■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供3■ [無断転載禁止]©2ch.net
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豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。
それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?
徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか? 秀吉は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね 秀頼は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね 本当に秀吉の子供なら、子飼いの大名が一人残らず徳川につくのはありえない。
もし秀吉の血筋の関白秀次があのままいたら結果は違っていたし
家康も強引な天下取りはしなかっただろうな。 まあ疑う奴はいただろうな。
でも奥ってのはそう簡単に男は近づけないぞ、例え戦国時代でも。
秀吉自身が種無いことに気づいて、それでも後釜を作るために
誰かに間男させた、というなら可能性あるが、
そうでないなら一族撫で斬りのリスクとってまで
茶々に手を出す男はいない。 >>13
秀吉「わしゃー上の口攻めるでよー、おみゃー下の攻め口から参れ」
大野治長「かしこまって候。機熟さばいかが致しましょうや」
秀吉「わしにかまうこたーにゃーで。そのまま中に。」
大野治長「心得て候」 >>12
天下人や大名のところでは戦国時代には独立した奥御殿があったが
江戸時代の江戸城大奥のように周囲と隔絶した場所に女たちを完全に閉じ込め
大奥の女たちが大奥の外へ行くことを固く禁じていたわけでもなければ
一日中男子禁制が取られていたわけではなく昼は行き来自由
安土桃山時代の女たちが完全に隔離された場所に監視されていたのならば
鶴松の出生を揶揄する落書が書かれたりするはずもない
それに茶々が秀頼を妊娠したのは秀吉の朝鮮出兵に同行した
筑紫の名護屋城でのことだしな
この時代の姫君は相当距離移動している >>14
秀頼が秀次の子なら秀次を切腹させるわけがない
それに秀頼は当初、秀次の娘と婚約していたんだが
姉弟で婚約していたことになる >>17
そりゃ大河ドラマでは奥と表行き来自由だけど、現実では違うよ。
大友宗麟が秀吉の案内で奥を見せてもらった記録があるが、
それは自由に出入りできることを意味していない。
淀殿の名護屋城移動だってお付きが沢山いるのだから
その目を掻い潜って道中ナニするのは無理だよ。 >>19
大友宗麟みたいな外様大名には秀吉といえども
完全な秀吉の私邸・プライベート空間である奥を自由観覧させないだろう
しかし秀吉の子飼いや正室側室の親族側近ならば別
実際に当時、秀頼が大野治長の子だという噂があった記録が残っている
秀吉の正室側室は男子禁制の空間に監視を付けて
年がら年中閉じ込められていたならばそんな噂は立ちようがない 庶民は大阪城の奥がどうなってるのかわからないので、
普通に大野治長が淀殿を夜這いできると思い込んでる説 お前ら、「河原ノ者・非人・秀吉」(服部英雄)という本を読んでいないのか。
Amazonの本のところで見てみ。
それによると秀吉の母は非人である。秀吉も非人の中で育った。
秀吉の実子は存在しない。
自分に生殖能力が無いことを秀吉は知っていたし、周囲の人間も
秀頼が実子でないことをうすうす知っていた。
当時の大阪城内は風紀が糜爛しきっていた。
その他、
秀吉は6本指で、信長はムツメ(六爪)と読んでいたという話も
載せている。
江戸時代になって風紀が厳しくなるが、中世には寺などに詣でて
参籠するときは男女一緒に寝た。
寺自体女がいくらでもいた。男の僧と尼僧が一緒に暮らしていたりしたし、
女の奉公人が下働きしたり僧の世話をして夜は同衾したりしていた。
城の中も同様で、とくに籠城中などは明日も知れないので、男女は今日からは
考えられないほど簡単に関係をもった。 >>14
仮に秀次の子供なら、秀次は殺されなかったじゃん。
淀や石田三成が秀次をかばうでしょ。
それに秀次の子供なら豊臣の血は引いてるので
ねねも加藤清正たちも離れなかったでしょ。 秀次は勝手にビビって高野山に閉じこもって自害したんだよ! >>21
一般庶民はお前だろうw
大坂城は徹底的な男子禁制が敷かれて女は牢屋のようなところに隔離されていたので
