なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。
白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。
彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。 昔あった小さい国が朝貢したくらいで朝廷の価値は下がらないと思うがなあ 長年に渡って三跪九叩を強制させられてたという惨めな歴史がある朝鮮ヒトモドキが「倭は帥升の土下座外交から始まったニダ〜」って喜びたいだけ でも倭に百余国あるうちの一つの王でしょ
土下座くらいさせてやれよ |`゙'''ー==============ー'''゙|
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∧,,_∧ ( ))) ) ∧,,_∧ ヒェー、宗主国様お許しを…
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..⊂、`ヽ⊃ >⊃ ..と< とノレ
∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン… >昔あった小さい国
小さくない。
弥生時代の青銅器文化圏は西日本全体にわたる大きなもの。
ここの王が朝貢したのなら小さい話ではない。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_65.jpg 本当に頭が悪いんだな
アメリカに住んでいる、住んでいたけど、
中国人(漢民族)ですというのと同じ
ちなみに家は『松傾』?本人なのかな?
中華だと言っている人がいるでしょ >>746
お前はとにかく1秒でも早く首を吊って死ねってば >>742
神武天皇以降を架空と言わなくなっただけ進歩してる |`゙'''ー==============ー'''゙|
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∨ ∨ ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン… >>748
あれを架空扱いしてたのってGHQじゃん
朝鮮の人たちは実在を前提に、それに対抗して檀紀を作ってた >>745
それが統一王朝なら百余国とか書かれるわけがないじゃない 日本書紀は元々雄略紀が第一巻
雄略紀から日本書紀執筆時期の「近代」にあたる部分は
中華帝国人に執筆してもらった
だからこの部分が日本書紀の本編=本紀であり
紀伝体で言うところの「紀」すなわち歴史的経過を記そうとしたもので
他国特に中華帝国人の目に入ることを前提とした
正統な漢文となっており中国書からの丸パクとならないよう配慮がなされている
実際には少なくとも口承伝承の歴史範囲では「土着」の氏族の共通の伝承となっていた
雄略もはっきりとした時代は当時の人間にはわからなかったし
雄略より後の何世代もの大王の伝承も怪しげなものだった
仁徳なる人物が実在してかつその嫁が書いた詩が本物なら
仁徳は雄略よりずいぶん後の時代の人物になってしまうとかね
これに対し日本書紀本体の執筆からずいぶん遅れて書かれた
雄略紀より「前」の部分は百済訛り+和習のなんちゃって漢文
中国書からのパクりにもいっさい躊躇がない
この部分は元々紀伝体の「列伝」つまり紀=歴史の流れとは
別に人物評を記すもので
その順番は実際の歴史の順とは関係がない
ましてや血統のつながりなんぞとは本来まったく関係がないんだよ
日本書紀の場合本紀には含まれなかった各氏族の口承伝承を
「列伝」としておさめる作業の中で各列伝をすべて「紀」=歴史的経過に書き換えた
そのずいぶん乱暴な細工がなされたのが日本書紀の「前半部」 >>752
なるほど
巻22、23も完全に創作ってことか >>751
>それが統一王朝なら百余国とか書かれるわけがないじゃない
それは国という概念の問題。
江戸時代にも「信濃の国」「越後の国」などたくさんの国があった。 あ、ごめん。
アンカーミスではなかったね、すいません。 >>755
江戸時代の外国人が日本は百余国に分かれてるなんて思うかな?
本国にそう報告するかな?
しないと思うよ 日本の古代史のスレで、半島系パヨクが日本の歴史を短くしようと
コンプレックス丸出しで書き込むのはどうにかならんかね? いや、日本の歴史はこのスレの主張に合わせても
十分に長いと思うぞ。崇神天皇による建国から1700年。
卑弥呼と神武(実際には大王じゃないけど)の時代から
でも1800年あるし、帥升からだと1900年もあるじゃん。
天皇を人間と見なさず、考古学的な裏付けもなしに非科学的な
天皇の長寿を前提とする皇紀を使おうという右翼こそ日本の恥
さらしだよ。現代の日本は土人国かな? 右翼はどうしてそこまで捏造、誇張された「皇紀」
なるものに拘るのかな?人を騙すのが好きなの? ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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>卑弥呼と神武(実際には大王じゃないけど)の時代から
卑弥呼と神武は同時代ではない
卑弥呼は崇神と同時代 帥升がスサノオなんて、帥升をスサと読んだ上でのただの語呂合わせ、駄洒落レベル 何も左翼団体が言うみたいに天皇制反対とか皇室を潰せとか
いう類のことは一言も書き込まれていないだろ?
「皇紀は正しくない。実際の建国年代はずっと後だ」と考える
ことじたいは理性的な歴史批判であって、思想的に右とか左とか
関係ない >>765
その可能性もゼロとは言えないが、崇神は推古天皇(生没年 554〜628)
の12代前の先祖だから、卑弥呼(生没年 175?〜248)よりはかなり若くない
とおかしい。5世代でだいたい100歳差だから、崇神天皇誕生から推古天皇誕生
までの13代は300年ぐらいはあるかもしれない。だが、このスレでは11世代ぐらい
と見なされている。 仮に日本書紀が完全に虚構で、日本書紀が編纂された720年にいきなり天皇が始まったのであってそれ以前の歴史が完全にウソだとしても、それでも天皇家は現存するどの王族よりも歴史が長いし、中華民国や中華人民共和国なんかよりも10倍以上の伝統がある >>765
崇神が卑弥呼の存命中から大王(卑弥呼とともに共立された王とか、卑弥呼=
ヤマトトトヒモモソヒメ)だったら、日本書紀はわざわざ年代を誤魔化してまで
卑弥呼と台与を神功皇后に見立てる必要はなかったと思う。崇神天皇の前に欠史八代
と呼ばれる天皇の業績が記されない時代があった(大和の豪族であったのは確かだろう)
のは、欠史八代(正しくは九代)の時点では、天皇家が日本列島の広域を支配できておらず、
別に日本列島の広域を支配する氏族が存在したからだと考えられる。 >>770
>欠史八代(正しくは九代)の時点では、天皇家が日本列島の広域を支配できておらず、
その通りだと思う。
というか、欠史8代に事蹟がないのは、事蹟が伝わっていなかったからではなく、
事蹟を書けなかった。
書くと、卑弥呼とトヨを隠してきた意味がなくなるから。
事蹟を書くと、卑弥呼からトヨ、そして崇神に至る日本史の一番の激動時代を説明してしまうから。
>別に日本列島の広域を支配する氏族が存在したからだと考えられる。
それがいわゆる大物主。
大物主とは役職名、崇神がクーデターを起こし、倒したのは最後の大物主・アタガタス。
この人物がモモソヒメと結婚した人物であろう。
このアタガタスの後に崇神が須恵村から呼んできたオオタタネコが鴨氏の宗主になってる事でもわかる。 >>768
崇神/イニエ王は九州の吉野ヶ里を旅立ち(「天の磐坐放ち(徐福以来の都の吉野ヶ里を旅立ち)」天の八重雲を伊豆の千分きに千分て、、、、)
球磨地方で募兵。それが物部軍の精鋭、久米族
鹿児島で出雲族の豪族(出雲神族)の姫に一目惚れ〜ヨバイして一発必中の特別に濃い種水を注ぎ入れて処女の姫は一夜にして御懐妊。
やがてイクメで出産して産まれ出でた御子は出生地からイクメの御子と呼ばれました。
かれが後の物部イクメ大王(垂仁)=リアルの東征を成功させた神武の実体。 崇神から神武までの物部、中臣、鴨の相関関係。
中田憲信「諸系譜」より。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_116.pdf
崇神から神武まで、おおよそ5世代である事が分かる。 三上が抜けてた。
意冨伊我都命から始まるのが三上氏。
近江と関係が深い。 >>771
×オオタタネコ
○太田タネ彦=三輪大王。
彼の姉が出雲族らが信仰する三輪山の「太陽の女神の媛巫女(ヒメミコ)、
「モモソ日女命」(トトビ日女命は彼女の後継者で別人)
彼女はまた「太陽の女神の顕現」の様に崇拝されて「大日霎貴命」と崇敬を受けた。
モモソ日女命は旧来の出雲族の信仰を守りながら、
九州から侵攻してきた物部族の祭祀形態も巧く融合させて新しい祭祀形態を考案して
新参の物部族にも在来の出雲族らにも絶大な人気を得て女王の様であったようです。
新しく考案なさった祭祀形態とは、
出雲族の信仰、習慣では丸いモノは女神の宿るモノ。
長いモノ/木の根っ子は男性自身の形代で主神の表れ。
物部族は道教を信仰していて、元々は大きな銅戈をトーテムとしていたところが
東征にあたり銅鏡を祭祀のトーテムに変更。
天才のモモソ姫さまは、、、
天の岩戸開き神話の記述にある通り、
大きな榊を根こそぎ引き抜いて祭場に据え、その枝に物部族の鏡/神獣鏡の反射面を観衆/参拝者側に向けて取り付て、、、 >>766
>帥升がスサノオなんて、帥升をスサと読んだ上でのただの語呂合わせ、駄洒落レベル
とんでもない。崇神がおおよそ4世紀前半であり、行灯山古墳である可能性は極めて高い。
そこから上記の>>773の中田憲信「諸系譜」にみられるように神武まで5世代。
卑弥呼と神武の時代が同時期。
神武からスサノオまで5世代。
倭国王師升とはスサノオだ。
記紀がとんでもない時代に神武天皇を置いた理由、
それは日本の歴史が中華皇帝・安帝へのスサノオの「土下座」から始まってるからだ。 >>775
モモソ姫が件の如く三輪山の太陽の女神の媛巫女(ヒメミコ/中国人にはヒミコと聞こえたらしい)として奉仕為さる事で
攻めて側の物部族、守勢側の在来の出雲族ほか共に争乱は下火〜沈静化して平和な世の中がやっと訪れたとか。
人々はこの平和を「モモソ姫の平和」と呼んだとか? >>776
師升。はヤマトの国オシヒト大王/孝安天皇
中華思想の下、シナ以外の周辺諸国や人名、地名等には獣や魚類等による卑字を持って書き記し、同時にフルネームではなく耳に残るアクセント等部分等で略したモノで表記していました。
速記官はヤマトから遠路はるばる来訪したオシヒトのアクセントのシヒを取り
当初、「師飛」と「草書で記入」。
後、速記録から正式な記録として転記する際に
草書の「飛」が読み間違えか更に略した「升」として記録されて
「師升」となったようです。
ちなみにオシヒト大王は特産物や適当な贈答品がなかったので、
中国人は奴隷を喜ぶと聞いて行き掛けに広島県の生口島で大量の奴隷狩をして
中国に連行して献上したとの事。
その凄惨な奴隷(生口)狩をした事から生口島の島名になったようです。 では神武の墓はどこか。
神武の墓は壬申の乱のころまで、普通に知られていたようだ。
それは壬申の乱の際に「待ち合わせ場所」として神武陵が出てくることでもわかる。
ならば後、律令制において五色の賤が組織化されたとき、真っ先に神武陵には陵戸が置かれたであろう。
ということは、やはり安本美典が言ってたように、畝傍山の丸山であろう。
神武の墓を守ってきた陵戸たちは、明治になって平地に降りてきて、いわゆる被差別部落を形成する。
神武の墓は畝傍山にあった。
しかし、高天原(御所市高天)ではなかったことに留意。
これで神武という人物の立ち位置が分かる。
彼は日向から来た「女王の婿」であったからだ。 >>778
>師升。はヤマトの国オシヒト大王/孝安天皇
いや全然時代が違うのでね。
150年ずれている。 日本やユダヤの初期の王が非科学的な長寿なのが他勢力へのコンプレックスから歴史を古く見せようとしたと言うのは納得できる
だが、最古の文明人たるシュメール人には日本人やユダヤ人にあるようなコンプの対象は存在しないはずだ
彼らが歴史を古く見せようとする意味は分からない
初期の王が常識的、科学的に納得できる寿命と在位期間でも最古の文明たる地位は揺るがない
では、何の為に初期の王をあんなに長寿にしたのか? ユダヤの族長たちは長生きだけど、ダビデ王朝の王様に
はダビデの70歳を超えて長生きした人物が一人もいない
日本の初期の天皇が百数十歳も生きたのは昔の人は長生き
だったでは納得できない。神武天皇が即位したとされる紀元
前7世紀の世界で百三十歳も生きた王様の記録なんてないから >>772
>鹿児島で出雲族の豪族(出雲神族)の姫に一目惚れ…
鹿児島に出雲の神々が祀られていた形跡はあるの? >>768
末子相続だから一世代30年ぐらいと見るのが妥当
10世代で300年
崇神天皇の時代を新しくし過ぎている
崇神垂仁景行の三代の宮処が磯城・纏向とされているのだから、
纏向遺跡の推定年代を定点として、そこを基準に考えた方がよい >>770
>崇神が卑弥呼の存命中から大王(卑弥呼とともに共立された王とか、卑弥呼=
>ヤマトトトヒモモソヒメ)だったら、
弥生終末期はヒメヒコ制
ヒメ王・祭祀王が広域で統一(共立)され、それが共立範囲の代表=倭王とされた
佐治国男弟は、統一ヒメ王卑弥呼を補佐しつつ、その地位はヤマト国ローカルの
ヒコ王の立場に留まる
ヒメ王の職掌は倭国の広範囲で統一されたが、ヒコ王・世俗権力は各地の
首長(のちの豪族)が握り続ける状態
卑弥呼の死後、佐治国男弟が倭王として振る舞おうとしたが、ヒコ王の統一は
認められず、新たに統一ヒメ王が倭王として立てられた
その意味で佐治国男弟=崇神は、ヤマトのローカル王 >>773
>崇神から神武まで、おおよそ5世代である事が分かる。
これには賛成
また、欠史八代もヤマトローカルのヒコ王として、名前と継承順だけが伝承されていて
それを単純に直系父子相続として繋いだと考える
伝承は例えば「ミマツヒコカエシネノミコト治天下」のような形のみで系譜を欠いたもの
孝霊、孝元が兄弟、開化が孝元の子、崇神が孝霊の子で、開化.崇神が従兄弟と考えると
孝霊皇女の倭迹迹日百襲姫命と崇神は姉・弟となり,この2人が卑弥呼と佐治国男弟の
ペアと見ると据わりがよい
魏志倭人伝の記す邪馬台国の官筆頭の伊支馬をイキマと読めば、
崇神天皇の皇太子・イクメ尊と見ることができる >>784
>末子相続だから一世代30年ぐらいと見るのが妥当
>10世代で300年
それは無理。
15歳以上生きた人の平均寿命が40歳に満たない。
30歳の時に作った子供が跡を継ぐとしても平均10歳。
とても王としては頼りないし、その間、先に生まれたお兄ちゃんの誰かが継ぐので、
結局、世代間という意味では30年にならない。
だいたい一世代間30年というのは昭和の感覚だからね。
平成の終わりで36年だった。
また女性で子供を産むのがおおよそ15歳から25歳。
平均で20歳、男もその年齢に準ずる。
だから当時の平均世代間は20年。 >>784
>崇神垂仁景行の三代の宮処が磯城・纏向とされているのだから、
>纏向遺跡の推定年代を定点として、そこを基準に考えた方がよい
纏向の大型建物と崇神から景行の宮は関係がなく、
崇神の墓は古事記の記述からも、その威容からも行灯山古墳が有力。
ならば4世紀前半になる。
纏向遺跡は2世紀末から始まる。
だから纏向遺跡はプレ崇神というべき「崇神より前の約120年の期間」を説明せねばならない。
あの大型建物はウマシマジ、ヒコユキ、イズモノシコオなど申食国政太夫であった物部3代の政庁跡であろう。 崇神が4世紀前半であった根拠は稲荷山鉄剣のヲワケさんの7世代前のオオヒコでもわかる。
銘文まで彫って先祖自慢するのだから。それは四道将軍のオオヒコ以外にあり得ないわけだから、
その時代はやはり4世紀前半になる。 世代の「世」は漢字の三十(丗)の変形だから一世代三十年は古代中国でも普通だったため当時の日本でもそこまでおかしくないと思われる >一世代三十年は古代中国でも普通だったため
春秋戦国時代の中国の王室・公室の系図を全部知ってるわけ
じゃないけど、一例を挙げると周王室・秦公(王)室は子作り
年齢が早い。秦は君主の在位年数から考えて康公から霊公まで
ほぼ20歳間隔で子供を作ってるとしかいいようがない。康公の父
穆公と霊公の子献公は30代半ば過ぎて跡継ぎを儲けたと考えられる。
楚王室であれば一世代平均30歳で跡継ぎを作っているみたいだ。
伍子胥に棺桶を暴かれて死体に鞭打たれた暴君とされる平王から
戦国時代終わり頃の考烈王まで誕生年の差が11世代300年ぐらいだな。
楚が伍子胥が率いる呉軍に滅ぼされそうになったとき楚のために
援軍を出し楚を283年も延命させたのが秦の哀公(在位前537〜前501)。
始皇帝(生没年前259〜前210、在位前247年〜前210)の14世代前の先祖ね。
昭襄王と同じぐらい長生きしてるんじゃないかと思われる。
他にも前漢の劉邦(高祖)から後漢の章帝までの11世代も303年
あるいは312年差になる例がある。景帝から安帝までだと280年差
ぐらいか?唐だと11世代は230年ぐらい。北宋・南宋は260〜290年、
明は250年ぐらいだね。最後の王朝の清は末子継承に偏り過ぎてるのか
ヌルハチから溥儀まで11世代347年差もある。 江戸時代〜現代の皇室は一世代平均30年ぐらいで跡継ぎを作ってる計算
になるよね。中御門天皇の系統は一世代あたり18〜20歳の間隔で子供を
作ってるけど、後水尾天皇→霊元天皇、閑院宮典仁親王→光格天皇、今上
陛下→愛子内親王、秋篠宮文仁親王→悠仁親王の部分で子作り年齢が高く
なるからしょうがない。中世なら20代で子供を作るとかざらで、16歳、17歳
で皇嗣を儲けた天皇もいるが、古代の天皇の子作り年齢を復元できるような
いい見本はないのか?飛鳥・奈良時代あたりが見本になるかな? 神武から6代孝安まで后(奥さん)はいても妃はいない。
複数の妃を持つのは7代孝霊から。
神武から6代孝安までなぜ妃がいないのか。
この時代こそが魏志倭人伝に書かれた「女王国」だったからだ。
・推定3世紀系譜
@神武・「ヒメ」踏鞴五十鈴
A綏靖 ・イスズヨリヒメ 生きてた「ヒメ」蹈鞴が女王
B安寧・ヌナソコナカツヒメ 「ヒメ」蹈鞴が女王
C懿徳・天「トヨ」津
D孝昭・ヨソタラシヒメ 生きてた「トヨ」津が女王
E孝安・オシヒメ 「トヨ」津が女王 >>792
神武から17代履中までずっと父子継承であったなどとは考えられない。
普通に兄弟継承、従妹継承があったと考えられる。
というか、「天皇」なる役職がないので継承も何もなく、
崇神が自分の血筋である神武を祖とする男王朝を立ち上げ、
その男王系統を7世紀の朝廷が紀元前660年まで遡らせたのであろう。
ともあれ普通に兄弟継承、従妹継承があったのなら、それは世代間ではなく「平均在位」で見るべきである。
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位で神武の時代を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代、35代を採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半、やはり卑弥呼の時代である。
卑弥呼は「ヒメ」蹈鞴五十鈴媛である。 >>788を訂正
× あの大型建物はウマシマジ、ヒコユキ、イズモノシコオなど申食国政太夫であった物部3代の政庁跡であろう。
〇 あの大型建物はウマシマジ、ヒコユキ、オオネ、イズモノシコオなど申食国政太夫であった物部4代の政庁跡であろう。 オオネとイズモシコオは兄弟、やっぱり申食国政太夫であった物部3代の政庁跡で良い。
スマソ… 神武天皇(仮称)から履中天皇までの17代も父子継承の
連続ではなく、履中天皇以降と同じで兄弟継承・いとこ継承
が多かったと考えられなくもないな。
例えば「A天皇が38歳で亡くなった後は弟のB天皇が32歳で
即位した」が史実であっても、建国年を800数十〜900年近く
引き上げるわけだから、「A天皇が128歳で亡くなった後は
皇太子で59歳のB天皇が即位した」と書かざるを得なくなる
ということかあ… 履中以降は履中・反正・安康・清寧・顕宗・武烈・安閑・宣化・
用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明…と在位期間が十年に満たない
天皇がやたら多いんだけどな。雄略天皇・欽明天皇・推古天皇
みたいに在位20〜30年に達してる大王のほうが珍しいよね 雄略より「前」はもともと本紀の後につく列伝なんだから
時代的な順序などそもそも存在しない
雄略のはるか後世の人間だと日本書紀執筆当時の人間が考えていた人間もいるし
その逆もいる 仙道、仏教、儒教・・・何でも良い、
他の国にもあるでしょ?
日本(天皇?)の影響を受けたわけではないんだけど
頭が悪いんだろう 逆のことばかり言っている人がいたりするんだけど、
何なんだろう
『仙術』
こういうのも日本の話ではないでしょ >>799
>雄略より「前」はもともと本紀の後につく列伝なんだから
時代的な順序などそもそも存在しない
そんな津田左右吉のゲップみたいな意見は時代遅れ。
弥生時代から文字はあって王統も伝承できた。
帝紀・旧辞にそれが書かれてた。
しかし7世紀後半、白村江敗戦後、記紀を編纂する際、
日本人のプライドとしてどうしてもごまかさなくてはいけない史実、
それが倭国王帥升ことスサノオの渡海しての土下座。
それをごまかすことから日本の歴史は始まった。 わかりやすく言うと、何もないんだよ
ごっど(ハルヒというアニメ)何やらという曲と同じ、
なんにもない〜(惨め)と言っているでしょ、それとも他の曲だった? なんていうアニメの曲なんだろう
姫トラ〜という作品に収録されている曲 スサノオの嫁?
(または浦島のカメ)のテーマだと思うんだけど、
助けられた〜みたいな曲だし 自然環境が安定な場合、人は繁殖を多く行うようになる
自然環境が苛酷な場合、人は長生きするようになる グーグル検索すると、帥升を素戔嗚尊と結びつけるサイトはそれなりに
ある。神として信仰された素戔嗚尊については牛頭天王及びバアル神と
同一視する見解がある。 よほどの新発見でもないと通俗語源を出れないだろうな >>807
記紀は神武から17代履中までを父子継承としてるが、
そんな長く引き伸ばそうとしている記紀ではなく
先代旧事本紀では崇神から神武までおおよそ6世代、そこから5世代遡ればスサノオ、
崇神4世紀前半、神武3世紀初頭、スサノオ2世紀初頭、
ちょうど時代が合うし、帥升:Shuai shengという名前の王はスサノオ以外考えられない。 帥シュアイは現代の普通語の発音で当時の発音はシュイに近い
帥升(シュイション)はスサンのように聞こえるとして
オ(ヲ)に当たる漢字もあるのでは? 俺が建てたスレだ、お前が書くなボケナスの引きこもり。 解読しました
古代暦は今の半年が1年間の計算で記録されていた 卑弥呼も名字があったろうし中国は勝手に名前を省略するからな パルティア王国の中国名が安息(あんそく←アルサケス)国、
五賢帝の一人が大秦国王安敦(あんとん←アントニヌス)だらかな
マルクス・アウレリウスの部分は漢字表記しないのはなぜじゃ? >>816
>卑弥呼も名字があったろうし
名字というか、卑弥呼の属した王族を、
王族以外の者や平民は、
「神(かみ)」と呼んでいたのであろう。
語原は、高鴨神社は噛むの古語「カモす」とも言ってるが、
俺はアイヌ語でもある「カムイ」だと思っている。 その神(かみ)が倒され(崇神の頃)、
鴨、加茂になり、さらにカヌ、カン、コウ、ケヌ、ガモウ、クヌ、クマ…
これらの地名にその痕跡を残すのだと思う。
あとミワという地名も。
和歌山の南部は昔はミワべ、
その南部(ミワベ)の水源から複数の銅鐸が発見されている。 言葉足らずだったな。
かつての王族の痕跡、
崇神に倒されはしたが、その神々の痕跡が、カヌ、カン、コウ、ケヌ、ガモウ、クヌ、クマ…
という地域に残るという事。
それはそれ以前の銅鐸の拡散でもそれが分かる。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/16_303.png
淡路の松帆銅鐸がBC4〜BC2世紀。
他の銅鐸もほぼ同じころと推測される。
これほど一気に拡散するのは何か大きな動機があったはず。
ちょうど海の向こうで始皇帝が「秦」という超巨大帝国を建国した時期(BC3世紀)。
出雲の神々が防衛上、逃げるように畿内や中部に避難。
そして瀬戸内や九州北部を防人が固める。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/00/86d1ac428163de75a84d16613a07611a.jpg >>823
熊よけなら何で後半の銅鐸は鳴らせないの? 叩くたって地面に置いてるのにまともな音鳴らないだろ。 こっちを貼ったほうがよかったか
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekimin/tenji-doutaku.html
広島県教育委員会のサイトだからいい加減な記事ではないはず
銅鐸の音色
今からおよそ2300年前から1700年前ころまで続いた弥生時代に,人々は銅にすずや鉛を加えた合金(青銅)でカネを作って,稲の豊作を祈る祭をおこなっていたと考えられています。
銅鐸とよばれるこのカネは,今,緑色に錆びていますが,できたての弥生時代の銅鐸は,金色に輝き,金属の肌つや,光沢をはじめて知った弥生人は,目をみはったことでしょう。
しかし,銅鐸のもっとも重要な役目は,祭の時に木に吊るした銅鐸を揺すって,銅鐸の中に吊るされた舌(ぜつ)とよばれる棒とカネが触れあって音を出すことにあったと考えられています。
弥生人は,この銅鐸の音色に神々が祭の場に降りて来ると信じていたようです。 >>828
だから後期のは叩いた痕跡も何もない。
その形状からつるし上げることが困難。
だから佐原真さんにいわせれば「見る銅鐸」「仰ぎ見る銅鐸」となる。 クマよけだろ
→熊よけなら何で後半の銅鐸は鳴らせないの?
→叩いたのだろ
→叩くたって地面に置いてるのにまともな音鳴らないだろ。
持ってきたソースが前期の舌のある鳴らした銅鐸
いや叩いた銅鐸を出せよw >>829
紐を通す穴が開いてるのに何を言ってるんだ? 和辻哲郎は初め邪馬台国九州説の立場で邪馬台国が発展して大和政権になった
と考え、大正八年に自著の『日本古代文化』の中で
「北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏 VS 大和を中心とする銅鐸文化圏」
の説を展開し、こう述べている
「もし、皇室が大和に起こったとすると、弥生時代の畿内の祭器であった
銅鐸は何かの形で大和朝廷の祭祀や文化の中に残っていてもよさそうなも
のである。ところが銅鐸は、山麓などで、まるで打ち捨てられたように出
土する。その反対に北九州系の鏡・玉・剣は皇室の皇位のシンボルにまで
なっている。これは北九州の支配者が、銅鐸を持つ先住民を滅ぼしたこと
を物語っている」
(神一行 「崇神天皇とヤマトタケル 三王朝交替の謎を暴く」学研M文庫 p80 より)
九州の弥生文化と大和の古墳文化には連続性があるが、大和の弥生文化を代表する銅鐸
と大和の古墳文化には連続性がないと指摘されている。例えば、弥生時代の九州の特徴
的な墳墓である支配層の甕棺からは、鏡、玉、剣といった副葬品が出土するが、弥生時代
の大和からはそれと同類のものは全く出て来ないで、むしろその後の前期古墳時代の基本
的な副葬物として多く出てくるという(25年も前の話である。現在の調査結果はどうだろ
うか?)。
和辻哲郎は後に邪馬台国畿内説に転向するが、大和政権九州起源説は
邪馬台国東遷説を支持する奥野正男さん、安本美典さんらに引き継がれた。 >>832(続き)
神一行さんは、九州勢力が大和の銅鐸文化を征服して大和政権をつくった
とは考えているが、安本氏らの説とは少し違うようだ。
大和を支配したニギハヤヒを祖とする新羅系の物部氏が銅鐸文化の担い手であり、
そこへ九州の邪馬台国から卑弥呼(アマテラス)の孫(神武天皇)がニギハヤヒ
王家に婿養子に入り葛城王朝を開いた(西暦241年頃)後、40年ほどして北九州
出身の崇神天皇(ミマキとは水沼君を指し物部氏と同族?)が東征してこの葛城
王朝を滅ぼし物部氏は崇神王家に降伏するが、この際、前王朝の祭器である銅鐸が
破壊され前王朝の祭神(アマテラス)も追放されたと述べている(日本書紀
はアマテラスの追放を「皇宮内に安置するには畏れ多い」と美化して書いた)。
神さんの説のポイントは大物主神=饒速日命であり、よく言われるように
神武天皇と崇神天皇を別王朝の開祖と考えるところである。
現皇室の先祖として確実なのは継体天皇だと述べているので万世一系については
懐疑的のようである。 >>833(続き)
おっと、あとニギハヤヒ(大歳)の父はスサノオという見解も重要ね。
西日本の大部分はスサノオが押さえていた。
大和にはもともと蝦夷族と考えられる長脛彦がいたが、そこへニギハヤヒが
侵入したとき、まもとに戦ったら勝てないので彼はあっさり降伏し自分の妹を
ニギハヤヒに差し出して恭順の意を示した。これが西暦180年頃のことらしい。
長脛彦が支配しニギハヤヒ王朝の本拠地となった東大阪市日下(くさか)が
日本という国名の由来だそうだ。
神武がニギハヤヒ王家に婿入りしたのはウマシマジの時代。ウマシマジの
妹が神武の妻イスケヨリヒメ。このとき確かに長脛彦は神武と戦ったらしい(?)。
邪馬台国の女王台与は、アマトヨツヒメではなく神武の娘トヨウケヒメだという。
それからずっと後崇神が東征してきたが、この時崇神と戦ったのが長脛彦の玄孫の
活馬長沙彦(いくめのながさひこ)と呼ばれる人物で別名が中洲根彦(なかすねひこ)。
「神武VS長脛彦」の話の実態は「崇神VS中州根彦」のようだとか(活馬長沙彦の妹、
芹田真稚姫は鬱色雄命の妻)。新唐書の「(九州の)倭国が日本(=日下)を併合した」
とは北九州出身の崇神天皇が畿内を征服したことを指しており、倭国は九州にあり、日本
(ひのもと)が大阪の一地名に由来するのであれば、旧唐書の「日本国は倭国の別種なり」
というのも当然だと神さんは考えているようだ。
ところで、4葛城王朝の神武〜開化の9人も王がたった40年の間に交替するのは不自然だし、
長脛彦がニギハヤヒからウマシマジの時代まで60年も生きて神武と戦い、
その長脛彦の玄孫がさらに40年後崇神と戦う…というのは考えにくい。
やはり神武は卑弥呼の孫であるという話の設定に無理があると思われ、
神武がニギハヤヒ王家に婿入りした時代を何十年か前の出来事とし、崇神天皇の即位も
西暦280年より何十年か後の出来事に訂正すべきだろう。 そもそも邪馬台国と大和朝廷は別物じゃないのか?
卑弥呼が皇室の人間だったら、記紀に誇らしく書くに決まっている。
しかし両方とも書いていないという事は、やはり別物なんじゃないか。 まあ、日本書紀は神功皇后のところに「魏志云」として、魏志倭人伝を引用してるけどね
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B9%9D
卅九年。是年也、太歲己未。【魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏遣吏將送詣京都也。】
卌年。【魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。】
卌三年。【魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。】
この書き方だと、「神功皇后在位のこの年に倭の女王が○○したと魏志が言ってる」ということになって、「神功皇后は○○した」のような書き方じゃないから、日本書紀の立場としては、別人なんだろうな 日本書紀には景初三年と書いてある
当時の日本人は明帝がいつ死んだかなんて知らず、ただ、資料に忠実に書いたんだろう
中国から日本に記録が伝わる過程でゴミかなんかがついて、二が三に見えたのかもしれん どの史料にも明帝が景初三年に生きてるなんて記述はないよ >>837 >>839は何が言いたいの?
日本書紀が偽書だ、日本書紀に書かれてることは嘘っぱちだ、現に明帝の死んだ年も分かってないじゃないか、ということを言いたいの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています