なぜ古代天皇は100歳を超えるのか [無断転載禁止]©2ch.net
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>>837 >>839は何が言いたいの?
日本書紀が偽書だ、日本書紀に書かれてることは嘘っぱちだ、現に明帝の死んだ年も分かってないじゃないか、ということを言いたいの? 俺が建てたスレだ、お前が書くなボケナスの引きこもり。 >>843
俺が建てたスレだ、お前が書くな
>>836
卑弥呼というのは、卑弥呼だとばれたら非常に困る人物が卑弥呼なのだ。
アマテラスもモモソヒメも神功皇后も、卑弥呼だとばれても別に困らない。
神功皇后など、卑弥呼と間違えて下さいとばかりに時代を合わせてるね。
卑弥呼だとばれたら非常に困る理由は、卑弥呼の100年前にいる倭国王帥升が誰なのかばれてしまうからだ。
倭国王帥升がスサノオだとばらさないために卑弥呼の時代を大きく変ええたのだ。 >>845
>卑弥呼の時代は変わってないだろ
そうではなく、真の卑弥呼の時代を、
まず神武東征紀で「男王国」のように上書きした。
そしてその神武の時代をBC660年にした。
ということ。
>>846
>春秋暦を採用してた説は?
継体天皇以前が倍歴という説ね。
ならば当時の平均寿命(40歳未満)から大きく逸脱して神武は紀元前になる。
ありえない。 二倍年歴は倭人の歴なんだってさ
パラオの王なんかも140歳とかそんなんだってさ
天皇家と違うことがバレちゃうな 持統天皇4年に儀鳳暦の導入を決定し、同6年から実施したのが通年歴の採用で、それ以前が倍歴だったらしいな
だから、それ以前の日本書紀には、壬申の乱まで含めて季節感のおかしな記述があるんだとか
どおりで改暦に足掛け3年もかかるはずだ…、あ、いや倍歴で3年ってことは1年半か 持統以前が倍歴だとしても神武はAD20年あたりか。
ありえない、アホくさい、もう倍歴論争はやめよう。 >>831
>紐を通す穴が開いてるのに何を言ってるんだ?
後期の銅鐸はその形状からもつるし上げることが困難。
また叩いた痕跡もないのに、そもそもなんでつるし上げるのか、その意味をなさない。 日本書紀の末尾につけるはずの血縁どころか時代の脈絡も一部を除いて
なんのない執筆当時の主要氏族の伝承を列挙した列伝を
雄略紀の前にもってきて数珠つなぎにした偽紀 二倍歴とかありえんわ。神武天皇即位から14世孫の応神天皇
の誕生まで日本書紀の年数を単純に2で割ったら430年になる。
神武天皇が50歳ぐらいで即位したとして14世孫の応神天皇が
生まれるのに300〜320年ぐらいで十分なはずだが?
神武天皇即位から10世孫の垂仁天皇が亡くなるまでの年数を
単純に2で割ったら365年になる。天皇一代(一世代でもある)
あたり36.5年も在位していたのか?
こういう場合は三倍年暦や四倍年暦で説明するのか? 記紀の中でも二倍歴だったら困る記述もいっぱいあるだろ
安寧天皇は即位前に25歳の年で第二子の懿徳天皇を儲けたし
日本武尊は16歳で熊襲征伐で武功を立てて東国征伐からの
帰途で30歳で若死にした(この時点で子供が何人もいた。正妻と
思われる両道入姫皇女は4人も子供を産んでいる。)し、舒明天皇
が亡くなったときのちに即位して天智天皇と呼ばれる皇子は16歳で、
彼が蘇我石川麻呂の娘を娶るのはこの数年後で、彼が蘇我蝦夷・入鹿
親子を誅した20歳頃には大田皇女、持統天皇の二皇女が生まれている
わけだが、こういう誰が読んでも特に不自然に思えない年齢を実際は
その半分だったと説明するには無理がある >>855
単純に2で割れるのは崇神まで
それ以前は日干支と暦の一致で判断してるから、そもそも二倍歴の暦が伝わってなかったら一致しない
それを無理やり、一致するまで過去に遡るから、ありえないほどの過去の一致点を神武即位とせざるをえなかった
ただそれだけのこと もともと日本(倭人?不明)の話ではないんだよ、頭が悪いんだろう、 >>853
意味不明。
実在しなかった人物を付け加えれるなら古代天皇を100歳超える年齢にしなくてもよい。
50歳くらいで死ぬ架空の天皇を30人ほど用意すればいいだけだから。
それができなかった、だから100歳超える天皇の記述になった。
こんなの子供にも笑われる記述だからね。
そうしなければならないよほどの強い理由があったはず。
上記、日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まる、
これはさすがに国史には書けなかったであろう。
土下座したのは倭国王帥升ことスサノオだ。 >>832
>「もし、皇室が大和に起こったとすると、弥生時代の畿内の祭器であった
銅鐸は何かの形で大和朝廷の祭祀や文化の中に残っていてもよさそうなも
のである。ところが銅鐸は、山麓などで、まるで打ち捨てられたように出
土する。その反対に北九州系の鏡・玉・剣は皇室の皇位のシンボルにまで
なっている。これは北九州の支配者が、銅鐸を持つ先住民を滅ぼしたこと
を物語っている」 <
おおよそ賛成なのだが、「山ろくなどで、まるで打ち捨てられたように「」は余計。
山ろくこそ王の住処であった、であったそこには水源があるからだ。
「これは北九州の支配者が、銅鐸を持つ先住民を滅ぼしたこと
を物語っている」
先住王である事代主や大物主の系譜、鴨族=神族を4世紀初頭に崇神が滅ぼした。
崇神が大物主を祀る大神神社を建ててるのはそれが理由。
そして神武は「おおきみ」ではなかった。
神武時代の「おおきみ」は神武の義理兄になる天日方奇日方、
事代主の子で日本書紀に鴨王(かものおおきみ)と記される人物だ。
この人物の妹がヒメ后、つまり卑弥呼。
のちに初代皇后とされる。
卑弥呼がいたのは葛城、奈良県御所市だ。 × 山ろくこそ王の住処であった、であったそこには水源があるからだ。
〇 山ろくこそ王の住処であった、そこには水源があるからだ。
訂正ばっかりだな… >>856
二倍暦だったら困る記述ってほとんどが年齢関係なんだね
でも、逆に二倍暦で解決される問題は、そんなものじゃないずっと大きな問題ばかりだよ
まず壬申の乱で、真夏にもかかわらず、厳寒すぎるため家を燃やして暖を取った謎が解決する
次に聖徳太子の時代、中国では隋王朝のはずなのに日本書紀で一貫して相手を唐と書いてる謎が解決する
そして中国の隋王朝側の記録で、推古天皇の時代のはずなのに日本の王が男だった謎も解決する
さらに、応神天皇の時代に百済から来た王仁博士が、当時まだ存在しないはずの千字文を伝えた、と日本書紀に書かれている謎も、二倍暦で解決する
その他、推古天皇の崩御年月日や聖徳太子の薨去年月日が日本書紀とその他の同時代の資料や銘文とで異なる謎など、いままで謎とされてきたことが、二倍暦にするだけでいっせいにみんな解決してしまうんだよ
それらの謎と比べると、年齢が若すぎてそんなに子供がいるなんて不自然だと言ったところで、そんなの個人の個性の問題で済む話だ >年齢が若すぎてそんなに子供がいるなんて不自然だと言ったところで、
>そんなの個人の個性の問題で済む話だ
済むわけないだろ。日本武尊が30歳の半分の15歳で亡くなったとして
15歳の男性が一人の女性との間に4人も子供を残すには、1年おきに
子供を作ったとして9歳から子供を作らないといけないぞ。 >次に聖徳太子の時代、中国では隋王朝のはずなのに日本書紀で一貫して相手を唐と書いてる謎が解決する
>そして中国の隋王朝側の記録で、推古天皇の時代のはずなのに日本の王が男だった謎も解決する
女帝の推古天皇をいただく飛鳥王朝が隋に使者を派遣したと学校で習う話じたいが嘘なんだよ。
隋に使者を派遣したのは九州倭国の男王だよ。後宮に数百人の妻がいたというからかなり
昔に九州に住み着いた中国人の子孫だ。ただ飛鳥王朝が唐に使者を派遣したのは事実だから、
遣唐使の話と九州倭国の男王が隋の皇帝に対して礼を欠いた話を合成して今の遣隋使の話ができた。 >>866
後者の謎はその考え方で解決するかもしれんが前者は解決しないぞ
隋の時代に、まだ存在しない唐に使者を派遣するのは不可能だ 記紀は成立時に存在している国名をそのまま過去にも使ってるだけだろうな、朝鮮半島もそうだし >>868
記紀成立時には百済も高句麗も存在しないが 補足すると記紀成立時の高句麗は渤海で、百済は新羅の完山州 記紀成立より5、60年前まで百済と高句麗という国が
朝鮮半島に存在したことは唐と新羅は理解している 多数の天皇の記録漏れがなかったか心配ではあるな。
神武天皇は実在したかもしれないけど無理に血筋だけ繋げたから
天皇一人あたりの寿命が延びたのだとしたら実は今の天皇は神武
天皇の子孫じゃないんじゃないの?って疑いも出てくる。
でも天皇の家臣や皇別氏族の系図との比較からほぼ正確な世代数が
割り出せるわけだろうからやっぱりそれはないか。 唐は自分たちの前に隋王朝があったことを理解して、西暦656年に隋書を完成させている
唐の理解とか言い出すと、隋を唐と呼ぶ理由はなくなる 白村江敗戦後の新生「日本」。
魏志倭人伝に書かれた女王とその婿の関係を編集し直す必要があった。
そのためには新称号が必要であった。
その新称号が「天皇・皇后」である。
魏志倭人伝に書かれた3世紀前半の女王は新称号の「初代皇后」にされた。
「年すでに長大 夫婿なし」とは、
夫である神武に先立たれた卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ后の姿そのものである。 >>876
漢字を間違えてるよ。
「妃」でなくて「后」。
后は奥さん、妃は妾さん。
神武から6代孝安までその妃がいない。
7代孝霊からは複数の妃がいる。
何故だかわかるかい?
神武から6代孝安までが魏志倭人伝に書かれている女王国だったからさ。
実際は神武は女王の婿。 >>877
「辛酉年春正月庚辰朔、天皇?帝位於橿原宮、是?爲天皇元年。尊<正妃>爲皇后」
日本書紀を読んだことないのかな 俺が建てたスレだ、お前が書くなボケナスの引きこもり。 >>880
立てただけで所有権があると思い込んでる無能バカwwwww 古事記にはオオクニヌシの王朝の系図が載っている。
天皇家より前に縄文晩期頃から長く続いていた王朝が存在した
としてもおかしくない。日本列島も中国大陸みたいに複数の王国が
乱立していた可能性もある。一方で天皇家は万世一系の王朝ぐらい
しか自慢できるものがなかったんだろう。ここで神武天皇から五百年、
あるいは崇神天皇から四百年しか経っていないとありのままに書いたら、
周王室や秦王室の記録に負けてしまう。そこで、天皇一代の宝算を引き伸ばし
初代天皇の即位を中国の春秋時代にまで遡らせ、大昔の神話と繋げるという
やり方によって国内外に日本という国の特異性を宣伝する必要があったと思われる。 >>883
それはわかるけど、神武天皇127歳なんて子供にも笑われる話だ。 古代天皇を100歳超えるまでにしなければならない「切実な事情」があったのだ。
中國の皇帝に対抗するため、まぁそれもあるのかもしれないが、
もっと切実な理由があったのだ。
それは帥升=スサノオを避けるためだ。 >>878
7代孝霊以降、后は奥さん、妃はそれ以外の複数女性に使われる。
日本書紀を読んだことないのかな? >>888
どうでもいいが神武の大和での妻は一人という意味だ。
くだらない事に拘泥するより、なんで神武に複数の女性がいないのか答えろ。 >>881
>スレ主以外書き込み禁止だそうです
ちがうよ、お前のようなアホは禁止。 >>891
ないのならいたことを証明できない。
ゆえ、神武に複数の女性はいない。 >>893
どうでもいいことはない。
古今東西、男は複数の女性とオメコしたがるもの。
大王ならなおさらだろ。
つまり神武から考安まで大王ではなかったのだ。 >>895
大王ほどの権力があれば豪族たちのほうが競って自分の
娘を天皇に差し出すでしょうからね。景行天皇には
后妃が10人ぐらいいて、子供が80人もいたそうですね。
きっと同い年の子供が何人もいたでしょうね。
天皇家もはじめの頃は複数の女性を侍らせるだけの
権力がなかったってことですね。さらに女性一人あた
りが産んだ子供の数が少ないとなると実際はすごく短命
だったとか(孝霊天皇も決して長生きではないでしょう)、
実は子供もいなかったので記紀編纂者が兄弟を息子に見せか
けたとかそんな疑いも出てきますね。 自分の姪との間に辛うじて息子を一人ぐらいしか
儲けていないとされる懿徳天皇や孝安天皇には本
当に子供がいたのかな?しかし、天皇の后・生母が
誰であるか日本書紀と古事記で、また日本書紀の異伝
で異なってたりするから、本当に初めの頃の天皇は
一夫一婦同然と言ってよかったのか引っかかるな 共に「欽明」の種である「敏達」・「推古」の兄妹が当たり前のように夫婦になっている
ことから推察されるように記紀の執筆時代を少し遡ると
古代日本はそもそも女系=腹を基準とした女系相続主義
男系相続主義以外の血族システムがあるとは想定できない人間は
ヤマト政権氏族の口承伝承における血統の流れをまともに理解できず
つじつまの合わない記述が連発してしまうことなる
男を氏族長とする女系血統システムを採っている集団は世界のあちこちにあるけど
文化人類学という学問の大御所であるマリノフスキーやレヴィ=ストロースの
大御所とされる所以は男系血統主義を自明のものとしている人間にたいして
この女系血統システムを説明したことにある
つまり男系血統を自明としているオツムだとこの女系相続システムは
それだけ理解するのが難しい >>897
>天皇家もはじめの頃は複数の女性を侍らせるだけの
>権力がなかったってことですね。
というか、神武から10代崇神まで大王(おおきみ)ではない。
神武から10代崇神まで最高権力者ではない。
10代崇神の時代まで「大物主」が生きていた。
その大物主こそ最高権力者。
神武の時代でも義理兄の天日方奇日方こと鴨王が日本書記に「かものおおきみ」と書かれている。
神武も最高権力者ではなかったということ。
神武から10代崇神まで大王(おおきみ)ではなかったからこそ、
7世紀に「天皇」という新称号で飾ってあげたのだ。 易姓革命
易姓革命(えきせいかくめい)は、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論[1]。
周の武王が殷の紂王を滅ぼした頃から唱えられ、天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、
徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。
それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。無論、堯舜などの神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。
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かつて北方民族「扶余」が南下、日本列島に渡り王朝を築いたという騎馬民族征服王朝説があった。
しかしこれは桂甲などの騎馬文化がゆっくりと段階的に日本に取り入れられていることからもあり得ない。
そういう異民族による王朝交代ではないけれど、臣下が主君を倒す易姓革命が日本であった。
革命を行った臣下とはハツクニシラススメラミコトコトこと崇神である。
4世紀初頭を生きた崇神は、後の7世紀に創作される称号で「天皇」である。
その崇神の時代までモモソ媛と結婚した大物主が生きていた。
ではその崇神と生きていた大物主のどちらの地位が上か、これは主と付くからには明らかに大物主であろう。
弥生時代の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の銅鐸拡散に見られるように、出雲と畿内は早くから一体化、
その大きな国の主が大国主=大物主であった。
崇神を生み出した瀬戸内海洋集団・物部はその臣下に過ぎなかった。
崇神はその物部の母を持つ。
崇神の時代に出雲の神宝が奪われ、出雲に国造が置かれ、出雲大社が建てられる。
そして数百年間も四隅突出墳墓が続いていた出雲に前方後円墳が造られる。
実際にはこのような武力によって行われたにもかかわらず、
記紀では主が自ら位を譲った禅譲とされた。
それがいわゆる「国譲り」であろう。 男系、女系両方が大事。
第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇は
大己貴命の子事代主神の女系。第5代孝昭天皇も懿徳天皇と、
懿徳天皇の姪で事代主神の玄孫に当たる天豊津媛命との子
なので出雲の神の血が濃くなっている。 なるほど日本では日本書紀編纂当時、易姓革命が過去にあったこと
を認めるわけにはいかなかったわけか。認めたら天皇家も不徳の君
や暴君が現われたとき誰かによって倒されていいことになるのね。
易姓革命の排除は当然といえば当然の話か。でも残念だなあ、魅力
あふれる日本古代史が色あせてしまうわけで。天皇家の主が大物主家の
臣下、婿から立身出世として日本国の支配者になったとして何が悪いの?
というのが現代を生きる私の感覚。それを正直に書いたら今日本に皇室は
存在しないのかもしれないですね。 チョンの皇室、皇族?なんて聞いたこともないんだけど、
そろそろ妄想スレに行け 『倭人 朝鮮人』(後にテンノウ?)
実際、この当時「てんのう」というのは、他の国にいるんだよという話、
実在しているわけでもないんだけど、それとも実在していたの? わかりやすく言うと、漫画(創作)などと同じ話
「そうだよw」(漫画などと同じ)と言っている人もいたでしょ 『ミンメイ書房』
創作です、作者の頭の中に存在し・・・という話と同じ 『河童 長老 生活教』
ここでも同じ話をしているし 河童の長老の話
『AKIRA』
という作品と同じような設定じゃなかった?謎の施設があって 『AKIRA』
謎の施設の中、
たしか生命の樹のようなのもあったような、
何かの樹の絵が描いてあったのかな、それとも他の作品だった? 『永遠の果てに』
それにしても、なぜ漫画やアニメと同じ設定()なんだろう 川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は夜明け前に首を吊れ
前から何度も何度も、繰り返し繰り返し「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないではないか
なぜ素直に命令をを聞いて死ぬことができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に死ね!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾 >>903
>天皇家の主が大物主家の
臣下、婿から立身出世として日本国の支配者になったとして何が悪いの?
というのが現代を生きる私の感覚。
その通り、それが対中劣等感がない現代人の感覚。
しかし昔は違った。
海の向こうにとてつもない大国があり、ほとんどの文化もそこから来た。
つまり対中劣等感しかなかった。
そういう状況で、ヤマト民族の始祖スサノオが、
107年に渡海し後漢皇帝・安帝に土下座した倭国王帥升だとは書けなかった。 >>903
易姓革命があったこと、それは7世紀当時の朝廷でももはや当たり前のことであったと思う。
それをどう史書・国史として編纂していくか、それも大きな課題であったろう。
その答えが「国譲り」なわけ。
面白いのは物部の史書・先代旧事本紀。
その巻第四 地祇本紀にはスサノオの子孫がずらっと書かれている。
妻の名と子供の数まで詳細に書かれている。
http://mononobe.webcrow.jp/kujihongi/yaku/tigi.html#04
だがしかし、
八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)。
和迩君(わにのきみ)たちの祖である。
と、この阿田賀田須命だけ妻の名が書かれていない。
何故か。
朝廷に気を使い遠慮して書けなかったのだ。
それは阿田賀田須命の妻が、あの箸墓伝承のモモソ媛だからだ。
日本書記の崇神紀に登場する大物主とは個人名では阿田賀田須命という人物だ。
現天皇の個人名がナルヒトと同じく、大物主にも個人名があった。
その阿田賀田須命の次の代がオオタタネコ、崇神が須恵村から呼んできた人物だ。
つまり大物主の系統が絶たれ、崇神の傀儡オオタタネコに替わられた。
これが崇神による易姓革命だ。 白村江敗戦後の新生「日本」。
魏志倭人伝に書かれた女王とその婿の関係を編集し直す必要があった。
そのためには新称号が必要であった。
その新称号が「天皇・皇后」である。
魏志倭人伝に書かれた3世紀前半の女王は新称号の「初代皇后」にされた。
「年すでに長大 夫婿なし」とは、
夫である神武に先立たれた卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ后の姿そのものである。 >>899
兄妹で結婚すると何故女系ということになるのか説明が欲しいところ
他人を侮辱することに重点を置きすぎて大切な部分が欠けているような 単純に二分二年でええやろ なんで自称我の説こそ正しいとか言うてる受け売り厨は依怙地なん? 古代日本は倍盛暦が無難だろね。 とすると天照大神=卑弥呼説でまた自称史実研究家が口角唾出しながら臭い説流すんだろけどw 白村江の戦いとは
九州王朝、新羅、唐VS畿内王朝、百済、隋
常識だからよく覚えておくように さすがチョンコw 安定の無能っぷり
___
ギャハッ /ノ^, ^ヽ\
/ (・)) (・)) ヽ
/ ⌒(__人__)⌒::: l
⊂ ̄ヽ_| |r┬-| |
<_ノ_ \ `ー'´ /
ヽ  ̄V ̄ ̄ ⌒,
/____,、ノ /
/ (__/
( ( (
ヽ__,\_,ヽ
(_/(_/ 古代の人物が長命なのは聖書でも同じ。
プロテスタント系のyoutubeの動画があるんだがその辺りの質問があって
牧師曰く
「当時の人は本当にその歳まで生きていた。自然環境の変化、生態系の変化などにより寿命がだんだん短くなっていったのだ」と。
彼らにとっては聖書の記述を疑ってはいけないからこういう結論に達したみたいだ。
目から鱗が落ちた。
案外ほんとにそうなのではないかと思った。 >>927
聖書の記述を信じるなら、ノアの洪水以前の地球上空には大量の水蒸気層があって紫外線その他の有害光線を防ぎ、その下で高濃度の酸素を含む大気が封じ込められていたらしい
ノアの大洪水前の人類、寿命1000年だった可能性
https://biz-journal.jp/2017/08/post_20376.html >>930
読んでみた。
カメとか非常に長生きする動物が存在することを考えると、もしかしたら人間も昔は、って思ってしまった。
東西問わず古代に異常な長寿の人物が記録されているのは何かあるのかも。
いくら古代の人でも嘘であんな年齢を記して系図の帳尻合わせをしてたらおかしいと思うだろう。
日本書紀にしても、虚偽の意図があったなら、神代巻で異説を列挙までしてるくらいだから、人数を増やしたりして誤魔化すだろう。
それを敢えてしていないということは、少なくとも伝承のまま記載したのではないかと思う。 >>930
お、おう…
現在の環境でも亀の甲羅くらいで解決できるなら雨戸を閉めて家から出ない人は長寿になれそうだな
加湿器も備えておこう
高濃度酸素も用意するに越したことはないが亀はそれがなくても長寿なのだから平気だろう >>924が夢想する九州王朝の偉大な王「多利思北孤」は、新唐書の東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」と答えが書かれてるよ
用明天皇が多利思比孤で、「多利思北孤」はその誤記だそうだ
時代が違うと思うかもしれんが、>>580のスレに出ている半年暦の干支表にあてはめれば時代は一致するし、なにより相手国の正式な史書がそう書いてる なんだか学研「ムー」の読者が来ているようだな。
そう言う人の夢を摘んで悪いが、
15代応神天皇が考古学的にも文献史的にも4世紀末の即位、おそらく390年元年。
この時点で日本書記は干支2運120年古くしたことが明白。
あとは10代崇神が4世紀前半、神武が2世紀末から3世紀初頭。
つまり記紀編纂時期に何か大きな動機ががあって、
意図的に古くしたことは明白なので、
モーセやノアの箱舟など聖書を例を出さなくてもいいのだ。 当時はユダヤ人(不明)だったんだろう、
徐々に・・・・・・・・・現在で言う、日本人のようになっていたとか。 むかーしの事だから、詳しいことはわからないけど、
ホンモノは渡来系だというだけの話。
アワ?淡路島?とか、
そういうところが起源ではない。 すでに気付いているだろう、お前たちの話はデタラメ、
島(日本、倭国?)起源で・・・半島や中国などに渡り、そこに国を建てた? 川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は夜明け前に首を吊れ
前から何度も何度も、繰り返し繰り返し「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないではないか
なぜ素直に命令をを聞いて死ぬことができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に死ね!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾 >>935
意図的にかどうかは分からん
>>580が正しければ西暦692年の改暦でこうなったのが、その経緯が日本書紀編纂時にうまく伝わらなかったせいで混乱が生じたという話になる 宣明暦なんかも太陽のズレ運行と月の運行はの乖離はあったけど暦としては数時間程度のズレなんだよね
古代なら日の出が日没、月の出月没で2日であったと説もあるのが倍暦でいいのか?
春分、秋分で2年... 月の運行、新月から新月で1ヶ月、その間の日中が約29-30日
古代日本の暦換算は単純だったらしい
ワイは4倍暦はこじつけで倍暦は現実であったと思うな
神武即位日は盛ってるだろけど >>941
なるほど。その倍暦を卑弥呼死去と言われる247年辺りを基準に逆算すると支那暦では始皇帝頃になるね
支那からの渡来人が古代日本に辿り着いて暦伝達してマウント取ったならその後の政治思想や農業、鋳鉄技法の伝来もあり得るかも
いささか?はあるが、倍暦根拠としてはあり得るかもね
ちょっと計算してみる 歴代天皇の在位期間がそれぞれ何年になると考えられるのか一覧表にしてくれ >>943
ざっくら計算してみたんだが、紀元前120年〜前130年にならない?
しかもヒミコ没あたりになると仁徳天皇になるんだけど、計算間違ってるのかな? 初期の天皇は崩御するまでの終身職
即位する年齢も幼かったり、逆に五十を超えてから即位したり。
それが奈良時代に入ると世継ぎが成人すると、あっさり禅定するようになる。
即位退位の考え方が途中で変わるのに、在位年数の平均をとって推測することの無意味さ。 東方僻地に住まわれ九州を治める不老長寿の王だからな。神話的に。 継体天皇以前を倍歴ということでも、当時の平均寿命を大きく上回るので無理だろう。 >>947
>それが奈良時代に入ると世継ぎが成人すると、あっさり禅定するようになる。
即位退位の考え方が途中で変わるのに、在位年数の平均をとって推測することの無意味さ。
別にそれでも問題はないと思うが。
ただ安本美典の計算は訳が分からん。
まず5世紀から8世紀の延べ20人の在位って5世紀の天皇の在位って記と紀で違うのだが。
そしてその計算から出て来た10.88年を、古くなると在位が短くなるという理由で10年にしている。
いきなり0.88年も短くするわけだ。
更に実在確かな用明天皇以前をその10年で計算している。
これはもう意味が分からない。
用明天皇を基点にするなら用明天皇から30代後の平均在位は11.5年なのだが、
つまり安本さんは卑弥呼をアマテラスにしようと意図的に数値をごまかしてるのだ。
用明天皇から11.5年で、神功皇后を明らかな1代と見なし、
神武の時代を計算すると、3世紀前半になる。
つまり神武と卑弥呼の時代は同じ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ(蹈鞴五十鈴)后だ。 >>953
平均在位ですべて分るなどとは言ってない。
平均在位というのも一つの手法。
平均在位について、ある程度の把握さえもしないから、
古田説支持者のように、継体天皇以前は倍歴であり神武は紀元前である、
などと馬鹿丸出しになるわけだ。 >>954
あまりアツくならずちょっと落ち着いてレスした方がいいですよ。 >>954
平均在位年数で天皇の年齢を推定できないって事だけだ >>955
おっと、馬鹿丸出しと言われてムッとした古田説支持者なのか、すまんなw >>959
目糞鼻糞 汝下痢糞 臭っさいよゲラゲリ 倍暦だとしても天皇の在位年数が長すぎる
これは所々干支還暦(60年)を繰り入れている為
在位年数が60年以上の天皇は全て繰り入れられいる
更に倍暦で年数が2倍に引き伸びてしまった事を考慮して再計算すると
平均在位年数は10年ちょっとになる そりゃ適当な年数から60を引ききれなくなるまで何度も引いていって、残りの数字を半分にすれば、答えは1から29までの間に収まるから平均14年ちょっとになるだろう 仁徳、応神、神功、成務、景行、垂仁の年紀には数十年に及ぶ欠史の期間が有り
繰り入れが伺える。
崇神に関しては比較的万遍なく記事が記載されいているので、倍歴で年紀が延びた
だけだと思うわれる。
面白いのは、開化、景行、成務の3名は在位が丁度60年だという事
これは実際には即位していないか、在位が他の天皇と並列している事になる ・F孝霊
・G孝元 H開化 I崇神 J垂仁 (同世代)
・K景行
それまでと違って孝霊には複数の妃がいる。
G孝元 H開化 I崇神 J垂仁の4人は傍系ではなかろうか。 孝昭、孝安、孝霊、孝元は、親子関係ではなく兄弟若しくは義兄弟だと思われる
漢風のおくり名だが、中国では親と同じ字を使うのは不敬とされ、
逆に兄弟は同じ字を共有するのが普通 >>965
どちらにしても崇神世代から神武世代までおおよそ5〜6世代と思われる。
先代旧事本紀の記述とも合うし最新の考古学とも合う。 @神武 綏靖
A安寧 懿徳
B孝昭、孝安
C孝霊、孝元
D開化 崇神
こんな感じだろう
神武と綏靖は、源氏と北条氏のような関係 孝昭 →前漢昭帝
孝安 →後漢安帝
孝霊 →後漢霊帝
孝元 →前漢元帝 @神武
A綏靖
B安寧
C懿徳
D孝昭、孝安
E孝霊
F孝元 開化 崇神
こんな感じ。
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后 A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
歳の差婚もあったろうけどね。
これ左側が大物主の系譜で王権な。
神武は王ではない、王族の婿。 >>975
何天皇以前が1年は半年なのか言ってもらおうか。
まぁどっちみち論理破綻するわけだがw 明治になってから天皇になれた人もいるんだし、結局 古代天皇が紀元前660からとかどうでもいいよ
伝説は盛るのが当たり前www >>976
>>580が一番納得できる
ていうか、壬申の乱の記事におかしな点があって、半年暦だと考えないと解決がつかないわけだから、それ以後に改暦したに決まってる
ただ、その半年暦というのも、事蹟あってのことだから、欠史八代に関しては半年暦とかは関係ないと思う
単純に、神武天皇の即位が「辛酉年春正月庚辰朔」と伝えられていて、半年暦のことが日本書紀の時代に伝わってなかったから、通年歴で辛酉年を片っ端から計算して、
春正月の朔の日干支が庚辰になる年を探したら、紀元前660年までなかったから、それをもとに辻褄合わせをしたんだと思う
だから神武即位がとんでもない昔になってしまい、欠史八代は全員親子関係にせざるを得ず、兄弟の伝承については「一書曰」でそのことを書いたんだろう >>1
なぜ古代天皇が100歳を超えるかと言えば
国家の歴史を古く見せるためにある種の改竄が行われていたということだろう
安本美典氏の著書などに詳細は譲るが
ある程度常識的な即位年数に修正可能で
記紀の記載の大凡の時期もわかるようだよ >>976
欽明の途中から
暦博士が来日した事に拠る 天武天皇1年6月甲申(24日) 大海人皇子は少数の従者とともに東国へ行き、
大野で民家の垣根を壊して火をつけて明かりを取り、隱郡や伊賀では馬小屋を焼いている。
伊賀以後、様々な兵が大海人皇子に合流し、川曲の坂下に到着。夜になり雷雨になり、
あまりに寒いので、三重郡家で家を焼いて暖をとっている。
この日本書紀の記述が正しければ、ユリウス暦に換算して672年7月24日という真夏の灼熱期に、
家を焼く必要のあるほど寒かったことになる
この記述はべつに天変地異を記したものではなく、大海人皇子の軍勢が大きくなる過程を記述
したものである
じつに不可解な記述である
ところが、日本書紀によると持統四年に中国の暦法採用の勅令が出されており、その後、足掛け
3年かけて、持統六年(ユリウス暦692年)にようやく改暦が実施されている
なんのためにここまで周到に改暦したのかは不明だが、この大掛かりな改暦によって半年暦から
通年暦に切り替えられたのだとするとすべて説明がつく
天武天皇1年6月はユリウス暦682年11月21日から12月4日にかけての14日間であり、甲申の日は
11月29日と特定され、この日に寒かったのは、べつに天変地異でもなんでもないと分かる なお、持統六年改暦以前が半年暦だとすると、壬申の乱以外にもさまざまな日本史の謎が一気に解決する
詳しくは>>580のスレに列挙されているが、主だったものをいえば、
・遣隋使を送ったとされるはずの推古天皇期の記述が日本書紀では一貫して相手国を「唐」と呼んでる謎は、
実際、その時期が唐の時代だったから、と解決する
・新唐書には聖徳太子ではなく、用明天皇が初めて中国に書を送った多利思比孤であると記載されている謎は、
半年暦だと用明天皇の時代がちょうど隋に初めて書を送った時代と一致しており、実際に聖徳太子ではなく用明天皇だった、と解決する
・千字文がまだこの世に作られるはるか以前の応神天皇の時代に、王仁が千字文を献上したとされている謎は、
半年暦だと応神天皇の時代はちょうど千字文が作られた直後であり、それを献上することは可能だった、と解決する あ、大事なこと書き忘れてた
・歴代天皇の100歳を超える長寿の謎も解決する
まあ、以上に列挙した謎の解決と比べればじつにどうでもいいことだが、いちおうこのスレの趣旨はそこだから書いておくかw >>980
半年暦についてはともかく、欠史八代に関してはこれが説得力ある
改暦以前の暦が失われた結果、年干支と日干支の一致点がなくなってしまい、偶然に一致する時点まで無理やり計算した結果、神武即位がありえないほど昔になってしまったんだろう 半年暦?だけだと百済記と120年、年紀のズレがある事の説明が着かない
やはり還暦60年の繰り入れも考慮しないとダメだろう 旧唐書と新唐書の食い違いをみれば、百済記なのかどうかは知らんが朝鮮半島の記録と日本の記録は1年の食い違いはあるものの、どちらも半年暦だと思うよ
旧唐書は朝鮮半島の記録を採用し、白村江の戦いを662年とし、日本国と倭国をそれぞれ別の国に描いた
しかしその後、朝鮮半島の記録よりは日本書紀のほうが信頼できるとした人たちの手で新唐書が作られ、白村江の戦いを663年とし、日本国の歴代天皇の名前と簡単な事蹟を初めて中国の歴史書に掲載した
で、その白村江の戦いには唐も参加してるはずなのにそのような論争がなぜあったのかというと、中国側にまったく記録がなかったからだろう
その理由はまさに、日本も朝鮮も半年暦だったせいで年代が食い違ったからだろう 何だよwその半年暦ってw ニ分ニ年ぐらいにしとけよ >>984
>なお、持統六年改暦以前が半年暦だとすると、壬申の乱以外にもさまざまな日本史の謎が一気に解決する
それでも神武が紀元前後にならない?
その時点で無理。 西暦692年以前の暦を半年暦だと考えることによって、壬申の乱や遣隋使、遣唐使、千字文などについての日本書紀の記述のおかしな点が解決することに意味がある
天皇の寿命なんてどうでもいい話だ >>993
>>980にもあるように、半年暦というのも事蹟あってのことだから、欠史八代に関しては半年暦とかは関係ない
単純に、神武天皇の即位が「辛酉年春正月庚辰朔」と伝えられていて、半年暦のことが日本書紀の時代に伝わってなかったから、通年歴で辛酉年を片っ端から計算して、
春正月の朔の日干支が庚辰になる年を探したら、紀元前660年までなかったから、それをもとに辻褄合わせをしたんだと思う
神武即位の正確な年月日を出すためには、半年暦の年干支で辛酉の年の正月の日干支を片っ端から調べていって、庚辰になるものを見つけるしかない 卑弥呼の時点で鬼道(道教の一派)が日本に伝わってるし、三角縁神獣鏡の模様から考えて、その時点で干支は伝わってるはず ついでにいうと、神武即位が干支で記されているということは、神武は卑弥呼よりあとの時代に即位したことになる
正月の朔といえばいまでは新月の日だけど、古正月は旧暦1月15日の満月の日だし、お盆は旧暦7月15日だから、古正月とお盆が昔の日本の半年暦の正月朔だと考えられる
以上の前提で日干支を調べてみれば、西暦377年3月12日が神武即位だと考えられる このスレッドは1000を超えました。
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