大野治長は淀殿に対面できなかったと思ってる馬鹿 糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww
劣等人種ジャップについて語りたい場合は
↓
http://hanabi.2ch.net/ogame/ 「大奥の奥」なんていう本を読むと、江戸城大奥でもそれほど男子禁制が
厳格に守られていたわけではなかった。
九才までなら男の子を部屋に置いて可愛がっていてもよかった。
自分の親戚の子とか、自分の手許に置いてペットみたいにしていた。
九才といっても昔は戸籍があるわけじゃなく、12歳ぐらいまで、つまり
毛が生えてくるまではなんとかなったようである。
大奥を見物させてもらった町人の話とかが残っている。
人に連れられて江戸城に入り、大奥に入っていくと老女がおり、挨拶を
すると通してくれた。履き物は履いたままでよい、と言われたそうだ。
さすがに隅々まで見られたわけではないが、ひととおりグルッと回って
出てきたそうである。表向きは男子禁制だが、上の方の女たちが内緒で
観光ツアーのような感じで中を見せ、小遣い取りをしていたようである。
まあ、便所汲みの農民とか職人とか、当然に入っていたわけだから、
厳しいといっても現実的には限界があっただろう。 大奥っていってもかなり広いし、老女しかいない所を見物したんじゃない?
幕末だと将軍を遠くから見られる見学会みたいなものもあったそうな
外国人が遠眼鏡で見たって記録があった 間部(間鍋)詮房
wikiにはこう書いてある。
家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの
詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという ...
ウィキの月光院の方を見ると
男子禁制の大奥も、規律が乱れており、月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、
家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代
からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との
間に生まれたなどとも言われるが[要出典]、いずれも俗説で信憑性は低い。
将軍の子供が生まれ、その子が跡継ぎになったら将軍生母ということで西の丸に移る。
大奥にいるはずがないから、大奥で云々というのは嘘である。
大奥に家臣が入り込むなんてことは無理だ。
しかし、二人が西の丸の御殿で一緒に炬燵に入って話をしたりしたことはあるようだな。
だいたい絵島生島の事件はこの時代のことで、絵島は役者を長持に入れて大奥内に
運び入れたりしているから、男子禁制といってもそれほどでもなかった。 男子禁制だから長持に入れたのかもよ?
まあ当時絵島は30歳過ぎたし
たとえ将軍の代が代わったとしても将軍の側にあがる可能性は低いし大目に見てもらえるかもさ 絵島生島事件で男を長持ちに入れてというのは芝居の脚色
実際の事件は年寄江島が代参で出た際、歌舞伎役者生島新五郎と茶屋で宴会を開いて大奥の門限に遅れた
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答、それが江戸中に知れ渡ってしまった
(評定では生島との密会を疑われたが) 普段は建前と内容が違ってたんだろ門限
大奥に限った事じゃなかったんだろうけど >>31 お部屋様になると例え将軍が望んでもお相手はしない。
そういう不文律があった。まして大奥総取締りの地位にあって
将軍のおそばに上がるなど絶対にない。
>>32
しょーもねえシッタカしてるともう教えてやんねえぞ
長持に入れて大奥に入れたのは事実だ。
問題になったのは芝居に行ったときの薩摩藩士とのトラブルがきっかけ。 そう言えば、薩摩藩士がどうのこうのってあったような‥
信州高遠の絵島幽閉屋敷を見に行ったときの解説文に洗脳されて忘れてしまってたようだ
小さな家作の座敷一間と目の前の小さな庭だけが許された生存空間で長いこと過したとか >>34
生島大吉も長持に入って本寿院と密会してたって話もあるぞ
長持に入るのが流行ってたのか? 長持の話の出所は「山王外記」というゴシップ本。
絵島の罪状に大奥に生島を入れたというのは無い。
大奥の荷物持ち込みには規定がある
検索だけど、ザッと読んだ感じあくまで噂話やね なんて馬鹿なんだ。子供かよ
正面から大奥に男を入れたなんて罪状にしたら
幕府の権威がガタガタになっちまう
そんなことするわけなかろーが。
お前、子供かw
評定所の役人は山村座の座付き狂言作者中村清五郎を拷問にかけ、
その自白にもとづいて次々と関係者の容疑を固めていった。
当初はこの男が一人だけ過酷な詮議を集中して受けた。
この事件の全体は、拷問による中村清五郎の自白に基づいて
描かれたものだ。
生島新五郎は石抱きの牢問で責め立てられ、絵島との情交が
あったと自白させられた。
その自白にもとづき、絵島が三日三晩一睡もさせず便所にも行かせず
正座のまま尋問され続ける現問い(うつつどい)という拷問にかけられた。
尋問のほとんどは月光院と間部との密通についてであったという。
絵島は月光院付きのお年寄りであったから、絵島から二人の
関係を裏付ける供述を取るのがねらいであった。
絵島は生島との関係は頑強に否認。
月光院についても何の自白も得られなかった。 >>37
>大奥の荷物持ち込みには規定がある
大奥に男がもぐりこもうと思えばいくらでも抜け道があったんだよ。
松浦静山の甲子夜話にはある女中つきの下女が比丘尼(尼僧)に変装した
新発意(しんぼっち、少年僧)を大奥に引き込んだ話が載せられている。
大奥には不法侵入者が絶えなかった。判例集である「お仕置き裁許帳」と
いうのにその件の判例が12件のっている。
明暦の大火のあと、大奥の焼け跡から数体の男の焼死体が発見された。
いくら調べても全くの身元不明であった。消火や人命救助のために
駆け付けた者たちではなかった。
>>37よ
絵島の事件のあと、御錠口の荷物持ち込みに関する規定が変更された。
どう変わったか書いてごらん。 いやだから、いくらグレーを強調しても決定的証拠は無いんだろ?
それを噂という >>40
歴史的事実の存否の議論に決定的証拠なんていう言葉を持ち出す
こういうアホを厨房あるいは池沼という 大奥へ運び入れらる長持や葛籠(つづら)のうち目方が十貫目(35kg)以上のものは中を改めねば通さなかった
そのための大天秤が供えられていた
これは絵島事件を受けてのことといわれ、文政の頃まで実行されていたという
その後再び奥女中の風紀問題が起こって検査を厳重にしたところ、大奥を抜け出す奥女中が長持に入っているのが見つかったことも
【考証大奥 稲垣史生】 >>41
大奥の事はいいから絵島の証拠を拾ってこいや〜 >>43
歴史スレには必ず一人は出てくるな、こういう馬鹿
歴史学に証拠とか証明とかの言葉持ち込んできたら
速攻高1でバックレ組確定だわな
低知能・低学歴の証拠を自分で出してんだもんなw おお、無かったというんではなくて闇の中と言うことで一歩進んだね 警備の問題の話ではない。
明らかに不妊であろう秀吉に
じいさんになってから茶々だけに二連続ヒットしたっというのがおかしい。
これって当時の平均寿命からしたら
天文学的にあり得ない確率じゃないの? 秀吉の血液型は血判状からO型と判明しているが、
秀頼や淀殿の血液型は判明していない。 ・秀吉の子だった 不妊と言われた夫婦が養子を迎えたら実子が産まれるというのは珍しい話ではない
・秀吉の子ではない 豊臣家存続のために「実子」が必要だった。そのため秀吉公認の浮気だった >>37
山王外記という本は太宰春台の著作だぞ。ゴシップ本なんてとんでもない。
この本のおかげで後世の人はどれだけ助かっているか知れない。
俺は、この著作の信頼性から、絵島が大奥に生島を入れたという話を真実と考えている。
山王外記は、少なくとも俺の知る限り重要な情報を三つ残している。
まず、綱吉の生類憐れみの令発布に至った経緯。
仏教に熱心で迷信深い生母桂昌院が、その帰依する僧隆光の影響の勧めで、継子誕生
を祈願して行われたものという。最近は否定説も多いが、長く学校でも教えられてきた
この見解は山王外記の記載が元になっている。
第二は、綱吉の身長は124センチしかなかったというもの。岡崎・大樹寺の位牌堂に
ある歴代将軍の位牌は身長をあらわしているらしい。
この中で、家継と綱吉の位牌だけ極端に短い。綱吉は小人症ではなかったかという。
この位牌の件は最近注目を集めているが、ネタもとは山王外記である。
第三は、貨幣改鋳に関する荻原重秀の言葉を記録したこと。
「幣は国家の造るところ。瓦礫をもってこれに代えるとしても、これを行うべし」。
貨幣なんか瓦や石くれでもいいのだというこの言葉は、萩原が兌換貨幣に拘泥ぜず、
不換貨幣の存在を肯定していたという事実を示すものだ。
萩原は江戸中期の人であるにかかわらず、金融論・貨幣論でおそらく世界最先端の
考えを持っていたことがこれで分かるのだ。
こういう著作に載っている話だから、絵島の話もそうそう軽く扱うことはできない。 >>52
あの位牌、本当に身長と同じ大きさなん?
吉宗は大男だったって証言があったような >>53
https://dot.asahi.com/webdoku/2016031400078.html
八代将軍吉宗は155.5センチの肥満体。持病として、本態性高血圧、前立腺肥大、右片麻痺があったといいます。 「徳川将軍家十五代のカルテ」を書いた人か
あれは…… >>53
証言よりも服や鎧の方が信憑性が高いと思いますよ 秀頼公七歳のみぎりのしゃれこうべとか残ってないのか 絵島というのは大柄で江戸前のきっぷのいい女だった。誰かに笄(こうがい)か何かを
盗まれたときに、「盗むほどに欲しいというのであれば、その者が使うがよかろう」と
笑い飛ばしたという話も残っている。姉御肌で面倒見がよく、目下の者に絶大な人気が
あった。生島を大奥に入れたというのも自分の情事としてではなかったと思う。
皆を集めておき(もちろんごく一部の者だちだが)、その中で長持ちを開け、生島新五郎
が登場するという趣向であったと想像する。
今日でいえば、パーティの最中に人気絶頂の頃のキムタクとか福山とかJリーグの
イケメン選手が登場するようなものだった。
皆を喜ばせたくてやったことである。
もちろん役者を大奥内に泊めるなどということはしなかったろう。 >>59
「骨は語る-徳川将軍・大名家の人びと/ 鈴木 尚/ 東京大学出版会」
http://www.elph-studio.com/shougun.html
芝増上寺での調査の記録。だから寛永寺の方に葬られている将軍は未調査。
実際は墓の修築などで見てる人は多いらしいけどね。
遺体はお公家さんのように足の裏を合わせるような形のあぐらをかいて、
座った形で葬られているらしい。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、
十四代家茂公の六人。
寛永寺には四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治(いえはる)公、
十一代家斉(いえなり)公、十三代家定(いえさだ)公)が埋葬されている。
家康は菩提寺を増上寺と定めた。だから秀忠より先に死んだお江の墓は増上寺。
家康は神になり日光の東照宮。
秀忠は家康のように神として祭られることを断り、葬式も仏式を選ぶ。
そしてお江の眠る増上寺に埋葬された。
家光は天海に帰依していたので天海の寺である寛永寺で葬儀を行い、お爺さん好き
だったので日光山輪王寺に葬られた。
家綱、綱吉も家光に倣い、寛永寺で葬儀を行い寛永寺に葬られることになった。 上の62つづきという名前は間違い
>>60つづき
その後、増上寺の抗議もあり、六代家宣はこれを要れて、自身の葬儀を増上寺で行わ
せた。その後は増上寺と寛永寺が交代で、ということになっていたが、家継は小さいうちに
死んだので、お父さんと同じ増上寺。
八代吉宗は順番と関係なく寛永寺。吉宗は倹約を説いた手前自分の霊廟を作ることを許さず、
綱吉の墓に合葬されることを望んだ。吉宗は自分が将軍になれたのは綱吉のおかげと思って
いたらしい。
九代家重は増上寺。そのあとは交代で、といっても適当である。
最期の慶喜は将軍職を降りていたこともあり谷中の墓地。
公営墓地を選んで寺に埋葬されなかったのは他にも理由がある。
慶喜の墓は神道の様式なのである。慶喜は神式で葬儀を行い神となった。
明治天皇への配慮だという。
家茂は増上寺だったので調査の対象となり、そのおかげで皇女和宮まで墓を暴かれ
写真まで撮られちゃったのは可哀想だ。 男を長持ちで入れるなどとんでもない話のようであるが、大奥に男を入れるのは
さほど困難なことでもなく、そもそも一定限度で許されたことだった。
姫君やお年寄りの親戚の大名や老中はお錠口から中に入れた。
大名家から大奥に入った婦人のところへは、年中江戸お留守居役の家来が
ご機嫌伺いに訪れた。
老中が新年の挨拶に来ると、女中達が襲いかかって胴上げするのが恒例で
あった。田沼意次は美男で、皆が固くなり手を出さなかったという話がある。
奥医師が入れるのは当然である。
大奥で能や狂言が催されることがあり、その場合は当然役者たちが大勢入った。
九才までの男の子は大奥にいてもよかった。大廊下など腕白盛りの男の子が
自由闊達に走り回っていたらしい。川路聖謨は娘が大奥へ上がっており、長男の
息子二人を遊びにやったことが日記に残っている。
二人は一晩泊まり、上臈お年寄りの部屋にまで入り込み、お菓子などを貰っている。
七才の弟の方は、ふすまを開けて「川路敬二郎なり」と見栄を切ってみせ、大勢の
女中たちの喝采を浴びている。
祖母や母や姉妹が遊びに来るのは普通のことで、これらの者は二晩まで泊まれると
いう決まりがあったという。
大奥というと世間と隔絶された閉鎖空間というイメージであるが、案外外に開かれた
世界だったのである。 秀頼は現代の医学から見たら観戦に黒だけど
当時の武将もみな気がついてたんでしょ。
加藤や福島などが三成憎さで、家康にホイホイだまされた
アホ奴だったというのは過小評価しすぎ。
茶々一派の陰謀を察知した上で家康のほうが信頼できると
判断をしたのだと思う。 >>63
秀頼は確かに実子でない。当時の人たちも薄々分かっていた。
ただ、これまでの歴史書はあえてその部分には触れず、歴史の
表面的な事実のみを追ってきた。
豊臣家のインチキくささというものが人々の心理にどう影響し、
それが政治面にどのような効果を及ぼしていったかということは、
現在でもさほど議論されていない。
それをこのスレでやればよい。
馬鹿や嵐が出てこなければ実りの多いスレになるだろう。
秀頼誕生後、豊臣政権が急に強権的で残虐な政権になったのは、
秀頼に関する噂を封ずる必要があったためと考えられる。
厳密には落書きの内容は不明とされている。
「聚楽第落首事件」
ここの解説が面白い。
「聚楽第落首事件」
http://top.tsite.jp/news/buzz/o/28955155/
なんか唐入り(朝鮮征伐)も壮大な目くらましのような気がする。
朝鮮討ち入りの秀吉の目的は、明朝の王女を連れてきて日本の
皇太子と結婚させることだった。たぶん秀吉は本気だった。
天皇まで半分中国人にしてしまう。ここまでやれば誰も豊臣の跡継ぎ
が実子かどうかなんて議論することもなくなるだろう、というような狙い。
唐入りの間、日本中が大忙しで、誰も秀頼の噂なんかしていられない
だろうという考えもあっただろう。 なお、突っ込みがあるだろうから書いておくと
茶々は秀吉の唐津名古屋城に同行、そのときに懐妊したとされているが、
同行したのは愛妾(武田)龍子。
龍子が茶々と勘違いされていたのだろうという。
茶々はすでに懐妊していた。
秀吉は寧々に意味シンな手紙を送る。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています