道具として外国から来た
2chで「田布施システム」で検索 ssn>なるほどYAP?さんの考えでは、神武=帥升があり得るというという事ですね。
いえ、そうではなく、「倭国王帥升等」の武闘・強硬派路線との政争に敗れた
南部九州勢力(東鯷人勢力:会稽郡に朝貢していた倭種の集団)との融和派であり、
自身も隼人クマソ系と婚姻していた神武を含めた京大が、北部九州から、同族の居た
近畿へと、い儒した、という考えです。
「倭国王帥升等」と「 」で囲んだのは、「帥升」(あるいは「師升」)なる人物が、
倭人諸国を代表する王であったのか?がまず議論されるべきだ、という意味合いからです。
抑々、一国の国王が、自ら中国に赴いて、皇帝に拝謁する、というのは、海を隔てた日本列島の
状況からは考えにくい。しかも『等』という文字がある。帥升が王名であるならば、
複数の王が居たか、王とその臣下を同列視している記載になる。
従って「倭国王」の「帥」(又は「師」)即ち軍事指揮官の「升」という使者らが、拝謁を願い出た、
都解釈すべきです。
「帥」は『後漢書』その他に北方、東方の諸民族の酋長というか、「大帥」「小帥」
等と用例がみられるし、「師」は軍事用語でもあり、軍官wp意味した語彙と考えて良い。
そうすると、死者の名が「升」だと言う事になる。
これを「スサノヲ」とするのは無理がある、という考えです。 大丈夫です。今上天皇が150歳まで生きられるから今上の存在をもって神話の正当性、及び皇統の神秘性をすべて証明する生き証人になられる事であろう。 >>1
日本の歴史は奈良時代あたりからだよ
それ以前は妄想と作文の世界 >>1
70年前の南京虐殺や慰安婦問題もはっきり解らないのに1500年前のことなど妄想作文でしかない >>104
なるほどそうですか。
まぁ屁理屈言えば、当時の実質の王はアマテラスという女王だったわけですからねw
スサノオは軍事長官的な意味合いもあったかもしれません。
とはいえ、アマテラスなんて本当に実在なのかという話になりますからね。、 とはいえ、崇神が複数の考古学的痕跡から4世紀初頭である。
そして奈良盆地で環濠集落が終わり、
古墳時代になるという大変革がおきる2世紀末までおおよそ5〜6世代。
崇神以前の5〜6世代の人物は充分にその実在を想定してよいし、
欠史8代なんて言ってた津田史学はもはや昭和の遺物となりつつあります。
私は嬉しくて仕方がありません。
堂々と卑弥呼探しができるのですから。
そして見つけましたw 白村江の戦いで日本が勝っていたら記紀の編纂はなかった。
帝紀と旧事で充分であった。
帝紀と旧事には、おおよその実年から卑弥呼と師升が誰なのか書かれてたはず。
「我が国は卑弥呼と師升の時代、中華に朝貢してました。属国でした。
しかし、今、あの中華帝国に戦争で勝ちました。
すごいでしょ、日本は」
となってた。
勝ったことで精神的優位になれた。
まるで今の日本人が中国にコンプレックスを感じないのと同じ感覚だったでしょう。
しかし白村江の戦いで負けた。
卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた上に、
さらに白村江の戦いでも負けた。
当時の日本人には精神的劣等感しかない。
そうなれば卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた事実を隠すしかない。
そして大きくずらした。
それが100歳を超える天皇の記述になった。
そういう事でしょう。 記紀が日本御統治権を主張する根拠を、中国中原王朝(後漢、曹魏、劉宋以下南朝)に求めず、
北朝の後継者たる隋・唐とも、半島支配権をめぐって利害が対立したという時点で、
支配の正当性を中国とは絶縁し、自らの祖神に求めるという決断がなされたのでしょう。
この時点で、その支配者の起点をどこに置くかで、辛酉革命説を採用したことにより、
古代の大王=天皇の寿命と在位期間大幅な増加とその在位時期の遡及が決定したが、
一方で変えてはならないのは、大王の属する「宗族」即ち王族〜皇族の祖先祭祀であり、
従って、その系譜からは、記紀編纂時の大王家とは無関係の大昔の大王は除かれた(省かれた)。
結果的に、応神以前は、単純な父子継承の形になった。しかし継体欽明皇統が前王統の
直系ではないことは、当時の近現代史年て、皆が認識していたから、応神王統については、
兄弟継承が記録された。
時代の遡及には、和暦(倍暦)が中国の太陰太陽暦(元嘉暦、儀鳳暦)の2ばい8以上)となっているのを
利用したが、それでもBC660年には遡及させられない為、史官が何らかの机上操作を行った。
ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。
そのように考えれば、日本の史書と中国の史書との矛盾は、解決される。 日本の神話の一部だけをあげつらって日本を卑下するやつっておもろいね。
じゃあ、人間は神が作ったとかイブはアダムの肋骨からできたと書く聖書と
それを信仰する人たちをバカにしないのは何で?
血の雨を降らせた中国の神話をバカにしないのは何で?
ギリシャ神話のばかげた話をバカにしないのは何で?
どうして「日本神話の天皇が100歳を超える」ことだけを取り上げるの?
アダムの肋骨や蚩尤に比べたら、ささやかなお話だと思うけどなあ。
ねえ、なんで肋骨をばかにしないの?蚩尤をばかにしないの?
ねえ、どうして?
え?白人はすべて正しい?中国は中華の国ですべて正しい?
日本ごときがでたらめな神話で古い国家の起源を主張するんじゃねえよって?
100歳を超える天皇がいるから、日本の神話は全部でたらめで、天皇の皇統も
全部デタラメのでっち上げのはずだって?
肋骨やイエスが神の子は正しくて、日本神話はデタラメのでっち上げ?
蚩尤は正しくて、アマテラスはでっち上げ? >>86
仲哀は若くで死んだのに賛同する。
古代の天皇の子女の数は、天皇が長寿であれば多くなり、后妃が多ければ多い。
古代でなく中世も近世も同じだ。武家でも同じ。
信長も家康も子女は多い。
40〜50歳まで生きたら子女はもっと多いはずだ。
数人しか残さなかったということは、30歳前後で死んでしまったのだろう。 古墳の年代や七支刀や中国朝鮮の記録から総合的に見れば、神功皇后は四世紀後半に
活躍した人であり、427年頃に死んだ仁徳のばあさんであるから、矛盾はない。
仲哀は若死であり、親世代である成務も若死にである。
景行は長寿と考えられる。
成務が355年であるなら、景行は350年頃に60歳位で死んでおり、仲哀が362年頃に
30歳位で死んだのなら、矛盾はない。
両道入姫命の存在を考えると、また景行の時に皇位相続争いが見当たらないことも
見れば、垂仁は特別短命ではなく、どちらかと言えば長寿に近かったと考えられる。
それからすると、垂仁の時の争いは、崇神がそれほど長寿ではなかったことに
なるが、短命ともいい難い。
五代の天皇に使えたという伝承の武内宿禰が75歳まで長寿だったならば、400年頃に没し
325年頃に生まれており、18歳頃から数年間晩年の景行に仕えていることになり、
矛盾はない。70歳でも矛盾はない。
成務が死んだ時、ヤマトタケルはすでに死んでおり、成務とヤマトタケルは
それほど年が近かったとは思えないが、何故仲哀が後継者にされたのかよくわからない。
成務と同母の五百城入彦皇子もいたはずだが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています